番狂わせ
警視庁警備部特殊車輛二課

 サッカーでいうポジションとは、カバーする領域であって、そこで求められるのは必要な仕事をすることだけ、というのが世界における基準だが、日本では、ポジションがなぜかキャラクターと同義、あるいは同質と見なされている節があるという。

 長身のディフェンスは、固く守って来るボールのすべてを跳ね返し、ボランチは、縦横無尽に動いてボールを奪い、前へと出して攻守の切り替えを担う。フォワードは、ひたすら耐えて一瞬のチャンスを得点に変え、そして司令塔は、ボールを自在に操り、四方に散らして得点を演出することが、何より望まれる。

 それゆえに、ポジションを割り当てられた、キャラクターに似合わないプレーをできないようになり、プレーの幅を狭められ、挙げ句にチーム全体のパフォーマンスも落としてしまう。結果、個々の持つポテンシャルを統合できず、昇華できないまま、高みへと迎えないでる、とうのが、日本のサッカー界に根深く蔓延る悪弊とも言える。

 それを、サッカー専門の批評家が、正面から語って語れないことはない。けれども、メジャーなシーンに、メーンの言葉として伝えられることは、なかなない。大手メディアと呼ばれるところ、とりわけスポーツ新聞では、未だにキャラクターに選手を当てはめ、守備と攻撃とのキャラクターの対比でチームを語る。それが時に誤解を招き、不和を呼んで日本のサッカーの進展を妨げる。罪深いというより他にない。

 そんな日本では、なぜかアニメーション監督が、サッカーのポジションについて語り、プレッシングの必要性について語り、サイド攻撃の重要性について語っている。「機動警察パトレイバー」や「攻殻機動隊/GHOST IN THE SHELL」「スカイ・クロラ」といった作品で、広く世界に知られているアニメーション監督の押井守が書いた小説「番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課」(角川春樹事務所、1400円)。そこでは、サッカーの戦術があり、サッカーのトレーニングがあり、サッカーのプレーがあって、サッカーの歴史があるというサッカー尽くしの言葉がひたすらに連ねられる。

 そのあまりの偏重ぶりに、特車二課、すなわち1980年代末から90年代にかけて漫画とアニメで一斉を風靡し、3度にわたって劇場アニメーションにもなった作品を期待した人は、いささか眉をひそめるかもしれない。メインメカとして登場した二足歩行ロボットの存在を、無用の長物として否定してみせる物言いに、憤るかもしれない。

 もっとも、元より思想を語り、蘊蓄を語ることが大好きで、それを作品にまで高めてきた監督であり、また、アニメーション専門誌の「アニメージュ」ですら、ひたすらにサッカーの話題をコラムに書いていた人間が、今さらサッカーの話を、小説として書いたことに、深く理解するファンこと“オシイスト”たちにとってはは、一切の不思議はない。

 二足歩行ロボットの扱いについても、むしろ、その無用の長物的な扱いを受けていたロボットが、クライマックスにおいてその巨体、その機動性、その攻撃力でサッカー場が狙われ、サッカー選手たちが危険に襲われ、観戦者たちまでもが巻きこまれかけたテロを阻止し、事件を解決へと導いたことに、やればできるんだと喝采を贈るべきだろう。押井守は、決して否定はしていない。

 物語はといえば、世界でも有数の歴史と人気を誇るマンチェスター・ユナイテッドではなく、それと同じ町にあるマンチェスター・FCという架空のクラブが、日本で試合をしなくてはならなくなったものの、そこに選手の11人を皆殺しにするという予告がはいって、警察として絶対に阻止しなくてはならなくなった、というシチュエーションから始まる。

 警察は対応のため、厳重な警備体制をしくものの、そうやって頑なに守るだけの方法では、相手に勝てないというサッカーの真理がそこに持ち込まれる。後藤田という、誰かとよく似た名前を持った隊長の口を通して、高い位置からのプレスの重要性が、特車二課の面々に説かれ、配置されたポジションで、最大限に仕事をする必要性が説かれる。

 ポジションを理解するには、そのポジションにいなくてはいけないと、襲われるサッカー選手の目線で警備に臨めるよう、特車二課のメンバーの1人で、泉野明こといずみの・あきらは、高校でサッカーをやってた経験を買われ、マンチェスター・FCの対戦相手になる湾岸FCで練習するよう、サテライトすなわち二軍に放り込まれる。

 そこでは、とにかく激しいフィジカルトレーニングを強いられ、泉野は痛めつけられる。けれども、そうした練習の積みかさねが、彼に眠っていた貪欲さを引き出し、サテライトながらもチームでもそれなりな存在感を漂わせるようになっていく。

 湾岸FCのエースストライカーが、故障で調整にサテライトへと落ちてきていて、そんな彼にもサイドプレーヤーとしての存在を、羨ましがられる泉野明。フォワードというポジションが持つ、一瞬のプレーの貴重性を尊びつつも、プレーヤーとしてなら、サイドを頻繁に上下することによってチャンスを作り出す気持ち良さへの傾注が示されていて、昨今のサイドプレーヤーが尊ばれる風潮を取り入れようとした、押井監督の含蓄なり趣味を感じさせる。

 あるいは、ストーリーの中で開陳される多くのサッカー知識の大元になった、杉山茂樹の思想か。もちろんそれだけでなく、サッカーの思想を警備というものの中へと持ち込み、何が必要かを解き明かしてみせ、また、どうやったらサッカー場でプレーする選手たちを、抹殺できるのかという軍事的な知識も、そこに融合させてみせるところに、押井守のクリエーターとしての面白みがある。一見、大きく離れた事象を融合させてみせる腕前。素晴らしい。

 迎えた試合の当日、起こる事件にメンバーがそれぞれのポジションで精一杯を発揮する様には、ちょっと感動を覚えるだろう。あるいは羨望も。特車二課のメンバーで、煙草好きだが美人の額田香貫子がとった行動は、目に浮かべるだけで愉しいものがあり、是非に実写映画で見てみたいという気にさせられる。

 他のメンバーも同様。最適なポジションに最適な才能。あるいはそうした才能を勘案しながら、ベストポジションを作り上げる必要性は、サッカーに限らず、あらゆる戦いで、あらゆるシーンで使えそう。そんな真理を示した上で、物語は狂騒と混乱、そして大活躍の果てに幕を閉じ、エピローグへと続く。

 そのエピローグで示される、特車二課の面々のその後もまた、興味をそそられる。ポジションに特異な才能を発揮し過ぎたが故に、現実世界ではその才能が行き過ぎを招いて折り合えず、潰えていたものもいれば、せっかくの機会を踏み台として、上昇していったものがいる。とりわけ泉野明のたどった即席は、状況に甘んじ、ポジションに悩み、才能を埋もれさせかけている人たちに、ちょっとした希望を与える。

 とはいえ、誰でもそうなれるとは限らない。才能を見抜き、配置してくれる人間の存在があり、そのポジションで、最大限に能力を発揮させようとする不断の努力がいる。その2つがそろってこそ、誰もが見せかけの殻を破れるようなり、番狂わせという名の可能性を、示すことができるのだ。


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