縮刷版2014年12月上旬号


【12月10日】 ああこれは横浜アリーナで空中を飛んで現れ「さいごのアイスクリーム」ではマントを翻してポーズを決めていた衣装だなあ、って感じに楽しめた六本木ヒルズはテレビ朝日の横にあるスペースでの「きゃりーぱみゅぱみゅーじあむ2」。前回はうさぎ型のヘッドフォンをつけて回っていろいろとストーリーを楽しむ形だったのが、今回は場内にあるぱみゅりんの人形の口にぺろぺろキャンディを差し込むと、ボックスの中に光がついたり紅白歌合戦で見せてくれた肩車の衣装が割れて中から下の人も見えたりするギミックを楽しめる。

 飾ってある衣装の数も結構たっぷりで、新しいのもあったりしてそんなに広くはないスペースだけれども1つ1つをじっくり見ていくと結構な時間を楽しめた。着せてあるマネキンのポーズもどこかきゃりーぱみゅぱみゅ風。案内役の人たちも歌が流れると踊ってみせたりしてくれて、コンサートとは違うけれどもスペースとしてのきゃりーぱみゅぱみゅ感を味わえた。値段に見合った展示だと思う。グッズ系は缶バッジこそ前回と同じラインアップだったようだけれど、衣装なんかをモチーフにして散りばめプリントしたTシャツなんかもあってこれがキュート。1枚買ったけど冬なんで着るのは来春になりそう。途中で展示が変わる可能性もあるんでまた行こう。入り口の車はそうだステージを行き交っていたあれだ。結構重そう。よく押したなあアリーナツアーで。

 少しだけお金が増えたので、お昼にはちょっぴりと贅沢しようとペッパーランチで肉塊ハンバーグの300グラムを試してみる。それが焼く前なのか焼いた後でも300グラムあるのかは分からないけれど、でもそれなりに食べ応えはあったようで肉肉しさに胸がやや焼ける。きっとこれで今年の肉はだいたい終わりで、あとはパンとかコロッケとかを食べて冬を食いつなぐことになるんだろう。牛丼の特盛りくらいは行きたいけれど、円安に加えて肉の値段も上がって吉野家もどこも牛丼を値上げしていく傾向。昔に戻ったと思えば良いのかもしれないけれど、でもあそこまで下がった値段を見ているだけにちょっと遠慮も起こってしまう。

 こういう心理が消費を押さえて景気浮揚を縛るという。何とかしないといけないのに、安倍ちゃんの口から出る言葉から景気が良くなり暮らしが良くなるような期待はまるで生まれて来ない。消費税をしばらく引き上げないっていったってすでに3%上がっていたりする訳だし、第3の矢とかいってた構造改革の具体策はまるで見えてこない。円安による恩恵を受けている気分はなく、株高でも企業は消費マインドの冷え込みから設備投資を行わず給料もあげずに、内部留保だけに務めるからやっぱり景気は上向く空気にならない。株価だけで景気がどうにかなるなら、とっくにどうにかなっているのに。そんな安倍ちゃんでも支持だけは抜群。まるで訳が分からないよ。

 アップルが日本に技術研究拠点を作るとかって、遊説の途中で喋ってそれがニュースになっていたりするけれど、そんな研究拠点が数万人の雇用を生むわけでもなさそうだし、日本の企業との連携が、よりいっそう強まる感じでもない。そんなこととっくにやっているし、すでに通り過ぎていたりする場面なんかも出てきている。捨てられパクられたって訴える企業だって出ているし。そんなアップルが日本でいったい何をやってそれがどういう意味を持つのかを、説明しない言葉に動くほと世間も単純ではないはずなんだけれど、それをさも凄いことのように持ち上げるメディアばかりだか嫌になる。すでに衰えうら見える林檎マークのプロダクツに、一体何を期待しているんだろう。ピクサーがCGスタジオを作ってくれるとか、グーグルがVRなりARの研究開発拠点を作るとかいった話なら嬉しかったんだけどなあ。安倍ちゃんも古いしメディアも古い感性が、引っぱるこの国の未来は。やれやれだ。

 あれはもう15年以上も昔のことになるんだろうか、「ウルトラセブン」がパナソニックの協力でもって汚れなんかも取り払われた形でDVDになるって発表会に出たことがあって、そこに出てきていた版元の偉い人と立ち話をして、例の12話の再発売はあるんだろうかと尋ねて確か、なさそうだって話を聞いたような記憶があるけれど、本当にそうだったのかはもはや記憶の彼方ではっきりしない。ただ言えることは、圧力があるから出せない状態が続いているっていうよりはむしろ、もはや自身として出すことを止めているような感じがあったように感じた。何か主体も見えないまま署名が始まっているようだけれど、いくら数が集まろうと根本としての思想なり哲学が変わらないならきっとこれからも出ないし出そうとはしないんじゃないのかなあ。そこを何か自由の戦士のように立ち上がって共闘を求めるなり反発をぶつけては、永遠にほぐれないと思うなあ。とか。

 3年連続だと思うけれども、はっきりとは覚えていない「おすすめ文庫王国」へのライトノベルの項目執筆。今年はいわゆるキャラノベとかも出てきてラノベ文芸賞なんてのも現れてライトノベルと文芸の垣根が曖昧になっていっそう選びづらくなって来たんだけれどそこはそれ、独断と偏見でもって面白くって面白いという、まあそれだけを拠り所にして10本とあと番外みたいな何冊かを選んでみた。とはいえライトノベルの人は「文庫王国」を読まないし文芸の人は「ライトノベル」を読まない狭間にあっての項目をいったい誰が読んでくれているんだろう。そこがやぱり掴めないのは今のこの身の不安定さ、無名さが証明しているんだろうなあ。どっちつかずの。どっちもで良いのに。まあしゃあなしだ。「メイド喫茶ひろしま」や「女騎士さん、ジャスコ行こうよ」や「“世界最後の魔境“群馬県から来た少女」の文字をそこに載せられたことを良しと思おう。未来において先見を讃えられることを信じて。咎められたりして。それもしゃあなしだ。

 これは面白い。そして面白い。斜塔乖離さんっていう名前の人による「ディアヴロの茶飯事」(HJ文庫)はサイバーパンク的とも中二病的ともいえる活字へのスタイリッシュルビのオンパレードに読む手も迷いそうになるけれど、サイバーパンクで慣れている目でもあるし何よりお話が面白そう。悪性放射線とやらが降り注いだことによって人類というか生命は奇形化も起これば変質も起こって中に人肉を食らわなければ生きていけない人種も生まれてきた。世界は混乱しつつ拮抗しつつ人肉を食らう者もいて食わせる店もある一方で、起こる犯罪を取り締まる組織も生まれ金次第で犯罪に立ち向かったり味方したりする仕事も生まれた。主人公たちは後者の方。

 その名もンンアア・幻肢・ゲシュペンストっていう戦闘の達人の少年と、そして死に神の異名を持つ相棒の我聞・リゼルグ・ジュヱルアムダは賊徒集団<薔薇の誤謬>を壊滅する仕事を請け負うんだけれど敵は我聞の妹で未来を予知する力を持った夢魅をさらって縛ろうとする。それでも戦うと決めて詩詠聖匠の少女を連れて向かった敵地で異能で異形の者たちとバトルする中で浮かんでくるンンアアの異形で異常な戦闘っぷり。そして浮かぶ街を跋扈して罪のない人や街を守る几幟を殺して回っている<悪魔>との関連性。とりあえず敵の組織は壊滅させて夢魅も取り戻したけれど、人肉を決して食べないンンアアの、一方で影で行っている非道ぶりを見るにつけ、正義ってどっちにあるんだろうかと考える。それとも違うのか。分からないけど続くとしたらそんな表と裏の顔がどう重なり、あるいはぶつかりそして正義を執行する組織とどう対峙していくか、なんて話を詠みたい。ナポリタン大好きロザリヱちゃんとかどうなっちゃうんだろう。


【12月9日】 福知山線での事故のことを思うと、遅れそうだからといってスピードを出す電車のことを、あんまり誉めてはいけないような気がするけれど、そこはちゃんと安全な範囲を守りつつ、やれることをやって乗客をミュージカルの開演に送り届けようとしたサンミア電鐵の運転士、メグ・クラックスの行為はやっぱり誉めて讃えてあげて良いような気がするなあ。そう思った伊佐良紫築さん「うみまち鉄道運行記 サンミア市のやさしい鉄道員たち」(富士見L文庫)。オンボロというか、同じ運転士だった父親にも縁のある列車を改装した列車の運転台に乗り、父親が母親を知り合うきかっけにもなった「お芝居特急」の再来を演じてみせたメグのその行動を、咎める気にはちょっとならない、メグの両親の今を思うと。

 というか2人に今はない。しばらく前に起こった震災で、母親は家の下になって死亡し父親も運手んしていた列車の運転台に落ちてきた屋根の下敷きになって死んでしまった。メグは帰ってこない父親を待って駅に暮らすようになって数カ月。娘は母親ともども死亡したって発表もあって会社で父親だった同僚たちも気づかなかったその生存を、やっと知るエピソードはやっぱり泣ける。人が永遠の別れを感じる瞬間は辛い。でもそんな境遇から立ち直ったメグは、父親が運転していた列車を駆って、同じようにミュージカルを楽しみにした人たちを送り届ける。幸せか? ってそこは分からないけれど、少なくとも乗客は幸せだろうなあ、ミュージカルに間に合った訳だから。それが多分1番大事なこと、サービス業に働く人たちにとっては。

 そういう理解があるから、メグの無茶な運転を世間もあんまり咎めようとせず、むしろ協力すらしてみせたんだろう。普段は絶対に入れない貨物線へと入っていっては、鈍行列車を追い越し横を走るライバル鉄道の特急列車すら上回るスピードを出しても、安全の範囲内にあるならそれを認める心意気。規則に縛られ、時間にガチガチな今の鉄道では決して起こらない“奇跡”だろう。福知山線の事故だって、規則だの何だのといった融通の利かなさが焦りを生んでミスを招いて大惨事を引き起こしてしまった訳で、他人のために自由な振る舞いを認めるサンミア電鐵とは事情がまるで正反対。だからここは認めて良いのかも知れない。メグの運転も。捕まえた無賃乗車の子供の事情を忖度して、切符を与えて未来を与えてあげたことも。

 電車の運行というテクニカルなテーマも織り込みながら、そこの上で働く人たちのがんばりを描いていくエピソードは他に、メグといっしょに震災孤児だったレオン・ジョーゼットという男性が、とある少女を列車に乗せてその目的を叶えてあげるために無茶をし、街で困っていたその少女の元にわざわざ駆けつけ電車へと誘う騎士のような働きを見せる話、現金を輸送している列車に族が押し入ったのを、メグとペアを組む車掌のシャーリーが察知して、大冒険の果てにどうにか賊を退けお金を守るのに成功する話などがあって、どれもスリリングな展開と、やさしい気持ちの発露って奴を味わえる。誰かの最良の選択が、素晴らしい人材を生んでそしてその人材が見せる選択が、さらに良い人材を招く連鎖なんかが描かれているのを見るにつけ、縛るより緩くして楽しくそして明るくやっていく方が、絶対に素晴らしいなあと思わされるけど、現実はどんどんと世知辛くなる一方。だからこそ読まれるべき物語かもしれない。それにしてもラノベ文芸賞って、こういうのが入ってくるのか。ラノベでも行けそうな気がするけれど、これ。今のラノベじゃあ無理なのかなあ。

 規則で雁字搦めになって今日を生きるのが精いっぱいな世の中よりも、余裕があって誰もが楽しくてそしてしっかりと明日のために生きていこうとしている世の中の方が、活気もあるし前向きだって思うけれども、喫緊の課題が財政面の緊縮なら、その方向へと流れてしまうのが世の常で、はるか未来の安定した繁栄までをも見越した尾張徳川家の第7代藩主、徳川宗春による改革は、だから道半ばにして断念させられ宗春は蟄居を命じられてしばらく。尾張藩士だけれども父親が江戸の藩邸に出ていた関係で、そこで生まれて尾張を知らずに育った榊原小四郎という若き藩士がいて、父の仕事を受け継ぎ江戸の藩邸で事務の仕事をこなしていたものの、どうにもエリート癖が前に出てしまう。それが若さという奴だったのかもしれないけれど、才気をひけらかしては上司の鈍重とした仕事ぶりにプレッシャーをかけるものだから、上司も疎んじて小四郎を飛ばすことにする。

 そして命じられたのが御松茸同心という仕事。名前のとおりに松茸の収穫を差配する仕事で、何でも尾張は全国的に見ても松茸の産地らしく、いい松茸がとれては幕府に献上したり大奥に入れたりしていたという。けれども最近どうも生育が悪く収穫が少ない。それをどうにかしろというのが藩からの命令で、小四郎は行ったこともない尾張へと戻り、そこで歩いたこともない山林へと向かって松茸の状況を調べようとする。そこには小四郎と同じように御松茸同心を命じられて十年以上も捨てて置かれた男がいて、山の面倒を見続けている老人がいて、その下で働く者たちがいてと、すっかり組織は出来上がっていたもののこと松茸の生育だけはうまくいっていなかった。どうしてなのか。
 野菜や樹木と違って経験が生かせるものでもない。とはいえ村人たちは何か事情を知っているらしい。そんなもわっとした状況に、若くて素人の小四郎が入っていって、才気だけで切り抜けようとしてもうまくいくはずがなかった。壁にぶちあたって悩み、そして藩からは収穫ができない咎めも受けて、期限の3年を過ぎても藩政へと戻れる兆しは得られなかった。このまま骨を埋めるのか。そうはなりたくない小四郎に、父の縁もあったかあるいは偶然からか、手に入った知識とそして大きな伝がひとつの奇跡を呼ぶ。鍵となるのは大殿こと宗春の存在。蟄居しながら20余年を過ごして領民に慕われつつも疎まれていた存在が、かつて見えた強い意志と思いが時を経て小四郎たちに届き、動かして松茸の復活へと導く。

 語る人によっては奢侈なだけの暗愚な殿として描かれることもある徳川宗春だけれど、一方で厳格な治世の中に気分的な衰退を招いた吉宗よりも英明な君主だったと讃える向きも少なくない。尾張名古屋を芸どころとしたその政策。年に1本くらいだった芝居を100本くらいは招いて見せ、からくり人形の技術も発達させ朝鮮人参を栽培して本草学にも詳しかったという宗春の施策は、時を隔てて中部を技術の街として世界に屹立させている。そんな先見性のある施策がただ、瞬間の浪費的な財政出動だけで終わったはずはないという見立てから、その後のことを何か考えていたに違いないという推測を混ぜ、その根底に将軍家があって武士がいて町人農民商人が従うような構造ではなく、誰もが人間として台頭に貸し借りをできるような制度を思い描いていて、それが封建制絶対の幕府の不興を買い、恐れを呼んで不遇を与えたといった想像を巡らせる。

 つまりは政争であり弾圧でもあったその蟄居の原因を、うっすらと感じさせながらその上でただ生真面目で、幕府を讃え藩政を尊びそれに逆らった施策を疎んじていた青年を、いろいろと考えられる大人へと成長させていくストーリー。直木賞作家の朝井かまてさんによる最新の書き下ろし小説「御松茸騒動」(徳間書店)は、そんな小説なのかもしれない。舞台の多くが名古屋で、実家の近所にある植田の山とかも出てきて親近感の沸く物語。宗春という希代の人物についてポジティブに描き、それを慕う者たちの気持ちの良さも描いた物語。読んでだから嬉しい気分になれた。それにしても小四郎の母というか実は義母の節さんの、変わり身の速さはちょっと凄いなあ。姉の代わりに後妻ではいって小四郎を育てたものの尾張行きとなって付いていかず婚姻をして財産を得て学問にも手を出すというそのアクティブさ、柔軟さが小四郎にもあれば……。まあ実直だったからこそ出会えて成し遂げられたとも言えるし、それはそれで良いのかも。この後、小四郎がちゃんと偉くなれたかどうか。結婚相手は誰だったのか。それが知りたい。

 そして出向いた「THE NEXT GENERATION パトレイバー/第6章」の上映に関連して押井守総監督がホストとなってゲストを招いて何かを語る「マモルの部屋」を見物。ゲストは押井作品といえばこの人の音楽が奏でられる川井憲次さんだったけど、実写版パトレイバーで押井守総監督以外の各話監督がいったいどういう感じで川井さんに音楽の発注をしているか、って話になって各監督が示した音楽メニューをバックにそれぞれの音楽に対する考え方に異論を挟んでいく押井さんが面白かった。エピソード11を撮った湯浅弘章監督は粘りすぎとか。川井さんと押井さんが意気投合してこれだという意見に異論を挟んでそして納得はしても曲げようとしないとか。

 そんな湯浅監督に言っても無駄だと押井さんは荷物を持って会議室をあとにして外から川井さんに「曲げるな」とメールを打ったとか。結果どうなったかは分からないけれど、そんな話を当人たちを前にして言えてしまう押井さんが凄かった。押井さんだから言えるっていうのか。互いに認め合っているって現れでもあるし。アクションなんかが得意な辻本貴則監督は「格好いいとしか言わない。どう格好いいのか言わない」とこれも当人を前に指摘。そして田口清隆監督には特撮映画のあのシーンのあの音楽と具体的な名前を挙げることに異論を挟みつつ某巨匠がそうやってもろあのCDの何曲目とか言うんだと喋って司会をドギマギさせていた。誰だろう某巨匠って。

 そんなトークから浮かんだのは押井監督の川井さんに対する全幅の信頼で、それは温泉と卓球と麻雀と酒の席をずっと続けてくることで培われたツーカーな関係から生まれたものでもあるんだろうけれど、一方で押井さんの目指す音楽をちゃんと川井さんが形にして来られたっていう才能の現れでもある。他の誰かと組んでもちゃんと仕上げてみせる訳だから。そして押井さんの映画をある意味で押井さん以上に代弁している作曲家でもある。欧州なんかではむしろ川井さんの方が知られていて、押井さんは絶対に手放すな喧嘩するなと言われているらしい。それを失ったらもう映画じゃないというくらいの密着度。あるいはリード具合を持った川井さんの音楽が、これからもずっと聴けることを願いたい。その音楽がなければ作らないとか言い出しかねないし、押井さん。次はでもやっぱり長編アニメーションで聞きたいなあ。川井憲次さんの音楽を。


【12月8日】 ハリウッドで作られた「GODZILLA」のゴジラがCGだから、着ぐるみの特撮のような重量感がないとか暖かみがないとか怪獣味が出ていないといった、批判にならない批判がそういえば出ていたけれど、でもあの「GODZILLA」って制作にあたって人間が演じた姿を確か撮影して、そのモーションをもとにCGでもって形を整え色をつけていったから、ある意味でデジタルな着ぐるみって奴だったと言えなくもない。動きに関してはだから人間が中に入って演じた日本の「ゴジラ」と同じようなもので、それに最新テクノロジーによるテクスチャでもって、質感もしっかりと出た「ゴジラ」になっていたんじゃなかったっけ。僕はそう思った。

 というか、フィル・ティペットは映画「ジュラシックパーク」の段階で着ぐるみだとか模型なんかによる撮影に限界を感じて、CGによる恐竜に可能性を見いだして、そのアクション部分に特撮屋としての才能を入れ込んでリアルに動き走り食らう恐竜って奴を、20世紀のスクリーン上に現出させてのけた。「GODZILLA」はそんな延長にあって巨大な感じから重さから質感からCGでもって描ききり、そこに人間のモーションを乗せて生々しさも暖かみも持った怪獣を、21世紀のスクリーン上に作り上げてみせたって思えばもし、日本の本家ともいえる東宝が、復活させるという「ゴジラ」でCGを否定し着ぐるみによるアクションにこだわるなら、それは大いに時代に逆行していると言えるだろうし、大丈夫なんだろうかという心配も浮かぶ。

 こだわりたい人たちはいるだろうし、それが味だと思っている人も大勢いるだろうけど、でももう僕たちはハリウッドの「GODZILLA」を見てしまったし、現実の世界に化け物たちが跋扈する「寄生獣」も見てしまった。着ぐるみやぬいぐるみではもう実現できない世界がそこに現出し、かといってすべてが作り物ではなく芯には人間の体や表情の動きを読みとって、映像として反映させる技術の進み具合も知ってしまった。コナミの小島プロダクションなりスクウェア・エニックスなりといったゲーム会社が、CGを作る技術を応用して作られたそうした映画の完成度を得てなお、逆戻りして映画会社が映画の“伝統”にこだわりマニアの声に縋って作ってしまった果てに、いったい何が出来上がるのか。

 なんて不安も一方にあり、それがお家芸なんだからと楽しみたい気持ちも一方にあったりするこの心境に、どんな答えを見せてくれるかが今は楽しみであり、不安でもあって仕方がない。どうなるのかなあ、東宝版「ゴジラ」。というか監督はやっぱり山崎貴さんになるのかなあ。最新技術があると聞けば小島プロダクションにもスクウェア・エニックスにも出向いていって、機材を使って映像に活かしてみせるフットワークの軽さがあるから。あるいは特撮ならこの人っていう樋口慎嗣さんが担ぎ出されるか。ああでも「進撃の巨人」を撮っているから無理なのか。田口清隆さん。見たいかなあ、若手のトップとして。押井守監督……ゴジラが出てこないんじゃあ、仕方がない。でもここはまた北村龍平監督に登場願って、ファイナルの次となるリバイバルって奴を撮ってみせて欲しいもの。エンターテインメント性に溢れた物が見られるはずだから。金子修介監督に今一度って気もあるけれど。坂本浩一監督ってのもあるかなあ。いや楽しみ。

 そうかオシムさんはモンテディオ山形にもメッセージを寄せていたのか。自分が率いたジェフユナイテッド市原・千葉を鼓舞するのは半ば当然でそれだけでも誰も文句は言わないんだけれどオシムさんはサッカーが何か戦いを代理するようなものになることを徹底的に嫌っているし、相手を見くだしたり逆に持ち上げたりすることも嫌っている。サッカーはサッカーでありお互いにそれを嗜むものなら仲間であるという意識。だからモンテディオ山形がJ2の中でしっかりと勝利を得てプレーオフに臨み、そしてジェフ千葉を敗ってJ1に昇格したとしてもそれは日本のサッカーにとって良いことだと認め、頑張る気持ちを讃えてみせた。

 何てやさしい。そして暖かい。そんな公平な言動があったからこそボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会が混乱した時も、中立にして公明正大な立場から多くを諭し、まとめ上げることが出来たんだろう。こういう人が日本バスケットボール協会にもいたら、国際バスケットボール連盟から非難され国際試合を禁じられるような事態も起こらなかったんじゃないのかなあ。とはいえやっぱり内心ではジェフ千葉が昇格を逃したことを残念がってくれているとは思いたい。当時率いたチームにいた選手でもう佐藤勇人選手と岡本昌弘選手くらいしか残ってないような気すらするけど、それでも脳裏にあるその黄色いユニフォームの躍動を、信じて待ち続けてくれていると思いたい。その思いに来年こそは答えようよ、ジェフ千葉よ。

 えっと、誰? って思った東京エレキテル連合の「Yahoo!検索大賞2014」におけるパーソンカテゴリーのお笑い芸人部門受賞を受けてのステージ登場。だって普通だったら細貝さんの朱美ちゃんの格好で出てくると思うじゃん。それが普通の女子2人。橋本小雪さんは結構美人。そんな2人が何を言うかと思ったら「アイドル部門と間違えました」。まあこれは冗談としても「検索で『東京エレキテル連合』『素顔』というのがあったから」というのはなるほどグッドな指摘で、そう言われるならこの場で見せてやるといった思いもあったみたい。なかなか腹の据わった態度かも。それとやっぱりいつまでも「細貝さんと朱美ちゃん」でもないだろうっていう芸人の矜持か。そりゃあやれば受けるネタ。きっとメインも張れるだろうけど、そこを敢えて外してもなお注目され得るだろうという今の時点での判断も、あったのかもしれないなあ。

 一緒に登壇が「天使すぎるアイドル」の橋本環奈さんに市川海老蔵さんにHIKAKINさん。大物具合でいうなら海老蔵さんに軍配があがりそうだけれど、ワイドショー的な発想からするなら特に今、何も話題のない海老蔵さんをクローズアップするのはちょっと弱いし、橋本さんはネットでは絶大な人気でも芸能界的にはまだまだ駆け出しで、数字がとれるアイドルとはちょっと言えない。AKB48とかHKT48ならまだしも。あるいはそうした勢力への対抗として持ち上げることに何かしら制約でも働いているのかな。それはないにしてもやっぱりメインに選びづらい。HIKAKINさん……誰ってことになるだろう。大賞の羽生結弦さんか女優部門の石原さとみさんが来場してたらそっちに傾いたかもしれないけれど、でも欠席。ならという判断でこのノーメイクを選んだとしたら結構策士かも、日本エレキテル連合。その結果はどう出るか。明日のワイドショーがちょっと楽しみ。

 ロサンゼルス批評家協会賞で高畑勲監督の「かぐや姫の物語」がアニメーション部門を受賞したとの報、次点の「LEGOムービー」を押さえての受賞ってことらしく本番おエンターテインメントをしのぐ味って奴がそこに見いだされた現れだろう。ストーリーはともかくアニメーションとしてのテクニックは満載でそれを果たしてどう見るか、目も要求される上に主題となるかぐや姫の奔放で自然を愛していて彼氏のことが大好きだけれをそっと身を引く健気さも持っている性格なんかも読み解く必要があったりする。それでもちゃんと海外の映画批評家を満足させての受賞ってことはひとつ、励みになったりするのかな、これでもう1本作ってくれるかな、高畑勲監督。アカデミー賞はううん、選ぶのが映画人ってところだからやっぱり難しいかなあ。ともあれ来年が楽しみ。「ベイマックス」はどこまで行くかなあ。


【12月7日】 カツを食べないといけない気がして、午前中にちょっぴり仕事をしていた日本橋の上島珈琲店から歩いて近所を散策したけど、神戸らんぷ亭のカツ丼ではちょっと弱いし小諸そばのカツ丼とかけそばのセットも店内に人がいっぱいで入れず。八重洲の地下街に降りてカレースタンドにも寄ったけれど、ちょっと気分じゃなかったんで、大丸の有名な食品買いを探してカツ丼でもないか探したら、まい泉の弁当があったにはあったものの高くて断念。それでもやっぱりと思い直してカツサンドを買って食べて、これで勝つぞと心を鼓舞したものの、これで勝つ気がサンドされて抑えられるって可能性もあったなあ、なんて不吉なことを思ってしまった、そんな師走の日曜日。

 そして見に行った味の素スタジアムでの、J2からJ1への残された1つの昇格枠を争うプレーオフ。我らがジェフユナイテッド市原・千葉が3位でシーズンを終えて、6位から勝ち上がってきたモンテディオ山形を迎え撃つ格好になった試合は、勝てばもちろん引き分けですら昇格が決まったというのに、結果から先に言えば1点を奪われリードを許し、そのまま同点へと追いつけないで敗戦し、そしてJ2残留が決定した。嫌な予感が当たってしまった。でも前にも見たっけこんな光景は、確か国立競技場でのプレーオフで大分トリニータを迎えた試合だったっけ。その時も思ったんだけれど、プレーオフで上がったところで仕方がない、ジェフ千葉というかつての名門であり、そしてJ1に居続けたチームならやはり、堂々とプレーオフなしで昇格する場所に居るべきだっていった考えが、今回も浮かんで残念さより先にある種の決意とそして苦笑が浮かんで来た。

 見たけどやっぱりジェフ千葉は弱い。というかサッカーをやってない。ボールを受けた選手はもうどこに味方がいるか見ないで、ノールック気味の浮き球のパスを出してあとは知らない顔。そして受けた方もやっぱり見ないで出すから、すぐに奪われ反撃される。かといってじっくり見ようとする、相手に寄せられ詰められパスの出所がないまま戻すか、無理をして奪われ反撃されるという繰り返し。そのまま相手のゴール付近までボールを持っていけないんだから、シュートは打てるはずもなく、当然ながら得点にも繋がらない。対して山形は走って詰めて奪ってそれを走っている味方にしっかり通して、そして受ける繰り返しからゴール前へと迫って、何度もチャンスを作り出す。

 まさにサッカー。これがサッカー。ジェフはバスケットボールの真似でもしているよう。もしかして千葉ジェッツの試合に来たんだろうかとすら思わされる。いやいや千葉ジェッツならちゃんと得点を決めるからもっと別の何かだ。シーズン途中に何度か見た試合も確かそんな感じで、まるで改善がされてなかった。関塚隆監督が入って、少しは強くなったような印象もあって、実際に順位も上がっていた訳だけれど、それで弱いところには勝てても、力が拮抗してたり強いところには勝てなかった結果が、3位という自動昇格を逃してしまう地位に終わったことなんだろう。そしてそんなシーズン通しての欠点を、大事なプレーオフでも見せてしまった。ちゃんとサッカーをしてきた山形に破れてしまった。至極当然の結果。だから憤りは出ず、苦笑いしか出なかった。

 そりゃあJ1に上がってくれた方が嬉しかったけれど、これで上がったところできっと勝てない暮らしが続いて、そしてJ2へと逆戻りとなっただろう。そうはさせじと関塚監督がシーズンオフに大々的な改革を試してくれたかもしれないけれど、昇格に妙な自信をつけてしまったチームを、これからいじるだけの余裕がもらえたかどうか怪しいだけに、ここは最初から関塚さんがチーム作りに携わってもらい、圧倒的な力でJ2を勝ち抜き自動昇格を決めてそして、J1でも中位から上を狙うようなチームになって欲しいもの。そのために何人もの選手がいなくなり、そして新たな選手が加わってももう何も言わない。言うべき言葉はなにもない。やってやってやりまくれ。その果てに見せてくれ、強いジェフを、パスが繋がるサッカーを、走りが相手を上回るチームを。お願いします。心から。

 それにしても味の素スタジアムに3万5000人も集まったとは、いったいどこにいたんだジェフ千葉サポーター。もちろん山形サポーターもゴール裏を埋め尽くすくらいに来場していたけれど、それでもリーグ戦のジェフ千葉対山形で3万5000人を集めるのは至難の業。その意味でプレーオフという仕組みを取り入れ、興味をシーズン末まで引きつけつつ、しっかりと収益も得るリーグの施策は当たったといえば当たったかもしれない。その意味でJ1の2ステージ制導入によるプレーオフも何らかの意味がありそう。女子サッカーでもなでしこリーグにエキサイティングシリーズを導入して、優勝争いに興味を引きつけたし。問題はだからそういう制度の中でも、圧倒的に勝ちきる力をチームが持てないことで、制度を云々言うよりはまずチームを何とかするのがジェフ千葉にとっては先決だろう。とか言い続けて5年。何で変わらないのかなあ。変えたくない力でも働いているのかなあ。KAPPAの呪い……それは言いたくないけど、でも言いたいなあ。

 紙の紙面そのものに、いったいどういう出方をしていたのか確認した訳ではなくて、あるいは新商品の発表会を、どこかひも付きな感じに枠で囲って記事みたいに見せているパターンかもしれないって可能性も浮かんだけれど、ネット上に出た記事は、そうした広告とかPRとかいったニュアンスはまるでなく、堂々とニュースのひとつとして「お笑いコンビ、ナインティナインの岡村隆史(44)と人気グループ、AKB48の高橋みなみ(23)の親密ツーショット写真をサンケイスポーツが独占入手した」ってやってしまっている。つまりは普通にニュースとして報じているってことで、そこに一切の宣伝もなければ広告的なお金のやりとりもあるはずがない、っていうのが新聞的な了解のしかた。だって報道にお金が絡んでいたら、それは公正な報道じゃないから。

 でも現実として岡村さんと高橋さんの熱愛話はフジテレビのバラエティ番組「めちゃイケ!」の番組内でもって一種のドッキリとして放送された感じになっていて、それは言葉は悪いけど“やらせ”だったって結論が出た。もちろんバラエティの範囲内でそれが止まっているなら誰も文句はいわない。そういうものだと思って見ているし、騙された自分を演じることも含めて視聴者との間に意志疎通が出来ている。結託と言い換えてもいい。そうした中で、いったい次はどういう入り組んだ騙しの手でもって挑んでくるかっていう楽しみ方をしている。仮に本気で騙されてたしても、やられたなあと了解できる。あくまでテレビのバラエティ番組の範疇なら。

 でも今回は、報道を巻き込んでしまった。というか報道が“やらせ”に荷担してしまった。これは拙い。とてつもなく拙い。だって報道はバラエティではないから。そこで語られることは本当のことだという共通理解が、誰の中にもある。それがなければそもそも報道が成立しない。そして報道は本当のことをいち早く大勢に伝えるという使命を負っているからこそ、「知る権利」の代行者として取材の上で便宜を図ってもらっている。そんな特権の上で商売をしている新聞が、真実を伝えるべき報道に紛れて一種の“やらせ”をさも本当のことのように報じてしまった。自ら信頼性を捨てる振る舞いは同じ報道に属する者たちが立ち上がって糾弾してしかるべきゆゆしき事態。でもあんまり動きがない。気づいてないだけなのか。それすらも平然とした状況に新聞業界がなっているのか。分からないけどまだ気づいてないだけだと信じたい。

 あるいは報じた側も、写真を見てこれは本当だと思ったおんかもしれない。だからニュースとして報じたのかもしれない。なんてカマトトぶって言いたい気もないでもないけど、それも同じメディアグループの番組の要点をスクープ然として報じた裏に何かがありそうだ、なんてことは誰もが浮かぶこと。それを否定できるのか。難しいだろうなあ。だって言ってしまっているもん、「2人の所属事務所はコメントしていないが、関係者によると6日放送のフジテレビ系『めちゃ×2イケてるッ!』スペシャル版(後7・0)の中で、2人が関係について“釈明”するという」。

 もう番宣。それをニュースに紛れてやったことが明白なこの一件を、突っ込まれた時にどういう言い訳がなりたつのか。紙面上では広告っぽい場所にやっていると言うなら、ネットもそういう場所にやるべきだったけど、未だニュースとして掲載されてしまっている。ヤバいよなあ。でもそれがヤバいことだと自身、気づいていない節がある。だから何のリアクションもない。何かが壊れてしまったいるんだろうか。だから本紙でもとんでもない広告が出てしまって、世界から抗議を受けるような事態が起こってしまうんだろうか。背に腹は変えられないとはいえ、それで信頼を売り渡して金に換えて後に残るのは何だろう? 紙くずか。それ以下の何かか。分からないけれども瀬戸際まで来ているように見えることだけは確か。ここで踏みとどまれれば良いんだけれど……。参ったなあ。


【12月6日】 スタートレックのTNGとか知らないんでどこまでそっくりなのかは何とも言えないけれど、例え似てたとしても「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」のヤマトホテルのシークエンスは、ミステリアスな中に猜疑と信頼を探るような心理劇が繰り広げられる展開がとても面白かった。シリーズの方でミレーネル・リンケによって仕掛けられた幻影による攻撃も、どうやってそこから抜け出すんだろうって興味で見られたけれど、今回の今回の異星に突然現れた謎のホテルで繰り広げられた7日間の出来事も、何が起こってどこに向かってどういう結末にたどりつくんだろうってワクワク感で楽しめた。

 というか、オープニングで葉加瀬太郎さんがテーマソングを奏でるヴァイオリンのギュンギュンとした音色の下で、総集編的に切り替わっていくカットの中にミレーネルとミーゼラ・セレステラのエピソードがしっかりと挟まれていたことで、きっとこの展開にあの2人の何かが絡んで来るんだろうなあ、って気はしてた。あとバーガー少佐のシリーズでのラストシーンが挟まれていたことも、そこから何か絡みがあるって想像できた。振り返ってみればドメル中将の戦死のシーンも、その潔癖さを示して映画でバーガーたちが慕いその死を憤るって伏線になっている。巧いOPって言えるし、だからこそしっかり見ておこうとも言いたい。

 そんな「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」は、試写に続いて2度目の鑑賞で、そしてバーガー少佐を救出したミランガル艦の艦長として登場したネレディア・リッケ大佐にやっぱり目が向かう。色っぽい。そして凛々しい。もうタカラヅカ的の男役的な凛々しさにどこか妖艶さも秘めて迫ってくるその顔を、大きなスクリーンで味わうために何度でも見に行きたいって気になっている。古代進や桐生美影たちが迷い込んだホテルの中に現れる、赤いドレスの姿も悪くないけれど、でもやっぱりガミラス士官としての軍服の体にピッタリと貼り付いた姿態の方が僕は好き。あれでなかなかグラマラス。そんなのが目の前にいてバーガーはやっぱり彼女の妹にずっと心を傾け続けるのかなあ。そんな姿に苛立ち胸焦がすネレディアのエピソード、希望。

 そして幻想の7日間を共に過ごした間に生まれた信頼からか、それともお互いに信頼すべき上官の下で戦い、その結果生まれた勝敗に対して復讐といった感情が無意味だと悟ったか、単純に相手方に自分の恋した少女と同じ顔の桐生美影がいたことにほだされたか、分からないけれどもバーガー少佐と古代進が共闘して臨むガトランティス戦。迫力の艦隊戦があり、真田さんの「こんなこともあろうかと」勘案された施策によって火焔直撃砲の空間転移を交えた攻撃をしのぐ展開もあって進んだ中で、なぜか逃げ遅れていたネレディアを助けてくれと頼み自らは盾になるバーガー少佐の格好良さ。もう自分たちでは無理だという気持ちがあったか。聞いてネレディアはナインを思ったか。「この甲斐性なしめが!」。だろうなあ、やっぱり。

 というか何でネレディア艦、あそこに引っ込んでいたのって気もするけど、図体がデカいからバーガー少佐が先行したのを追いかけようにも、動き出しに時間がかかったって思うことにしよう。ともあれ戦い終わって日は暮れないけど、相互に進んだ理解の下で向け合う敬礼の格好良さ。あの関係がガトランティス相手にも通じれば言いんだけれど。っていうか通じかけて士官がもはや大義なしって言って撤退しようと多分していたのを、撃ってしまって泥沼な戦いにしたのは誰なんだ。あそこで停戦していればバーガーだって決死の突撃しなくて良かったのに。そこでまた助けられてネレディアの艦に乗って一緒に戻る途中で生まれる恋情に期待。爺さんうまくサポートしてやってくれ。

 とまあ、そんな感じでまとまってそしてヤマトは地球へと向かい一路宇宙をひた走る。途中にもはや阻むものなし、って行くのかどうなのか。そこはシリーズで描かれたデスラーによるアタックがあって、森雪の瀕死ああって臨死へと至って復活が果たされる展開があるって言えるかもしれないけれど、ただ総集編的に公開された「宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海」では、尺と展開の関係からそうした総督府陥落、イスカンダル表敬から出立以後が描かれず、ヤマトはストレートに地球へと向かっていった。それをひとつの時間線と理解するなら、その線にのってこの「星巡る方舟」以降もデスラーは来なかったって可能性を想定できる。

 そして森雪は1度死なずそしてミーゼラも総督府に残ってガミラス復興に協力しているか、逃げたとしても撃たれず死なずにジレル人現るの報を聞いて、自分はひとりじゃなかったと喜んでいるって可能性も想像できる。というかあそこでジレル人に会っているならヤマトクルーは、後に救出することになったジレル人のミーゼラに対して自分たちはジレル人を見たって伝えて喜ばせていたはず。それともそうした情報の共有がなされないまま、そしてミーゼラをジレル人と気づかないまま森雪がひとりで対応して、そして悲劇へと橋っていったのか。だとしたら悲しいし、残念なんでやっぱりここは「追憶の航海」の時間線を採用して、これからの展開も作っていって欲しい。あればだけれど。そこではミーゼラはジレル人の星に辿り着き、ネレディアはバーガーと結ばれ、美影は地球で沢村を袖にして斉藤一と結ばれる、と。どうかなあ。どうだろうなあ。

 そんな想像をふくらませた後に行われた舞台挨拶は、桑島法子さんが意外や初の舞台挨拶への登場だったみたいで、本編だけで7回くらいあってそして総集編の上映もあってどうして呼ばれなかったんだ、って思ったけれどでもだいたいが男子中心だったからなあ、舞台挨拶。それが出渕裕総監督の趣味なのかヤマトのファンを狙ってのことだったか、分からないけどただ今回、出渕総監督の登壇がなかったのはちょっと気になたかも。疲れているのか、パッケージに向けた直しにかかっているのか。だってねえ。まあねえ。仕方がないそれは言いっこなしで。

 そして舞台挨拶は内田彩さんに中村繪里子さんも登壇して華やかに。内田さんはスカートが短すぎて、くるりと回るたびに翻って何かが見えたような気にさせられる。見えなかったけど。それとも鏡開きで台の上に上がった時、後ろの人には見えたんだろうか。そこが気になる。中村さんは役柄の美影が他のヤマトガールズの森雪とか、新見薫とかに比べて胸元がささやかすぎるにも関わらず、当人はなかなにご立派で横を向くたびにその張り出しが気になって仕方がなかった。もっと近くで見たかったかも。それでも中央の通路まで来て、鏡開きをやった時はもう少し、近くで見えたけれどその時は、台の上にいっしょに並んだヤマトガールズの森雪コスチュームの人のお尻に目が向かって他は見えず。あれは凄かった。本当に凄かった。

 東京ミネラルショーへと寄って「透明標本」の冨田伊織さんに挨拶をして新作の平目を買って帰ってJリーグなんかをテレビでつらつら。もしも浦和レッドダイヤモンズが勝ってそしてガンバ大阪が引き分けるか負ければ浦和の優勝が決まる、ってシチュエーションでガンバの相手はリーグ再会の徳島というからこれはもう、ガンバの優勝は決まったも同然かと思ったら点が入らない。まるで入らないのは徳島あ目の前での優勝を阻止したいという強い気持ちで臨んだからなのかもしれないけれど、それにしても勝てないで引き分けに終わったガンバに対して、勝ちさえすれば優勝な浦和が名古屋グランパスに逆転負けを喫して優勝を逃していた。こちらはホームで大観衆を前にしての敗戦。どういうことなんだろうなあ。それがサッカーってことなんだろうなあ。

 というかガンバ大阪、J2に落ちてから1年で復帰してのJ1での優勝は確か柏レイソルに続いての快挙か。凄いけれどもそれだけの補強をちゃんとやってJ2を勝ち抜き、さらに補強してJ1を勝ち抜いたんだから経営が巧い。それに比べてジェフユナイテッド市原・千葉は……。言っても仕方がない、明日のプレーオフに勝つか引き分けさえすれば元に戻れるんだから今は見守るだけだ。セレッソ大阪はどっちの道を歩むんだろう。ガンバかジェフか。ヴェルディ……それも厳しいな。せめて湘南ベルマーレあたりを。落ちるけど強くてそしてしばらくは保つという、そんな辺りか。ジェフがそうなる? 可能性はあるよなあ。あと今回は雪で新潟アルビレックスと柏レイソルの試合あ中止になった。12月の第1週でこれでいったい、秋冬制なんてどう運用する? 2ステージ制なんで出来るのか? 考え直す……訳ないか。それあJリーグ。それでもやっぱり、崩壊寸前のバスケットボールよりよくやってるって言えるのかなあ。だから一概に否定、出来ないんだよなあ。もやもやと。



 そうやって具体化に向かって動き出してもなお、本当に出来上がらないケースが山とあったりするから、まだ何とも言えないけれど、世界に向かって資金集めを呼びかける以上は本気に企画として固まって、あとは作るだけって所に来ているんだと信じたい。来年には「オーバーチュア版」なんてものも公開されるそうだから、それを見ればどこまで本気で、そしてどこまで進んでいるかも分かるだろう。最近のGAINAXもそして山賀博之監督も、いったい何をしているのか分からなかったけれど、これでちゃんと会社が回って次に来る新しい時代を開いていってくれたなら、ちょっと嬉しいかもしれない。出ていった人たちにばかり、活躍させちゃあダメだよやっぱり。

 出ていった人といえば、その筆頭格の庵野秀明監督が監修をして公開された「日本アニメ(ーター)見本市」の新作「安彦良和・板野一郎原撮集」。そのタイトルどおりに「機動戦士ガンダム」で安彦良和さんと板野一郎さんが手掛けた部分の原画を集めて撮影し、それを実際のアニメーション部分とシンクロさせて流すといった作品、というか一種特典映像的な存在で、ブルーレイとかで出た「機動戦士ガンダム」のボックスにでも入れておいてくれよ、せっかく新作アニメが毎週見られるって触れ込みの企画にそぐわないじゃないか、って思いも浮かんだりした人もいるかもしれないけれど、でも、この「日本アニメ(ーター)見本市」っていうプロジェクトの中で、これが公開されることは大いに意味があるし、それ事態が最大級の目的なのかもしれないって気がしている。

 もとよりこの企画は、ただ単純にクリエーターに毎週1本、新作アニメを作ってもらってそれを大勢に見てらって、楽しんでもらうといったサービスに止まらない意味って奴を持ってスタートした、って僕は思っている。それは「日本アニメ(ーター)見本市 同トレス」っていう解説番組が、最初っからセットで企画されたことから感じられたもの。ただ楽しんで貰うだけなら、毎週毎週新作を流していけばそれで良い。有料にして課金にするとかってことで収益にだって繋げられるけれど、そうしなかったのは、これをただ楽しんでもらうだけじゃなく、楽しみ方ってのを分かってもらうための企画であり、作り方ってのを学んでもらうための企画だったから、なんじゃなかろうか。

 アニメがいっぱい放送されているけれど、それのどこをどう楽しんでいいのか分からないまま、ただ人気だとか評判だとかに頼って視聴あ集中し、それだけが盛り上がる一方で大量のアニメがシーズンごとに忘れ去られていく。実に勿体ないし、とても悲しい出来事。ここでもし、観る側に目利きの要素があったなら、単純な人気だとかネットの評判以外の部分を自分の目でアニメに見いだして、それを味わい楽しみ人に伝えることで新しい評判を作り、シーズンが終わって存在も消えるような事態を招かなくて済むようになる。ことはそう単純じゃないかもしれないけれど、まるで気づかれないまま消えていくよりずっと良い。そんなアニメの見方を“教育”することをセットにして、アニメ全体への関心を盛り上げていくのがこの「日本アニメ(ーター)見本市」だとするなら、そこにただ原画を撮影してつなげただけの「安彦良和・板野一郎原撮集」が混じることに意味がある。意義もある。威力だってあるよなあ。

 だって凄いもん。こうやって描かれている絵が、こうやって映像になって現れる、そのプロセスが何とはなしに分かってくる。他のアニメはどうなんだろう、この裏側でどんな原画が描かれているんだろうという興味が、ほかの作品へと広がって全体を底上げする。一方でクリエーターの側にも、こうやって描くことでこういう表現になる、こういう効果が現れるって分かってもらえる。刺激を受け、感心しつつ自分だったらこうしよう、こう描こうっていう意欲が湧いてきて、チャンレンジを繰り返していった果てに、いったいどんな映像が生まれ、飛び出すのか。どんな作品へと結実していってくれるのか。それが楽しみで仕方がない。新作アニメをバリエーション並べて楽しんでもらうという見せかけの裏に、教育があり鼓舞があるこの企画を、だから視聴者もクリエーターもしっかりと受け止めて欲しいんだけれど、果たして。

 やれやれ、としか。とあるプロ野球選手が契約を更改して年俸が上がってまずは大喜び。そんなお金を何に使うかって聞かれて「漫画買います」といったまでは良かったけれどそのやり方が拙かった。「買い方にもこだわりがある。新品は求めない。『ブックオフを巡って、探すのが好き。1万円持っていけば、幸せな気持ちになれますよ』。1度に全巻買うのも好きだが、中古の場合『6巻が抜けていたりする。それを違う店に探しに行く、見て買うのがいいんです』と力説する」。何千万円ももらっている大金持ちなのに、ブックオフで揃えやがってそれでも漫画ファンか、という突っ込みはもちろんある。一方でそういう感性の人間がもはや大量に出そろってしまっている状況なだけに、仕方がないのかもって気持ちもないでもない。図書館で借りますと作家に向けて言って憶さない感性が蔓延してしまっている時代にもはや何を言っても始まらない。

 それでもやっぱり、お金が入ったのならいっぱい新刊を買ってあげてほしい、それでこそ漫画家の人に、その漫画家を育てた出版社に貢献できるのだからって言ってあげたい気持ちもあるけど、それを言うのはだから目の前にいたメディアの人間の責任だったりもする。にも関わらずそうしたスタンスを「こだわり」などと書いて持ち上げる記者の側の感性。それもまたひとつの時代の現れなんだろうけれど、少なくともメディア側、コンテンツの生産者側にいる人間が、何の困惑もなく持ち上げて良い話題でもないんじゃなかろうか。なんて気づく感性すらもはや存在しないのだろう、今のこの時代には。やれやれ、だなあ。

 タイトルが長い長い長過ぎるけれども「このライトノベルがすごい! 大賞」で栗山千明賞を受賞した加藤雅利さんの「【急募】賢者一名(勤務時間は応相談)勇者を送り迎えするだけのカンタンなお仕事です」(このライトノベルがすごい! 文庫)は、本当にすごいのでエブリバディはさっさとすっすと読むように。内容はといえばタイトルそのままに、勇者と認定された女子高生の鈴木ミカゼを賢者の血筋に生まれた同級生の鳥居千早という少年が、市役所の斡旋もあって守るというか従う形になって付き従い、モンスターが現れる現場へと自転車に乗せて送り迎えするというもの。もともとミカゼは自分で自転車に乗って現場に通っていたみたいだけれど、強い割りにうかつ者らしく事故に遭いかねない状況を見かねて、千早が後ろに乗せて漕いでいくことになったらしい。賢者もなかなか大変だ。

 うかつ者といえば千早は持っている聖剣エクスカリバーと神盾イージスにサインペンで名前を書き込んでいるらしく、それは真面目さの現れではあるんだけれどどこか抜けた印象を彼女に与える。でも強い。戦えばエクスカリバーの先っぽでモンスターをつっつくだけで消滅させてしまえる。以前はそれでも手に剣を持って振るっていたのが千早を賢者として従えるようになってから、エクスカリバーを竹竿の先にくくりつけて槍として使うことで、ゲートから出現したばかりのモンスターが暴れる間もなくつっついて消滅させるようにした。

 張り合いがない? そうはミカゲは思わないし、千早も淡々として目的だけが果たされれば良いといった感じ。非日常的な日常がそうやって進んでいく筆致の平板なんだけれどそこかしこに仕込まれたくすっと笑えるような描写がとても良く、読んでいてついつい先へと進んでいってしまう。たとえば「月刊むむう」とか。怪奇と幻想なんかをさも実話のごとくに取りあげていそうな某雑誌を想起させる内容で、そこには勇者の紹介なんかもあってしっかりミカゲも取りあげられているんだけれど、周囲で読んでいる人はなくそれを信じる人もいないから、学校でも騒ぎにならない。そんな雑誌には魔界からの求人もあって応募して魔族の手先となった黒土鵺って同級生もいたりするんだけれど、慌て者で純情なのか千早の言葉に反応して可愛いところを見せたりする。

 あるいはエクスカリバーの扱い。役所の方からモンスターの出現が頻繁になると予告されたんで、いつ何時必要になるかとミカゲはエクスカリバーを担いで学校に来ているんだけれど、それだとバレるはずなところがマジックで野球部と書いておくことで、ただのバットに見えてしまうというから何と便利。でも本当にソフトボールの授業でバットとして使ったものだから、振れって投げれば千早を襲って壁に突き刺さり、ボールはまっぷたつになって守備の人たちを惑わせる。そんな小ネタがわんさか仕込まれ実に楽しい。メンバーの方も、ミカゲに千早と黒土にあと千早のことが気になるらしい上級生の鳳凰ヒメナという少女も剣士として参加し始まるパーティ生活。トイレに陣取り結界を張って誰も入ってこられないようにして、そして綺麗にする呪文でその場を清潔にした上でお弁当を広げて食べたりする。

 汚れを落とす呪文は「キレイダナー」。それを戦闘で汚れてしまったメンバーに使うとメンバーが赤面してしまうという小ネタもあったりと、そんな戯れ言のオンパレードになっているその先で、いよいよ本格的に現れ始めたモンスターとの戦いが待っているというからいったいどうやって戦うのか。黒土の魔法にヒメナの剣に不思議な戻り方をしたエクスカリバーを手にしたミカゲと、そして賢者の千早の4人が挑む最後の闘いの結末は。これもまた読んで力が抜けそうになるけど、一方でやっぱりこの作品ならではの低体温な中におかしみを誘う描写でとても面白い。設定だけならよくあるストーリーながらも読めばわかるこの魅力。何でこれが栗山千明賞で大賞じゃないの? って不思議はあるけど今年は選考に一切関わってないから、その辺の事情はまるで分からないのだった。まあいい、これはとにかく面白い、ってことで逃さず読もう。この淡々として進む感じで映像化とか出来ないかなあ。


【12月4日】 最初に見たのは東京のど真ん中にある表参道は青山スパイラルホールでの「G9 ニューダイレクション」って東京のギャラリーが集まって開いた展示会で、そこに堂々とペニスを屹立させては先端からスペルマを発射していて、それがカウボーイの投げ縄のようになっている「マイロンサムカウボーイ」が立っているというビジョンに、日本という国のアートに対する意識も大きく進歩したんじゃないかと思ったかどうか、実ははっきりと覚えていない。

 あるいは展示の最中にそうしたチン列を良くないとする声も起こって、会期中に腰巻きなんかが掛けられたかもしれないけれど、それだったらロダンだってミケランジェロだって堂々と開チンしていたりする訳で、比べてどうこう言えるものでもないって気は今もしているし、当時もしたんじゃなかろうか。でもって2度目は多分、東京都現代美術館で開かれた大々的な個展でそこには、青山スパイラルホールと同様に乳で縄跳びをやっている裸の美少女のフィギュア「HIROPON」もいっしょに普通に展示されていたような記憶がある。

 先に作られた「HIROPON」が、いわゆるオタクな男子の性への渇望って奴を具現化させたフォルムに映しながらも、よりAVっぽい生々しさで返して来て、見る側を憧憬だとかいった甘い空想に逃げさせない強引さで縛ったっけ。その一方で、対として作られたようなところあある「マイロンサムカウボーイ」は、オタクの性への開放感って奴を、その猛々しい肉体とペニスに表現しつつ、でも細部はアニメーション的な造形だったりペイントを施して、架空と現実、虚構と血肉の狭間に見る人を追い込んでその場に立ち止まらせた。それらがだからろくでなし子さんの世紀をかたどった作品より高尚だとか、よりアートだとか言うつもりはなくって、見る人が見れば同じく性器で裸であり性的な造形物だってことになって不思議はない。

 ただでも、考えようとすればもっと深いことも考えられる素材を前にして、同じ性的だからといった理由を挙げつつ、一方が捕まりどうしてもう一方は捕まらないのかと問うのはナンセンスであり愚劣でもある。ここで問うべきは共に芸術として何かを無そうとしてる表現をあっさりと、検証もなしに捕まえることの是非であるべきなんじゃなかろうか。でもそうはならず、「マイロンサムカウボーイ」であり「HIROPON」を作った村上隆さんは捕まらないことを嘆き怒る心性ってのは、ただの嫌悪に過ぎない訳で、それをアート性の有無に乗っけて迫られても、村上さんとしても困るし迷惑なだけだろう。過去、少なくとも表参道で、そして東京都の施設で展示された実績を持つ作品を悪し様に言うことの無意味さを、まずは考えてみようと訴えたいけど、聞く耳があったらしつこく攻撃は続けないか。厄介なオーディエンスを持ってしまったなあ、村上隆さん。

 そういやあそろそろマンガ大賞の候補作でも決めなきゃいけない時期になったなあと思いつつ、ライトノベルを読むのに精いっぱいで漫画にあんまり手が回らず読んでない本も多いんで少し、様子を見ようと本屋の漫画売り場をさっと見て目に飛び込んできたのが朱良観さんの「すみれの花咲くガールズ」(小学館)という作品。女子高生が宝塚を目指すっていう設定自体が何か面白そうだったけれど、読むともう心から熱くなれそうな青春ストーリーになっていて一気に引き込まれた。すでに冒頭で未来の結末を見せた上で、背の高い宇佐見真由って女子高生が、男子なのに宝塚に入りたかった杉本辰之進って男子高校生に引っぱられ、刺激されて宝塚を目指すという話。辰之進に強引に引っぱられ煽られもしてならやってやると臨んだ学園祭の舞台で、自分を見せる素晴らしさに真由が気づき、新しい才能の誕生を辰之進が見る瞬間がとても良くってふるえが来た。

 良い漫画、あるいは良い作品に出会った瞬間に来る身震いって奴を、感じさせてくれた漫画はいつ以来? まあ結構あるけれどもこれはそんな瞬間を描く筆致、段取りがとってもよくって演劇の最高の場面を見ているような気にさせられた。宝塚大好き過ぎる辰之進の猪突猛進ぶりが迷惑千万で鬱陶しくもあるんだけれど、そんな彼のダメでもぶつかっていって跳ねとばされても諦めない意志が、ウザさを超えて周囲の人に影響を与える展開も悪くない。そりゃあ誰だって最初はお前の残念を押しつけるな思えるだろう。でもそれが次第に変わってくる。恥をかかせてダンススタジオは潰しかけるわ、それで別の少女の運命も変えてしまいそうになるわと実に鬱陶しい男子高校生。でもだったら、自分はどれだけ頑張ったの? 他人に遠慮して諦めてない? って自らに問いたくなってくる。やってやろうと思えてくる。その果てにいった少女は、あの場所へとどうやって辿り着くのか。これからの展開が楽しみだ。

 そして気が付いたら将棋の竜王戦で糸谷哲朗七段が、森内俊之竜王を敗ってタイトルをダッシュしていた。挑戦者決定戦で羽生善治名人を敗っていたりしただけに今季に限っての強さはお墨付きだったけれど、長丁場となるタイトル戦ではそうした勢いも殺がれ自力のあるタイトルホルダーが勝つのがたいていの場合だっただけに、それを上回る勢いを糸谷七段が持っていたってことになるのかも。あるいは森内竜王が調子を落としていたか。だとしたら羽生名人が挑戦していたら奪取もあって永世竜王を獲得して名人竜王を共に持って棋界の盟主に返り咲いたかもしれない。そう思うと残念だけれど未だ調子は崩してないみたいだし、来期の楽しみにとっておこう。今ふたたびの七冠を夢見つつ。ああでも王将戦はちょっと無理かなあ、挑戦権獲得は。

 3分間の争奪戦に勝利して見に行ったというか、ほとんど聞きにいった感じだった映画「楽園追放 Expelled from Paradise」の生オーディオコメンタリー付き上映会。話だと水島精二監督と演出の京田知己さんが2人で掛け合いでもやるのかと思っていたら、何とキャラクターデザインの齋藤将嗣さんは来るわ僕らには原型師として知られているスカルプチャーデザインの浅井真紀さんも来るわCG監督の阿尾直樹さんも並ぶはさらに数人も加わるわといった感じで、2時間近い映画の間をたっぷりと技術的演出的企画的デザイン的な話を聞かせてくれた。

 っていうかほとんど映画の音声なんて聞こえて来なくて水島監督と司会の岩永さん、そしてメンバーの声が響く感じで、これが初見の人には繰り広げられているドラマはまったく分からなかったんじゃなかろうか。でもそういうイベント上映なんだから仕方がないし、聞いた話しを元にまた見ればさらに楽しめるだろうからむしろ得した気分でいて頂戴って感じ。そしてすでに見ている人には納得のイベントで、演出意図が分かり技術の凄さが見えデザインの意味が感じられるものになっていた。ほとんどすべてを3DCGで描くことの何が難しく、けどどうやって超えてどこに辿り着いたかも分かった。やっている間の成長の凄さって奴も。

 この作品がひとつ生まれ、成功したことによってCGを使ったセルルックなアニメのモデリングも表情付けもアクションも、大きく変わりそしてここからずんずんと進化していくことになりそう。そんな現在の到達点にして未来の出発点に今、触れていられる幸せをスタッフも感じていたみたいで、話す言葉に力が満ちあふれていた。関わって良かったといい、演出の人たちの感性に触れられて良かったとも話していた。CG屋のモデリングの技術と、アニメ屋の映画を作り見せる技術は違うけど、それを融合させて共に得る物を得た果てに来る新しい地平はいったい何か。その可能性を感じさせてくれた。

 スタッフと同様に観客も、新しい時代の幕開けを味わっている映画。それだけの大勢の人に観て欲しいし、実際にそれなりの人が見ているから、これを受けて世間に水島精二監督の名前が一気に広まり、そんな凄い監督がデビュー作として手掛けた「ジェネレイターガウル」をBD化しよう、なんて話になれば嬉しいけれど、それが実現するなら劇場版「機動戦士ガンダム00」の時に実現していだろうなあ。どうして復活しないんだろう。もうちょっと世間が知る必要があるのかな。まあ待とう、作品が消えて亡くなってしまった訳じゃないし。ともあれ面白かったイベント。京田知己さんの80年代OVA好きも分かった。今度はそんなテイストの作品を今回の経験も踏まえつつ次に作って欲しいなあ。


【12月3日】 そして2020年に地球へと帰還した「はやぶさ2」は、今まさに開幕しようとしている東京五輪の開会式の場へと到来しては、歌い踊っているAKB48の列の中に落下して、そして大気圏との摩擦で黒く煤けたハッチを中からゴインと開いて、6年前とまるで変わらない姿態で降り立った前田敦子さんをメンバーに加え、オープニングアクトのクライマックスへと向かうのであったという、そんなハプニングくらい起こさないと東京五輪も盛り上がらないだろうなあとも思ったりもしつつ、それくらいのハプニングを仕込むのが秋元康さんだよなあと思ったりもした、午後。つまりは今日、打ち上げられたあの「はやぶさ2」には前田敦子さんが乗っていたのかという話になるけど、そこはそれ、イリュージョンって奴で、うん。

 期待として6年後の帰還を誰もが信じ切っているところがあるけれど、でも前の「はやぶさ」だって帰還するかどうか怪しかったのが、どうにかこうにか地球へと辿り着いてそれが認められての大騒ぎになった訳で、映画まで作られそれも2本だかが同時に公開されて、どっちも大コケするという悲惨さもあったものの、それでも多くにその健気さを印象づけて予算まで獲得して、今回の「はやぶさ2」の打ち上げへと至った経緯を踏まえるなら、散々っぱら応援されて打ち上げられたものの、無事に小惑星までたどり着ける保障もなければ、それが地球へと帰還できるかもやっぱり未知数。その確率を極限まで引き上げる苦労をJAXAもしているとは思うけれど、その確率が極限まで低いというのもまた事実。なのでたとえ帰ってこなくても、次また次へと挑戦し続ける意欲を誰もが失わないでいて欲しいと切に願う。挑戦なくして進歩なし。なのです。

 そういやあ公示された今回の衆議院議員選挙に前、生活の党で立候補しては船橋のいつも使っている宅急便の営業所の近くに事務所を開いて、船橋駅でも演説していた三宅雪子さんが立候補していないなあと思ったら、やっぱりいろいろと事情があって立候補を見送ったらしい。事情ってのはつまりお金なんだけれど、元ではあっても衆議院議員をやっていて、そして参議院議員選挙にも出馬させた人を推薦して支援できない党っていったい何なんだろう? って気がしないでもない。

 当選すればそれは党の手柄だけれど落選すればすべては個人の責任で、負担も個人じゃあお金持ちしか政治家、目指さなくなるよなあ。そんなことがないよう、しっかりと供託金を溜めて準備をして、たいていの選挙区に立候補者を当てる共産党の政党としての生真面目さ、って奴をちょっと考えてしまった。三宅さんの場合は、お母さんが亡くなり弟が障害を抱えて大変だってこともあって、立候補をして選挙活動をする時間もなかなかとれない、って状況もあったようだけれどそれでも、当選さえできればどうにかなるような話であってそういう事態へと持っていけない今の政治情勢が、ある意味断念させたって言えそう。それがムーブメントに乗って世に出た議員のある意味、末路って奴なんだろう。

 波に乗って世に出てそして、潮目を見て引いてタレント業めいたことで食べている杉村大蔵さんはなるほど、その点で見る目があったってことになるのかなあ、あるいは所属政党を買えて議員として生き残って、大臣にまでなった小池百合子さんとか。何にしても1人の人生を変えさせ、鞍替えまでさせて泡沫へと追い込み、今の悲痛な境遇へと追いやった小沢一郎さんの甲斐性の無さっぷりは、末代まで語られて良いかと。とはいえ居住地が東京1区って、もしかしてまだお金持ち? だったら同情は、ううん。あとフジテレビ、休職のまんまなんだろうか、そこも気になる。復職できるんなら、ちょっと羨ましいかなあ。別の会社だけれど同じグループでは、都知事の特別秘書が復職してたくらいだし、三宅さんだって出来るような。どうなんだろう。

 「噛み合ってなかった」って言うけど山本一郎さんと辻元清美さんの対談は、カマトトぶってというか何も事情を知らない素人のようなフリとして、山本さんが世間一般に流布される懐疑というかデマゴーグを直接ぶつけて、それに対する正当で真っ当な答えをちゃんと引っ張り出し、改めて文字として世の中に定着させてデマゴーグを取っ払おうとした儀式みたいなもので、だから丁々発止の対話とはならず、どこか探り合うような感じになってそれをもって「噛み合ってない」という修辞的表現をしただけのこと、なんだと思うけれどもそういうタイトル自体がだったらいったい、何が語られているんだろうと世間の耳目を惹きつける役目も果たしているところが、二重に巧いというかやりやがったなというか。いずれにしても良い仕事。こういう仕事をもっとマスの媒体がやらなきゃいけないのに。

 でもやらないから、未だ流布されたデマは払拭されないまま、選挙戦となって辻元さん自身が「震災に関するデマについて」って文章をしたため、世の中に改めて提示しなくちゃいけないことになる。何て難儀な。この件なんてもう裁判という公の場でもって、まったくの事実無根だって判決が出てデマを流布したメディアも書き手も完全なまでに敗訴していたりするのに、そうした過去は過去のもとして流され流布されたデマばかりが今もなお漂っては浮かび上がって、当事者によからぬ評判を与えて襲撃だなんて面倒な事件も起こさせていたりする。どうにかするにはデマを振るしたメディアと書き手が、それこそ朝日新聞並の謝罪と訂正を、満天下で行わなければいけないのにそうした傾向は見えず、むしろ英雄めいた存在として時の政権、時の総理大臣から褒め称えられているんだから何という状況。誉める総理も総理なら、誉められたことを誇るメディアもメディアだよなあ。やれやれ。でもそういう国に生きているなら、その隙間を突破していくしかない訳で、なおのこと山本一郎さんの仕事とかが大きな意味を持ってくる。頑張れ隊長。髪の毛はどうなろうとも。

 そして試写を見た「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」は一言で言うなら縞パンだった。もうほかに言う言葉が見あたらないくらいに縞パンだったけれども、もうちょっと付け加えるなら縞パンだったという、それくらいに縞パンが強く印象に残った映画だった。以上。まあ細かいことは6日に封切られてから劇場で観てもらえば分かるとして、もう少し付け加えておくならオープニングでささきさおさんの歌が流れず、葉加瀬太郎さんのヴァイオリンによる演奏あギャンギャンと流れているそのバックで、細かく切り替わるカットがただの振り返り的ダイジェストではなく映画の本編に強く関係しているってことだけは指摘しておいて良いような気がする。それを見ればなるほどそう来るかってことも分かるし、そう来るだろうなあって予想もついて身構えつつ展開を見守っていけるから。あとはやっぱり縞パンか。園崎未恵さんの声もか。甘くてそれでいて強いあの声。上司に持つならそんな声って感じの声を聞かせてくれるんで男だったら跪こう。やっぱり縞パンなのかなあ。でもメルダはTバックだったしなあ。


【12月2日】 えっとそれはつまり「魂のルフラン」が聞けるってことで良いんだろうか、前世紀に放送されて上映もされた方の「新世紀エヴァンゲリオン」が、HDリマスターでもってブルーレイボックスになるとかで、それはそれとして収録分に「新世紀エヴァンゲリオン劇場版シト新生」ってのが含まれていたのが気になった。つまりは春エヴァって奴で、「REBIRTH」編が最後まで作れなかった関係で、アスカが量産型を見上げながら「エヴァシリーズ、完成していたの?」とつぶやきそして流れる荘厳な調べから迫力のロックサウンドへと向かいその続きへの期待を煽ってくれたあの音楽。そして完成した夏エヴァこと「Air/まごころを、君に」が、テレビにも増して陰鬱とした収束へと向かうとは、当時誰も予想していなかったんだけれどそれだけに、あそこに抱く思いって奴もまた格別で今一度、あの時点に戻って感慨に浸りたいっていう人も少なくない。

 けどその後、夏エヴァをもって完成したフィルムは、「DEATH」編がいろいろと改良された上に前へと戻されることはなく、テレビ本編のリニューアルへと組み入れられて映画から消えたシーンもあったりした上に、「REBIRTH」編は当然のように連続して語られ、架空のエンディングだった「魂のルフラン」が流れる予知はなくなり、そのビートに魂を振るわせることもできなくなっていた。それが復活。どうして1本の映画として「シト新生」が封印されていたのかよく分からないんだけれど、やっぱり未完成の物を世に出すのはしのびなかったってことなのかなあ。まあでもここですべてを洗いざらい世に出すことになった訳で、そして最後の総仕上げ、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の完結へと向かって気力もそして資金力も確保して、一気にダッシュして欲しいもの。だけどトークイベントだと確かしばらく開いても良いようなこと、言っていたしなあ庵野秀明さん。どうなるんだろう。ともあれ買う。幾らだって買うから早く発売を。それまでに視聴環境を整えたいなあ。

 ああそうか、TOHOシネマズ六本木で2012年7月21日にあった「おおかみこどもの雨と雪」の舞台挨拶に韮崎のおじいちゃんを演じていた菅原文太さんは出席してなかったのか。理由が確か農作業の繁忙期だからといったもので、映画を見終わった今はなるほどそれも韮崎のおじいちゃんらしいなあと思えるけれども、でもやっぱりその姿を1度なりとも見てみたかったという悔いは残る。「千と千尋の神隠し」とかの釜爺に絡んだ出演にもい合わせてないから結局、1度もその姿を見ないままだった感じ。高倉健さんは「鉄道員(ぽっぽや)」の会見で見ているだけに双璧を逃した残念さは募るけどでも、作品こそがすべてなんだと思えばそこに文太兄ぃの足跡を見れば良い。ってことで探して見よう「千と千尋の神隠し」。赤くないBDも手に入れたことだし。

 ボートレースが主題とはまたライトノベルらしくないなあとは思ったけれども、メディアワークス文庫はそういう固定観念から外れた作品が出てくる場所だから、あんまり不思議でもない気もしないでもない。というか女子サッカー選手とか通販会社の社員とかといった、あんまり描かれない職業だとかを題材にして物語を紡いでみせるパターンの方が、メディアワークス文庫なりそうしたオトナ系ラノベの場合は目立っていたりしてそのバリエーションのひとつとしてボートレースが挙がったといった見方もできなくはなさそう。漫画なら「モンキーターン」があるけれど、小説でボートレースって今はあんまりなさそうだし。

 そんなボートレースを主題にした美奈川護さんの小説「スプラッシュ!」は、まず父親が厳格な剣道家だった道場のある家に生まれた長男の渡来陸が、父親の急死で大学を諦め家族のこともあって父の葬儀で久々にあったボートレースをやっているという叔父に誘われ、ボートレースの選手となったというところからスタートする。ボートレースの選手を育成する学校では卒業レースに優勝して将来を嘱望されたものの、母親に再婚相手が現れ弟妹の面倒も見てくれるってことで、生活を背負った悲壮感から解き放たれ、かといって今さら辞めて大学生の生活に戻る訳にもいかない陸は、そのままプロとなってすぐに臨んだレースで足踏みをし始める。

 デビュー戦の直前に叔父が大事故で怪我をして、巻き添えに選手も1人死んでしまって動揺した陸は、レースでフライングを犯してしまって1カ月の出場停止という憂き目にあって以降、どうもスタートが遅れ気味になってしまってレースで勝てない。才能がない訳じゃないのは学校時代のレースが証明しているけれど、立ち直れるきっかけを得られないでいたある日、駆け出しで強くもない自分を待っていてサインを求めてきた女性がいた。名を壱橋六花というらしい彼女のアプローチに気を良くしたのか、その後のレースでようやく初勝利をあげて、水神祭という名の洗礼を浴びてさあこれからといなった彼の前に、いつかサインを求めてきた女性が現れる。新人のボートレーサーとして。

 男性も女性もお構いなしに同じレースに出るのがボートレースの特徴で、それは女性騎手がいる競馬でも女性のレーサーがいるオートレースでも同様だけれど、ボートの場合は体力をそれほど使わないからなのか、割となりやすいからなのか女性のレーサーも結構な数がいて、そしてしっかり活躍もしていたりする。そんな中にあって六花は、学校の卒業レースで優勝も果たしてしまうという期待の逸材。そんな彼女がどうしていつか、すでに学校入りが決まっていた時期に陸にサインを求めてきたのかがひとつ問題になる。好意を抱いていた? レーサーの先輩として何か気になるところがあった? そんなポジティブな意見もありそうだけれど、やがて浮かび上がってくる六花の過去が、陸に不信感を抱かせボートレースの世界に憶測を呼ぶ。

 つまりは因縁か。そして復讐か。ってあたりから迫っていく六花の過去から浮かび上がってくるのは、不器用な人間たちの生きる世界はやっぱり狭くて厳しいものなのだなあ、という感想。そんな中でもあがいて頑張っていても、人間の心の嫉みや妬みといったものが迫って世界をさらに狭いものにしてしまい、弾かれ去っていく人もいたりする。それが日常茶飯事だと思い憤り嘆き諦めてしまうのが普通な中で、純粋に闇雲に真っ直ぐに生きている人間がいたことに気づいた心が、澄んだ水を求める気持ちに従う行動でもって近づいていったひとつの形が、いつかの陸と六花との邂逅だったのだと分かってくる。

 真面目に生きる姿が自分を助け、他人を導く。そして恋の始まり……はやっぱりないのかなあ、そこは互いに認め会ったライバルとして、水上で真っ向から戦い続けるといった感じ。数年を経ても名字が別々ってことはつまりそういうことだし。どっちかが朴念仁で収まる場所に収まらないのか、そういう関係ではあり得ないくらいにライバルなのか。ちょっと気になる。いずれにしても「ヴァンダル画廊街の奇跡」シリーズから一変してメディアワークス文庫で「特急便ガール!」「超特急便ガール!」と働く女性の厳しくも不思議な日々を描いた美奈川護らしい、社会に生きて仕事に邁進しながら人生についても感じ考える人たちを描いた物語。続くような展開にはなっていないからこれで終わりだろうけれど、でも見てみたかった、どっちかが勝って掛けにも勝って「自分のものになれ」と言う時を。勝つのはどっちだろうなあ。六花だろうなあ。純真ぶってみせてなかなかの策士といった感じだし。


【12月1日】 これだけ大量に出ていると、いったい前のを読んだのか読んでないのかの記憶すら曖昧になる中で、読み落としていってしまいそうな作品も多々あるけれどもそれでも細い記憶を掘り起こし、これは読んでいたなあと思い出して手に取ったシリーズの続きが幾つか。まずはツカサさんという人の「国家魔導最終兵器アーク・ロウ2」(ファンタジア文庫)。まだ当時は劣っていた国の皇子が半ば人質としてやって来た国でそれなりに立場を得ていく過程で、出身国はゴーレムを使って強国となって立場も変わってしまった状況下、そのゴーレムをやっつける能力をもった少女の形をした兵器を開発したものの、なぜか異国の皇子が目覚めさせて従えてしまうという。

 それで反抗する訳ではなく、自分の古巣の国から侵入してきたゴーレムを退け今ある国を守ったのは、兄にあたる男が王位を簒奪して父王を廃し母親を殺し妹を監禁しているからで、それを倒すべく今いる国を味方に付けようと画策したら、何とその国のたったひとりのお姫さまが婚約者になってしまったというのが前巻まで。そしていよいよお姫さまと面会した皇子は、ただの深窓の令嬢ではなく強い意志を持ちつつやや投げやりなところもあった姫と共闘を語らい、いっしょになって世界をひっくり返そうと企むことになる。そして起こった革命混じりの事件に対峙し、隣国からの侵入も退けていった果て、どうにかつかんだ地位を生かして世界を手に入れる戦いに向かうのか。その前に姫に貴族の令嬢に兵器の少女にゴーレム使いの双子の姉妹に別の貴族の令嬢と、美少女に囲まれ過ぎな皇子さま。誰をとっても大変なことになりそうな中で誰を選ぶ? やっぱり姫かなあ、逆らうと氷付けにされそうだものなあ。

 そしてこちらはGibsonさんの「銀河戦記の実弾兵器2 バトル・オブ・アルファ」(オーバーラップ文庫)は、知らず陥っていた冷凍睡眠から目覚めるとそこは超未来の宇宙で、誰も地球のことなんか知らない中、謎のAI小梅に導かれ知識も植えられて太朗は新しい宇宙の中を渉っていってそして会社を興し、運送業から警備業へと幅を広げながらワインドと呼ばれる機械兵器の跋扈も退け名を挙げていく。仲間も増えて順風満帆、といったところだけれど、そんな好事を逃す世間でもなく挑んでくる敵もあってなかなか大変。知り合ったカンパニーが襲われているのを助けにいって、ディンゴという名の敵と戦い艦隊戦なんかも仕掛けながら、やっぱり出した実弾兵器! ちょい大丈夫かって思われるような過去の遺物を最大限に発揮して、戦況を五分に持ち込み譲歩を引きだし講和へと持っていった果て、新たなアライアンスが組まれた先に敵の姿が見えてくる。

 それは別のカンパニーなのか、それとも知性めいたものを持ち始めたワインドなのかは今は不明。ネットで連載もされていたそうだから、そっちで明らかになっている部分もあるんだろうけれど、新たに紡がれている書籍の方は、そうした設定がそのまま活かされているとは限らないんでまずは試しつつ読んでいこう。興味深いのはリンっていう知り合った別のカンパニーのトップが暮らす場所が、リトルトーキョーでカツシカって名前があってタイガーという偉人がいて、その姿がどう見たって葛飾柴又で有名なあの人。帝釈天で産湯をつかった。そんな人の伝説が冗談なのかリアルなのか、そして太朗が探し求める地球の手がかりは見つかるのか、といった興味も残る物語だけに、これからも先を追っていきたい。ところでリンって少年? それとも? そこも気になる。脱がしたいなあ。

 寅さんといえば、何で彼女の待ち受けは寅さんだったんだろう? 新宿ピカデリーで実写版「THE NEXT GENERATION パトレイバー/第6章」を観にいって、上映前に流れていた曲の格好良さに惹かれて、こんな曲がエンディングになっているならきっと格好良くって最高な体験をさせてくれるだろうと、映画「日々ロック」を見に行ったらもう痛快で痛烈に痛切なドラマだった。原作が「マンガ大賞」の候補になった頃は、まだ第1巻で田舎で高校生がバンド組んでやらかしているだけのスピーディでパワフルで泥臭さもある作品だったって記憶。その後に話も進んで出会いもあって成功やら失敗もあったらしいけど、そんな展開を読まず観た映画は、とにかくパワフルで前向きで、何が何でも這ってでも這い蹲ってでも進んでいこうとするエネルギーに溢れた作品だった。

 原作をずっと追っていた人には多分、不満もあるみたいだしそういう声も漂っているけれどでも、ストレートに青春をロックにかけて東京へと出てきて、ライブハウスに居候しながらスターを夢見て演奏し続けている3人組が、ロックに始まりながらも意に添わず、いや当人はそれも空っぽの自分を引っ張り上げてくれた道なんだからを受け入れているアイドル的なシンガーの道を歩んでいた少女と出会って、共に影響されていくというストーリー。誰にでもある希望を持って何かに挑んで壁にぶつかり吹っ飛ばされ、へこたれてしまう気持ちをある意味代弁していたりする。でもそこで吹っ飛ばされたままにはならず、やりたいことをやり抜く気持ちを無くさないで保ち続ける大切さ、そして、時間という限りのある中でやり遂げる必要さって奴を感じさせて、後ろを向きかけた頭を前へと引き戻し、止まっていた足を前へと踏み出させる。

 そんな勇気をロックの爆音に乗せて描いた青春ロックンロール映画。うまくいかなくて殴り合ったり、社会の荒波に揉まれてすり減ったりしても、心に灯ったロックンロールの火は絶対に消えないし、ロックンロールの音は決して鳴りやまない。そのことに改めて気づかせてくれる映画。クライマックスに来るすべてをそこに集約し、魂を弾けさせてさらに未来へと続く希望って奴を感じさせる疾走感あふれたシチュエーションには正直泣けた。途中の野村周平演じる日々沼のグダグダっぷりへのイライラも飛んで、奴はやっぱり奴だから凄いんだって思わせてくれた。観たらうん、咲だって生き返るだろうなあ、それだけのパワーをもらったよ。あのシーンのあの感動を味わうために、何度でも観たい映画だと思った。タイプはまるで違うけど、「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」でユウタがさえ子の手を引き少年が坂道を駆け上がるシーンに匹敵する感動と感涙の名場面。そういうシーンがある映画って、強いよなあ、やっぱり。

 主演の野村周平さんはキモいけど1本芯の通ったロックンローラーって奴を、それこそ全身をさらけ出して演じてくれたし、二階堂ふみさんは清純なアイドルから酒をくらってクダを巻きながらギターを鳴らし、蹴りを入れて騒ぐあばずれミュージシャンまで鮮やかに演じてみせてくれた。「鬼灯さん家のアネキ」で引きこもりだった童貞弟を見事に演じた前野朋哉さんは、やっぱり童貞演技が抜群で、よくもまああそこまで毎回テンション維持できるなあと感心するより他にない。そしてドラマー役の岡本啓祐さん。黒猫チェルシーってバンドのドラマーなだけあって、すごいドラミングを披露しつつ役者としても冷静でテクニシャンな依田明を演じてみせてくれた。誰が欠けても一致しないスリーピース。そこに加わる、無駄に頭の良さそうなことを言わない竹中直人さんのライブハウスの親父っぷり。これこそが竹中直人ってところを見せてくる。蛭子能収さんはもう蛭子さん。そんな面々が彩る凄い映像と、音楽のパレードに今すぐ接せよ、劇場で。また行こう、あのクライマックスのハイテンションを浴びに、味わいに。

 1986年に生まれた女優の石原さとみさんは、もちろん東映の実録路線のヤクザ映画なんか観たことがないし、NHKの大河ドラマ「獅子の時代」とかで活躍していた姿もやっぱり観たことがなく、ただ有名な役者さんだということくらいは知っていたけれど、何しろ16歳とか17歳の高校生、芸能界とかの雰囲気も知らないまま臨んだ実質的なデビュー作となる映画「わたしのグランパ」で共演した菅原文太さんの存在に接して、子供ながらに凄いと思ったことがあるという。「ただ座って、畳の上で1点を見ているシーンがあるんです。自分は出ていないシーンで、撮影を見ていたんですけど、それだけで何か伝わってくるんです。それって凄いことだなあと思って、ちょっと感動しました」。

 映画を観た人なら分かるように、ちょっとしたトラブルがあって人を死なせてしまったグランパが、刑務所を出て家へと戻ってくるというのが話の骨子。そこで周囲とちょっぴりギクシャクしてしまうんだけれど、物怖じしない孫娘とひょうひょうとしたグランパには通じ合うものがあるようで、そんな交流を描いていくストーリーで文太さんが演じるグランパは、内に正義を秘めながらも決して荒ぶることなく、外に気持ちをぶつけることもなく、淡々としてその佇まいだけでひとつの正義てものを表現している。長い役者人生を過ごしてきた文太さんの生き様があればこその役、って言えば言えそうだけれど、それを喋らずただ止まっているだけで表現してしまう凄さ、って奴がきっと過去を知らず縛られない新進の女優にも伝わったんだろう。

 しばらく前には息子さんを亡くして、表舞台から遠ざかっていた文太さんの復帰作だったのが映画「わたしのグランパ」。そういうことを知っていたのか、知らないままでも感じたのか「いろいろなことを乗り越えて、いろいろな役柄をこなして経験した上で、その役でそこにいるだけで伝わってくるものがあるのは、人間力なんでしょうねえ」と話していた石原さとみさん。「その人が来たら明るくなる、緊張する、やる気が出るとか、そういう人になりたいかなあと思います」。たぶん石原さんはそうなれているだろうと思うし、だからこその昨今の活躍ぶり。見て文太さんは何を思っていたのかな。ちゃんと覚えていてくれたかな。って思うけれども問うて返る声はなし。11月28日、死去。高倉健さんの訃報に何かコメントを出すかなあと思っていなかったら出なかったのは、自身もそういう場所にあったからなんだろう。共に天国で何を語っているか。聞きたいなあ。その言葉。見たいなあ。その笑い顔。合掌。

 柴田勝家だ柴田勝家だ、柴田勝家が見られるってんで「第2回ハヤカワSFコンテスト」の贈賞式に行ったら本当に柴田勝家がいて七本槍と戦ってた。嘘です。でもそこにいたのは柴田勝家としかいいようのない風貌をしたおじさん、ではなくお兄さんでまだ27歳ながらも十分の貫禄を盛って周囲を圧倒していた。それで書く物は民俗学にのっとった南洋を舞台にテクノロジーも織り交ぜた本格的なSFストーリー。不思議な才能が出てくるなあ。しかしキャラが強いだけにそのキャラに引っぱられて書く物を規定されてしまってはもったいない。見かけはあくまで見かけとしてやっぱり書く物が何かでもって驚かせていって欲しいもの。美少女SF作家だって書く物が超ハードなアクションだったらやっぱり作品でもって好きになるものだし。


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