青春13階段

            「その時、Y氏は・・・」(その6)

 私と、Y氏の付き合いは長いものです。よく有楽町のK喫茶店や、ガード下のヤキトリ屋
さんで彼の子供のころの話を聞かされたものでした。
最近は特に過ぎ去った思い出をたどっているようです。「今や将来に思いはないのか。」と
聞くと「それにも格別な思いがある。」とのことですが、将来の話になると若干肩が落ちる
のが気掛かりであります。・・・・
そんな、彼の思い出話の中で印象に残ったところを照会していきます。
「暇な人は気休めに読んで下さい。・・・・・」


 「子供の時の話が多いけど最近の話はなにかないのですか。」と聞くと「最近の話は、自
分以外に気遣いしないといけなくなるから話すのがむずかしいんだな。」という返事です。
しかし、今までよりは最近の話となりました。

 Y氏が結婚したのが、1974年即ち20年前のことになります。Y氏が新婚家庭を構え
たところは、なんと私が住んでいる浦和市でした。Y氏は、20年前ようやく2DKのアパ
ートを市役所前に探し、そこに今のXを迎え新婚家庭を築いたそうです。

 そのころは、駅前の伊勢丹コルソはなく、これから建築するという空き地に自転車を置い
て通勤したそうで、高崎線、東北線がようやく浦和駅に停車するようになったけれども、7
時台の電車は満員で、随分苦労して通勤したそうです。アパートから、裏道を一直線に武道
館を右にみて更に裏道を進むと右にF産婦人科、玉蔵院、旧中仙道をこして、将来コルソ伊
勢丹となる空き地まで自転車で、家々は新しくなりましたが、その当時の面影が今でも残っ
ていて、アー懐かしいと思えるのが浦和のいいところだナーとY氏はいっています。(私が
通っている日の出通りは狭いな。)
 また、あの当時、別所沼へXのKとよく散歩に出掛けたそうです。今ではそびえている杉
木立も、当時はまだそう高くなく、丁度別所沼の大きさと調和した落ち着いた趣がありまし
た。ボートを漕ぐでなく、また、ブランコに乗せるではなく、湖面を渡り杉木立の抜ける風
を受けつつ、腕を組むでもなく湖畔を散歩したのが今も快い思い出となっています。湖畔か
ら坂を登と、今はないがコロッケ屋さん、アパートのとなりは歯科で、歯科には1年も通う
羽目になりました。

 結婚前は独身寮生活、毎晩、宮原の駅前で、秋田の酒「新政」の升酒を飲んだりして、け
っこう贅沢三昧でしたが、いざ家庭を築いてみると厳しさが、身に滲みました。
 手取り8万円程度、アパート代と小遣いを合わせ約5万、3万しか残らないので、朝はト
ーストにマーガリンを極力薄く引いたもの、夕餉は、目刺など質素な食生活になったそうで
す。

 イトーヨーカ堂は当時からありました。今でも思い出しますが、土用の丑の日には、ヨー
カ堂の前で鰻の蒲焼を売っていました。たった500円の蒲焼を買うのに、Kは相当悩んだ
様子で、出店の前を通り過ぎたり近寄ったり、手に取ったり、放したり、別に、結婚する前
までは何も苦労していないKが、食べさせたい気持ちと自分でも食べたい気持ちを交差させ
ながら、買うのには相当時間がかかったそうです。

 Y氏は今風の恋愛い結婚ではなかったようです。結婚後まで、Kを充分理解していたとは
、いえないとのことでしたが、20年後の今でもヨーカ堂の前を通るとKとのその時の事が
思い出されるとのことでした。Y氏は仕事のことなどで夜中にフッと目が覚めることがある
そうです。そのとき安心しきった人形のごとく仏のごとく眠っているKの顔を見るとなんと
もいえない満足した落ちついた気持ちになると言っていました。

 そういう私は、熱烈恋愛結婚、親から資金を引き出し欲しいものはすぐさま手に入れ、X
とはあまえあまえの生活三昧。Xの寝顔などみたこともない生活。トトト・・・・・
 でもY氏の話を聞いていると、恋愛、見合いどうでもいいが、いろいろなことが頻発する
ことになるけど、男女ペアーで安心しきって生活できるのが一番自然なんでしょーネ。Xは
パソコンのように忠実ではありませんがネー。へんてこですネー・・・・・・・・・
       (次回へつづく)
                        DE 7L3・・・(浦和市)

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