縮刷版2014年8月上旬号


【8月10日】 台風は足摺岬に上陸しそうだったのが方向を曲げて室戸岬方面へと向かったりして間際になっても変動が激しくどこにどんな被害が出るのか分からない状態。遠く千葉にはちょっと風が強いのと、雨が時々ざあざあと降るくらいでそんなに影響は感じられなかったけれど、進路に位置する人たちは結構やきもきとしたんじゃなかろうか、大阪あたり直撃かちょっとずれるか見えなかったもんなあ。そんな進路とは別に三重県あたりでは大雨が降って大変だったとか。森とかに被害が出ていなければ良いけれど。「神去なあなあ日常」だとそういう自然災害との戦いめいたことがなく、日々淡々と仕事をこなしているだけに見えたものなあ、本当はもっとキツい仕事なんだろうなあ。

 とか思いながらも家にいたって仕方がないので神保町まで出てタリーズで一仕事。していたら外に大雨が降ったりカラッと張れたりしてなかなかに忙しい。いつもなら割と人がいる店内にあんまり人も見かけず台風一過をまって皆家に引っ込んでいたのかもしれない。古書店街自体が日曜日って閉めてる店が多いし、夏休みに入っている店も出始めているし。そんな店舗をちょっとだけ回ったけれど柾悟郎さんの「ヴィーナス・シティ」って文庫も単行本もあんまり見かけない。ゲームとSFについて考えなくちゃいけないんで、やっぱりひとつの原点を抑えておきたかったけれど無理だった。家にはあるんだけれど出てこないのだ、掲載誌も含めて。

 そんな掲載号のSFマガジンも、3話が連載された1992年の7月号から9月号までを揃えて置いてあるところがない、いや真ん中の8月号だけなかったりして揃わないってだけだけど、途中が読めないのってストレス貯まるんで今回はパスしてネットで漁ることにする。しかしどーして再刊とかされないんだろう、っていうか柾悟郎さんって今いったい何をやっているんだろう。もとより少ない作品はどれもが絶版品切れみたいで店頭では買えず、かといって電子書籍になっている風もない。日本SF大賞とかとっていたってこんなものかと思うと哀しくなるけどそれ以上に「ソードアート・オンライン」よりはるかに早くゲーム空間での逢瀬を描いた作品が、埋もれてしまうのは勿体ない。どこか再刊しないかなあ。「BOOMTOWN」とともに必読の書、なんだけどなあ、って言い続けて10余年。じっと手を見る。皺が増えた。

 こっちは見事にハヤカワ文庫JAから復刊を果たした籐真千歳さんの「θ 11番ホームの妖精 鏡仕掛けの乙女たち」は前に電撃文庫から出た「θ 11番ホームの妖精」に入りきらなかったエピソードを加えた“完全版”。読んでもすっかり前のが記憶から落ちていたんでどれも新鮮に思えたんだけれど、やっぱり蘭の栽培をめぐって対立する令嬢どうしの戦いって奴が方や派手でこなた地味、けれども同じ花に対する情熱は同じでそれが違った方向へと伸びてしまって差が出てしまった切なさって奴が、くっきりと描かれていろいろ思わされた。自分だったらどっちに傾いたかなあ、何が何でもとなったかそれともやっぱり守るべきは守るとなったか。そういう立場に追い込まれたことがないから話からないけれど、だからこそ想像する楽しみをくれた。そんな物語。

 鏡状門(ミラーゲート)というテクノロジーとか第七世代コンピューターすら凌駕するようなハッキングの才能とか、未来の技術に関するビジョンも見せてくれる一方で日本が技術的に進歩しすぎた結果、起こるさまざまな軋轢とかそういう技術を狙った一種のテロとかいった政情に関するビジョンもあってテクニカルとポリティカルの両面から未来を探っていける。ハヤカワ文庫JAで先行している<スワロウテイル>のシリーズとも裏表の関係にあるらしいけれど、そいういうのを気にせずこれはこれとして読んでいけるのも最初に出た本ならではの利点。東京駅上空2200メートルに浮かぶ11番ホームでひとり、狼サイボーグの義経を傍らに駅員を続ける少女の日常とそして出会いから見えるさまざまなビジョンをまずは味わい、シリーズ化されていくだろう今後を見守りたい。よくぞ復刊したものだ。この勢いで松山剛さんの「怪獣工場ピギャース」も……ってそれは先の話かなあ、良い話なのになあ。

 シリーズといえば山口優さんって日本SF新人賞を「シンギュラリティ・コンクェスト 女神の誓約」で受賞した作家がなぜかハヤカワあたりではなく講談社BOXから出した新刊の「ディヴァイン・コンクェスト 小惑星帯のヒロイン」がどうやら「シンギュラリティ・コンクェスト」とか、前に講談社BOXから出た「アルヴ・レズル 機械仕掛けの妖精たち」と続編「アンノウン・アルヴ 禁断の妖精たち」あたりと世界観を同一にしたものらしい。って読み返せば分かるんだけれど相変わらず始末が悪くてどれも部屋のどこかにあるはずなんだけれど出てこない。書庫が欲しいけどもはや部屋は積み上げられた本でいっぱい。これだから書誌とか作って評論とかやれる身になれないんだろうなあ、ってそれは才能であってインフラのせいじゃないんだけど。困ったねえ。

 んで「ディヴァイン・コンクェスト 小惑星帯のヒロイン」は人工知能を支援につかって操作する乗り物なんかが登場している近未来の宇宙が舞台で、小惑星を資源として活用しようと採取に来ていた男が海賊に襲われる場面から開幕。その戦いに割ってはいった少女がいて、どうやらこれまでのシステムをちょい進めたような物を使ってとてつもない戦闘能力を持つに至っているらしい。そこには元のテクノロジーを開発した会社を辞めた男が絡んでいるらしいと分かり、元の会社から研究者がひとり宇宙へと送りこまれて状況を探るように言われるけれどその先で襲撃を受けてひとりの少女に助けられる。それがルフィア。彼女が駆使するシステムは人工知能の支援を受けつつ人間が統御してはいても限界の向こうに行ってしまって自我を失う危険があった。

 それは大変と送りこまれた研究者が提案した先に生まれたひとつの形。人工知能が人工精神へと進化した過程って奴を見せてくれる。その先に来る未来は、ってのがあるいは「シンギュラリティ・コンクェスト」に至るのかなどうなのかな。読み返したけど無理なんで今度本屋で探してみよう、新刊は無理でも古本なら……ないかなあ刊行部数少なそうだもんなあ。とりあえず読んだ感想はジェフリー爆発しろ。務めるベンチャー企業の美しい女社長から関心を抱かれ、一方で宇宙で救われた少女からも袖を引っぱられて両手に華のその身分。羨ましいというより他にないけどそういうのに朴念仁なのがまた腹が立つ。ジェフリーもげろ。でも天才ってんは得てしてそういうものなんだろうなあ。それを動かし伸ばすのが秀才。サイラムはだから秀才だったってことで、そういう関係を見るのも面白い。しかしどうしてもっと評判にならないんだろう、このシリーズ。ハヤカワ印じゃないからかなあ。


【8月9日】 ハックの日。って誰だよハックって。「キャプテンウルトラ」のロボットか。ポンニョモニョンとか言ってたっけ。ちょっと覚えてない。そんな8月も中盤にさしかかった1日をやおい話でも聞きに行こうとアーツ千代田3331で開かれた3331熱中教室の金田淳子先生の講義に向かう。途中でTシャツ屋に世ってMARS16から出ていた新作っぽいのを仕入れたけれども着る機会なんてあるのかな、来週あたり人前に出るんで着ていこう、どんな柄かはその時に。別に水着でも萌えキャラでもないけれど。

 そんな秋葉原ではベルサールでNHKがイベントやってて地下の展示をのぞいたら秋から始まる新番組で宮崎吾朗さんが監督を務める「山賊の娘ローニャ」の映像なんかが流れてた。映画館でも米林宏昌監督の「思い出のマーニー」の予告編前に流れてたりしてなんだ宮崎吾朗監督、いったんジブリを離れたといってもそこでは連携して宣伝するのかとちょい、思ったりもしたけれど吾朗監督の作品が「ゲド戦記」も「コクリコ坂から」も好きな人間にとってはどこで作ろうと関心を持たれて欲しい作品なだけに、露出が増えるのは結構な話。BSプレミアなんで観られないけど果たして受けるか「未来少年コナン」みたいに。それは無理か毛色も違うし。

 しかし頑張って作ってるなといった感じの「山賊の娘ローニャ」。ちょうど昨晩にNHKが米林宏昌監督と宮崎吾朗監督の2人を取りあげそれぞれが作品を作っていくプロセスってのを見せてくれていたけれど、吾朗監督は1人で絵コンテを26話分だか描いていたみたいでそれが結構巧かった。アニメーションの監督だからといって絵が描けなきゃいけないって訳じゃなく、制作進行とか演出から来た人なんかの場合だと要点を描いてあとは作画と演出に任せるってことをする。ましてや吾朗監督は造園を学んで建築に行きジブリ美術館を作ったりしたアニメにも絵描きにも全くの素人。それなのに背景もキャラクターもしっかりとした絵コンテを描く。表情までちゃんとついた。

 「ゲド戦記」の頃にすでにちゃんとした絵を描いていたりしたのは知っていたけど、1枚絵ならまだしもある程度、感情とか動作なんかを含んで示す絵コンテを描けてしまえているのにはただただ驚くばかり。ずっとアニメーターとして宮崎駿監督から直接始動を受けてきた米林宏昌さんと違って、そうした経験が一切ないにも関わらず、出来てしまえるのはそれだけ小さい頃からしっかりと父親の作った作品を観て観て観込んでそして、どんなシーンでどんな動きがありどんな表情を見せるかを、脳内にしっかりと刻んでいたりするからななろうなあ、それがだから自分で作りたいってなった時に涌いてでる。でも脳内の絵が腕を通って形になる時に普通は歪むのにこの人はそのまま出る。才能って奴なんだろうなあ。

 もしも本当に若い頃からアニメの世界で活動していたらどんな監督になったのか。興味もあるけどでも、遠回りしたからこその途切れない熱情って奴が今、出ているのかもしれない。だから今、何を作るかの方に興味を向けるべきなんだろう、そんな「山賊のローニャ」ではCGで背景を作るスタッフが平らにして欲しいと願っても、山の上にある家の周辺が平らなはずがないと言って却下しそこで頑張ることが観て良い作品になるんだという信念で制作に臨んでいた。表情もどういうシーンでどういう情動を見せるかを解いて上がって来たものをなおしてもらい、そして受けた方もそれならと頑張って作った結果を認めて次に進んでいこうとしている。

 フル3DCGですべてを作る難しさに挑みつつ、業界に長く慣れ親しんでいないが故に限界を限界と認めず、常識を常識にしないで欲しいものを求めるスタンスは、スピードの部分でネックとなりかねないけどそれでもそこを乗り越えなければ次に進めないことを、感覚として知っているんだろう。よくやったね、ではもういけないんだ、「アナと雪の女王」なんて化け物を誰もが観てしまった今、水準はあそこにあってあれ以上かせめて同等のものを作らなければフル3DCGでアニメーションを作る意味はない。そんな決意で臨んで作っている「山賊の娘ローニャ」は果たしてどんな驚きと昂奮と感動をもたらしてくれるのか。期待して待とう。観られないけど。

 「らんぷ亭」がいつの間にやら看板を付け替えていたカツ丼のお店でカツ丼をかき込んでからアーツ千代田3331へと向かってひっそりと聴きこっそりと帰ってきた金田淳子先生による3331熱中教室やおい道場。そのプロフィルにおける学歴の素晴らしさと現状とのこれはギャップというべきか、それとも信念に生きればそこにギャップなどなくすべてが今に向かって突き進んでいるだけと見るべきなのか、分からなかったけれども傍目にはやっぱり「モッタイナイ」と口に出る人の数が勝るのか。まあでもだからこそこうして講義も聴ける訳だしなあ。いや現役官僚で課長補佐なのにやおいを語る方がインパクトもあるんだけれど。官僚は目指してなかったか。博士になって教授になっても妙な人が多いからむしろ野に咲け美人草、自由に話せる立場にあって本領が発揮されていると見るべきなのかも。うん。

 さて講義はといえばやおいなりBLなり腐女子といったものの歴史なり概念についてはほぼ見知っていたことであってそれはある程度年齢がいったオタクなサブカルには基礎教養であって驚きはしなかったけれど、2000年代以降にはいって急激にマーケットを拡大しそして受容され需要もされて男子の間にも認知が広まっていった経緯についてはもうちょっと、詳しく知りたくなったかも。ネットの影響ってのもあるんだろうけれど、それでもやっぱりテレビで「世界一初恋」みたいなそれっぽさ全開のアニメが放映される状況ってのに至るとは、1990年代にはちょっと予想が出来なかった。どこがブレイクポイントだったのか。「機動戦士ガンダムSEED」あたりはどういう位置づけなのか。振り返ろうそのうちに。

 そんな教養とは別に、泣いた赤鬼の独自バーションを出してその続きをBL的に書かせる演習でもって即座に主題を咀嚼し、関係性を見いだして設定なり、物語にして書いて出せる人の多さと早さに驚いた。ほとんど自動書記的な速度。それは日々カップリングを模索し物語を妄想しつけてきた鍛錬が主題を捉える眼を肥やさせ、物語を編み出す筆力を鍛えさせたのか、それもと数をこなして見続けた結果、科学的公式的解釈へと至ってそれに倣い順列組み合わせを作り上げてまとめあげてみせたものなのか、心底に内在するカップリングを作りたい物語を生み出したいという熱情がほとばしっての成果なのか、ちょっと掴みきれなかった。

 これがから積み重ねられた歴史ってものなんだろうけれど、やっぱり気になったそこに物語時代への愛はあるのか、原点への経緯はあるのか、ってあたり。素材として扱っているんだとしたら少し哀しいところがあるけれど、愛なくしてはやっぱり紡げないそのBL的な二次創作。あくまで演習ってことで即座にまとめあげたものだとして、日常はやっぱり自分が感心を抱いた対象をのみ妄想し創作しているんだと思いたい。ちなみに課題は出しそびれた。だって字、汚いんだもん。なのでとりあえずここで書こう、身を引いて去ったように見えた青鬼は村一番の美形と評判で赤鬼によって仲良くなりたいと思われていた村田によって村はずれで捕らえられ、地下室に監禁されて村田から陵辱されているというそんな構造。いなくなって当然と思われるシチュエーションを赤鬼と青鬼の友情を利用して作り出し、司直の手も伸びないようにして自分のものにしたという、そんな謀略を思いついたり。面白いかは知らない。

 なるほど朝鮮日報が書いたのを引き写してるだけって擁護もあるけど、でも「コラムでも、ウワサが朴大統領をめぐる男女関係に関することだと、はっきりと書かれてはいない。コラムの記者はただ、『そんな感じで(低俗なものとして)扱われてきたウワサが、私的な席でも単なる雑談ではない“ニュース格”で扱われているのである』と明かしている。おそらく、“大統領とオトコ”の話は、韓国社会のすみの方で、あちらこちらで持ちきりとなっていただろう」とあるように、元の報道では直裁を避けた物言いだったものに、自分でご丁寧に直接的な解釈をつけてしまったんだから、そりゃあやっぱり拙いだろう、韓国の大統領を侮辱したって新聞社の支局長が裁判所から呼び出されたって話。

 もちろん言論に司直が手をかけるのは感心できることじゃなく、全メディアがこぞって異論をとなえていくべきだろうけど一方で自省自重の範囲って奴を考え直さないと下品がきわまって丸裸が闊歩する事態になりかねないからなあ。とはいえ下品はまあ今に始まったことじゃないく、ここんところ、極まりまくっているのが悩ましいところで、新聞本体には出さないのに、ネット向けのサイトではこれも含めて嫌韓反中コラムが花盛り。新聞にはちょっと下品過ぎて書けないなあ、ってことを発散するかのように、いろいろな人が反韓嫌中ネタでコラムをぶっとばしていて、それがアクセス稼いじゃったりしていて、もっとやれもっとやれって雰囲気になっている。数字こそが正義みたいな空気になって、踏ん張りが効かなくなっているという、そんなシチュエーションにこの一件が釘を差すことになるのかそれとも、いいぞやれやれと暴走に拍車をかけるのか。その分水嶺にあるってことかなあ。どっちに転ぶか。


【8月8日】 そうか30年か。知ったのはその月の後半に発売された「漫画ブリッコ」誌上だからもうちょっとだけ、後のことになるんだけれどもご本人が世を去られて今年の8月8日がちょうど30年。当時まだ19歳だった自分が50歳の少し手前に来てしまうくらいに流れた年月は分厚く、そして大きいけれども思い出は変わらず今も残っているし、見渡して活躍しているクリエーターの30年前を思い浮かべつつ、その列にその名前が存在しないことへの悔しさと哀しさも募ったりする。かがみあきらさん。

 その作風なり、死去の様子は「鏡の国のリトル」と「サマースキャンダル」の感想文にも書いたから繰り返さないけれど、後に富野由悠季さんが追悼の手記を寄せるぐらいにその才を買い、惜しんでいたことも合わせ考えるなら今、存命ならば誰でもないかがみあきらさんが、何かクリエイティブのトップランナーとして輝き君臨していたに違いない。決して夢物語ではなく。

 それが漫画家だったのかキャラクターデザイナーだったのかメカデザイナーだったのかは分からないし、もしかしたらそのすべてを1人で手掛けるくらいに凄い才能を発揮していたかもしれない。富野さんが例えに出している永野護さんがちょうどそんなマルチクリエーターで、今なお「ファイブスター物語」のシリーズを描き続けてクリエイティブのトップランナーを走り続けている、っていうかひとりジャンルとしての「永野護」という世界を突っ走り続けているといった感じだけれど。

 かがみあきらさんの場合はどうだっただろうか、当時の萌えとロリが萌芽し始めた時代のキャラクターデザインにおいて、スレンダーで少女漫画なキャラクターデザインが受けたかというとううん、ちょっと違ったかもしれない。それは漫画という世界、イラストという世界で受け入れられただろう。じゃあ漫画としてどんな世界を生み出せたのかというと、長編といったものが少ししか見あたらない世界で後に「鉄腕バーディー」を送り出し、「究極超人あ〜る」で世間に広く認められ、そして「機動警察パトレイバー」で認知されるに至ったゆうきまさみさんのような作品を継続的に生み出せたかどうかもちょっと分からない。

 短編のラブストーリーに見せた冴えが、長編で生かされるとは限らないのが漫画の世界。あるいはだからシナリオの世界に身を転じて淡い恋の物語を生み出していたかもしれない。時代をひとまたぎして吉田秋生さんのような日常にとけ込んだ人間関係や恋物語を描いていたかもしれない。メカデザイン。これがやっぱり大きな仕事になっていたかもしれない。当時から有機的で可愛らしいメカを描いていたかがみあきらさんの才能は、日常にメカが寄り添うような世界観の物語を世に送り出していたかもしれない。戦うロボットではなしに。

 すべては想像の中でしかなく、そして永遠にかなうことはない夢だけれどもそれだけのビジョンを見せるだけの才能があったからこそ、今なおこうして少なくない人たちが8月8日の到来を思い、30年という過ぎ去った月日に心を傾けながらその不在を残念がっているんだろう。デビューして数年で残した本も数冊。なのにずっと思われ続ける漫画家、ほかにはそうはいないから。みず谷なおきさんくらいかな。そうか2人とも名古屋の人。その才能が揃って発揮されていたら名古屋は希なるSFとメカとラブコメのルーツになっていかもしれないなあ。

 いずれにしてもすべては過去に置き忘れられた幻影であり、かなうことのない夢物語。だからこそ想像の中でずっと変わらないその可愛くもスタイリッシュなキャラを、メカを愛でつつ40年50年と過ぎていく時に身を委ねよう。僕たちはかがみあきらさんとともに生きていく。そんな気持ちを心に抱き続けて。そして8月8日ではもうひとり、忘れられない人が逝った。将棋の村山聖九段は1998年だから今年が十七回忌となる命日をこの日に迎えることになった。やっぱり結構な年月。とはいえ見渡して羽生善治九段を筆頭に森内俊之竜王がいて佐藤康光九段がいてと同じ世代に棋士となって活躍していた名前が今なおトップランナーにあったりするところを見るにつけ、存命だったらそんな間に割って入ってタイトルの幾つかを獲得し、羽生名人の獲得期数の幾つかを減らしていたに違いない。

 もっとも存命ではなかったからこそ、その先に未来がないことを感じていたからこそ懸命に指して得た勝利だったという見方もできないことはないだけに、存命だったらという想像もやっぱりちょっとしづらい。そもそも棋士になっていたか。なっていただろうなあ、それが運命だというなら。そして勝ち抜いて逝って伝説となった。その生き様を受け継ぎ思いを受け継ぎ棋譜を受け継いだ者たちが今の前線にいて戦っている。それを見てどう思ってくれるだろう。満足か。加わりたかったか。分からないけれどでも、そういう棋士がいたという事実は変わらず残り続ける。だから安心して見守っていて欲しいと今年も思う。たぶんずっと思い続ける。

 そもそもが「ドラえもん」と「どらえもん」と書いてしまっている時点で人として信用ならないって気づくものだし、冒頭から宮崎駿監督は別にして高畑勲監督はまったく引退なんて口にしていないもに関わらず、2人そろって引退だなんて話をしている時点でもうポン酢な記事だと分かりそうなものなのに、世間の人は話題のスタジオジブリがどうやらアニメーション制作部門を縮小する方向で動いているって情報を耳に挟んで、その理由付けがあれやこれやと綴られているってだけでこれは信憑性の高い有効な記事だと褒めそやす。

 そんなとろに、ネットというものの自分でいろいろ情報を調べた上で何かひとつの結論を導き出そうとする謙虚さを失わせ、耳に聞こえがよくどことなく落ちがついているならそれが正解だと感じさせて以後の調査をスポイルしてしまう働きが、よく現れているなあと思ったスタジオジブリに関するとばし記事。細かい数字の誤解もてんこ盛りなんだけれどでも、それが良記事だって誉めるビジネスな大人もいるから始末に負えない。でも一般の人にとっては訳の分からないアニメーション業界について、もっともらしく書かれているとそういうものなんだろうなあと思われても仕方がないんだろうなあ。これまで誰も説明してこなかったし、説明する必要がある訳でもないし。けどこうやって社会性を帯びてくるとあっぱりちゃんと説明しないといけないんじゃないかなあ、業界のリーダーとして、スタジオジブリは。やらないだろうけど。

 銀座のスパンアートギャラリーで今日から始まった展覧会「開田裕治のお蔵だし展」をのぞいたらなるほどお蔵だしなだけあって、“普段”の怪獣絵師でありウルトラ絵師な開田さんとはまるで毛色の違った、メカあり獣ありのイラスト作品が並んでて珍しくて面白かった。1970年代から80年代の小松左京さんとか平井和正さんの文庫の表紙絵とか描いている頃の生頼範義さんみたいなメカがあって哲学的な奮起を持ったSFアートもあってちょっと懐かしく、そして開田さんの作品として新鮮に見えた。ここに花田紀凱さんを連れてきても怪獣の凄い人だとは分かってもらえないかもしれないけれど、怪獣やウルトラだけじゃなくSFとしてもミリタリーとしてもファンタジーとしても凄い絵師がいるってことあ分かってもらえるんじゃないかなあ。17日まで開催中。


【8月7日】 仁木英之さんの小説で奄美大島を舞台に少年少女がスキージャンプに挑むなんて驚天動地の設定から哀しくも切ない物語が浮かんで涙が出てきた「水平線のぼくら 天使のジャンパー」を読んだこともあって、同じ奄美大島が舞台になっているってことで興味を持った河瀬直美監督の「2つ目の窓」って映画を見たら、これもやっぱり泣けてきた。奄美大島って人に限らず死が生と隣り合わせというか混じり合っているというか、そんなに大きく分断されていないんだなあと、仁木さんの小説と河瀬さんの映画を見て思った。それが風土によるものなのか、信仰によるものなのか分からないけれど、時に美して時に厳しい自然に囲まれながら、血縁地縁で結びついた人たちがずっと暮らしている場所ではそんな、生も死も老いも若きも同じ存在として認め受け入れ、育まれ朽ちていく感覚が醸成されるのかもしれない。

 そんな映画は、冒頭からヤギを吊して首を切り血を抜いて殺すシーンが出てきてちょっとギョッとしたけど、それから少女が制服姿で海の中を泳いでいたりして、そして淡々と奄美大島に暮らすおもに2つの家族についてのエピソードが、淡々とした描写によって描き重ねられてい。家族の1つは奄美大島生まれっぽい少女の家で、島に土着の信仰でもって神様やってる母親が、けれども病気でまもなく死ぬかもしれない状況にあって少女はそれを受け入れがたく思っているけど、でも周囲の大人は父親も母親の神様仲間も老人たちも、人はいずれ死に形はなくなるけれど気持ちは残るといった達観、あるいは諦観を持って生きている。少女には受け入れがたいけれどもでもやがて来るその時に、ひとつの覚悟を否応なく覚える。

 少年の方は母親と2人暮らしで、父親は離婚して東京にいて入れ墨の多分絵師かなにかをやっている。どうして離婚したかを上京した少年が聞いて、離れていた方が愛情が強く感じられるんだとかいった答えを得たりもするけれど、それに少年が納得したかどうかは不明。そして少年は、母親が奄美大島でいろいろな男たちと語り合っている姿にいらだっている。どうしていらだっているのか。自分が蔑ろにされている訳じゃないし、父親から見捨てられた訳じゃない。そんなに不幸でもないのにいらだっているのは多分、母親への感情がずっと子供のままなんだろう。そこが少女とはちょっと違う感じで、見ていて対比ってものを覚えた。女の子の方が成長が早いっていうか、男っていつまで経ってもガキっていうか。

 そんな差異なんかも感じつつ、島での2人とその家族たちの日常を観ていると、東京とか都会であくせくして生きているのが、何かつまらないものに思えてくる。もっとゆったりと過ごす時間が欲しい。それもゆったりとできる場所で。映画自体がゆったりと流れる時間を描いているだけになおのこと、そんな時間を過ごしてみたくなるけれど、現実に奄美大島で暮らすとなると大変なんだろうなあ、近所づきあいも台風も、そもそも働く場所があるかってところも。でも行ってみたい場所。そして感じてみたい、その空気を。実は河瀬作品ってこれが観るの初めてなんだけれど、「2つ目の窓」って水準としてどんなくらいなんだろう。全体としてドキュメンタリーっぽく撮っているのに、俳優が絡む場所だけ映画っぽくなる。そこの混ぜ合わせがあんまり巧みじゃない感じだけれど、それでも個人的には面白かった。他のも観ているかなあ。何から観るのが良いんだろう。

 先週あたりは「思い出のマーニー」の米林宏昌監督による美少女イラストコンテストが開かれていた池袋西武は、明日から「攻殻機動隊大原画展」ってのが始まるみたいでその内覧会があったんで見物に行く。特に記者発表会もなく始まった会場をつらつらと見ていただけだけれど、その冒頭に懐かしの「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の原画とそれからセル画なんかが並んでいて、懐かしさで目が涙で滲む。ここからニッポンのクールジャパンが始まったのだあ、って言うのも何か気恥ずかしいけど、でもこのビデオが全米でチャートの1位になった辺りで、ニッポンのアニメも世界で戦えるじゃんって意気込みが確信に変わった。

 その後に進出も相次ぎ、そりゃあ失敗も重ねたけれども成功したのも幾つかあるし、日本への注目が高まりそれがライトノベルの翻訳から映画化という「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のような例も出た。「AKIRA」の先例もあったけれどもやっぱり発端の大きな部分は「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」にある。その原画やセル画ってのがこれまで展示されたかっていうと実は記憶にない。プロダクションI.G自体も隠すつもりはなくても世に示す考えもなくどこかに埋もれていた模様。それが漫画版も含めて25周年という記念の年を迎えていろいろ探していたら出てきたってことで今回の展示と相成った。

 ある意味目玉にして中心、だけれど今の人はやっぱり「Stand Alone Complex」を尊ぶんだろうなあ、見られているから、テレビでいっぱい。でも良いんだ、僕はやっぱりこの初代が大好きだ。試写会を恵比寿ガーデンホールで見たし村上隆さんがプロデュースすつ形になった凱旋上映の試写もほとんど1人で五反田のイマジカで見た。決して盛り上がっていた訳じゃないけれど、でもじわじわとファンを獲得してそれが今の「ARISE」シリーズに繋がって、そして日本のアニメの世界進出も招いていると思うと感慨深い。しばらく通って目に焼き付けよう、多脚砲台の上で素子がゴリラみたいに筋肉を突っ張らせつつ、引き裂かれていく名場面の原画を。これって担当、沖浦啓之さんだったっけ。作画ファンならすぐ分かるんだろうけれど。

 物量ではやっぱりシリーズとして長かった「SAC」関連が割とあるようで、あとは最新作の「ARISE」があれは第1話だろうか、陸軍の忍者みたいな奴と戦っている場面の原画とかあった。やっぱり紙に鉛筆で描いているんだなあ、でも両方ともセル画はなかった、って当たり前か、いや「SAC」の頃ってセル画ってまだ使っていたんだっけ……ちょっと覚えてない。そう思うと初代「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」のセル画ってアニメーション史の上でも貴重なものなのかも。IGにとって変わり目はどこだったんだろう、北久保弘之監督の「BLOOD THE LAST VAMPIRE」と沖浦啓之監督の「人狼 JIN−ROH」あたりが境目になっていたんだっけ。いつか東京都現代美術館で「プロダクションI.G.展」をやって欲しいなあ、でないと世間はやっぱりアニメはジブリしかないとずっと思い込んだままになってしまうから。

 池袋まで来たってことで、試写も含めると6度目で劇場だけなら5度目となる劇場版「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です」をシネマサンシャイン池袋で鑑賞。もらったフィルムは多分アヒルさんチームが周辺を走るカルロベローチェを狙って撃とうつぃている所、かな? つまりは戦車。キャラのが欲しい。まだシネマサンシャイン池袋では上映があるみたいなんでまた行こう、フィルムも余ってるみたいだし。でもって今さらながらアンチョビ姐さんって案外に背が高いんだなあってこと。ああいった髪型の女の子って印象としてちびっ子に描かれることが多いんだけれどドゥーチェはあんこうチームの西住みほと向かい合うとちょっぴり高い感じ。あと生徒会の眼鏡よりも。だから結構長身なのかもしrないけれど、そう感じさせないのはやっぱり髪型が影響しているからなのかなあ。身長並べたキャラ表とかあったら見てみたい。あったっけ。

 衰えたというか衰えたから退いたというか石井英夫さん、月刊誌でもって紙面におバカタレントが出ていてそれが集団的自衛権について喋らされているのを見て朝日新聞を取るのを止めたって書いていたらしいけど、そもそもおバカタレントって誰ってことで朝日の連載を見てもそんな人いない。いったい誰なんだと雑誌を見たら蛭子能収さんだった、漫画家の。なるほどよたよたとした姿をテレビでは見せているけれど、決しておバカタレントではないし、漫画化としてはとてつもなく凄みのある作品を描いている。そんな経歴も、そして言っている内容についても言及しないで、テレビでの印象だけを拠り所に批判するのって、文筆家としてどうかと思うし、そういう態度を褒めそやす古巣のコラムもまた面倒くさい。

 古巣の方はそんな石井さんの態度を受けつつ、朝日のインタビューで原発とか集団的自衛権についていろいろ喋っていた吉永小百合さんをあげつらって朝日の主張べったりの意見と言ってみたりして鬱陶しいという。でも吉永さんだって言いなりになって喋っている訳じゃなく、むしろ朝日が吉永さんべったりな訳で、そうとは見ないコラムの書き手はつまり吉永さんを侮っていると言っていい。そうまで貶してくる媒体をこれから吉永さん、どんな顔で応対するんだろうか、とってもクレバーな人だからそれはそれと登場はするんだろうなあ、内心でやれやれとか思いながら。いずれにしても元職も現職も、筆に滲む知性というか筆を執ることへのおののきというか、そういうものが薄れ自意識を発散させて狭い範囲での称賛を浴びて悦に入る態度が目立ってきた。それがもたらす収縮が怖いんだけれど、もう言っても遅いか。すでに始まっているから。すべてが。終わりに向けた。


【8月6日】 月曜日に発表になった日本生産性本部による「レジャー白書」の発表を聞いて日本のレジャーは総額では11年ぶりにプラスになって、円安で海外旅行が落ち込んでいるけど国内旅行は万々歳で、それから音楽CDは下がっているけど音楽ライブが盛り上がってて中高年がおしかけグッズを山ほど買ってるって話を聞いてうん、これで日本のレジャーも安心だと思い込もうとしたけれど、一方でかつて日本の娯楽を支えたパチンコが、参加人口で1000万人を切ったなんて話も出て結構驚いたというかどうなっちゃうんだろうと心配したというか。

 レジャー白書によるとパチンコの参加人口は970万人で前の年から140万人の減少。2011年こそ東日本大震災の影響で410万人が減って1260万人になったけれど、これは一時的かと思ったら翌年も150万人減ったりして反動増はなく低落傾向に歯止めはかからなかった。そしていよいよもっての1000万台割れ。比べるジャンルが違うけれどもユニバーサル・スタジオ・ジャパンが来園者数1000万人を突破し、東京ディズニーリゾートが3000万人とか言ってたりする一方で娯楽の王様はもはやその座にあらずって印象が強くなる。

 これで困るのは街のパチンコ屋さんでありそこから秘密の絡繰りでもって儲けている誰かさんだってネタ混じりの話も乱れ飛びかねない状況だけれど、もっとリアルに感じてしまうのはアニメーション界隈への影響。だって結構お金が回ってきたじゃん、パチンコやパチスロのメーカーから。過去の資産を発掘するのみならず、今はあらかじめパチンコなりパチスロという機械になることを見込んでプロジェクトが組み立てられていたりする場合もあって、そこでひとつのポジションを締めていたパチンコ・パチスロ機のメーカーが、業績不振から引いてしまうと座が組めなくなってしまう可能性もあったりする。

 なおのこと売れるコンテンツを見込んで引っ張りだこになるという考え方もないでもないけれど、いずれ先細りになってしまったら結果は早いか遅いかだけで同じになってしまう。次にどこにお金を求めようったってそれもない。カジノ合法化に伴うカジノマシーンといったところで、ゴージャスなカジノで蝶ネクタイした真摯がエヴァンゲリオンのパチンコや北斗の拳のパチスロを打ってる姿は想像できない。AKB48ならあったりして、ほらクール・ジャパン戦略にどっぷりと絡んでいる人だから、そのご威光でもって日本人らしいカジノだなんて話になっていったりする可能性もなきにしもあらずだし。冗談でなく。冗談であって欲しいけど。

 レジャー白書によればパチンコ・パチスロ市場の金額ベースは18兆8180億円で、前年比1・3%減と参加人口ほどの減少率ではないけどやっぱり減っている。このまま減り続けるのかそれとも合法化の話が浮かんでいたりするカジノにすり替わるのか。そこもよく見えないんだよなあ。カジノってむしろリゾート向いてる感じだし。日本生産性本部の人もそのあたり掴みかねているのか、国に配慮し曖昧にしたか分からないけど見えないって話してた。滞在型リゾートの施設としてカジノが繰るならそれは、富裕層資産家海外からの観光客向けレジャーで庶民の娯楽じゃないから。カジノ合法化でパチンコも換金が天下御免になるか分からないし、なったところで今とどれほど変わるものでもない。やっぱり限界か、起死回生の策があるのか。アニメ好きとして見逃せないその動勢。来年は900万切るのかなあ。

 いよいよDVDも発売になったみたいでちょっと嬉しい「ジェリー・フィッシュ」でファンになった花井瑠美さんが、大活躍大奮闘している金子修介監督の「少女は異世界で戦った」を見たら少女たちがスカート姿で蹴ったり投げたり斬ったりシャイニングウィザードしたりしていた。迫力だった。いやそういう見方も可能だけれど、根底には今いる場所への懐疑なんかもあって胸に染みた。本当の居場所ってどこ? ってそう自分に問いかけたくなる映画だった。今は戦隊物のパロディとかいっぱいあるけれど、この作品はパロディというより核が満ち銃器に溢れ戦いが止まず無能が仕切る現代へのサタイアであって、そこで戦わざるを得ない身に追い込まれた少女たちが、居場所を求め苦悩しつつそれでも己の居場所はここと悟り精一杯に足掻く純真の物語だった。だから心に響いた、とっても。

 メディア的には、CMで瓦を頭突き割りしている女優にして空手家の武田梨奈さんをトップに紹介していく感じが予想されるけれど、観た感じ花井瑠美さん推しの武田さんも入れたWヒロインといった雰囲気。そこに清野菜名さん加弥乃も入れた4人がアイドルグループを結成しつつ実態は異世界から核のない世界に核を持ち込もうとしている宗教団体の陰謀と戦うというストーリーで、戦闘員を相手にして果てしなく続く戦いの中で、決して手を抜かず刀を振るい拳を尽きだし脚を挙げておろして格闘し続ける姿に惹かれる。ちょっぴり男たちの演技っぷりが気にかかるけれど、それもまあご愛敬。むしろ美少女たちの戦う真剣さを、際だたせるものとして作用していると思えば良いんだろう。黒いスカートで黒い見せパンでは見えない悩みはさておいて、迫力たっぷりの戦闘シーを美しい少女たちの戦いぶりを見たい映画。劇場公開されたらまた行こう。

 写真集を何冊も買い込むくらいにファンな安達祐実さんの、それこそ「家なき子」以来となる主演作という「花宵道中」って映画の試写が回ってたんで見に行ったら凄かった。安達祐実さんのおっぱいが。っていう感じの男性向けの煽りも存分に可能で、スポーツ新聞を中心にそうした方面の喧伝もされ始めているようだけれど、でも、中身は新潮社がやってる「女による女のためのR−18文学賞」を受賞した宮木あや子さんの同名の小説が原作だけあって、女性が置かれた立場、それゆえに漂う諦観、けれどもあふれ出る激情から、やがて至る終焉といった展開に、女性が観ていろいろと感じ入る要素に溢れた作品だった。つまりは女性が見るべき映画になっていた。

 見ればきっと思うだろう。自分は幸せなんだろうか。自分にとっての幸せって何なんだろうか。自分は幸せになりたいんだろうか。そして自分は幸せになろうとしているんだろうか。人それぞれに立場があって心情も異なるだろうけど、それでも共通するような思いをすくい上げ、それをしっかりと描いてみせようとした、そんな映画だった。吉原が火災によって焼失し、しばらく外に出ることになった女郎屋で、トップを張りつつあと1年で年季の明ける安達祐実演じる朝霧という名の1人の女郎。大門の外にいるのを幸いと、同じ女郎仲間と縁日を見に行って、そこで運命的な出会いをする。決して男に惚れず真剣にならず、それ故に石灯籠とまで呼ばれた朝霧が変わる。けれども男にもひとつの願いがって、それが朝霧の思いと交わった時に、ひとつの悲劇が、あるいは昇華への扉が現れる。

 身長が身長なんで、まるで子供のようなスタイルで、そして顔立ちも昔ながらの童顔という安達祐実さんだけれど、そのくっきりとした目鼻立ちで、女郎屋でも人気の花魁だとしっかり思わせる。世情から身を引き、諦めのような境地の中で生きている時の張り付いた表情が、男に思いを寄せるようになって少し変わり、女郎というその身、その職故に陵辱されて身もだえし、それでも欲情に流されまいと気を張るような顔を姿を見せてくれる。おっぱいも含めて。そんな安達さんを支えて周辺に三津谷葉子さん多岐川華さんがいて高岡早紀さんまで加わり演じられる女の世界。とはえい騙し追い落とすようなどろどろした関係ではなく、苦界に身を置く物としての悟りを交わし合って、手を取るように生きている。その姿がいじらしい。

 そして朝霧を慕う八津という名の女郎を演じる小篠恵奈さんが、安達さんとは対称的で情動豊かに男にも惚れ、姐さんにも逆らったりしながらそれでも懸命に生きている姿を見せてくれる。169センチの長身が安達さんと並ぶとほんと大人と子供だけれど、実はそうした長身の女優を横に置くことで、逆に安達さんを普通に見せようとしたのかも。実際に本編へと入ると安達さんの姿態が昔とは違う今の女、32歳の女って感じにちゃんと見えてくるから。なるほど五社英雄監督の「吉原炎上」だのといったゴージャスな映画ではなく、東映ビデオが手掛けているだけあって本当に小品で、狭い場所をそれほど動かず、セリフも背景も淡々と繰り広げられていく感じ。それをけれどもしっかりと撮りきり、無駄な音楽も被せないで動き通い交わされる心情を見せようとしている感じがある。

 冒頭の空を見上げる安達祐実さんのまなざしと表情から始まって最後まで、しっかりと目をスクリーンへと引かされる。そして最後の安達さんの表情。これが良い。本当に良いんだ。だからきっと幸せになれたんだろうという気持ちで見終わることができる。哀しいけれど、でも嬉しい気分も漂う。多分大ヒットはしないだろうし、下世話なおっぱい話で盛り上がってしまうだろうけど、それでもやっぱり大勢に観られて欲しい映画。「女による女のためのR−18文学賞」が対象にしている読者層とかにはなおのこと。そういう宣伝が出きるかなあ。安達祐実さんってそういう層にちゃんと受け入れられる存在なのかなあ。見終わればそうと思われることは確実なんだけれど、観られるまでが肝心なんだよ今、映画って。


【8月5日】 気がついたら8月23日に開かれる「なでしこオールスター」のメンバーが発表になっていて、見たけどリアル伏木あかりと呼んでいる(個人の感想です)ジェフユナイテッド市原・千葉レディースのゴールキーパー、山根恵里奈選手は選ばれていなかった。まあでも同じチームで海掘あゆみ選手と福元美穂選手が選ばれてはそこに割ってはいることは難しい。いや真っ先に名を連ねてこその正ゴールキーパーへの道なだけに頑張って欲しいけれど、今は先輩2人のプレーを見つつきっと並ぶだろう出店でもってその巨大さを近寄る少年少女に見せつけてやって欲しいもの。「白暮のクロニクル」第3巻で振り向いた先に伏木あかりがいる感覚、あるいはゴジラがサンフランシスコの街を踏みつぶして歩く感覚ってのを存分に味わえるだろうから。

 ジェフレディースからは別のフォワードで菅澤優衣香選手と深澤里沙選手が選ばれていてこれで澤穂希選手と会わせて“3澤”と言って騒ぎ立てるメディアでもあれば一気に注目も集まるんだけれど、どうだろう。まあ世間的には浦和レッドダイヤモンズ・レディースから登場の楢本光選手とか、やっぱり浦和レッズレディースの吉良知夏選手に注目が行ってしまうんだろうけど、そんな中に混じって澤選手とともになでしこジャパンを指させた山郷のぞみ選手、そして荒川恵理子選手が供にASエルフェン狭山より登場してくれるんでオールドファン(といっても2000年代前半からだけど)はその勇姿を眼に刻みつけるためにも行くしかない。そして驚くんだ西が丘の照明灯を見下ろす山根恵里奈選手の巨大さに。

 よりにもよって怪獣絵師の開田裕治さんに向かって怪獣映画を見たことがないとは、吹きに吹いたもんだよ花田紀凱さん。ハリウッド版「ゴジラ」を見ての感想の中での発言だけれど、それが自分の好きな「ゴジラ」ではなかったと言うならまだしもピントからちょいずれた意見を開陳しては真正面から「ゴジラではない」って言ってしまっているんだから独善が過ぎるというか。その意見にあった「ゴジラの肉質感や、皮膚感が全く出ていない」っていったいどこをどう見ればそう思えるんだ、ってくらいにCGながらもハリウッド版のゴジラは細部に気配りが聞いてた。あとであれの一部が着ぐるみだったんだと言われても気づかないリアル感。でも花田サンの眼にはそう見えなかったらしい。眼鏡を洗って出直しておいでとしか言えない。

 吹き替え版を見てしまったと文句を付けるのはもう筋違いも甚だしくって、それが嫌なら最初から間違えるなって話なんだけれど何かに文句を付けたいお年頃って奴なんだろう、それで2割もさっ引かれては映画館だってたまらない。だいたいが1954年の初代「ゴジラ」からずっと「ゴジラ」が好きだったって人ってどういう感性をしているんだろう。自然の暴威を巨大な怪獣になぞらえ描いた「ゴジラ」が好きな人が、だんだんと派手になっていく怪獣プロレスとしての「ゴジラ」を好きな訳ないじゃんか。でも花田サンみたいな現代の異論を唱えたいだけの人には初代もその後もちゃんと同じ地平に存在していたりする。

 きっと散々っぱら文句をつけていたはずなのに、今となってはハリウッド版という“敵”のために記憶を一致団結させて初代もその他も一緒くたに日本版「ゴジラ」と括って立ち向かってくるから始末に負えない。あなたの「ゴジラ」ってどの「ゴジラ」ってホント、聞いてみたくなる。俳優にあんまり魅力がなかったなあ、というのはもっともだけれどのその最たる存在が渡辺謙さんのボンクラ博士だったことをまるで触れずに共演者ばかり誹るのも筋違い。何をみていたんだと。自分が知らない俳優は演技も気に入らないのかと。だったら昔の映画でも見ていろってんだ。アカデミー賞を取ったような。

 群衆シーンがお粗末だって? あの逃げまどうサンフランシスコやハワイの人たちから何も感じなかったのなら鈍感も鈍感。きっと自分がその現場に立っても迫力が足りないってダメだしするんだろうなあ。現実ってのはそうじゃない。そして「ゴジラ」は現実を描いてた。だから凄かったのに……。同意できる部分もあって原発崩壊シーンとか、その後に立入禁止区域となった割には案外するりと入れてしまったこととか、確かにそうだと思わせたけれど実は汚染されてなかたっとなると警備もユルくなっていたのかも。そういう想像力を働かせられないのもあの世代の硬直化して石灰質化した脳の特徴なんだろう。ムートーの雌雄の情愛も理解できないくらいに。おかわいそうにと言いつつ、そういう根拠なき暴論に未だ居場所を与えているメディアにも、そろそろ限界を見ていった方が良いのかも。爺の繰り言で稼げる時代は終わったと。

 いたましいという言葉がまず口を衝いて出た理化学研究所における発生・再生科学総合センターの笹井芳樹副センター長の自死という一件、手違いがあったのだとしたらそれを認めつつ検証を行い再起に向けて研究を重ねることが研究者として出きることであり、研究者だからこそ出きることだと思っていたけどどうやらそれすらも困難な状況に追い込まれてしまっていたということか。謝りたくても何かがネックとなってそれができず、かといって突っ張るにはもう不可能なくらい問題の粗が見えてしまっている、そんなどっちに行っても壁という状況では、ただ逃げるしかなかったってことなのだとしたらどうしてそんな状態に、陥ってしまったのかという方向から問題を考えるしか再発を防ぐことは出来なさそう。誰が。何を。どうして。メディアも役所も組織も個人もすべてに何か問題があったと感じ自省し改めよ。でなければまた起こる。繰り返す。そういうものだから。

 メディアといえば遂に朝日新聞が吉田清治氏による従軍慰安婦の強制連行という虚言を認めそれを報じた責任を認めて記事を撤回した。すでにして長くその信憑性が疑われていたことだけに、ただ参照とかしなくなっただけでなくそれを元に報じたことを撤回したのはメディアとして最低限の振る舞いで、さらに言うならなぜもっと早くそうしなかったのか、1997年あたりから疑わしいと思い使ってこなかったのならその時点で遡ってすべてを否定しておけば、虚実の部分がふくらまされてそれを元に色々言われることもなかったのに。そしてそれが否定されることによってすべてがなかったことにされるような困ったことも起こらなかったのに。

 そう、全部がこれでまるっと否定された訳ではないことを、改めて考える必要がある。吉田清治氏による虚言がでてきたのには背景があって、それは千田夏光氏による本があって、もちろんそれにも反論があったけれども改訂なんかを織り込みつつ学者による検証も経つつ、ある程度は実態としてプレッシャーを受けながら身を転じた人がいただろう状況があったことが分かってきている。それは激しく吉田清治氏による言説を虚構と断じていた学者にも、一定の信憑性があると確認されていたりすること。だから決してすべてが“なかったこと”ではないにも関わらず、とっても目立つ部分、そしてセンシティブな部分が否定されたことをもって、その背景、そして歴史までもが全否定されてしまいかねない恐怖に今、僕たちは怯えるべきだろう。そういう状況を招いてしまったメディアの愚作を誹るのは当然として、全否定された後に生まれる全能感を持った子供が、頭でっかちの巨人となってすべてを踏みつぶす、そんな可能性に誰もが思いを抱いて何が必要なのかを考えるべきだろう。事実は事実。虚構は虚構。その峻別を忘れるな。そして認め考え踏み出す勇気を持て。


【8月4日】 目覚めたら何やら船橋界隈で一大事、って別に何が壊れる訳じゃないけど南船橋にある船橋オートレース場が来年度をもって閉鎖されるといった話が新聞界隈を賑わせていて、これが本当なら全国に6つしかないオートレース場が閉鎖されてしまうのみならず、オートレース発祥の地が消えてしまうってことで戦後日本を彩った文化の1つがこうもあっさり消えてしまうことに、果たしてどういうスタンスで臨めばいいのか迷ってしまう。個人的にはオートレースは見ないし賭けもしないから要不要でいえば不要なんだけれどそれを楽しんでいる人もいるし、そこで命を懸けてレースに挑んでいる人もいる。坂井宏朱さんのように本当に船橋のコースに命を散らしてしまった人もいる訳で、そんな人たちの想いを考えると易々とはなくして良いなんて言えはしない。むしろ続いていって欲しいとすら思える。

 ただ一方で時代が変わって、あの場所でもってオートレースが必要とされているかといった問題にも直面してしまう。前に隣にあったスキードーム「ザウス」はすでになく巨大な家具専門店の「IKEA」が建っていたりするし、その横には立派なマンションが建ち並んで生活している人たちが大勢居る、その脇で週末に限らず轟音を響かせて突っ走るオートレースが開催されているのはやっぱりどこか奇妙。先にあったのはどっちだっていう議論ではなくもはやそこでやる意味はあるのかって考えた時に、退くというのもひとつの決断なような気がする。可能なら場所を変えて今一度、再建といった道が開かれて欲しいしオートレースに変わる何か新しい娯楽施設が出来てくれても嬉しい。場所が場所だけにたたき売って首都圏に通える高級マンション群を並べるといった不毛な解決だけはして欲しくないけれど、でもそれがデベロッパーには得な道なんだろうなあ。仕方がない。それが時代っていうものだから。

 いよいよもってスタジオジブリのアニメーション制作からの撤退話が巷間を賑わせるようになって来た感じ。よりによってテレビの番組で鈴木敏夫プロデューサーが何か喋ったみたいでアニメーションを直接描く作画スタッフなんかをどんどんと切っているって話に信憑性が出てしまった。アニメーションを作っている時には不可欠な人材でも作っていない時は無用も無用の金食い虫。それをうまく回して他から仕事をとってきて描かせるのがアニメーション制作スタジオの社長なんだけれどあそこはほとんど自前の仕事をメインでやってきたスタジオだから、合間に他から仕事を受けるような真似が出来ないって訳じゃないけどそれをメインには出来なさそう。だってそれで手一杯になったてしまうと、宮崎駿監督が仕事をしようとして人が使えなくなってしまうから。それは困るよね。宮さん的に。

 だから受けても本業に支障のある形では受けてこなかったスタジオジブリから、本業がなくなってしまった時にさていったいどうしようとなって、どうにも出来ないってのが制作スタッフを切ってしまう理由ってことになるのかな。自分のところではもう作らないから余所の作っているところで働きなさいという。それは普通のことだけれど一方で、ずっと身内として抱えてきた人たちに対する仕打ちとしては人情味がないような気もしないでもない。宮さんが作らなくたって高畑勲監督が作れなくたって誰かが立って作れば作れるのがアニメーション。他のスタジオだってずっとそんな感じでやっている訳だけれどもここん家は、そうして企画を立ててスタッフを集めてスポンサーも見つけて転がしていくプロデューサが鈴木さんの他にいそうもない、ってことが大きなネックになっている。

 「思い出のマーニー」では別にプロデューサーがいたみだだけれどそれだって、鈴木さんの手のひらの上で転がされているようなもので、自分で企画を立ててスポンサーも集めスタッフを揃えて企画を完成へと持っていくプロデューサーが、何人もいてそれぞれに企画を転がしていけるような体制にもなっていなければ人材も揃っていない。っていうかそういうことをやろうとはしてこなかった結果、宮さんが降りて高畑さんが終わって鈴木Pが引っ込んだだけでもう身動きがとれなくなってしまった。だから解散、と。やそこまで明確なことは言われてないし、米林宏昌監督だって宮崎吾朗監督だってまた何かやってくれるはずだろう。その時にスタジオジブリがあれば最大限に活用できるんだけれどそういう気がないからこそ、吾朗監督を外に出してしまったのかな、うーん、ちょっと分からない。

 なんでこんな風にせっぱ詰まってしまったんだろう、って考えてひとつ多い当たるとすればまだ「もののけ姫」が当たるとも外れるとも分かっていなかった頃、録音スタジオにいる鈴木敏夫さんを尋ねていってどういう体制でこれからのジブリを運営していくのかって聞いたことがあって当時は徳間書店がディレクTVへ出資したりして、スカイパーフェクTVもあって多チャンネル化が言われていた時代に向けてコンテンツの充実が必須となっていた、そんな中でスタジオジブリは大きなブランドで、そこを使ってテレビアニメーションのシリーズなんかを作っていけたらコンテンツ面で有利に立てるんじゃないかって話があった。徳間さんがやれっていうならやらなきゃいけないのが鈴木さんだっただけに、TVシリーズを回せるスタッフの育成なんかも考えているといった旨、話してくれたっけ。

 ただその後、ディレクTVは運営がうまくいかずスカパーと合併したりして消え、そして「もののけ姫」は空前の大ヒットとなって宮崎駿監督は完全復活を遂げて新しい作品へと取り組みやがて「千と千尋の神隠し」でとてつもない金字塔をうち立てる。こうなるとスタジオジブリも宮さんを中心に回して行かざるを得なくなってテレビシリーズなんてとんでもないってことになる。さらには徳間康快社長も亡くなって鈴木さんを動かせるような人がいなくなるとあとは二人三脚にプラス高畑さんといった感じに固まっていくだけ。せめて鈴木喜文さんがいればとか、片渕須直監督や細田守監督といったところがジブリで作品を出せていたら変わったかもしれないとか、考えられなくもないけれどもそれは起こらずジブリは今のジブリとして固まり、育ってそして壁に突き当たった。結果……。

 どこかで曲がれたけれども曲がらなかった結果をだから、どうこう言う気もないけれどでもやっぱり勿体ない。あるいは何か別の思惑があってブラフを蒔いているだけかもしれないんで、どういうことが起こるかはちょっと様子を見よう。「思い出のマーニー」だってまだまだ絶賛公開中な訳だし。気になるのはしかし、あれだけ東小金井界隈に作ったスタジオをどう始末するのかってところで、そろそろユーフォーテーブルの近藤光さんとかプロダクションI.G.の石川光久さんが鈴木Pに呼ばれて「ユーフォーテーブルカフェ繁盛してる?」「武蔵野カンプスって人気みたいじゃん」って聞かれて飲食店運営の成功の秘訣なんかを白状させられているのかも。あるいは空き家に入れと無理矢理何社かのアニメスタジオが東小金井に引きずり込まれていたりして。人も付けると言われて。いや欲しいのは宮さんだからと言ったら付けてくれるかな。


【8月3日】 そうだ鴨川へ行こうと思い立って午前6時過ぎに船橋から列車に乗って千葉で乗り換え上総一ノ宮で乗り換えたら午前8時半過ぎには安房鴨川に着いていた。近いじゃん。まあ同じ千葉県だし。ただやっぱり東京の西の方から行こうとなると結構大変かも。東京駅まで出てそこからはるばる京葉線のホームなりへと周り特急わかしお号に乗り換えるなり週末だけ新宿から出る新宿わかしお号に乗るなりすれば割とスムースには行けるけれども特急料金とか含めると倍かかるからなあ。鈍行列車の旅でそれなりな時間に行くにはやっぱり相当な早起きが必要だし。その点て船橋あたりだと房総に行くにも大洗に行くにもそんなに苦労はない。鎌倉だって江ノ島だって3時間かかる訳じゃないからね。聖地巡礼派が住むには良い地域かも。ふなっしーもいるし。

 んで到着するまで読んでいた高殿円さん「シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱」(早川書房)が何というか良い意味でヒドかったというか。そういうことかい緋色の憂鬱って。いやまあ確かに憂鬱なのかもしれないけれどもそれは僕にはちょっと分からない。理解しようとはしても体感できないからなあ。壁は厚い。でもってやっぱりとてつもなく面白いこの本はシャーロックならぬシャーリー・ホームズが登場してはアフガニスタン帰りの退役した軍医のジョー・ワトソンと知り合い引っ張り込んで帝都ロンドンに起こる4人の女性の連続死を追うというストーリー。その出会いからがぶっ飛んでいて帰国したものの経歴もあってか病院に医師として採用されないジョー・ワトソン、高いホテルを引き上げ寝る場所もなく病院の死体置き場に横になる前に隣の死体袋を開いたらそこに超絶美女が眠っていた。

 おかわいそうにとファスナーを閉めて朝になると何やら電話の着信音。死体が眠っていたはずの袋から聞こえて話し声まで聞こえたその袋のファスナーを要望に応じて引き下げると何と死体だった女性がぱっちり眼を開いて起きあがってはジョー・ワトソンがずばり二日目だと見抜きアフガン帰りの軍医だと見抜いて自分の住む場所にシェアする可能性もあると言い当てそしてダブルの金ボタンに白いパンツでブーツという乗馬服姿のまま死体置き場を出ていき、そのままロンドン五輪の乗馬競技に出場して金メダルを2つも獲得してみせる。いったい彼女は何者だ? なんて考えつつシャーリーが住んでいて自分も住むことになるかもしれないベーカー街に行ったらそこにあるカフェにシャーリー・ホームズが帰ってきた。馬で。

 もうぶっ飛び過ぎなキャラクター。そんなシャーリー・ホームズは頭脳明晰にして心臓が弱いことを例えて心がないとも言ってみたりしつつ、彼女のことを気にかけているのか単に自分のストレスを妹に向けたいだけなのか、洋服やら何やらを買って送りつけてくる姉がみせるとてつもない権力も借りながらロンドンを賑わせる連続死事件へと立ち向かう。ジョー・ワトソンを引きずり込んで。結婚願望が強くて依存心もあって軍医にはなったもののそれも彼氏を追ってのことでフラれて現地の恋人からも捨てられたか何かしてと散々な人生を歩んできたジョー・ワトソンは、それでいてまずまずの常識を備えてシャーリー・ホームズの突拍子も言動を糺すけれどもその上を行く現実を推理が見事に言い当てていく。

 その展開が凄いというか、あり得ないと思いたいけどあり得たりもするところが突拍子のなさだけでアッと言わせるバカミスとは少し違うところ。いやバカミスも好きだけれどもそうでないところに抑えつつギリギリの線を行こうとする高殿円さんの筆の案配も見事というより他にない。なおかつ根底には自分の思い通りにいかないことへの苦悩があり、そうした状況を生みだしてしまう経済的社会的政治的な情勢への啓発があって少し真面目に考えてしまう。どうしたらそういう状況をただせるのかと。あとは自分の運命に投げやりになってしまう真理が他人の運命にも投げやりになってしまうのかという可能性。そこはだから当人の想像力なんだろうけれど、それすらも超えた衝撃があり、あるいは誘導なんかもあると超えてしまうんだろうなあ。それを企んだ存在がだから怖いけれど、排除できない難しさもあって大変そう。ジョー・ワトソン自身にも秘密がありそうでいったいどんな展開に向かうのか。シリーズ化されていく今後から目が離せない。アニメ化希望したいけどでも「緋色の憂鬱」の部分をどう映像化すれば良いんだろう。そこがやっぱり難しいかも。入れ方とか見せてくれるんだろうか。

わん、まるっ、かしこまり〜  そんなこんなで到着した安房鴨川駅でちょっとだけ時間をつぶしてから歩いて鴨川市郷土資料館で開かれている「輪廻のラグランジェ展」へ。15分くらいかかるかなと思ったら案外に近くて10分ほどで着いてしまって、まだ開館前だったんで近所に立つのぼりとか、資料館前に並んだランちゃんまどかにムギナミのパネルを撮っていたらもう大丈夫ですよと言われたので200円のチケットを買いポスターと同じデザインになったパンフレットをもらって中へと入ってとりあえず、階段を上って2階にある「輪廻のラグランジェ展」の開場へと入る。入り口ではまずウォクス・アウラがお出迎え。いろいろな場所で見たことがあるような記憶だけれど今は鴨川市に置いてあるとか。でもってまず第1室はアニメーションに関連した資料が置いてあって、DVDとかBDのパッケージイラストからアニメのエンドカードからシナリオからキャラクターのイラストが入った声優さんのサイン色紙なんかがあって見ていて作品のことがぐわっと思い出されてきた。

 放映が終わってずいぶんとたつし、映画も上映されたけれどそれだってしばらく前のことですっかりと作品の記憶も薄れてしまっていた「輪廻のラグランジェ」。でもこうやって作品に関する展示があって並ぶキャラクターたちの顔を見るとうん、結構面白いことやっていたんだなあと思い出されて懐かしくなる。録画はしてもすっかり見なくなってしまったアニメーションもあったりするなかで、毎回の展開を追いながらシーズン1、シーズン2と通して全部見て映画まで見た作品は、だからそれだけ人を引きつける何かがあったってことになる。海に行ったり宇宙に行ったりしながら三つどもえ四つどもえの戦いもあって複雑な設定の上で、それでも変わらない、変わりたくない少女たちの友情の物語をしっかりと描いて見せたアニメーションは、やっぱりしっかりひとつの時代を作ったって言って良いんじゃないのかな。

 そんなアニメーションを作品の舞台として支え、そして今こうして作品の展示をしてくれるっていうだけで鴨川市には感謝してし足りないってことはない。人があんまり来ていない? 街が盛り上がっていない? それがだからどうだっていうんだ。作品が好きで舞台が好きで、その舞台が今なお作品のことを思ってくれているならそこは聖地、現地に行く行かないとは無関係に尊び続けることが大切なんじゃなかろうか。街を挙げて盛り上げることだけが聖地巡礼ではないし、そこから何か利益を得ることだけが町おこしではない。何かしてくれた現地への感謝の気持ち。何かしてあげたいという作品への思い。それらが重なり合ってさえすれば街は作品と寄り添い、作品は街を包んでいつまでも記憶に残るのだ。なんつって。

 ともあれ充実の展示物。ジャージとかスコップとかもあって結構見応え。そして第2室には鴨川市が舞台になっていることを現すようにどんなコラボレーションがあったのか、とか鴨川の街のどこが舞台になっていたのか、とか街にウォクス・アウラが立つとどんな感じになるのか、ってところが物品やらパネルやらで展示してあって結構どっぷり鴨川してたんだなあってことが見えてくる。あと現地もそれなりに頑張ってくれていたようで、鴨川エナジーとかは今は売られているようだし、まどかとランとムギナミの座っていた椅子も地元の木工所が作ったものがあってそれが置いてあった。お仕着せではなく商売っ気でもなく、何かを残したいという思い、何かを残したんだという成果が感じられる展示を見ればその度合いがどうとか言えなくなる。ありがとう。そしてこれからも。そんな言葉を贈りたくなって来た。また行こう鴨川へ。遠いけど。同じ千葉県なのになあ。

 せっかくだからと魚見塚展望台へと行こうとして行き方を思案して、見えるんだから歩いて行けないはずはないと歩き始めてとりあえず海岸を歩いてそこから山をどう登るかでグーグルマップを見たら回り込まなくても手前から上れそうな道があったんで、路地を抜けお寺の脇を抜けて道路へと出てそこをえっちらおっちら登った先のまるで崖のような道をはい上がったら展望台へと登る階段の横に出た。ああ疲れた。途中で買ってあったアクエリアスがなかったら倒れていたかも知れない。その道がデフォルトなのか別にのぼり方があるのか分からないけれど、帰りがけには八幡神社から間神社へと上っていく階段を逆に降りていてこれを上るとなると近いけど結構大変かもと思ったり。みんなどうやって行ってたんだろうなあ。まあ良いや自分は行けたんで。上から見る景色は最高に美しく、鴨川って街がなおいっそう好きになった。海は綺麗で風光明媚で、これでどうして江ノ島湘南といった賑やかさがないのか考えたけれどやっぱり遠いもんなあ。だからこその海辺も平穏で気楽に歩ける街なのかも。いつか住んでみたいなあ。


【8月2日】 先週に江戸東京博物館で始まった「思い出のマーニー×種田陽平展」を見たんで、どうやらその対になっている展覧会「ジブリの立体建造物展」も見ておかないとってことではるばる武蔵小金井まで出かけていって、バスを乗り継ぎを江戸東京たてもの園へ。種田陽平さんによれば最初はジブリの建物を立体化して見せるような展覧会を提案したところ、ちょうど映画が公開されたばかりの「思い出のマーニー」の部分を抜き出して江戸東京博物館で開催することになったんで、その他の作品については江戸東京たてもの園に分裂して展示されることになったとか。全部をまとめて開くとなるとどっちの会場出も狭すぎるもんなあ。いつかもっと巨大なサイズで「借りぐらしのアリエッティ」や「思い出のマーニー」のみならず、「コクリコ坂から」「ハウルの動く城」なんてものも含めた総合建物展覧を開いて欲しいなあ、東京都現代美術館とか、幕張メッセとか。

 さても炎天下の江戸東京たてもの園へと入って見るのはまずは屋内のジブリ絡みの展示から。スタジオジブリの作品(含む「アルプスの少女ハイジ」「風の谷のナウシカ」)の建物に関する設定画やイメージボード、背景美術なんかが作品ごとに並んでいる感じ。誰がどの絵を描いたか、って説明がないんでそれが例えば宮崎駿監督の手になるイメージボードなのか男鹿和雄さん武重洋二さんの美術なのか他の誰かの筆によるものなのか、ってのが分からないんだけれどとりあえず、ジブリ作品における建物なり美術がどういう案配で構想され描かれていくかってのを見せる展覧会だから、特段にそこで名前を見せる必要はないって判断なのかも。作家性よりジブリ作品という括りがあれば良いっていうか。だからこそそういう名前で作品や技術を見せて憧れさせて後進を導く雑誌が必要になるんだろう。頑張れ「アニメスタイル」。あと「月刊アニメージュ」とかも。

 ジブリ作品ってことなんで、当然に宮崎駿監督だけじゃなく高畑勲監督の作品や近藤喜文監督の作品に関する展示もあったのが嬉しいというか、「かぐや姫の物語」のあの館の設定とか「おもひでぽろぽろ」の住宅とか田舎の家とか「平成狸合戦ぽんぽこ」の自然とかの設定なんかも飾ってあって、それらが割と緻密と言うかリアルというかプリミティブなのに対してやっぱり宮崎駿監督の作品は、舞台が日本でも横浜であってもどこか日本離れしてファンタスティックだったり、外国っぽかったり見えるのが面白いところ。そういう頭で作られているんだろうなあどの作品も。だからこそ現実からちょっと離れた不思議なことが起こっても違和感が生まれず入り込めてしまうんだろう。だから案外に宮崎駿監督って、現存する場所が舞台になったアニメーションの登場する地域に人が詣でる”聖地巡礼”なんてものに弱いのかも。「崖の上のポニョ」だって瀬戸内海の鞘の浦が舞台になっているとか言われながらも、そこが現地になることを嫌がっていた風なところがあるし。

 立体化されたもののミニチュアの展示もあって、「となりのトトロ」のサツキとメイが暮らしていた家とかは中に「まっくろくろすけ」がいたりしてのぞき込んだら楽しそう。映画公開時には生まれてなかったような子供でものぞいて「まっくろくろすけ」とか言ってる様に世代を越えて作品が受け継がれているんだってことが見て取れる。そんあ長編アニメーションほかにあったっけ、ないよなあ。だから凄い。あとハイジの山の上の家とかあってハイジがいてペーターが走ってた。クララは立っていなかった。「思い出のマーニー」の大岩さん家とかもあって、これなんか別に江戸東京博物館にあっても良いようなものだけれど、あっちは種田陽平さんによる映画美術の再構築といった案配だから原案的なものではちょっとイメージがズレるのかも。むしろ大岩さん家の2階から見える風景ってのを作って欲しかったなあ、CGで写真的に描くとか。どんな風景なんだろう。

 立体物では最大なのが「千と千尋の神隠し」の湯屋でこれは大きいけれど、まあよく作りましたねえといった感じ。中が再構成されている訳じゃないからあの絢爛とした感じはちょっと味わえない。それはだから雅叙園に行って見るしかないんだろうなあ。図録も売っててそこでは建築探偵で知られる藤森照信さんと宮崎駿監督とが対談しているのが載っていて、そこではイメージを捏造しているって話をしている。ロケハンをしてもやっぱり捏造。だからやっぱり“聖地巡礼”には向かないってことなのかも。そんな対談で宮崎駿監督が、東映動画時代にとてつもない美少女がいて、「ドキドキするくらいの美少女なんですよ。もう亡くなりましたけど。その人とデモのときにたまたま腕を組んだことがあったんだですが、彼女のお墓参りのときに、そのときの感触を思い出すんです。そうすると、彼女の顔も思い出す」って話してた。「記憶の場所が触覚にある」って話でペットの思い出も含めての話だけれど、でも何か宮さんらしいエピソード。少女の躍動感ももしかしたら何か触覚の思い出が形になっていたりしたりして。

 図録ではあと、建物とイメージボード、あるいはスケッチなんかを見比べつつ現実にある建物、それは江戸東京たてもの園にあるものを含めてどういう取り入れられ型がしていて、それが作品世界でどういう構成になっているのかを知る上ではなかなか意味深い資料になっているかもしれない。建築探偵団のことをそうか宮さん知ってたんだとか。写真の泥の船はあいちトリエンナーレで名古屋市美術館の横に吊されているときに入ったなあとか。ともあれいろいろと読み応えのある図録は、確か江戸東京博物館の「思い出のマーニー×種田陽平展」のショップでも売られているのかな。武蔵小金井が遠すぎるなら両国に回るのも良いかも。展示でそうそう「紅の豚」でイメージボードに描かれたスケッチのジーナの可愛らしさにはちょっと惚れた。それを直に確かめたいなら武蔵小金井に行くしかないかも。暑いけど仕方がないよね、触覚のために。いや触れはしないけど。

 青柳碧人さんの「朧月市役所妖怪課 河童コロッケ」(角川文庫)に続くシリーズ2さつめの「朧月市役所妖怪課 号泣箱女」(角川文庫)を読んだら急転直下で事態が動いてた。妖怪を鎮めてしまうよりは退治してしまった方がいいって考えを持った誰かの画策で、朧月市に妖怪を燃やしてしまう力を持った女性ばかりのチームが入ってきて大暴れ。それが禁止になっていないところが問題で、市長としても急ぎ条例を制定しようとしているんだけれどそこに横やりが入り陰謀まで入って来たからさあ大変。いろいろと妖怪を鎮めて来た妖怪課の存亡にも関わってくる。そんな展開で行政ボランティアとしてやって来た宵原はなかなか大活躍。自分を守ってくれる妖怪の助けに、部屋を縦横無尽に広げてしまう妖怪のサポートも得て追いつめられた市長を守り仲間のピンチも救うけど、それで政治がひっくり返せるものでもないだけに一体どするのか。早く読みたいこの続き。宵原と日名田の関係も含めて。

 暇を潰してから開場の30分前くらいにNHKホールへとたどり着いてチケットを見せてリストバンドを巻いてもらって入場列に並んで待つこと30分。パルテノン多摩に続く山下達郎さんのマニアックツアー参戦2日目はグッズはパスしてCD売り場に並んで達郎さんの探しても出てこなかったアルバムで、今回のツアー的にとっても意味のある楽曲画は言っている「COZY」を買い竹内まりやさんのシングルを買いツアーでサックスを吹いている宮里陽太さんがニューヨークで録音して来た達郎さん大推薦の4ビートジャズが収録されているらしいアルバム「プレジャー」を買って3人のサイン色紙をもらって今日の争奪戦にひとまず幕。あとは9月末のツアーで多分発売になっているだろうまりやさんのアルバムを買ってもう1枚くらいサインをもらうかどうかってところ。でもサインってなくしちゃうんだよなあ。うまく保存する方法ってないものか。

 さてツアー。パルテノン多摩で聴いた曲はだいたいやったけどアカペラで1曲増えていたような気がしたしアンコールと本番とで楽曲を移動させていたような気がしないでもない。でもトータルはだいたい一緒。そして改めて言うけどマニアックじゃない。だって僕らにとって達郎さんの曲はすべてがヒットチューン。心に突き刺さって染み渡って離れないくらい。だから何を聞いても楽しいし嬉しい。人によっては何これ知らないって言うかもしれないけれど、僕たちはずっとでも何度でも聞いてられる、そんなツアーになっているからこれからって人も自分が達郎さんのすべてをヒットチューンと思っているなら何も心配しないで行けば良い。行って存分に味わえば良い。それだけだ。参戦はあと名古屋の1日が残っているけどこれもだいたいっしよの曲かな、少しはいじってくるかな、分からないけどでも大丈夫、何が来たって僕らの達郎なんだから。うん。


【8月1日】 今年も残りが5カ月になってしまったけれどだからといって何が起こる訳でもないのだった。毎日が生きているか生きていないのか分からないうちに過ぎていって、その果てにきっと生きているか生きていないのか分からないような状況になっていくんだろう。何だ何も変わらないや。それが人生。ってことでようやく読んだ神高槍矢さんの「代償のギルタオン3」(集英社スーパーダッシュ文庫)は、代償と引き替えに強大な力を与える巨人ギルタオンに妹の命と引き替えに搭乗するようになった少年ライクが、軍を離れ革命組織に囲われる形となっていたところに軍からライクを養子にすることで保護したいと将軍が訪れる。

 どうやら姉と取り引きしたみたいで、あらゆる人間を養子にしては守ることが大好きな将軍だとかでライクも心引かれながらも迷ったりしたのは、今いる場所が革命組織の中だったから。でもって将軍の来訪と同時期に革命組織を叩きつぶすべく最強のギルタオンが送りこまれてきては、革命組織ごと焼き尽くすと脅す。人間を失う変わりに力を入れた搭乗者だけあって、非情で非道な言動を放つ彼の前に町は怯え、革命組織へと矛先を向けて前任者から後を継いだ指導者の少女へと暴威が迫る。大勢を救える力を持った少年が、妹や姉を救いたいという願いも一方に抱えて葛藤しながら戦う切なさが胸に響く第3巻。悲劇を経て束縛を得たライクに果たして道開けるか。次こそいよいよ最終決戦、って出るよね、3巻で終わりじゃないよね。

 何か「夜桜四重奏」の新シリーズでも始まるんだろうかとキャラクターの雰囲気を見て目を見張ったら「愛・天地無用!」だったみたいで衝撃が脳天を突き抜けてはるか上空1超パーセクに達した人が全世界に3億人はいるんじゃないかないて当然だろう。だって「天地無用!」じゃないもんまったく。「天地無用!」っていったら天地がいて魎呼がいて阿重霞がいるのが最低限、でもって中二病のノートのようにしたためられた設定を土台にして、キャラクターたちがドタバタとした日常を送りつつ、それぞれの過去と対峙するってな感じのストーリーがあるものを指しているんだと思っていたけど、今回は天地はいても魎呼も阿重霞もいなくて別に刀持ったり金棒持ったりしている美少女がいて天地を引っかき回すみたい。桃と鬼。桃太郎だね。

 いやあくまで新キャラであって、別に用意されていたりするのかもしれないけど、キャラクターデザインがヤスダスズヒトさんって時点ですでに前のイメージを大きく離れてしまっている。だからまるで重ならない。これなら別に「天地無用!」じゃなくたって「夜桜四重奏」だって「デュラララ!」だって良いじゃんかとか思ったりもしたけれど、そこは梶島正樹さんがしっかりと原作に名を連ねているから、彼が自分で作り上げた世界をぶちこわし、生み出したキャラクターを蔑ろにすることはないだろうと信じたい。信じたいけど……。やっぱり「魎皇鬼!」とTV版無印と劇場版2本「in LOVE」&「in LOVE2」を限りに見るのが好き者として正しい態度なのかなあ。「新」も「GPX」も「真夏のイヴ」でさえ好きだけどでもちょっぴりやっぱり違うんだよなあ。ともあれ待とうそのスタートを。どっちにしたってTOKYO MXじゃ見られないんだけど。

 これは対局の物語だ。将棋でありチェスであり囲碁であり、そしてあらゆる盤を挟んで向かい合う対局に臨んだ者たちが、相手と戦い自分と戦い、天を相手に戦う時に覚える恐怖であり葛藤であり、喜悦であり憤怒であり、悲哀であり快哉でありといった感情を描いた物語だ。そんな人間の感情をぐらぐらと揺さぶる対局というものが、何をもたらし何を脅かし何を失わせて何を生み出すかを描いた物語だ。読めば人は知るだろう、対局というものの神髄を。単なる相手との勝負に終わらない、そして自分との対話にも終わらない、全宇宙の中で自分を開き、全宇宙を自分へと取り込んで昇華へと向かう対局というものが持つとてつもない意味を。それが玉城夕紀さんの「天盆」(中央公論新社)という小説だ。おそらくは。

 おそらくというのは、別にもっと深いテーマもあるように感じるから。それは家族。その絆。天盆という12×12の盤上で駒を動かし、相手の「帝」を追いつめる、将棋にとても良く似た盤ゲームがあって、その覇者は国に取り立てられるのみならず、政治の中心にすら行けるという国が舞台になっている。だから国全体に天盆が流行っていて、食堂を妻の静と経営している少勇という男も天盆が好きで、賭けては金を巻き上げたり奪われたりしていた。とはいえ食堂は妻の采配でそれなりに繁盛していたし、12人いる子供たちも何人かは仕事を助けてくれていた。何でまたそんなに子供が、っていうのは理由があるんだけれど、それはさておき少勇は、さらにもう1人、子供を増やしてしまう。橋の下いにた赤ん坊を拾って連れて帰ったのだった。

 それで追い出す静ではなく、むしろ受け入れ12人の子供たちといっしょに育て始める。名は天盆にちなんで凡天。それこそ赤子の頃から兄で天盆士を目指す二秀や、他の兄弟たちが打つ対局を見て育ったこともあって、幼いころから結構な吸収力で天盆の力を高めていって、プロを目指している二秀以外はかなわないような強さになってしまう。やがて町で大会が開かれるようになって、そこに出場するんだけれど、相手の中に街を新たに取り仕切るようになった商人の息子がいて、そして彼に勝ってしまったことで凡天の家族に面倒な事態が及ぶようになってしまう。食料品が仕入れられず食堂の運営に困ったり、天盆の道場を追い出されて大会に出られなくなったり。

 そこは決して権力の前に天盆が乱されてはいけないという心意気、あるいは権力者に対する反感なんかもあって切り抜けていけたし、凡天もひょんなことからとてつもない天盆の知識を持った老人と知り合い、対局の様子を記録した天譜を読んだり老人から教わったりしながら自分の力を高めていく。そして実は有力者だった老人のお墨付きで大会に出られるようになるんだけれど、そこでやっぱり立ちふさがるのは新たな権力者になった武人の息子。父親の権勢を嵩に圧力をかけてくるけれど、そこで凡天は屈せず自分が強くなることが父親も喜ぶことだと考え、ひたすらに天盆を指し続け、勝ち続ける。それはさらに上の舞台に行っても変わらない。家族に災厄が及ぶと言われても、曲げずに自分を貫き続ける。

 それは勝負師として当たり前のことなのかもしれない。目の前の勝負に勝つこと、それこそが天盆をたしなむ者に必然のことなのかもしれない。ただ、勝負に勝つことだけが本当に天盆の目的なのか、そうではないのではないかといった問いかけもある。では何のため? それはだから盤に身を晒し、天に身を委ねるということ。勝つことも負けることも含めて感じ、受け入れた果てに得られるひとつの境地を尊ぶこと。それさえあれば例え家族に災厄が及びそうになっても、天は見放さなないで家族を救うし、己も救うし多くを救ってみせる。あるいは凡天は信じていたのかもしれない。家族の絆を背後に天盆に挑むことで、家族が結束して家族を守ってくれるのだと。ひとりで戦っているのではなく、家族と供に盤に向き合い指す。それこそが天盆の極意、なのかもしれない。

 権力に阿り権力を嵩に来て潰しにかかってくる者たちもいるけれど、そのいずれもが天衣無縫な凡天の前に敗れ去っていく、その対局をミクロで見て、心理的なかけひきを乗り越え、勝負の流れをタイミングよく掴んで勝っていく勝負の要点を掴むことも楽しみ方のひとつだろう。ただ、もっとマクロな視点で自分は何によって生かされ、そして何を生かそうとしているのかを感じ取りながら、対局というものが持つ相手を見て、己を見てそして世界を見て世界から見られる感覚というものを、味わうというのもひとつの読み方なのかもしれない。ともあれ凄い本。これがファンタジーがメインの「C★NOVELSファンタジア」の賞に送られて来たとは、ってか送ろうと思った作者が凄い。何を考えていたんだろう。出した出版社も凄いなあ。将棋小説や囲碁小説、漫画なんかが好きな人、あるいは竹本健治さんの「入神」とか好きな人なら読んで損はなく、新たな発見も得られる小説。要注目。

 1日つく日なんで映画が安いんで2度目の「思い出のマーニー」を今度は、「ジブリの世界を創る」を読んで種田陽平さんが世界設定に込めた思いなんかを汲み取りながら見る。なるほどマーニーって少女が置かれた世間とも家族とも隔絶された姿が伝わり、それ故に家族をあるいは友人を求めた思いが感じられ、そんなマーニーを合わせ鏡のように見て杏奈って少女が自分自身の殻を破って外へとコミュニケーションしていこう、自分の居場所を見つけようとしている物語なんだってことが見えてくる。その最後までマーニーはほとんどひとりぼっちだったけれど、最後に得られた幸せを存分に噛みしめ、それを伝えようとしたことが結果として記憶となり、思い出となって現代にマーニーを蘇らせて、そして杏奈を救ったのだとしたら、マーニーもきっと喜んでいるんじゃないのかな。幸せにマーニー。何処かでずっと見守っていて。そう入ってあげたくなる。しかしやっぱりラストのあの窓辺で手を振るマーニーの姿には泣いてしまうなあ。良い映画。もう1回くらい見に行こう。


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