縮刷版2013年月9中旬号


【9月20日】 それでクロキ・アンジュって男の子なの? 女の子なの? それが1番大事だったのに結局明かされることなく終わってしまった「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」だけれどでも、ヒタチ・イズルの相手をし過ぎてジアート様は命を失い、レガトゥスの面々も既にルティエルは亡くドルガナも酷くやられ、唯一ルメスだけがテオーリアの姿に怯んだか頭を垂れたかで退いて、そしてゲートは破壊され、これにて一件落着と相成った……ように見せておきながら、皇帝ガルキエが何か嫌なことを言ったからあるいは、第2期となって体制を立て直してまた地球へと襲来するかもしれないなあ。そんな時に遺伝子を覚醒させたヒタチ・イズルはいったいどれだけの強さを発揮し、一方で本能以上の何かを見つけたウルガルが、どれだけの粘りを見せるようになってがっぷり四つに組むか。なんて想像もしてみたくなる。まあないだろうけど。

 それとも久々の妹の姿に、実はジアートよりもシスコンだったガルキエがテオーリアを奪いにやって来て、そこでシモン司令が旦那然としている姿に激怒するか、逆にテオーリアが「やめてよお兄ちゃん!」と叫んで、それで全てが解決してしまうか。もしかしたら「おじちゃんやめて!」とヒタチ・イズルが叫ぶことによって、実はショタだったガルキエが「はーいおじさんは大丈夫ですよー」とか言ってにこやかに去っていく……なんてことはまずあり得ないか。あの皇帝、ジアートに虚仮にされているかと思ったらしっかり手のひらで泳がせていた感じ。政務よりも遺伝子狩りに走って潰えた莫迦な弟くらいのことは思っているかもしれない。

 ともあれ2クールを捨て回がないくらいに引っ張って突っ走ってくれたアニメーション。もちろん最後の闘いが本能爆発を煩悩で抑えたヒタチ・イズルに対して本能だけを肥大化させたジアートの敗北に終わるという、分かりやすすぎる構図が物足りなくもあるし、そうした文化や心理の違いによって種としての成長なり限界がどうなっているかを示唆する深い話に出来ないこともなかった気はする。24話ある中にちょっとづつ混ぜ込んでおいた伏線が一気に花開いて親子の相克、遺伝子の高ぶり、それを抑える人類の種としての優秀さ、かといってそれが最強とは限らない矛盾なんかを浮かび上がらせ、次の世代の人類を示唆するといったSF設定を盛り込んで見せたら面白い作品になったかもしれない。ただ、それをやりすぎてテンポが鈍ったら元も子もない。どこまで軽く明るく楽しく行くのが「マジェスティックプリンス」。見終わって何も残らなくても観ていて楽しかったからそれで良いってことで。しかしやっぱり気になるアンジュの性別。付いてるのかなあ。付いてないのかなあ。

 「Number」の837号はもっぱらサッカーの指揮官特集で、バルセロナからバイエルンへと移ったグアルディオラを筆頭にレアルからチェルシーへと出戻ったモウリーニョとかマンチェスタ・ユナイテッドで香川慎司選手を干してるモイーズ監督なんかが登場。それぞれに含蓄のある采配ぶりなりポリシーって奴を見せてくれているんだけれど、それより凄かったのはあのイビチャ・オシムに関する記事。どうせいつもの監督哲学だろう? って思ったらまるで違って、特集とは関係のないところでボスニアのサッカー協会をめぐって起こった緊急事態に、オシムがどう立ち向かったがルポルタージュされている。筆者は木村元彦さん。そう「オシムの言葉」のあの人。だから内容はサッカーに留まらず、むしろサッカーが寄って立つ国家なり国土といった物が置かれた苦境というものを土台に、その上でサッカーに何ができるか、サッカー関係者が何をしたのかが綴られる。

 事の発端はボスニアのサッカー協会に何故か会長が3人もいて、それが輪番で会長職に就いていたってこと。それはやっぱり規約に合わないと、FIFAが憤りUEFAも眉を顰めつつボスニアの国際大会への参加資格の停止を通告したけど、だからといってはい分かりました1人にしますとは言えないのがボスニアという国の複雑さ。巨大なユーゴスラビアが崩壊して内戦へと至ったことが、ボスニア近隣でも起こってセルビア人、クロアチア人、そしてムスリムという3つの勢力が激しい対立を繰り広げた。内戦状態は終わり国情は落ち着いても、そうした紛争の間に起こった様々な出来事によってお互いの間には憎悪にも近い感情が渦巻き、ここで権利を手放せば二度と浮かばれないかもしれないという疑いの気持ちを誰もが思っていた。3人も会長がいるのは、そうした疑心を現実に変えないための担保のようなもの。ある意味で仕方がないものともいえた。

 ただ、やっぱり権力の座にあれば腐敗してくるのも当然で、3人がそれぞれに権益を確保しようとした結果、協会のガバナンスは歪んで停滞が著しくなった。FIFAやUEFAが咎めたのもそうした堕落と腐敗を常態化させては、サッカーに汚点が残ると判断したからなのかもしれないけれど、だからといって強制的に会長を変える訳にはいかない。それはひとつ間違えば憎悪を顕在化させて対立を激化させかねないから。どうすればいい? どうしようもない。いや違う、彼がいる、彼ならやてくれるだろうということで、ボスニアのサッカーを正常化させる委員会の発足が求められ、その委員長に我らがシュワーボことオシムがブラッターとそしてプラティニによって名指しで抜擢された。

 病気を抱えリハビリの途上でここに激務が加われば再発だってあり得る。そんな人間にどうして頼めるのか? だいいち受けるのか? そんな心配が浮かぶのが普通だけれどもオシムは違った。逃げなかった。引き受けそして無謀とも言える戦いに臨んでいった。違う。「試合」だ。記事によるとオシムは言ったらしい。「我々はこれから重要な試合に立ち向かう。難しい相手だ。その試合に勝つためにはこのメンバーは皆、同じ目的を持ってプレーしなくてはならない。勇気を持とう」。戦いといえあそこに痛みが生まれる。命すら奪われる。だからオシムはサッカーを戦争に例えることを嫌った。周囲でいくらでもあった戦争で、どれだけの人が苦しんだかを観てきた人間ならではの感覚。その真っ当さをここでも発揮し、事を試合に例えそして結束して乗りきろうと訴えた。

 とはいえ現実は戦争にも似た対立構造があり、そして延長には戦争の影すらのぞく。それをどうしてオシムは乗りきっていったのか。記事によればオシムの揺るぎない人格と、そして類い希なるユーモアのセンス、何より事態を収めボスニアのサッカーに未来を与えたいという情熱で、憎悪と疑心にまみれた民族間の諍いを収めていく。なぜオシムは成し遂げられたのか。それはオシムが人生で1度たりとも揺るがず正直に生きそして結果を出し続けてきたから。利害も憎悪も関係なくただ未来のためにという言葉を信じるに足ると誰もが認めていたたから。過去に腹芸を見せ裏切りを行った人間は、今度もそうしないとは限らないと世間に思わせる。疑心が暗鬼を生んで不安が憎悪を招く。オシムにはそうさせる過去がなかった。だから誰もが信じて託した。

 元のユーゴスラビア代表で、で正常化委員会の委員になったハジベギッチが熱くなり過ぎて正論をぶちまけ、それが場を険悪なムードにしかけた時にオシムが言った言葉がとにかく素晴らしい。過去を知り結果を嘆きその後の苦難を乗り越え今に辿り着いてなおかつ未来を見つめるオシムの言葉だからこそ、誰もが納得し笑いを得た上で場を前向きで明るいものへと切り替えることができた。他の誰がその座についたところで決してボスニアは世界に復帰なんか出来なかっただろう。セルビアもクロアチアもムスリムも信じられる傑人。それは世界で起こっている様々なことにだって当てはまる。逃げずに戦い曲げずに歩んでいく大切さ。それを思い出させ、そして難局を乗りきらせるだけの力を与えてくれる人を僕たちは1度仰ぎ、けれども手放してしまった。それがちょっと悔しいけれど、でもそれによってボスニアは救われた。代表チームはブラジルのワールドカップ出場まであと少しのところまで来ている。だから良かったと思う。オシムをボスニアに返してあげらえて本当に良かったと思う。でもいつか……いややっぱりオシムの言葉は世界が求める。世界を動かす。だから今を存分に。それだけが願いだ。

 そうだ「あいちトリエンナーレ」に行こう、と思い立って新幹線を乗り継ぎ四半世紀前とすっかり変わってしまった豊橋駅で名鉄に乗り換え東岡崎へ。あれれこんなに小さな街だったっけ、って降りて思ったのが正直な感想で、昔は駅前には店が並びデパートとかもあったりして豊橋に負けず賑やかな街って印象を抱いていた。それが今になって歩いてみると繁華街はなく商業地区もないまま低い建物が連なって広がる普通の町。とても東三河にあって徳川の生まれた場所として栄えた場所とは思えなかった。でもこれが現実。会場となっていた商業施設が半分くらいの店舗しかなく残りはほとんど廃ビルとなっていたのもそんな岡崎という街の停滞から衰退を証明していて、だからこそ「あいちトリエンナーレ」というイベントでもって目を引きつけ、人を集める必要を感じたのかもしれない。「オカザえもん」という異色のキャラクターをあれだけバックアップするのも同様。そこは街として盛り上げの必要を感じていない「ふなっしー」を非公認のままで起き続ける船橋とは違ってる。

 廃墟寸前のビルが会場ってことで思い出したのが2010年に水コミケスペシャルが拓かれた水戸の様子。あそこも徳川が御三家のひとつを置いて栄えた街だけれども決して発展ばかりはしておらず、商業施設の1つが使われなくなってそこを会場として利用することになった。街を歩くと個別に店は栄えていても繁華街として賑わっているという感じではなく、何となしに人が集まっている街といった雰囲気。それでも映画館がありデパートもあって美術館もあるところが茨城県の県庁所在地であり御三家の城下町。愛知県でも最大では決してない岡崎にはそこまでの活力ってのは流石にない。じゃあどうする、ってところで目を付けたのが観光であり文化といったものを通したアピールで、その成功例として「オカザえもん」の人気があると言えるのかも。いやでもまだまだローカル、ここから「くまもん」くらいに全国区になっていくにはあと1つ2つのステップが必要かも何だろう。ゆるキャラグランプリでの優勝? でも勝ったからといて一時で終わるのも少なくないし。不倫? 誰と。おまけに体調不良でダウンとか。代わりに兄のオカザえもんってのがこれからの数日、登場するそうだけれどいったい何なんだあ「兄」って。姿が違うのか? 動きがさらに妙なのか? 中の人が……って中に人などいない。じゃあ何が? 確かめに行くしかないのかなあ。「あいちトリエンナーレ」で観たい作品もあるしなあ。


【9月19日】 午前8時に家を出ても9時前に幕張メッセに到着できるのは船橋に住んでいて数少ない利点か。秋葉原も30分かからず行けるし。そんな幕張メッセで「東京ゲームショウ2013」をとりあえずザッと見たけど、探しても探してもコナミデジタルエンタテイメントのブースが見つからない。もしかしたらデカ過ぎて目に入らないだけかと階段を上がって上から見下ろしてもやっぱり見つからず、案内のカタログを見て納得、出ていませんでした。これはちょっと珍しい。アミューズメントマシンショーには団体に所属していないってこともあって出なかったことがあったけど、ゲームショウは主催している団体で前に会長も務めたことがあるくらいに業界では中心的な会社。他にイベントなんかもしておらず発表会もあまりしないだけに、こういう場所でのアピールが大事って気もするんだけれどでも出ていないのはつまり、ゲームショウでのPR効果がそれだけ薄いって判断が働いたんだろうか。

 実際、試遊台なんかで遊んでもらったところでそれでじゃあ買おうってなるかというと今はそういう時代でもない。コンソール向けのゲームソフトが軒並み弱体化している中で、欲しい人は欲しいソフトを決めて絶対に買い、そうでない人は見向きもしない状態にある。その壁をゲームショウという場が崩せるかどうか、って考えた時にやっぱりゲームファンしかこない場で新規にアピールするのは難しいと考えたのかもしれない。でも他はセガもバンダイナムコゲームスもスクウェア・エニックスも出ているしなあ。そこで見せたいものがあれば出し、見せるものがなければ出さないという単純な判断なのかも。見せたいものはソニー・コンピュータエンタテインメントが自前のブースの中でパブリッシャーとして紹介してくれるし。

 とはいえ思っていたほど活況、って感じもしなかったプレイステーション4。そりゃあすごいマシンだとみんな分かっている。目も醒めるよーな美麗なグラフィックを表現できると知っているけどしょせんはCGによって作られた映像。どこまで行っても実写そのものにはなり得ず、ようやくフル3DCGのムービーのクオリティに近づいたねえって感想を超越できない。それがたとえインタラクティブなものであっても、だから凄いというよりやっとここまでという感想しか出ないものをアピールしたところで、グラフィックを決め手に買ってくれるよーにはなかなかならない。

 必要なのは当たり前だけれどやっぱりタイトルってことになるし、何よりゲームその物の面白さがなければだれも見向きもしない。だけどグラフィックがより高度化していく一方のコンソールマシンでいった、どれだけの遊びってものを今後引き出していけるのか。格闘ゲームにしたってスポーツゲームにしたってレーシングゲームにしたって、グラフィックが高度化したからってゲーム性がどうにかなるものじゃない。没入感は高まってもそこから得られる面白さ、ってのは多分無印のプレイステーションの頃と大きくは変わらないよーな気がする。そんな時代において、新しいコンソールマシンの上で多くの目を引きつけるタイトルがどれだけあるのかがちょっと見えない。FF? なるほどそうかもしれないけれど、これはこれでオンラインへと移行が進んでグラフィックよりゲーム制にシフトしている。そんな時代に棹さすようなパワー競争。いったいどういう結果を招く? Xbox ONEともども登場してくる来年はいろいろな意味で転換期になりそう。生存への。あるいは滅亡への。

 そんなことを考えていたら飛び込んできた任天堂の山内溥相談役の訃報。50年近くに渡って任天堂を率いて京都の玩具メーカーだった会社を世界的なゲーム企業へと押し上げた立て役者ともいえる人の訃報が、グラフィックばかりが高度化していく一方で面白みを見つけづらかった東京ゲームショウ2013の初日に流れるっていうのも何か因縁めいたものがあるよなあ。だって山内さん、グラフィックの高度化はゲームの面白さとは全然別だってなことを何度も何度も話してたし。お目にかかったのは2001年1月5日とそれから2002年1月11日の2回だけ。その直後に岩田聡さんが社長に就任するからもう最後の頃に年頭のご挨拶にうかがったんだけれど分かっていない相手が来ると中座してしまうという噂を聞いていただけに、結構な勉強をして持論も持って会見に臨んだっけ。

 詳細はもう全然覚えていないんだけれど何度も「ゲームっちゅうのはやなあ」といった感じにゲームに関する持論ってものを話し伝えてくれようとしたことだけは覚えている。それほどのご老体には見えず矍鑠としていたんだけれどそれでもやっぱり自分の着想が、これからのゲーム業界にとって必要か否かを判断してさっと身を退いたんだろう。とはいえ後に岩田聡さんが話していたけどニンテンドーDSから始まったあの2画面というアイディアは、山内さんから出たものらしい。どこまで本当か、そして今のような使い方を想定していたかまでは定かじゃないけれど、何か新しいことをやりたい、そして面白い物を作ってみたいという探求心がなにがしかの形を生み、そして遊びをその上に作って新しい市場を切りひらいたってことは確か。これはグラフィックの高度化を探求したって決して得られない。そこが分かっている人、そして業界が意識せざるを得ない人がいなくなってしまうのは、やっぱりゲーム業界にとってひとつの大きな転機に成らざるを得ないだろう。だからどうなるか。それは明後日以降に一般層が東京ゲームショウ2013を見て、感じとり発信していく言葉や態度から見えてくるんじゃなかろーか。耳を澄まし目をこらして受け止めよう。

 そんな東京ゲームショウ2013のブースで見たことのあるキャラクターのポスターがあって、けれどもゲームではなく「11月23日公開」なんてあってこれは何だと聞くと劇場アニメーション映画だという。「ベヨネッタ」。あの眼鏡でグラマラスなお姉さんがはねまわりながらトゥーハンドで拳銃を撃ちまくるとゆーとっても痛快にしてビジュアルも最高なゲームがいよいよスクリーンで映像となって動くとか。とはいえ11月23日だなんてもう2カ月くらいしかない映画の話を終ぞ聞かなかったというのは驚きだし、これから2カ月でどこまで世間に浸透させられるのかも未知数。よっぽど秘密にしておきたかったか秘密にせざるを得なかったか。分からないけれどもこうして明らかになった以上は全力でプッシュしていきたい。監督の木崎文智さんには「アフロサムライ:レザレクション」の時に話を聞いたこともあるし、そのセンスならきっとやってくれるだろう。日本では無理でも世界は多いに受け入れる。待ち遠しいなあ。

 理不尽に対して声を挙げるのは構わないし、言いがかりに対して反論をするのは当然だけれどでも、ロジックが滅茶苦茶で中身はまるでステレオタイプな嫌韓嫌中の言葉は返って口にする側の脳味噌の錬度を疑われても仕方がない。とある新聞が「ワンパターンな『反日』論理ばかりをかざす韓国だが、アニメをめぐる事情をみると、日本を真似る“パクリ国家”という実像も見えてくる」ってコラムをウエブに載せていたけれど、その中身はもう「ワンパターンな『嫌韓』論調ばかりをかざす新聞」の典型。40年近くも昔のアニメ黎明期に国内でだってわんさか作られたどこかで見たことがあるぜ的ロボットアニメが韓国でも作られたことを今に引きずり、今なお「パクり国家」だと言ってのけるその無神経ぶりが傍目にも鬱陶しい。

 そもそもが日本のアニメーションだって黎明期に遡ればそこにウォルト・ディズニーがあってそれに追いつき追い越せでやってきた。技術を学び映像を真似しながらそこに独自の味や表現を加えて発展してそして今日に至った。カートゥーンのような簡略化された中に面白さをぶちこみ見せるアニメからもいっぱい学んで、そしてギャグもあればシリアスもある豊穣なバリエーションを築き上げてきた。その結果をもってクールジャパンだのと標榜してアニメは日本のお家芸、だなんて言い始めているけどそれをディズニーは、ハンナ・バーベラはいったいどう思っているのか。「ルパン三世」なり「天空の城ラピュタ」でロボット兵を見たフライシャー・スタジオは? 決して「パクり」だなんて思わないだろう。好きで作ってきたものが、認められ世界に広まりこれだけの繁栄を生んだんだから。

 それは日本を経由して世界に広がった技術や表現についても言える話。「テコンV」で学んだ表現や技術、そしてその後も吸収していった表現や技術を積み重ねた果てに韓国では圧倒的な画力を持った漫画が描かれるようになったし、アニメーションだって韓国にスタジオが幾つも作られ毎週のように作品が作り出されるようになった。フル3DCGの作品に関して言うならおそらくは日本すら上回る技術と表現力を持って世界のスタジオを相手にビジネスを展開しているだろう。そうした現状にまるで触れず知ろうともしないで未だに「テコンV」を持ち出し批判しようとするスタンスのど外れっぷりはいったい何だ。ただ相手を罵倒したいがために古い話を持ち出しアニメを持ち出し漫画を持ち出す。それを新聞の看板を背負ったサイトに書いて悦に入る。呆れられているとも知らないで。

 いや、問題は決してそういうスタンスが笑われ呆れられている訳ではないってところにあったりする。脚本や設定のローカライズというビジネス戦略上とても大切なことを挙げてパクりだとか言ってみたりする、そんな文章を喜び持てはやす勢力が一定数、いたりするから何というか薄気味悪いというか。「キャプテン翼」がイタリアでどう呼ばれていたのか知っているのか? さらにそうした声を拾い上げて濃縮するようにして言葉を発してそこに似た心情の者を集め……という循環が進んだ果てが今の口を開けば嫌韓嫌中タームを乗せてくる面々の登場であり表出なんだろうなあ。理不尽はたまらないし言いがかりは面倒くさいけれどもそれだって、根にある心情を解きほぐすことをしてこなかったからこその言い分。向き合い語り合う一方で認め合い、高め合うことでしか未来は開かれないというのに……。隘路に入って潰れるのはどっちが先だろうなあ。そうこうしているうちに独自路線を大市場をバックに貫く中国がどんどんと先に行くんだろう。そういう未来が待っている。


【9月18日】 昨日の訃報を受けて各紙が評伝を載せてきたトヨタ自動車の豊田英二さん。本田技研工業をゼロから立ち上げ町工場から世界のホンダへと押し上げF1という世界で圧倒的な強さを見せつけた本田宗一郎さんと比べて、あんまり目立たないその存在感だけれどこと自動車産業という場においては、本田さんですら遠く及ばない巨大さを持っていた人、ってことになるんだろう。だってトヨタ自動車だよ、もはや実質的には世界トップの製造業と言っても良いかもしれない会社を早くに亡くなってしまった創業者の豊田喜一郎さんから引き継ぐようにして支え、大きくしていった立て役者。戦後の大変な時もモータリゼーション華やかかりし時も踊らず、沈まないで自動車を作り続け、売り続けて来た。

 これといった発明をしたようにも見えないし、合併のような大きな転換期に顔をのぞかせた訳ではないけれど、日米自動車摩擦なんてまさに黒船の襲来をGMとの提携によって乗り切り、地味だけれど高品質の自動車を作り続けて一家に1台どころか2台3台とあっても不思議ではないくらいに一般的な物にしてくれた。真っ当なことを真っ当にやり続けることの大変さ。それを身をもって示した人が豊田英二さんだったって言えるのかも。見たことがあるのは1990年頃に東京証券取引所の担当記者を集めた懇親会に、豊田英二さんと2人で登場していた時かなあ、もしかしたらいなかったかも。いずれにしても23年も前の話。だとしたら77歳くらいか。そこからなおバブル崩壊を乗りきりアメリカでの訴訟沙汰もクリアして、今なお健全に健在な形の会社を守り続けた。その意志を誰が継ぐ? 儲けしか考えてなさそうな奴らばかりの中で企業を、城下町を、地域経済を、そして日本経済をどう守り育てていく? 正念場はまさにこれから。見守ろうその行方を。でもトヨタ車には多分乗らないなあ。

 これがAKB48だったら、例えば年に1回しか行っていない総選挙を、今度から2ステージ制にしてその都度1位を決めつつ、各期の1位から5位をそれぞれ選抜して、そこからさらに1位を選ぶようにしたら果たしてAKB48のファンは喜ぶだろうか。メディアは盛り上げる機会が増えてその都度テレビで放送したり、雑誌で特集したりして稼げるだろうけれど、ファンとしてはやっぱり年に1回、それもたった1回の投票だからこそ価値があると思って絶対に1ステージ制による1発勝負を維持しよーとするんじゃなかろーか。選んだ人たちをさらにじゃんけんさせ、腕相撲させ、のど自慢もさせて1位を選んで何が総選挙か、ってところ。Jリーグが2ステージ制の上にスーパーステージを乗せそこに年間1位を加えてチャンピオンシップを行うのは、そんな屋上屋を重ねて価値を毀損する行為に等しい。それを自分たちから率先してやってしまおうってんだからJリーグ、何を考えているかまったく訳が分からない。

 とはいえ、それほどまでに中身の無茶苦茶な改革を受けて、メディアが大騒ぎをするかと思ったらこぢんまりとしてあまりに気にしていないのは、それだけサッカーという競技が軽んじられている現れか。価値がないから軽んじられているのかそれとも軽んじられているから価値が下がるのか、そこがちょっと判然としないところだけれどもこれが例えばプロ野球で、リーグを廃止し1リーグにしつつ上位4チームがプレーオフに進んで優勝を決めるようにするといった改革を明らかにしたら、どれだけのメディアが大きく騒ぎ、そして選手会たちが騒ぎ観客も騒ぐのか。そう考えた時に、サッカー界への注目度の薄さ、関心の低さって奴が如実に見えてくる。どっちだって良いんだと思っているんだろうなあメディアも。

 けどそうやって衰退した国内リーグから次は生まれて来ない。というよりすでに下の世代での世界を相手にした時の弱さが問題となっている時に、若手の育成につながるようなリーグの在り方を模索せず、隙間のような試合で選抜チームを作って真剣じゃない勝負を戦わせるようなことをやってどれだけ効果があるのか。するべきはベストメンバー規定を廃止して若手がトップチームで厳しい試合の中に身を置き経験できるようにすること。そーした議論がまるで見えて来ないところも、サッカーを愛して止まないサポーターであり現場で指揮する監督でありといった人たちをして、2ステージ制への懐疑を抱かせる理由になっているんだろう。にも関わらず強行するこの裏にいったい何があるのか。危機感以上の実入りが約束されているのか。それは誰にとっての実入りなのかをつまびらかにしなければ、誰も納得しないまま不穏と不安の中で最悪のシーズンがスタートしてしまうだろう。天佑はないか。ないよなあ。むしろ胡乱な天の声のみ。そして未来は訪れず……。何か本当に泣けてきた。たとえジェフユナイテッド市原・千葉が当面2ステージ制の“被害”を受けそうもないとしても。こっちはこっちで泣けるけど。

 今年もプラチナ・ジャズ・オーケストラの季節がやって来た、って別に毎年1回ある訳じゃないけれど、それでも回数を重ねて3回目、スウェーデン出身のハウスの貴公子にしてアニソン大好きなラスマス・フェイバーが企画してアニソンをジャズにして演奏するプラチナ・ジャズ・オーケストラの公演がビルボード東京であったんで見物に行く。相変わらずゴージャスな会場だ。前回はちょうど「輪廻のラグランジェ」で中島愛さんがラスマス・フェイバーによるアレンジが入った「TRY UNITE!」を発表したこともあって1日2回のステージに登場して、それを見に行ったんだけれど今年はそんな中島さんがやっぱり登場することになりながらも、出遅れてチケットを抑えられず2日目の中島さんが出ない方を観賞することに。まあ前回見ているしってこともあったし、結果として面白い楽曲を聴けたんでこれはこれで良かったんじゃなかろーか。

 昨日聴いた人が出してるセットリストを見ると、どーやら中島さんはアンコール前に登場して2曲を歌ったみたいで、それに代わってオリジナルメンバーによる演奏はそこに長い長いメドレーを挿入。これは前日でも演奏した楽曲で、アニメ「けいおん!」から「GO! GO! MANIAC」を入れアニメ「日常」から「ヒャダインのカカカタ☆カタオモイ」を入れ、「るろうに剣心」から「そばかす」を入れ「みつどもえ」から「わが名は小学生」を入れそして「魔法の天使クリィミーマミ」から「デリケートに好きして」を入れてつないで繰り返したりするアレンジを見せ、さすがラストって感じに会場を盛り上げていた。「ルパン三世」の「スーパー・ヒーロー」とか「銀河鉄道999」とか「はじめてのチュウ」はその前に置き陽気でパワフルなニクラス・ガブリエルソンが晴れやかに歌唱。さらにそのに前にはエミリー・マクイーワンの「エヴァンゲリオン」から「Thanatos」と「創聖のアクエリオン」と「YAWARA!」から「ミラクル・ガール」を置く感じ。歌物を並べ演奏で締めるといった流れはなるほど演奏の実力も見て貰いたいジャズバンドっぽいかもしれない。

 だから冒頭から繰り出したのも演奏のみで歌のない奴で「ドラゴンボールZ」の「Cha−La Head−Cha−La」とそして水樹奈々さんの「Eternal Blaze」。これは中島愛さんが参加した回では演らなかった曲なんでチケットが取れずこっちに回った人にとっても良い思い出になったんじゃなかろーか。アイマスの名曲「READY!!」は何か定番になっていきそうな感じ。記憶だとウッドベースのソロがあって場に緊張感をもたらしてからこの、陽気に誘うような曲へと移っていった。これをオープニングに演った昨日も同じアレンジだったんだろーか、それとも前に2曲をやって3曲目となった今回ならではのアレンジなのか。そう思うと2日とも聴いてみたかったなあ。もうDVDは出ないのかなあ。

 そんなこんなで1時間と少し。いつもだいたいそんな長さで終わるビルボードでのライブはちゃんとアンコールにも応えてくれてそこでは階段に陣取ったソプラノサックスの人がちょい、ビブラートを聴かせた演奏をして雰囲気を深淵にしてから例のプロモーションビデオでも流れていた、何っていうんだろうシャンソンというか不思議な感じの演奏による「美少女戦士セーラームーン」の主題歌が始まって、ダグラス・アンガーによる絞り出すように野太い声で鳴り響くあのメロディでありながらもどこかパワフルな歌声でもってまったく新しいビジョンって奴を感じさせてくれた。アレンジって面白い。そしてボーカルって素晴らしい。そして最後は「カウボーイビバップ」の劇場版から「Gotta knock a little harder」をダグラスが歌ってエンディング。これも泥臭いロックを女声ではなく野太い男声で演ってくれて、会場がロックフェスの雰囲気に一瞬、包まれたような感じになった。こういうことを演らせても巧いのはバンドの技術が高い証拠なんだろう。

 それだけに毎回、東京2日と大阪で計6回くらいの演奏だけしかしないのは勿体ない。もっと広い会場で大勢の人に見てもらいたいけれど、そうなるとやっぱり人が集まるか、ってところになってしまうんだろうなあ、アニソンでジャズ、という好事家向けのプログラムをジャズだから聴く、アニソンだから聴くという人を集めてやっと。けどそれだけではホールには足りない。だからこそメディアがもっと取り上げ評判を高め実力を見せつけてくれれば有り難いんだけれど、そういう冒険をするメディアもそうはいないんだよなあ、新聞に載ったって記憶もない。どーしてなんだろう。既成の価値判断にのっかり安全牌ばかり紹介していて楽しいんだろうか。楽しくはなくても安心できるんだろうなあ。かくしてメディアはつまらなくなり、取り残されて見捨てられ、そして口コミで面白いものが伝わり広まっていく。これも時代か。


【9月17日】 発売日が過ぎたのに注文してあったアマゾンがなかなか来ないんでキャンセルして、書店で買った「ちはやふる」の22巻にくっついてきたオリジナルアニメを観たら扇風機の作画が凄かった。もう超リアルなフォルムでもって首をふってブンブンと回っている。様々なシーンに顔を出しながらレイアウトに応じて大きくなったり小さくなったりとサイズを変えつつ、しっかりと元のフォルムを維持してなおかつしっかりと首振りを続けている。これを作画したアニメーターの人はきっと大変だっただろうなあ。直線で構成される外側とそして回転する内側を同時に描きなおかつ回転も入れないといけないんだから。どんな天才だ。ってCGだよ。そりゃそうだ。

 ストーリーの方はといえば高校選手権で優勝しながらも千早は指を痛め個人戦に敗退してそして戻って病院に言ってそして入院。その間にいったいかるた部が何をしていたかて話を補うような内容で、それは文化祭に向けて出し物を考えるというものだったけれどもそこで出しゃばる花村菫ちゃん。憧れの真島部長といっしょに舞台に立ちたいと、西田とか他の面々がかるたのデモンストレーションにしようと言うなかを振り切り説得してどうにかこうにか演劇の方向へと持っていく。その逆転のシナリオはディベートとか会議の場で思うことを通すための参考に多いになるかも。机くんなら平成の文豪としてシナリオくらい書けますよっておだててみせたり。その目的は邪であっても情熱は岩をも貫くのだと知ろう。

 なおかつ配役でも綾瀬千早という本命がいるのにぶつかっていてこれを退けはしないまでも同列へと持っていくその突破力。思いの強さで何かをかなえることの大切さを多いに学んだ。それだけに本番があっなことになってしまって可愛そうではあるけれど、そこでもやっぱり持ち前の無駄美人っぷりを発揮してみせる千早はやっぱり最強だよなあ。そんな「ちはやふる」は22巻に続くかるたクイーンとそしてかるた名人への挑戦権を争う試合に決着。すでにクイーン戦は単行本の方で決まっていたけど名人戦は本誌でやっと明らかにされた。それは……読んでのお楽しみということで。あとは千早を巡る新と太一とのつばぜりあいの面白さか。千早は果たしてどっちを取る? 名人にしとけよって思うけど。親切そうだしかるた強いし和菓子おごってくれるし。

 いや別に現場には専門家を行かせてその声を元に判断したいという意見そのものに異論は誰もないんだよ。無駄に偉い人が行って周囲を恐縮させ混乱させるだけで肝心の作業がまるで進まず、無駄に終わるってことは過去に何度もあった訳でそういう反省に立って自分は現場に行かないと言うなら良いんだけれど、その代わりに家でやっているのが市政とは無関係の隣の市の選挙に関するツイートで、それも相手が忙しそうにしている渦中を縫うように誹謗中傷するようなツイートだから、誰もがコイツ何なんだ的な反感を抱く。「今回の避難勧告決定の過程での問題は、大阪市では勧告決定を判断したのに、お隣の堺市ではその時点ではそのような判断にならなかったということ。最後は副市長で調整して堺市でも勧告決定になったようですが。大和川を挟んでの左右で判断が異なることはやはり不自然です」っておいおい、うちんとことが先に退避勧告を出したからエラいのか。そういうものではないだろうに。何が適切に行われたかが重要だろうに。

 そうした過程も結果も伝えずただ早かった、だから自分は偉いが如きの自慢をそそろそ周囲も辟易として見始めている。だいたいが現場を良く知る者の判断に任せたいという言葉が、その場しのぎに取り繕うような言葉だと知っているから誰もが腹を立てている。例えば文楽の問題。それがどういう文脈でもって演じられどういう層に受け入れられているのかを専門家なら熟知し、その上でいろいろと改善案も提案できるところをこのおっさんは、まるで文楽に素人であるにも関わらず、現場の最前線に行ってはつまらないなどと言って理解を示さず補助金を削ろうとしてみせた。あるいは大阪市楽団の市事業としての停止。どれだけの歴史と実力を持っている楽団かはプロフェッショナルなら知っている。それを潰そうなんて普通は思わないところと素人が出しゃばって継続を断ち切ろうとしている。

 もう阿呆かと。戯けかと。それこそそういう判断は現場に任せろよ。ほかにも児童施設とか市営バスとか、あちらこちらの施設を潰し補助金を削り教育を改革しようとしているけれど、どれも自分にはまるで初めての分野。だって弁護士なんだから。そしてタレントなんだから。知っているはずがない。府知事をやったって県知事をやったってそういう部分に詳しい訳では絶対にない。にも関わらず気分とそれから見栄えでもって何かしようとするその行動パターンを、世間はもう十分に分かっているから今回の一件だってああまた言ってるその場しのぎをと誰もが感じて呆れてる。それを分かっていないのは本人だけ、なら良いんだけれど信者はまだまだいるからなあ、社会にもメディアにも。だから生き残り、生き延びる。やってられないだろうなあ、あの界隈の人たちは。

 GHが未だに何の略だか分かっていない「月刊ヤングキングアワーズGH」の2013年11月号に「球場ラヴァーズ」で広島カープを持ち上げている石田敦子さんが遂にグラビヤガールとして登場しては広島市民球場、ではなくマツダスタジアムのマウンドに立って前田よろしく始球式を務めている姿を披露している。ずっと広島を応援してきてようやく広島球団にその活動が伝わってのキャンぺーンの起用、そしてマウンドへの登場となって当人の喜び具合たるやいあかばかりか。そこまでのめりこめる対称を持てるというのは実に幸せなことで、例えば当方に当てはめてみてジェフ千葉の試合でボールボーイを務められて嬉しいかっていうと……ってな感じに対象への愛がやや朽ちかけている。たった5年下部組織にいるだけなのに、ってまだ4年? いや来年もいそうだし……っていうのも愛の朽ちかけている証拠。けど広島の人は21世紀に入って優勝を見ていないにも関わらず、応援し続けられる根性を持っている。そこが凄い。それが素晴らしい。野球ってだからやっぱり深いスポーツなんだよ、歴史も、中身も。学ばないとねJリーグも。

 とはいえそんな愛を向こう側からひっくり返そうとしてくれているからなあ、この期に及んで2シーズン制なんてものを導入しようとして。なおかつどっちの1位どうしが戦うってんじゃなくってそれぞれの上位チームがトーナメント的に戦って優勝を決めるというから分からない、それはリーグ戦なのかカップ戦なのか、1発勝負のカップ戦ならナビスコがあり天皇杯があってそれでジャイアントキリングの楽しみは存分に味わっている。リーグ戦にはそれとは違った年間平均しての力、すなわちチームとしての総合力を感じ取りたいのに、終盤での調子が左右しそうな仕組みと持ってきた。それで瞬間の力は試せても、総体の力は見られないのに。2シーズン制の再会にサポーターの誰もが反対しているのはだからそういう理由があるからなんだけど、でもリーグは導入してくるんだろうなあ、まずやるべきことがあるのに、ベストメンバー規定なんて非サッカー的な制度とか。やらないんだろうなあそういうことは。かくして衰退は始まり消滅へと至る。まあどっちにしたって2シーズン制に絡むリーグに昇格できないんだけれどね、我がジェフ千葉は。はあ。

 そして夜のバルト9で「009ノ1」。Vシネマみたいなものかなあ、なんて半分は興味本位で見にいったらこれがもうアクションが半端ない。1対1も凄いし1対大勢も途切れなく入れ替わり続くアクションに魅了された。乳とかパンツとか気にならないこともないけどそれよりアクションに目を奪われた。さすがは坂本浩一監督、スタント時代にアンジェリーナ・ジョリーと対峙しただけのことはある。もちろん「仮面ライダー」とか「パワーレンジャー」のシリーズなんかでもアクションは見せてくれているんだけれど、そういった所ではあまり使われない当たると痛い肉と肉とがぶつかり合うような体術メインのアクションって奴をこの映画では見せてくれている。スピードもあれば重さもあって迫力も十分。エロいシーンも少なくないけれどでもやっぱりアクションをもっとみたくなる。上映後にはティーチインもあって坂本浩一監督が登壇。とてもいい人そうだった。でもアクションは血まみれだ。そういう人なんだなあ、「赤×ピンク」を撮る人なだけに。凄い映画になりそうだなあ。


【9月16日】 渋谷方面でイベントがあるんでさて行くかと家を出て、見渡すと地下鉄東西線は風雨の影響で止まってしまっていて、それならとJRの総武線快速なり、各駅停車なりに乗ろうとしたらこちらも風の影響で江戸川が越えられず、全線がストップという状況。京成はしっかり動いていたみたいだけれどもこれだって、いつ止まるか知れたものではないと思うともう千葉県から東京都へと入るルートは閉ざされたも同然。あるいは行けても戻ってこられるという保証もないんで渋谷行きは諦める。見たかったんだけどなあ、冨田勲と初音ミクのコラボレーション。これが最後になってしまう可能性もあるだけに。まあでもこれだけ人気の演目、またやってくれると信じて待とう。時間が経つほどにバージョンも上がってより凄い作品になっていくだろうものだから。

 仕方がないので戻って船橋駅にあるくまざわ書店で店頭に並び始めた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」に関連した一番くじを試しに2回くらい引いてみたら、1枚は碇・シンジがピアノに向かうヴィネットで、そしてもう1枚はフィギュアのアヤナミ(仮)が当たってラッキー。本当を言うなら眼帯のアスカのそれも後半ピタピタプラグスーツバージョンが欲しかったんだけれど、眼帯だったら前半のガムテープ補修バージョンを持っているからまあ良しとする。マリのこれも体ピタピタプラグスーツで胸しっかりバージョンも欲しかったなあ。いずれどこかの店頭に並ぶこともあるだろうからその際に。ほかにシンジくんとかカヲルくんもあってこれがまた艶めかしい作りで、2つ集めて2つ並べると夜中にごそごそし始めそう。何をする? それは想像の中で。ごそごそと。しこしこと。ぱんぱんと。

 まあそれでも関東は風くらいで済んで、といっても埼玉ではあまりに強い風に家が飛ばされたりする被害も出て大変だったけれどもこれが関西ともなるととてつもない雨によって京都は嵐山にある桂川が増水して渡月橋なんかが水没しかかったりして大変だった模様。行ったのはもう大昔で周辺がどうなっているか知らないんだけれど、そんなに水量も多くなく土産物屋が軒を連ねて賑やかだったという記憶はある。それがあの増水っぷり。余程の雨が降ったんだろう。それから大阪も水量が半端でなくって相当数に避難勧告が出た模様。だっていうのに市長殿は市外にある家にこもってツイート三昧。別に首長が先頭に立って旗を振る必要はないんだけれど、緊急事態に備えて詰め所にいて情報を集め吟味し指示を飛ばせるようにはしてないと、深刻な事態へと至った時に拙いような気はする。

 それが自宅でツイート。それも目下の災害とは無関係な堺市長選挙をめぐって大阪都構想がいかに素晴らしいものかっていう根拠のない自画自賛だっていうんだから、大阪市民も堺市民も嫌になるだろう。改革は必要だっていうけどそれが堺市を大阪都構想に引き入れることによって解決するかっていうとまるで別。財源が足りてないなら大阪市あたりから回せるんだけれど、財源が足りてないのはどちらも同じ。ならより住人の多い方へと吸収されていくのが世の倣いって奴で、堺市はそうした大阪市救済のために栄養源にされかねない。それが分かっているから二の足を踏んでいるのに市長殿はやってみなくちゃ分からない、必要なのはまず改革だとか抜かしてる。

 まるで根拠もなしにひたすら拡張拡大をやってその場を取り繕うのってそういや昔見た光景でもあって、大阪と堺に関するツイートを元にするなら「結局、大東亜共栄圏に反対するのは、現在の大日本帝国、首相、帝国議会を維持するというだけ。現状維持。現状維持に発展、未来はない。今、日本国は衰退の一途。山村漁村など酷い状況。日本国の力だけではどうしようもない。そうであれば、自ら未来を切り拓いていくしかない。挑戦だ」って話になる。それをやって大陸に雄飛し南方へと進出した挙げ句に日本はどうなったか? そして戦後に日本は自力でどれだけのことを成し遂げたか。そう考えると範囲こそ現状維持どころかより縮小しながらも、独自にひとつの行政単位でやれることはいくらだってある。そして周辺市域もそれに倣いつつ切磋琢磨し発展していく道だってあるのにまず都構想ありき、合併ありきで喋るから誰も信じない。いや世間には信者ってのがいてまず信じるところから始める人とかいたり、メディアとかあったりするからなあ。それも今回の醜態で少しは醒めたか? いやいやさすがは市長殿、高所からすべてを見ていると囃しているか。参ったねえ。別に堺市民でも大阪市民でもないんだけれど、真っ当が駆逐され間抜けが称揚される世間ってのはろくな物にはならないから。本当に参ったねえ。

 これは良い。面白い。亜空雉虎さんって電撃小説大賞で最終候補くらいまで残りながら落ちた人の作品を改稿して出した「双星の捜査線 −さよならはバーボンで−」(電撃文庫)は、刑事物でバディ物で幼女物でSF物で巨悪vs個人物で何より傑作物だった。優秀だけれどトラウマがあるのか銃が撃てず、警察組織にあって凶悪犯罪を専門に担当するC.S.Cという特殊部隊を希望しながら入れないでいた新米警官のシンゴに、C.S.C創設の立て役者でかつて自分を救ってくれたこともあって心から敬愛しているる署長から仕事が入る。それは、女性3人を殺し追うC.S.Cの凄腕3人を殺したハリーロイドという犯人の行方を終えというもので、そしてシンゴには脳内に感覚や知識を増加し強化する<ユニット>を多数埋め込まれた検体の少女マリィがパートナーとしてあてがわれる。

 麗しき美女、という訳ではなくってむしろまったく逆の風貌。というのもマリィの見かけは12歳くらいで小さい体に大人向けのトレンチコートを羽織っているというからもうコメディ。なおかつ喋る言葉はしたらず。それでいて中身は真っ当というからもう訳が分からない。どうしてこんな少女が生まれたか。それはユニット増設の影響で人格変容を起こしていたかららしく、人によっては自分の本当の意識すら塗り替えられてしまった彼女を不憫に思いそう。もっともそんなマリィは同情なんて寄せ付けない達観ぶりと有能ぶりで、どこか弱気なシンゴ巡査を引っ張り捜査へと向かう。

 しかし。ハリーロイドという凄腕の殺戮者を追う中で、いろいろなことが見え来てシンゴを悩ましマリィを苦しめる。それは、シンゴに自分の寄って立つ場所、そして組織への敬愛と忠誠をも揺るがしかねない事実を突きつける。ただの青年と少女による警察ストーリーに見えた物語が、一気に広がって読者を同じような葛藤の中におく。その一方で脳にあれこれ埋め込む手術の非合法で非人道的な様、けれどもそうやって生まれてしまったマリィに落ち度はなく労りすらも必要なしに対等に向き合ってあげることの必要性なんかも浮かんでくる。相棒の間に嘘も上下関係もいらないのだ。

 追っていたハリーロイドを見つけ、そして起こった事態から急展開してその身に迫る危機をシンゴとマリィはどうしのぐ? それが街を脅かしかねない事態を招いたとしてもどう取り組む? 迫られる決断。その答の正否を読者として考えてみたくなる。能力を拡張できるSF的ガジェット、それがもたらす無敵の超人ぶり、けれども道理があるなら隙間もあるという中での戦闘描写もあってスリリング。人間に眠る可能性めいたものも指摘されこの先の展開に余韻を残す。凶悪にして強敵のライバルも残し最低の所から再起へと向かわなくては行けないシンゴたちに新たに迫る危機も想定しつつ、今度は世界レベルで何かが起こり、それに立ち向かうような話しになるのかもっと身近な話しになるのか。続きがあるなら楽しみだし、そうでなくても奥深い物語を軽快に描ける作家の同情を喜びたい。


【9月15日】 見渡してまだ天候も良くこれなら千葉まで全員が来られるだろうと思い支度して京成ローザで開かれる「小鳥遊六花・改 〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜」の舞台挨拶付き上映を見に行く途中で、せっかくだからと同じ京成ローザで上映されている「コードギアス 亡国のアキト 第二章 引き裂かれし翼竜」を見る。3度目。ちなみに特典のフィルムはまだもらえて今度は暗い場所でお仕事に励むレイラ・マルカル様だった。どうせだったら猫をお腹の上に置いて寝転がっているネグリジェのシーンだとかが良かったといえば良かったけれども贅沢は言うものじゃないってことで。どうせフィルムなんて小さいコマに過ぎなくってそれをプリントする機械も何もないんだから。特典フィルムのデータ化のためだけにスキャナ買うってのもなあ。それはいずれ。

 3度目ともなると見所はだいたい把握していて、気分を休めつつも肝心の場面では目をカッと見開いてそのシーンをしっかり脳内に焼き付ける。例えば香坂アヤノが監視カメラへと前屈みになって胸の谷間をしっかりと見せつけているシーンとか、レイラ・マルカルがパイロット用の体にピタッとしたスーツに着替える場面とか。あれだけのボリュームを収めても潰すことなくボリュームを維持しながらちゃんと収まるんだからいったいあのスーツはどれだけ弾力性と伸張性があるんだ。聞くところによればアヤノはレイラよりもさらに大きいそうでそれでどうやって収めているな。考えると夜寝られなくなってしまう。中でどうなっているかも想像してしまうし。蒸れたりするのかな。そんなシーンをあと数度、見に行ければ行きたいけれどもフィルムの特典もなくなると行く気も静まりそう。その辺りを見計らいながら考えよう、次の観賞を。

 そして「小鳥遊六花・改 〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜」。すでに試写で1度見ているから大まかに言えば総集編でそこに新作の部分が付け加わるといった感じに「STAR DRIVER 輝きのタクト」と同じ手法がとられているとは分かっていたけど、それを見せられてやっぱりただの総集編かと言う人もいれば、だからこそいろいろなキャラクターたちの表情が見られて楽しいと思う人もいたりと結構反応は様々。僕はといえば原作派であってテレビシリーズは放送局の関係で1話も見ていなくって、だいたいの状況は知りつつ映像はほぼ初見だったという変わった立場。それでもキャラクターの心情は原作版を元に推察できたし、こういう風に原作を変えストーリーを作りシリーズを展開していったのかといった了解も得られてなかなか面白かった。

 作品として考えるならもっと起伏をつけ時系列も入れ替えストーリー性を持たせて繋ぐことだって出来ただろうけれども、そこは第2期へのつなぎという意味合いも含め、時系列を崩さないで全体像を見せようとした、って理解。あとはキャラクターたちの表情や可愛らしさを存分に楽しんで貰おうとするファンムービー的な位置づけか。チョップをくらったりして痛がったりしゃがみこんで頭を抑えて涙目になったりする六花の表情と口調の可愛らしさを、大きなスクリーンで見られる機会なんてあるものじゃないし、モリサマーが自分の過去を指摘されて魔法陣の上をのたうち回るシーンだって、その仕草その表情その声をたっぷり味わえてとても良かった。そして勇太。ダークフレイムマスター化した時の格好良くも痛々しいあの口調を、「亡国のアキト」でちょい似た声の人を見たあとに続けざまに聞かされるとうのもひとつの至福。声優さんってお仕事の大変さと面白さを噛みしめられた。

 そんな声優さんも勢ぞろいした舞台挨拶、というか声優さんと監督した登場しなくて司会が質問を振ったり進行をしていくようないつものパターンではなかったのがちょっと意外で、そしてとても面白かった。これはよっぴーとかライターの方の小林治さんとか藤津亮太さんとか鷲崎健さんとかの司会が多かったアニメ映画の舞台挨拶にひとつの革命をもたらす取り組みか? はたまたギルド化する舞台挨拶司会業への挑戦か? そんな大袈裟なものではなくって、ひとつのチームとして出来上がった声優さんたちだからこそお互いにネタを振り合い答え合いながら場を作ることが出来るって判断があったんだろー。そう思いたい。そんな舞台挨拶によれば、映画版では声とかの録音を全部やり直したそうなんで、新作部分でなくても演技の深化が楽しめるかも。テレビシリーズ見てないんで違いが分からないんだけれど。

 舞台挨拶ではお互いに映画とかで好きだったシーンとか聞いていったパートがあって、誰だっけ上坂すみれさんだっけが終盤で六花の眼帯が何度も落ちかけ「あっおちた」とか言いつつはわわわする場面を挙げていた。あそこは確かに可愛い。ああいう仕草を描けて入れ込めるクリエーターなり監督の判断力が京都アニメーションの作品をただ漫然と見るだけじゃなくって細部にも目を配って念入りに見たくなるようなものに仕立て上げているんだろうなあ。細かすぎて伝わらない時もあるけれど、だからこそ見返ち学ぶ意味もあるってことで。石原立也監督が挙げたのは、パパパパパパっと切り替わりつつ字だけ分かるというタイトルのところで、何でも何カ月かかけて120枚くらい写真を撮り続けてそれを繋げたものらしい。一瞬で終わるけれどそこにどれだけの工夫と苦労が隠されているか。それを確かめにあと1度くらいは見に行っても良いかな。良いのかな。

 そんな舞台挨拶の中心にいた内田真礼さんが「うちだ・まれい」ではなく「うちだ・まあや」と読むんだということを今さらながらに知りつつそして、その内田さんが「ガッチャマンクラウズ」では一之瀬はじめちゃんを演じていることにも後で気づきつつ、演技ってものの凄さを感じ取る。六花の弱々しくも初々しい声とも、はじめちゃんの高らかに能天気な声とも普通に喋る声が違ってた。もうちょっと低めで落ち着いた声。それが演じるとああなる。あるいは演じないで低めに普通に出すことだって可能なのかもしれず、それだといったいどういう声になるんだろうかとも想像してしまう。そういう演技を求める場がないんだとしたらそれはそれでちょっと勿体ない気も。実は上品で毅然とした大人の役だって出来るのかもしれないのに、そういう場を与えられないままアイドル的に旬だけクローズアップされては女性声優さんもたまらないだろうし。それを当人が良しとしているならまた別だけど。どういう役者になっていくんだろう。関心を持って見ていこう。

 ここまでいろいろと揉めたりしている相手を何かする時に、企業が段取りを手抜きする理由はなくしっかりと交渉もして了解も得ていると考えるのが真っ直ぐな思考であって、そしてけれどもそうした交渉がなかったかの如き言われようをして、両者間の信頼関係のみならず当該企業への外部からの信用が大きく損なわれる状況となっているのは、企業としていささか困る事態であって、言ってしまえば業務妨害とも名誉毀損とも言えそうな事態を、そりゃあ甘んじて受け入れる訳にはいかないということで、状況を説明する文章を掲出したんだとこの場合理解したんだけれど、それでも企業側に落ち度があるとか相手方を守ろうとしないのは何故なんだと言われても、そりゃあ企業としては困るわな。しかしこれも真っ当に法務なり組織が機能していた場合の話であって、やっぱり変わらず旧態依然を押し通そうとしたという可能性もゼロじゃないだけに、どちらに正義があるかは不明。どうなんだろうねえ。

 あと言えそうなことは、ここのところしばらく、直接的な交渉はもう行わずに間に代理人なりマネージャーなりを立てて交渉はそっちに任せて、自身はクリエーティブに専念という姿勢を立てておいた以上、たとえ自身の耳に届かなくても、下で何か交渉事があったとしてそこで決着していたという可能性も皆無ではなかったりする訳で、にも関わらず自身が聞いていなかったといって下に状況を確認もしないまま発言したことの、その部分のみ取り上げられて企業側が拙速だったと批判にさらされてはやっぱりたまらないものがある。もちろん交渉があったかなかったかという部分も解明されていないだけに、そのあたりをやっぱり白黒つけた上で、落ち度がどちらにあったのかをはっきりさせないと、いたずらにいずれかへの不信が広がって行きそう。あるいはそんな情勢を理解した上での総編集長名での文章の掲出だったと考えるなら、何かちょっと悲しい方向へと収斂して行きそうな気もしないでもない。どうしてそうなってしまったんだろうなあ。


【9月14日】 そして早朝に起き出して昨日の夜の11時前までいた新宿バルト9に今度は朝の7時半にはいるという。だったらずっと居続けてオールナイトで見ていた方が良かったんじゃないのと言いたいけれどもそーゆー親切なプログラムを組んでくれる映画館ではないのだった。「009ノ1」だってそんな明け方まではやってないしねえ。仕方がない。だから帰って眠り起きてそして再出発して到着した新宿バルト9で「コードギアス 亡国のアキト 第二章 引き裂かれし翼竜」を観賞、その前に入場者プレゼントとして配られた生コマフィルムを見たら美少女キャラではなくってシン・ヒュウガ・シャイニング卿だった。これはこれでまあメインキャラ。あるいはラスボス系。人気もあるから良いんだけれど人によってはベッドでネグリジェ姿で横たわるレイラ・マルカなんてのももらっていたりするからなあ。運があるのかそれともないのか。

 そんなシン・ヒュウガ・シャイニング卿もきっと第三章ではもっと目立ってそしてもっと派手に悪巧みを繰り広げてくれそう。何しろ日向アキトが今みたくとてつもない殺戮マシーンになってしまったのも、その影響で佐山リョウと成瀬ユキヤと香坂アヤノがやっぱりとてつもない腕前を見せるようになってしまうのも、すべてはシン・ヒュウガ・シャイニング卿が過去に行った所業のせい。そして彼は日向アキトをブリタニアへと誘いそれに対して決然と範囲を示すアキトとの間でもう激突は必死。相手はヴェリキンゲトリクスなんて過去に登場したナイトメアフレームなんて目じゃないくらいに異形で異色のそのスタイル。強さも相当な物らしく醒めていたとはいえそれなりな技量を持つアキトに一切の反撃を許さず両腕を切り、両足を切って這い蹲らせる。

 いったいどういう取り入り方でもってイレブンが騎士の座にまで上り詰めたのか。スザクの場合はユーフェミアという後ろ盾があって取り立てられたよーなものだけれどマンフレディにそれだけの力があるとは思えない。あるいは義父と義母のシャイニング家が相当な名家だったりするんだろうか。彼をお兄様と慕うアリスに不幸が起こらなければ良いんだけれど。ともあれ邂逅があって動き出した物語の中でだんだんとレイラ・マルカの存在感が薄くなっているのが気に掛かるところ。戦闘場面ではアキトから着いて来いと言われ着いていったらすぐに離れていろと言われてどうしたら良いの状態。戦力にもほとんどならないまま1人、ナイトメアフレームごと残ってしまうそのお姫さまっぷりではこの先、利用されてもみくちゃにされて捨てられやしなかと心配になる。

 ナイトメアフレームに登場する時の体にピタピタのスーツ姿から見るにとてつもなく胸が大きいからそれはそれで十分って意見もあるけど、どうやら香坂アヤノに比べると小さいらしいしなあ。ってかあの2人、どーやってナイトメアフレームのコックピットでハーネスをはめているんだろ。苦しくないんだろうか。そんな感じに見どころは沢山。そして謎も沢山。最後に出てきた尊大な軍師様とかいった何物? そして第一章で予告されてたC.C.の登場は? クラウス・ウォリックも何か怪しそうだしなあ、エニグマめいたものをこっそり使っていたりしたし。いろいろ怪しい奴続出。一方で強そうな奴も続々登場となってこの先いったいどこに落ち着くの。すでにして「コードギアス反逆のルルーシュR2」でもって帰結は決まっている世界観の狭間で何が起こりそれが世界をどう変えたのか。楽しみにして見ていこう。いつ終わるか分からないけど。

「天体少年。 さよならの軌道、さかさまの七夜」(メディアワークス文庫)って傑作SFラブストーリーを書いて注目を浴びた、っていうかハヤカワ以外は無関心なSF世間からはまるで無視されていたりする渡来みなみさんが今度もまた、SFに関わりの深そうな作品を今度はメインレーベルの電撃文庫から刊行。その名も「葵くんとシュレーディンガーの彼女たち」(電撃文庫)はSFなんかでよく引き合いに出される「シュレーディンガーの猫」みたいに、観測者の立場によって存在していたりいなかったりする彼女たちの物語。つまりはタイトルそのまんまで、葵くんという主人公の少年が観測者となって少女たちの存在を左右する。いやもうすごい責任。だって彼がいないと思えばいなくなってしまうんだから。

 どういうことかというと主人公の葵くんは、生まれながらに目覚めると前と違う世界に存在するようになっていて、幼い頃はそれと気づかず周囲を混乱させた。だって昨日と今日とで幼稚園のクラスが違うんだもん、そんなの子供にどう分かる? けど教えられたのはバッジの色だか形によってクラスが分けられているということ。それを知って子供心に今日はこのバッジだからこのクラスだって迷わないようになる。頭良いなあ子供のくせに。そうやってだんだんと立場を理解するにつけ、あっちこっちに飛んでいた世界がだんだんと幾つかの世界に収束されて来て、最近は隣に真宝という同級生の少女が住んでいるか、微笑みという上級生の少女が住んでいるかという世界を行ったり来たりするようになっていた。つまりはその2人にのみ関心があったということ? でも2人だよなあ「ふたまただ」だよなあ。絞れない優柔不断が生んだ多世界、とも言える。

 まあそれでも行ったり来たりを戸惑わない範囲で暮らしていた葵くんの日常に変化が起こる。きっかけはささいなこと。真宝が熱心に活動している演劇部の出し物のアイディアに詰まった時、彼女にパラレルワールドをテーマにしたらと助言する。そして葵くんが目覚めると、隣家に舞花という少女が住んでいる世界に飛んでしまっていた。今までは少年だけが見知っていても、そこに暮らす人にはまるで無関係だったパラレルワールドの存在が、この舞花という少女はすべて知り尽くしていた。彼女が言うには自分は多世界観測者で、あらゆる世界に存在する自分と意識を共有しているのだという。そして葵くんは観測者。その気持ちが世界を変化させる。あるいは自身が望む世界へと移ってしまう。

 そして世界は歪み始める。いやむしろと整えられるといったところか。真宝といたい。そして微笑ともいたいという気持ちが重なり合って世界の収束が始まる。なおかつ揺れる主人公の心で、世界はやがて崩壊の危機にすら直面する。それは拙いと少年は決意し動いて世界を導く。どちらへ? ここで繰り広げられている量子論とか多世界解釈とかいった理論が、そのまま当てはまるかどうかはちょっと難しすぎて分からない。観測者の葵が一人称として存在しているけれど、別の世界の葵はだったらどう考えているのか、観測者としての力は持っていないのか、その意思がぶつかり合ったりしたら混乱はなお酷くなるのか等々、考えると夜寝られなってしまうくらいに分からないことが多すぎる。

 でも考えようによっては、例えば意思によって世界を選べるとしてそれが幾つにも別れていた時に世界はどういう形になるか、そして揺れる心理の中で決断を迫られた時にどうすべきか、ってことは伝わってくる物語。結論から言えば「ふたまた良くない」ってことだけど、主人公の場合「みつまた」だからなあ。もっと自分の意思で選べよとは言いたい。まあでもだからこそ世界は収束して崩壊せずに並立して安穏と流れていく訳で。あと観測者による世界の収束から、舞花のよーな多世界観測者は逃れ得るのかとうかとか、分からないところもあるけど、そうした思考実験を余儀なくされるところも含めて意欲的な作品であることは確か。詳しい人、是非に挑戦を。そして解明を。いずれ本格的なSFも書いてほしいなあ、渡来みなみんには。

 スペースクラフト所属の女性シンガーがずらり勢ぞろいするMUSIC ENERGY2013を見せて貰う。トップバッターとして出てそしてトリも務めたKalafinaはやっぱり音が分厚いなあ、アンサンブルが重なるともうそこに独特の世界が生まれてくる。今回はいろいろなアーティストが出てくるフェスっぽいイベントなんで人気の「oblivious」と「sprinter」を演ってくれたのがとても良かった。「空の境界」関連。「未来福音」の公開も近いし「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版ファイナルもあったりしてきっと楽曲も提供してたっけ、覚えてないけど忙しい日が続くだろう。フェスには何か出たっけ。ANIMAX MUSIXとか? 調べておこう。

 ANIMAXといえば春奈るなさん。主催している全日本アニソンコンテストから出てきたシンガーで、当時は優勝じゃなって多分河野マリナさんが優勝したって記憶があるけれど、読者モデルとして活動していた経歴もあって雰囲気はあって、そして歌の巧さについてもピカイチだった。モデル出身ってこともあってどこか深淵なイメージで売り出すのかと思ったら、割とポップなチューンも歌わせていてそれにちゃんと声が着いてくる。巧い巧い。というかスペースクラフトの錚々たる歌姫たちに並んで遜色のない音程の確かさ、声の綺麗さはきっと期待できる。ワンマンライブもあるみたいだし、行けたら行くか。

 驚いたのは小川真奈さん。「SWEET&TOUGHNESS」って南青山少女歌劇団世代なら懐かしい曲を演ったんだけれど僕はそっち派じゃなく、でも聞き覚えがあってどこで聞いたんだっけとかなえていたら本人が、かつて南青山少女歌劇団に所属していた南里侑香さんと話す中でどういう経緯で歌ったのかを説明していて、「キャナァーリ倶楽部」で演ったと話して思い出す。おがまなじゃん。時東ぁみさんを追いかけていたとき、つんくさん関連ってこともあってその周辺で割と名前を見たし、もしかしたらパフォーマンスも見てたかもしれない。でもってDVDを買ったってことは日記にしっかり書いてあった。どこに仕舞ってあるんだろう。もう6年も昔の話。ってことは14歳とかそんなものだったのか。大きくなったなあ。何か年末に藤谷治さんの原作を元にした交響劇「船に乗れ!」に出演するそうなんで見に行こう。キャスト表で3番目に名前が来るってことは相当に大きな役か。期待しよう。


【9月13日】 どうやら葛西臨海公園だけではない東京都内のスポーツ施設のスクラップ&スクラップ&スクラップ&スクラップ&スクラップ&スクラップ&スクラップ&ビルド。大井埠頭にある野球場は6面が潰されてホッケー場になるそうだし、夢の島にある陸上競技場とか野球場なんかも潰されて別の何かになるらしい。なるほどむしろそんなに野球場っていっぱいあったのかって驚きたくもなるけれど、サッカーと違って割と広い世代に浸透している草野球。それを楽しむ人の数もやっぱり多くてそれらを吸収してもなお足りない状況だったのがこれで、もう二進も三進もいかなくなってしまいそう。それこそ回転を早くするように野球は5回まで、なんてナベツネさんが五輪への復活にあたってそれくらいの改革をしなくちゃダメだと言っていたような。もはやスポーツじゃなくなるけれど。

 葛西臨海公園の渚や森をぶっつぶして生態系をぶっ壊して土を盛り上げ水を持ってきてカヌースラロームのコースを造るなんて愚劣はさすがに日本野鳥の会m反対しているし、自然を愛する皇室なんかへの顔向けなんてものも意識し始めれば流石に撤回されるだろうとは思いたいけど、野球場とか陸上競技場については例えば夢の島だと江戸川陸上競技場があるじゃんとかいった話にすり替えられそうで、そのままゴーサインとか出てしまう可能性が大。ホッケー場は駒沢にもあるそうでそこの整備を考え始める可能性もあるけどコンパクトに拘るあまりに他を斬り捨てかねない独善独断知事がいるからなあ。これもあるいは別口からのプレッシャーが必要か。ともあれまだまだいろいろ起こりそうな会場騒動。だったらうちにと大阪の某市長が手を挙げそれならリニアを早く通せと叫んだりして。それだけは無理。絶対に無理。

 ルティエルさまにはもっと大活躍してザンネンファイブから直接遺伝子をちゅぱちゅぱするようなシーンとか見せて欲しかったけれどもやっぱり誇り高きウルガルとあって戦いで臨みそれに敗れてあっさりと退場。残る面々も少なくなってくるなかで本格的に始まったゲート破壊作戦だけれど相手もさるもの、バリアーでもって遠距離からの射撃を向こうにしてなおかつ増援も送り込んで地球側を徹底的にたたきにかかる。ザンネンファイブの前にはジアートが現れ姿が見えないレッドファイブことヒタチ・イズルよ出てこいと挑発気味の戦い。ならばと見捨てておけないとイズルが飛び出し覚醒し、ジアートと対峙しつつ一方ではテオーリア姫が自分をさらしてウルガル全軍に呼びかける。そのご威光はやっぱり効くみたい。けどゲートは破壊できないまま、いよいよ始まる大作戦の行方や如何に。お兄ちゃんならぬパパと叫ぶイズルが見られるか。面白いアニメになったなあ。「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」は。

 いったいどのあたりに来ていて誰と何のために戦っているのか見えづらくはなっていてもまあ、時々のシチュエーションが面白いからそれはそれで良しとしたい「新約 とある魔術の禁書目録8」はレヴィニア・バードゥエイだっけ、何かの魔術団の偉そうな幼女とそれからレッサーってこれもどこかの魔術団に属して上条当麻にくっつきロシアまで行った少女がなぜか当麻の寝ているバスダブに入ってきて添い寝している場面から始まりどうやらグレムリンとかいう団体を相手に本格的な決戦を始めるとかどうとか。相手はなかなか強敵な上に神出鬼没でそこにありそうだって場所に送り込んだ英国王女のキャーリサ姫の裏をかいくぐってとんでもない場所に出現する。学園都市以外では日本のほかの都市が戦場になるのってこれが初めてくらいだっけ。リアルに迫る戦いの息づかい。でもまあそこは上条当麻あけあって全部まとめてぶち殺してくれるかな。流石にそういう段階でもないのか。どこへ向かうか「禁書目録」。そして御坂美琴との関係は。インデックスちょっと活躍した。

 そうですかペガサス文庫ですかまたしかし冒険したなあエンターブレイン。かつて角川書店だかが官能的な本を出すってことで富士見書房を立ち上げたって話があったけれどもそれも時代が変わってエンターテインメント系を出し始めてファンタジア文庫で様変わりして今では立派に主要部門となっていたりする。でもペガサス文庫はファミ通文庫なんかを出しているエンターブレインが主体となって刊行するみたい。まあネットだけに止めているのは版元の良心って奴なんだろうけれど、開くとそこにキーワードとして「百合」「姉妹」「ナース」「陵辱」「時間停止」に「中出し」「完墜ち」「バキュームベッド」と普通に売られているアトミックだとかかつてのナポレオンといった物にも負けないタームが堂々並んでる。いやしかしそいうのってニーズが今どきあるのかねえ。小説で官能を惹起する時代でもなさそうな気がするんだけれどそれでも店頭では買いづらい人が、ネットならと購読に向かうのかも。1冊くらいは読んでみるか。SFはないだろうなあ。

 新潮社がある矢来町のその裏あたりに位置するeitoeikoってギャラリーで1日、展覧会「10年代の無条件幸福」が延長されて開かれているってんで早速見物に。いや早速も何も最終日を過ぎているから遅きに失した感はあるけどいつか行こうと思っているとついつい行き逃してしまうものだから仕方がない。んでもって展覧会。案内状にいきなりJohn Hathwayさんが出ていたのも行ったきっかけで、前に「SFマガジン」なんかにも表紙絵を描いたりしていた人で、未来的であり同時に過去的でもある街並みの上に可愛らしいキャラクターが踊るといういかにもオタクSFポップといった雰囲気のアーティスト。それがちょっと前にアートフェア東京に作品を出していてアーティストとしても活躍し始めたのかなあと思っていたら今回の企画展への登場となった。

 モチーフはやっぱりびっちりと積み重ねられた九龍城みたいな建物にさまざまな店があってロケットが飛んでいて空中を行く人もいたりと未来的であり過去的。それがぐわっと湾曲した中に描かれているのを見るとその世界にいて周囲を見渡しているような気分にさせられる。出力されていて描かれたものではないけれど、これだけの密度で描くのにいったいどれだけの時間、どれだけのデータ量をかけているのか。そう考えるともはやひとつの彫刻といっても過言ではない手のかけよう。そんな超現代が並ぶ一方でメキシコなんかを描いた北川民次の沖縄を描いた作品があったり、戦争っぽさを漂わせつつイラストっぽく平板化した中村宏さんがあったりと解釈のしようによってはいろいろと時代がそこに象徴されている並びになっていた。

 面白かったのは鎌谷徹太郎さんという人で極彩色の中にインドのガネーシャともビシュヌとも言えそうな不思議な像が描かれていたりしていったい何だとうかがうと、自分でミニチュアを作りそれを写した上から描いて塗っていろいろ張ったものらしい。もう極彩色。それが何枚もあるそうでいつか全部が並んだ場面を見てみたいけれど、それが出来るのなんて東京都現代美術館の前に岡本太郎の壁画がかかっていたスペースくらいだよなあ。やらないかなあ、特集。あと「でんぱ組,inc」にも名を連ねているらしいアイドルでアーティストの夢眠ねむさんのポートレートなんかもあったりして、撮ったのが川本詩織さんと聞いて興味を持った。腐女子部屋とか撮ったり男装ばかりしているレイヤーさんが女装しているという捻りまくった写真を撮ったりしている人をディレクションに迎え自分を大きた写した作品が意味するもの。それはアイドルでありアーティストでもある人間の今をそこに定着させて世に問い存在の対立しながらも集合している不思議を見せようとした、なんてことになるのかな。ともあれ愉快な展覧会だった。行けて良かった。

 いつかそういう日が来たとしたら僕はやっぱり「ルパン三世 カリオストロの城」をブルーレイディスクで見ながらセリフの一言一句を呟きながら偲ぶんだろうなあ、偉大なアニメーション監督を。それくらに知り尽くした作品でありながらも劇場で上映されるという機会はもう滅多になくなってしまっている、そんな中でドリパスが貴重な機会を作ってくれたんでバルト9へ。どうやら今日はクラリス姫とカリオストロ伯爵が結婚式を挙げようとした日らしく、ちょっと前に監督の引退会見があったことも含めてなかなかに絶妙なタイミング。仕込んだ訳ではないにしてもやっぱり神様による何か差配が働いて、良い仕事をしているドリパスにご褒美めいたものを上げたのかもしれない。作品についてはだから今さら語ることはないけれど、やっぱり良いものは良いってことだけは断言しておこう。あと何回くらい劇場で見られるだろう。フィルムが上映できる施設も減ってバルト9でも8番シアターだけになってしまったんだよなあ。時代とはいえちょっと寂しい。どうにかならないものかなあ。


【9月12日】 宮崎駿監督の最後の長編アニメーション映画となってしまった「風立ちぬ」の興行収入が100億円を突破したようでここ最近ではいったいどんな映画以来になるんだろう? 実写もアニメーションも含めて最近に100億円を超えているのは2008年の「崖の上のポニョ」だからそれ以来ってことになってこれで「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「もののけ姫」も加えて5本で100億円突破を果たしたことになる。もう名実ともに日本最高の映画監督であり鈴木敏夫さんは日本最高峰のプロデューサーってことになった。過去のも含めて興行収入換算で全部足したら鈴木さん、どれくらい稼いだことになるんだろう。その100分の1でも自分の収入になっていたら結構な長者になれそうだけれどでも、アメリカだと1作で400億円500億円稼ぐ映画がいっぱいあって、それで数10億円とかを懐に入れるプロデューサーなんかもいそう。規模がやっぱり違うなあ。日米映画界。

 そんな鈴木さんも今じゃあ雲の上の人になってしまって近寄ることなんてとてもじゃないけど出来そうもないんだけれど、1997年ごろの「もののけ姫」を作っていたころはアメリカのディズニーと提携はしたもののヒット作が出ていなくて、いよいよ背水の陣となっていたあたりで今後のジブリをどうするか、って話をテレビセンターだかどこかの録音スタジオへと出むいていろいろ聞いたんだっけ。もう何時間か話し込んだ記憶があるんだけれど当時のことなんてきっと覚えてないんだろうなあ、鈴木さん。こっちも人相とか変わっているし何より窓際からさらに外へと体をはみ出させているから関心なんか持ってももらえないだろう。これで超絶マニアで強い印象を残していれば多少は覚えていてもらえたんだろうけれど、せいぜいが「月刊アニメージュ」の付録に「となりのトトロ」の絵はがきが挟まってましたねえ、あれは良かったって話くらいだし。あの頃にもうちょっと食いついておけば良かったかなあ。

 マニアックな知識が商売に結び付くといったら今、日本経済新聞の夕刊で連載されている「人間発見」で取り上げられているフジパシフィック音楽出版会長の朝妻一郎さんが凄い。音楽出版という分野で日本どころか世界有数の事業を展開している会社のトップで、音楽の権利というものを早くから意識して取り上げ展開してきた版権ビジネスの立て役者。でも最初っからそんな仕事で順風満帆だった訳ではなく、理解のなかった日本でそういうビジネスがあることを知らしめ定着させるところから初めて、世界を相手に日本で音楽を展開する上でのパートナーになり得る力があるってことを見せてきた。

 そんな朝妻さんが海外でプロデュースの勉強をしようとなった時、最初に師事しようとしたフィル・スペクターが入院していて連絡が付かなかったことから、スティーブ・バリってプロデューサーのところで学んでいたという、そんなある日。通っていたスタジオにカスケーズの「悲しき雨音」の作者、バリー・デヴォーゾンがいたそうでそこで朝妻さん、「『バリー&ザ・レターマン』のバリーさんですか」と話しかけたそうな。それを聞いてなんでそんなことを知っているんだと驚き喜んでいろいろな人を呼んで紹介したことが朝妻さんの人脈の拡大につながっているという。マニアな知識って役に立つんだという証明。同じことはカンヌでの見本市でもあって参加者にシンガー・ソングライターの名前があったんで連絡して「あの『セブン・リトル・ガール』のポール・エバンスさんですか」と訪ねたらこれも喜んでくれていろいろと段取りを教えてくれたという。

 極めつけがA&Mレコードの代表として日本に来てすでに9割方パートナーを決めていたチャック・ケイって人に会った時に、フィル・スペクターのアルバムの裏に献辞が書いてあったチャック・ケイさんですかと言って「なんでそんなことを知ってるんだ。決まりだ、おまえがマイ・マンだ」と言われて逆転で窓口になれたとか。取るに足らない知識でも当事者たちにとっては嬉しい知識。「重箱の隅の知識が思わぬところで役に立ち、自分を助けてくれる場面が何度もありました」って書ているように、好きってことが共通言語となって商売は回るものらしい。今もそんなことがアニメの世界とかで可能かどうか、通り一遍の付け焼き刃で取材にいくよりは、アニメに関する古い知識とかを知っていて取材で言えば安心はしてもらえるかもしれないけれど、それもだんだんと難しくなっている。作り手も聞き手も世代が変わって知識より実利が重んじられていて、そこに引っかからない媒体は相手もしてくれないんだよなあ、まったく。まあ仕方がない、こっちは媒体ですらない窓外の身。だからせめていつか使えるように、そんな日がまた来るようにと頑張ってアニメを見続けよう。

 とはいえ昔ほどいろいろとアニメが見られていないっていうのも実状。ひとつはTOKYO MXへとシフトするアニメが多くなっている一方で、それが現状のデジアナ変換では映らないってことで例えば大人気となっている「進撃の巨人」もちょっと前に人気となった「蒼星のガルガンティア」も実はほとんど見ていないのだったという。ところがアメリカなんかだと日本のアニメ制作会社とかパッケージメーカーが出資してつくったDAISUKIってネット配信会社とか、これは昔からあるクランチロールが日本での放送から間をおかないで最新のエピソードをそれも字幕付きなんかで流して現地のファンの期待に答えているんだとか。

 朝のめざましテレビでやっていて、そういうアニメを観た最近の外国人は好きなアニメとして「ドラえもん」とか「サザエさん」なんか挙げずにトップに「進撃の巨人」を挙げたり「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」を挙げたり「STEIN’S;GATE」を挙げたりしている。もうリアルタイム。やっぱり環境がなければファンも増えないってことなんだけれど、それでお金が回収できるかというとこれが疑問。ファンを増やすか資金回収に躍起になるか。その分水嶺にあるんだろう。日本ではだからせいぜいがパッケージを買ってお金を貢いで海外のファンが無料で見られる環境を整えそれがいつかお金に結び付く日を夢みよう。大変だなあ、アニメビジネス。

 「おもてなり、うらがあっても、おもてなし」。つまり日本人はおもてなしの心だとかいって表面は笑顔で歓待してくれているけれども内心では何だこいつこんな忙しい時に気やがって金でも無心に来たかそんなものびた一文だせやしないぜとっとと帰れぶぶ漬けでも食いやがれと思っているということの現れで決して表面を信じるな、そして頼り切るなという教えを現すものだって、そんなことを言ったら誰も投票してくれなかったかなあ、東京五輪に。そんな「おもてなし」な人として脚光を浴びた滝川クリステルさんだけれど外国の人がこれは誰だキャスターかなになにアニメーションにも出演しているらしいぞ舞台はお台場か五輪に関連したものかなあと思って見たらいったいどうなるか。「お台場で五輪とかとんでもねえ」ってなるのかな。でもあのアニメはとても凄い作品なので見て欲しい。「東京マグニチュード8.0」。再放送やらないなあ。


【9月11日】 「艦隊これくしょん」とは無縁だから「コンプティーク」難民とはなっていないけれどもこれほど売り切れ情報が舞い込んでくるとやっぱり気になる雑誌の中身とそれからゲームの面白さ。やり始めればハマるんだろうけどでも基本的にネットゲームはわが家のネット環境が貧弱なためだいたいにおいて敬遠気味。そしてゲームに向ける時間も本を読まないといけない関係からそんなに裂けないためやっぱり手を出している暇がない。なので今に至るまでだいたいのゲームにハマっていないんだけれどしかしやっぱり話題が豊富だと気になるよなあ。そしてどうやら「コンプティーク」も絶賛品切れにつき重版が決まったとか。もしも並び始めたら買ってみるか、そしてハマってしまって廃人に。罪なゲームだ「艦隊これくしょん」。

 そしてこっちは普通に平積みの「月刊ニュータイプ」を買って「ファイブスターストーリーズ」をぺらりぺらり。メヨーヨー王朝のクラーケンベールのそうかあの髭は付け髭だったのか。いやあいってみるもんだ、ってそれが言えるのはちゃあだけだろうけど、怖い物知らずで傍若無人でそれなのにどこか引っ込み思案。そういうのが1番無茶を言う。そしてジークボゥにはその母親ってのが登場して来たんだけれども絵が巧すぎて歳がまるで分からないよ。まあ全体に母親ってのが若く描かれている漫画だけれどちゃあと並べても区別がつかない若さにいったいどんあアンチエイジングが行われているのかちょっと気になる。そしていよいよ第6話に突入らしいけれどもそれが全6巻に及ぶとか。いったい何年かかるんだ。10年か。20年か。読んでいくんだろうなあ最後まで。生きねば。

 うん巧い。そして読みやすい。ストーリーとか設定にはもう既視感がりまくりなんだけれどもそいういう部分をキャラクター性と展開の妙でもって振り切って読ませる巧さが存分に発揮されてる吉野匠さんの「終末領域のメネシス」(このライトノベルがすごい!文庫)は天野原市って都心に暮らす少年がどうやらそこが閉鎖されている空間らしいと気づいたものの周囲には誰もそういうことを気にする人がいない。洗脳でもされているのかと悩みつつだったら確かめてやれと人目を避けて都市の外に出たらそこにはコンクリートで固められた原っぱが広がっていた。やっぱり遠くに見えた山並みは架空だった。ではいったい誰がどういう目的でそんなことをしたのか。理由は人類を守るため。いつか発生したウイルスに感染した人間は誰かに操られるように人間を殺していくようになった。それを排除し人間を守るために都市は外部との接触を極力さけるようになっていた。

 一方でそうしたウイルスに耐性を持ち超能力を発揮できる人材も生まれ育つようになっていた。そういう人材を集める学校に主人公は導かれ、そこで以前に屋上から飛び降りようとしていたのを止めた少女と再会する。とてつもない力で学校でも屈指の能力者となっていた彼女と最初は立ち会い、やがていつかの恩人とも知って関係を深めていこうとしたその時、敵の侵攻が始まって学生である少年たちも戦線へと駆り出されることになる。そこまで侵蝕されているならもう人類ダメじゃね? って思いも浮かんだけれどもそこはそれ、隔離し排除することがまだまだ効いているんだろうと理解。でも追いつめられている中で果たしてどういう起死回生の策があるのか。深見真さんの「僕の学校の暗殺部」にも重なって悪意ある敵と戦う少年少女の未来を見たくなる1冊。「暗殺部」は解決しなかっただけにこちらでは人類の希望ある未来が見たいけれど、果たして。

 がん首集め、って新聞社とかテレビ局の報道あたりで呼ばれる顔写真集めという作業について、その意味を問う声はもう随分と前から上がっていて、事件や事故の被害者となった人の近親者を回って悲しんでいる最中に顔写真をもらうような行為が果たして相手にどれだけの不快感を与えるのか、そして写真が掲載されたからといってどれだけの意味があるのかといった議論が戦わされては、それでも「顔を見ることによって浮かぶ同情」であったり、「事件への憤り」であったりものを惹起して、社会の向上に役立つんだという掲載する側の主張も続いていたりして、平行線が収束する気配はない。

 卑俗な言い方をするなら「ツラが見たい」という読者なり視聴者なりの野次馬根性の代弁者でしかなく、そうした声に応えているんだといった主張も裏にはほの見えて、翻って胸に手を当てそういう気持ちが皆無なのかどうかといった逡巡を抱いたりもする。だからがん首集めという行為そのものには忌避感があるものの、それが皆無であるべきかいなかとうところではちょっぴり判断に迷うことろはあったりする。もちろん不必要という方向にながれ、すべてのメディアがそういう報道を旨とするようになれば素晴らしいんだけれど、卑俗な情動に訴え関心を買おうとどこかが抜け駆けして、なし崩しになる可能性もあったりするから難しい。報道の自由は報道されない自由を侵してはいけないという当たり前が、もっと浸透すれば良いんだけれど……。

 ただひとつ、言えることはそうしたがん首集めに“成功”したとして、それがいったい誰のために行われ、どういった効果を招いたかをまったくの抜きにして、自分は上司に命令されたことを成し遂げた、そして誉められてとても嬉しいと誇ることは絶対に間違っている。遺族はそんな記者の満足のため、あるいは上司の点数稼ぎのために写真を提供したのではない。それが何かにつながってくれれば良いと思って断腸の思いで提供した。だから掲載するにあたっても、そうした事柄について触れられた記事に添えられる必要があるんだけれど、そうではない、ただひたすらに自慢と自賛に満ちた内向きのエッセイに写真が添えられていたりする。なんという不敬。なんという不遜。けどそういう真っ当な神経も、命令されそのとおりに動いてこそのブラックな世界では養われず、逆に磨耗していくだけなんだろう。そして繰り返されるルーティンのような意味を問わないがん首集め。やがて喰らう世間の反感。そして……。どうして気づかないのかなあ。気づこうとする回路も同様に磨耗しているんだろうなあ。

 21世紀にもなってこの漫画は不敬だから撤去しよだなんて声が挙がるとはいったどうなっているんだこの日本。まあ発信元が「新しい歴史教科書をつくる会」だからそんな声が出ても不思議はないんだろうけれどもしかし日本にはちゃんと言論の自由ってものがあって誰がどこで何を言おうともその自由は保障されることになっている。もちろんいたずらな誹謗中傷までもがそうした範疇に含まれるってことではなくて名誉毀損と風評被害といった別の基準に照らし合わせて罰せられることもある。でも「はだしのゲン」における天皇なり国なりの批判はあの時代にあってああした経験を経た人に似通って抱かれた感情で、それをケシカランと埋めてしまうのは歴史というものに対する冒涜になる。それを歴史教科書を作っている歴史学者たちが言うんだから気持ち悪いというか何というか。学習指導要領で定めた天皇への敬愛を育む教育に反するっていうけど普通の授業でしっかりそうした教育がされているなら「はだしのゲン」なんか置いておいたって見向きもされないはずじゃない? だから騒ぐ必要もないんだけれどこうやって世間の動勢に便乗するかのように言葉を発してみせるあたりに、何か追いつめられている気分でもあったりするんだろうか。どっちにしたって真っ当ではないよなあ。言う側も、それを肯定的に報じるメディアも。


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