縮刷版2012年11月下旬号


【11月30日】 150万人といったら視聴率で1%から2%といったところで、その人数を持ってネットの優勢を言うのはかなり苦しいような気もするニコニコ生放送と使った党首討論会。数なら地上波を使ってやった方が圧倒的に世代も範囲も広く届く訳で、それをわざわざ狭いフィールドに引きずり込んでやったことの意味があるとしたら、ネットの前に座ってテレビを見ない人も結構な数いるだろうという想定と、そこへと向けた情報発信これからは必要になってくるんだろいう理解が選挙という公的なイベントにも及んだということだろー。ばかにできない人間がそこにいる、ってこと。

 だとしたら今度はネットのインフラの側がそうした人間の期待に答えなくっちゃいけないのに、ニコニコ生放送で党首討論を見ようとすると人数が多すぎて弾かれてしまい、プレミア会員になればみられるかもよという告知が映るだけ。つまりは見たかったら金はらえという訳だけれどもそういう良い口をこういう公的なイベントで言ってしまうのが果たしてニコニコ側にとって有利だったかというと、いらぬ反感を覚えた人の方が多かったんじゃなかろーか。この場での討論を強行に主張した人と結託して有料会員を増やしたい思惑があったなんてて勘ぐりすら浮かんでるし。

 まあそれはないんだろうけれど、公的な機能を果たそうとするならそれには相当な覚悟と準備が必要で、少なくとも150万人が来た程度でぶっつぶれてもらっては困る。どこのテレビで150万人が見たからって電波が届かなくなるテレビがあるだろうか。ラジオがあるだろうか。ネットだから狭い範囲に届けるだけだから、って言い訳があるとしたらそれはネットの未来にとってあんまり良い話じゃない。既存のメディアにとってかわる気構えだけはデカく見せているくせに、そういう時だけ「ネットだから」といって逃げる二枚舌を、今はネットで党首討論を実現させたことに俺たちやったぜと快哉を叫んでいる人たちも、ずっと見逃してくれるはずはない。

 ミラーはあるしUstreamのようなサイドチャンネルもあったからそっちを見れば良いじゃんとか言うのもやっぱり言い訳。だってミラーとかUstreamじゃニコニコ生放送ならではのコメント入れたりアンケートに答えるようなサービスが受けられないじゃん。それを享受できるのはだからお金をはらった人だけというなら、結果についてもニコニコにお金を払う属性を持った人たちによる特定のバイアスがかかったものだと認識するより他にない。テレビを見る人にだって属性はあると言うけどネットほどではないだろう。公平に公正に。それができないうちはやっぱり特定の用途に突出して凄くもあるし拙くもあるメディアだと、ネットを見る必要があると分かっただけでもひとつの成果だったのかもしれないなあ。ニコニコ党首討論会は。

 しかし選挙もジリジリと近づいて来るにつれて、あれだけ台風の目になると言われていた維新が何か全体にトーンダウンしているというか世間の見る目がトゲトゲしくなっているといった雰囲気。一時は何かしでかしてくれそうな期待感をもって眺められていたんだけれど、ここに来て何もしでかしていないってことが分かってしまって自分たちの期待を託すにどうなのか、迷っていたところに東京からとてつもない爺さんがおっかぶさってきてその存在感でもって注目を一気に集めてしまった上に、持論の過ぎた蔑視やピントのずれた憂国を何とかのひとつ覚えのようにとなえて見る人を辟易とさせてしまって、その気分が母屋だったはずの維新にも乗り移って全体を沈滞させている。

 清心とか清冽いった空気があったかというとどうだったかは何ともいえないけれども、少なくとも斬新ではあったその存在が突飛となり頓狂となって周辺をおののかせてしまい、その濃密過ぎる空気にこれはどこかに逃げ出したいなあと思っていたところに開いた窓が嘉田由紀子さんによる日本未来の党。言ってることに変わりがそれほどあるはずもなく、中身は国民の生活が第一、すなわち小沢一郎さんなんだけれどもそれでも民主党が頼れず自民党は粋すぎていてウンザリなところに中道を行ってそうなそれが見え、そっちに一気に流れてしまった感じ。やっぱり事前に引っ張りすぎたよなあ、維新、そしてくっつく相手を間違えた。一方の未来はタイミングが絶妙。そんな流体力学のような感じで政権が決まってしまうのも妙だけれどそれもまた、民意って奴で。維新に何かひっくり返す手はあるのかなあ。

 見たいシーンがある。それが何度も同じアニメーション映画を観る理由なんだろうと「ねらわれた学園」を見終わって考えつく。これで3度目。1度目は試写でまるで情報のない中をみて説明不足のストーリーと盛り上がらない展開にいったいこれは何だと戸惑った。だんだんと眉村卓さんの小説「ねらわれた学園」の続きの世界を描いたものだと分かってそれで見た2回目は、全体が把握できて戸惑いが払拭されて浮かび上がってきたストーリーから、少年2人と少女2人の関係性がくっきりと見えてその感情が行き交ったり行き違ったりする様を存分に味わえた。そうした情動を彩る煌びやかな風景、鳴り響く音楽を堪能して迎えたエンディングロールのその後、オープニングで響いていてsupercellの「虹色飛行船」のフレーズが囁かれるように流れピタリと収まったストーリーにじんわりと涙が滲んだ。

 この本当のラストシーンを見たい。それが「ねらわれた学園」の場合は大きな力となってまた映画館へと足を向かわせそう。途中にもたとえばウエットスーツでしりもちを付く美少女が犬に腰をなすりつけられているシーンとか、これは別の美少女の中学2年生に見えないガーターベルトとかいったビジュアル的な楽しさを持ったシーンはあるけれど、その一瞬のグラビア的な楽しさだけでは何度も何度も足を向ける理由にはならない。例えば「009 RE:CYBORG」の場合は003が高い場所から飛び降りた際に見えそうなスカートの奥とか、飛行機にのってこっちは自ら見せるスカートとシャツの下とかをまた見たいなあと思わないでもないけれど、ストーリーの中で感情が盛り上がって記憶に刻まれるようなシーンではない。その感動を味わいたいがために足を運ばせるシーンではない。

 「ねらわれた学園」のあの最後の瞬間はそこまで見てきて良かったという気持ちが一気に凝縮され収束して襲いかかってくるシーン。途中を全部わかっていてもそこに至ってうれしいとう感情を味わえそしてキャラクターたちと、あるいは他の観客と共有できるシーン。だから見たい、映画館で、何度でも。同じ気持ちは「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」でも浮かんでそれは当然例のユウタがサエ子の手をひっぱり山道を駆け上がっていくシーン。あちら側に行くと決めていたサエ子がこちらにいたいと思い兄の姿に別れを告げて生きると決めるあの感情の動きを、特徴的な作画の中に描いて見る側の感情を揺さぶった。何度見ても同じように泣けるあのシーンを何度だって映画館に通った。それに近い思いを抱ける「ねらわれた学園」はだからやっぱり良い映画、ってことになる。

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」でもアスカの尻というグラビア的な楽しさを楽しみたい一方で、そのアスカがシンジに寄せる複雑な感情を理解した上で、ラストシーンで3人が砂地を歩いてどこかを目指す姿にここまで来た紆余曲折を思い、これから起こるだろう難局を思って同情を寄せ、期待を寄せて高揚した気分で映画館を後にできる。この気分を味わいたいがために4度通い、また通おうかと思っている。「伏 鉄砲娘の捕物帳」はもう全体が見たいシーンの連続なんで特定のところはなし。敢えて挙げるなら冒頭で犬の鍋を食べながら死んだ祖父を思い浜地が泣くシーン? それは「千と千尋の神隠し」でおにぎりを食べて泣く千尋のシーンにもちょっと似ている。他人への思い、自分への感傷が滲むシーン。そんな名シーンがある映画の強さをとことん感じた秋。これから来る映画にはそんなシーン、あるかなあ。あって欲しいなあ。


【11月29日】 まさかしかしヒゲをつけてくるとは思わなかった日本テレビ「ベストアーティスト」のきゃりーぱみゅぱみゅ。すでにベストドレッサーにもヒゲをつけて登場していたようで、アイドル的な人気のアーティストがそのイメージを損なうはずのヒゲをつけても、それが逆にファッションに見えてしまうというか、そう見せてしまうところが、存在の持つ何であれオッケーなイメージの強さって奴か。とはえいそこにあるのは3針縫ったというケガで、決して目立たない場所ではないだけに痕とか残らないのかと心配。今日抜糸でっこれからも年末に向けていろいろ出場番組も目白押しの中で、いったいどんなカバーを見せてくるのか。それはそれでちょっと楽しみ。やっぱり不思議な立ち位置だ。

 名瀬夭歌と雲仙冥利の声が被っているように思えるんですけどと言ったら、それは沢城みゆきさんにとっては栄誉なことか、それとも重なりをのぞけない音響監督の敗北か。方やあれでも巨乳な名瀬妖歌なんだけれどもしゃべりはぞんざいな男口調。こなた男子だけれども演じるのがエドワード・エルリックな朴ろ美さんだと、やっぱりどこかで声質演じ方が重なってしまてもまあ仕方がないか。果たして目をふさいで耳だけ聞いてどっちがどっちか判別できるか。それも一興、いつか誰かにやってもらいたい。そして「めだかボックスアブノーマル」は、さらわれためだかを助けに行こうと遂に喜界島もがなのアブノーマルが発動! って水泳特得意で息止めてただけみたいだけれど、それでも残ったその体で、挑んで勝てるか十三組の十三人の裏の6人に。

 うん目出度い、これは目出度い、「第2回このライトノベルがすごい! 大賞」であの「栗山千明賞」を「美少女が嫌いなこれだけの理由」で受賞した遠藤浅蜊さんが、次に描いて評判を呼んでいた「魔法少女育成計画」がついにレーベルで初のメディアミックス展開に。それも角川書店系の「コンプエース」誌上ってんだからこれは僥倖、「コンプティーク」とは別に「らき☆すた」の連載もされていたりする漫画誌で「少年エース」とはまた違ったメディアミックス物の宝庫なだけにそこに混じってどこまで行けるか興味津々。アニメのコミカライズとかゲームのコミカライズとかはあっても、ライトノベルからダイレクトにコミカライズはそんなにないってことは後、アニメ化なんて話にも向かうのかな。そうなるとプレーヤーも多くなるだけに容易には進まないだろうけど、ここを突破すれば何かレーベルに軸も出来そうなんで頑張って欲しいと心より祈念。大間九郎さんの「オカルトリック」と「ファンダ・メンダ・マウス」も続け。

 ニッポン放送方面に行くついでに有楽町のJRのガード下にあって、レトルトっぽいけど巨大なハンバーグを食べさせてくれる定食屋に行ったら潰れてた。つい数日前に営業を停止したみたいだけれど昼時とかは近所のサラリーマンも入って普通に食べていたように見えただけに、営業面が問題なのかそれとも別の理由があるのか、ちょっと気になる。JRと言えば船橋駅も改造が進んで、いつも使っていたキオスクがなくなり不便になったんだよなあ、あと改札口の中にあったそば屋も。ちょい食べる時に便利だったのに。そういえば船橋駅には大昔には牛丼とかカツ丼を食べさせる店もあったんだっけ。それも改装の煽りでなくなってしまった。有楽町もそうなのか、それともやっぱり店の事情なのか。いずれにしてもあの巨大なハンバーグを食べられなくのは寂しいなあ、似た物を出している店は近所にないのかなあ。

 みのりんだみのりんだ茅原実里さんが見られるってんで日本国際映画著作権協会ってところが、ちょっと前に募集していた「音、つけてくだサイ 〜違法ダウンロード、だめだゾウ〜 !」って映像に音をつけるコンテストの授賞式をニッポン放送で見物。電車なんかで流していた映像だっていうことだけれど、あんまり見たことはなくって初見でゾウが映画館で盗撮してそうな人間を吸い取り、サイが家でネットからダウンロードしている人に突っ込んだりする割と普通の映像で、それこそビデオカメラ男とサイレン男がどんちゃんする映画泥棒の映像のゾウさんサイさん版でしかないんだけれど、それにいろいろな音がついそれぞれに啓発しつつも受ける印象がガラリと変わって面白かった。ナレーションに効果音も入れてセリフで説明するのもあれば、歌声にのせて語りつつ、あとは映像とその上に流れる文字で見せるというものもあってと多種多様。個人的にはその歌声を乗せたバージョンが好きだったんだけれど、説明がちょっと足りてないのか入選止まりだった。

 一等賞はその歌を歌っていた人と同じバンドにいる人で、こちらはブルーズっぽい歌声でもって語りつつその上にニヒルな声も被せてちょっぴりアダルティーな雰囲気の映像に仕立て上げていた。あんまりアダルティーなんでダンディーな人が来るかと思ったら、割に漫才師っぽい人だったというギャップもネットの向こうにいる才能の多用さを現して面白かったかも。見て茅原さんは、音声音楽の差異でこれほどまでに印象が変わるってこはつまり自分たちの仕事も声の出し方で作品が変わってしまうんだってことに繋がると感心すること仕切り。改めて声の仕事、歌の仕事の持つ意味って物を噛みしめた様子。実際にこれらがどこで流れるかは知らないけれど、ノーモア映画泥棒もいい加減飽きてきたしここいらで1つ、自由裁量でこっちも選べるようにしたら面白いんじゃないかなあ、可能なら女性の歌声バージョンの。だって良かったんだよ本当に。

 とはいえこうしたコンテストで一発当てることが即、プロフェッショナルへの道につながるかというと今はむしろ逆で、アマチュア的な才能をわずかな賞金でかき集めてはそれを大人たちが使い消費し尽くされれば次を探してまた使うっていう繰り返し。それでコストをかけず作品を募り集め上は潤うものの、下はただ一瞬の才能を育てられることはなく、使い捨てにされてしまうっていうだけの状況にあったりする。昔はそうやって引き込んだ人の人生の責任を取る覚悟が上にもあったけど、こう景気が不透明になるとそういう余裕がどこにもなくなって、瞬間の才能を使い潰していくだけになっている。上へ行こうとするなら余程の突出が必要だけれどそれすらも一瞬、新海誠さん以降の椅子を今もいろいろな人が取り合い分けあって、その次がなかなか見えてこない。

 辛いけど苦しいけど、でもやっぱり作りたい気持ちをどうするか、って話を自主制作アニメーションって分野をテーマに自主制作アニメーションで表現した「荒波」って作品が、全自分が滂沱したお墓ファンタジー「雨ふらば風ふかば」 を作った沼田友さんってアニメーション作家の作品として、ニコニコチャンネル内のCGアニメ市から公開されている。「社会の荒波に揉まれながらも闘い続けるすべての作り手、クリエーターへ」ってメッセージもついた作品は、使い捨てられながらも思い悩む若きクリエーターのストーリー。CGアニメ市のバージョンはそうした告発がメーンになっているけれど、より長い「荒波 −LOVE LETTER(WEB限定バージョン)」になると、今に悩み未来を迷いながら、それでも頑張って作り続けるクリエーターたちの前のめりの覚悟めいたものが呟かれ、聞いているうちに引き込まれて、そうだ自分もやらなきゃって気分にさせられる。

 セリフがとにかく圧倒的で、脚本と展開に相当な冴えを持ったクリエーター。それは「雨ふらば風ふかば」でも示されていて、脚本と演出を描けキャラクターは別の人が描けば相当に一本の映画になるんじゃないかとも思ったけれど、春の文学フリマで話した沼田友さんは映像も自分で手がけることが身上の様子。なるほどリアルな実写より、精緻なキャラよりこうした独特なキャラによって描かれているからこそ漂う、ほのぼのとしてジンと来る感慨を得られるのかもしれない。それが際だっているのがコミティアって場所を舞台に出展サークルの姿を描いた 「15時30分の拍手喝采」。あんまり売れてないけれどそれでも出続ける楽しさってものを描いてみせた作品で、なおかつ続いていく時間の意味ってものを考えさせる展開が待っている。いやあ泣ける。これは泣ける作品。コミティアとか出展したことないけれど、そうした記憶とは別に誰かを思う気持ちってものを刺激されて泣かされる。凄いなあ。もっといろいろ見たいのでネットを漁ってニコニコにもお金を払っていろいろ見よう。「荒波」を乗り越え大成して欲しいなあ。


【11月28日】 ホットシューがガタついてクリップオンのフラッシュを取り付けると揺れてしまうようになったんで、PENTAXのK−7を新宿のペンタックスフォーラムへと持ち込んで調べてもらったら、とんでもないくらいの後ピンになっていたとかでそれも含めた修理になってお金がお金が飛んでいく。でも新品買うのはもとより中古を買うよりも安いから仕方がない。そういえば使っていて真ん中の人物にピントを合わせてもなぜか背景にピントがばっちり合っていたことがあったなあ。レンズの特質か光の具合か何かかと思っていたけどカメラのボディのせいだったとは。思いっきり絞ればちゃんと写るからそれでごまかしていたけど、ここで治しておけば後しばらくは安心して使えるようになるから出費は我慢だ。Q10も欲しいけどこれはまたいつか。

 電車の横で読んでいた人のをナナメから見た「週刊アスキー」2012年12月11日号にlenovoのThink Padの15年って記事が載ってたんで駅の売店で買って読んだけど僕が使い始めたX30以降についてはあんまり載ってなくっていきなりX300から最新のX1カーボンに飛んでたりしたんでちょっと残念。昔の230CSとか「ジオブリーダーズ」で神楽総合警備の面々が使っている超小型のPalm Top PC100とか、キーボードが左右に広がる謎の701Cとか見て懐かしい記事ではあったんだけれど、容量も電池の持ちも実用的になって以降のX30からX40を経てX60なりX61へと至った傑作群をもっとフィーチャーして欲しかった。というか今も現役なんだよ僕のX61は。サイズもキーボードも電池もこれがベスト。どうして同じのを作らないかなあ。

 そんな「週刊アスキー」も創刊から15周年と聞いてそういえば初期のごくごく始めのうちだけ書いていたことがあったなあと思い出す。一般向けの週刊誌として創刊されて前も後ろも表紙だという謎めいた作りで話題だけ呼んだ旧「週刊アスキー」が瞬く間に休刊となってそして、月刊のパソコンおよびその周辺を軽く紹介する雑誌だった「EY−CON」がリニューアルする形で「週刊アスキー」として再創刊されることになって「EY−CON」でページを作っていた編集の人からそのまま何かを続けようってことになったんだった。でも何を書いていたのか今となってはさっぱり思い出せない。いつか何かよくないことをやった時に「こんなことを書いていたなら当然」って言われるような非道いことを書いていたかもしれないなあ。まあ仕方がない、それも人生って奴だから。

 ふと気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉の木山隆之監督が今シーズン限りで退任となっていてこれで何人が1年限りでお別れになってきたのか数えたくなったけど、1年保たずに退任になった人も少なからずいたんで、1年保ったのはまずまずの方だったんだとここはその業績に敬意を表したい。とはいえやっぱり昇格という目標を果たせなかったら退任も仕方がないというのが本音。最後の方こそ勝ち点も積み上げてはいたけれど、シーズン通じて勝ち続ける集団にはできず下位を相手に引き分けすらできず取りこぼす試合も結構な数。それらをすべて拾えていたらプレーオフに出るどころか普通に昇格できていただけに、力が足りなかったと認めるより他にない。お疲れさまでしたと言いつつ次もどこかでと送り出したい。

 ではだったら誰が良いのか、ってことになるんだけれどもやっぱり規律を持って選手たちに接してその姿を前にして負けられないって雰囲気にさせてくれる人が良く、あとはやっぱり攻め手を考え得点を積み重ねられるチームを作れる人ってことになるんだけれどそんな都合の良い人が果たしてどこにいるんだろう。以前に首になって地元に帰ってボスニアのジェリズニチャルを何度も優勝させているアマル・オシム監督とか戻ってくれると気になるけれどそういう状況にはないしなあ。イラク代表監督を辞めたジーコ監督なら誰もが恐れ戦きはしても、セレクタタイプのジーコ監督では練習とか戦術を経てチーム力を向上させる方向には働かないし。浮いてた時代にポポビッチ監督を取らなかったのがやっぱり悔やまれるよなあ。ともあれ誰かが監督になる。それが誰なのかを今はワクワクしながら決まるのを待とう。いつ決まるんだろ。それより選手では誰が自由契約になるんだろ。

 長谷敏司さんの「BEATLESS」(角川書店)をようやくやっと読み終える。発売から1カ月半もかかってしまったのは何だろうなあ、強烈なキャラクターによってストーリーが引っ張っていかれるって感じの作品でもなく、また世界が驚天動地の危機に陥ったところをどうにかするって展開があるものでもなく割に淡々と、人智を超えたAIによって生み出された人智を超えるAI美少女と少年が出会ってそして始まる日々だったのが、やがて人智を超えるAIたちの反乱とかあり大変なことになってそして最後は人智を超えるAIをとりあえず抑えに向かうというストーリーが進んでいくからなんだろうなあ。今次を読まないと仕方がないって思わせるような作りになっていないというか。

 人間を超える性能を持ったAIはもはや人間なのかそれ以上の何かなのかといった問題意識もあるし、そうした人間を超えたAIによって人間が導かれ操作され引っ張れれることに人間としてどう対処するかといった問題意識もあって来るべきスーパー電脳社会における人間の立ち位置めいたものを想像させる。その意味では未来の社会のビジョンを見せてくれるSFであり人間ならぬ存在であっても恋愛は可能かを問うSFでもあって読んでいていろいろと面白い。ただそうした可能性を探る描写を淡々と積み重ねていった結果、どうしても読みやすさとエキサイティングさがスポイルされていたような感。まあそこは狙ってやったことだろうし、ここで提示されたひとつの世界観をベースにより未来の世界を描き、人間がどういう存在となりAIがどういう存在となって世界を、あるいは宇宙を引っ張っているのかを描いて欲しいと思う。期待したい、これからの長谷敏司に、といってもしばらくは「メタルギアソリッド」のノベライズか。それも期待だ。書いてよどんどん。


【11月27日】 元旦の朝にベッドで目覚めた西野円に眼鏡はなく、その刺すように鋭い眼差しが起き抜けの半目でもって描かれ愛らしさと冷たさの入り混じった雰囲気を作り出す。それを間近で見られるなんて羨まし過ぎるぞ沢木直保。どうせだったらそのままずぼっぽり、布団に入り込んでいっしょに夜を迎えれば良いのにそうはいかない奥手な少年、元旦なのに集まっている樹慶蔵教授のところへ出かけていって武藤や及川や美里に見られて大晦日から元旦を共に過ごしたことで言われるおめでとう。ありがとう。いやそんな風にはなってないんだってば。

 けど大爆発してミス農大のステージでストーブを放り投げたみたいに荒れる西野円。若いとか真面目とか酒蔵の娘とか決めてかかられることに憤り反発する、それは青さかもしれないけれども決めつける側だって対して歳も違わない大学生とかそんなもん。ちょっとの違いで先輩面され知った顔されればたまらないだろうなあ、でもちょっと怒りすぎ。何があったんだ父親と。そしていったいどうしたいんだ。そこに絡む沢木直保の運命と貞操。結城蛍はそこにいったいどう絡む。気になるこれからだけれど次に載るのはいつだろう。その前に「もやしもん」が大フィーチャーされたオクトーバーフェストをどうしよう。グッズ欲しいしなあ。

 なんかいつも見ている日刊スポーツのサイトで大谷くんだっけ、北海道日本ファムファイターズからドラフト1位で指名された選手が最初はメジャー行きを決意していたものの、日ハムの栗山監督が紫色の勝負マフラーまいて直談判に訪れたことでぐっと心を傾かせ日ハム入団も間もなくだなんて話が出ていたけれど、別のスポーツニッポンを見たらどうやら当初の意志どおり、メジャーに行くことを決断して日ハムを袖にするらしい。まるで真逆のこの論調。けれどもそれなりに給料をもらっている記者たちが、どちらかが正しくてどちらかが間違っているようなことを書くはずがない。つまり。

 日ハムは北海道という地の利をいかし対岸のアラスカでアメリカに接していることを理由に日本プロ野球機構から脱退して、MLBの加盟してアメリカの大リーグ球団とまずなってそこに大谷くんを招き入れるってことなんだ。これなら日ハムに入ることは正解だし、メジャーに挑戦することも正解。それを1度に一緒にかかないであちらこちらに小出しにして攪乱するのはそれぞれが、違った論調で関心を誘い両方買って貰おうという算段に違いない。この情勢で売るためにメディアもいろいろ考えているんだなあ。そしてところで大谷くんはいったいどこに行く気なの。

 そんなにあからさまに下着が見えるような表紙なんてもうライトノベルには少ないですよと言って言えないことはないけど赤城大空さんの「下ネタという概念が存在しない退屈な世界2」(ガガガ文庫)で男性用トランクスをしっかと握ってよだれをたらす美少女のなるほど胸元はすこし開き気味ながらも制服をしっかり着込んで清楚さを残している姿に安心して表紙を開いたら、口絵の扉がその少女が全裸でトランクスのたぶんスリットがはいった部分を口にくわえていたりする絵が来て誰もが本を取り落としそう。どこが健全なライトノベルだ。ってそれはタイトルを読んで築けよと。全くだ。

 なおかつ彼女。アンナ・錦之宮が加えているそれはに新品とか洗い立てとかじゃなく、ちょっと前まで奥間狸吉って少年が履いていたもの。それを嗅いでくわえてじゅるじゅるするってどういうことだ。そういうことだ。変態だ。いやでも彼女は生徒会長、品行方正な。ちょっとだけ狸吉くんに執心した。ちょっと彼が好きすぎるというか。うらやましいなあ狸吉。でも朝に押し掛けられ包丁つきつけられ身ぐるみはがされるんじゃあたまらない。なおかつ彼女は敵、狸吉が所属する世界に禁止されたエロを流布する集団<SOX>とそこを率いる華城先輩の。

 巻きこまれるようにエロテロに走るようになった華城先輩と狸吉の戦いとエロワード満載の日々がまさか続いた第2巻では4つあるエロテロ組織の2つに資金供給している偉い人の娘がオヤジは生ぬるいと飛び出し<SOX>のところへやって来て、狸吉に取り入り華城先輩に近づいてそれなりな成果を上げるけれどもそれでもやっぱり生ぬるさを感じて、全身をつなげたパンツで来るんで濡れたパンツを嗅ぐ変態野郎率いる下着ドロボウ集団に与して、一気に世界をひっくり返してエロに溢れさせようと企む。

 けど静かに確実に変えていくことが目的の華城たちとはあいいれず、激しい弾圧を生むだけの過激さが何も生まないと気づいて心入れ替え収まって次、アンナは相変わらず殺気を立てて狸吉に近づきお着きの月見草朧って美少女は狸吉の電気あんまに悶絶する体質。体質って……? それはつまりな訳だけれどもそんな増えたキャラを絡めて次にどんなハードな弾圧とそれをかいくぐる戦いが繰り広げられるのか。1発ネタかと思ったら案外に硬派になって来たなあ。「空知らぬ虹の解放区」とも合わせて世みたい1冊。ただし表紙をめくるときは周囲の視線に気を付けて。

 三日天下というか天下すら取らない前に名前が消えた太陽の党にくらべれば半年近くは名前はもったようだけれどもこにきて「国民の生活が第一」までもが第三極の流れに載れといわんばかりに滋賀県知事が突発的に立ち上げたっぽい「日本未来の党」に合流して党名が消えてしまうとか。おいおい俺たち私たちは国民の生活が第一だという小沢代表の思いにくっついて民主党を出て結党したんだぜ、それを戦略か何か分からないけれども国民の生活が第一だという理念をそのまま名前にした党を解党されちゃあたまらないぜ、って思う人がいたらそれは見識のある人だろう。普通は誰だってそう思うし。

 けれど大抵は小沢さんについていきましそれが何であれ的な人だから、名前が日本未来の党で坂本龍一さんだの加藤登紀子さんといったレフトハンドな人たちまでもが賛同者になりそうな党に合流したところでこんな筈じゃなかったとは気にも留めないんだろう。それがだから訝られる要因にもなっているんだろうなあ。もしもレフティーな傾向の人たちが入ってきてラディカルに脱原発というより反原発を唱え反権力を言い出した時に小沢親派な元民主の人たちが何を言うか。それがちょっと興味深い。地元にもそういう人が1人いるし。さっき見てきたらいつも使ってるヤマト運輸の配送センターの隣に空いてた部屋に事務所を開いてた。ポスターも作り替えなくちゃいけないしそれはそれで大変だと同情するけど、でも選んだ道だ、真っ当して突っ走れ、応援するかどうかは別だけど。まだ本人見たこと亡いし。


【11月26日】 電撃文庫について言うならチャレンジ精神はどこのレーベルよりも旺盛で、上遠野浩平さんの「ブギーポップは笑わない」とか表紙絵のセンスなんかも含めて当時にはないスタイリッシュな雰囲気を醸し出してレーベルの印象を押し上げたし、秋山瑞人さんの「猫の地球儀」は可愛い絵を隠れ蓑にしてその裏でハードな人類滅亡後の未来の宇宙なんかを描いて見せてSF方面へとレーベルの存在感をアピールした。そして橋本紡さんに「毛布おばけと金曜日の階段」というSFでもなくファンタジーでもない日常が舞台で心を痛めた少女たちの姿を描いてそんなものでもライトノベルになるのかと驚かせた。そうした時代を先取りするようなチャレンジがいつしか時代を取り込み、支持を集めて今のトップレーベル奪取へと至る、ってのがひとつの史観。

 当時の「毛布おばけと金曜日」に感じた驚きはまんま「半分の月がのぼる空」へとつながっていって、日常のボーイ・ミーツ・ガールがテーマになっても成功できるんだという可能性を見せて、今の日常系ライトノベルの隆盛を呼び込み、そこから一般文芸の世界へと出て大活躍する人たちの存在を生みだした。とられるばかりではと内部に受け皿としてのメディアワークス文庫を作って、そこにマッチした作家を集めたり、電撃文庫の枠組みに収まらない作品を出したりして作家と作品の幅を広げていった果て、「ビブリア古書堂の事件手帖」というヒット作が生まれた。「毛布おばけと金曜日の階段」はだからライトノベル出身者が一般文芸で活躍し、一方でアスキー・メディアワークスから月9ドラマの原作になる作品が出てくる状況を作り出した、ターニングポイントと言える作品なのかもしれない。

 だったら橋本紡さんがメディアワークスでずっと書き続けていたらどうなったか、っていうとやっぱり先過ぎて受け入れられないままにフェードアウトしてしまった可能性もあるから何ともいえない。有川浩さんが「図書館戦争」で世に出たあとに幾つかハードカバーの作品を出したものの、それが同じようなヒットをしたって感じでもないのはやっぱり集中してアピールして存在を世に知ってもらう段階に、当時はまだ来てなかったってことなんだろー。そこで「半分の月がのぼる空」のような作品を書き続けていたらレーベル内での存在感は安泰だっただろうけれど、当人がそれを良しと考えなかったのはひとつの判断。かくして外へと出て「流れ星が消えないうちに」を出して「月光スイッチ」とか「空色ヒッチハイカー」とか出して今へと至る。

 そこでの存在感がだったら桜庭一樹さんとか有川浩さんとか高殿円さんとかに比べてどうだ、ってなった時にやっぱりどこかインパクトに足りていないといった印象。あるいは窪美澄さんとか辻村美月さんとか湊かなえさんとか。本屋大賞の候補にも直木賞とかの候補にも挙がってないし。割と空気は似ているし、ライトノベル的なポップさを持ち得ながらも女性の今を、家族の今を描いく作風も似通っていて、なおかつそれを手がけたのも早かったのにこの差は、ってところでやっぱりタイミングってものが意味を持ってくるんだろうなあ、世に問われ紹介されるタイミング。そこにだったら乗り遅れてしまたのか、まだこれから乗るチャンスはあるのか。新刊の「ふれられるよ今は、君のことを」(文藝春秋社)の広がり具合がひとつの判断材料になりそう。

 これは不思議な話で女性が男性と暮らしていて食事を作ったり作られたりしている場面から始まる。結婚をしている感じでもないからいわゆる同棲ってことになるんだけれど濃密な恋愛関係にあるかというとそういう汗とか何かを感じさせるような描写はない。草食系ヒモ男性ととキャリア女性の大人の恋愛模様? なんて思わせて進んでいく話は女性が中学校の先生をしていて、そして熱血教師を言うよりは無関心教師で勉強は教え生徒の面倒も見るけれどものめり込んでいくようなことはない。それなりに積んだキャリアの中で突出すれば叩かれ削られることを分かっていて、大過なく送れればそれで良しといった妥協の中に自分を漂わせている。

 ひとりでいることは強いことかもしれないけれど、ひとりでいつづけるのは強さだけではできないこと。誰かと触れあい語り合った経験がもたらす開明は、そのまま読む人の都会で一人暮らしをしていたり、誰かとあまりうまくコミュニケーションをとれない人たちの共感を誘いそう。だから朗読会にもそんな人たちが集まったんだろうけれど、最後のさいごで開かされる女性教師の実体は、今というよりむしろ彼ら彼女たちにとって未来に訪れるかも知れない可能性への恐怖を誘うもの。今この時を寂しく過ごしながら遠くない未来に訪れる死を思う層にこそ受けて当然の話が、なぜか若い層に読まれているのはこの現在が、未来においてもなおいっそうの孤独を生み、そこへの恐怖を誘うものだから、なのかもしれない。世代に狭く絞った作品ではなく普遍の恐怖を誘い慰撫する小説、って意味でこれまでより広く届くかもしれないなあ、この作品は。どうなるか。

 やっと見た「絶園のテンペスト」は無人島の姉ちゃんが実はアンコ好きとかではなく、既にどうにかなっていたとかいった話になっててだから樽の中の髑髏は本物とかって超展開。骨と骨とが針金とかで結んでなければ頭蓋骨を持ち上げてそのほかが全部ついてくるなんてことはないけどそれは鎖部の魔法の力があの形を保たせているんだろうかどうなのか。しかしだとしたら誰が妹ちゃんを殺害して兄貴と友人をこの戦いに巻きこんだのか、その目的とするところは。過去も未来も含めて始まりの樹によってすべて支配されている、なべて世はこともなしなんて展開が待っていたらいやだなあ。エヴァンジェリン嬢の活躍がいよいよありそうでそっちに期待。「イクシオンサーガDT」は特に話進まず。でもゲーム世界のタームを現代語に翻訳すると結構、世の中を諭せると分かった。いつか使おう。

 気がつくと「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見た人が200万人を超えて今日にも興行収入が30億円に達するという話。そのうちの4人分が僕だとしても他の199万9996人が見ているというのはやっぱり凄い。もちろんこのうちには激しいリピーターもいるんだろうけれど、1度見て2度見ようという気を起こさせるのはなかなかに困難なほどに分厚い壁を設けてあるだけに、それを突破してまた見る人はどこまでいるかと考えた時に初見で100万は超える人が見ていると考えるのが妥当。あるいは150万人か。そのうちの5分の1がまた見に行ったとしても何億円かの上積みはありそうだし、そもそもが公開から1週間と2日では未見の人だって相当いそうでこれが駆けつけそこからリピーターが生まれた暁に、いったいどれくらいの興行収入になるのかちょっと想像がつかない。勢いだけなら前の倍だけど1度見れば十分だった全作とは違うその中身。だけにやっぱり凄い数を記録しそうな予感。果たして。

 そして発表になった紅白歌合戦にきゃりーぱみゅぱみゅさんが登場との報。すげえなあ、まだ去年デビューしたばかりで実質的には今年に入って活躍し始めたって感じなのにもう。あのPerfumeが何年もかけてようやくたどり着いた場所、水樹奈々さんがやっぱり何年もかけてたどり着いた場所で田村ゆかりさんは未だに届かない場所にあっさりと出るという、これがカルチャーにおける差異ってやつなんだろうなあ。どっちが優れているってことではなく、マスメディア的なスターとポップカルチャー的なスターという。その垣根は崩れていても、一線においてやっぱり残るものがあってそこをかろうじて踏み越えたのが水樹さん。さいしょっから向こう側にいたのがきゃりーぱみゅぱみゅ。難しいし悩ましいけどこれからはそれらがもっと気軽に行き来できるような空気なり土壌が生まれて欲しいものだなあ。とりあえずおめでとうと親戚一同が喝采。


【11月25日】 人気漫画家に芥川賞さっかをわんさと引き連れ独立して、マネジメントを始め今時の大手マスコミに批判的な人たちからやんやの喝采を浴びつつ、その抱えている人たちの面子にこりゃ成功間違いなしって思われそうな会社を自ら差して「今までになかった職種の会社」って言い放ってしまえる神経がどうにも引っかかって仕方がないのは一方に、10年以上も前から未だ海の物とも山の物とも知れない素人を抱え売り込み本を出してもらってそして直木賞を取らせたり直木賞候補にしたり引きこもりのトップランナーに仕立て上げた会社があったりするからで、なのにそこへの目配りもなく気づいてないのか気づいていても知らん顔をしているのか、分からないけれどもやっぱり釈然としない中でボイルドエッグズは変わらず新人の発掘の邁進中。

 そんなボイルドエッグズ新人賞を受賞して、今回はここからの刊行は最後になってしまう産業編集センターから出た大橋慶三さんの「じらしたお詫びはこのバスジャックで」読んだらなかなかに面白くって興味深い設定のストーリーだった。舞台は東京ディズニーランドへと向かうバスの中。ツアーっぽいのに市中を走る乗り合いバスが転用されたかチープなバスに乗り込んだ家族やカップルや1人ものたち。いずれも揃ったかのようにナイーブでセンシティブでネガティブな人たちばかりが乗り合わせたバスで、1人が暴発するかのようにバスジャックを起こしてしまったからもう大変。臆病で弱きで繊細な人たちが、そんな人に引きずられるように連鎖的に自分を奮いたたせ、爆発させては何かをつかもと足掻く。

 普通だったらネガティブがいたらポジティブを置き、ナイーブがいたらアクティブを置いてバランスを取るのがキャラクターの配置って奴だけれど、そんなセオリーをはなっから無視した軟弱物たちのバスツアー。けどだからこそ浮かび上がってくる誰もが抱えている弱気があり、それをどう覆いどう変えて前向きになるかっていったプロセスを感じ取れる。1台のバスで次々に起こる主客転倒とそして告白合戦。「十二人のやさしい日本人」とか「キサラギ」といったワンシチュエーションの舞台に近い雰囲気を読んでいて感じたりする。だったらいっそそんな舞台にしてみて面白いかも。バスに乗り合わせた弱くて優しい連中で、自分なら誰に近いかなあと考えて見るのも一興。僕ならミッキーおたくだろうか、口先だけの教授だろうか。

 せっかくだからと東京国立近代美術館で開催中の「美術にぶるっ!」って刺激的なタイトルがついた展覧会を見物。常設店をもいっしょくたにして日本の近代美術史をふり返るって試みなだけに、いつもだったら常設展になってて企画展を見たあとに、そのチケットで入って上がった4階にある休憩室で皇居のまわりをぐるぐると回るランナーたちが、いずれバターにならないかを、まさしく虎視眈々と眺めていたりするものが今回はいきなり展示が4階からスタート。その早々に休憩室に入り込む訳にもいかないんで早速展示を見始めて狩野崩崖すげえとか、上村松園美しいとか小倉遊亀素晴らしいとかそんな感想を日本画に抱く。

 明治を過ぎても日本画って線が綺麗でフォルムもしっかりしていて淡さでそれっぽく見せるなんておとはない。崩れたり歪んだしりしたら途端に見苦しくなるギリギリのところでしっかりと線を引き、ぬって形を作り見せるその技法が日本のアートシーンの原点だとしたらなるほど、昭和に入って絵ではなくなったとしても様式美に優れたグラフィックとかを生みだし建築物を造りだしプロダクツを送り出せたことにも納得が行く。後半に出てくる亀倉雄策さんとか別の休憩室にあったバタフライチェアの柳宗理とか、本当に凄いセンスでもって世界に通じる作品を世に問うていたものなあ。横尾忠則さんのように一件無秩序でもそのなかに様式美を持ったグラフィックもあったりしたし。そんな伝統は今何処? 松井冬子さんは凄く頑張っているけれど、技法よりモチーフで受けているところがあるんだよなあ。それも悪くはないけど普通に美的なもの、歴史的な物を描いて受けないのか? 受けないんだろうなあ。

 あと小倉遊亀さんで凄かったのは風呂場の床のザラつくように石を埋め込む細工を絵に描いてみせていたこと。目を近づけると画布に点々と細かく絵の具が塗ってあるんだ。草間彌生さんだって驚きのドットペインティング。それを風呂場の床に見えるように描いている。すごい技術。それを平気にやってしまえる日本画の凄さってどこに行ってしまったんだろう。今もちゃんとあるんだろうか。知りたくなった。洋画ではいつ見てもかっこいい古賀春江の「海」が今回も大きく(サイズが変わるわけじゃないけど)展示中。潜水艦と美少女ってモチーフはオタク心をくすぐるねえ。いやそれが目的の絵じゃないけど。美少女は反対側の工場との対比、そして潜水艦は魚で飛行機は鳥、人工と自然の対比を描いた作品ってことらしい。そうだったんだ。来て良かったよ。

 これもいつも展示していあるけれども藤田嗣治のアッツ島玉砕にサイパン島自決の2枚の絵はその潔さって奴を当時は讃えていると思われていたのかもしれないけれど、それでも明るさの微塵もない絵を見て悲惨さを覚えない人はいなかっただろう。戦局も終末を予感し始めていた当時にこの絵が描かれ見せられたってのはだから厭戦気分から終戦へと至る道を探り広げるためのものだったのかも、なんて気すらして来た。だから今もってこうやって一般に公開されているんだろうなあ、戦意高揚が過ぎる絵だとそれに荷担したことを嫌がり作家が、あるいは遺族が出させないだろうし。

 そうやって感じ取らされた厭戦気分は第2部の「実験場1950s」ってコーナーに行くとさらに強まる仕掛け。何やら不穏な空気が政局から漂い臭い始める中でそれに逆らい棹さしてやろうってキュレーターの意気込み? けどもしも靖国大好き総裁が政権をとったら公の秩序を乱すような行為は表現の自由を制限しても取り締まられるらしいから困ったもの。というか公の秩序って何なんだ、その政権が意図する事態に反意を示せばそれは公たる政府の施策という秩序を乱すことになるんだって言われて取り締まられるなんて事態すら、想定されてしまいそう。というかそれが狙いか? 違うと言われても勘ぐられかねない文言を、敢えて憲法改正に盛り込むんだからやっぱり意欲満々ってとられても不思議はない。だからこそ注意していかないと。政治の行方に、選挙の結果に。

 それでもやっぱり強くなくっちゃね、とか言いたい人はだから国立近代美術館の展覧会の第2部の入り口までやって来て、流されているニュース映像をまずは見ろ。原爆投下から7年経って慰霊碑が作られたことを知らせるニュースには、1945年8月6日に原爆が落とされた直後の広島のどこまでも焼け野原が続き瓦礫の間を焼け出された人が歩きあるいは車でひかれ、そして全身を焼かれた子供や大人が懸命の治療を受けている様子が映し出されている。その幾人かは助かったかもしれないけれど、まだ無事そうに見える人でも原爆症によって亡くなっていった可能性は大。そんな悲惨で非道な様子を目の当たりにしてまだ戦争がしたい、核兵器は持つべきだって言えるのか。

 言える人もいそうだから困るんだけれどでもそれは幾人かで、多くはやっぱりどうしたものかと思うだろう。今の多くは知らないか知らされていないだけなんだ、あの惨劇を、映像とかで、あるいは文章で。さから空虚になっている。絵空事になっている。それをもう1度、現実として引き戻させる効果がこの映像と、土門拳さんらによる写真なんかによって示されている。そうやって言えるのも平和憲法の傍らで米軍に守ってもらったからだ、なのに安保反対とかいって闘争するのは矛盾してないか、って続く展示で激しい安保闘争の映像とかドキュメンタリーを見せられて思いそうにもなるけれど、その当時の米軍がどれだけの地域を接収していたかを考えると、やっぱり反発が生まれるのも仕方がない。今はまるで事情が違って米軍基地の規模も縮小され日本人も豊になった。だからこそ日本が軍隊を持って自らを守るべき、と転がる筆もありそうだけれどその辺りの妥協を探り、専守防衛としての武力は持ちつつ軍隊ではない自衛隊の価値を認め高めていくのが真っ当な道筋、なんじゃなかろーか。

 ほかに面白かったのは「へそと原爆」という細江英公さんの映像作品であの土方巽さんが踊っているというだけでも凄いんだけれど砂浜で男の子たちがわんさかと出てきてそれも素っ裸で走り回るのがそのまんま映されているのも凄かった。素っ裸だからもちろんついてるしぶらさがている。それが見えるだけならまだしもアップで真横から映し出されては突起のある岩の島を重ねて形比べなんてことまでしている。あとはのけぞっている男の子のそこを真正面からアップでとらえているとか。ショタな人とか見たら狂喜乱舞しそうだけれどそういう趣味の人が溜まって眺めているという感じでもなし、というか日曜日なのにあんまり人がいないのがモッタイナイ。日本の美術をふり返り戦後しばらくの美術を運動とともにふり返る最適な展覧会。ここで受けた刺激を今に繋げ未来に育んで欲しい。そのためにも若い人に見て欲しい展覧会。

 そして荻窪で開かれていた「橋本紡朗読会」なるものに参加。新刊「ふれられるよ今は、君のことを」(文藝春秋刊)について語り合うイベントとして急遽セッティングされたみたいだけれど会場は40人とか50人とか来て満席に。そのことごとくが20代から下は10代もいたみたいでいわゆる一般文芸の作家で、これだけ若い人がしっかりと、朗読会のようなイベントにやって来るとはどういうことなんだろうかとも思ったりもした。そりゃあライトノベルで出してた「半分の月がのぼる空」のファンなんだろうと思ったらこれも違って、文芸に進出した「流れ星が消えないうちに」以降、橋本紡さんという作家を読み始めた人も多数。逆に「猫目狩り」から読んでるなんてのは僕1人。そりゃちょっと寂しすぎるけれども今の10代が「猫目狩り」とか読んでいたら逆に怖いかも。10数年とか昔の本な訳だし。

 つまりシリーズの、あるいはそのキャラクターのファンというより橋本紡という作家とその作品のファンたち。それがこうやって現存するって点で作家しての強さがあるし、その年齢層の若さから将来性って奴も存分にある。きっと編集者にもファンがおおいんだろうなあ、だからこうやってちゃんと本が出て作品が書かれ続けている訳だし。何でも橋本紡さんの担当編集者は各社あわせて何十人かいるそうだけれど、そのことごとくが女性とか。男性作家に男性編集がつくのが普通らしいけどそうでもないのが彼の場合。あるいは書くものが女性の心理をピタリと言い当て、ために女性作家の棚にしばらく置かれていたことと関係があるのかもしれない。ライトノベルから映っていった人だと昨今、女性作家の活躍ばかりが目立つけれども橋本さんならその作風から、むしろ受け入れられるのかもしれない。「もうすぐ」では何か男性が描いていることが仇になったけど、今はまた状況が違うし。


【11月24日】 ゆるゆるとして話が進まない「K」は淡島世理のあんこ好き描写にこだわって前半は飛行船で空を行く王様をどうするか話に終始し後半は王様を捕まえに行く展開で終わって最後はドカンで半歩進んだといった感じ。前半でそこまで活かせて後半は実際のバトルへと向かわせれば溜飲も下がったんだろけれど、無理に引きを作って次へと誘うのも手だと思ったか。見知った人が大勢で脚本を次を考え無茶できないって考えてしまうのかなあ。1人勝手に大きく進めて後を刺激しならばと誰かが大転回するような無茶は起こらないもんなあ。まあそれでも見るけど、世理さん目当てで。そういうものだ。

 何かもはや元旦の朝って感じの寒さと日射し。たぶん日射しは冬至を挟んで元旦とたいして太陽の高さが変わらないからそう感じるんだろうけれど、寒さはやっぱりちょっぴり早い冬の訪れ。そんな中を遠出する気もなく、ジェフユナイテッド市原・千葉のライバルとなるJ2にどこが落ちてくるかを観に出かける余裕もなく、近場でやり過ごそうと調べたら木場の109シネマズで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の上映がだいたい間に合いそうだったんで向かうことにする。昨日見たばかりでまた観るなんて好きだなあ、自分。

 そして4度目の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」観賞、こんどはスクリーンに向かって右側から。それは横浜ブルク13で観たのとだいたい同じ位置か。「何もしないで」「エヴァにはのらんといてください」の声が重なり再生される場面がどう聞こえるか興味深かったけれど左側で聞くのと位置が反対になったくらいでどちらかに寄っているって風はなかった。真ん中だと包まれるように聞こえるのかなあ。ようし次は真ん中で観るか。ってそんなに何度も観る気がする映画なのか? 観る気にさせられる映画なのだよ「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は。

 まずアスカの尻とマリの胸を何度だって拝みたい。シンジと対面してずずいっと迫って来るシーンから動作して背中を伸ばしたシーンのお尻の丸みとか、最後の方で仁王立ちになって見下ろしているシーンとか、砂地をさくさくと歩いていくシーンとか、どのシーンをとってもその決しておおきくはないけどしっかり丸いアスカのお尻は何度でだって何十度でだって拝む価値がある。マリの胸は登場シーンこそ少ないもののしっかり丸くてそして揺れる。プラグスーツって案外薄い素材で出来ているんだな。コスプレの場合だとレザーっぽく押さえつける感じになっているから揺れないんだ。改良の余地ありだな。

 そんな好きなビジュアルを何度で観るという意味なら「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」に出てくるさえ子登場の顔とかおばあちゃん家に帰った時の「ユウタくん来たよー」のとぼけた声とか、ユウタがさえ子を引っ張り境内を駆け上がるシーンのとんでもなさを何度も観て何度も感涙するために通うのと変わらない。変わらないのか? まあそういうことで。でも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の場合は観ることによって、あるいは聴くことによってより作品が持つ意味って奴に迫れるような気がして通わずにはいられない。

 ここではっきりと言えることは、1度目と2度目で印象がガラリと変わる。1度目はひたすらに碇シンジの自分中心の言動、周囲を読まず上の言うことを聞かない態度にいらつかされ、そんなシンジに説明をせず憎しみの目を向け放っておく周囲の無理解ぶりにいらつかされて作品が何を描こうとしているのか、それすらもよく見えてこなかった。2回目に観るとそうしたいらつきがそういうものだという了解の後ろに抑えられ、宇宙で、地上で、日本で、世界で何が起こっているのかが分かるようになり、そんな状況の中でシンジが、アスカが、マリが、カヲルがゲンドウがミサトがリツコが何をしようとしているのかが見えてくる。

 襲ってくる謎の敵を退けながら友情を高め成長していくという有り体のドラマなんてそこには既にない、1歩も100歩も進んだ状況にいきなり叩き込まれていたんだからシンジが騒ぐのも当然。そのことに観る側として気づいて心落ち着かせ状況を俯瞰して見られるようになった2度目以降がたぶん、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の観賞のスタートラインだ。そうやって整理された状況からだと、シンジくんのあのテンション高過ぎな声もミサトの何かを飲み込み冷徹であろうと居続けている声もカヲルの優しさと老かいさを含んだような言い回しも、すべてに意味があるものに感じられるようになる。というか意味があるんだろう。でなければあんなに何度も演技させないって。

 1500円するパンフレットは開くと人物やらメカの設定画のほかは監督なり脚本なりの人のスタッフインタビューではなくってキャストのインタビューに占められている。その分量は膨大なんだけれど誰もがだいたい一様に、相当な数のリテイクをくらって戸惑いながらも演技したってことを話している。前回から間が開いているとはいえ誰もが超が付きそうなベテランの声優。その場に来てその状況を見て声を合わせるなんてことはプロフェッショナルとして出来て当然。数度のリテイクはあっても数十回も演じてなおダメ出しされるなんてことはない。

 脚本を読み、展開をさぐり、このくらいが妥当だろうと作って出したプロフェッショナルの声がリテイクされる。それはプロフェッショナルでも読み切れないものをこの作品に作り手側が込めているんだというおとを或いは意味しているんじゃなかろーか。だいたいこの辺りで収めれば双方とも了解できるといういつものパターンでは収められない何か。それを感じ取るには声優さんが繰り返し演じた何十度ほどではないけれど、何度か聴いてニュアンスを感じてそれがその声がその演技がどうして求められたのか、そんな声が乗せられた登場人物たちの姿から何が感じられるのかを掴む必要があるんじゃないのか。

 そこまでして緻密に奥深く計算されて作られた映画が総監督の自意識をただ垂れ流したい個人的な映画に収まっているとは思えない。今の時代にこれからの世界に伝えたいものがあるから作り、それを感じ取って考えるおとを要求している双方向に開かれた映画。加えてアクションがあり出会いと離別のドラマもあって楽しめるエンターテインメント。今までの何かを繰り返しつつバージョンアップして見せていた「序」に「破」とは決定的に違う領域へと足を踏み入れた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」はだから2度観るな3度観ろ。そう言いたい。観ればアスカのお尻もマリの揺れも3度観られる訳だし。結局はそこか。それでも良いから何度も観よう。僕もまた行く。アスカを観に。

 木場なんで折角だからと東京都現代美術館に行って「音楽とアート」展を見るけど疲れていたのかあんまり頭に入らなかったというか頭で理解してはいけなさそうな作品ばかりで疲れた身にはよく分からないといったところ。水の上に浮かび動く深皿がぶつかりあって立てる音が響き合う作品とか、ピアノの間を音声信号が飛びそれが音楽になって鍵盤を鳴らす作品とか分からないでもないけどありがちといか。作った努力は買うけれど。武満徹さんの楽譜とかそれ単体で置かれてもやっぱり意味が。凄いんだけれど凄さが分からないのはこちらの勉強不足とはいえそれが芸術かと言われると。悩ましい。

 そんな中では輪切りにした木の年輪に光センサーをあててその位相から何かを読みとり音楽に変える装置ってのが面白かった。あのギザギザに法則性を見出しているのかどうかは分からないけれど、案外に綺麗な音になってそれが中心に近づくと密度が高まるせいか音楽にも速度が出たりして木の持つ成長の歴史って奴が何とはなしに感じられた。3種類ある木の何だったかは不明。このギザギザをどういう音に変えるかのアルゴリズムに苦心したのかな。どうなのかな。常設店では亀倉雄策さんと横尾忠則さんのポスターをいっぱい。やっぱり格好いいなあ東京五輪の五輪と文字だけのポスターは。横尾さんは「渋澤さんの家の方へ」がくっついたポスターもあった。土方巽さんの舞踏のポスター。歴史が詰まっているなあ。


【11月23日】 やっと見た「ハヤテのごとく! CAN’T TAKE MY EYES OFF YOU」の新シリーズはどうやら謎のカラスが送り込んだらしい自称ナギの妹が、どうにかこうにかラスベガス行きの切符代をせしめた様子のその裏で、ゴージャスにナギとハヤテとマリアさんとが自家用ジェットで一直線にベガスに飛んで、父親が盗んで逃げて事故に遭って警察に預けられた呪いの時計をどうにか確保、したと思ったらハヤテにいきなり災難が降りかかり、迷子になるは金は持ってないはニューヨークに行ったと思ったら突然の飛行機の不調でベガスに降りてた西沢さんと遭遇して、目に入ったゴミを取ってあげていたら勘違いされてナギにボコボコにされるはとさすがの威力。けど針が8に揃うと良いこともあるってんできっとそれまで溜め込んだ不幸のマイナス分を反転させたプラスが現れるってことになるんだろうから我慢だハヤテ。んでどうやったら8に針が揃うんだろ。

 さあ決戦だ勝つぞ勝つぞ勝つぞって意気込みで総武線を途中の秋葉原で降りてゴーゴーカレーに寄ってカツカレーを食べてそれから再び総武線に乗って向かうは国立霞ヶ丘競技場。J2暮らしも3年になってなかなかJ1に上がれず今年も本当だったら5位でJ1なんてお呼びもつかない順位だったにも関わらず何かの温情のようにプレーオフ制度ってのが導入されて3位から6位までのチームが争いJ1への3枚目の切符を狙うトーナメントを開催。その初戦で横浜FCをコテンパンにしてあと1勝、否あと1引き分けでもJ1に復帰できるというところまで我らがジェフユナイテッド市原・千葉が来ていたのだったとう。おお。

 実は今年はまるでフクダ電子アリーナに行ってなくって、半ばJ2残留も当然と思っていたけれど、こうなったら昇格のシーンくらいはこの目で見たいとチケットを買い、メインスタンドに陣取りジェフ千葉のベンチ裏から試合を見て、残り10分を切るまで大分トリニータを相手に0対0でこれは勝てるぞいや勝てないけれども引き分けでJ1に上がれるぞなんて期待してしまったのがいけなかった。後半も終了間際に投入された元ジェフ千葉の林丈統選手が、最前線に居残っていたところに放り込まれたボールが1つ。それをすかさずキープしゴール前まで言ってキーパーの岡本選手の頭を越えるオシャレなループを決めて大分トリニータが1点を選手。そのまま逃げ切ればJ1に復帰という試合をやっぱりそのまま逃げ切って、こちらも3年のJ2暮らしをどうにか抜けだしお先にJ1へと行ってしまった。おめでとう。

 前戦に立って縦横無尽に走り回ってジェフ千葉の攻め手を摘んだこちらも元ジェフ千葉の村井慎二選手といい、2人のOBの活躍もあって得た大分トリニータの昇格でありジェフ千葉のJ2残留を、まだ使える選手を使わず放り出しては新しく取った選手が活躍しないジェフ千葉にとっての因果応報と見る向きもあるだろうし、事実そうした側面もあるんだけれど、今いる選手だってそれなりに力を持った選手たち。それがこの土壇場に昇格を争うような事態に追い込まれていた時点で、上がれないのも当然だったのかもしれない。こんなところにいて良い筈がないチームなら、普通に1位か2位で昇格を決めていたはずだから。

 その後に2メートルオーバーのオーロイ選手を入れてみたけどポゼッションから前に出て前線にいるオーロイ選手に当てるような戦いぶりが瀬戸際でできるはずもなく、後方から無理に前に送ろうとしては途中でカットされてオーロイ選手に届かないようなプレーの繰り返し。これじゃあ何のための2メートルオーバーなのか分からない。そういう時こそ落ち着いてサイドから持ち上がって前線にオーロイ選手を立たせ会わせ落としたところを突っ込むようなことをしないといけないのに。そこがやっぱり焦りって奴なのかなあ。同じ焦りをジェフ千葉が先取することで相手に与えたかったよ。

 そのあたりもまだやっぱりJ2のチームでしかなかったってことで、やっぱりあと1年2年は修行して、戦い方って奴を学んだ方が良いのかなあ。東京ヴェルディもそういやあ長くJ2にいるしなあ。残る問題は木山監督の去就か。終わり掛けこそプレーオフに持ち込み良い試合を見せたけれど結果として上がれなかった責任と、あとやっぱり途中で下位のチームを相手に散々取りこぼして楽勝だったはずの自動昇格をふいにしたことの責任って奴がかかってくるんだろうなあ。じゃあ代わりは、ってことでいつも見つけらなかったジェフ千葉。いっそ西野朗監督とかに頼んでみるか、リアリズムって奴を教えてくれるから。

 悲しみよりもこれじゃあしゃあなしって気分を周辺のメインスタンドで観戦していたってことはファンだけれどゴール裏に立つほど熱くはないだろう人たちともども感じつつ国立競技場を後にしてさあこの泣くほどではないけれども残念ではある気持ちをどうしようかと考え「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見に行くことにする、3回目。まあ唐突だけれど調べたらワーナーマイカル市川妙典の時間帯がぴったしだったんで帰りがけに寄ってみたという次第。1番大きいくらいのスクリーンは前方のエリアに人がほとんどいないという状態で満席ばかりが聞こえてくる都内とはちょっと事情が違いそう。それとも知られてないだけなのか。見るならワーナーマイカル市川妙典最高だぜって教えておく。でもって前と同じ前エリアのスクリーンを見上げる位置から観賞。面白い。見れば見るほど面白さが増すのってちょっとあんまりないんじゃないかなそんな映画。

 「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」は9回とか見てその度に感動したり泣いたりするんだけれどそれは増すというより再認の感動。でも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は1度目ではシンジくんのガキっぷりに心が痛んでそのガキっぷりを窘めず慰撫もしない周囲にも苛立って平静な気持ちで見られなかったものが、2度目に見たときはそんなガキっぷりをひとつの空回りとして受け止めつつそ彼に対して何も助言だの誘導だのできない周囲の気持ちって奴にも理解を及ぼし、細い線の上で張りつめたような感情が一触即発の状況で触れあっているのがあの状況なんだと思えてああいう感じになるのも当然という気になれた。ミサトのあの気の張りっぷりたるや、見ていて痛々しくなってくる。それでいて逃げていくシンジの首輪を閉める装置を発動できず「シンジくん」と呼なその未練。あれでやっぱりミサトさんなんだと思わせてうれた。

 そして3度目はそんなシンジくんを囲んで周囲が居たたまれない気分でいる中で1人、アスカだけは怒るにしても嘆くにしても侮蔑するにしてもシンジくんへと向かう感情を持ってそれを発露させぶつけようとしている、そのある面での優しさって奴が伝わってきてアスカがますます好きになった。元よりその活発さで大好きだったけれど「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」でアスカは女神になった。願うなら最後の「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:||」でもアスカには気丈で綺麗でいて欲しいんだけれどそこを容赦なく潰してくるのが庵野秀明監督だからなあ。ともあれ楽しみ。設定面ではリリンが近づけない場所にいるというアスカのコメントからもはやシンジもアスカもレイは当然でおそらくマリも、人間とは違う生き物になっていたりするのかもと想定。じゃあ何だ。ロボットか。でもシンジくんご飯食べてたし。そんな辺りの答えにも期待。


【11月22日】 黒神くじら、ってめだかちゃんのお姉さんでまぐろさんの妹だから歳は17歳とかそんなもん? な割には何か恰好がちんちくりん。でも胸だけはめだかちゃんすら上回ってそうなところに、人間の発達の不思議さって奴をちょっとだけ感じてみたり。でもってそんなくじらがくじらとして登場した「めだかボックスアブノーマル」は、阿久根先輩の戦いにもなかなか傷つかなかった古賀いたみちゃんも押さえ込まれてスタミナ切れしてジ・エンドに。けど、くじらをくじらと気づいたまぐろ兄さんのちょっかいで戦い続行となったところに壁をぶち破って現れためだかちゃんが、そこに姉を発見してそして始まるのは戦いかそれとも再会を喜ぶハグか。注射器ぶちこまれ薬剤流し込まれて終わりそうだなあ。なんてことはなく続くだろう死亡遊戯の逆パターン、地下へと降りていく戦いの果てに待つのは何だ。単行本を読めば分かるけど読まずに我慢して毎週の愉快な展開を楽しんでいこう。

 なるほど飛行機の中で赤ん坊が泣いているのが耳障りだと抗議すること、それだけなら我慢ができない人種の悲憤と思い同意はせずとも理解を及ぼすことは可能だったかもしれないれど、それを航空会社に抗議する際に、己を何処かの媒体に執筆をしているジャーナリストなり作家なりといってどうしてそういう事態が起こるのかを取材させろ記事にするからというのは、媒体というある種の権力を背景にしてのプレッシャーでしかない。そのもともとの発端がひとつの私憤であったという点で、普通の媒体だったらそれを当事者に行わせせず、別の中立性を持った人間に双方の言い分を聞くような形で記事にするなりコラムにするなりといった手段を選ぶだろう。たとえその目的がパブリックな問題に敷衍できるもので大事なことでも、発端に私怨と私憤があっては結果に公平性が保たれているとは誰にも思ってもらえない。そう考えるからだ、当然のように。

 そこの部分でまるで歯止めがないのが昨今騒動となっている一件で、普通の人なら抗議はできても相手の所までいって担当者から話を聞いて、会社の中を見せてもらうなんてことにはならない。できるのは背後に媒体という権力を背負っているからで、それを利用して悪を暴くといた名目は立つかもしれないけれど、だったら自分だけでなくその他大勢が悩んでいるだろうことも引き受け、公器として立ち公然のペンをふるうべきって話になる。でもそんなことをした節はない。やっているのは私憤を晴らすための抗議を公憤にすり替えているだけ。だからどこかに誰もが引っかかりを覚えて、なるほど確かに赤ちゃんが泣くのは仕方がないことかもしれないけれど、そういう問題を皆で解決していこうねって雰囲気が起こらない。起こしてあげようなんて同情も起こらない。

 おまけにだ。こうしたやり口をどこか当然と考え振る舞っていることも、その身を作家であり世の中の悪を暴く正義のペンと認めて同意しようとする気を減衰させる。というかむしろ嫌悪すら浮かばせる。どこかの駅前に新しく作られるビルの中に出来るクリニックモールみたいなところに、亭主のクリニックが誘われ出そうかという話になって聞いたらどうも家賃が周辺より高いと分かり、幾つかのクリニックは出るのをやめたようだけれど自分たちは出る気があって、だから家賃を引き下げてくれという交渉をしようかどうしようかという辺りで生じた行き違いから時間が経ってしまい、話が進まないことに業を煮やしたか何かあって、遂に相手を訴えるということになった。

 高いと思ったら出なければ済んだ話を引き延ばし、出る気はあるのに相手が契約交渉に応じてくれないといった話でもって時間を引っ張り、その間にいろいろと心労が重なって、障害がある体がダメージを被ったということでいくらかの金銭を要求しているらしい。それだけならまあ、ひとつのクレーム話として収まらないものでもないかもしれないけれどもそうなる過程で、どうやら第三セクターであるそのテナントビルの契約の間にいろいろと業者が入っているのはおかしいということを言いだし、自分は作家でジャーナリストで第三セクターの上にあたる自治体の、そのトップにまで会わせろ取材させろ声を聞かせろと言っていたことを自ら明かしてしまっているから不思議というか。

 私憤であり私事での問題の解決に、雑誌鳴りメディアと言った公器が持つ権力をちらつかせて、それに一切の疑問も躊躇も抱いていないところが見られるのがどうにも分からない。もちろん媒体の側はそりゃあさすがにと思ったのかどおにも掲載させようとしなかった模様でそれを訴状にはエンターテインメントではないから載せられないといったとか、書いているところがまるで事情の見えてなさってやつを示している。そうじゃない、権力の濫用めいているから遠慮したんだよこの場合。ここに至ってしまう過程でも、弁護士が最初はあくまでビジネスとして家賃を自分たちにとって適正な価格にして出展を目指すことにしていたのに、途中から正義を糺すための行動だとか言い出しているのは妙だといって諌めたら、それを解雇してしまっていることを自ら明かしている。

 弁護士もさすがにわかって言っていたと思うんだけれど、それが自らに降りかかる自分に因もあるかもしれない矛盾であっても、誰にでも起こり得る社会の矛盾だと勝手にとらえ敷衍して公憤にすり替え憤ることが習い性になっているんだろうなあ。結果として私憤と公憤が入り混じってキメラみたいになった訴状が上がって受け取った側もきっとこれはどう扱ったら良いか迷いそう。幸いというかそんな妙さにあふれた訴状を満天下に晒して世の判断を仰ごうとしているから、読めばどれだけ凄まじいかも世間も気づいていろいろ言いそう。とはいえ、矛盾をはらんだものなら公開しないだろうしそもそも訴えない訳で、それを大っぴらにしてしまえる心性にやはり、事態の不思議さに気づいていない可能性を多いに感じさせる。どうしてこうなってしまったのかなあ。まあでも世間は正直なんでさすがにどこかで筋が通されると期待しよう。それまでは結果としてエンターテインメントになったその泥沼っぷりを観賞させてもらうことにしよう。

 中野サンプラザは去年も見ていたけれども武道館を経てアルバムも出してライブハウスでの演奏も重ねホールツアーを重ねてパワーアップして帰ってきたSCANDALのツアー最終日となった中野サンプラザは客層も無駄に騒がず一眼となって踊り腕を振り歌う感じにまとまって、良い熱気にあふれたものになっていた。そんなに前の方でもないけれどもサンプラザなんで見えない距離ではなくってそれぞれの演奏が指の使い方もスティックの振り下ろし方も含めてちゃんと見えてその演奏の確かさが、ちゃんと確実に積み上がってあの音場を作り上げているんだと分かったのも収穫。この分厚さなら大阪城ホールへと上がっても万の観客を乗せて騒いで踊らせることだって可能だろう。見たなあ、どうするかなあ、2013年3月3日。ファンクラブ会員になっているんだしここでやっぱり行くのが義務か、成長を見届ける大人の心情って奴も含めて。


【11月21日】 でだ、「エウレカセブンAO」の最終回が放送された訳だけれど、結局のところ何がやりたかったんだ、なんて感想があちらこちらからふわふわと浮かんではふくらみ溢れるこの数日。レントン、じゃなかったアオって男の子とナルって女の子の手に手を取り合ってスカブに溢れた世界を生きていく、レントンとエウレカにもあった恋と冒険の物語になるのかと思ったらナルはアオの横から消えたり敵に回ったり耳が生えたり取り外し自由だったりとポジションが見えないところに行ってしまってストーリーの軸から外れてしまう。

 かといっていっしょに組んだ2人もそれぞれに父親との葛藤なり私はここの生まれじゃないんだ別に戻る場所があるんだ的幻想なりを抱えてそれの解消が主題となって恋だの愛だのにかまけている暇がなく、アオとの絡みもそうした関係にはいたらなかった。でもって結果的にはアオと母親のエウレカとの関係がメーンとなってそのエウレカとレントンとの思いがアオという存在を作り活かし導こうとして頑張り、それに答えてアオが最後にクオーツガンを撃ってすべてをひっくり返すというファミリーな物語へと収れんされてしまって他の多くのキャラクターたちのその時もそれからも描かれないまま終わってしまった。

 まあきっとアオのことなんか忘れて仲良くやってますよっていう展開になっているんだろうし、それもまた設定を遵守するって意味では正しいんだけれど、正しければ感動するかというとそうではないのが物語って奴。覚えてないはずなんじゃがのうと蛍爺が言ってもそれでも覚えているからこそ再会の感動があった「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」じゃないけれど、そこに居場所を与えそれぞれの今を描いて良かったんじゃね、って感動を与えて欲しかったし、そうるすのが見てきた人へのくすぐりなんじゃなかろーか。やりたいことをやるのは構わないけどやりたいことだけやって商売になるのは「ヱヴァンゲリヲン新劇場」くらい。それでもいろいろと考えられている訳で、そこに至ってない多くの作品はもう少し考えるべきことを考えて、面白さを感じさせて欲しいけれども今言っても後の祭りか。でもそれでも見ていて楽しかったから良しとしよう。今は録画で良いからいずれボックス化されたら揃えようっと。

 じぐじぐとうわさ話では滲んで来たけれどもいざ、発表となると驚きと喜びと戸惑いが入り混じって不思議な気持ちにさせられる三上延さんの小説「ビブリア古書堂の事件手帖」(アスキー・メディアワークス)のフジテレビ月9ドラマ化。ライトノベルから出てきた作家さんの実質ライトノベルに近いテイストを持った作品が、数々の人気ドラマを生みだしてきて実質民放のドラマ枠の頂点とも言える月9に取り上げられるというのはとてつもない快挙であって、版元がアスキー・メディアワークスというそれほど世の中に知られた存在でないことも含めて今の時代のトレンドを、トレンディドラマとは良いながらも浮世離れしていたテレビ側がようやく掴んだ現れと言えば言える。はっきり言えばあり得ない。

 けどあったから驚いた訳だし喜んだ訳でもあるけれども一方で、キャスティングの方では表紙にもなりそれは本編の描写を実に的確に再現したものでもあった栞子さんという古書店の店主で巨乳でロングヘアの落ち着いて大人しそうな女性の役を、どちらかといえば元気そうだし最近はショートヘアにもなっている剛力彩芽さんが演じるというところでやっぱりすれ違いめいたものが見えてこれで大丈夫なんだろうかといった気分が浮かぶ。大丈夫かというのはやはりファンの反応であの表紙絵のイメージを物語に仮託し、というか物語のキャラクターがそのまま絵になったあの表紙絵のイメージを胸に刻んで読んで来た人には、あまりにもギャップがあるそのビジュアルにしばし戸惑いを覚えるんじゃないかといった点。もうひとつは剛力さんという女優がそのセルフイメージとは対極にある役を無理なく演じていけるのか、それで評判を落としたりはしないのかといた点になる。

 前者についてはもう決まってしまったんだからしょうがないという話でもあって、だからあの表紙のイメージはそれとしつつ剛力さんという女優を得て、いったいどのような栞子さんがそこに現出されるのかといった部分に興味を及ぼすほかに道はない。たとえビジュアルイメージは違っても、内気だけれど才気はあってちょっぴり怖いところもある栞子さんというキャラクターを、剛力さんがその演技力で塗り替えてしまえば良いのだ。後者についても「IS インターセックス 男でも女でもない性」という難しいテーマをはらんだドラマでインターセックスというこれも難しい役を演じた剛力さんのこと。与えられた脚本にそって与えられた演出に従ってドラマスタッフが求める栞子さんというものをきっちり演じてくれるだろう。

 問題はだから脚本であり演出が、本編の持つあのテイストをちゃんと表現できるのか、それも剛力さんという女優で描き切れるのかといったところ。そのあたりがかみ合わないとまるで違ったものとなり、それも誰にも求められないものとなって非道い瑕疵を残す。それはフジテレビへの信頼のみならずライトノベル原作というものへの誤った不審を読んで次のアクションを起こしにくくしてしまう。だからここは何が何でもドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖」には成功してもらって世にライトノベルありといった印象を広め、続く作品のドラマ化映画化へと繋がっていって欲しいもの。とりあえずメディアワークス文庫からは美奈川護さんの「特急便ガール!」「超特急便ガール!!」とか「ドラフィル 竜ヶ坂商店街オーケストラの英雄」とかエドワー・スミスさんの「侵略教師星人ユーマ」とか、あるいは他では青柳碧人さんの「浜村渚の計算ノート」とかって辺りが続いてくれればもう万々歳なんだけれど。成否に関わらず動いてたって不思議はないんだけれどこの辺は。

 銀座で宇都宮徹壱さんが展覧会をやているというのでちょっとだけ見に行ったら宇都宮徹壱さんが在廊していてサイン本を買った。もう14年と半年も昔に「幻のフットボール王国」という本を買って芸大を出て写真をやっているのにフットボールも見ているという不思議な立ち位置が気になっていたらどんどんとフットボールが専門のライターとなっていって今やミズノスポーツライター賞も授賞する大御所に。ひとつのことを極め継続すれば14年という歳月はそれなりな結果をもたらすんだということを改めて思い知りつつ一方で自分はといえば何も成さずどうにもなっていないというこの差異を、何によるものかと考えてやっぱりやる気と才能かなあという結論に陥る。どっちもないもなあ、自分。まあでも日記を書くことだけは続けているんでこれがあと30年くらい続いたらひとりの妙な人間の日記としてそれなりに注目はされるかもと思っておこう。ヘンリー・ダーガー的な注目だろうけど。

 そんな宇都宮さんと話すと、あさってのジェフユナイテッド市原・千葉と大分トリニータによるJ2プレーオフの決勝がどうなるかについて、宇都宮さんは同点でも上位チームが勝ち抜けるというレギュレーションが上位チームと下位チームのそれぞれのモチベーションにどんな影響を与えるのかが気になるってことだった。現に初戦では京都サンガに横浜FCとそれぞれ上位だったチームが身動きできないうちに先制点をくらい反撃しきれないまま失点を重ね惨敗を喫した訳で、それと同じ事が起こるとしたらジェフ千葉がおおいにフリになるんだけれどそれを感じて最初っから動いてくるとも考えられるだけに、いたいどういう感じの試合運びになるのか、ちょっと注目してみたい。ジェフ千葉が1点とれば有利だよなあ、とれるかなあ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る