縮刷版2014年5月中旬号


【5月20日】 深夜にかけて下北沢にある短編映画専門劇場のトリウッドで自主制作の短編映画を集めた「伝える」を上映している沼田友さんが、上映初日にアニメーション作家の新海岳人さん井上涼さん大山慶さんらを招いて行ったトークショーの模様がUstreamで配信されていたんで「艦隊コレクション」を音声を消してプレーしながらじっとりと聞き入る。そうかやっぱり自分の絵についてはどうにかしたいと思っているのか沼田さん。一方で脚本とそれからレイアウトやらカットのつなぎ方、そして声優さんの喋りについてはこだわりがあって、自分にお金があれば絵はプロの人たちを使いつつそいうした部分で関わった作品を作りたいって話してた。

 沼田さんの脚本力の素晴らしさについては、ずいぶんと前に「雨ふらば 風ふかば」って30分ある作品を初めてみた時から思っていたことでもあって、文学フリマかコミティアで会った時に絵は描かず、脚本や演出で参画するような方向に進む可能性について尋ねたことがあったけれど、その頃はどれだけ自分の作品が作れるか、って感じに取り組んでいたこともあってか、絵はそこそこでも良いからとにかくお話を作って世に公開しようと考えていたみたい。結果、「15時30分の拍手喝采」「荒波 −LOVE LETTER−」や「天体観測」や「むすんでひらいて」といった傑作群が世に出て、アルバムまでできて上映までたどり着いた。

 見慣れればあのCGのキャラクターもひとつの味として感じられるようになるもので、「15時30分の拍手喝采」にしても「天体観測」にしても声の演技の巧さや音楽の使い方の巧みさなんかに加えて、視線や表情といったところに細やかな演出が施されているって分かるんだけれど、一見さんはやっぱり何だこの映像はって思うのは仕方がないところだし、だからといって沼田さんが修行して本格的にCGを学んでその上で何年もかけて完璧な映像を作るのは待っていられない。ここはだから「伝える」を見たプロデューサーながその脚本力、その演出力を認めて世に出そうと考えて欲しいもの。そのための準備はたぶん沼田さんも出来ている。だから今は1人でも大勢が、そうでなくても新しいクリエーターに興味のある人が下北沢のトリウッドへと出かけていって、上映を見て頂きたいと切に平に伏してお願いする次第。21世紀の小津安二郎はそこにいる。言い過ぎ? いやいや。

 沼田さんの絵はあれでちゃんと動いているからちょっと違うんだけれど、巧みな会話劇と動かない絵の組み合わせでちゃんとしたアニメーションを作り上げるって面では「幕末維新ダイ☆ショーグン」も現代にひとつのアニメーションの作り方って物を提案しているって言えるかも。最新話では長崎から離れ江戸で起こっていることが繰り広げられ、子安武人さんが演じる一橋重義が井伊直弼の専横についにぶち切れ反抗し、それに新撰組が従い大暴れする展開が絶対に崩れないけどあんまり動かない絵でもって描かれる。妙に動かされてチープなキャラになるよりしっかりと顔は綺麗で谷間もくっきりな止め絵で描かれる方が良いのか悪いのか。悩むところだけれどところどころ動いてそこに迫真の演技が載ると案外に見ていられるもの。大きく動き出した話が長崎でラブコメやっている徳川慶一郎たちをどう巻き込み、どれだけの戦いに発展していくかって楽しみも出来たし、これはこれで最後まで見てしまいそう。BDも買ってしまうかも。だって見ていて楽しいんだおん近藤勇や土方歳三の谷間とか。沖田総司にはないけれど、総司には違うものがあるみたいだけれど。

 何が何だか分からない。ということは案外になくってそういうことをやったというなら不思議はないなあという印象に帰結してしまった例の遠隔操作事件。逮捕されながらも証拠がどこまで揃っているかあやふやで、起訴されながらも身柄は保釈されていた被告が、あろうことか自分で他に真犯人がいるというメールをタイマー操作で地面に埋めたスマホから発信して、それを警察に見つかり証拠として突きつけられて自分がやっぱり犯人でしたと告白してしまった。あそこで何もしなかったら果たして裁判はどうなっていたか。今となっては想像するしかないんだけれど、保釈した裁判所による判断と見るなら無罪となっていた可能性だってある訳で、何でまたそんなことをしでかしたんだろうという不思議が浮かぶ。

 一方でそいういうどこか自己顕示的なことをする性格なら、無罪かもしれないと保釈されている自分を喜ぶ一方であれほど大それたことをして何人ものえん罪を生んだ犯罪を、自分がやったことではないと思われるのはどこかに心外なところもあって、自分でそうだと言ってみたかったのかもしれないし、もとよりどこか性格が分裂していて、やってないという自分がいる一方で実はやっている自分もいて、そちらが出てきて自分を喧伝してしまって後になって早まったと思い、死のうと山に入ったり駅にしていったりしたのかもしれない。こうなると精神の方もどういう状況だったのか知りたいところだけれど、証拠が今ひとつで釈放された人間が、自白でなければ捕まえられない状況をどう見るか、ってところで警察の捜査能力への懐疑が浮かぶ。

 そこで捜査をより慎重にするならまだしも、やっぱり自白が1番ということで長期拘留をしてでも自白させようと動き、それを世間も彼がそうだったからと指示する方向へと流れないか心配してしまう。あとは犯罪があってそれがえん罪だったと世間が分かって犯人らしき人物が捕まって、やっぱりえん罪かもしれないと世間が思っていたらやっぱり真犯人らしかったという状況の動転が、えん罪というものは少数で警察はやっぱりしっかり捜査しているんだよって雰囲気を醸し出して本当のえん罪が隠されてしまいかねない不安も浮かぶ。これはこれでそれはそれ。そこの切り分けをしっかりと誰もが持つようにならなくてはいけないんだけれど、そう世間に認識させる力を持ったメディアが犯人は犯人だから犯人なんだという根拠無き信念で突っ走りがちだからなあ。これに懲りずに世間は何が真実かをちゃんと考える心を持とう。しかしやっぱり分からない彼の心理。何がしたかったんだろう?

 そうかやっぱり全部中止になったかポール・マッカートニーの日本再来日。10万円のアリーナ席が話題になった日本武道館はまだしも週が変わる大阪の長居陸上競技場までもが中止になるってことは体調に相当な不安があるってことなんだろうと想像できるけど、だったらこの後も続く世界各国のツアーに不安はないのかって心配も浮かんでくる。だからこそここで無理はさせたくなったのかもしれない。ともあれ幻に終わった今回のツアーで日本人が騒がず暴動を起こさないで静かにポールの回復を願ったことが美談仕立てて語られているけれど、騒がなかったのはあくまでポールという偉大なるアーティストへの敬意があったからで、中止への報告を遅らせ返金をどうするか迷わせた主催者への憤りは誰もが相当に持っていたんじゃなかろうか。

 それすらも無かったことにしてしまっては、以後の振る舞いに横暴が生まれる。経緯を振り返って瑕疵はなかったかを検証して同じことが起こらないよう、主催者にはお願いしたいけれどでも、そこが仕切るビッグアーティストのライブに行くことはもうないだろうから別に良いのか。ポール・マッカートニーを見てザ・ローリング・ストーンズを見てボブ・ディランを見た身があと何を見るってんだ? しばらく前ならマイケル・ジャクソンが挙がっただろうけれど亡くなってしまってもはや日本公演も世界公演もあり得ない。20世紀を代表するアーティストとなると後はマドンナくらいしか残ってないけど、日本に来るとはちょっと思えないし。ジェネシス……活動してないもんなあ。あとはきゃりーぱみゅぱみゅが東京ドームを埋め尽くす時を待つくらいか、でもきゃりーはキョードー東京じゃなくホットスタッフが担当するだろうから関係ないか。さてもどうなるポールの再々来日公演は。


【5月19日】 還ってきた「BLACKLAGOON」の第10巻は中国から来たでこメガネちゃんがジェーンに雇われ仕事し騙され追われる羽目になる話が途中まで進んでさあ反撃といったところで追っ手に見つかりそうになってこれからどうなるってところで以下次巻。200ページに満たない段階での刊行に満足すべきか迷うところではあるけれど、ここでさらに詰め込んだ挙げ句に11巻が足りなくなって何年も待たされてはたまらない、同じエピソードで11巻を終えられるくらいに調整してこの厚さになったと考えた方が先に期待も持てる。連載をおいかけてないんでどこまで描かれているか分からないけれど、こうやって動き出した以上は少なくとも今のエピソードの最後くらいまで描かれると信じて待ち続けよう。

 幸いにして限定版が出てそこにはこれまでに「BLACKLAGOON」について描かれたり、他のゲームソフトなんかについて描かれたイラストが満載の画集がついていて、眺めているだけで広江礼威さんの世界であり「BLACKLAGOON」の世界にどっぷりと浸れるし、付録のお風呂ポスターを布団の中にでも敷けばさらに官能も高まるというもの。合わせてコンビニコミック風の装丁で出た最強メイド・ロベルタちゃんシリーズを読めばターミネーターばりの登場からレヴィと殴り合って帰国し、そして舞い戻っては米軍相手にドンパチするアクションまたアクションの展開をまとめて楽しめるから最新刊までの渇望はこれで抑えられそう。ついでにOVAのロベルタ再襲来編を見直せばバッチリなんだけど部屋のどこに仕舞ったっけブルーレイ。ボックスもあるけどそれもどこに仕舞ったっけ。整理整頓が出来る部屋にいつか住みたい。

 気が付いたらサッカーの女子日本代表ことなでしこジャパンが来年だっけかに開かれるFIFA女子ワールドカップ2015カナダ大会への出場を決めていた。ベトナムだっけかで開かれている予選で各グループで2位にまで入れば出場でそうでなくても5位になれば出場できるってレギュレーションは昔に比べて楽だなあという印象。2003年のワールドカップ出場を目指していた時は最初の予選で抜けられず次の大会でも権利を獲得できないまま大陸間予選へと進んでそこでメキシコを相手に10万人が入るアステカスタジアムをほぼ埋め尽くした完全アウェイでなおかつ高知という状況で、息苦しさを吐き気に悩まされながらも2対2で引き分け次への希望をどうにか繋いだ。

 そして戻った東京は国立競技場で当時としては女子サッカー最多となる1万2000人を集めてメキシコを迎え2対0で勝利しワールドカップ出場を決定。本大会ではやっぱりあんまり勝てなかったけれど、それでも一時大きく沈んでいた女子サッカーへの関心が盛り上がる土台を作った。そして迎えた翌年のアテネ五輪出場が今のなでしこジャパン人気を確たるものにしたと思えばワールドカップ出場はやっぱりとっても重要なこと。それがこうあっさり決まってしまうことを強くなったと喜びたい判明で、強いんだという過信が選手たちの間に、あるいは運営の側に生まれないかという不安もつきまとう。

 今回の大会でも初戦でオーストラリアを相手に引き分けるのがやっとだった訳で、これで世界に出てドイツやアメリカとやって10回中で何回勝てるかっていうのが今のなでしこジャパンの実状。そこをしっかり理解しつつアジアでの戦いを成長に活かせるような指導なり鍛錬を、怠らないようにしていけば長く続く天下も可能なんじゃないだろうか。まずはだから大会での優勝を狙って欲しいもの。負けても次に繋がる課題を見つけて欲しいもの。戦いぶりを見ていこう。楢本選手とか吉良選手が出場して活躍したといっても相手はヨルダンだったってことも忘れないよう。でもメディアはそれをもって大活躍と騒ぐからなあ。そういう持ち上げにもやっぱり注意。

 数日前だか哲学者の森岡正博さんが、バルテュス展のメインビジュアルになっているポスターが朝日新聞に掲載されていたことについて「これは芸術の名を借りた児童ポルノ絵画だとみんなはやく気づいたほうがいい。少女という存在の価値はこれだと脳裏に叩き込むポルノだ。西洋美術・巨匠という装置に弱い大衆心理を利用した広告だ」と書いていたことについて色々と突っ込みが入って、侃々諤々の議論が始まっていたことについてまず思うのは、「児童ポルノ」とカテゴライズされるものに絵画作品は入っておらずそれをそういう語彙でもって指摘するのは筋が違うってこと。そういう突っ込みもすぐさま入って森岡さんも言を改めてはいたけれど、主張自体を大きく変えたようではなかったみたいで、その後もいろいろと物議を醸している。

 それは過去に散々っぱら議論されたことであって、バルテュスの作品が芸術家ポルノかなんて話を今になって持ち出すのはナンセンスだという意見もなるほど理解はできるけれど、ここでちょぴり立ち止まって考えたいのは、森岡さんが割と状況を限定した上でそこに何か意図めいたものはないのかってことを伺わせていること。もちろんストレートに書いてはないから、純粋にこれポルノじゃんと憤っている可能性はゼロではないけど、そうではない、朝日新聞の社会面というある意味で広く公衆に開かれたパブリックなスペースでもって、少女のあられもない姿が描かれた絵を紹介していることを挙げ、新聞という権威なり現代美術の巨匠という文脈なりを乗せて体裁を取り繕ってはいても、その情動を誘うようなビジュアルとただ掲載してしまって大丈夫なのか、という懐疑がそこにあるようには取れないだろうかか、なんて考える。

 アートの世界なりサブカルの世界も含めた知識でもって状況を理解することに慣れた層には、これはこういうものだという解釈がすぐに生まれてスルーできても、アートに場慣れしてない新聞の読者層がいきなり見て、いったいどういう理解が生まれるか、ってことへの配慮は果たして足りていたのか。心の奥底にある感情を誘い官能を引き出す装置とはなっていないか。そんな辺りについて考え出すとやっぱりナンセンスだと切り捨てて良い話でもなさそう。掲載に踏み切った側なり広告を仕込んだ側なりが、これは芸術なんですよだから疚しく思う必要なんて無いんですよって外面を見せつつ、内側でお前らこういうのが好きなんだろうって情動を誘って集客に繋げようとしている可能性。そんな誘いに乗って安全圏を勝手に設定した挙げ句に一線を踏み越えてしまう事態が起こって、すべてが同じ目で見られてしまうようになるのが怖い。だからやっぱり指摘を真っ向否定するんじゃなく、そういう指摘が生まれる状況なり心情を考えてみるのも必要だろう。自分はいったいどう見ているのか、それをどういう理解へと落とし込んでいるのかも含めて。

 溜まってきたHDDレコーダーを整理しようと「ハイキュー!!」をまとめてみたら面白かったよとてつもなく。バレーボールをテーマに技術は拙いけれどジャンプ力とスピードだけはある身長の低いアタッカーと、それからトスとサーブの技術は凄いんだけれど唯我独尊で自分に合わせろと周囲をさげすむ王様プレーヤーが中学では敵対し、それが高校に入っていっしょのチームになって起こる摩擦から融合を経てチーム全体を強くしていくストーリーは、あの名作「スラムダンク」とかと同様の流れを汲みつつ現代ならではのプレーヤー心理も織り交ぜ描いていて次はどうなるんだろうって毎週見たくなる。原作を読んでいてもあの場面がアニメだとどう描かれるか、なんて興味を引かれそう。

 バレーボールってスポーツならではのジャンプのタイミングやレシーブの構えが実に正しく、なおかつ格好良く描かれているのも見ていて違和感を覚えない理由。この辺りは同じ監督が関わった「おおきく振りかぶって」でも見せていたことで、スポーツのリアルとドラマのスペクタクルをちゃんと描いていて、見ていて自分もスポーツをやってみたくなる。これに煽られ男子バレーボールに進んだ男子が数年後、いっぱい出てきて日本のバレーボールが強くなると面白いんだけれどなあ。日本じゃメディアはバレーボールといったら女子しか追いかけない。スピードでも高さでもパワーでも圧倒的な男子バレーを蚊帳の外扱い。そんな意識の外側での男子バレーボールの盛り上がりに、メディアはいつ気が付き持ち上げようとするか。見守りたい。まあ頭が硬くてトレンドに疎い今のメディアにそういう転身がすぐに可能とも思えないんだけれど。さてはて。


【5月18日】 捕まってしまうとは情けない。というか前にあれだけ週刊誌に報じられて怪しまれていて、どうして覚醒剤を続けられるのかが人間の心理として分からないけれど、それがやっぱり覚醒剤をやってしまう壊れた人の心理ってヤツなんだろうなあ、「CHAGE&ASUKA」のASUKA。その才能については誰もが認めるミュージシャンで歌っても作っても最高の音楽を聞かせてくれるんだけれど、そのどこまでが薬の力によるものだったのか、それとも逆に力がなくなってしまったことから逃げるために薬を使っていたのか、これからの解明が待たれるところ。過去に似たことをやって復帰を遂げたミュージシャンもいるだけに、その能力が必要とされればまた戻ってきてくれるとは思うけれど、現役としての活動がちょい、見えていなかっただけに涸渇から破滅へと向かいかねないかが心配。ファンにCDを送ったという新曲とやらを聞けばそれも分かるかなあ。

 就任以来チャンピオンズリーグへの出場を欠かしていないってことだけでも、とてつもなく凄いことなんだけれど、やっぱり優勝というものから遠ざかっていると、監督としての拙劣さを問われてしまうのがサッカーの世界。だからこそ優勝したかったFAカップでイングランドのアーセナルがハル・シティを敗ってどうにかこうにか優勝を果たしてこれでマンチェスター・ユナイテッドと並ぶ11回目のカップを獲得。ヴェンゲル監督もサー・アレックス・ファーガソン監督に匹敵するくらいの栄誉を得たって言って良いんじゃなかろうか。そうでなければほかに名監督と呼べる人がプレミアリーグからいなくなってしまうから。

 試合開始早々に2点を先取されて1点を返しそして同点に追い付いて、延長戦で引き離すというのはプレミアリーグの上位に位置するチームとしてどうなんだって気もしないでもないけれど、ハル・シティだって歴としたプレミアリーグの一員で、今期も降格を免れ来期もいっしょのリーグでプレーすることが決まっている。それなりの実力がなければなし得ないことをしたチームだから力は台頭。そこでしっかり勝ちきってカップを手にしたアーセナルをここは素直に誉めるべきなんだろう。とりあえず来期以降もヴェンゲル監督はアーセナルを率いるみたいで、フランス代表がディディエ・デシャン監督の世代まで降りて来ている以上はもはやヴェンゲル監督に出番もないのは見えているから、このままアーセナルに骨を埋めることになるのかな。ザッケローニ監督の後の日本代表とか率いて欲しかった気はするけど仕方がない。お金も潤沢に使えるようになるみたいなんで来期こそはプレミアリーグの優勝を、そしてチャンピオンズリーグの優勝を果たして欲しいと海のこっちから声援を贈ろう。

 2日目のデザインフェスタはやっぱりそれなりな長蛇の列が出来ていて、昔みたいにのんびりはじまりまったり終わるようなイベントからちょい、変化を見せていることが見えてきたって感じ。場内を歩いてもあちらこちらに壁サークルみたいな行列が出来るブースもあったし。前もそりゃああったけれど場内を誘導する感じに列形成するブースってあんまりなかったよなあ。これも時代か。あるいはしっかりとした実績も実力もありながら、ショップとか商業とかいったものでの販売をもはや諦め、イベントでの直販とネットでの展開に絞るクリエーターが増えて、そういった人を目当てに集まるお客さんが増えてきたのかもしれない。

 立ち寄った太郎商店ことザリガニワークスでは「コレジャナイロボ」がずらりと並びコレジャナイロボの着ぐるみが歩いている姿を拝見。あと「ロボットガールズ」って東映アニメーションによる映画作品の案内をもたってそこに「コレジャナイロボ」が映っていることをおしえてもらう。出るんだコレジャナイロボがコレジャナイくせにコレジャナイ感を炸裂されながら。聞けばあの大張正己さんが何か担当して描いたところもあるとかで、コレジャナイ感漂うコレジャナイロボをこれぞロボといった感じに動かした時にどんなこれこそがコレジャナイロボといった雰囲気が立ち現れるのか。ちょっと楽しみに。映画を見に行く動機が高まった。

 うらうらと歩いていて見つけたのが今回が初出典という造形作家の小池正典さん。それほど大きくは亡いんだけれど10センチくらいの一種フィギュアと言えそうなものを並べていて、それが何というか建物のような生き物のような不思議なフォルムをしていて見ていて吸い込まれる。それこそ野又穫さんが描く砂漠の国の塔とでも言うんだろうか、あるいは吾妻ひでおさんが描く不条理な怪物とでも言うべきなんだろうか、そんな類例もあがるけれどもだからといって似ている訳ではない独特のオブジェが並んでいて、それぞれに深淵なネーミングが付けられている。調べるとカイカイキキが中野に持ってるOz Zingaroとか札幌でやっているカイカイキキのポンコタンで展示もしたそうで、その意味では村上隆さんの目も通ったくらいに現代に問われるべき作品ってことになるみたい。

 そんな御託を載っけなくても見て存分に感じ入るところがある作品群。聞くと平面に図像を想像の赴くままに描いたものを、立体化していくとああいった生きた無機物的なものだったり有機物だけれど地球っぽくない不思議な形が浮かび上がってくるという。そういう明解ではなくイメージで語るところがアーティストなんだなあと思った小池正典さん。価格も1つが1万5000円とかそんな当たりで未来あるアーティストの優れた作品と思えば決して高くないんで欲しかったんだけれども貧乏が辛い窓外野郎には荷が重かった。でも本当に素晴らしい作品なんで心と懐に余裕のある人はまず見てそして購入して間違いはないと言っておこう。別に補償はしないけど。でも見ればきっとそう思う。今度はどこで展示があるのかなあ、個展とかグループ展もやっているみたいなんで動勢をチェックだ。

 ちょっと早めに切り上げてZepp Tokyoへと回ってきゃりーぱみゅぱみゅのワールドツアーにおける日本公演2dyasの2日目。パジャマな衣装の後に着る衣装が昨日は緑色のスイスだかな民族衣装っぽかったのが黒いコウモリみたいな衣装になっていたのと、大人ダンサーの衣装が昨日はパジャマっぽかったのが今日はおめかしした衣装になっていた違いはあったけれど曲目はだいたい同じでオープニングの「インベーダーインベーダー」からぶっ飛ばして曲とダンスをとにかく見せる展開に、フロアでスタンディングで見ていた人はきっと相当にエネルギーを使い果たしたんじゃなかろうか。いつにも増してビッチリ感が凄かったし。でもって最後にホールツアーの発表があって幕張メッセと代々木第一体育館が関東近辺では開かれる予定。どっちも行くぞ。名古屋は日本ガイシホールで2日間やるけど2日とも平日なんだよなあ、仕事辞めていくか、それだけの価値がきゃりーぱみゅぱみゅのホールツアーにはあるし。そして今の仕事の価値はそれに個人の感性として及んでないし。

 そんなきゃりーぱみゅぱみゅの裏で開かれる予定だった国立霞ヶ丘競技場でのポール・マッカートニーのライブが昨日に続いて今日も中止となって明日に振り替えられる予定だった昨日の分もやっぱり中止に。きっとZepp Tokyoできゃりーぱみゅぱみゅを見たくなって中止したんだ、ってデマはさておいて、この勢いで日本武道館も中止になり大阪の長居陸上競技場でのライブも中止になったらいったいどれだけの損害をプロモーターのキョードー東京が被ることになるのか、って心配がひとつ浮かぶ。あとは昨日に続いて今日の中止はその体調からもっと速く判断できなかったのかっていう疑問も。

 だって早々急に回復する訳じゃないなら昨日のうちに中止としておけば今日になって国立まで来て待ちぼうけを喰らわされることもなかっただろうに。遠方から今日来た人なんて交通費がまるまる損でそれは払い戻しでは戻ってこない。それともグッズを買いに来られただけでも幸運だとでも言うんだろうか。誰が悪いって決めるのは難しいけれど、ただポールは歌いたいと頑張ってるんだ、誰が止められるんだとポールを擁護し、ポールは頑張ってたんだ、直前になって医者が止めたんだとやっぱりポールを擁護しプロモーターも擁護する音楽業界の人にはやっぱりやれやれと思うしかないのかなあ。直前まで止められないような医者を雇ってたのは誰なんだとも思うし。やれやれ。


【5月17日】 KADOKAWA・DOWANGOの誕生に合わせて角川歴彦さんがニコニコ動画で人気となったコンテンツをどんどんと引っ張ってきて、角川で出版していけるようになるって話をしていたことに、数日前の日記でそこに編集者の介在はどこまであるんだろうか、ネットで人気になったものを引っ張ってきてネットでの人気をあてにして出していく連続になってしまって、そこにプロデューサー的な能力は必要とされても、発掘して育成して鍛錬して創出するような旧来型の編集者としての能力はあんまり必要とされなくなるんじゃないかって不安をボソボソと綴っていた。

 そしたら同じような不安というか不満というか、決してポジティブには読めない感情を、編集者で漫画原作者の大塚英志さんが星海社の「最前線」ってサイトに寄せた緊急エッセイの中で表明していて、やっぱりそう感じる人が多い事案なんだなあと改めて思ったり。加えて大塚さんの場合は、もはや作家ですらそうしたシステムの中では特権的な地位を得られず、二次創作的なコミュニティが広がる中でひたすらにユーザーの欲望を満たす作品を作り続けることになる可能性なんかも示唆していて興味深かった。

 もはや自分ならではのこだわりだの、作家性だのといったものが世の中に通用する時代ではなく、ユーザーこそが選択のすべてを握る神にも等しい存在として君臨しては、流行なり人気の傾向なりを選びそれをクリエーターに作らせていくという時代。なおかつそうした権威の転倒あるいは権威の分散をユーザーもクリエーターもまるで気にせず、共犯者としていっしょになって何かを作り上げた気になり、そして何かを楽しんだふりをする関係が構築されるようになっている。そうやって生まれたものが世の中に受け入れられ、定着し増大しては席巻していく。

 それで良いのか? って言われればやっぱり昔ながらに作家の創作性を信じて崇めたい身には辛いし寂しいけれど、多くがそう望んでいるというならそれはそれで仕方がないのだろう。そうした時代のプラットフォームとしてKADOKAWA・DOWANGOなる会社は機能し駆動していく。なおかつ主流になっていく。脇で作家性云々を良い特権として崇め祭り上げては、ご託宣を下賜する旧来型の版元は、見放され狭い範囲で宗教めいたコミュニティを作り細々と権威ごっこをしていくことになるんだろうなあ。後発の出版社として権威からどこか一段下に見られていた角川書店が時代の本流となって、エンターテインメントの世界を傘下に治める。ある意味で痛快だけれどそれはいつまで続くのか、永遠にか、作家性への回帰はあるのか、見つめたいその行方を。

 すでに試写で見ているんだけれど「機動戦士ガンダムUC epi.7」、いよいよ公開も始まったで明かすなら、見所はバナージ・リンクスが敵モビルスーツの襲撃にもひるまず「ユニコーン、カム・ヒヤー!」と叫んでガンダムユニコーンを呼び寄せそこに登場しては、「スペースノイドのためニュータイプのため、ビスト財団の野望をうち砕くガンダム・ユニコーン! この一角のトキトキを恐れぬのなら、かかってこいっ!」って叫んで押し寄せる敵を粉砕していく展開がとにかく圧巻で痛快だと行っておこう。本当だってば。いやどうだろう。あとはやっぱりニュータイプという存在が持つファーストガンダムでの唐突感を、時間を重ねることによって修練して人間の歴史の中に折り込みそして未来へと繋げようとした福井晴敏さんの力業がアニメでもピタリと決まっていたことかなあ。超能力者はエリートというより止むに止まれず生まれた存在であり人の可能性を示唆する夢でもあるのだという、そんな話だったっけ。見たのもう前なんでまた見に行って確認しよう。

 せっかくだからとデザインフェスタ。なんか毎回規模を大きくして入場前に大行列ができるまでになっていた。10年前はそんなことなかったのになあ、まったりとした空気が漂う中で誰もが自分のやりたいことを表現していた感じだったけれど、今はもうちょっとバザール的な賑わいが加わったという感じ。とはいえ誰もがやりたいことをやっているのは変わらないから、自分の波長と合うものを捜して回って見つける楽しみはちゃんとあるから大丈夫。あとは通路が歩けなくなるくらいに人が来てしまうことが楽しみでもあるけれど怖くもあるかなあ。いずれ西館(にし・やかた)に止まらないでビッグサイト全体に広がるイベントになっていくのかなあ、ってか東京オリンピックん時はどうするんだろう。やっぱり幕張メッセかな。

 OTACCIMAN de PLIMEって店でサイケデリックなTシャツを見て購入、KAMATY MOONではスチームパンクなカピバラが可愛かったけれどさすがになかなか手が出ない。でも似たような値段の物が売れていく。すごいなあ鎌田さん、長く出続けて造形し続けてデザインフェスタでも屈指の人気ブースになっていった。個人の力が最適な場所を得てそれなりの規模で人気となればちゃんとビジネスになるというひとつの例。それが出版という規模でも出来るようになれば面白いんだけれどいかんせん、本を2万円で売るわけにはいかないし漫画を3万円で売るわけにはいかないからなあ。だから旧来メディアの権威の香りが残るプラットフォームが未だ尊ばれるんだろう。それすらも変わっていくとしたら果たして出版社の役割は、なんてことも考えた昼下がり。

 見た中で面白かったのはギターみたいにフレットがあるのフレットバイオリンってのを作っていたエルデ楽器の展示。パッと見はただのバイオリンで奏でている音も普通にバイオリン。何でそれで出ているんだろうとよくよく見たらネックにフレットがついていた。なるほどお。バイオリンってだいたいの位置でもって抑えてそこでしっかりとした音程を出せるようになる必要があるけれど、フレットがあればその音がピタリと出せる。もちろんちょいズラして微妙に揺れを表現するようなことは出来なくなるけど、それが必要になるような場面ってそうはない、むしろしっかり音程を出す必要があるのなら、最初からフレットがついていた方が良いんじゃないかという訳。良いアイデア。聞けばマンドリンとか弾ける人なら簡単に音階を出せるとか。ウクレレでも良いのかな。それでバイオリンが弾けるようになるならちょっと試してみたいかも、ってそもそもギター弾けないんだった僕。

 あとは前にも見てちょっと気になっていたキノコのランプこと「グレイトマッシュルーミング」にまた会えて、超モヒカンの制作者の人がいたんでいろいろ話を聞いたら10年くらい前からずっと出ていたとかでその割には合ったのが2回というのはつまりそれだけ会場が広くて隅から隅までずずいっと見て回るのが困難になっている現れなんだろうなあ。さてキノコのランプは流木なんかを拾ってきては磨いた上に樹脂で作ったキノコを生やすようにくっつけ中にLEDを入れ電線を通し流木なんかに電池を仕込んで光らせるようにしたもの。四角い鉢植えっぽいタイプのもあってそっちは落ち葉とか土の上に生えている感じを再現している。

 とにかく本物っぽくってそれでいてボーッと光るところがとっても深淵。薄暗い部屋に置いて眺めていたくなる。欲しかったけど値段は結構したし、売り切れも多かったんで断念。割といろいろなイベントに出ているそうなんでそっちで見かける機会を待とう。しかしあれだけの値段のものが売り切れていくと相当儲かるんじゃないかと思ったけれど、さすがに数が作れるものではないので商売になっているかというと難しいみたい。記号なんかとコラボレーションして量産するって手もあるんだろうけれど、キノコに特有のあの細い茎の部分は再現が難しいからやっぱり自分で作るしかない、だって欲しいから。そんな思いと欲しい人に買ってもらえれば嬉しいという心理がいたずらに商売に走らない、デザインフェスタならではの文化祭っぽさに繋がっているんだろう。それが失われないまま続いて欲しいけれどこの賑わいぶりはどこにいったい向かうのか。続く限りウォッチしていこう。

 その足でZepp Tokyoへと回ってきゃりーぱみゅぱみゅのワールドツアーのなぜか2日間だけある日本公演を見物。割と知っている曲を散りばめつつ新曲なんかも混ぜつつって感じで「PON PON PON」とかもあってこれなら外国で演じてもお客さんの受けは良いだろうなあ。新曲は映画「クレヨンしんちゃん」の主題歌とそれから来月だっけ、いつだっけかに出るauのCMの曲「きらきらキラー」で「しんちゃん」の方は豊洲であったCDの発売記念イベントで見ていたけれど、「きらきらキラー」は全部聞くのもダンスを見るのもこれが始めて。キャッチーで耳に強く残るって感じじゃないけど聞いているうちに入って来そうな曲って印象。CMが流れて来たらちょっと注意して聞いてみよう。Zeppはあの狭さに2000人がぎっしりでなかなかの熱気。そういう一体感のあるライブも好きだけれど、日本には多い子供のファンにはちょっとやっぱりキツいかも。その意味でホールツアーを平行してやるのもファンに優しいきゃりーぱみゅぱみゅならでは、ってことなのかも。行くぞそっちも。


【5月16日】 ちょっと待て、例の母子が描かれていてそんな人が乗った米国の輸送船が敵から攻撃を受けるかもしれないから、日本の自衛隊が出張っていって集団的自衛権を行使しましょうって訴えていた安倍晋三総理の記者会見時のあのパネルのようなケースが出るとしたら、それってつまり母子は船でも飛行機でも通常の輸送手段が利用できなるくらいギリギリまで危険地帯に止まっていて、ようやく米国が用意した船なりで脱出しようとしたものの、周辺には敵がわんさかいていつ襲われるかもしれない危険な状況に置かれてしまったってことになる。

 それってちょっとおかしいんじゃないか、だって普通はそんな状況になる前に、旦那の勤め先なり外務省なりが避難を呼びかけ船でも飛行機でも用意して引き上げさせる。それがなくって取り残されてしまったとしたら失態は外務省なり国にある訳で、それをすっ飛ばしていきなり集団的自衛権が必要になりますっていうのは順序が違うし、多くの場合においてそうはならないだろうから、それを理由付けにするのがそもそも間違っている。レア中のレアケースを持ち出さないといけないくらい、導入理由が希薄だって時点ですでに議論の足下が崩れているんだけれど、そこに気づかない莫迦なのか、気づかないふりをしている阿呆なのかはともかく、情動を誘うような言説でもって振り切ってしまった。

 だいたいが邦人を乗せているからって、それが米国の艦船ならわざわざ日本から艦隊が赴かなくたって、世界に拠点を持っている米国海軍なりがしっかり守るだろう。それとも自国の財産であるところの艦船を守らない国なのか。そんな訳はない。だからあくまでレアケース。それも情動に誘いかける。それをもって突破しようとした果てに来るのは当然ながら米軍と連動しての自衛隊の戦闘投入。だってそれ以外に相手が自衛隊の戦力を欲しがる理由がないじゃん。輸送力だの機雷除去能力だのといったものもなるほど評価されているかもしれないけれど、それなら今までだってやれたこと。敢えて改憲なり解釈なりを行い導入する理由、ってところを考えないとやっぱり意図を見誤る。というか知っていてもそうなってしまうこの国の未来の恐ろしさ。なおかつそれを分かってないのか分かってない振りをする国民の無関心ぶり。もう1度やっぱり滅びてそこから出直すしかないのかもしれないなあ。嫌だなあ。死にたくないなあ。

 リアルに著作権侵害があったことを咎めようとしたものの、相手は天下に名高い少年ジャンプであってその方法もパロディという手法を通じてのものだから、抗議をするにしても真正面から弁護しなりを立てて行くのも野暮だと思って当該の著作物が抗議に行くという形をとって場を和らげ、そして相手もそんな著作権者の出方をガチではなくってユルく受け止めることによって穏やかな空気の中で手打ちをしましょうってことだったとしたら、ああいう成り行きになっておかしくはなかった「ゆるキャラ伝説 くまモンじゃないヤツ物語」に関するお詫びと経緯だけれど、どこかに最初から仕込みがあって、著作権表記の無記載から抗議へと至り受けて謝罪から和解へと向かうストーリーを作り上げていたように見えるところがあって、どうにも気持ち悪さが漂うのだった。良い話が苦い話にすり変わるその差はどこにあるんだろうか。最初にガツンと行かず最初から出来レースっぽさを醸し出してしまっていたところにあるのかなあ。ちょっと考えたい。

 魔法少女はもはや女の子たちの憧れであり救世主でありアイドルではあり得ないのだろうか。まずは御影瑛路さんの「僕らは魔法少女の中 −in a magic girl’s garden−」(電撃文庫)で魔女は恐怖の象徴として人類の前に立ちふさがっては、残酷なまでに殺戮を繰り返す。人間の中から生まれ異能を振るうようになった存在が魔法少女で、その際に記憶もそして倫理観といったものをまるで忘れてしまうのか、ただ人間の魂を食料として喰らうだけでなく気の赴くままに殺し嬲り虐げる。人間はただ逃げるばかり。そうして逃げた先でもやっぱり魔法少女はいて、その魔法少女は12歳から17歳の少年少女だけを囲って閉じこめては1週間に1人だけ、魂を食べるという恐怖で縛り付けていた。

 空殻ファームと呼ばれるその閉鎖区域でいつ訪れるかもしれない死を待つばかりだった少年の水無月岳哉は、かつて自分が逃げまどっていた時に助けてくれた少女が次の生け贄として決まったことから、自分たちを閉じこめている魔法少女のホワイトノワゼットを倒すと決める。そのためには閉鎖空間にあって秩序を維持している生徒会を説得し、人間に化けているだろう魔法少女をあぶり出すため、ホワイトノワゼットが食事をしなくてはいけない1週間の期限で、可能性のある人間を集めて隔離する作戦に出る。そしておそらくはその少女こそがホワイトノワゼットかもしれないと当たりをつけ、殺害しようとした瞬間、世界は驚くべき変化を迎え、そして岳哉はホワイトノワゼットの本当の目的を知る。

 1週間に1人というホワイトノワゼットはまだおとなしい方で、他に登場する魔法少女は爆発する蝶々を飛ばして人間たちを次々を殺戮したり、みかけた人間をいずれ食料にする予定で囲いながら家畜のように扱ったりする。逆らおうにも人間の何倍もある体力とそれから異能で人間を寄せ付けない、そんな魔法少女たちの恐怖に立ち向かおうとする人間がいて、立ち上がり挑んでいく展開が後半に待っている「僕らは魔法少女の中」。そこで鍵となる人間がかつて経験してきた魔法少女の異能の凄まじさたるや。自分だったらどんな人間となりそしてどんな心理となったか想像するだけでふるえが来る。そして見えてきた本当の敵の正体。果たして勝てるのか。人間は生き残れるのか。そもそも魔法少女とは何なのか。なんてところが続く巻で描かれそう。楽しみだけれど怖いなあ。いろいろ隠されている情報も多そうだし。

 それから斧名田マニマニさんの「特別時元少女マミミ」(集英社スーパーダッシュ文庫)は、雰囲気こそ人間の心から取り出した武器で犯罪者を相手に戦う正義の魔法少女たちの活躍を、銭ゲバなマミミという少女が自分もここでは時限少女と呼ばれる魔法少女になりつつプロデュースしてもっと稼げるようにしようと画策するポップでキッチュな話だったはずなのに、途中から時限少女として活動し続けると限界が訪れ倒れてしまうとか、相手の心に入りこんで武器をとろうとして捕まってしまい本体はそのまま眠りについてしまうとかいったネガティブな情報も明らかになって、時限少女たちが見かけとは違ったシビアな境遇に置かれていることが見えてくる。

 そんな境遇に嫌気が指したが自分を許せなかったか、ひとりの時限少女がすべてを露見させ自らを捨ててまで告発しようとするけれど、財産家の父親の下で時限少女をプロデュースしていたマミミにとっては知らなかったとはいえ自分も関わっていた時限少女の厳しい扱いを省みつつ、友だちになった時限少女を救いたいという気持ちもあって強い相手に挑み難しい局面を打開して戦うことにある。銭ゲバ娘の細腕繁盛記みたいな話でもあるし、時限少女たちが集い百合的にウフフキャハハする話でもあるんだけれど、それらを超えてシリアスな友情と正義の物語になっていくところが面白い。不思議なバランスを持った魔法少女物。続きはあるかなあ。


【5月15日 】 KADOKAWA×ドワンゴの会見で思ったというか引っ掛かったことひとつ。角川歴彦さんはドワンゴを取り込む意味としてニコニコ動画とかから生まれるコンテンツが、KADOKAWAのグループにおける出版で結構な意味を持つようになってきたといったことを話してた。つまりはボーカロイド小説と呼ばれるカテゴリーで、おそらく筆頭は「カゲロウデイズ」あたりが念頭にあっての発言だろう。売れているからなあ、あれ。

 そんなネットで人気を精査され知名度も与えられたコンテンツが、メディアミックス的に展開されれば評判になることは半ば当然の話で、それをすくい取って展開すればやっぱり売り上げも取れるという意味は分かる。でもなあ。そこに編集はあるのだろうか。育成はあるのだろうか。発掘はあるのだろうかとナイーブにも考えてしまうのだった。砂漠の中にきらりと輝く砂粒を見つけ、今はまだ海の物とも山の物ともしれない才能をそれでも信じて支え鍛えもしながら、世に送り出してそして広めていく醍醐味、出だしは芳しくなくても次第に評判をとりやがてとてつもない存在になっていくのを見守る感慨、といったものはもはこの景気厳しい情勢では不要で、今をとにかく稼げる人をかき集めることが必要になっているんだろう。

 そして今の人気者が、明日の人気者で居続けることが難しいのは何でも同じ、だから別の人気者へと目先を移してそちらに稼いでもらう繰り返しになっていくんだろう。そうはならないとしがみついてでも、才能を発揮し続けられる人こそが本物だからそんな淘汰のシステムでも良いんじゃないと思わないこともない。でもそれだけでもないんだけれど、余裕のない状況がそれだけを求めてるようになってしまっている。そんな気がする。それは「小説家になろう」で人気という触れ込みでもって、あちらこちらの出版社が作家を抜き出し抱え込んで送り出す傾向の爆発的な広がりなんかにも思うことでもある。

 結果、溢れかえる似たような傾向の作品群。きっと風向きが変われば別の傾向の作品群がうわっと溢れかえって並ぶんだろう。それはそれであり。商業だから。でもそれだけなのか。そこから3年後5年後を背負う人は出てくるのか。そこもだからしがみついてでも作り続けるしかないという切磋琢磨の厳しさで断じることができるのかもしれない。ただやっぱり余裕がないと生まれ得ないものもあるような気がしてならない。これはただの情緒であって事業ではない。だから甘すぎると言われるだろうけれど、でもやっぱり今を食うことだけで、未来はないという思いだけは強くもっている。

 映画「WOOD JOB! 神去なあなあ日常」でも染谷将太演じる都会から来た若者が、100年前に植えられた木を切り倒してそれが大金になったことに喜んで、今ある木を全部切ったら大もうけじゃないですか、ベンツ乗りましょうと言っていたけど、そうして今は良くても30年後50年後100年後に何が残るのか。植林せず下打ちもしない山はいずれ寂れる。そうならないために必要なことをどこまで実装できるか。意識としてもてるのか。上の英断とやらに引っ張られず流されない魂って奴をうん、KADOKAWAでドワンゴの下に集まって編集の現場で働く人たちには、持ち続けて欲しいと思うのでありました。もちろん受け取る側でも時流だけに流されない意識を持ち続ける必要があるんだけれど。

 チームはやっぱりバランスだなあ、って思ったなでしこジャパンのアジアにおけるワールドカップの予選に当たる大会初戦。オーストラリアを相手にした試合で前線がボールをキープできず中盤は止められず最終ラインは下がってしまってと全体に間延びした中をオーストラリアに抜けられ突破されたりする繰り返し。もっとコンパクトにしなくちゃいけないのにディフェンスリーダーがラインを上げずトップがチェックにいかない状況ではなかなかうまく立て直せない。2点を奪われこれはもうダメかなあと思ったもののそこは佐々木監督とベテラン勢、大儀見優季選手が入ったことで前線にチェイスが生まれ溜もできて中盤が絡めるようになりボール保持率があがってそしてディフェンスラインも整えられて、前半みたいな蹂躙される場面は少なくなった。これからも同じ試合運びを出来れば良いんだけれどそれが出来るメンバーが限られているのが現在の悩みか。これから1年でどこまで高められるのかが連覇の鍵になりそう。山根恵里奈選手はしかし大きい。

 泣くだろうなあ、と読む前に思ってページを開いた青柳碧人さんの「東京湾 海中高校」(講談社文庫)にやっぱり泣いた。内容もストーリーも全部分かっていてそれは前に「千葉県立海中高校」っていうタイトルで出ていた本がタイトルを変えて文庫として出たものだから。千葉市沖の東京湾の海中に街があってそこに暮らしていた人が5万人くらいいて学校もあって千葉県立海中高校っていって通っている生徒たちもいたんだけれど、その街がとある事情から消滅することになってしまったという話を、かつてそこに住んでいた教師に生徒がインタビューして聞き出すという体裁と、そして実際にそこで暮らしていた少女のリアルタイムの経験といった体裁でつないでいって描き出す。

 アクアラングから漏れる空気がぽこぽこと音を立て、周囲を魚たちが泳ぎ回る海中での生活の描写ってものが醸し出すのんびりとしてまったりとした感じと、それでもやっぱり生まれる恋愛や友情といった展開に微笑んでいられるのも途中まで。海流をつかった発電方法でもって運用されていてエコの街だと言われていたらその発電方法に問題があり、そして海中市の成立に大きい役割を果たしていた安価なコンクリートが新しい時代のエコ燃料の普及と引き替えに使えなくなってしまうという問題が起こって海中市の存続が厳しくなる。もう住めない。そして戻れない。溜まっていた思い、おしこめていた悲しみが一気に吹き上がる場面でこちらもついち心をとられて泣けてくる。自分に今そういう経験はないけれど、何かを失う可能性は常にあって、そんな未来を想像して心が重くなる。

 そんな問題に直面して少女は何を思ったか。そしてかつてそうした問題を経験して教師は何を振り返るのか。寂しさがあり切なさがあって懐かしさもある物語。なおかつ政治に翻弄される人々の辛さも描いていたりと社会的な面も持つ。もちろんSFでもある「東京湾 海中高校」はこのどこか雁字搦めにされかかっている社会に生きる若い人に、そして過去を懐かしむだけでなく未来をどうしたかを改めて考えたい大人たちに読んでもらいたい1冊。「浜村渚の計算ノート」のシリーズが有名な作家だけれどこれだって政治に翻弄された数学者の怒りから生まれたテロを描いた社会派的な要素を持った話。ほかにも多々あるちょっぴり奇妙な施策がもたらすとっても不思議な世界のビジョンを、感じさせてくれる作家として追いかけていこう。

 いろいろと噂の「ヴィオレッタ」って映画をイメージフォーラムで観たけれど、胸はおろか裸は見せずパンツだってほとんど見えず淫猥な行為をしたようには感じさせずに撮ってあって、映像単体としてのポルノ性がまず薄く、そしておそらくは演じた少女にもしっかりとケアを行っていて、撮影自体が虐待にあたるようなことはなかっただろうから、その段階で児童への性的虐待を理由にしてのレーティング不能といった状況が起こるはずもなく、そもそもがレーティングをかけられる理由もなかったはずなのに、そうはならなかった不思議な国ニッポン。クール・ジャパンだなんて胸を張ってもそのお膝元がこんな窮屈な国から世界に出ていって、果たして世界を驚かせられるのかが分からない。いや別の意味で日本はレーティングが緩かったりするから難しいんだけれど。

 「ヴィオレッタ」の場合は内容自体が親による虐待を告発するもので、それが実際に親により虐待に類することを受けてきた娘の監督による映画だという要素からも、レーティング云々が持ち出されない方が良かった訳だけれど、観る人にとってはフィルム自体がどうかってところが大きいし、虐待されたか否かは出演した当事者に関わる問題なので社会的だとか自伝的といった要素はまた別と考えた方が良いのかなあとは思った。そこを理由にしてしまうと、これは告発だといった“理由”で中身が非道なものが世に出てしまう可能性もある訳だから。あくまでも作品。そして出演者への影響。そこでの判断に迷いがあったことをひとまずは、問題視するべきなんだろう。結果的には上映は可能になったけれど、R−15というレーティングが付けられたのは残念。だって今まさに虐待を受けている人がその悪夢から醒めるきっかけを奪われている訳だから。

 内容はしかし壮絶で、芸術のためならという言い訳をしつつ実際に芸術のためでもあるという境界線上を行くような作品への判断をどうするかという難しさ、それでもやっぱり一線はあるのだろうと考える理性の大切さ、娘を使って金儲けしたいという意識がこうした児童への性的虐待を含む作品の裏側にびこるなかで、娘をだしにして自分が名声を博したいという親の心が存在し得るかどうかという悩ましさなんてものを想起させてくれる。 他にあんまり類例を観ないケース。とはいえ時代が下って現在においてやっぱり芸術のためだろうが親の名声のためだろうが避けられるべき事態になっているって言えるのかも。

 ということはつまりイリナ・イオネスコの「エヴァ」を持つこと自体が荷担ということに成り得るか否か。そうなんだろうけどそうだと言うのをためらう心理はつまりはロリか、芸術ではあるという意識の正当化か、それを隠れみのにしたやっぱりロリか。そんな男性客は別にして、意外と女性客が多かったのが気になった「ヴィオレッタ」。だって半分以上は女性だったもん。いったい何を見に来ていたんだろう。着飾って持ち上げられたい願望が女性にはあるからなのか、美少女が可愛くて愛でたいからなのか、親による性的な虐待への憤りを抱いている人が多いからなのか、娘を使って自分の名声を高めることへの実行するかはともかく願望がやっぱりあるからなのか。聞いてみたいけど応えてくれるはずもないしなあ。気になるなあ。


【5月14日】 これは良い。そして面白い。百壁ネロさんって人の「ごあけん アンレイテッド・エディション」(講談社BOX)は、血を見ると鼻血を出してしまう体質の散前千々乃という女子が大学に入って校門ですっころんで鼻血を出しているところを、通りがかったイケメンに誘われ行った部屋がスプラッタ映画を愛する残酷映画研究会、通称ゴア研の部屋。そこで千々乃は血まみれな映画のポスターを観てまた鼻血を吹く。そんな体質ながらもゴア研が廃部の危機にあると知った千々乃は頑張ってスプラッタ映画観ますと言い、大変だけれどどうにか入部を果たしてそして……。そんなストーリーには映画に対する愛があり、そして青春と恋愛にかける大学生たちの情熱が満ちている。

 次から次へとスプラッタ映画の話題が出てきて尽きないのも特徴で、それらのいったいどこまでが実在していてどこまでが架空なのか分からないけど、聞くとどこか面白そうで見たくなる。でも要注意。スプラッタ映画はたしかに血まみれでショッキングなのも多いけれど、多くは見ていて眠くなるとか。つまりは退屈。その場面だけが突出していて後はストーリーもないという映画をそれでも頑張って見ることが、ゴア研に入れていられる条件らいし。スプラッタ道って極める以前に入りこむのも大変。千乃之は頑張って……ないか、それ以前に鼻血を出さずに見通す訓練をしている途中だから。

 各章の扉裏にある評論家も誰が実在で誰が架空か分からないけど、そういう言葉を散りばめスプラッタ映画を世に広めようとする熱意はなかなかなもの。さすがは高橋ヨシキさんの「ショック! 残酷! 切株映画の世界」と同逆襲」の2冊だけを参考図書に挙げているだけのことはある。そんなゴア研に次から次へと襲いかかる危機を千々乃や彼女を誘ったイケメンの含野うるてや、他のメンバーたちがどうしのぎどうかわしていくか。そんな合間に起こる恋の問題をどうやって解決していくか。スプラッタ映画に関する知識と恋愛に関する諸々とサークルの存続に向けた頑張りをまとめて読める1冊。それが「ごあけん アンレイテッド・エディション」。読み終えた時にあなたはきっとスプラッタ映画が観たくなる、かもしれない。

 なんか今シーズンで1番くらいなんじゃないかと思えてきたテレビアニメーション「ソウルイーターノット!」は「ソウルイーター」の方でデス・ザ・キッドの銃として活躍しているリズとパティの2人がまだ陽気でもなく快活でもなく「ブルックリンの悪魔」として恐れられた時から間もない状態でとげとげしさを放ちながら「デスバックカフェ」でウェイトレスをしていて、そこにやって来たつぐみやめめちゃん、アーニャを脅して店の外でもちょっかい出して恐れさせてしまうけど、そこは曲がらず曲げないつぐみはしつこくカフェに通って注文できないままミルクだけを出されても、やっぱりひるまず通い続ける。

 そして起こったひとつの事件で見せたつぐみのまっすぐさに、ほだされたのかリズとパティの2人にちょっとの進歩が見えたかな、でも相変わらず注文は通してもらえないみたい。本編「ソウルイーター」であれだけ陽気で快活な2人になれたのもつぐみのお陰だとしたら、そんなつぐみが「ソウルイーター」の時間では何をやっていたのかちょっと知りたくなって来た。デス・ザ・キッドは相変わらずシンメトリーにこだわりつぐみのこめかみの絆創膏を剥がして額の真ん中にもって来ていたけれどそれじゃあ意味ないじゃん。言って聞くような奴ではないか。ともあれ可愛くよく動いてストーリーもしっかり。音楽も良く声も良いこのアニメが、もしもBDを買うとしたら筆頭かなあ、ついでに「ソウルイーター」のBDボックスも欲しいけど。お金が……。貧乏はいやだよう。

 朝から話題はKADOKAWAとドワンゴの経営統合で持ち切りで、いったい何がどうなるんだろうといった想像から例えばKADOKAWA傘下の各編集部で朝の出社の比率が悪すぎるからと経営改革が始まって、ジャージ姿の女子マネージャが朝から来ては編集部員に挨拶をしていっしょにラジオ体操もしてそしてお弁当を配ってくれるようになるんだろうかと想像したけど、プログラマーの人たちに負けずむしろ激しいくらいに朝が深夜に等しい出版社の編集者にはジャージがブルマーでも午前中の出社は無理だろうなあ。っていうかドワンゴはこの施策でいったいどれくらい朝の出社率が改善したんだろう。記者会見で聞けば良かったけれどスーパーエリートな朝日の記者とか来てスーパーエリートな質問をしている中にぶつけたら恥ずかしかったんで遠慮してこっそりここに書く。答えは別に気にしない。

 真面目に考えるならスクープした新聞が書いているようにはクールジャパンでヒャッハーとかワールドワイドにヒョッホーとかっていった展開はむしろ後回しで、当初はやっぱりプラットフォームの多様化が大きなメリットでKADOKAWAが傘下に持つ角川書店だのアスキー・メディアワークスだの富士見書房だのエンターブレインだのメディアファクトリーだのといったところから出ている書籍や雑誌系のコンテンツとか、アニメーションとかゲームとか映画といったコンテンツが世に届く窓口がひとつ、それもニコニコ動画なりニコニコ生放送なりといった最強に拡大している窓口が加わるってことの方が大きい気がした。それは今までだってやっていたけど、いっしょになれば送るコンテンツも増えるだろうし送り方にも工夫が生まれる。送るためのシステムだって開発に力が入るだろう。そんな効果がまずは出てくるんじゃなかろうか。

 あとはニコニコなカルチャーから生まれてきているコンテンツをKADOKAWAの方で取り込めるって可能性かなあ、たとえば「カゲロウデイズ」なんてボーカロイド系として生まれたコンテンツとしては空前の広がりを見せている。そんなユーザージェネレイテッドコンテンツのための有力プラットフォームを傘下に加えることによって、未来に羽ばたく才能を一手に握れるって考えたのかもしれない。そうしたクリエーターがKADOKAWA帝国への傘下を潔しと思わずもっと自由が欲しいとニコニコから抜けないとも限らないけど、そうするにはもはや大きく成りすぎて他に代わるものが今はないんだよなあ、ニコニコ。まあでも栄枯盛衰諸行無常なITの世の中。かつてドワンゴのはるか上を行ってたインデックスとかサイバードが見る影もなかったり聞かなかったりするのを考えれば今飛ぶ鳥を落とす勢いのニコニコだってどうなるか分からない。そうならないための布石、って奴をあるいは考えドワンゴの側でも権威あるオールドメディアに近づいたのかも。

 それにしても一昔前だったらKADOKAWAグループ、たとえばテレビ局とかあるいはラジオ局とかいったオールドメディアとの提携を模索していたんだろうと思うし過去、ドイツのベルテルスマンと提携もしたりしてメディアコングロマリットになろうとしていた時期もあった。でもそうしたオールドメディアが未だ類い希なるリーチ力を持って多くの収益を挙げていても、それが右肩上がりになるとはとても思えずむしろプラットフォームの多様化で影響力をどんどんと落としていくことになる。なおかつかつては最高を誇っていた自前のコンテンツ制作力も今のテレビ局なり新聞は、そうした方面をコストと考え切りつめる方へと向かっている。今は昔譲りのプラットフォームパワーで、他が持ち込んだコンテンツも集まっているけれど、それが衰えた時にそっぽを向かれてしまいかねない。そんな時に浮上するのがあらゆる方面にアピールできるネットワークのプラットフォーム。つまりはニコニコってことになる。

 だからこその経営統合なんだろうなあ角川歴彦さん。ついでに若い人材もいっぱい取り込むことができた。あとは精査して使える人材使える機材を取り込んでいくことによってコンテンツ制作力に優れプラットフォーム展開力に優れシステム構築力に優れた企業が出来上がるって寸法。そこから海外というターゲットにねらいをうつしてどうやって展開していくか、翻訳とかディストリビューションをどうするかっていったことに取り組んでいくんだろう。遠回りだけれど大丈夫、他に着いて来られるところなんてないし、追いかけようとすらしていない。どうなるんだろうなあ国内の他の出版社は。そしてオールドメディアは。買ってくれないかなあ新聞とか。一般紙と違って経済情報に特化していろいろやってた新聞が題字だけ残したような形で宙ぶらりんなんですけど。買えば記者クラブへのアクセス権とかいろいろついて来るんですけど。無理かなあ。知られて無さ過ぎるもんなあ。はあ。


【5月13日】 しばらくぶりに見た「風雲維新ダイショーグン」だけどやっぱり動いていなかった。でもなぜか見られてしまったのは声を担当している声優さんたちがいっぱい喋ってくれているのと、その喋りが巧みで引き込まれてしまうのとがあって絵が例え動いていなくてもそこにドラマを感じてしまうからなのかも。そもそもが漫画だって動いてないけど何か動いているように感じる時がある訳で、そんな漫画よりは仕草とか表情とかちゃんと動く上に声までついている「風雲維新ダイショーグン」なんだから、面白さが漫画以下ってことはない。

 加えて霧子ちゃんの姿態とか唇とか見ていて楽しいビジュアルも豊富。そういう部分に目を凝らしつつ耳を澄ませて集中すればどんなヌルヌル動くアニメーションよりじっくりと本編に没入できる。だからこれはこれで正解。そりゃあ動くに越したことはないけれど、今のままで絵のクオリティ、しゃべりの巧みさを落とさず最後まで突っ走っていって欲しいもの。巨乳キャラも増えるみたいだし、楽しみたのしみ。けど本音を言うなら1番エロいのは本編ではなく間に挟まるCMの、エンディング曲を紹介するPVに登場する歌い手さんの谷間だったりするんだけれど。ありゃ大きい。そして深い。本業は声優さんらしいけどそれだけなのは勿体ないなあ。いけるぜグラビア。揺らすぜイメージビデオ。良いのかそれで。

 なんかお客さんが入ってないという噂が流れて来たんで、打ち切りとか興行規模の縮小なんかを心配して、早めに見ておくかと映画「WOOD JOB! 神去りなあなあ日常」を見に行ったら何だやっぱり面白いじゃないか。監督は「ウォーターボーイズ」で「スウィングガールズ」で「ハッピーフライト」の矢口史靖さん。マイナーな部活だのお仕事の現場だのをテーマにしてそれに取り組んでいる人たちの頑張りを見せることで評判を得てきた監督が、今度は三浦しをんさんの小説を原作に林業というものについて撮った。その組み合わせだけでも面白くないはずがない上に、出演しているのが染谷将太さん伊藤英明さん長澤まさみさん光石研さん柄本明さんと若手中堅ベテラン名優が勢揃い。それが山中の村に集って林業に臨み祭りに臨む姿を演じているんだから、普段見られないような姿がたっぷり拝めて新鮮な気分を味わえる。

 なるほど染谷将太さん演じる街からやって来て林業に勤しむことになった主人公が、なかなか変わらず山を舐めて都会に焦がれ礼儀はなってなく、挨拶もできず仕事にもまっすぐに取り組めないのはちょっと描きすぎって気がしないでもないし、そんな主人公を伝にして都会からやって来たスローライフ研究会と名乗った学生たちの態度も、真面目に仕事に取り組んでいる大人たちに向かうにしてはやっぱり礼儀がなっておらず敬意もまるでない感じ。いくら最近の若い世代が傍若無人だからって、そこまで礼儀知らずで田舎に対して免疫がないものか、って思わないでもないけれど、そこはそれ、ひとつには映画ってこともあるし、もうひとつはやっぱり自然とか目上とかに対する畏敬の念がどこか欠けているってところはあるんだろう。

 それをちょい、抽出して濃さをまして描いてみせることによって、田舎の純朴さと仕事への情熱が浮かび上がれば良いというのが矢口監督の判断だったのかも。同世代の若い人にはちょっぴりムカつく描写かもしれないけれど、そうした世代を苦々しく思っている世代、そして田舎を知り自然を知る世代にはこれほど痛快な映画はないかもしれない。だから見渡してそれなりに年輩の観客が多かったのかな。一方で染谷将太さん演じる青年と山に暮らしてかつてつき合っていた男性に逃げられ今は独り身の長澤まさみさん演じる女性との、どこか初々しくすれ違うようでしっかり繋がっていく恋愛ストーリーは女性には受けそうだし、何よりクライマックスにずらりと並ぶ男たちのふんどし姿が目にも鮮やかに焼き付くだろう。あれだけふんどしが揃う映画はそうはない。見て感動、触って昂奮。さわれないけどね。

 役者ではやっぱり伊藤英明さんが良い感じに山の頑固者を演じていて良い感じ。その肉体も立派だしチェーンソーを持って木を切る仕草も堂に入っている。練習したのかな。もう立派に林業でもやっていけそう。そして光石研さん。大学出のインテリだけれど家業が長く林業をやっている家でその親方として働きみなの面倒も見る。山の上でもミルでコーヒー豆を引きそしてドリップして淹れるこだわり派。みながそうやって淹れられたコーヒーを飲んで満足そうな顔をするのを見て喜んでいる。良い人そう。けど祭りではちゃんとふんどし一丁。肉体は立派。たるんでない。そこが良い。染谷さんがなにか1番ぶよぶよしている感じがした。まあ街から来た青年ってことで仕方がないのかもしれないけれど。

 あとやっぱり柄本明さん。頑固な老人という感じだけれど恩には厚い。染谷将太が孫を助けたら感謝に来て、そして仲間に迎え入れる。格好いいなあ。そんな柄本さんが祭りの場で発した声の朗々として響くこと。役者としての力量を見た思い。あとは長澤まさみさんかなあ、行けず後家、って言うには若々しいんだけれどやっぱりいろいろ悩みもあって、それを出さずに頑張っていて、山に対する強い思いもあって、ってそんな女性をほぼすっぴんで演じている。田舎に派手な化粧の女はいない。けどそれでも美しい。あれでどうして貰い手がないのかが分からない。性格かなあ。染谷将太演じる青年はそれでも向かっていくけれど。

 そんな役者を見るのも楽しく林業について学ぶのも嬉しい映画。見終われば良かったなあ、そして山に行ってみたなあと思えてくる。だから林業の産地を抱える土地では高校生にこれを見せてそっちに進む生徒を増やしてみるのが良いんじゃないか。あるいは林野庁なり農林水産省は、街に拠点を開いて映画を観られる環境を作って、見終わった人に研修生の申し込みをさせてそのまま山へと連れて行くんだ。3年は帰りませんという誓約書も一緒に書かせるおとをお忘れなく。長澤まさみはいませんとも小さく書いておくことも。それにしてもどうして流行らないかが分からないけど、事前にそれほど宣伝があった訳でもなく、「舟を編む」の三浦しをんさん原作だとも「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」の矢口監督作品だとも知らない人が多い気がする。そのあたりテコ入れするなり面白さを伝える口コミを増やせば逆転は十分あり得そう。これからこれから。なあなあで。いやなあなあじゃあいかんのだが。

 なんかもう言論がグダグダで。とある新聞における論説なんだけど、子供の入学式を優先した教師が許されるなら乗員を見捨てて逃げ出した船長だって認められるべきなんじゃね? とか言ってやがる。けどそうはならないのは船長は船を運命を共にするべきだと未だ思われているけど教師は生徒を優先しなくても良いんだと思われるようになっているとも。違うだろ。船長は船と共に死ななかったから非難されているんじゃない。乗員を見捨てむしろ積極的に見殺しにして逃げたから非難されているんだ。そして教師は学校と相談した上で生徒たちにも謝る言葉を残して子供の入学式に行ったんだ。それで誰か傷ついたか? 死んだのか? 教師は生徒ともに死ねとでも言いたいのか。言わんとしていることは分からないでもないけれど、それを言うときに持ち出す例えの崩れっぷりが我慢ならない。どうして真正面から教師の在り方を問えないのか。船長の話なんて無理に持ち出すのか。そんなに自分の言葉に自身がないのか。これで論説副委員長なんだぜ。どうしたものか。どうしようもないのであるか。未来が見えない。


【5月12日】 サプライズがどれだけあっても、出場しなければそれはベンチの置き石でしかない。そこにいるだけでオプションは増えるとはいっても、使われないオプションは絵に描いた餅ほどにも食べられない。つまりは無意味。サッカー日本代表がFIFAワールドカップ2014ブラジル大会に出場する23人の選手を発表して、そこに川崎フロンターレに所属する大久保嘉人選手が入っていたって話題になっているけれど、果たして本番で大久保選手を試すようなシーンが訪れるのか。例えシーンが訪れたとしても本当に大久保選手は試されるのか。それがもっとも重要な部分だろう。

 なにしろ頑固で保守的なザッケローニ監督の選手選びに采配で、ドイツのマインツに所属して日本人選手としては最多となる得点を記録して絶好調な岡崎真司選手がフォワードのファーストチョイスに来ることは目に見えているし、そんな岡崎選手が2列目の右サイドに入ったところで、ワントップに来るのは大迫勇一選手か柿谷耀一郎選手で大久保選手ではなさそう。かといって岡崎選手に替わってサイドに入るというとちょっと不透明。そんな大久保選手が登場するのは、試合が決まってからの少しの交代か、どうしても追い付きたい時に前線を厚くするような起用に止まりそうで、今の川崎フロンターで与えられているような地位もポジションも、与えられそうにない。

 それで果たしてあの“悪童”が納得するか。若い時からキレやすくってブレやすく、才能を認めていたジーコ監督もそんなメンタルをもてあまし、最終的にワールドカップ2006年ドイツ大会の選考から漏れた大久保選手なだけに、ザッケローニ監督の下での自身の扱いについて気分を痛めて働けないってことも考えないでいられない。まあ年齢も重ねて31歳になって落ち着きも出て、川崎フロンターレで何か問題を起こしたという話は聞かないから、人間として大きく成長したのかもしれないけれど、その分昔のようなキレがあるかというと悩むところ。切り札としての凄みって奴があんまり見えないんだよなあ。

 というか、今みたいな落ち着きが8年前に訪れていたら、ドイツの悲劇も無かったかなあ、って思えるだけに選手のキャリアを考えた時に、そして日本代表の歴史を考えた時にちょっと勿体ない気がして仕方がない。ただ今回は亡くなった父親の遺言っていうものもあるみたいなんで、モチベーションは悪くないだろうからそれを感じたザッケローニ監督に使ってさえもらえれば、結果は出してくれると思いたい。選手の起用に冒険しないザッケローニ監督も、本番ではちゃんと勝てる試合をしてくれるだろうと思うけれど、さてはて。斎藤学選手とか青山敏弘選手とか出場する機会はあるかなあ。ケガの内田篤人選手なんか入れちゃって良いのかなあ。4年間ずっと分からなかったザッケローニジャパンは、本番が終わってもきっと分からないのであった。そんな予感。

 読んだけど週刊ビッグコミックスピリッツに掲載された「美味しんぼ」の最新話は、あそこまで放射線の影響なんかを断じてしまって、本当に大丈夫かレベルに入ってきたって感じ。福島はもう除染無理とか言わせた上に除染作業をしたら体調が悪くなるとか言わせてしまっているのは、つまりそういうことだと感じさせたいが為の展開。実際にそうではなかったとしても、そう疑わせた段階で主張としては与した側になってしまうのも仕方がない。そうじゃないって反論に、はいやいや取材した前町長や学者がそう言ってただけですよと逃げるなんてことはもうできず、真っ向から受け止めるしかない。結果として何かあった場合の責任も。

 難しいのはそうした責任に掲載した編集部なり発行した出版社がどこまで関わるのか、って部分でさまざまある意見を吸い上げ載せることによって言論の自由というやつを担保する役割を、一方ではしっかりと果たしたってことになる。そのことによって起こった騒動なり影響に対して、雑誌としては反論する場をしっかり与え検証も行い結論としてどうなのか、ってところをしっかり示せばそれは公平だって言えるけど、そういう準備をせずただ一方的に「美味しんぼ」の主張の側に与して、その言説をたれ流しただけなら、起こった影響に対して責任は同じだけ取る必要が出てくる。

 さまざまある言論を自在に開陳できる公共財としての媒体か、それとも主張を凝縮して展開していく運動体としての媒体か。その立ち位置を明確にしないでいるとやっぱり週刊ビッグコミックスピリッツとして面倒な所へと追い込まれそう。そうでなくても掲載されている連載漫画がひとつ、“ある権力からの勧告”とやらを受けて休載に追い込まれていることが明らかになって、そうした勧告をはねのけてでも掲載して共に戦うことは拒絶し、作家は作家で自分の作品に責任を取れと投げ出した形になっているだけに、「美味しんぼ」でもそれと同様に、作家が言説に最後まで責任をとれと投げるのか、そこは重鎮だけあって守り一蓮托生を続けるのか、そこでちぐはぐな対応をとれば右も左も上も下も含めて信頼は薄れ媒体のみならず、全体の評価を揺るがしかねない。自覚を持った行動を。そして対応を。

 前半はアクションがあって魔法科高校に侵入した賊を追いつめた高い倒す展開があったんだけれど、後半になると主に会話劇になってしまって、ちょっぴり間延びしてしまった感が浮かんだ「魔法科高校の劣等生」。自分にも責任があるからと部長連トップの十文字克人に頼み込んでいた剣道部の部長のシーンなんかどうしてあそこまで時間をかけて必要があったのか。同じ小野学監督でも「境界線上のホライゾン」だったら縮められ飛ばされていたような会話が、間合いを取るようにたっぷり描かれているののが分からない。ここで1話分を終えることで次の1話分を敵陣に乗り込みこれを倒すといったクライマックスに使えるって判断あのか。その戦いもあっという間に終わって後半は達也と深雪のイチャイチャに使われたりするのか。分からないなあ。でも観てしまう。そこが不思議なアニメーション。

 立てたフラグの幾十幾百。それらがまとめて襲ってきては次々に折りまくって前へと進むような感じになってた鎌池和馬さん「新訳・とある魔術の禁書目録10」(電撃文庫)は魔神となって世界を滅ぼしたもののそこに現れ幻想をぶち殺した上条当麻に打たれて真人間になろうと決めたオティヌスが当麻といっしょにデンマークにあるオティヌスの片方の眼を鎮めた泉に向かうというストーリー。そこに立ちふさがるのがオティヌスを未だ世界に対する災厄だと決めてかかっている全世界。その尖兵としてかつて当麻がその幻想をぶち殺してきた聖人だとか超人だとか能力者だとかが現れては、当麻のこれまでに一切曲がらなかったその信念を確認するかのように折れていく。

 なるほどかつては多とした相手であっても、今なら勝てるだろう相手が上条当麻。それは学園都市第1位の一方通行だって英国第二2王女のキャリーサや騎士団長やアックアや神裂火織だってローマ正教のアニエーゼだってロシア成教の教主やワシリーサやボンデージ娘だって学園都市第5位のビリビリ娘だって同様。でも上条当麻に向かうにあたって真正面からぶつかっては若干の手抜きなのか逡巡なのかも重ねて当麻の信念を確かめ、それが曲がったものではないと感じたところで降りて次へと通してみせる。貫き通してきたものがあったからこその信頼、って奴なんだろうなあ、これは。最強の相手が実は魔法でも科学でもない通常兵器の飽和攻撃だったってところにあるいは上条当麻を倒す道も見えそうだけれど、そこは衝かないのがお約束ってところも含めて楽観の上に感動も得られるストーリーになっていた。でもって極小美少女になってしまったオティヌスはこれからどうなるんだろう。上条家のペットになってスフィンクスに転がされるのだろうか。それもひとつの罰かなあ。むしろ永久に監禁されるより大変かも。強いぞスフィンクスは。


【5月11日】 宅配便の荷物が早くに届いたんで家を出てさあどこに行こうかと考えて、、そういえば金曜日あたりからHDリマスターされた映画「ルパン三世 カリオストロの城」がTOHOシネマズで上映されているってことを思い出し、調べたらどこもかしこも夜くらいからしかやってない。そんな中で柏の向こうにある「TOHOシネマズおおたかの森」が午前中からやっていると分かって、これは行かなくちゃを家を出て、東武アーバンパークラインに乗ってアーバンにパークな風景が続く中を柏へと向かい、そこからさらに大宮行きへと乗り換えおおたかの森駅までたどり着いて上映を見る。

 それにしてもアーバンにパーク。遠くまで続く畑のことをアーバンっていうんだろうか。途中に見えるショッピングモールをパークって言うんだろうか。だったら地方の都心部から離れた地域はどこもアーバンパークだよなあ。イオン的風景を別に言い換える言葉、それが「アーバンパーク」なのかな。さて劇場。案内がよく分からずエスカレーターの場所も劇場の場所ももっとくっきり表示すれば良いのにといらだちつつ、どうにかたどり着くと何か流山が舞台になっているらしいあっかりーん早見あかりさんが主演の映画の舞台挨拶の案内が出ていた。百瀬がどうしたって映画。そっちにも興味を引かれたけれどチケットを買ってあったんで「ルパン三世 カリオストロの城」の上映スクリーンへと向かう。

 9番スクリーン。そんなに広くはなかったけれど、前から2列目だったんでスクリーンは眼前に迫るよう。家で小さいテレビを見ているよりも確実に大きい。席も左右に狭い会場なんで端っこにはならず、左隅からやや中よりという悪くないポジションだったんで斜めから見上げるようにはならず安心する。「ルパン三世 カリオストロの城」で斜めから見上げたって見えるチラリとかはないから。いやどの映画でも映ってないものは見えないけれど。3Dでも? 3Dでもだ。実際のところ都心部の狭いスクリーンで見るよりここの9番スクリーンで見る方がよっぽど良いかもと言っておこう。

 そんなスクリーンでは「ルパン三世 カリオストロの城」を見に行ってフル3DCGらしい映画「聖闘士星矢 LEGEND of SANCTUARY」の予告編が流れてたんで観たんだけれど、そのCG映像に今って2010年代なんだよなあという感想が浮かぶ。あるいは「キャプテンハーロック」を経験しているんだよなあとも。まああれはあまりにリアルに寄っていたんでもうちょっとアニメ的な絵ってことになると手近なところでは「アナと雪の女王」があるんだけれど、そこで感じられたキャラクターはたとえディズニー的にデフォルメされていても、息づかいだとか仕草だとか足を踏んだ時の勢いと重量感だとか風景の質感だといったもののある意味でのリアルさってやつを存分に体験した今の日本の観客に、いったいどこまで受け入れられるんだろうなあといった思いがひとつ浮かぶ。

 もちろんストーリー的には存分に楽しめるんだろうけれど、ビジュアル的な部分で引っかかりを覚えさせてしまうのはちょっと勿体ない気がしてならない。あとは声。星矢を含めたセイントたちは初代とは違っていてもやっぱり巧い。気になったのはそんなセイントたちの圧倒的な声量に比べてアテナが奥ゆかしすぎるように思えたこと。その一言でセイントたちが跪く凛とした強さ、張り、重みがあってのアテナだろうに。それがどうして。社会って複雑だ。まあ実際に公開される時には音圧もあがって荘厳さも増して聞くだけで跪きたくなる声になっていると期待。えびぞりジャンプとかはしたくならないと良いな。いや誰が誰だか知らないんだけれどももクロZ。

 さて「ルパン三世 カリオストロの城」。前評判としてその色味とかくっきりさが凄いって話が挙がっていたけどもとより家のテレビが未だアナログで色味とか気にできる身分ではなく、制作過程を観てきた訳でもないのでセルの色味が撮影されてフィルムになってどうなるかってあたりの工程も知らず、どこまで再現されていれば良いのかといった基準も持ってない。鮮やかならそれに越したことはないんだろうけれど、35年も前のセル画を撮影して作られたアニメに今のデジタル環境ですべて作られたようなくっきりさを求めてもそうはならない。ほどほどの質感があれば良いといった感覚。

 というか、滲んでいたり褪せていたりしたってそこに描かれている絵は絵な訳で、傷があってもガタついてもストーリーに支障がなければ観られてしまう目にはHDリマスターが喧伝する見た目の部分の凄さって奴は、ぐっとは迫って来なかった。これを例えば最新の設備で現行のDVDと比べて観れば流石に気づくんだろうけれど、そういう設備は我が家にはないし。だからむしろ個人的に凄かったのは音響面の豊穣さ。冒頭からしっかりと奥行きがあるように感じられ、ボビーさんが歌う「炎のたからもの」のあたりでこんなに豊かな声質による歌だったんだと気づかされた。

 映画館という場所が持つ立体的な音響に合わせるのみならず、声の粒をしっかりと立てて来たって印象。そのあたりどういう作業をしたのか分からないし、作業があったかどうかも知らないけれども個人的にはビジュアルよりもサウンド面の向上がとっても嬉しかった。何しろ今まではどこで「ルパン三世 カリオストロの城」を観るにしても、どこかで音がぶつ切れたりセリフがしゃっくりを起こしたりするような現象が、どこで起こるかここで起こるぞといった認識を抱えて観ることが多かった。そのとおりになってああやっぱりと安心する面もあったけれど、でも映像として通した時に感じる引っかかり、あるいはストレスといったものが心に残った。

 今回はそれがない。もうまったくなくってむしろここで声が引っかかるはずなのに、よく聞き取れないなずなのに、ちゃんと繋がりそしてくっきりと聞こえてしまて逆に気づかれしてしまうくらいだった。あまりに前のに慣れすぎていたんだろうなあ。そういう慣れをこれから新しいのを見続けることによって上書きできればHDリマスター化された意味ってのもあるんだろう。ただ一方で、昭和区にあった宮裏太陽劇場みたない場末の3番館あたりで傷だらけのフィルムを何度も見返し体験として映画を擦り込んで来た観には、それが上書きされてしまうのはちょっと寂しいかも。

 それとも上書きではなく別のフォルダに新しい体験として加えられていくのかな。たぶんそうだろうなあ。ラストの銭形とルパンが追いかけアッコをする場面で、右上だか左上にぐるぐるっととぐろをまくような傷が現れるのが、僕の「ルパン三世 カリオストロの城」だった。家から自転車で八事を超えて昭和区にある宮裏太陽まで通って、何度も見返して脳裏に刻まれたその記憶は消したくないし、たぶん一生消せないだろう。そんな傷が本当にあったのかどうかも定かではなく、模造された思いでかもしれないけれどもそれも含めて記憶であり体験であり経験。それらを抱え引きずって、これからも生きていくんだろう。劇場で映画を観るってそういうことだから。

 そして大学読書人大賞の公開討論会へ。上野の東京都美術館で第1回目が開かれてから毎回行っているんでこれで7回目になるってことはもう第1回目の時にいた学生は完全に残っていないってことなんだろうか未だ頑張って卒業しないで残っている学生とかいるんだろうか。それは分からないけれどもだいたいにおいて代替わりをしていてそして同じ学校が続けて出ているって訳でもないので、毎回決まったプレゼンテーションの仕方があるって訳でもなくある人は愚直に面白さを説明し、ある人はちょっぴり演技を入れて語ってみせたりとそれぞれに自分たちのやり方を探求していて初々しさがあって面白い。手慣れてくると同じようなディベートを見せられるようになって辟易としてしまうだろうからなあ。

 あと大学読書人大賞だけあって「大学生に読ませたい」という部分をどうとらえ、そこをどう広めるかってあたりにもそれぞれに工夫があって面白いかも。芝村裕吏さんの「富士学校まめたん研究分室」は研究職の女性が主人公になっているあたりに研究に励む大学生の共感なり反発を誘う部分があるし、登場する女性研究者が割と淡々と悩まず兵器開発に励んでいたりすることに大学生としてどう感じるかなんてことも織り交ぜていて、大人とは違った読みかができるんだって気づかせてくれる。悩める年頃の特権て奴か。

 そんな討論を経て今年は伊坂幸太郎さんの「マリヤビートル」が受賞。実は討論に参加した学校の投票では「まめたん研究分室」と同点だったんだけれど、今回から導入された会場に集まった人で誰に入れるかを決めてもらう票ってのがあって1番人数を多く集めた「マリアビートル」がそれでも2番目に入った「まめたん研究分室」を1点差で上回って受賞となった。早河書房連覇はならなかったけれどでも、屈指のベストセラー作家と並べるってのは大学読書人大賞ならでは。江波光則さんの「鳥葬」も3位に入ったし。こういう並びは本屋大賞には絶対にないものなあ。それだけでも僕はやる意味があると思うよ大学読書人大賞。来年はガガガ文庫からリベンジもかねて「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」を是非に送り込んでやって欲しいもの。プレゼンターは表紙絵のコスプレをして登場して欲しいなあ。男女どちらでも構わないけど。是非に。


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