西島三重子物語その4
「西島三重子物語」その4(二枚目のアルバム)
    三重子の待望の2枚目のLP「さめないうちに・・・・」が77年4月25日に
発売された。三重子が初めてシンガーソングライターとしての意識をもって自分の
ために書いた曲(アルバム)である。
 このLP発売以降、三重子は積極的に活動した。各地にツアーを組み、精力的に
こなしていた。またこの時期に、三重子のファンクラブを作ろうという話が持ち上
がってきた。当時所属した龍頭音楽事務所が音頭をとり、初の「西島三重子ファン
クラブ」が発足した。そして会報は「西島三重子通信」というネーミングで77年
6月10日に創刊号が発行された。三重子は自分のファンクラブが作られたことに
対して責任を感じ少々照れくさかった。が、内心はとてもうれしかった。
 
 地道ながらも音楽活動を続けているうちにファンも着実に増えていった。とくに
80年2月29日に行われた「新宿厚生年金大ホール」でのコンサートでは満員の
観客を集めることに成功した。
 そのうち三重子に作曲の依頼が入ってきた。三重子が初めて他の歌手に曲を提供
したのが何とあの五木ひろしの「途中駅」だったのである。五木ひろしといえば演
歌である。ニューミュージック系のソングライターが演歌を作ったというので当時
はかなり話題が上っていった。もっとも三重子は別にニューミュージックというジ
ャンルにはとらわれていなかった。当時はニューミュージックという言葉が流行だ
ったのである。
 これをきっかけに以後、他の人にも提供をするようになり、特に78年7月に作
曲した「うぬぼれワルツ」は木の実ナナの代表曲ともいえるもので大ヒットした。
 その頃は自分よりも他の人に作曲を中心にしていた。だが、ラジオやTVの仕事
に出たりして忙しくなると、作曲にあてる時間が削られてしまうようになった。 
そのうち生真面目な三重子は、無我夢中でこれまで走ってきた感があったが、
この頃から精神的にも体力的にも疲れを感じるようになり、ついにその疲れがピー
クを迎えてしまい体(肝臓)をこわしてしまった。
 長期療養しなければならなかった三重子の心は、少しずつこの世界から遠ざかる
につけ「私はやっぱり芸能界には向いてないのかもしれない」と思うようになり、
自然と休業状態がしばらく続くことになり、心はすでにやめるつもりでいた。もと
もと芸能界には未練がなかったのだ。
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