縮刷版2016年3月中旬号


【3月20日】 「あにめたまご2016」を見てから夜まで過ごしてそしてアニメ・オブ・ザ・イヤーにノミネートされている細田守監督による「バケモノの子」を久しぶりに鑑賞。というか劇場で観るのはこれがようやく2度目で、1度目を見たあとにどうにもしくりこなくて次に見てしっくりこないのもイヤだなあと敬遠していたのだけれど、だいたいのあらすじを知って見る2度目でようやく渋天街から現代への渋谷へと話が戻り、蓮こと九太が成長して現代の渋谷に、そして勉強にああも執着する意味ってのが分かってスッキリすることができた。

 なるほどバケモノたちのいる世界で成長して親代わりの熊徹を乗り越え新たな世代のスターとなってはライバルたちと切磋琢磨しつつ起こる問題に挑むって展開もありだったかもしれないけれど、それだとどうしても話が薄くなるし「千と千尋の神隠し」との区別もつかなくなる。親元を逃げ出して熊徹とも最初はいさかいながらもようやくわかり合えた九太が、それでも居場所に不安をかかえ自分に迷いを覚えていた中で、戻った現代の渋谷で出会った言葉という存在、知識という泉に溺れ求めるようになっていく。そんな力だけでも技だけでもないどちらも含めた成長の物語をひとつに描いて、人に何になっても良いんだよと思わせる、そんな映画になっていた。

 自分が人間の子だと知っている九太と違って太郎丸は自分は人間ではなくバケモノの子であると思っているけどその割には親と違って牙は生えず鼻も伸びないでコンプレックスを抱えている。それをそらして払ってやることがあの親には難しかったのかもしれないけれど、言ってさらなる絶望を与えたくないと思うのも道理。親への誇りと自分への自身が結果、悪い方向に出てしまったけれどそれは思いの強さの裏返してであって、すべて終わってスッキリとした太郎丸が、これからの人生をどう歩んでいくかの方にむしろ興味があるし、期待もふくらも。もしかしたら良い宗師になっていったかもしれないなあ。でもそういう物語はなし。想像の中で過ごさせるのもまた、余韻を残して思索をもたらす良い映画の証明ってことなのかも。もう1度くらい見てもいいかなあ。っていうか発売されてるブルーレイディスク、買わなくちゃ。

 最初に使い始めたX201と同様に使っていたX201のバックライトが着かなくなて真っ暗なまま起動してしまう事態が発生して、これはいけないと朝になってソフマップへとかけつけ中古のX201を購入。試して起動してみてワイヤレスのドライバーが入ってないとかあったけれども、どうせハードディスクドライブごと入れ替えるんで気にせず買って帰ってドライブを差し替えメモリーも積み替えて無事に起動に成功する。なんかずっとバックライトが突然に薄くなったり暗くなったりするような現象が起こっていたけど、X201によくある仕様かと思っていた。でもやっぱり残り火みたいなものだったか。いらない出費だったけれども新品のパソコンを買うよりは安いから仕方がない。というかX220より後になるとキーボードが使いづらくて嫌なんだよなあ。なのでしばらくはX201を使い続けよう。壊れたときのためにもう1台くらい購入しておくか。

 そして連日のTOHOシネマズ日本橋にて東京アニメアワード2016より今日はまず「YOUNG POWER 〜卒業制作TOPセレクション〜」を見物。ICAFって学生のアニメーション作品を中心に見せるイベントの幹事校からそれぞれ1作品ずつ、今春の卒業制作作品を持ち寄って上映するという今までにありそうでこのタイミングではなかなかなかったプログラムに、あるいは東京工芸大の卒業制作で見て感動した狩野洋典さんの「ノアの□(ハコ)庭」が上映されるかもって可能性にかけて、チケットを買っておいたら何と、ようやくやっと公表された上映作品にしっかり入っていてあの切ない世界をまた見られるのかと、手をグッと握りしめて会場に入って見てそして、やっぱり泣いた。グズグズと泣いた。

 ロボットと少女の物語。そして崩壊する世界の物語。上映の後で作った学生が並んで作品の要点を話していたけど狩野さんはゲームの「IQ」ってのを挙げてブロックを並べていくゲームの世界をまずは持ち込み、ぎりぎりの世界での感動を描いてみせたけれども海外から来ているアニメーション作家の人には、あの短さの中に語られていない世界の情景、キャラクター自身の背景、そして少女の感情の変化といったものを、やはりちゃんと示唆して置いた方が良いといったことを話してた。なるほどSF者でアニメ者の僕だと与えられた断片的な情報と、そして前後が切り取られたシチュエーションから全体を想像し、キャラクターの背景も捏造しつつつじつまの合わないところはそういうものだと納得をして、ただ感動の物語ばかりに寄りかかってそれを汲みとり涙ぐむ。でも世界の誰もがそうとは限らないならやはり、しっかりと背景を描き心情も示唆する必要が物語を作る上では必要なのかもしれない。

 5分とかの学生の卒業制作なんだからそのあたりは察しろよと言ったところで、作品として世に問われればそれはイーブン。だったらやはり必要なことは必要なんだとここで理解をしつつ次、作る時にはその辺りを考えることでアニメーション作家として大きく成長していけるんだろう。アカデミー賞へのノミネート経験もあるコンスタンティン・ブロンジェットさんが訴えていたのは、良いスクリプトがあれば良い作品ができる可能性は1%であっても存在するけれど、悪い脚本ではそうした可能性はゼロ。どれだけの演出家であっても悪い脚本から良い作品は生まれない。ということでシナリオを練り構成を練って何を伝えたいのかを、考えることの大切さを改めて突きつられた気分。雰囲気でもって持ち上げ騒ぐことのから生まれる世界水準はないってことで。

 あと勉強になったのは、技法と作品の関係でこれは武蔵野美術大学から参加した見里朝希さんの「あたしだけをみて」という作品について言及されたもので、フエルトを使い人形を使って変化させながら動かし長く付き合っていた彼女との間に漂う倦怠、スマートフォンに残った画像から浮かぶ過去への思いといったものを描いていた。それが果たしてフエルトのアニメーションである必要があったのか。ふわっとして変化する女性の顔や最初は動物なのにだんだんとスマートフォンに代わるオブジェなど、フエルトならではの自在さが活かされていたし、キャラクターもフエルトならではの柔らかさが生きていた気がするけれど、じゃあ紙粘土だったら、切り紙だったら、作画だったら等々の中でフエルトである必然、それだからこその表現か、ってことは考える必要があると改めて知らされた。隙だからとか使いやすいからではなく、作品として何が最善か、ってこと。当然だけれどそれ、どこか置き去りにされやすい部分だからなあ。

 初見では東京造形大学の顧傑さんによる「I Can See You」が作画でもってアーチェリーの射手によるアクションが描かれとてもスリリングで楽しめた。暗い場所から飛んでくる矢を避けて打ち返す。相手の矢が見に迫り隠れた柱を何度も同じカ所に矢を打ち込むことで射貫くといったエスカレーションも楽しかったけれど、コンスタンティンさんだっかな、「長い」と断じてた。同じようなアクションの繰り返し。それが緊張を読んでいる部分はあるんだけれど、次に何が起こるのかって期待に答えて話を進めていく方がやはりストーリーの上では大切なのかも。女子美術大学の田中友佳子さんによる「すずめとあひる」は作画によるアニメらしいアニメーション。可愛かったけど海外では警察官は警戒される存在なんで、これは子供向けだねえという話。誰に向けて作るのか。それを考える必要性を教えられた感じ。

 多摩美術大学の加賀遼也さんによる「oldman youngman」は切り絵のアニメーションとしての技法はすごく褒められていたけれど、やっぱり筋が分かりやすいといったところ。そうなるだろうといった展開ではなく、何段にも構成をして練り込む必要があるみたい。老人が孫だかを得て泣くのに困ってギターを弾いたら泣き止んで、それでいっしょにギターを弾き始めてやがて老人より目立つようになっていく。彼女も得て老人は死んで。ってあたりで主人公が誰だか分からなくなるし彼女はどこにいったんだって覆いもする。円環のような構図にするとか生々流転を描くとか。そんな確固とした筋がやや書けていたかなあ。

 最後に円香さんの「愛のかかと」。こちらは逆に複雑すぎると。女性達のそれぞれのフェティッシュめいたものを面ね重ねて描く展開は、見ていて迷宮に誘い込まれる気分だけれど手がかり無しで出口無しはやっぱり作品となると拙いのかもしれない。そういった案配、誰に見せるか、誰が見るのか、どう見るのかといったたりを鍛えていくことで、技法のみならず物語でも世界に通用する日本のアニメーションになるってことで。それだとでも想像とか補完とか余韻が消えて日本らしくないって来もするけれど。だからそこも含めての案配ってことで。

 東京アニメアワードフェスティバル2016の「新海誠監督特集」。予定だと誰も登壇することはなくティーチインもなくただ上映だけだったのが、なぜか突然に新海誠監督が登壇して上映される「秒速5センチメートル」とそれから「言の葉の庭」について解説してくれて有り難かったしラッキーだった。あと「君の名は。」についても。2007年の公開になる「秒速5センチメートル」を僕はたぶん試写で見てそういえば知り合いに会ったなあと思い出したらクレジットに名前が載っていた。いやそれは前作の「雲の向こう、約束の場所」でのことだったかもしれないけれど、ともあれ「秒速5センチメートル」の頃の新海誠監督はまだ独身だったという話で、それもあってか違ってか、何か結論を求めて話を作るといったことを望まずそれがああいった、オープンエンドともまた違うドラマチックでもない物語になったらしい。

 僕自身が見たのもたぶん2007年以来で、当時から何とも益体のない兄ちゃんだなあといった印象で、求められるなら受ければ良いし求めるなら向かえば良いのにどことなく中途半端を引きずったまま曖昧さの中を投げやりに生きてこの先どこへ行くんだろうと思った記憶がある。改めてみても第1話でのあの未来図、そして第2話での温室のような求められる場所を振り切って第3話に行って、そこで求められながらも向き合わないまま溺れているとも漂っているとも言えそうな、苦くてみっともない境遇へと至らせてはいったいお前はどうしたいんだと思わせる。

 それが当時の新海誠監督の心境なのかどうなのか。当事者じゃないから分からないけどそれでもやっぱり人間として、そして誰もが前向きじゃなく勇気もなく求められたいけど縋ってまでは追いたくない自尊心を持っているとしたら、ああいった生き様もあるのかもしれないと、映画を見て改めて思ったりもした。とはいえそれは男性の側の心境で、女性が見ていったいどう思ったか。来るなら来いよ、そして求められたんなら答えろよと思ったのか。そこがちょっと知りたかった。新海誠監督はどうだったのかなあ。とも。

 そして「言の葉の庭」。これについて新海誠監督はもうギリギリまで完成度を高めた映画、どこが見どころではなくすべてが見どころという映画にしたかったって話してた。言葉通りにこの映画は1時間に満たないながらも半端ない密度があって完成度があてどこも切れず見逃せない映画になっている。だから僕は何度も見られるし何度も見ても飽きないし何度見たって感動できる。あのクライマックスへと至る過程を楽しめる。そんな2作品を経て、間に「星を追う子供」とか「クロスロード」のプロモーション映像なんかを挟みつつたどり着いた夏公開の映画「君の名は。」がいったいどういう映画になるか。過去の作品と似ているけれどもやはり違ったものにはなりそうだとか、音楽を山崎まさよしさんや大江千里さんといった大好きなミュージシャンにも匹敵する素晴らしい人と作っているとか行った話があって期待がふくらむ。

 声優さんではなく俳優さんが演じることについては、そうした人を起用することで声優さんのそれこそフォーミュラーカーみたいに限界まで振り絞って演技をするのとは違った、予想外のものが飛び出す、たとえとして「となりのトトロ」のお父さんのような演技が飛び出すかもしれない可能性を思いつつ願いつつ頼んだという。とはいえ神木隆之介さんは『とある飛空士への追憶』でもって声優の経験はあるから、きっとちゃんと聞かせてくれるだろうし、予告編めいたものが流れてそこでなるほどといった声を聞かせてくれた。どうなるか。どんな映画になるか。今からわくわく。夏の評判を「シン・ゴジラ」だけにさせるものかと。アニメーションファンとして、新海誠好きとして思うのだった。勝とうぜこの夏。


【3月19日】 アグレッシブ烈子だアグレッシブ烈子だ、サンリオが新しく送り出すキャラクターにして日頃は内気なOLだけれど押しつけられた仕事で溜まった鬱憤を晴らしにひとりカラオケに行くと豹変して、デスボイスでもってデスメタルを歌いまくるという過去に類を見ないキャラクターがTBSの「王様のブランチ」にショートアニメーションとして登場することになったとか。そして赤坂サカスにそのアグレッシブ烈子が登場するってんで見物に言ったらあのぐでたまと一緒に登場しては子供たちを前に愛嬌を振りまいていた。

 見た目は愛らしいレッサーパンダでくりくりっとした目におどおどとした仕草でもって同情を誘う一方で、上司からは仕事を押しつけられ同僚からは軽んじられるその雰囲気がやっぱり良くないんだろうけれど、だからといって“本性”を見せてキレッキレの顔でもって会社内でデスボイスで受け答えをした日には、周囲は引いて自身も願う結婚退職の夢は遠ざかってしまう。だから抑えて溜まる鬱憤。それが爆発する瞬間に輝く美を求めて、同じ思いを抱えたOLさんたちはアグレッシブ烈子に引かれていきそう。「王様のブランチ」とうそいう視聴者が多そうな番組での放送も、そのあたりを狙ってのことかな。4月スタート。ぐでたま以上の反響を呼ぶか。アニメーションはファンワークスが担当とかでそれも楽しみ。

 運営元が日本動画協会に代わって以降、まるで案内も来なくなったんで去年に続いて自力で見に行った「あにめたまご2016」が素晴らしかった。いわゆる文化庁が委託する若手アニメーター等育成事業から生まれた作品。公募して寄せられた企画から選ばれた4つの企画を4つのスタジオが若手アニメーターを中心にして描き作り上げることによって、今の分業体制ではなかなか得られない験とかノウハウの伝授を行って、アニメーターの知識とか力量とかの底上げを狙おうというもの。

 その成果については現場の人が語るなりすれば良いとして、こちらとしては出てくる作品が果たしてどれくらいのものなのか、ってあたりが気になるけれども、今回は4作品が4作品とも、企画を立ち上げ将来につなげようとかいった下心ものぞかず、腕前を上げるためにさまざまな要素をぶち込んで追いつかずちょっとガタついてしまったけれども技術は凄いといったものにもならず、普通に作品として見て楽しく、そして使われているだろう技術もなかなかで、参加した人には良い経験になっただろうと思わせてくれた。

 まずはシグナル・エムディの「カラフル忍者いろまき」。作ったシグナル・エムディはプロダクションIGの親会社にあたるIGポートが100%出資で設立した会社で、IGで主にCGなんかを使った作品を手掛けて来た森下勝司さんが代表を務めている。だからつまりはフルデジタルでの制作を旨とした会社で、「カラフル忍者いろまき」でも参加者は初めてフルデジタルでの作画に挑んだとか言った話をしていた。フル3DCGで作られているのかな、とも思ったけれども見た目は普通に2D的というかエイケン的というか「クレヨンしんちゃん」みたいな造型。だから普通に作画したのをデジタル環境に取り込んでつなげているってことなのかも。どうなんだろう。

 そんなテイストで繰り広げられるファンタスティックな物語り。田舎に移住した画家の父親に連れられて母親とともに移り住んだ娘の前に現れたのは400年前に姫を守れなかったと悔やむ忍者達。赤青黄の色に分けられそれぞれが日を扱い水を扱い日曜大工を得意とするといった特技で姫と信じる娘に貢献する。あと家族にも。そういう設定の面白さでありわかりやすさが良いし、田舎に来て戸惑いながらもだんだんとなじんでいく娘の気持ちの変遷が感じられるのも良い。

 絵も最高で良く動くしデフォルメも利いているしと手練れの仕事ぶり。動かす方は大変だったけれどそれだけに学ぶものも多かっただろうなあ。忍者が色であることと父親が画家であることを結びつけた展開もあって、お勉強にもなってそしてクライマックス。スペクタクルの果ての感動があるのはうん、第1回目の若手アニメーター等育成事業で見た「万能野菜ニンニンマン」にも重なるところがある。あれもそのままシリーズへ、なんて思ったけれどこの「カラフル忍者いろまき」も、10分ものでNHKあたりで帯にして流せばなあとか思った。監督はラーメンズのアフロじゃない方の小林賢太郎さん。原案も。そうかこんな才能あったのか。

 そして「UTOPIA」はSTUDIO 4℃といった大手が映画「ハーモニー」で総作画監督とキャラクターデザインを務めた田中孝弘さんを監督とキャラクター原案に据えて描いた未来もの。地球が荒れ果て人類は空中に都市を築いて移住し底で遺伝子の混交なんかも起きて動物めいた人間なんかも暮らすようになったある日、飛んで来た種を見つけた少年が別の少年や少女を連れて種が飛んで来た場所を見つけに地上に降りて冒険を始める、といったストーリーになっている。

 そうした段取りは前置きに入れもう戻れないといったキツい設定も仄めかしながら地上へと降りた3人が空飛ぶ電気くらげに追われている場面から開幕。3人はちょっと遊びに来ただけですぐに戻れると思っているみたいだけれど、そこで冒頭の言葉がちょっとだけ響く。楽観していいのか。とはいえ短い本面にそうした不安が顕在化する場面は描かれないで、とりあえず地上でひろった芋虫を少女がかかえて逃げ回りながらご飯を探していたところ、大鷲みたいな生物があらわれ芋虫を連れて行ってしまう。

 地上にありながら言葉をしゃべれたその大鷲、芋虫を干して食糧にすると言ったから少女や仲間は驚き返してと懇願し、大きないがいがの実をとった方が勝ちだとする鳥の掟に従った勝負をする。そんな果てに地上では本当に厳しいらしい食糧事情が垣間見え、けれどもそれを解消する道筋も示される。3人は仲間を取りもどして旅をした果てに花園を見つけたけれど、そこは目的地ではなかった。だったらどこ? 向かう背の方に光る稲妻。嵐の予感を残して物語は終わる。

 3DCGだとしたらピクサー感はなく、2Dっぽさもあるけど完全にトゥーンといった感じでもない独特の質感は4℃らしいといえばいえるのか。東京アニメセンターで開催中の「あにめたまご2016展」を見たら基本は作画で背景とはデジタルらしいからそんなハイブリッドがああいった質感を醸し出しているのかも知れない。長い長い物語のほんのさわりに触れた程度で描けば映画にもなりそうだけれど、そういう企画として育てていくのかこれはこれとして断片として語って一種の教訓をそこから感じ取るのか。見る側としてはいろいろと判断を迫られそう。作った方はキッズアニメーションのようなちょこちょことした動きとか生物がほとんど死に絶えて植物だけになった奇妙な地上というプロダクションデザインとかで学べることもあったのでは。そんな1編。

 さて大御所中の大御所ともいえる手塚プロダクションが、去年の「クミとチューリップ」に続いて送り込んで来たのは「かっちけねぇ!」という作品で、美術を目指すものの今ひとつのれない愛子の実家の寺にある本堂のふすま絵には片方に描かれるはずの天女が描かれていなかった。そしてある雨の日、井戸から絵筆を追いかけるようにして着物姿の男が現れる。聞けば江戸から来たとのこと。持っていたのも江戸時代の銭。でも信じられない愛子は東京の街を見せてやれと言う祖父の住職の言葉に従い、宗二というらしい男を連れて東京スカイツリーに行き、そこでとてつもない巧さで筆と墨を使って絵を描く男を見る。

 いったい何者? 江戸時代から来たというのは信じられないけれど、絵の巧さは信じた愛子。そしてなぜか宗二が似顔絵を描くアルバイトをしたいというのにつきあい宗二が実はふすま絵を描いた絵師で、けれども天女が描けないまま迷っていて井戸に飛び込み、そして現代に来たということを教えられる。それも信じられない話だけれど、それでも付き合いを続けた果て、宗二がつかんだきっかけがひとつの軌跡をもたらす。離別とともに。

 手塚アニメと言っても通用しそうな人情があってアクションがあって表情があって教訓があって物語があって何より楽しさがあるアニメーション。そこまで信じられないかって思うけれどもそりゃあ実際、SFでもなければ江戸時代から人が来るなんてことはないからなあ。じゃあ祖父はどうしたかというとそこは伝承があったみたいご先祖の書き残した文章を読めばあるいはとでも思ったか。しかし結果としてすっげえふすま絵を得た住職のじいちゃんが、1番特をしたんじゃないのかなとも。演じた大竹宏さん、巧かった。

 さて最大の注目作は武右ェ門による「風の又三郎」。というかまるで知らないスタジオだったけれども、調べたらサンライズにあってフル3DCGを使ってアニメーションを作ろうとしていたサンライズ荻窪スタジオの流れを汲むスタジオみたい。片山一良監督による『いばらの王 −King of Thorn−」とか手掛け森田修平監督の「コイ☆セント」なんかも手掛けアカデミー賞候補になった「九十九」なんかもたしか手掛けた。そこが荻窪からいなくなってどうしたのかと思っていたら、練馬を経てプロデューサーだった高山清彦さんが独立をして設立したのが、この武右ェ門ってことになるみたい。

 つまりは押井守監督の「G.R.M」であり大友克洋さんの「スチームボーイ」を作ろうとして立ち上がったデジタルエンジンの末裔ってことになるのか。時は流れる。そして人は育ち作品は生まれる。結果として「風の又三郎」は「スチームボーイ」「九十九」ともまた違って懐かしいんだけれど新しく凄いんだけれど温かいといったさまざまな顔をもった短編アニメーションに仕上がっていた。そのルックにまず思ったのは学生の卒業制作にあるテイストだなあってことで、CGによってモデリングされたキャラクターやらを絵本っぽい色彩で塗って淡く見せつつちゃんと動かすのは、セル画を使わず紙に絵を描き重ねていく自主制作なんかを思わせる。

 動きもスムースというよりどこかぎこちなさが残った感じはなおいっそう卒業制作系を思い起こさせるけれど、そこはプロフェッショナルたちだけあってモデルは崩れず背景には広がりと深みがあって隅々まで描き込まれ、そして何より長くしっかりとストーリーを紡ぎ上げる。宮澤賢治の有名すぎる童話を原作にした話。田舎の学校に転校してきた子が又三郎と呼ばれ風に絡めて語られる。そんな設定を抑えつつも田舎にある学校のクラスメートが少年1人がいて先生が女性のほかは熊だったりイノシシだったり鹿だったりカエルだったりカメだったりミミズだったりと動物ばかり。それらがそれぞれに動物らしさを残しつつ、けれども人間っぽい雰囲気も醸し出すというアクロバティックな造型を経て描かれているから驚きだし、そういう世界観をどういう理屈から提案したのかといったところにも驚かされる。

 プロダクションデザインの上でそうなったのか企画の段階からそうなのか。あとクラスにずっといる男の子はまわりが動物ばかりなのを別に不思議とも思わず受け入れているけれど、女の子は熊やイノシシはともかくカエルやミミズがいるのにやや引き気味。動物が喋ることに驚くというよりミミズがいるということに驚いているのか、やっぱり動物が喋っていることが不思議なのか。そういう設定を詰めず何となくそういう世界なんだよと思わせてしまうのは、少年とクラスメートとの壁もなにもない関係の描き方、なんだろうなあ。カメとか歩くのが遅くて迷子になってしまうのをみんなが心配するところ。優しかったなあ。

 女の子の方もそうした環境にだんだんと慣れていくところが子供の世界の柔軟さ、って奴なんだろう。先生をのぞいて大人たちがそうした動物の子供たちと触れあっている場面はないから、あるいは子供の世界の子供の目にはそう見えているだけ、そう感じられているだけって解釈もなりたつけれど、でもやっぱりそこは普通に熊がいてイノシシがいて鹿が居てカメにカエルにミミズもいて、竜が風となって吹き進む世界、って考えた方がこころにも楽しい。そういう童心も試されているのかも。

 そんな「あにめたまご2016」は今回の東京アニメアワード2016で上映されて追加上映もあるけれど、普通の劇場での公開となるとあんまり情報が聞こえてこない。前だったら新宿のバルト9だとかTジョイだとか角川シネマでの期間限定上映が最初からアナウンスされていたけど、今回はなく毎日放送と読売テレビで2作づつの放送があって、そしてアニマックスでの放送があるくらい。つまりは東京のキー局地上波での放送はないってことで、これだけの素晴らしい作品を、普通の人はいったいどこでどうやって見ればいいんだ? って話になっている。

 企画に最初から絡んでいた竹田青滋さんがいる毎日放送と諏訪道彦さんがいる読売テレビが放送するのは分かるけれど、東京のキー局にはそんな2人と同じくらいアニメに熱心なプロデューサーがいないのか。いたら当然に権利を取って放送するだろうし、見れば権利はなくても是非にうちで放送させて下さいと言うだろう。言わなければそれは眼鏡が汚れているとしか思えない。それとも別に東京のキー局では放送できない理由があるんだろうか。あるんだとしたらそんなものはぶちこわせとまずは言いたい。あるいは映画館で上映できない理由があるなら、そんなものはたたき壊せと訴えたい。

 税金が入っている国立大が国歌を斉唱する義務があるなら、税金が入っているあにめたまご2016を国民は誰もが見る権利がある。とまでは言わないし、国立大は別に国歌を斉唱しなくても構わないんで、せめてあにめたまご2016はもうちょっと、ひろく世に出して大勢の目にとまる機会を作って欲しいなあ。それをやってこそアニメーションの魅力は日本に広がり世界に伝わり続く道を選ぶ若い人たちも生まれより豊穣な業界へと発展を遂げるのだから。

 なんというか。とある教科書についてとある新聞が、頭のいい人たちが通い頭のいい人たちが教えている学校で採用されているその理由がわからなうって、「なぜ」だなんて見出しにとって記事にして満天下で公言するのって、つまりは自分たちは頭が悪いですって言っているようなものだと思うのだけれど。そりゃあ自分たちの関連会社が作って、あまりに熱心なセールスがアンケート用紙をかき集めて知り合いの会社に推薦の言葉を大量に書かせるくらい素晴らしい教科書を推したいという気持ちがあるんだろうけれど、そういう意図を垣間見せつつ頭の良いところがまるで採用してくれない状況に、不満を言うことが周囲からの見え方をするのか、まるで気にしていないところがどうにも痛い。それとも気にしている余裕もないくらいに、批判することがお仕事になってしまっているのだろうか。やれやれ。


【3月18日】 その言葉がどういう意味を持つのか、そういった意味合いの言葉を発して良い立場なのかどうかを感じ取り、見極めて判断する能力がもうどんどんと失われているといった感じなのは、杉並区議だったかの匿名ブログに対する批判からも感じ取れていたりするけれど、どこかポジショントークな政治家の言葉だったらそういうプロレスもありとして、関西経済連合会というトップ企業が集まる団体で副会長を務めている人が、福井県にある高浜原発の稼動差し止めの仮処分が下ったことに「『なぜ一地裁の裁判官によって、(原発を活用する)国のエネルギー政策に支障をきたすことが起こるのか』と述べ、『こういうことができないよう、速やかな法改正をのぞむ』」(朝日新聞より)と言うのはやっぱり、大きく間違っているうんじゃなかろーか。

 だって司法がすべて国策に従っていたらとんでもない国になるじゃん。そういう国がどういう末路を辿るかは歴史が証明しているじゃん。つい最近も隣国が大統領のご意向で言論を弾圧したとか言って騒いでたその国が、一方で国による司法への介入を是としちゃいかんでしょ。って考えるのが普通なのに自分たちの不利益になることは相手が司法であっても間違っていると訴える。もうポン酢としか言いようがない。なるほど法は必ずしも正義ではないけど、だからと歪め退けてはこの国が成り立たない。制度として認め地裁だろうと高裁だろうと判断は尊重しつつ、その結論に異論を唱えるならまだしも、一地裁は国に従ってろとか言うのは無茶苦茶が過ぎる。国策だからと企業を止めず公害が起きた過去も踏まえ言うのが経営者なのに。そういう意識を抱けず直感というか短絡的に反応してしまう人が、上に立っているこの国に未来はあるのか。頭が痛いなあ。本当に。

 ちゃんと開かれていた東京アニメアワードフェスティバル。せっかくだからとμ'sの東京ドームライブ前に「ラブライブ! The School idol Movie」を見る。テレビアニメも含めて映像としての「ラブライブ!」を見るのは実はこれが初めてだったりするんだけれど、だいたい設定も知っていてキャラクターもほぼほぼ把握しているんでそういうことかと了解しつつ見ることができた。でもって結論。東京アニメアワードのアニメ・オブ・ザ・イヤーで良いんじゃないかと。おそらくはひとつのことを成し遂げたμ’sの9人が、続くかもしれないアキバドームでのライブに向けてPRも兼ねて渡米しそこでライブを行って中継して、日本にスクールアイドルあり、ラブライブあり、そして何よりμ’sありってところを見せようとしてそれには見事に成功する。

 ただ高坂穂乃果にはちょっとひっかかることがあった。それはμ’sの行く末。3年生が混じったユニットは迫る卒業でメンバーが抜けた後をどうするかで、いちおうはスクールアイドルという立場にこだわりμ’sはこれで終わることになっていた。けれどもアメリカからの中継が好評でライブはいつやるのといった声がいっぱい。学園長からもアキバドームでのライブの核として残って欲しいと言われてメンバーは迷う。あるいはそうした声があるなら続けたいといった気持ちも生まれる。けれども1度決めたことは貫きたいというメンバーもいる。ライバルのA−RISEはスクールアイドルではなくなってもアイドルとしてマネジメントを受けつつ活動を続けることにしたという。どうするのか。どうした方がいいのか。

 そんな穂乃果の前に現れるのが謎のシンガー。アメリカでも地下鉄に迷った穂乃果の前に現れ歌い導いた。そして日本でも。その正体は? ってあたりにファンタジーめいたものが漂いもしかしたらSFとして時空を超える冒険なんかもあったのかもしれないけれど、一方では穂乃果自身の心の葛藤が形になったものなのかもしれない。そして出された結論は。といったあたりにいつか来るその時をどう迎えるか、それは誰が決めてどう納得さてていくのかといったプロセスをも含めた幕の降ろし方って奴を感じとれる。なるほどこの劇場版をみてなお、μ’sが東京ドームのライブを最後に辞めてしまうのは残念だとは思うまい。時は来た。潮は満ちた。ならばここが最高潮。そして最後のステージ。彼女たちもそう決めて僕らもそう思う。そのための決意を、その時への勇気を与えてくれる映画って言えるのかもしれない。

 リアルに言うならたとえ人気のユニットでも、だらだら続けてそれで声優さんのすべてを縛る訳にはいかない。これからの活躍と成長を考えるならここでピリオドを打つっていう判断も仕方がないというか当然といったところだろう。そして後に続く者たちを奮い立たせるクライマックス。それは作品の中のスクールアイドルたちに向けたものでもあるし、声優としてアイドルユニットを組んで活動をする者たち、直接的なμ’sの後釜としてのAqoursに向けたものでもある。受けてどう答えるか。それを僕達はどう応援していくべきなのか。っていった導きも与えてくれる映画だった。

 成長して成熟して別れそして生まれる生々流転。それがあるから毎日が新しくて楽しくなる。そう思ってこれからを生きていこう。なんて思わせてくれる映画だったということで。あとは音楽が楽しかった。アメリカでのライブや途中のソロ、そして秋葉原での路上でのみんあが集まってのダンスに歌ときて最後の最後に最後のμ’sで締めるその展開を、見終わって出てくる涙と感慨。これこそがアイドルによるアイドルのためのアイドル映画。リアルな生身のアイドルで作られて欲しい気もするけれど、そういう時代でもないからアニメのキャラとして作られるのかもしれないなあ。「KING OF PRISM by PrettyRhythm」とかも含めて。ああ、面白かった。

 癌を告白されて余命がそれほどないと分かった望月三起也さんが、池袋にある東武百貨店で原画展を開いているというのでこれはやっぱり見ておかなくちゃをかけつけたら何と「魔像の十字路」の表紙絵の原画が売られていた。展示されているだけじゃなくて販売中。初出の少年画報社から出ていたヒットコミックス版ではないけれど、ぶんか社から出た文庫版の表紙絵でキャッチーにしようとユキちゃんをメーンにフィーチャーしつつ飛葉大陸が描かれ銃もしっかり添えられているといった黄金の構図のものが何点か。値段は35万円から40万円といったところで高いかというと江口寿史さんの原画を50万円以上で買った身にはそれほど高いといった感覚ではなく、むしろ名人級の筆の運びを目の当たりにできる絵画として、安いとすら思ってしまう。僕にはちょっと買えないけど。

 ただそう思った人もいるみたいで目の前でメインビジュアルになっている新作とあと古い表紙絵なんかが売れていった。その値段は100万円以上。ほかにも使われなかった漫画の原稿とかも売れていたりして望月三起也さんの今も衰えない人気ぶりってやつがうかがえた。個人的にはあと女子サッカーリーグに関する会報か何かの表紙絵が気に行ったんだけれどこれ、なでしこリーグが買って永久保存すべきなんじゃないかなあ、まだなでしこジャパンなんて言葉が形も存在していなかった昔から、女子サッカーを応援して漫画にも描いてきた人への、それが敬意ってものだろうし。

 版画もあってこれがなかなかの再現度。カラーだとホワイトがちゃんと持ってあるようだし、モノクロもペンで線を引いたかのよう。そのモノクロがあの「魔像の十字路」でワイルドのメンバーが飛葉ちゃんの号令一下、整列して炎の壁につっこみ越えて敵がいる船の甲板へと降りるシーン。名場面中の名場面を5万円ちょいで手に入れられるなら安いかなあ。ちょっと考えよう。この時すでにヘボピーは…。思い出したら泣けてきた。今の時代を象徴する話でもあるしなあ。このエピソードだけでも映画化しないかなあ。あるいはOVA化でも。


【3月17日】 第2期決定ならどうして10話だなんて半端な回数で第1期をまとめたんだろうかと疑問も浮かんで仕方が無いアニメーション版「この素晴らしい世界に祝福を!」。子供たちから大人気だという機動要塞デストロイヤーを相手の戦いなんて2話とか使っても足りないくらいの迫力なのに、アクアの魔法で障壁を破りめぐみんとウィズの爆裂魔法でダメージを与えてそして自爆を防ぎ最後はアクアから和真を介してエナジードレインをしためぐみんが再びの爆裂魔法で破壊。ダクネスはいったい何をやってたんだろうという気もしないでもないけれど、これでもうちょっと尺があればダクネスの正体明かしなんて入れずともその頑丈さを存分に見せつけられたことだろう。

 振り返ればウィズが和真たちと知り合った経緯なんかもまるまると描かれなかった訳で、10話といった短さの中で何を入れて何を落とすかの取捨選択もあったみたいだけれど、それでもしっかりとサキュバスのお店を訪れ揺れたりするのはたっぷりと入れたあたりに作り手のこだわりを感じる。視聴者にはサービスサービスゥなこだわりを。でもって第1期のクライマックスにちょっとしたスペクタクルも入れておこうと機動要塞デストロイヤーの回を持ってきたんだろうけれど、後がない状況で戦いを長い課せられないから1話で終えて和真がそそのかした中心核のテレポーテーションで被害を被った領主から、無理難題が押しつけられて始まる第2期ってことになるのかな。それでどこまで進むかそれともオリジナル展開に持って行くか。いずれにしても期待大。いつから始まるのか楽しみにして待とう。

 TOKYO MXで再放送中のテレビアニメーション「ちはやふる」は1年生の時の東京都予選で瑞沢が北央を破って全国大会の近江神宮行きを決めた回。この後で着物姿の大戦がとんでもない状況を引き起こすってことはさておいて、4月にスタートしたばかりの部活でも、強いかるたの選手が3人いれば団体戦は勝ち抜けるものなんだなあってこと改めて確認させられた。そりゃああたりまえじゃんって言うけれど、相手だって東京の強豪としてそれなりの選手をそろえた学校。そのレギュラーが弱いはずもない訳で、そんなメンバーよりも真島太一や綾瀬千早や西田優征は強いのか、ってことになる。

 中学も止めずに続けていればそれこそ早くに太一はA級になり千早もクイーンになっていたかも。でもそれだと話にならないんで別れ再開して始めるところから。そして1年生では勝てず2年生になり優勝、そして3年生で……って今の連載あたりにたどりつく。単行本の最新刊でその結果はでてしまったけれど、すぐさま始まった3位決定戦で千早たちはやっぱり準決勝で富士崎に負けた藤岡東と当たって綿谷新も含めたメンバーを全員破るという快挙。そういえばその藤岡東だって強豪県の福井で立ち上げたばかりで県予選を勝ち抜いた訳だから、強い何人からいればやっぱり勝ち抜けるものなのかどうなのか。ちょっと知りたい。ともあれアニメはいよいよ近江神宮へ。結果は知っていても展開は面白いので見続けよう。

 そんなアニメーション版「ちはやふる」を朝方に見てそれから「スッキリ!」だか直前の番組だかに出ていた映画版「ちはやふる」の面々を見るとううん、やっぱり映画は映画ってことになるんだなあといった気分。千早の凜として太一なんかを上回る存在感で、それでいてドジなところもあるギャップを果たして映画版で主演している広瀬すずさんが再現しきているかというと、ちょっと違う気がするし真島太一もアニメで宮野真守さんがあてたその美声も含めて超イケメンで秀才って雰囲気だったのが、映画だと野村周平さんでどこかやんちゃさが漂う。むしろ綿谷新を演じる真剣祐さんの方がよっぽど真島太一だけれど、その静けさは新でもあるからそっちを演じるのは仕方が無い。だからやっぱり瑞沢の2人が気になるんだよなあ。

 まあでも絵が動くアニメは漫画のまんまで行くのが当然でも、人が演じる映画をそれでやる必要はない。だったらアニメーション映画にすれば良いんだから。あの題材をあの面々でどういう雰囲気に仕立て上げるか、それは見て面白いものなのか、ってところが重要で、それが漫画やアニメの「ちはやふる」からかけ離れていても、スピリッツは保ちつつ新しいビジョンを見せてくれていればそれで良いってことで。公開も近づいているけれどどうなっているんだろう。すぐに行けるか分からないけどとりあえず急いで見に行って、今の美少女アイドル映画は全部広瀬すずさんに持って行かれてしまうのか、それとも「セーラー服と機関銃−卒業−」でヤクザ女子高生の存在感を放っていた橋本環奈さんにまだまだ広瀬すずさんと競っていけるだけの力があるのかを確認していこう。そういえば橋本環奈さん、次は「ハルチカ」で主演とか。こちらはアニメに似た雰囲気。楽しみだけれど公開は来年。それまで橋本環奈さんの人気は維持されるのか。維持するべきだよ僕たちで。もう1回くらい「セーラー服と機関銃−卒業−」を見て来るか。

 おおっぴらな場所ではない匿名ブログが“便所の落書き”なのは至極あたりまえなことであって、表だっては言えないか、言っても空しいことを秘められた場所でキツい言葉で罵倒も含めて書き散らかして、それが見た人によって口コミで広められ、罵倒の対象となっている存在に同じような思いを抱いている人たちが溜飲を下げれば、それでひとつの役割は果たせるけれど、そんな罵倒が極めて正鵠を射ていた場合、表舞台へと引っ張り出され罵倒の対象へと迫って何かを動かすことがあっていけないことはない。秘められた場所で酷い言葉で書いてようやく事態が世間に伝わっただけのことで、それを乱れた日本語だからと批判するのはお門違いも甚だしい。むしろそうならざるを得なかったくらいに動かなかった政治をこそ責めてしかるべきなのに、どこかのポン酢な区議は言葉が悪いと批難して良い子ぶる。

 だったらお前は今まで何かしていたのか。していたとしても足りなかったから酷い言葉が放たれて、それに世間は動いた。そんな状況に結果として無力だったことを自省してこその政治家なのに、勘違いの発言をして発言者を責めて悦に入る。いったいそれが正義なのか。というか事態はそうした言葉でようやく動き始めてそして、本当にそこで要望されたことが実現されるために、何をすべきかって段階に入っている。それに対してできること、できないことを切り分けつつ説明し、やれるべきことはやろうと訴えるのが政治家なのに、過ぎ去ったことに釘を刺しては、自分がさも正義であるかのように振る舞ってみせる。そして世間はそんな態度の空っぽさを見抜いている。自分たちにとって何の役にも経たないと理解している。だから次、何かあればどうなるかってところなんだけれど、区議って誰がどういう理屈で当選するかまるで分からないからなあ。数も多いし。そもそも選挙は随分先。それまでやっぱり蔓延り続けては、与党なり国士なりの評判を落とし続けるんだろう。やれやれ。

 そして昨日をもって「産経アプリスタ」が更新停止になっていたという。アプリやスマホに限らずITとかIoTとかVRとかドローンとか、リアルゲームとかeスポーツとかスタートアップとかキャラクターとかロボットとか庵野秀明とかアニメとかラノベとか漫画とかについてかいろいろ書いて来た結果、307本の記事が残ったけれどもそういった、今から未来を想定する上でとても大事な分野であり、ビジネスとしても将来性があって抑えておいてしかるべき分野に関する報道を、あっさりと切り捨てるメディアがあるってところがよく分からない。日本テレビだって「SENSOR」って番組でスタートアップを支援しているのに。TBSは「DigiCon」を実施しているのに。ここん家はライトに寄って近隣諸国への罵倒で今のアクセスを稼ぐのが好きみたい。それで今は良くても明日はどうなる? って言いたいけれど言っても届かないから言わない。

 一方で毎日新聞ではデジタル部門が毎日新聞デジタルから「MANTAN」という社名になっていた。「MANTAN」ってもともとは「まんがたうん」で名前で漫画とかアニメとかゲームとかライトノベルを取り上げていたウエブ媒体。あと紙も出していたけれど、そんな「MANTAN」が分社化された毎日新聞デジタルに移ってそこでは様々なサイトを統括しているんだけれども社名を変えるにあたって「MANTAN」になったってことは、つまりはそれを中核と考えたってことなんだろう。全社的に理解があるかどうかはともかくアニメ漫画ゲームといったポップカルチャーが主流であるといった認識はありそう。羨ましいし未来も見ている。全国紙のケツを競いあってる節もあるけど時流をとらえて未来を見る目はどちらにあるのか。結果は遠からず出るだろうなあ。やれやれだ。


【3月16日】 去年の末に開かれた「『Yahoo!個人』オーサーカンファレンス2015」で組み体操の内田良さんや江川紹子さん、松谷創一カさんに山本一郎さんらをパネラーに迎えてパネルディスカッションが行われたんだけれど、その時に司会に出てきた人が良い声で立て板に水と喋りつつ、しっかりと場をまとめて話を進行させていて、確かテレビかどこかで見ていたから何かタレントの人かなあと思って調べたら、どうやらコンサルティングをやっている人とわかって、それならコミュニケーションも取れて当然かなあと感じたっけ。

 それから数か月。その時に司会をしていたショーンマクアードル川上さんという人が、トンデモなく経歴を偽っていたことが分かってあっちのコメンテーターとかこっちの司会とかを降りたって話になっていた。なるほど吹いていた経歴は大変に凄いものだけれど、それを聞かなくっても司会だけ見て巧いものだと感じさせたからには、そういう方面の才能のはあって勉強もしていたんだろう。偽らなくても普通にタレント司会者として仕事をしていればこういう事態にはならなかったのかもしれないけれど、経歴でもって仕事を増やしていった過去もあるとするなら発端にほっかむりをして、今が良いなら良いなjないかとはちょっと言いづらい。だから早く禊ぎを済ましてその声その振る舞いで仕事を取るようになるのがこれからの過ごし方ってことになるのかな。

 それまではしばらく活動自粛も仕方が無いってところで、「報道ステーション」とか「とくダネ」とか、既に出ているところは降りて別の人に代われば済む話だけれど、大変なのはフジテレビで、あの「すぽると」を止めてまで始める深夜の報道情報番組「ユアタイム 〜あなたの時間〜」の司会に大抜擢していたのが、放送開始まで20日くらいしかない段階で出演辞退という状況を食らってしまった。というかこれは辞退で許すんじゃなくてフジテレビ側から降板を申し出るなりした上で、経歴を偽っていたことが起用につながったんだからそれを偽っていた責任をとってと言っても不思議はない酷い話。ただ、それを言い出すとフジテレビがどうしてそんあ大事な番組に起用するメーンキャスターの身辺を、しっかり調査しなかったんだって話になるから言えないのも仕方が無いというか。

 でも報道番組に起用するキャスターの身辺すら洗えない報道番組にどうして信頼を置けるのか。それを思うとやっぱり最初の起用そものもが拙かったって話になりそう。しばらく前から週刊誌あたりでその経歴を疑われる記事は出ていた訳で、今日の週刊誌報道によっていきなり露見したって話でもない。そこで警鐘を鳴らされながらも動けず発表を待っていたフジテレビ側が知らなかったのならそれは問題だし、知っていて向こうが辞退するまで待っていたならやっぱり問題。だって起用から辞退までの数週間でその人物が詐称していると知りながらフジテレビの新キャスターってお墨付きを与えていた訳だから。

 それはそれとして、気になるのは誰が後任になるのか、ってこと挙がるのはやっぱりジョン・カビラさんかなあ、ってそれじゃあ「すぽると」のまんまか。ならば弟の川平謙慈さんとか。元日本マクドナルドのマーケティング本部長なら経済についてしゃべれそうだし。前にマクドナルドの発表会で見かけた時は、そのしゃべりにその顔立ちから弟の慈英さんともジョン・カビラさんとも似ていてなお、企業人としてのスマートさも備えていたからなあ。今なにやっているんだろう。あとはクリス・ペクラーさん? それともピーター・バラカンさん? モーリー・ロバートソンさんとか。ってそっち系の名前ばかりか。だったらブリドカットセーラ恵美さんでも良いじゃないか。誰それっているんです、そういう名前の声優さんが。

   噂のスペイン魔法少女映画「マジカル・ガール」を見た。なるほど誰がマジカルなガールなのかというところで日本向けには魔法少女のコスプレをしたいと願う女の子がクローズアップされてしまっているけど、そのビジュアルはなるほどマジカルなガールには違いないし、本編で語られる女の魔法という意味合いでも彼女、アリシアはしっかりを魔法を使っていて、それが物語の発端になって終末へと向かわせるための大きな要素にはなっている。

 でも主役はバルバラという精神科医を夫に持つ女性の方。学生時代からどこか精神に揺らぎがあって強情で吸引力もあったみたいだけれども長じてやっぱり美人ながらも心に不安定さを抱えている。部屋を訪ねてきた夫婦の赤ちゃんを預けられて笑いながら吐く言葉はなるほど普通は言いそうにない言葉。でもど赤ちゃんは可愛くて保護すべきものといった常識をズレてしまった心にはそういう扱いもあってしかるべきものなのかもしれない。ただやっぱりそれは社会では通用しないで夫は激怒しバルバラを落ち着かせ眠らせている間に家を出る。

 嘆き怒り鏡に頭をおしつけ割って額も割って血を流しながら酒を飲んで吐瀉したところに通りがかった男。それが魔法少女ユキコになりたいという夢を持った少女アリシアを娘に持つルイスだった。家で踊り壁に絵を貼りノートに欲しいものとして魔法少女ユキコのコスチュームを希望するアリシア。見て父親はレプリカではないファッションデザイナーが作ったプレミア品が欲しいのだと思い求めるものの高い高い90万円。失業中の父親には買えず迷っていたところに吐瀉を浴び、入った部屋でバルバラと出会って夫に逃げられ精神不安定な彼女と過ごした果て。ルイスは苦渋の金策を思い立ちバルバラは自業自得の不貞に縛られ地獄へと突き進んでいく。

 その存在が男を動かすという意味でバルバラも、そしてシンシアもなるほど確かにマジカル・ガール。バルバラが夫に内緒で金策に向かう展開などスペインにもしかしたらあるのかおしれない、闇のネットワークめいたものを想像させる。あとどうしようもない性欲と強欲のビジョンも突きつけられる。そうなると分かってどうしてバルバラが、とは思わないでもないけれど彼女は自分がマジカル・ガールで守護天使がいることを知っていた。だから踏み越えてしまったのかも。それもまた壊れた心の果てなのかもしれない。

 そんなバルバラの魔法が何をもたらしたのか。といった展開は見てのお楽しみというか。そこには悲劇めいたものもあるかもしれないけれど、ただそのままではかなわなかった何かを得たといった見方もできるのかもしれない。そうはならなかった運命に舞い降りた守護天使の差し伸べた手から愛を得て、そして現れた別の守護天使によって至福の中で歩み去る。そう思えば涙も浮かばない。浮かべたくない。だからそう思いたい。女は魔法使いだ。永遠に。シンシアがショートヘアで滅茶かわいいけどその眼差しは強くて心に刺さる。すべてを見通し覚悟を決めたその目に守護天使は何を思ったか。そしてバルバラ。脱いだ全身に現れるその痛ましさを置けば実に最高のプロポーション。崩れなく。かといって痩せすぎでもない絶妙さを味わいたければ行けよ映画館へ。

 ノベルゼロも2セット目が出て十文字青さん「境界探偵モンストルム」(KADOKAWA、700円)が登場。吸血鬼とか淫魔とか人外もいれば悪党もいたりする場所で探偵を営む狭間ナルキヤのところに依頼が。妹を探して欲しいというその女の頼みを受けて調査に乗り出した果て、追っているのは人狼だと分かりそして依頼人の女にはそうした人外をとらえ売り飛ばす仕事をしていたという経歴が浮かぶ。騙しているのかそれとも。そんな疑惑の中でも探偵は挑みそこに半吸血鬼の眼鏡の青年が絡んで来るという展開。探偵自身が秘密の力を爆発させるとかなく、どうして半吸血鬼が親しくしているか分からないけど血を与え与えられる関係ってことなのかも。BLかは知らない。ハッピーエンドでもないしバッドエンドでもなく謎解きもないまま進む闇と光の狭間での喧噪。そういう暮らしもあってそこにドラマも生まれるってことで。


【3月15日】 そういえば新宿にある「なぞともCafe新宿店」で発表会があって、ナムコがスマートフォンを手にして各地を回って指令を受けながら謎を解いていく「ロケなぞ」っていうサービスを始めたみたい。各地を歩いて記念碑とかに設定されたポータルをハックしていく「Ingress」みたいな位置ゲームなら前からあったけれども、ナムコのこれは指令を受けては各所を回ってそこにある謎を解き、ヒントを得てさらに移動して暗号も解きながら進んでいくといった本格的なリアルゲーム。屋内とかでよく行われているけれど、それが外に出て街全体とフィールドとして大きくなった。

 最初に投入された「ダブルス・スパイ」シリーズなんかだと、秋葉原とかそっち方面まで電車に乗って行く必要がありそう。なおかつ電話ボックスを探したり暗号をプリントアウトして解いたりと忙しい。それだけに解き明かせたら楽しいだろうなあ。そんな「ロケなぞ」は単体のゲームではなく一種のプラットフォームとして提供されるのも特色で、謎解きを制作しているグループとか団体が、街を舞台にしたストーリーの謎を作ったら、このプラットフォーム上で発表して収益化できるとか。ゲームアプリだともうレッドオーシャンも赤い沼と化してガチガチで、入り込む余地もないけれど、謎解きという新しいコンテンツなら参入してはヒットを連発して稼げるかもしれない。そうでないかもしれないれども夢はあるから挑んでみたい人も結構いそう。

 それこそプロのミステリー作家なんかが設定を作った謎を街に置いて解いていく、なんて遊び方もできそう。あるいは何かの番組とか作品にちなんだ謎を設定しては解いてもらいつつ、作品に親しんでもらうプロモーションのような展開も。聖地巡礼めいたコンテンツツーリズムの中にこうした謎解きを入れて回遊のヒントにしてもらう、ってこともあるのかな。ともあれいろいろな可能性があるけれど、肝心なのはやっぱり面白い謎解きがそこなるか、ってことで作り手の真価もそこで問われそう。あと街中が舞台ってことで一般の人とか公共の物との軋轢が怒らないかも心配。作り手も勝手なヒント化とかは避けつつ遊ぶ方も非日常にはいるけど周囲は日常と自覚しつつ、挑む必要があるんじゃないかな。そういう意味では第1弾がスパイ物ってのは最適化も。忍んでいないといけないから。スマホ買ったらやってみるか。iPadでもできたっけ。

 すげえ岡崎慎司すげえ。プレミアリーグで首位を突っ走るレスターが、ニューカッスルと対戦した試合で岡崎選手が得点を決めて勝利して首位固め。そんな大事な試合に出場しているってことでも凄いけれど、そこで得点を奪いなおかつオーバーヘッドだなんてスーパーゴールを決めて見せた。もしかしたらレスターがプレミアリーグを制したら、このゴールが年間を通じて最もエキサイティングでスペシャルなゴールとして喧伝され決めた岡崎選手も讃えられるかもしれない。

 マンチェスターユナイテッド時代の香川真司選手とか、プレミアで名を残した日本人サッカー選手も何人かいないことはないけれど、マンチェスターUでどこまで優勝に貢献したかってあたりで疑問符がついてしまう。けど岡崎選手は違う。レスターっていう決してビッグではないクラブで、アーセナルとかマンチェスターユナイテッドとかマンチェスターシティ、チェルシー、リバプールといった巨大なクラブを下に見下ろし首位を突っ走る。そんなチームで決して主力になっているとは言えないものの、出た試合ではゴールを決めて勝利に貢献。そんな積み重ねが今の首位であり、可能性としての優勝を招いたとしたらやっぱりその存在は、プレミアリーグに刻まれてしかるべきだろう。

 ローマでの中田英寿選手によるユベントス戦での引き分けに持ち込むゴールとかも確か、スクデットに貢献したんだっけ。それ以来にしてそれ以上かもしれない岡崎選手の活躍に、アーセナルが押されているのはファンとして寂しいけれどもそれでも3位にはいるんだからヴェンゲル監督ってやっぱりやり手。チャンピオンズリーグではバルセロナ相手に敗色濃厚で、FAカップもワトフォードに負けて3年連続になる制覇は潰えたけれど、残るプレミアリーグでの勝利を重ね、より上位へと進出してそろそろと言われるアーセナルでの監督生活を飾って欲しいなあ。年齢としては66歳だけれど次にどこか率いるのかな。それともどこかのナショナルチームの監督? いずれにしても偉大な監督のひとり。最後まで見届けよう。

 2006年の10月11日 に青山スパイラルホールで発表会が開かれて、「ドラゴンクエスト8」とか「ローグギャラクシー」てそれなりに知られたタイトルの開発を受け持っていたレベルファイブって福岡にある会社が、何か新しくゲームを作ってパブリッシャーになるっていう発表があって覗いた記憶。当時はニンテンドーDSが全盛で、そこに向かってさまざまなアイデアを持ったタイトルが投入されていたけれど、それなりに名の知られたゲーム会社が手掛けた続編とかだったり、親玉の任天堂が手掛ける「脳トレ」系のタイトルだったりする中に、新鋭のゲーム会社が割って入る隙があったかというと、もしかしたら結構厳しかったかもしれない。

 でもレベルファイブは違った。流行の「脳トレ」にミステリーの要素も加えたタイトルを投入。その名も「レイトン教授と不思議な町」は、そろそろ名前が出始めていたけれどもコメディアン的な扱われ方だった大泉洋さんを英国紳士の声として起用し、それから女優として歩き始めていた堀北真希さんを少年役に起用した不思議なキャスティングとともに、あの「頭の体操」の多湖輝さんを監修に起用してクイズというか謎というか、さまざまな問題を散りばめては解いて進んで楽しんでいけるゲームとしてこれは面白いことになるかもしれないって興味を誘った。

 その結果は全世界で累計1500万本を数える驚異的なヒット作に。レベルファイブが後に「イナズマイレブン」を出してメディアミックス展開を成功させ、「ダンボール戦記」から今の「妖怪ウォッチ」の爆発的なブームへと至るきっかけを作った。その根本にあった「頭の体操」を手掛けた多湖輝さんが死去。僕らの世代にとっては新書版の「頭の体操」シリーズがある意味バイブルとして存在していて、掲載されていたクイズを順繰りに解いて楽しんでいた時代があった。けどやがてブームは消え、多湖さんもクイズ番組とかに協力する人になっていたところにゲームという、新しいメディアの上でその数々の謎が復活して、物語として迫って来た。そしてレベルファイブを今にいたる大手パブリッシャーのひとつに育て上げた。その意味をどれだけご本人が感じていたかは分からないけれど、僕達は子供の頃に楽しませてくれて、そして大人になっても遊ばせてくれた人として記憶に刻んでその死去を悼む。本当に有り難うございました。

 ふと思い立って「ギャルと『僕ら』の20年始 Cawaii!の誕生と終焉 95年からの渋谷文化」(亜紀書房)を書いた長谷川晶一さんのトークイベントを覗く、っていうか松谷創一カさんと中森明夫さんという、1980年代から90年代、そして2000年代のアイドル文化、ギャル文化、女性誌文化にくわしい両人を交えての対談が面白くならないはずがないっていった気分からの参加だったけれども実際、中味はとても面白くって自分が知らない雑誌文化、そしてファッション文化の時代とか文脈なんかを知ることができた。

 1995年に創刊されて2009年に休刊となった主婦の友社から出ていたギャル雑誌の「Cawaii!」と僕はまるで知らなくて、「ポップティーン」や「Egg」なら知っていただけにそれがギャル雑誌を切り開いてトップを走っていたということを初めてくらいに知ってちょっと驚いた。どうしてか、っていえば「Egg」あたりがはガングロなギャルのど派手な表紙が一時話題になったこともあって認知できたし「ポップティーン」は角川春樹事務所が引き受けたこともあってSF方面から版元を知っていた目には何とはなしに飛び込んでいた。でも「Cawaii!」はまるで引っかからなかった。

 女性誌でも「CanCam」だとか「nonno」あとか「Vivi」だとかいった辺りはちゃんと」入るし、他にもちゃんと目に入るけれども、読者モデルという文化でもって中高生をターゲットとしていた雑誌に手を伸ばすような気分は浮かばず、知る回路ってのも存在しなかった。あるいはネットがもっと発達してSNSなんかが充実していた中でヒットしていたら、情報も流れていたかもしれないけれども1990年代後半はせいぜいが掲示板で、見知った人たちと共通の文化に関して言葉を交わす程度。そこに異文化とも言える「Cawaii!」が入る余地はなかった。けれども一方で40万部とかいった部数を撃っていた「Cawaii!」を確実に自分たちにとってのメーンカルチャーとして認識していた読者がいた。

 そうした、自分の関心の埒外にあってメジャーを行っていた雑誌がどう生まれ、そしてどういうった編集が行われ、けれどもどうして衰退していったかってあたりを知ることで、ギャルといった存在、読者モデルといった存在が渋谷の109文化とともにわっと出て、けれども109文化が全国区的になって分散していく中で、中心地であり爆心地でもあった雑誌もまた存在感を薄れさせていったってことが感じられた。情報の流通が限られた中で雑誌が持つ意味、そして地域が文化の中心地たり得た時代の存在を感じつつ、それが携帯でありスマホの普及で求心力を無くし、そして地域も聖地としての意味を薄れさせていった果てが今のこの、どこにも中心が見えない、文化が薄く空気のように漂いつつ、個々のコミュニケーションに溺れながら薄い空気を吸っている時代なのかもしれない。

 雑誌はだったら死んだのか、ネットにとって変わられたのか、ってあたりはそうだとも言えるし、そうでないかもしれないとも思える。「Cawaii!」で育ったギャルがお母さんになって子供たちに読ませたい雑誌、子供たちを出したい雑誌としてのジュニアファッション誌なりが存在し得る可能性。そうしたことをステイタスとして意識しあるいは文化としてあたりまえに感じられる世代の前線への復帰が、雑誌のパワーを再燃させるかもしれないといった指摘から、未来の雑誌空間を想像してみたけれどもそこに少なくとも、ライターとしての僕らの世代、僕らの趣味が活かされることはなさそう。

 サブカル的ともオタク的ともいえるこだわりとそして高慢さを出していける場所ではないから、ギャル雑誌なりギャルチャイルド雑誌は。一方でオタク的サブカル的な知識のごった煮から横断的に、あるいは誤配的にさまざまな情報に接して興味を育んでいくスタイルが、もはや存在し得ない状況で、知識の媒介を通じて興味を拡散させるライターは不要、ひとつのことに突っ込めるライターが幾人か、そろったネットメディアに人は集まり種々雑多から関心を引っかける状況は、もう起こらないような気がしてきた。なんてことを考えたトークイベント。いずれにしてもギャル雑誌の隆盛が、今にどういった影響を残しているかを、改めて考えて見たいもの。そのあめにはまずはこの本を精読。


【3月14日】 ホワイトデー、って訳じゃないけどそれを先取りした13日の日曜日、横浜ブルク13で「KING OF PRISM from PrettyRhythm」の応援上映ってやつを見て、冒頭に神浜コウジが出てきてチョコのお礼とか言ってたけどお返しは食べられちゃって無しだって。残念。そこで漏れる嘆息がつまりは来場者のリアクションを求める応援上映ならではの面白さ。スタートすればその声もさらに大きくなって映画に対するツッコミもあれば返事もあり声援もあってと多彩で飽きない。

 エイベックスやらタカラトミーアーツといった権利元なりスポンサーなりのロゴが出れば「有り難う」といった声がかかり、一条シンって新人アイドルが「はいっ」を返事をすれば「良い返事」と声がかかる。そしてコールか。仁科カズキと大和アレクサンダーがストリートで対決する場面に流れる「EZ DO DANCE」ではサビの部分の「ヒュー」「ヒュユー」といった声がしっかりかかってお約束通り。クライマックスのシンによる「」オーバー・ザ・サンシャイン」なんてまるで合いの手入れてくれって言わんばかりの楽曲だけに、そこにコールが決まって聞いていてとても心地良い。

 というかそれで曲が完成し、映画も完成するといった感じ? 映画の制作時にそこまで意図していたかは分からないけれど、アフレコをやってと言わんばかりのシーンとか見ると、インタラクションへの準備といったものはあったのかも。それを上回っての反応を見るにつけ、ある程度は想定して受け皿を作りのりしろを作って出してあと、観客に委ねる映画ってのが今後は増えてくるかもしれない。とはいえあからさまにここではこう言ってっていうのは萎える。観客の自由さを保ちつつ、まとまりも作って全体を盛り上げていくといった案配が大事なのかも。次は本場の新宿バルト9で見たいかな。さぞやこコールも揃って大きく響くんだろうなあ。あと氷室主宰が出てくると「仕事しろー」と入れるのはやっぱりお約束なのかな。可愛そうだけれどあの借金の金額を見るとそれもしゃーなしか。

 てっきり「マージナル・オペレーション」シリーズとか「遙か陶土のカナン」シリーズを出している星海社FICTIONからだと思ったらアスキー・メディアワークスからの観光だった芝村裕吏さんの「プリント・ブレイン」は事故で全身が動かなくなってしまったものの意識だけはしっかり残り、目でもって見える世界はちゃんと認識できていた少年に科学の力が恩恵をもたらす。あるいは悪魔の能力か。プリントされたとかいった何かが少年に接触しては彼の意識を刺激して、自分を受け入れれば動けるようになるとささやきかける。その目的は敵を倒すこと。何が敵かは分からないけど少年にとっては一生を寝たきりで、意識だけ保持しながら絶望し続けるよりはたとえ目的がかなって、そして死んでも本望とばかりにその言葉を受け入れる。

 そんなささやきを少年にかけていた物の正体は布。何かがプリントされたその布を頭にまいて体にかけると、どういう仕組みか少年の肉体に刺激がわたって動けるようになる。あるいは脳から脊髄を経て各所の神経へと回る電気信号を布が代わりに送っているのかもしれないけれど、そうしたテクノロジー的な詳細は不明。というより布にどうやったらそんな能力をプリントできるのかといった不思議もあるけれど、集積回路だってあのサイズにとてつもない演算能力を実装するんだから布地のプリントにそれが可能になる時代もいつか来るのかも知れない。来ないかも知れない。

 ともあれ少年は動けるようになったものの、敵めいた存在は少年から布を奪うことになったそうで、それは拙いと少年は布と共に病院を抜け出し歩き始めたところを親切な女性に拾われる。でも実は病院で寝たきりだった少年を見知っていたその女性は、少年を囲いあるいは監禁して自分の部屋に留め続ける。トイレにも行けなさそうな扱いだけれど外よりはましと受け入れつつ、筋肉をつける訓練をしていた少年のところにさらに危機。何か武力をもった勢力があらわれ少年をとらえようとする。逃げ出し際に布地の力も借りて敵を倒して突破し、そしてテント村めいたところで浮浪者らしい男から格闘技の手ほどきを受けることになる少年。そして伝わってくる、囲っていた女性が捕らえられたとの報に少年と布地は救出に向かうことを決意する。

 敵とは何で、どうして布地がそれを敵と認識しているのか、警察を騙れるような組織の正体は何なのか、それがどうして九州の久留米あたりで活動しているのか。戦争めいたものがあたっという描写もあってそもそもの世界観が見えない中で、テクノロジーの秘密とかが明らかにされ、何が起こっているのかが見えて来るまでは読んでいきたい作品。もしも全身が麻痺してしまった人間に、補助脳が電気信号なりを与え動かせるようになったらといったSF的な可能性を見せてくれる作品でもあるし、未熟な姿態の少年が美女に囲われ虐待とまではいかないけれども辱めを受ける描写で楽しませてくれる作品でもある。そんな描写が今後続くかは分からないけれど、別に格闘技が得意な少女が出てきて少年をポンポンと転がす場面もあって、女性上位は変わらなさそう。次はいつ出るのかな。待とう。

 マツコさんが来ると言うんで出かけていったらマツコロイドだった、ってことはなく最初からマツコロイドが登壇するとは分かっていたけど、それにしても見るとやっぱり本物そっくりな表情を持っていて驚いたAMDアワードの授賞式。いわゆる大賞/総務大臣賞ではなく今回から設けられた先端科学技術賞を受賞したんだけれどプレゼンターの高市早苗総務大臣がどうやらマツコさんの大ファンらしく、その現し身とも言えるマツコロイドに出会えて本当に本当に嬉しそうだったのが見ていてとっても微笑ましかった。放送法の問題ではタカ派な雰囲気も漂う人だけれど、リアルな場でああいった仕草を見せるとうん、人間っぽさを感じて親近感を抱いてしまうものなんだなあと。テレビとかで放送されたらそう感じる人も出てくるかな。当のマツコさんがどういうリアクションを見せるか興味津々だけれど。

 そんなAMDアワードの大賞/総務大臣賞はユー・エス・ジェイでもって繰り広げられている「ユニバーサル・クールジャパン」でちょっと驚いた。候補に挙がっている中からきっとロボットの「Pepper」かあるいは任天堂のゲーム「Splatoon」だと思っていただけに、いわゆる遊園地のアトラクションが取るとはちょっと意外。ただそれぞれにデジタル技術は使われているし、何より日本のアニメやゲームといったコンテンツを利用して、それをアトラクション化して世界的なユニバーサル・スタジオっていうテーマパークの中において、日本発のコンテンツとして世界に向けて喧伝してはアジアを中心に大勢の観客を集めている、そのシチュエーションがコンテンツの新たな動きとして評価に値する。過去最高を更新し続けている入場者数がその価値を表していると言えるけど、そういう価値を評価できる仕組みが他にない以上、こうやってAMDアワードが取り上げるのもひとつの英断かもしれない。お目出度う。でもまだ行ったことがないんだUSJ。

 功労賞にはプレイステーションを作った久多良木健さんが輝いてご本人が登壇。久々に見たけどとくに風貌は変わっていなかった。嬉しかったのはこの受賞が決してプレイステーションというハードを作ったことでなく、そうしたゲーム機を使いソフトを作ったクリエイターたちとともに、コンピュータテンターテインメントという新しいエンターテインメントの柱を作ったことが評価されたんだと言ったこと。ソフトがあってのハードという、その事実をしっかり踏まえ自分をのみ誇らずすべてに栄誉を与えようとするその姿勢があったらか、プリステーションは発展してそして世界に広がり、今のソニーを支える屋台骨にまでなったんだろう。そういう姿勢は今もあるのか。そしてこれからも続くのか。黎明期を知っている久多良木さんのような人が、最先端にいてテクノロジーのみならずフィロソフィーも伝え広めて言ってこそ、日本のコンテンツ産業が浮かぶ瀬もあるのだけれど。


【3月13日】 勝村がカメレオンとなって気弱な雰囲気がガラリと消えてニヤついていながらも冷酷さを漂わせる演技に切り替わったあたりはさすがに役者。そして山猫はといえば撃たれて防弾チョッキは着ていたけれども脇腹をえぐられてはさすがに動けず、死にかけていたところを勝村がカメレオンと知って動揺する霧島さくらに助けられ、治療されてどうにか動けるようになったもののその間にバーを襲われ宝生里佳子と高杉真央は縛られたままカメレオンに火を着けられて焼死といった報。それが本当なら残るは山猫とあと刑事の関本だけになってしまったチーム山猫だけれど、それでドラマになるはずもないからきっと巧いこと逃げ出して、カメレオンの観ていたパソコンに細工して偽のニュースを流して死んだと思わせているんだろうといった「怪盗山猫」第9話。

 スパイ養成学校で山猫といっしょに養成を受けて卒業を果たした3人のうちの1人は峰不二子、ではなく赤松杏里の姉だったらしいと分かったけれどももう1人はいったい誰なんだろう、気付いていないだけでもう出てきたんだっけ、ってあたりも気になるし、カメレオンに撃たれて死にかけている赤松杏里のその後もやっぱり気になるところ。っていうか銃を向けたら即ショット、頭でも吹き飛ばせば勝てたのに喋って反撃されて機会を失うのはこういうドラマの悪い癖でもあるし、ドラマだからこその展開でもある。第1回日本eゲームス選手権大会で観たシューティングゲームのプロたちは、瞬間を逃さず撃って倒していたものなあ。やっぱりああいう環境で育たないと人は撃てないものなのか。いや別にゲームで撃ってる訳じゃないけれど。

 死んだはずなのに妙な仮面を着けて生きている結城天命の正体あたりも気になるし、山猫退治に命をかける犬井克明の正義がどこまで貫かれるかも気にかかるけれどもやっぱり本命はさくらちゃんかなあ、眼鏡でポニーテールでパンツスーツ姿で格闘までして最高にクールなのに妙に可愛い女刑事に幸せになって欲しいけれど、勝村はカメレオンと分かって酷い奴でおそらくは死亡か逮捕、そして他に誰か恋する相手を持たせるフラグも立っていないさくらちゃんが幸せになれるとは思えない。犬井とくっつくなんてありえないし、関本ではさらに無理。苦みを噛みしめてこれからの人生を刑事にかけ続けることになるなんて、もったいない気もするけれどもまあ、そこは男なんてと諦めて、もっとはっちゃっけていってくれれば良いのかも。とりあえずスカートに。それでもってハイキックを。うん。

 舞台が幕末だってことでまず読んでみた内堀雄一さんの「暁のイーリス」(ノベルゼロ)は坂本龍馬がどうにもへたれで弱虫で決断力もなくて面倒くさい人間だけれどそんな彼が自分の信じる相手に憑いた何かの言に従って動いて大活躍するといった展開を、含みつつも幕末の途中で死ぬ坂本龍馬がずっと活躍し続けることはあたわないのを、龍馬に託宣を与えていた存在が残って勝海舟を動かし坂本龍馬を動かし江戸を火の海から救うという、そんな話。結局、それが守りたかったのは江戸なのか何なのか。結果として日本は守られたけれども神様には、そんな全体を見通す目はなくとりあえず、周辺を守ることからすべてが始まるんだといったところかどうなのか。ライトノベルというのは女性の影が乏しく時代物というと少しエンターテインメントの色が濃い、つまりはノベルゼロ的な作品ってことになるのかな。

 去年に続いて東京国際空港こと羽田空港の国際線ターミナルで繰り広げられるインターナショナルなアニソンとコスプレの祭典、「HANEDA INTERNATIONAL ANIME MUSIC FESTIVAL」を見に羽田へ。去年は展望デッキの手前にずらりとグッズを売るブースが出ていたけれども今年はみられず、江戸舞台へと続く通路に少しだけテクノロジーを見せるブースが並んでいただけだけれど、文字通りに檜舞台となる江戸舞台では、海外から来たアーティストが日本のアニソンを歌ったり現地の歌を唄ったりするイベントが真っ盛り。早速スペインから来たマンディー ビー ブルーさんが「魔法少女まどか☆マギカ」の主題歌「コネクト」を歌っている姿を見て、魔法少女に憧れコスチュームを欲しがった白血病の娘さんが出てくるスペインの映画「マジカル・ガール」のことを思い出した。

 あの映画の監督は「まどか☆マギカ」とか大好きで、ほかにも魔法少女物を見ているとか。それは他のアニメ好きにも言えることでそうやって伝わる日本文化の影響が、あるいは映画になり、そしてこうしてアーティストとなって現れ世界に広がっていく。なんかとっても面白い。そしてイタリア代表の2人組、イタリア人DJのShiruと日本人シンガーのErikoによるK−ble Jungleってのも見物。Erikoさんん歌がめちゃウマだったけれども調べると、声楽を学びにイタリアに渡って国立音楽院でオペラを学びうたっていた人らしく、そりゃあうまいはずだと納得する。そういう楽曲も披露してくれたけれども一方で、オリジナルの楽曲も歌って聞かせてくれて、これがっとっても良かったんでCD2枚を買ったらサインを入れてくれた。ありがとう。また日本で会えるかな。来年も来てくれるかな。来年もそもそもイベントはあるのかな。

 同じく日本に海外からオタクな人がやってくる「世界コスプレサミット」の場合はテレビ局がもともと主導で開かれて、名古屋という地域を巻き込んで一大イベントへと成長しつつある。東京での報道は少ないけれども外務省をコスプレイヤーさんが訪ねる映像は毎回、しっかりと報道されて「クールジャパン」な広がりのひとつとしてしっかり喧伝されている。あるいは利用されているとも言えるかも。それに近いことをやっていて、なおかつ羽田空港という東京にあって都心から交通のアクセスも良い場所で繰り広げられているこのイベントに、それほど来場者がある訳でもなく江戸舞台で歌っている海外から来たシンガーを応援しているのは、去年もいたようなそういうのが好きな応援隊とあと、好き者の僕と通りがかった人たちと、そしていっしよにイベントに来ているシンガーや関係者といったところ。ちょっともったいない。

 まあ、あんまり大勢が詰めかけて江戸舞台の前が人でいっぱいになっても困るし、ああいう場所で外国人が歌っているのが珍しいと思えて何か新しいことが始まっていると感じてもらえればいいのかもしれないし、外国から来た人たちが江戸舞台という場所で自分の歌を披露し、自分のアニソンや日本への愛を証明して見せて嬉しいと思ってもらえればそれはそれで良いのかもしれない。コスプレイヤーさんもわんさかつめかけあらゆる場所に出没されてもちょっと混乱を来すから、「ラブライブ!」一行が展望デッキに集まっていたり、なにかの機長風コスチュームで固めた女の子たちがキャリーバックを持って空港の一角でそれっぽい写真を撮っていたり、日本橋を模した橋で和風のコスプレの人たちが和風な雰囲気で写真と撮っていたりする光景を、ふうんと思いつつそういう時代なんだとだんだんと、認識していくのが良いのかも知れない。

 コスプレをする方だって普段はできない場所で堂々、コスプレできる楽しさを感じられるし。こぢんまりとしながら行った人には居心地の良い空間。そういうイベントだから去年も行ったし今年も行った。ただ、そういうどこか内輪で内向きな感じがあんまり漂うと、新しい人が入ってこなくなって敬遠されていつか萎んでしまう。節度を保ちつつ広げていき、そしてもうちょっとだけ大きなイベントへと発展していくために必要なことは何だろう。そんなことを考えてみたいもの。その答えが来年、出るといいけれどもやっぱりあるのかなあ、来年。シンガーではあと、オーストラリアからきていた金糸雀さんという人が東洋人っぽくて日本語もぺらぺらで巧くて可愛かった。「ラブライブ!」の矢澤にこの扮装で「ライブラブ!」のメドレーや「マクロスF」や「機動戦士ガンダム00」の楽曲を披露。外国人でも口ずさんでいる人とかいて、やっぱりアニソンは世界共通言語なんだと思った次第。ああ楽しかった。


【3月12日】 柳の下の泥鰌を狙い、雨後の筍的に現れた便乗講座をなくしたい、って意図ならそれでも気に入らないけど対応としてわからないこともない。お金だけむしり取って放り出す悪質講座なんて物に同じ名が使われていたらイメージ悪いから。でも、山形の地で長く営まれ、著名な作家も輩出してきた、そして地域に根ざして活動しているワークショップ「小説家(ライター)になろう」を相手にとって世間に認められる態度かというと、小説家になりたい人たちを応援しているボランティア的なサイトですよーってな感じで回っていた自分たちのイメージを、逆に損ないかねない所作だし、そこに集う作家さん評論家さんのしてきた仕事を思えば、出版界の先達として活躍して影響力だって小さくないそんな人たちに、敬意を払ってこそ後進たちも立つ瀬があるってものだろう。これでサイトのみならず出身作家まで疎まれたらどうするんだって気にもなる。

 だからこそ段取りとして、あるいは立ち上がってきた商業として、先達への経緯を払いつつそれでもやっぱり、その名称では混同してしまう人が出かねないということを説明し、今となってはご協力を賜りたいといった下手に出て了解を求めるようにした方が良かったのに、そういうそぶりを表に見せず、こうして上から目線のお取り潰し的振る舞いばかりが世に出て喧伝されたことによって、元より集めるだけ集めて並べるだけ並べて、うまく拾ってもらえたら良いんじゃなの的なプラットフォームとして存在してきたそのスタンスに、なおいっそういかがなものかって印象がさらに強まるかもしれない。

 もちろん池上冬樹さんとか出身作家とか、すごい講師陣さんとか、そんな手には出ないだろうけど先達への敬意、あるいはその内心を忖度して、あそこから出てきた作家は使わんとかって版元なり編集者が現れたら、どうなってしまうんだろうかと思わないでもない。一方であそこから出てきた作品が出版を結構、賑わしているのもまた実際で、良いものを送り届ける編集として、義理や感情だけでは判断しづらいという状況もまたあってと、いろいろ悩ましい事態。どういう炎上を辿りどういう風に落ち着くか。まあ見ていこう。それともこれ、後発の小説投稿サイトが先行者の評判を削ぐために今、そういう問題が起こっていることをリークしたって謀略なのか、ってそんな後発の小説投稿サイトがのっけから、主催企業の内幕暴露で話題をふりまきそこに主催企業のトップが突っ込んで対消滅しかかっているからどっちもどっちだけれど。すごいなあ、小説投稿サイト界。

 ワイディーネさんに猫なで声をかけられたいか、罵声を浴びせられたいかで性格も読めそうだけれど、どこか上っ面な猫なで声より本気に嘲っている怒声の方が実は心がこもっているかもしれない「ヘヴィーオブジェクト」の「名誉に値段はつけられない ヴィクトリア島緊急追撃隊」。その本性からするなら別にダイヤなんてもらわなくても仕事さえ片づけられれば良かったはずなんだけれど、あの場所にどうしているかっていった状況を形成するには資本企業の人間でありダイヤで動くと見なされた方が良いって判断があったのかどうなのか。いったい誰の趣味でああいう格好をしていたのかって疑問も浮かばないでモナイけれど、そこはそれ、テレビを見ている人の趣味に合わせたってことで。とりあえずメンバーはチャームもレミッシュも胸が大きくて見た目もよろしい感じ。また会いたいけどまた出たっけどうだっけ。

 勝負があったようで韓国のトップ級の囲碁棋士はコンピューターのアルファ碁に3連敗。その棋譜はまだ見ていないけれども前の2つと同様にたぶん、意味の分からない手を打たれてそれに研究がおいつかないまま知らず制され押されて負けたってことになるんだろう。この対コンピュータとの闘いについて朝鮮日報が興味深いことを書いていて、そひとつが泰然自若に打つ囲碁の強さと、定石から外れた手の意味。石仏と呼ばれた李昌鎬(イ・チャンホ)九段の指しっぷりが物を言わずただひたすらに勝つための手を打ち続けるアルファ碁に似ているといった紹介の仕方。どうして負けたか分からないうちに負けてしまうのも李九段の指し手と同様といったあたりに、あるいは次の勝負で勝つヒントってのも見えるのかもしれない。

 もうひとつ、「未完の対局」のモデルとなった不世出の大棋士、呉清源が三手目に碁盤の中心にある天元に石を置いて騒然とさせたことを上げ、人間ではなかなか把握しづらいため周辺から進めがちな囲碁で、アルファ碁は全体を見通しながら早く中原を抑えていく指し方をするといった解説から、呉清源に通じるところがあるといった分析をしている。人間相手に勝つための練習をすれば人間の思考の範囲に陥り周辺での勝負が中心となって中原の計算がおろそかになる。けれどもコンピュータはどちらも関係なく勝つための最善を選ぶから人間ではちょっと対応できないといったところか。

 まあでもこういう分析が進み、中原を先に制する戦い方が増えてくれば、コンピュータ相手でも盛り返せそうな気がしないでもない。それこそ呉清源を対局させれば、って思わないでもないけれども2014年に100歳で死去。そこまで存命だったというのも驚きだけれど、それが無理なら今後はそうした戦いに強い誰かを当てれば何か道が見えるかもしれないなあ。日本だと誰が適任なんだろう。もうひとつ、面白いのはこれで人間の棋士のプライドがどうとかいった話にならず、AIってすげえなって話になっていることで、ここで人間がAIから学び御して超えていくような動きが生まれ、AIもそんな人間を抑えるような方向に切磋琢磨していった果てに、何かとてつもないことが起こるかもしれないと思うとこの対局も無駄ではないかも。そう思うと将棋の超トップを温存している日本がなんか寂しい気も。お互いのためにここは激突、とはやっぱりいかないか、非公式でも。新聞社が担ぐトップ棋士のそれが限界。そして日本の限界。寂しい話。

 すでにしてじわじわと広がりは見せているけれど、こうやって「第1回 日本eスポーツ選手権大会」として開催されるとやっぱりeスポーツというカテゴリーが、日本に歴史として刻まれた貴重な瞬間ってことになるのかもしれないなんて思いながら、チームスマイル・豊洲PITって場所で見たその大会。浜村通信な浜さんが登壇をして挨拶をした後、始まった大会はステージ上に選手が並んでパソコンに向かいシューティングゲームとかをする姿を眺め、背後のモニターに映し出されるプレー画面で何が起こっているかを確認して、そのプレーぶりに喝采を贈るといった感じ。人間こそアクションはしないけれどもモニターの中で動くキャラクターたちの、そのプレーに感じ入り、喝采を贈るのはリアルなスポーツと同様。そうした思いが一般にも広がり、観戦して楽しいと思えるような気分が広がった暁に、eスポーツもスポーツと同様の文化であり社会の要素として認められることになるんだろう。これからが楽しみ。

 キース・エマーソン死去の報。やがて銃による自殺だったという話も伝わって、70歳を過ぎてなお現役として活躍し、来日公演も予定されていた世界屈指のキーボード奏者の心身に何が起こったんだろうかといった興味が及ぶ。ある程度の年齢になって起こる心理的な落ち込みも、この歳になれば関係ないだろうとは思いたいけれども加瀬邦彦さんも74歳での自死だったりしたし、何かふっと思い立って自分を殺めてしまうこともあるのかもしれない。古い人にはエマーソン・レイク・アンド・パーマーの人で「タルカス」の人だけれど、僕らの世代のオタクにはやっぱり映画「幻魔大戦」の音楽の人。起用を聞いて何でこんな人がと当時、驚いたけれどもその凄さはあのりんたろう監督が作り金田伊功さんが手掛けた圧巻の絵を、さらにとてつもないものへと持ち上げていたっけか。ファンファーレのように響くあの音楽を思い出しつつ、黙祷。


【3月11日】 いろいろと噂ばかりが先行して、電波的だのキワモノだのといったニュアンスで語られがちで、いったいそりゃあどういうものだと見た「KING OF PRISM from PrettyRhythm」が全然キワモノ的じゃなく、電波的でもなくって普通にアイドル映画的で音楽ドキュメンタリー映画的で面白かったし感動もした。プリズムショーの人気ユニット「Over The Rainbow」に感動した少年、一条シン。その感動を自転車に乗って表現しているところをエーデルローズを率いる氷室聖に認められ、引っ張られエーデルローゼに入って頑張ろうとしたものの、「Over The Rainbow」に難題が持ち上がる。

 さあどうなるってところで入ったばかりの一条シンが輝きを放って次への期待を誘うけれど、そこにシュワルツローゼの魔の手が……。実に王道にして感動の物語。神浜コウジがハリウッドに行くとなって抜けることが決まり、ファンを絶望の底へと鎮めて静まりけったリンクに一条シンがひとりで立って、歌い踊って観客の笑顔を取りもどそうと奮闘し、そこに「Over The Rainbow」の残った速水ヒロと仁科カヅキが重なって盛り上げる場面では、目頭がジンとして喉奥から熱いものががこみ上げてきた。周囲に人がいなければ嗚咽だってしたかもしれない。それくらいの感動的なシーンだった。

 そりゃあ演出に裸の男の子が乱舞したりハートマークが発射されたりしてラブ注入的にフワッとなるとことろもあるけれど、これがもしも実物のアイドルだったらどんな雰囲気になるかと想像すると、やっぱりアニメーションというのは大げさであっても、というか大げさだからこそ楽しめるから素晴らしい。もちろん最初からそうだった訳ではないけれど、カツ丼を食べたら人が巨大化して口から火を吐き叫ぶような「ミスター味っ子」の演出を見て、過剰さを笑いつつ受け入れ楽しむ術を僕達は手に入れ今に至るまで慣れ親しんで来ている。そこに慣れてない人だとウハッっててなるかもしれないけれど、アニメに見慣れて過剰さも演出と了解できる今の人には、むしろお約束的過剰さだとほくそえみ、普通に受け入れらそうな気がする。

 だからどうして話題になっているかが不思議だけれど、それらをあたりまえの過剰さと認識できない人が大げさとかキワモノとか電波とかいって騒いでいるのかもしれない。あるいは分かっていながらメディア的にはそう書いて、一般層にバズらせようとしているのかもしれないけれど、見ればそうした風評から離れて素直に感動できる良い映画。そして続きって奴が気になって来る。作られるかなあ。予想を上回る人気ぶりで、これなら次も行けるかもってそろばんを弾いているのかも。ちょっと期待しよう。あとやっぱり応援上映とやらを見てみないと、その真価は見えないんで頑張ってチケットを取り、周辺の目を気にすることなく行ってこよう。

 その応援上映。スクリーンで上映される映画と、観客とのインタラクションあるいは一体化という意味では、すでに前にマイケル・ジャクソンの最後のツアーへの意気込みを追いかけた音楽ドキュメンタリー映画「THIS IS IT」を観ながら、観客席で自由にダンスして良いし声援を贈っても良いって上映を見ていて、その面白さは体感しているので何となく雰囲気は分かる。以後、静かに観るのが映画だった状況が変わって、一緒に騒げる空間、そうせざるを得ない雰囲気が公然と与えられるようになって来たのはちょっと嬉しい限り。あのころはまだ珍しかったけど、今は映画館でのライブビューイングという形で応援があって当然な空気はできている。それが映画という時間に合わせて上映されるものであっても、ファンはその空間において一期一会のものとして、共に楽しめる雰囲気が生まれて来ているのかも。どんな体験ができるかなあ。今から楽しみ、って行くのかやっぱり。そりゃあ行くさ。

 知らないなあ、「わたパチ」も「うんチョコ」も駄菓子屋では食べたことがないけど風船入りのアイスは何か食べた感じ。でも周囲じゃ風船アイスかあるいはたまごアイスだったような気が。おっぱいアイスというには中のアイスが硬くっておっぱいって感じじゃないし、爆弾アイスというほどには爆発なんてしなかったから。っていうか爆発したら食べられないじゃん。そういう名称になるほど失敗した人がいたってことなのか。ちょっと気になる。「さくら大根」はやっぱり知らないなあ。っていか駄菓子屋に行ってわざわざ漬け物を買って囓るこどもがいるのか。紙カツみたいなさきいかみたいな夕飯のおかずなり、大人の味を先走りってものなら食べるのもアリだけれど漬け物は漬け物だし。でも存在しているからには需要があるんだろう。今度見つけたら食べてみよう。「うんチョコ」はしかし素晴らしいネーミング。子供は大好きだもん。ああいうの。

 盤面に戦術の軌跡を刻んでいくチェスや将棋の棋士がコンピューターに負けることがあっても、盤面に宇宙を創造していく囲碁の棋士がコンピュータに負ける何てことはないと思っていたら、韓国でもトップの棋士がグーグルの関連会社が作った「アルファ碁」っていうコンピュータに2連敗して大騒ぎ。それ以前に開発段階で相当に強い棋士がやっぱり負け越していたそうで、そんな対局の結果も織り交ぜての登場にはやっぱり韓国最強でもかなわなかったということか、それともコンピュータ相手で勝手が違ったということか。

 感想戦とか解説とか見るとコンピュータの打つ手がさっぱり分からないといった言葉が多々。それでどうして勝てるんだと、定石を知り尽くしたプロたちが言っているんだけれど、それで混乱して手順を間違えた訳でもなく、知らず追い込まれているというから分からない。人間には及ばない計算なり想像がコンピュータにはあったのか。解析することによって人間だってさらに強くなって今度はコンピュータだって負かすかも。だからまずはお手並み拝見。韓国のトップと日本のトップの井山裕太6冠とではどっちが強いのかな。そしてコンピュータと井山6冠とは。それはやっぱり実現しないだろうけれど、井山さんとは言わずそれなりな強豪が出て対局、してみて欲しいもの。ドワンゴが開発している囲碁ソフトってのもあるらしいし、いずれ将棋の電王戦とは別に囲碁でもムーブメントが起こるだろう。要注目。

 5年が経って周囲には痕跡はなく生活に変化もなく心理に負担もないまま暮らしている東京というか千葉県民。でもちょっとだけ電車に乗った先では住んでいた場所に戻れない人がまだ大勢いるし、それを解消するための作業もいつ果てるともなく続いている。さらに遠くでも元通りになることはなく、海岸線には巨大な防潮堤が立って人と海とを分断し、安全というなの牢獄に押し込めようともしている。それは必要なのか、暮らし方を工夫すればいらないものなのか。当事者ではないから何とも言えないけれど、ひとつが決まるとすべてがその方向へと流れ、融通がきかない状況がかつての原発は安全だという固定観念の下、すべてが進められ安全のための対策が盛られなかった状況を思い出させ、また同じ事が起こるんじゃないかと不安にさせる。人は学ぶ生き物なのに、学んでもそれが固定化され権益も生んで動かせなくなる。何とも脆い。だからこそ日々、忘れずに訴え続けなくては。3月11日。2011年を忘れない。


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