縮刷版2013年9月下旬号


【9月30日】 「あまちゃん」の平均視聴率が出たそうでひとつ前の「純と愛」のもうひとつ前に放送されてて話題になった「梅ちゃん先生」にちょい、及ばなかったとか。ツイッターのタイムラインとかいつも接しているメディアなんかでの取り上げられ方持ち上げられ方からするならそれこそ「半沢直樹」を上回って30%40%をアベレージで叩き出していたって不思議はない人気ぶりだったのに、ふたを開けてみたらこの数字ってことはひとつには突き刺さっている面々が僕の周辺に異様に偏っていた一方で、朝の連続テレビ小説をメーンの視聴者にしている主婦層女性層高齢者層にはあんまり好評ではなかったってことなんだろーかどーだろーか。

 そうした層がちょっと離れている間に違う層が入ってきて、見まくり語りまくっての局地的人気ぶり。それがたまたま目に触れやすい場所にあっていかにも盛り上がっているように見えただけ、ってことなのかもしれないなあ。それは例えば「新世紀エヴァンゲリオン」がとてつもなく盛り上がって“社会現象”になっているって言われたあの時代に、周囲の誰もが話題にしているよーに見えたけれども、他の一般層は誰も興味を持っていなかったとゆーギャップ。それこそ本当の意味での“社会現象”となるためには、あらゆる層にフックとなり得る要素を持っていなくちゃいけないってことななんだろー。官邸で総理大臣がぶら下がりで聞かれて答えるくらいに。

 BSで見ている人が多いとか録画して見ている人が多いってのは確かにあるけれど、録画して見るって意味なら夜のトレンディードラマだって同様。それが本当の人気にどれだけプラスとなっているかはちょっと判断が出来ないし、BSで見ているって人も早く見たいからだけで別に午前8時からの普通の放送を見ようと思えば見られない人ではなかった感じ。層的な広がりがどれだけあったかってことを考えると、地上波の視聴率にどれくらのプラスになったか判断に迷うところではある。つまるところは本当に“社会現象”だったのか、それを“国民”が大喜びしているのか、って辺りでそこを見誤るとNHK、他のオタクなコンテンツが陥っていったタコツボ的な層へと刺さりすぎて他に広がらず閉塞感に喘ぐ状況へと、陥ってしまうから要注意。まあ「ごちそうさん」でフツーに平均の朝ドラが戻ってきたから大丈夫なんだと思うけど。うん。

 作家の山崎豊子さんが亡くなったそうで、享年88歳は大往生の類に入るけれども未だ現役で連載なんかもバリバリやっていた中での訃報は小説の世界においてやっぱり結構な損失なのかもしれない。その作品のどれを読んだかというと実はどれも熱心には読んでいなくって、記憶の中で「白い巨塔」って作品のドラマ版があってそこで主演していた田宮二郎さんが放送もクライマックスにかかっていた最中に猟銃自殺したりとか、映画「沈まぬ太陽」がもろもろの問題なんかも引きずりながらそれでも映画にすべきという強いリーダーシップによって映画化され公開されてヒットしたこととか、脇の情報としてはいっぱい聞いたり眺めたりしていて、つまりはそれだのえ影響力を長く持ち続けた人なんだなあという印象は強くある。そんな作家、今いったいどれだけいる? 折しも「半沢直樹」シリーズが250万部行ったって話が伝わってきたけれど、池井戸潤さんがそういう場所にたどり着くまであと30年は現役として、凄い作品を書き続けなくてはならない。そうなれるのか、って辺りも含めながら偉大な作家の死を悼み、現役作家たちの創造に期待しよう。合掌。

 ネットの上でずっと掲載されていたそーだけれど、そこから改稿なんかを経て刊行された三秋縋さんの「スターティング・オーヴァー」(メディアワークス文庫)は、喪失感やら閉塞感に喘ぎ諦めている人に未来って自分で作れるんだよと諭すような物語。20歳からなぜか10歳に戻ってしまった主人公。思い通りの人生をこれから選び歩み始めるぞ、ってなるかと思ったら違って前が存分に幸せだったから、それをなぞるようにやり直し始めようとする。けど前の順風満帆だったのと比べると、今度はあんまりうまくいかない。恋も、勉強も。それはどーやら恋人になるはずだった少女にフラれてしまったのが原因らしく、それが心底ダメージとなって日々のやる気を大きく削ぐ。前と同じならどうして、ってことだけれどそうした安心感が態度に表れていたのが原因だったらしい。そういうものなのかなあ、人間って。

 ともあれ主人公、それで落ち込み勉強もふるわず半ば引きこもり気味で友人も作らず大学へ。そこで恋人になるはずだった女性を見かける。そして彼女に寄り添う男性も。いったい誰なんだ、どうして自分にそっくりなんだと訝り憤り、殺してしまおうと思い込んで後すら着け始める主人公だったけれども、どこか踏み切れないまま悶々とする中で彼は気づく。踏み間違えたことに。そしてやり直せるかもしれないことに。それが「スターティング・オーヴァー」という物語のストーリー。人生はひとつじゃないんだよ、きっと、って言いたかったのかな。 もしかしたらそのやり直しって人生は、自分が理想とした人生のレールに乗れない寂しさから理想を現実と思い、それをかつては経験したと思い込んで今の不幸を嘆いているだけなのかもしれない。でも、理想が抱けるならそれを現実にすることだって出来る訳で。そんなことを物語から知って考えよう、どこまでも無限の可能性を。それをどうやって手に入れるかを。

 そして見たスタジオコロリドの短編アニメーションのうちの1本となる「寫眞館」は、「パルムの樹」の監督であり「ファンタジックチルドレン」の監督でもあるなかむらたかしさんが監督で原画も1人という贅沢さ。けど「AKIRA」や「パルムの樹」で見せたような柔らか爆発な超絶アニメーションというよりは、平面にて重ねられ繰り広げられていく年代記になっていて、見て最初はあれっと思うかもしれないけれどもこれがどうして、写真館に通い育ち別れ会う人たちの姿に過去を思い、今を寿ぐ感動のストーリーになっている。見れば誰もが感涙にむせび、生を喜ぶことになるだろう。こういう作品も作れるんだなあ。これがヒットしたら「ファンタジックチルドレン」のBDボックス化とか進むかなあ。

 だからといって同時に上映される石田祐康監督の「陽なたのアオシグレ」『はおまけじゃない。張り合ってそしてより以上の感涙をもたらす作品になっている。「ICAF2011」で使われたビジュアルイメージが抜け出たような世界観、少女と鳥をめぐり少年の恋心が炸裂する! って感じのストーリーは、跳躍の快楽を極めた「フミコの告白」のアクションを入れつつ「rain town」の抒情も混ぜつつ見せる少年と少女の恋と疾走の物語。短い中に詰まった恋情から離別の悲哀、それを超えようとする衝動の爆発を見よ。しかしそんな傑作2本が上映は10月13日の1日だけとはどーゆー次第なんだろー。作戦かそれとも限界か。分からないけれどもこうして作られた映像は、どこまでも残るだろーから世界に運ばれ見られ喜ばれることだけは確か。見らればそれで良し、見られなくても戻ってくる日を望み叫ぼう。まあ見ておくにこしたことはないけれど。


【9月29日】 そんな訳で久々にスーパーフェスティバル。どちらかと言えばアニメーション系が幅を効かせているワンダーフェスティバルに比べると、規模こそ小さいながらも特撮系がギッシリと詰まった模型とかフィギュアとか玩具の即売会で、場内に入るとまず目に付くのがウルトラ系とか東宝系といった作品に出てくるヒーローとか怪獣のソフビフィギュア。観れば誰でも知っているものから記憶の奥底を掘り起こしてようやく出てくる物までわんさか並んだ会場なだけに、これが目当てで見に行った「異形市民プロジェクト」もちょっと手持ちぶさただった様子。

格好いいんだけどなあ。  だいたいがオープン当初ってのは誰もが目当てのディーラーへと走って欲しいものを買ったり、トークイベントなんかを観ていたりするからまだ知らない作品に目を向けている余裕はあんまりない。だからテーブルに人もあんまりいなかったけれども、それでも通りがかってこれ何だろうと目を向ける子供もいたり大人もいたりして、振り向かせるだけのパワーって奴は存分に発揮していた。思い返せば2年くらい前だかのキャラホビにディーラーとして出ていたところを見かけて気になった「異形市民」というか当時はまだ「MORE THAN HOMAN」として活動していたけれども細かく線を描いた衣装を作りそれを異形に仕立てたドールに着せて並べてみせたそのテーブルは、どちらかといえばサンライズ系のロボットだとかキャラクターのガレージキットが並ぶ会場でアウェー感を果てしなく放ってた。

 それから去年の夏だかに幕張メッセで開かれたワンダーフェスティバル。そこでは立ち寄らなかったんだけれどもどこかのネットメディアが「クトゥルーみたいな異形っぷり」とか何とか書いて紹介していて結構な話題を呼んでいた。つまりは観ればそれなりに存在感をもって語りかけてくる何かを持った作品なんだけれど、周囲にわんさかとあるキャラクター系のプロダクツと比べるとやっぱり異彩で異形っぷりが突き抜けていて、それを手にして良いものなんだという“了解”がまだあんまり会場に漂っていないような気がする。今年の冬だかにワンフェスに来た時もやっぱり凄まじいばかりの存在感を放ちながらもキャラクター系全盛の会場でオリジナリティーがあふれすぎているフィギュアへの関心をどこまで持ってもらえたか。

 だからどこかで1度なりとも取り上げられては共通の認識、これは面白いかもしれないものなんだというベクトルでの意識って奴を世間に持ってもらえれば、一気にブレークするよーな気がするんだけれど、そういう力を発揮できるだけの媒体力を僕は持ってないし、世間にもそういった冒険心を持った媒体が減っているからなあ。売れる物とか人気の物を並べておけば、それに与って雑誌も売れるだろうといった他力本願的な感じ? この世知辛い世の中で、自分たちがそれの価値付けを行いいっしょに盛り上がっていくというタクラミを、あんまり好まなくなっているのかも。まあ仕方がない、彼らも商売だから。だからこうして見に行っては、1つでも買って愛でてみせている次第。高いのは買えなかったけれど異形市民のペット的なミニフィギュアを1つ購入。前のと合わせてこれで2つ。いつか爆発する時を思いつつ部屋の片隅に転がしておこう。

 そんなスーパーフェスティバルでは「ふなっしー」のソフビを見かけたけれども気がつくと売り切れに。ちょっと惜しかった。あと「ガッチャマン」のジュンが大きく脚を上げてキックを放っているフィギュアが3割引の7000円で出ていたけれども大きさを考えるとちょっと持ち歩けないんでパス。置いて眺めるともういろいろと想像が浮かんで来たりするくらいに素晴らしいポージングなんだけれどでもわが家でそれを開いて飾る場所がないんだ。可能ならこれとズボンを引きずり下ろされた「境界線上のホライゾン」の本多・正純のフィギュアを並べて飾りたいんだがなあ、そんなことが可能な部屋に早く住みたい。目指せオータムジャンボ宝くじ。1番くじとかアーケードのプライズとかの再販もあちこちにあって「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」のマリアとかあったけど持ち運びの問題でやっぱりパス。来るならこれのみであとは返る旅程じゃないとやっぱりきついか。なぜか藤岡弘、さんのブースがあってコーヒーとか売っていたけどどういう種類の豆なんだろう、そして美味しいんだろうか気になった。ワイルドにコッヘルで煮た方がいいのかな。

 会場を出て学生柔道の大会をやっている武道館の前を抜けて九段下から神保町へと歩いてちょっぴりの運動。それをやっても脇腹の肉は引っ込まない。何故だ? それが老いという奴だ。そうだよなあ。でもってコミック高岡で早売りの「ヤングキングアワーズ」を購入して「ドリフターズ」を読む。信長はやっぱり凄いけれども島津豊久もなかなかの存在感。黒王の軍隊との壮絶なバトルが繰り広げられていたけれどもそこに島津への諸々を抱えたあの人が飛び込んでくることになりそう。時代は300年違ってもやっぱり島津と聞くと血が騒ぐんだろうなあ。「天からひびき」は指揮者として立つひびきの指揮っぷりとコンマスとして広めようとしている主人公だけれどそれをひびきはあんまり嬉しくない様子。必死であること、代弁者であることとぶつかり合って高めることはやっぱり違うってことなんだろうなあ。難しい。でも主人公に戦ってねじ伏せるだけの力はあるのかな。そこがきっと天才と凡百の分水嶺になるんだろう。彼はどっちだ。

 うーん。設定としてはとても興味深いものがるんだけれど、どこかまだ、エピローグ的な感じがして今ひとつ盛り上がれなかったと言っておきたい星住宙希さんって人の「聖絶のラングエイジ」(集英社スーパーダッシュ文庫)は、魔法らしいんだけれどそれを科学でもって駆動させることが出来るようになった未来で、スペシャルなウィザード級の技術を持った少年を主人公にして大暴れさせるってストーリー。何でも彼には実験の最中に消えてしまった父親を捜すって目的があるらしいんだけれど、それに対して敵の強大な姿が見える訳でもなく前哨戦的にバイオロイドらしい少女が現れそれを追うか何かする勢力と戦ってとりあえず1巻の終わり。一般的なライトノベルならそうしたボーイ・ミーツ・ガールの部分はぐっとイントロにはめ込んで、そこから少女がどういう出自で何を目的に作られ何を相手に戦っていて、それに少年がどう巻きこまれていった果てに自分も目的とも重なる敵を見つけ挑み敗れながらも再起をかけるといった展開が繰り広げられ、ひとまずのカタルシスを得る。

 「聖絶のラングエイジ」にはまだそうしたカタルシスがなく、前半に生徒会の面々を相手にした戯れがあったり監督に行った小学校で見つけた割と凄腕のハッカー少女を凹ませる描写があったりで、そこを膨らませて一種の学園バトルにしてしまったらまだ収まりがよかったかもしれない。大きな設定をほのめかせておいて触らせないのはちょっと読み手にとってキツ過ぎる。まあそれはつまり次からの展開に期待も出来るってことなんで、ここは投げ出さずにしばらく続きを追っていこう。それにしても青木潤太朗さんの「ガリレオの魔法陣」といい紫藤ケイさん「クラッキング・ウィザード」といい、魔法使いが一種のハッカーとなって電脳世界に挑んだり、科学によって魔法を発動させたりするといった具合に魔法と科学が裏腹になった世界観で繰り広げられる作品が相次いだなあ。これを「十分に発達した科学技術は魔法と区別がつかない」系とでも呼ぶべきかか。

 でもって錦糸町で「劇場版 空の境界 未来福音」の舞台挨拶付きを観ている間に「宇宙戦艦ヤマト2199」の新作ストーリーによる劇場版の製作が発表されたとかで、世間的にはいったいどーゆーストーリーになるのか、白色彗星が出てくるのかデスラーはやっぱり生きているのか等々の疑問議論が沸いて戦わされていたみたいだけれども、それはさておき「劇場版 空の境界 未来福音」は、最初の「extra chorus」だけで終わったら一瞬どうしようと思ったくらいのデレデレな内容だったけれど、本編の「未来福音」もこれはこれで黒桐幹也が女たらしでどうしようもなかったという。なぜ持てるあの眼鏡野郎。なあ。とはいえストーリーには爆弾魔が出てきて両儀式に挑んだりしてなかなかにスリリング。未来視の魔眼を相手に戦うなんて無謀極まりないんだけれどもそういう式だって魔を断つ魔眼の持ち主な訳で、そんなバトルを味わいながら、サイドで進む幹也の少女へのカウンセリングだとか、アフター的なストーリーとして完璧な美少女が誰を彼をも振りまわす展開を楽しもー。

 ネタバレ全開でいろいろしゃべれる関係から舞台挨拶は上映後に行われる方が好きなので、今回の舞台挨拶ツアーでは時間的にもマッチする錦糸町を第一希望にして選んだのだけれどこれが正解。須藤友徳監督とあおきえい監督の両人に坂本真綾さんが登壇しては見所なんかを話してくれた。須藤監督からはひとつはリピート的に見える描写に込めた意味。あと錦糸町から側にある橋がロケハンされて登場してるとか。いつか見に行こう。あおきえい監督によれば両儀式と幹也が詣でる神社は千葉のずっと奧にあるとか。どこなんだろ。車で2時間とかって行ってたから相当に遠いのか。それはちょっと行けそうもない。坂本さんは間のあいた式をちゃんと取り戻していた。ともあれ観てほっこり、そしてハッピーになれる映画。それが「劇場版 空の境界 未来福音」。また行こう。


【9月28日】 前週のガッチャマンたち全員登場&はじめちゃんとの馴れ初め告白なAパートは、果たして必要だったのかと考えると最終回を前にしてそれぞれの立ち位置をおさらいして、ベルクカッツェとの決戦に臨む心構えを改めて訴えるという意味であって悪くはなかったけれど、その最終回での決戦でガッチャマンたちがあくまで脇役として凶悪そうなクラウズをぶちのめすだけに留まって、一方でベルクカッツェは散々っぱら人々をあおり立てつつその反対側で、爾乃美家累がようやく取り戻した総裁の付かないXを駆使して立川に世界中からクラウズを招き入れ、その物量で悪いクラウズを圧倒してのけ正義はたった1人でも一部の人たちでもなく、誰もがそう思えばなれるんだっていうかねてからの主張を改めて提示して戦いは終了。そしてはじめはショボんとしたベルクカッツェを癒しながら日常を続けていくとという展開に、正義が悪を圧倒するよーなカタルシスはまるでない。ガッチャ。

 あれでODからもらい手にしたガッチャなノートを使い、累がバードゴウしてすっぽんぽんになりそれから綺麗な衣装へと変身するシーンとか挟まっていたら、ちょっと見物だったけれども累はそうした方面に力を使った節はなし。というよりクラウズを顕在化させる能力を使い、あくまでネットを通して大勢の人に語りかけ、人々をつないで力を分け与え自由に活用してもらう方へと導いていっただけで、自分ではなく誰もがヒーローだっていう立場を改めて強く訴えた。つまりはそういうことが言いたかったアニメーションなんだろうなあ、「ガッチャマンクラウズ」は。気になるのはそうやって誰もが平等に得た力を、どーして誰かが突出して悪い方向へと使い、それに倣ってすべてが悪い方向へと流れないのか、ってあたり。カッツェがそうやって皆を煽っても、後から入ってきた大勢は善意という外面を被せつつ中で良いことしたぜランキングの上位を狙って獲得を喜ぶゲームを楽しんでいた様子。それで世界が平和になるなら全員が手に銃器を持っても平和になるか、っていうと銃器は撃ち殺すことにしか使えないからなあ。ガッチャ。

 あと、そうやって競い合って上を目指すゲームが、悪いことをして破壊しまくりましたランキングではなぜいけないのか、ってのがひとつの疑問なんだけれど、煽られたって誘われたって自分だけが良くなりたい、助かりたい、蹴落としてでもはい上がりたいと思い実行に移せるほど、人間は“強靱”でも“無関心”でもないってことなのか。そこに人間としての、あるいは理性ある存在としてのフェールセイフがあるというのが作り手の見解なのか。個人的にもそれが理想だとは思うけれども現実、そうもいかないのが世界のあちらこちらで続く紛争であり差別な訳で、だったらいったいそこにどういう道具を持ち込めば、カッツェのクラウズのよーに暴れず争わず、累のクラウズのよーに良いことに使ってもらえるのかを、ちょっと考えてみたくなる。金になるのか道具になるのか知恵になるのか。最初はやっぱり教育からなんだろうなあ、言葉と思考が行動を規定するってことで。出来ればそんな辺りもスカッと解消してくれる劇場版とか希望。累くんの艶姿とか変身シーンとかもたっぷりと付けて。ガッチャ。

 まあそりゃ最終回くらいは観たけれども「あまちゃん」。どこかジンと来たのは三陸の鉄道が震災の影響で一部通れない状況にあったのを、どうにかこうにかやりくりして開通へと持っていったって実話があって、そこに現実の世界での復興に関する苦闘っぷりって奴を感じつつ、今もなお苦闘をし続けていることへの想像力が働いて、頑張って下さいといった感嘆を覚えたからであって、物語の上で誰かが何かをなし得たから素晴らしいと思ったってことではちょっとなさそう。個人個人に感情移入できるほど観てないし。でもそうした見方をしていた人は、それぞれに決着がついていったキャラクターたちの“卒業”を楽しみつつ、もう会えないんだと悲しんだんだろうなあ、それが感涙を読んでいるといったところで。

 フィクションであってもそこまで人を引きずり込むのは流石なもの。向こう側に現実も重ねて見せたあたりに感涙を誘う要素もあった。同じ手は使えないかもしれないけれど一方に進まない復興って問題もある以上、これで終わったような気にはならずに今もリアルタイムで進められている復興への辛苦を、想像し痛感し可能なら観て実感することで次に繋げていこうとしないと、あれだけの感動がフィクションの彼方へ雲散してしまう。そうさせないためには何が必要か……続編かあ、苦闘している様子を描く。それもなあ。やっぱりリアルを伝えることだろうなあ。さて来週からは新しく「ごちそうさん」ってのが始まるみたいで、予告編で杏さんが美味しそうに何か食べていたけどあれ何だ? ロコモコ丼、ってことはないかな、ちらっと目玉焼きが見えたけど。内容については不明。きっと料理バトルみたいな話しになるい違いない。杏が作った料理に誰もが「うまいぞー」と口から火を吹き走り回るよーな。

 そんなことはないか。いずれにしてもとてつもないヒット作の後だけに動勢が気になるけれどもなあに「カーネーション」が凄いと騒ぎ立てた人たちが、すぐさま「梅ちゃん先生が凄すぎる」と鞍替えして騒ぎ立てていたから話が良ければちゃんと観てもらえるし、むしろ特定層に大ヒットしていた割には視聴率で「梅ちゃん先生」とそれほど変わっていなかったことも見えていたりする「あまちゃん」。本当に本来的に朝の連続テレビ小説を観る層が気安さから回帰して来て観ることになるだろうから、「あまちゃん」と親和性の高い人が多くいそうなネット上での喧噪は萎んでも、ちゃんとお話自体は指示され盛り上がっていくに違いない。

 そう。面白いものは決してなくならない。どこかから必ずやって来る。なんとかロスだなんておおっぴらに騒ぐのは、常に面白いものを世に送り出してやろうと企み、精進し続けている作り手側の意欲に蓋をして、もうイラナイと拒絶するような態度でもある。かつて「新世紀エヴァンゲリオン」が大きく盛り上がったその直後に放送された「機動戦艦ナデシコ」を最初、見誤って脇に追いやり後でこれは凄まじいSFアニメーションだと気づいて追いかけたって記憶がある。その反省に立つならば、たとえ歴史を超えるよーな作品がそこに生まれたとしても、その次に来るのが歴史を塗り替える作品でないという保証はない。だから見続けるし、たとえ評判は違っていてもどこかに面白さがあるに違いないと信じて探し続ける。そういう態度の果てに次のヒット作が育まれるのだ。多分。えっ、「安堂ロイド」はどうかって? コメントは差し控えさせていただきます。

 せっかく早起きも出来たからと、国立新美術館で開かれている学生たちのアニメーション上映会「ICAF2013」を観に行く。全部を観るのも大変そうなんで、今年はプログラムにあった参加校選抜ってプログラムを観たけれどもすいう場所に選ばれる作品たちだけあって、どれもしっかりとまとまってお行儀が良いというか、逆にいうなら破天荒さなりワンアイディアでの受け狙いといったものがなくって、学校別の物を観ていてなぜこれが、でも凄いといった新鮮な驚きってものをそれほど得られなかったのがちょっぴり寂しかったかな。とか言っていたらとてつもないものが混じっていて仰天。東京造形大だからちゃんと凄いアニメーションアニメーションした作品だってあるはずなのに、その「オンリーマイマドンナ」って作品はひたすらにストーリーとナレーションの面白さでもって突破しようとする物だった。静止画をめくっていく紙芝居であってアニメーションなのか、って問いかけすら無効にしてしまう。

 でもこの作品で菅沼花会さんはZOKEI賞をとったということで、つまり1番優れた作品だったってことで東京造形大大丈夫か? なんて心配もちらほら。でも観ればやっぱり面白い。東京芸大の大学院から出品されたということはもう日本の最高峰といってもいいキム・ハケンさんの「MAZE KING」すら上回って観客賞に入れようかどうしようか迷ったくらいのインパクト。「MAZE KING」だってANIME SAKKA ZAKKAの会場で観て、あの大友龍三郎さんがクラウンから幼女からオカマから犬からすべての声をあてて凄いと思った作品で、海外でも評判を取っているようだけれどそれすら脇においやるんだからどれだけ「オンリーマイマドンナ」が凄まじいか分かるというもの。だからこそZOKEI賞にも選ばれて、こうしてICAFでも堂々の選抜入りを果たしたんだろー。あるいはセンター入りすら果たすかどうか。それはしかしやっぱり久野遥子さんの「Airy Me」が持っていくんだろう。

 なかむらたかしさんのようなぐにゃぐにゃと人も植物も怪物も動いてメタモルフォーゼしていくようなアニメーションを、手描きによって仕上げてちょっと前に話題になった作品。手塚治虫さん的な可愛らしさをもったキャラクターが動く姿を、上下左右前後に動くカメラで追いつつその中で変形するキャラクターを描ききるのっていったいどういう空間把握の感覚があったら出来ることなんだ? 人も動けば背景も動く訳でそうした変化をきっちり頭の中で組み立てられないと、とてもじゃないけど描けない。それをやりとげたその才能は今いったいどこで何をしているのか。ちょっと気になるけれどもたとえ映像系であって商業アニメーションとは違った場所にいたとしても、その才気を商業の現場で自在な感性を発揮できるようなポジションを与えることによって引き出してあげて欲しいなあ。きっと「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」の大平晋也さんとかいった凄い人たちのパートに負けないインパクトを、観る人たちに与えるはずだから。追いかけていこうその名前。もちろん菅沼花会さんもだ。何をやっているんだろう、今。


【9月27日】 そうか、いよいよ「サザエさん」もセル画を止めてコンピュータになるのか、それはだから3DCGでモデリングされたサザエさんとかカツオをかワカメといったキャラクターたちが、誰かモデルを呼んで演技したものをモーションキャプチャして表情なんかもフェイシャルキャプチャして取り込んだデータを元に作られた3DCGによって描画され、画面のなかを自在に動き回るようになるってことだね、って誤解した人は流石にいないだろう。でも、こういう時代にそもそもセル画って何ってことから伝えないと、このニュースの価値とか意義があんまり伝わらないよーな気もしないでもない。

 透明のシートに転写した線を塗ってそれを撮影してつないでアニメを作っていた時代があったんだよ、でも原画をスキャンしたものをコンピュータ上で色づけして繋ぐよーになってセル画は消滅してしまったんだよ、等々。かつてセル画がアニメファンへの一種の贈り物になっていた時代を経験していないと、それがアニメの工程の一部であって、アニメにグッと近づけるアイテムなんだという理解が出来てないから、大きなニュースだという実感はわかないんだろうなあ。まあ現実、アニメ制作の工程まで理解するなり関心を抱いてアニメを観ている人なんて決して多数派ではない訳で、セル画が存在しないとさらに遠くなってしまうんだろうなあ。時は流れる。それでもアニメは続く。

 文字面だけ見て「ONE PIECE」のナミがルフィの格好をしているってフィギュアの説明に、どうせ女性の体をぶかぶかなベストが覆っているだけなんじゃないのかと思って実物を見たらとんでもなかった「Portrait.Of.Pirates ワンピース“LIMITED EDITION” ナミMUGIWARA Ver.」。表情こそまだイーストブルーだっけかを彷徨っていた頃のナミなんだけれど、ボディは新世界へと入って肉体的に大きく成長のに等しいボンキュボンっぷり。それがルフィみたいな緩めではなく小さめのベストが体の曲線によって押し上げられてはち切れんばかり。パンツはルフィみたいなバミューダタイプではなくってカットジーンズになっていて、お腹の部分からは下腹部か、そしてお尻の部分からは尻の肉がのぞきはみ出ていてもう目のやり場に困るエロい姿になっていた。これは良いものだ。どうせだったらこれを同じ服装のニコ・ロビンも見たいところだけど作ってくれるかなあ。ボア・ハンコックでも良いぞ。

 言いなりになるより必要とされて生きたいし、雁字搦めに縛られるより自由に選んで生きていきたい。それが人間とうものだけれど、世の中はそうはうまくは回らない。たいていのは誰かの言いなりになって、黙々と仕事をこなして日々の糧を得ているし、そこから逃げだし自由になる代わりに糧を得られなくなるのを恐れて、自分の願いへと脚を踏み出せない。それが人生だというものだからと受け入れ、諦観を得て生きている人たちの心をウズウズとさせる物語が出た。それが万城目学さんの「とっぴんぱらりの風太郎」(文藝春秋、1900円)。長く「週刊文春」に連載されていたものがようやくまとまって手にしたら700ページ超ととてつもない分厚さで、いったい読むのにどれくらいかかるんだろうとページを開いたらもうあっという間だった。だって読むのを止められないから。続きを明日に先送りに出来ないから。

 主人公は忍者の風太郎。何かとっても忍者として出来そうな名前だけれども実はあんまり優秀ではなくって、伊賀の里で養成されていてさあこれからどういう仕事をさせようか、って試験を受けることになって、黒弓という名の海外から帰ってきたという珍しい経歴を持った若手と組んで城に忍び込むことになる。ところが、いっしょに動いた黒弓というのが忍者の里で下手を打ったら殺されるくらいの恐怖と背中合わせで育ってきた訳でもないためか、屈託もなく畏れも抱かず仕事をどこか気楽にこなしていたため、本当だったららっきょを使わなくてはいけない場面でにんにくを使ってしまって、試験の場面でそれが原因となったちょっとばかりの間違いを風太郎に犯させてしまう。当然のように問題となって風太郎は採用されるどころか黒弓とともに忍者の里を追い出され、京都の片隅にあばら屋を借りてその日暮らしの怠惰な日々を送り始める。

 黒弓がしくじってにんにくなんか買って来なければ忍者として採用されたかもしれないという思いがあり、追い出されてもいつかは誰かが目をかけてくれるかもしれないという希望もあって、とっとと南蛮の品々を扱う商人に鞍替えした黒弓のようには割り切れないまま、誰かに責任を押しつけるようにして生きている風太郎。それは現代の、時代が悪いとか世の中がうまくないといって自分に責任を見ようとしない人たちとちょっと重なる。自分にはちゃんと実力はあるしけどそれを認めてもらえないとか、それを本気で発揮する機会を与えてもらえないとかいった気持ち。でもそれではいつまでも同じ場所でうろうろとしているだけで絶対に前には進めない。むしろ現代より厳しい慶長年間に引きこもっていてはすぐにのたれ死んでしまう。風太郎はだから工事現場で働きながら食いつなぎ、いつか帰参できるかもしれないという思いを描いていた、そんなある日。

 商人となって羽振りの良さそうな黒弓が訪ねてきて、伊賀につながりがある男から頼まれたといって風太郎に瓢箪を瓢箪屋へと届けにいって欲しいと持ちかけてくる。そこから始まる再起のストーリー? ようやく巡ってきた帰参の日? どうも違うらしい。そして風太郎はなぜか瓢箪を育てて運ぶことになり、悶々としながらそれでもその日暮らしだった時とはちょっぴり違った毎日を得た風太郎に不思議なできごとが起こる。瓢箪から声が聞こえる。そしてある頼み事をする。なんで自分がと訝り嫌がる風太郎だったけれどもそうした声に半ば導かれ、あるいは日々の仕事の延長のように策謀へと巻きこまれ、騒動へと引きずり込まれた果てに風太郎はとてつもない大事件へとその身を投じることになる。

 自分は何のために生きて居るんだろう、ってのは誰もが人生に1度ならず2度ならず永遠普遍に抱き続ける心境で、誰かの手のひらの上を転がされているだけかもしれない人生に気づいて、やりきれなさに逃げ出したくなることもあったりするし、どうせ生きたところで誰に何か認めてもらえる訳でもないからと、投げやりになってしまうこともある。そこで自分は自分だと割り切れれば良いんだけれどそうもいかない人生にひとつ、筋を通すとしたらそれはやっぱり誰かに認めてもらうこと。あるいは知っておいてもらえること。とある出会いを経て風太郎は契約でもない自分の意志によって誰かのために動こうとしたし、風太郎とはライバルとも仇敵ともいえそうな関係にある蝉も忍者が徳川の世になって用済みとなり、伊賀で門番に甘んじて生きていくしかなさそうな時に必要と認められて奮起した。黒弓も美貌で大阪城の奧に潜入している常世もやっぱり生きる意味を感じさせてもらって立ち上がった。

 そんな人生へのエールを贈るような物語でもあるし、用済みとなった職業なり産業なりが衰退していく様を感じさせる物語でもあるし、冒頭の風太郎と蝉の騙し騙されるような戦いに始まって様々な場面で繰り広げられる戦いと、そうした戦いの後ろで巡らされるさまざまな策謀を知って驚き関心するサスペンス的な要素も多分にもった物語でもあるこの「とっぴんぱらりの風太郎」。途中までのどこかほんわかとして飄々とした展開が中盤の大坂冬の陣あたりからシリアスになり、そしてクライマックスにいたってスピーディーで迫力のあるバトルも繰り出されて手に汗握るその展開って奴を味わわせてくれる。その後に描かれるそれはもしかしてあれにつながる? なんて想像も。読み終えてページを閉じてそしてまた読み返して、いろいろなフェーズからいろいろなことを考え直してみるのも良さそう。待望の直木賞、これで行けるかも。

 うめさんの「大東京トイボックス」が第10巻で完結して半田花子が半裸というかパンツにキャミソール姿で飛び出そうとしているコマに目が釘付けになったけれどもストーリーはアデナウアーの復讐心によって殺されかけていた太陽が、過去に仙水とかわしていた約束をドイツからバーチャル空間へと侵入してきた泉水によって思い出さされ再起してどうにかこうにか急場をしのいでいくという展開。そして太陽の良いゲームをとにかく作り続けるんだという屈託のなさにすべてが収斂され、その後のアクシデントを経てなおそうした現代においてどこか忘れられている大切なことが改めて強調されてゲームってものへの関心を、今一度向けさせてくれる。仕様変更だってそりゃ当然、面白くするためには仕方がない、ってことで。しかしやっぱり現代だけあってソーシャルとかにも進出するんだなあ。なおかつ現代はさらにパッケージがダウンしかかっている状況を、太陽やその仲間たちがどう生き抜いていくのか、っていうドラマもちょっと見たかった。いずれ5年が経ち10年が経って状況が見えたその時に、再起を促すが奮起を呼びかけるかするそうした漫画が出てくれると嬉しいかな。ずっと繁栄が続けば文句はないんだけれど。それは流石に。だからこそ。期待しよう。


【9月26日】 千葉県の茂原市で学校帰りに行方が分からなくなったっていう高校3年生の女子が7月の状況発生から2カ月半くらい経って発見されたというニュースが流れてきたけどいったいその間に何があったのかがまるで分からず、どういう判断をしたら良いのか迷う。考えられるのは家が嫌で家でして誰かの家に転がり込んでいたかあるいは事件として誰かにさらわれ監禁されていたかといった感じだけれど、前者なら関係者を辿れば必ず見つかるし、後者なら発見されたと同時にそうした事件性が報じられてその間に起こった事へのゲスな想像って奴が膨らみ広まる。けどこの一件はそうした情報が最初の段階ではまるでない。見つかったのが神社というくらいで後は不明、ってことはやっぱりいわゆる神隠しという奴で、どこか異世界に行って何者かと戦っていたりしたのかどうなのか。そこがとっても気に掛かる。事実は一体?

 いやあ愉快というか痛快というか意味不明というか理解不可能というか。元NHKアナウンサーにしてジャーナリストな人がとある原発肯定特集を組んだ雑誌について「その裏側をリポート!」する番組を作ったとか言って話したところ、当該の雑誌の編集長が出てきて「俺聞いてねえんだけど」と指摘。聞くとほかに当事者はおらずその編集長が1人で作りあげた特集らしく、記事について話を聞くなら編集長以外にはあり得なかったりするにも関わらず、元アナウンサーのジャーナリストは「編集だけが担当者ではない、販売だって担当者だ」と言ったから腰が抜けた。本当か。それで良いのか。だから訪ねた編集長に「だったら出てくれ、そしておおっぴらに話をしてくれ、それがオープンジャーナリズム」と返して来たからさらに腰を抜かしたジャーナリストたち。それはない、絶対にないと言ってるんだけれどどうにも届いた節はない。おまけに販売とかの担当者というなら誰なんだといったら「取材源の秘匿が……」と元アナウンサー。おいおいオープンジャーナリズムって言ったじゃないかと誰もが呆れポカーンと口を広げていたところに、さらに濃いめの燃料が投下された。

 我らがノビー氏。原発肯定特集についいて編集に聞かず販売に聞いて「裏側」とやらを語らせることができるんだったら「NHKの問題について集金の人に聞いても良いんだね」と聞いたら「何を言ってるんだ」という返事が。「そもそもが編集の内容についてなんか話してない、広告とは販売の手法について取り上げたんだ」と返してきたからもう何が何だか分からない。それをだったら最初に言って「販売についての話しなんだから販売の人とやらに聞いたまで、編集の貴方が知らないのも当然だ」と言えば「はいそうですか」と収まっただろう(収まらないかな)。それをいわずいかにも編集内容に対する異論反論のような雰囲気を出して置いて、別口で「違うよ販売や広告の方法についての話しだよ」と言ってのけるその口が、次に伝える報道とやらに信頼を抱けるものなのかどうなのか。遺書っから危ない橋を渡ってきた人だけれどここまでヤバいとは誰も思わなかったのかなあ。今も思ってない人も多そうだしなあ。さてもどうなるその行く末。

 「二人の脱獄者 蒼穹に響く銃声と終焉の月」(中央公論新社)に続く九条菜月さんのシリーズ第2作「二人の脱獄者 蒼穹に響く銃声と終焉の月」は、半分男で半分女でそして女の時にはグラマラスな身を軍服に包んで悪口雑言ぶちまけるゼータ所長の凄まじさに続いて、ララファさんって警邏部隊隊長の人の残念美人っぷりが光って愉快。軍隊が管轄している監獄に何か秘密があるんじゃないかと送り込まれた主人公のクロラ・リルはどうにかこうにか監獄の中に居場所を作って密偵としての地歩を得て、さあこれからいろいろ調査しようってことになったんだけれどそこに起こった3年前から閉じこめられている前の警邏隊長が脱獄するという事件が発生、さらにその脱走者が犯したという殺人によって知り合いを殺され憤って暴れて捕まっていた男までもが逃げ出しては、前の警邏隊長を追いかけ大混乱にクロラも巻きこまれて自分の密偵としての仕事は果たせずにいた。

 そこに現れたのが逃げ出した警邏隊長。どうも昔とは人が違っているように見える彼はクロラの風貌や佇まいに何かを感じたようでクロラには分からない言葉を告げる。それはいったい何を居ミス路野か。ゼータ所長が長く治める監獄に隠されているという秘密と関係があるのか。今はただただ未定に過ぎないクロラにもあるかもしれない事情が明らかになっていって、そして大きな陰謀めいたものがこれから浮かび上がってくるんだろうと思うけれどもとりあえず、この第2巻では今の警邏隊長のララファの可愛さって奴が強く激しく浮かび上がって読む者たちを燃えさせる。そりゃあなあ、周囲が筋肉莫迦ばかりではクロラのよーな若くて幼い風貌に萌え萌えしちゃって当然だろうなあ。でもそんな本性が露見してこれからも警邏隊長が務まるんだろうか。ゼータ所長に弱みとして握られないか。そんなゼータ所長も女になったり男になったりと変化が激しくクロラをどうしたいのかちょっと見えない。ここで争奪戦が起こるのか。そんな興味も引きずりながら待とう続きを。ゼータ所長の女性体をまたイラストに描いて欲しいともお願い。

 見られなかったけれどもなでしこジャパンがフクダ電子アリーナでナイジェリアの女子代表チームと戦った見たいで長崎の時からメンバーを変えてゴールキーパーに巨大な山根恵理奈選手が入った様子。その巨大さは1歩を踏み出せばつま先で相手のゴールが吹き飛ばされるという噂もあるくらいだけれど巨大すぎてその全容を見た人は未だいないとかどうとか。まあ嘘だけど。ジェフ千葉のレディースには他にも幾人かゴールキーパーはいるんだけれど、若手であってなおかつその高身長を買ってなでしこジャパンの佐々木則夫監督は時々引っ張ってくれている。そして与えられた出場機会を守備に関しいうなら無難にこなしたみたいで試合は2対0で日本の勝利。長崎に続いてアフリカ勢からの勝利をもぎ取った。相手もあれだけゴールキーパーの背が高いと放り込んでいく訳にもいかないからなあ。

 一方でゴールキックなんかの攻撃に繋げる部分ではやっぱりまだまだなところが見えたっぽい。普段から練習はしているんだろうけれども実際の試合となると脚も萎縮して伸びず遠くへと蹴られないもの。そこはだから経験で埋めていくしかないってことで山根選手にはこれからもチームの試合とそれから代表の試合に出場して、ギリギリの戦いの中でプレッシャーを感じながらもしっかりと蹴れる技能を身に着けて欲しいもの。それがあればもう鬼に金棒というか山根恵理奈選手に身長というか。ああそれは十分あった。あとは沢穂希選手とか近賀ゆかり選手が休んだ中でジェフから18歳の上野紗稀選手なんかが出場したりと新戦力を試せているのが今はいいかも。世代交代を一気に進めようたって難しいところを、大きな大会が開くこのシーズンに行えるというのは佐々木監督にとってもなでしこジャパンにとっても絶好だろう。そうして再来年のワールドカップに備えその後の五輪に備えていけばきっとまた輝ける。そう信じて今の戦いぶりを見ていこう。


【9月25日】 遠く地の果てで「THE NEXT GENERATION −PATPLABOR」の製作発表記者会見があったっぽいけど、雨だし遠いし窓際な身でもあるんで遠慮して、ニコニコ生放送の方で中継を見ていたら主人公の名前の紹介でひっくり返る。「いずみの・あきら」ってそりゃあ押井守監督がそれとは銘打たないで書いたスピンオフ小説「番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課」に出てきた元サッカー選手の警察官の名前じゃないか。おまけに小説は男性でなおかつ中年。それがサッカーの国際試合の警備を命じられてかつての勘を取り戻さないと警備ができないと一念発起、サッカーチームに加わり選手として練習を始めるといったストーリーになっていたけど、今度のシリーズで泉野明こといずみのあきらは真野恵理菜さんが演じる女の子。だからいったいどーゆー話になるのか、現時点ではまるで想像が付かない。

 後藤隊長に似た名前の後藤田隊長ってのもやっぱり「番狂わせ」からの流用だけれど、小説版ではどことなくカミソリな後藤隊長の雰囲気を引きずってはいた。こっちの後藤田隊長は演じる筧利夫さんのキャラクターもあって明るくて活動的で「わはははははのは」と笑いながら左翼学生のデモ隊へと突っ込んでいきそう。それはだから「飛龍伝」だってば。つまりはそんなキャラクターがいったいどういう後藤田隊長を演じるのか、それはいたいどれくらいの切れ者なのか、やっぱり普通の莫迦なのか、等々見えないところがいっぱいあって期待と不安が入り混じる。千葉繁さんがシバシゲオ役で出てくれるのは安心だけれどでもなあ、彼1人で映画の雰囲気って奴は作れないし。あと気になるのがカーシャって人。太田莉菜さんって人が演じるみたいで長身で怜悧な感じが香貫花を想像させたけれども「番狂わせ」には香貫子って人は出ていてもカーシャは出ていなかった。そして香貫子は大一番でとてつもない姿を見せるんだったけれど果たしてカーシャはやってくれるのか。そこだけは期待大。あとは……見ているまで何とも言えないなあ。

 しかし小説の「番狂わせ」が出た時も気になったけれど、「機動警察パトレイバー」は決して押井守監督だけのものではなくってゆうきまさみさんがいて出渕裕さんがいて高田明美さんがいて伊藤和典さんがいる「ヘッドギア」というクリエーター集団がいろいろな才能を持ち寄って作りあげた作品であり世界観。初期には火浦功さんも絡んでいたそうで書くものはスチャラカだけれど実はハードなSFネタも大好きな火浦さんが、ずっと参加してたらどういう話になったのか、って興味もあるんだけれだと途中で動かなくなってしまたから結果論的には抜けて正解だったかも。おかげで「未来放浪ガルディーン」シリーズを読めた訳だし。んで押井守さんもそんな「ヘッドギア」の1人でしかないんだけれどでも、なぜか今は押井さんがメインとして出てくるケースが多くって今回もひとり総監督であり脚本といったところに名を連ねていたりする。

 それでいった他の面々は気にしないんだろうか、というより許可とか必要ないんだろうかと思ったりもしたんだけれど、今回のクレジットを見たら「ヘッドギア」は原案という位置づけになっていて、これまでのOVAとかテレビシリーズとか押井監督の映画2本とかさらに高山文彦さんが総監督をした第3作とかでの原作とは位置づけが違ってた。そこにおける差異ってのはちょっと前の某ミュージカルでも話題になっていて、原作者の許可が必要とかどうとかいった話からインスパイアされたものに過ぎずそこに権利関係は発生しないとかどうとかいった話にまで及んで複雑怪奇な様相を見せている。とはいえ前のケースとは違って自らもその名を連ねている「ヘッドギア」から外れた所で作るっていうのはどういうことなんだろう? そこにいろいろな謎もありそうなんだけれど、追求すると奥深すぎて戻って来られなくなりそうなんで今は沈黙。想像の中で何がどうなっているかを考えるに止めよう。しかし不思議なプロジェクト。ちゃんと面白いと良いなあ。それが1番の心配事。

 やっとみた「ガッチャマンクラウズ」は最初に他のガッチャマンたちがはじめと出会い刺激を受けて変わっていく様が回想のように描かれていてもしかしたらラス前にして力が尽きて宗主編を挟んだか、なんて思ったら後半にしっかりとラストバトルの様子が出てきて首相とかも引っ張り出されてエキサイト。したのは良いんだけれどそこをベルクカッツェに突っ込まれて首相を騙ったクラウズの大暴走が引き起こされそうになる。累くんちょっと大ピンチ。せっかくXに向かって可愛くジャンプしながら存在を認めてもらってそして支配権を取り戻したのにこれではなあ。ってか平気で介入できるんだったら累に化けなくってもよかったのに。そこがベルクカッツェの汚くも凄まじい部分か。相手を巻きこみ自分は逃げるその狡猾さ。本気を出せば瞬く間に制圧できるのに。すべてはだから人間が持つ好奇心や悪意なんかを増幅してみせる存在で、それを抑えるために必要なのは信頼であり愛だっておとをはじめの能天気で前向きな様を対比として描くことで知らしめようとする話しなんだろう。ネットを使った善意の集合体というのはあるいは付け加えに過ぎないのかも。そこに囚われると見誤るかな、どうなのかな。

意外な接点、そして最大のリスペクト  やっと見た「ハイスクールD×D NEW」はイッセーがリアス部長のおっぱいが半分に減らされるかもしれない、そして小猫ちゃんのおっぱいが半分に減らされたらなくなってしまうかもしれないと聞かされ怒り心頭になって怒髪は天を衝いて赤龍帝の力を最大限まで引き出し白龍皇を追いつめどうにかこうにか撃退することに成功してた。煩悩はこんなにも強いのか。あとアーシアとゼノビアが悪魔となりながらも神様に祈ると天罰てきめんに頭痛を喰らわされることに解決法が見つかったみたい。天罰の対象から外せば良いってのはいったいどういうシステムなんだろう。コンピュータにIDでも登録してあるんだろうか。ちょっと不思議。ともあれ終わった第2期。ストーリーとしてはこれでとりあえず悪魔と天使と堕天使の対立に決着がついてここからさらに別の勢力を相手にした戦いへと進んでいくんだろう。アニメーションが作られるかは分からないけれど、安定した作りと面白さで人気になっているからにはきっと作られると信じて待とう第3期。リアス部長とイッセーは近づけるかな?

 会ったのはおそらく1996年とかそんなあたりで、ボイジャーとかデジタローグなんかが始めたマルチメディアの周辺で取材とかなんかをしている最中にすれ違ったりしたのが最初で以後、ボイジャー絡みの発表会見なんかで出席している姿を見たりしていた程度だから詳しくその仕事を知っていた訳ではない。だから東京會舘で開かれた富田倫生さんを送る会のようなもので田原総一郎さんが登壇して、かつて田原さんが手がけた「パソコンウォーズ最前線」という本の取材先のアテンドや実際の取材なんかを富田さんがやっていたと聞いて驚いたし、それをちゃんと話して故人を讃えた田原さんにも感嘆した。年齢差からすればほとんど出始めのライターだった富田さんをちゃんと認めて仕事を任せ文庫化の際ににもその働きに言及していたりする田原さん。それだけ仕事の出来る人だったんだろー。だからいずれすごい作家になると田原さんは思っていたそーだけれども残念にも体を壊してライターからは脚を洗ってそして後、「青空文庫」を立ち上げることになったのを、田原さんはいったいどう受け止めて居るんだろう。いや、ああした活動も含めてひとつの作家性として認め讃えていたところに、ただの版権切れ書籍の電子化に留まらない思想としての「青空文庫」の意義があったんだろー。

 それだけの仕事をした人らしく送る会の第2部にはアスキーを創業した西和彦さんやNECでPCエンジンやCDロムロムなんかを手がけた偉い人が来て富田さんの業績を讃えていた。翻って自分を見た時にこれだけの面々から感謝される仕事をして来ただろーかと考えた時に漫然と、時間だけを過ごしてきたことがちょっぴり情けなくなって来た。ただ富田倫生さんは亡くなっても「青空文庫」は続き、それ以上に発展させていく必要もある一方であのアグレッシブでエキサイティングなパーソナリティを失ってどこまで広めていけるのか、ってところにひとつのボトルネックが生まれそう。そこを突破するために出来ることは何かあるのか、って考えた時にやっぱりその偉績を語り継ぎ、使い続けて便利さを喧伝し、サポートを呼びかけ続けることなんだろうなあと思ったりする。今はとにかくありがとうと感謝し、そして頑張りますと答えたい。合掌。


【9月24日】 江戸城の天守閣を再建したいって人たちがいるらしく、それがニュースになっていたんだけれどでも江戸城って大半が皇居になっていて、とてもじゃないけど何か新しく立てられるって感じじゃないし、そもそもが江戸城から天守閣が消えたのは、明治維新後にあちらこちらで行われて、それで岡崎城も消えてしまったお城の取り壊しとかでもなければ、名古屋城のよーな第二次世界大戦の時の空襲でもない。江戸がまだ江戸だった時代に発生した明暦の大火の時に天守閣は焼け落ちて、それからずっと再建されなかった。それからいったいどれくらい? だいたい350年とかいった期間が経っているにも関わらず、今さらそれを作られたところで逆に江戸らしさってものが否定されるんじゃないかって気がしないでもない。

 あと、作られる場所が最初に天守閣が建っていた場所ではなく、新しく再建しようと土台だけ作られたって場所。明暦以前の再現ですらなく明暦以後にあったかもしれない架空の歴史を再現して、それを過去の歴史だったかのよーに捏造して見せるのってどこか世界に対して恥ずかしいって思いも浮かぶ。それ以前にやるならどんどんと取り壊され消えていく明治の香りや昭和の彩りを残し未来に伝える方が大事だし、江戸の文化や技術をしっかり承継させていくことの方がやっぱり大事。職人技とかやっぱり廃れていたりするんだろう状況を、育成か何かで伝え残していかないと本当に江戸は本の中だけのものになってしまう。でもそいういう地味なところでは提唱する方も賞賛されない、やるなら見てくれだけはデカい江戸城の再建って話しになってしまうところが、この一件の意識としての俗っぽさを感じさせてやりきれない。

 もちろんお城が建っているってことの重要性は岡崎城を見て名古屋城も見て、ゴールデンウィークには犬山城も見て去年は岐阜城なんかも見て強く感じている。やっぱりあると格好いい。そこに寄ってみたくなる。あるいは上ってみたくなる。犬山城をのぞけばどれも再建されたもので中は記念館になっていたりエレベーターすら通っていたりして、海外の人が来てそれを見て古い伝統に接することが出来たと喜んでくれることはないかもと、ちょっぴり恥ずかしい思いを覚えていることも事実だけれど、そうした天守閣を抱きつつ周辺の石組みとかお堀とかを含めたカタマリとしてそこを見たときに、浮かび上がってくる江戸の、あるいはもっと古い時代からの街のカタチなり街の空気ってものがあったりする。名古屋城の巨大な石組みなんてほんと、あの時代によくぞそれだけの土木工事をしたものだって感動を素直に見る人い与える。そこに乗っかる天守閣があるとカタマリは濃さを増し強さを増して見る人たちを過去へと誘う。だから観光客が大勢集まり、おもてなし隊みたいな新しい試みも乗っかって広がっていく。

 だから江戸にもそういう江戸らしさを、って気持ちも分からないでもないけれどもやぱり無理だろう、なかったものをそこに作るのは。なるほど伊勢市になぜか安土城なんかが原寸大で立っていたりして少なくない観光客をそこに集めていたりするけど、これはもう最初っから観光用のアトラクションとしての存在意義が確立している。そこで安土の過去を味わうんじゃなく、現代に安土の雰囲気を甦らせて体験させるテーマパークであって、浦安にディズニーの世界が再現されているのと意味は同じ。別に浦安に過去、ディズニーの何かがあった訳じゃないけれど、でもそこに人は集まり体験を楽しむ。いずれ安土の山の上に安土城を造りたい、って話しになればそれはそれで過去の再現として多いに有用。今も時折開かれる地域興しの活動に、芯が通って世間へのアピール度も強くなる。

 そうした意識のどれともやっぱり江戸城の再建はズレている。なおかつ東京では神宮外苑の閑静な雰囲気をぶち壊すかのよーに巨大な国立競技場をぶち建てようとする動きが本決まりになりかけていて、建築界の重鎮の槇文彦さんをして反対の論文を書かせるような状況になっている。明治から大正昭和へと伝わった都心の緑と静けさを、見上げるようにそびえ立って迫ってくるよーに巨大なドーム型の競技場がすべてぶち壊す。それで良いのか。あるいはそれも含めて歴史だの伝統だの現在の雰囲気などよりランドマークとなる存在を作り、人を集めることこそが重要という発想に江戸城もこの国立競技場も囚われているんだろー。つくづく日本という国は過去を敬わない。いや信じたい過去だけを信じようとしてむしろ敬い過ぎるいっぽうで都合の悪いことには目をつぶる。その果てが今の荒廃する国土であり衰退する未来なんだろー。どーして国士とかいう人はそんな状態に怒らないんだろう。それもまた日本の不思議。

 驚いたけど半分くらいは仕方がないなあという気がしている「サッカーマガジン」の週刊から月刊へのリニューアル。元々が月刊だったのがJリーグのスタートもあって到来したサッカーブームの中で週刊化され、そこで毎週の試合とそれから海外の情報、日本代表の動勢なんかを濃密に伝えてきてくれた。そういう情報を読むのは有り難かったし目当ての記事ではない記事から新しい事象や選手のことを知って覚えてサッカー全体への興味を育むことが出来た。でも、そうしたコラム的な記事は別にして報道的な試合のレビューはもはや試合直後のネットメディアですぐに報じられて、雑誌は確認以上の意味がなくなって来ている。

 「エルゴラッソ」って週3回刊の新聞もあって、それが試合から間をおかずに採点を乗せつつ次の試合の見所なんかも書いている。雑誌はそこから少し遅れてしまう上に情報も、決して濃いとはいえなくなっている。だって今、J2なんてほとんど載らないんだもんサッカー週刊紙。売れなくなったからこそそうしたのか、そうしたから売れなくなったのかを即座に判断することは難しいけれど、世間一般の関心がサッカーからやや離れてしまっているということも背景にはありそう。ただ、どーして関心が薄れたのか、ってところでサッカー雑誌が濃密に情報を伝えようとしなかったから、というのはちょっと酷。一般メディアに頻繁に踊るサッカーの情報から興味を持ってJリーグに行きより強い関心を抱いて情報を求めるよーになった果てに辿り着くのが専門誌。その入り口の部分で巧く誘導ができなかったことがサッカー全体の沈滞を呼び且つサッカー専門誌の売れ行き不振を招いたりしている。

 どうすれば良いってつまりはテレビとか一般紙とかスポーツ紙なんかも含めてよりリーチするメディアがサッカーを伝えようとしてくれるところだけれど、ここでは人気がないから報じないから人気がなくなり報じなくなるという循環が成立してしまう。ぶち壊すには何が必要か、ってところでワールドカップが先にあるしなでしこジャパンの復調もあるにはあるけど、やっぱりJリーグ自体がもっと世間に関心を持ってもらえるように動くことなんだろうなあ、だから2シーズン制とプレーオフを導入した、っていうのも一面では正しい話。問題は、それをやったからといってサッカーへと目を向ける層が増えるのかって辺りで、年に1回のクライマックスを見ればそれで十分とだけ思われて、シーズは誰かがどこかでやっているものって話しになってしまうかもしれない。それは本末転倒。いずれにしても決まってしまった月刊化によってサッカーマガジンが何を伝えるようになるか、そこには提灯ではなくジャーナリズムの本分に迫る記事が載るのか。先鋭化して活動を活発にした果てを今は楽しみにしておこう。サッカーダイジェストはどーすんだ?

 なんだかなあ。現実的にアンダーコントロールではまるでなかった福島第一原発の汚染水問題について満天下で大嘘をついて世界を騙して五輪を持って来たものの到底すぐには解決不能な問題に直面し、どうにかしろといきり立っても自然が相手ではどうにもならず今後とれる手だてといったらおそらくはあることをなかったことにするという詐術。それを平気でやってのけそうな総理大臣に対してよくリーダーシップを発揮したと誉め讃えつつまるでアンダーコントロールに関する無理すぎるコメントについて触れないメディアのコラムが果たして真っ当かと言われると、いささか足りてないと言わざるを得ないんだけれど書いている当人の脳内では、総理が言ったことはすべて善であり間違いなんかあるはずがないという思いが渦巻いているから仮にアンダーコントロールが大嘘で、現在も将来も問題が山積しているとしても総理と同様に存在せず存在し得ないこととして認識されているんだろー。そういう人が上り詰めていくメディアの未来は? まあ知ったこっちゃないけれど。


【9月23日】 表紙絵からして白バックながらも描かれているのは男性キャラクターでそれも2人。なおかつ派手な色彩ではなく線画に近い抑えたトーンでもって描かれている友野詳さんの「クレイとフィンと夢見た手紙」ってライトノベルが、白バックにメインでもない美少女キャラクターのひとり配置して世に旋風をまきおこしたMF文庫Jにしては珍しい上に、ストーリーもそんな表紙絵に登場している2人がバディとなって届けられなかった手紙を時空を超えて届けるというストーリー。どこか「シゴフミ」的だし「ポストガール」的でもあるけれど、そうやって順繰りに手紙が届けられたことによって受けとった人たちに変化が生まれ、それが連作として連なってひとつのストーリーに収まっていく感じが面白い。

 世界の設定もちょっと違う。フラットではなく何か理由があったか世界がツギハギになってしまっているという状況、そこに生きる人たちに手紙を届けることで、バラバラになってしまった世界を”正常”にしようとする勢力があり、その思惑に乗って2人の青年は手紙を届けているんだけれど、一方に世界を逆にバラバラにしてしまおうとして郵便配達の仕事を邪魔する勢力もあって所々に顔を出してくる。そんな的を相手に戦いつつ手紙の受け取り主を巡るゴタゴタにも介入したり巻きこまれたりしながら解決に導くという展開で、読んでいて次は誰が出てきてどんな事件が起こりそして、どういう解決を提示するのかって興味で読んでいける。

 その上に世界がいったいどいういう風になっていて、それを誰がどういう風にしようとしているか、けれども誰がどうして邪魔しようとしているのか、といった深い背景なんかも楽しめそう。それを例えばシリアスに描けばどこまでもシリアスになっていくんだろーけれど、そこはライトノベルでなおかつMF文庫Jだけあって美少女キャラクターたちの設定に抜かりがない。届ける相手がことごとくキャラが強烈で魔女のところで働いていた人狼がいたり吸血鬼の少女がいたりお姫さまがいたり武器商人の孫娘がいたり鳥少女がいたりと多才。そして誰も彼も一癖あってとりわけ吸血鬼の少女ジュヌヴィエーヴが、病気なのかよく咳き込む訳とか知ったらひっくり返るかも。でもまあ見かけがあれなら。そんな感じに設定を楽しめキャラを楽しめるストーリー。未だ見えない背景をどう示し世界をどう導くのか、なんて想像しながら続きを楽しんでいきたいけれど、出るのかな?

 野崎まどさんの小説はだからわざとダークにそしてパスティーシュに描いているんだろうと認識し、本編のアニメーションはもっと能天気に明るく楽しく少女たちのバトルを描いているんだと思っていた「ファンタジスタドール」だったけれどもラス前らしい第11話を見たらダークというよりセンシティブでラディカルな雰囲気が漂っていてもしかしたら単純な少女の友情を得ての成長を描く物語なんじゃなんじゃないか、って気がして来た。主人公の少女は暗くて引っ込み思案で自己主張を言えずウジウジとしてそこを嫌がられ三行半を突きつけられたりして見ていてあんまり共感できないし、敵として立った委員長とやら言われている少女もニコヤカに見えて主人公を見下し自分こそ最善といったオーラを放って周囲を圧倒。とてもじゃないけど近寄りたいって気にならない。

 そんな少女たちの姿に妙に辟易とさせられそーになる上に、行方不明だった誰かの兄がいきなり現れた着ぐるみの中に入っていたり皆で集まって会議をするのかと持っていたらカレーを食べていたり。どこかシュールな雰囲気が浮かんできては見る人たちを混乱させる。かといって「少女革命ウテナ」のよーに演劇の実験室みたいな空気を前面に押し出してそいういう世界によーこそ、って言ってくれている訳でもないからなあ、「ファンタジスタドール」。ざらっとした違和感を覚えながらも描かれている臆病な人ちょっぴり壊れてしまった人といったアニメのヒロイン像からちょっと外れた、かといって現実にいない訳ではない人間の少女たちの姿に気がつくと強い関心を抱かされ、むしろ真っ当なファンタジスタドールたちに同情めいたものを覚えて人間としてどうあるべきか、なんてことを考えさせられる。

 そんなひねくれたアニメをいったい誰が好き好んで見ているんだろう。そこがちょっと分からなくなて来たけれども、すでに野崎まどさんの小説版「ファンタジスタドール イヴ」を読んでいれば、前提となる“発明”がとてつもなく個人的で独善的な意識によって形作られたもので、そーした世界観を受け継いだアニメだとするなら、ここに来ての惑乱も、物語のパターンを崩してそこにリアルな心情って奴を感じさせるためなんだと理解できなくもなかったり。残る最終回も意味不明にぶっ飛ばしてくれそーで、見たいけれども千葉の環境じゃあ見られないんだよなあ。かといってDVDを買うわけにも金穴故にいかないし。ネットで一気見るとか企画されないかなあ。劇場でも良いぞ。

 街に出る要事があったんでついでだからと名古屋城を見聞。いったい何年ぶりになるんだろう、小学校の時に写生大会があったんで言ったのとあと、いつかの機会に天守閣の中を上ったのとそれから1988年だから9年だかに名古屋デザイン博があったんでその会場の1つだった名城公園あたりを歩いた記憶があるんだけれど、どれが本当でどれが違っているか、今となっては懸賞不能なだけに回答は難しそう。それでも覚え居ている名古屋城の雰囲気とは違って、周囲に御殿の再建が進められていて、その作業のためのスペースも作られ柱が組まれたり、屋根が作られたりしている様を見ることが出来た。

 あれだけの敷地面積に天守閣やら櫓やらがあって、パフォーマンスも繰り広げられたりと結構な賑わい。石垣なんかの高さや多さは犬山城や岡崎城の比ではなく、見れば日本人に限らず圧倒されそう。そんな場所をもっと世に訴え出れば、珍しい物を見たがる外国の人にもアピールできそうなんだけれど、奥ゆかしいのか「尾張名古屋は城で保つ」と自慢しながら、それを絶対に見に来いと世に強く訴え出ることをあんまりしないのが名古屋人。そこを曲げて大きく出ることで、生まれる新しい市場があるってことを、そろそろ理解して世に出ていくべきなのかもしれないなあ。東京が五輪で破壊と破壊と破壊に果てに見てくれの輝きに包まれそして人心を瞬間の歓喜と、その後の長い脱力へと導こうとしている脇で、既にある物に新しい物も乗せて磨き光らせることでこれからの半世紀を盛り上げ続けるような何かを打ち出したりして。何が出来るだろう。

 そして白鳥にある名古屋国際会議場センチュリーホールへと行ってきゃりーぱみゅぱみゅのなんだこれっくしょんツアーを伊勢原に続いて見物。ここへ行ったのも名古屋デザイン博とそれから1999年の日本SF大会の時以来だからもう結構な年月。その間もレオナルド・ダヴィンチの原案か何かによる巨大な馬は鎮座していて見上げるようなその大きさに周囲の誰もが驚くかっていうとすっかり慣れている様子。そうだよなあデカくたって見てれば見慣れるものだし。だからその凄さが分からないというのは名古屋城と同様か。ちょっと時間があったんで近所で開かれている増田セバスチャンさんってきゃりーの舞台をデザインしている人がニッショーとコラボして作った部屋を見物。ワンルームの部屋がピンクを基調にした壁になりいろいろオブジェが埋め込まれて“きゃりー感”って奴を出していた。でもクラスのは果たして。ほかの何も置けないもんなあ、カラーボックスと煎餅布団じゃ様にならないっていうか。確か5万8000円。誰が借りるんだろ。どーゆー暮らしをするんだろ。

 ライブの方は伊勢原とほぼ同じ演目で少し楽曲を削ってあったかな、2時間って枠に収めつつ間延びしない構成を選んだってことなのかも。盛り上がりについては3階席までびっちり埋まってそこからちゃんと返事が出ていて認知度も人気もそれなりな物を感じさせた。名古屋ってだから醒めているから呼びかけても乗ってこないところがあるけど今回は、リアクションにもなれてちゃんと声を出すところでは出し、動くところでは動いてたんじゃなかろーか。そんな歓声に答えてパフォーマンスもしっかりとして動き歌い跳ねて踊る。ダンサーの切れも変わらず抜群。連日に近い講演をこなしながら落ちてこないそのアクトがツアーを重ねより洗練されていった果てにいったい何を見せてくれるのか。ファイナルの大宮がちょっと楽しみになって来た。行けるかな。


【9月22日】 嗚呼。嗚呼。多くにはやっぱり刑事コロンボの2代目の声の人なんだろうけど僕等にとっては絶対的に「ルパン三世 カリオストロの城」のカリオストロ伯爵であり、最近は「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」の蛍じい。黒幕なんだけれど野卑ではない強さがあったり老齢なんだけれど狡猾さより鷹揚さがにじみ出たりといった声を聞かせてくれた石田太郎さんが21日に死去したという報が伝わりアニメファンドラマファンに走る衝撃。折しもお台場のシネマメディアージュでは「カリオストロの城」の上映会も行われていたそーで、そこで「どこまで行くのかな、クラリース」と言った声を聞いているまさにその時に生死の境をさまよっていたか、あるいは彼岸への旅立ちを終えていたっぽい。何か因縁めいたものを感じるなあ。

 「カリオストロの城」の上映会は13日にも開かれてそっちに参加してスクリーンに流れる映像に合わせて繰り出される伯爵の声をたっぷり味わったんばかりなだけに、まさかその直後にこういう訃報を聞くとはちょっと思わなかった。お台場の方も東京にいたら参加していた可能性も高いだけにさらにしんみり。今年は銭形警部の納谷悟朗さんも亡くなっていてそして今回の石田太郎さんと、あの名作を作り出した人がどんどんといなくなる。監督自身も存命ではあっても引退を発表してもう長編は作ってくれなさそう。だからこそ貴重にして永遠の作品として「ルパン三世 カリオストロの城」を未来永劫、残していきたいもの。望むなら毎年1回、フィルムで上映されるような“生きた”形で。そういう施設、出来ないかなあ。そうすることこそがクールジャパンなんだがなあ。

 目覚めたので昨日に急に岡崎に行く必要が出来て見学できなかった「あいちトリエンナーレ」の名古屋会場を順に回ることにする。とりあえず1番早くから開いていそーな名古屋市美術館を攻めることにして地下鉄で伏見へ。土日を祝日に600円で地下鉄バスに乗り放題なチケットがある名古屋ってとっても便利。こういうのでも出さないとみんな車を使うってことまるんだろーけど。でもって到着した白川公演では名古屋市科学館に長蛇の列が出来ていた。それはもう建物を一周ぐるりと回るくらいの長さ。やっぱりギネス級のプラネタリウムの効果かなあ。無用の長物でも独活の大木でもなくちゃんと役に立つデカいブツ。そういうのを作ってこその建設なんだけれど、果たして国立競技場はいかに。デカくたってその時に使って終わりじゃあなあ。

 さて白川会場、美術館が開くまでのちょっとの時間を観てすぐ側の若宮大通りにあるブラスト・セオリーの廃船か何かの展示を見に行ったら、作品を置いてある広場の出入り口やら周辺に住所不定な方々のハウスがあってお休みになっている方もいてそれも含めて作品なのかともふと思った。広場の隅っこには寝ている人もいたし。普通だったらそーゆー人はまとめて見えない場所に行ってもらうものなんだけれどそこは名古屋市、あるいは主催者が鷹揚ってことなのか。ここで払ったところで終わったらどうせ戻ってくるだろーし、そうでなくてもアートってどこか権威と向き合う部分ってのも持っているし。東京ではそうでなくても上野の公園内からきれいさっぱり青いシートのハウスが消えてしまった。2020年のオリンピックに向けて都内全域でとてつもない浄化が始まりそー。そういうスタンスで望んだ果てに得られる物と失う物のどちらが多くて、そして深刻か。終わってみないと分からないんだろうなあ。そしてその時には取り返しが付かなくなっている。寂しいね。

 名古屋市美術館の方は割とあっという間に見終わってしまって、入る前に1時間くらいの余裕を観て予約していた藤森照信さんの宙に浮いた泥船への入場まで間があったんで常設展なんかを観て時間を潰す。荻須高徳とか藤田嗣治とかモディリアーニとか良いのがあるんだよなあ。それだけは認める名古屋市美術館。そして時間が来たんで泥の船に入場。階段上るのは苦でもないんだけれど入り口が狭くて入り込むのにほとんど芋虫のよーに身を突き入れるよーな感じになってしまった。これでもーちょっと胴体が太かったら入れなかったかも。中は案外に広くて6人が入っても大丈夫。それは荷重の面でも同様で身を揺らすとユラユラするけど別に壊れたり落ちたりすることはない。ただ泥で作ったという意味合いがどこにあるのか、それを中空にぶら下げた意味は、なんて考えるとあるいは安心させてそれが一線を越えたらやっぱり大変だという緊張感なんかも、そこに込めようとしたのかな。段ボールの教会とかとは違って簡単に手に入って簡単に作れる建物って訳でもないし。ちょっと考えようその意図を。

 そして納屋橋会場へと回って古いボウリング場を階層した場所で見物。ボリューム的にも迫力的にもたぶんここが1番の会場じゃないんだろーか、後で寄った愛知県立美術館はヤノベケンジさんの巨大なオブジェとかあって全体を現すイコン的な意味合いは持っていたけど、こと作品から受ける衝撃って意味では納屋橋の方が大きかった。イスラエルかどこかのユダヤ人たちが安息日のために道にバリケードを築いて車を入れないようにする動きを撮影した映像とか、暗い部屋の敷き詰められた砂の上に巨大なシャボンがふくらみ広がっているインスタレーションとか。シャボンは名和晃平さんの作品でボウリング場ってそれなりに空間をとれる場所ならではとゆー感じ。ここでしか観られないしこの時期にしか観られない。そいういう一期一会の感嘆を味わわせてくれる作品が幾つもあるのが「あいちトリエンナーレ」の特徴かも。横浜トリエンナーレはどうだったっけ。昔ほど驚きが少ないような気はしてる。次やるのはいつだっけ。あいちトリエンナーレから刺激を受けて変わってくれると面白いな。

 インパクト、って意味では片山真理さんの作品が展示されたスペースがボウリング場にあって居住空間っぽさが残っている場所で、そこに自分のアトリエや身辺を再現するよーな展示がしてあって引きつけられた。両脚を失い義足で生活しているその身体的な特徴と、それを露わにして作品に入れこむスタンス、さらには見た目の美麗さというギャップと好奇と真っ当な評価が入り混じった視線をどうしても向けざるを得ないこちらの事情を知って受け止め、それでも気にせず跳ね返してくる作品性をどういう態度で観るべきか、なんてことを考えてしまう。それこそが相手の思惑なのかもしれないと思うとさらに悩む。難しいけど純粋に作品として観てもキッチュでグロテスクでなかなかにハイセンス。そこにいてずっと感じていたいと思わされた。それすらもやっぱり情動が絡んでいるのか? これもいろいろと考え続けたい作品かも。

 そこからバスとか乗り継いで長者町へと行ってあちらこちらに点在する作品を見物。誰だっけ尖閣とかを問題にしつつそれを表現するのに漫画のよーな色彩で彩られたディスプレー付きの計器板を並べてみせたりする作品とか、ユニークで挑戦的で愉快だったし中部電力の古い変電所跡地を撮影所に見立てそこで映画が作られたという設定でもっていろいろな展示を行い映像も作ってみせたNadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)による巨大インスタレーションとか、あいちトリエンナーレという機会があったからこそ動き生まれた作品もあって楽しめた。あの建物はいったいいつくらいに作られたものなんだろう。アーチ状になった出窓があったりして昭和モダンな感じが今に残ってた。このまま廃墟にしてしまうのかなあ。保存運動とか起こってないのかなあ。ちょっと気になった。こういう機会で使われたことでいろいろ動きが出ると面白いんだけれど。逆に一期一会を楽しんで後は更地というのもありそう。どーなんだろ。気にして行こう。

 西条未来さんの耳。それがたぶん「宇宙戦艦ヤマト2199」でもっともフェティッシュな形象ではないかと思うんだけれどそんなに多く観られないのが残念なところ。森雪船務長が交代で艦橋を離れている時でなければまず画面に映らないしそこで大きく耳がクローズアップされるのは攻撃とか受けて敵の存在をキャッチした時。それも視覚ではなく聴覚でもって感知する時って限定がある中で前に1度、大きく映ったことがあったけれどもその後しばらく途絶えていたのが第25話で久々にその存在を意識することができた。すでに劇場で観た時には大きくカットされてスクリーンには映らなかっただけにテレビ放送でようやく現れファンとして嬉しい限り。最終回では艦橋がお通夜状態になって西条さんもそんなにはっきり登場する訳ではなかっただけに今回のその耳をしっかりと目に焼き付けながら、彼女にも幸せが訪れる日が来ることを願ってちょっぴり早く「宇宙戦艦ヤマト2199」完結への賛辞を述べておこう。

 それにしても劇場での公開版がどれだけカットされていたかが分かって面白かったテレビ放送。デスラー総統が星を見捨てて宇宙のとりあえず藻屑になったと見えた後のガミラス本星で誰がイニシアティブを握りそこにいったん追放された形のディッツがどう関わるか、気になっていただけに復帰できてまずは安心。娘とも対面できたしドメル嫁もメーテルっぷりをより強く醸し出してスピンオフへと臨む気満々。それ以上にフラーケンが良いところで現れ宇宙で高速移動をしている船の外へと半身を乗りだし敵を見据えていたりする無駄な格好良さっぷりを見せてくれて、これでさすらいの潜行艇乗りとして宇宙をまたにかけ動き回るスピンオフへの土台は築けたって言えそう。そこに加わるヤーブ。まさかあそこにいたとはなあ。きっと全てが収まった後、地球へと乗り込み「君が気に入ったのならこの船に乗れ」と若い世代を誘うフラーケンの後ろで副長としてプラモデルを組み立てているに違いない。観たいなあそんなスピンオフ。


【9月21日】 「恥の多い生涯を送って来ました」で始まり、自分について等々を語る文章の前後を「はしがき」と「あとがき」で挟んでみせたその小説の構成をそのままなぞるかのように綴られるのは、とある男性が生まれそして最初は親に従順だったのが、ふと閃いて囚われになりそして爛れ溺れていく生涯。といってもむしろ自分を強く律して科学に勤しむその姿から浮かぶのは、原型にあった破天荒で破滅に向かって突き進むというものとは違った、何かを成し遂げるために煩悩を振り払い情念をうち捨てて、まっすぐにひた走るという真面目な姿。そうして成し遂げたことを思うと果たして彼のやったことは正しいのか、真っ当なことなのかと訝りたくもなるけれど、そうやって生まれた物を、あるいは者を愛で持てはやす面々の姿を見れば、決して唾棄し嫌悪すべきものではないということなのかもしれない。

 野崎まどさんによる「ファンタジスタドール イヴ」(ハヤカワ文庫JA)。それはパロディでありパスティーシュでありTVアニメーションのノベライズであってそして、想像力の限りをぶち込んだSF小説でもあったりする。表紙からして夏目漱石とか谷崎潤一郎の新潮文庫版にも似て同じパターンが並ぶ上に、文字だけでタイトルと著者名が書かれてあって、これが例の賑やかなアニメ「ファンタジスタドール」のノベライズなのかと知る人に疑念を抱かせる。ページを開けばさらに驚愕。そこにはいわゆるアニメのノベライズといったフォーマットは欠片もない。

 あるのは文学。それも分かる人だとすぐに気づく「人間失格」のフォーマットを借りた純文学。そうとは知らなくても何か淡々しつつ悶々とした懊悩が始まり葛藤が始まっては、人間としてのどこか常道を外れた醜さが浮かび、それでいてそういう経験の一端を誰彼となく思い出させる猛毒ぶりが浮かんで読む人を惑わせる。これはもしかしたら自分かもしれない。自分だったかもしれない。自分もこうなるかもしれない、と。そうやって主人公が煩悩を払い生み出した物たちが、あるいは者たちがあれらだと分かった時に、人はテレビアニメーションのどこまで明るくて楽しい状態を、そのまま受け入れられるだろうか。背後であったその発明への苦労以上に、動機となった心情の何というか不気味で不健全な状態を感じて、それらが込められた物であり者なんだと知ってなお真っ直ぐに観られるか。

 観られる、とうならそれはやっぱりそういう視線でそれらを観ているこということの現れだし、そうでないというならいったいどうしてあなたたちはそれらを楽しんでいるのか、改めて問いかけられることになる。格好いいからか。正しいからか。違うだろう? そうじゃないだろう? 本当はそういう気分なんだろう? そんな心の裏側なり奥底にある対象へのどこか不純で、どこか不健全で、けれども人間の本能として極めて正しい情動をえぐり出されるような展開に、赤面させられるなり悶絶させられたらそれはもう、作者である野崎まどの作戦に、そして書かせた製作者側の思惑に乗らされているのだと言えるだろう。

 綺麗な表側しか見せず、苦労したり葛藤したプロセスなんで見せないのがエンターテインメントの常道だけれど、一期一会のショービジネスとは違った物語としてのエンターテインメントがあった時、当然ながらそこに過去から現在へと至るさまざまな動機といったものが必要となってくる。普通はそれらは語られないし語る意味もないと思われている。南部博士がガッチャマンを組織するのにどういう理由があったのか、等々。とりわけ戦闘美少女と呼ばれる存在を、敢えて人工物として生み出すからにはそこに単なる正義とかいったお題目とは違った理由があるはず。そこへと迫りえぐってみせた作品であり、それを人生への葛藤と反問から描いた小説の体裁を借りたことによって“失格”なのかどうかを問い直した作品でもありそう。さまざまなフェーズから語れそうだし語られそうだけれど、個人的にはやっぱりこう思うかなあ。「悩むことじゃねえ、好きなら好きで良いじゃないか」。そんなところで。

 本当は名古屋に出て「あいちトリエンナーレ」の続きを観ようかと思ったんだけれど岡崎方面で「オカザえもんの兄」なんてものが初お目見えするというニュースを聞いてこれはジャーナリスト(偽)として行かなくてはならないと名古屋行きを取りやめ岡崎行きを決断。でもどうせ三河に行くならと実在が怪しまれている双子の弟の車に乗せられ153号線か何かを一直線で突っ走って豊田市美術館へと向かってまずは先週から始まったらしー「反重力展」という企画展を観る。だいたい平針から30分くらい? 早いよなあ、そしてあっさりとたどり着ける。名古屋や三河で車が欠かせないってのもよく分かる。だって便利なんだもん。それは東京とかではぜったいに味わえない感覚。車が嫌いなんじゃなく、必要ないだけなんだよ東京では。それを若者全体の車離れとしてとらえるからおかしくなるんだよ。地方を観ようよ。名古屋に目を向けようよ。そこにモータリゼーションの現実があり、未来がある、なんつって。

 さて「反重力展」面白い。企画に沿った作品を集めてきただけじゃなくって、企画に沿う作品を作ってもらったりもしているからそこにひとつのメッセージが浮かび上がる。反重力。それは自在であり自由であり拡張であり雲散でもあったりと、既存の着想を大きく飛び越えたところに生まれる何か新しかったり恐ろしかったりするものを見せようとしたもの。だから来場者も既存の押し頂くような受け身の見方ではなくって能動的に、作品に絡むような態度を迫られる。例えばレアンドロ・エルリッヒという人の作品は床面に反転させた建物の壁を寝かせそして45度の角度に鏡を張ってそこに壁が垂直に写るようにしている。観客は寝ている壁の上に乗り、寝そべってそして壁の建物の上としたを意識する成り、まるで意識しないでそこで自在にポーズをとると、鏡に反射した建物の上に重力に従い、あるいは重力を無視して人が存在しているような絵が出来上がる。

霧がたなびく異世界が  軒先からぶら下がっている自分を演じても良いし、壁に軽やかに張り付いている自分を演じても良い。そこに重力であり反重力が形となって浮かび上がる。そうやって靴を脱いで楽しむ作品はだいたいにおいて面白く、中原浩大+井上明彦による作品は無重力下で体によりどころを与えるクッションとか抱き枕とかなんかを並べてあってそれが実に低反発素材で座ったり抱きしめたりすると気持ち良い。それが目的って訳じゃないけれど、そうやって抱きしめたりする気持ちよさの向こう側に無重力下において己の能動をそのまま反力として返される安心感といったものを改めて理解する助けになっている、なんてことなのか。

 同じことはエルネスト・ネトってアーティストによる大きなテントで囲った白い部屋めいた中にクッションが敷かれ柔らかいオブジェが置かれてあってそこに靴を脱いで上がり座りクッションを触り戯れることによって自分が今、存在しているんだってことを理解する。もしもそこに大勢が詰めかけギッシリと人がいたりすると感じることも違うだろうけれど、田舎にあって始まったばかりの展覧会にそう人が来るものではないし、有名人が作品を寄せている訳でもない。だから少ない人数の中を存分に味わうことができる。こういうことも地方の役得なんだろうなあ。そこに意欲的なキュレーターがいれば、だけど。

 片側ではディスプレーの上で人の顔が明滅しながらモンタージュのように重なり変わっていき、反対側ではフラッシュの明滅とともに粒子が網目状格子状になったり膨らんだり縮んだりしながら変化していく映像が流れている平川紀道さんって人の作品はその部屋だからこそ出来た作品。同様に靴を脱いであがって繊細なビーズが垂れ下がった間を縫って小さい人形が並び蝋燭が燃え小さい文字が書かれたペーパーが積まれた内藤礼さんの作品もそのスペースを最大限に使い何かを感じさせようとした一種のインスタレーションて言えるかも。中村竜治さんのワイヤーを張り巡らせた作品も部屋いっぱいを使った作品だったなあ。

 そうした展示は、部屋があって壁があるから作品を並べますっていった発想の展覧会からは絶対に得られない体験を観る人にさせ、作り手にも強いたりする。そういう関係性から生まれ育まれる次なる着想。あるいは思考的な成長が、次には何をしでかすだろうという未来への可能性を育む。過去の名画を並べ愛でることも大切だけれどそうでない挑戦をやり続ける美術館が今、日本にどれだけあるだろうかと考えた時、豊田市美術館はとてもとても重要な拠点だって言えそう。それが日本全国に伝わっているかというと……。なので「あいちトリエンナーレ」を観に愛知県へと来た人は、ちょい脚を伸ばして豊田市美術館にも行ってみよう。絶対に何か得られるから。遠く矢作川の向こうに頭だけ出したバッフ・クランの重機動メカも観られるし(違うって)。

 そして知立を経て東岡崎へと回って昨日に続いて「あいちトリエンナーレ」の会場へ。と、その前に宝金堂って時計屋さんに寄って「オカザえもんの目覚まし時計」を購入する。昨日も実は立ち寄って商品はみたけど在庫がなく、明日届くと聞いてこれは買えないと諦めていたんだけれど「オカザえもんの兄」なんて話題が転がり込んで来たお陰で岡崎に連日脚を運ぶことになって、それでこうして手にすることが出来た次第。オカザえもん体調崩してくれてありがとう。いやそれは。ちなみに時計はこの店のオリジナルらしく東京にも最近出回り始めたマスプロダクツとは一線を隠した逸品。それを岡崎の店で買ってこそ意義もあるんだと思うんだけれど、それがあまり世間に知られていないのが少し勿体ない。

廃墟から先を問う。滅亡か。復活か。  ゆるキャラがいくら人気になったところで、それが売れても地元はまるで潤わない。版元は潤うかもしれないけれどそれは本来も目的じゃないし、ロイヤルティをもらていない場合もある。だから地元に貢献するにはそこに行って買わなくてはらない。だったらそこに行けば買える、それはとても良いものだ、ということをもっと世間に知って貰わなくてはいけないんだけれど「オカザえもん」は新しいキャラってことでそこがまだ、弱いんだよなあ。シャッターホリックってショップが作っているオリジナルのちょいワルい顔をしたオカザえもんTシャツなんて素晴らしい品もあるんだけどなあ。だからみんな現地に行こう。そして探してみよう自分だけのオリジナルなオカザえもんを。そう大勢を呼び込むきっかけが、弟の体調不良と兄の代役というニュースってのは喜んで良いのか嘆いて良いのかちょっと分からないけれど。

踊りに狂気が足りない?  さて2日目の岡崎での「あいちトリエンナーレ」では岡崎シビコって上半分から店が抜けてしまった商業ビルを使った展示でも、とりわけ凄まじい雰囲気を持った「向井山朋子+ジャン・カルマン」という組み合わせによるインスタレーションをじっくりと観る。昨日は平日ってこともあって暗い廃墟に新聞紙が積まれ散らばる中で崩れ落ちて重ねられたピアノから音楽が流れるだけに留まって、それでも静謐で虚無的な気分って奴を存分に味わえたけれども週末はこれにボランティアによるパフォーマンスが加わった。深淵の中に響くピアノをバックに人が動き声が叫ばれると、昨日までとはまた違った緊張感が場に漂う。廃墟からの絶望? 未来への模索? いろいろと理屈はつけられそうだけれどもそれ以前に空間から浴びせられるピリピリとした空気感はやっぱり格別。そこに居てこそ味わえる楽しみって奴で、それを改めて観られたって意味でもオカザえもんの体調不良に以下同文。やっぱり貢献しているよ岡崎の発展に。

 そして岡崎公園へと周り500人近く集まった人の前にいよいよ現れた「兄のオカザえもん」を観た。兄だけあって威厳が……ない、何しろ背が低い、どうやら10センチくらい低いそーでそれがあの奇妙に不気味なオカザえもんならではの不安定感をスポイルし、動きなんかから妙さ加減をあまり感じさせない。そして妙に疲れやすい。4歳だか5歳は上だそーでバツ2だとかいうプロフィルとも相まって疲れた中年男ってイメージを、当人が強く意識したのかそれが体を縛ったのか、ちょっと踊ればはあっといった感じになって憂いを醸し出す。まあそれも含めてひとつの魅力と思えないこともないけれど、そういう気持ちが浮かぶのも大元のオカザえもんがあってこそ。だからいつまでも兄が出張るんではなくこのピンチを乗りきったらあとはスッキリ引退して、弟に全部まかせるくらいのことをして欲しい。「悪魔くん」のメフィストみたく兄から弟へと完全に切り替わる、ってのはだから無しにして欲しいし、「大日本サムライガール」の日毬と凪紗みたいに2人とも活動ってのも避けて欲しいけれど、どーなんだろう。まずは弟の回復を祈念。それからじっくり2人で話し合って決めて下さいその去就。


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