縮刷版2012年11月上旬号


【11月10日】 9月29日が「マルドゥックスクランブル排気」の舞台挨拶で、これは正午過ぎからだったから良かったものの翌週10月6日の「魔法少女まどか☆マギカ劇場版[前編]はじまりの物語」は午前7時からと、殺人的な早朝に新宿はバルト9で行われてこれもどうにかこなした翌週10月13日、やっぱり午前7時というこれは舞台挨拶の開始ではなかったけれども、劇場限定のブルーレイディスクを買うために、早く並んだ方が早く買えるってことで午前6時半には新宿ピカデリー前にいたその翌日14日は、午前9時というやっぱり早朝であるにも関わらずそう思えないくらい麻痺した感覚で、「魔法少女まどか☆マギカ[後編]永遠の物語」の舞台挨拶を見た翌週10月20日が、午前9時40分とさらにおそくはなったけれどもテアトル新宿であった「伏 鉄砲娘の捕物帳」の舞台挨拶を見たという、怒濤の9月から10月半ば。

 その翌週の27日も舞台挨拶こそなかったものの、六本木ヒルズで朝1番に「009 RE:CYBORG」を見て朝早かったからこそ出たと思う眠気と戦ったし、3日は3日で突発的に親近感を覚えてきゃりーぱみゅぱみゅが出演する「早稲田祭」へと行くことにして午前8時の電車に乗って、行こう行こう高田馬場へ。そこから夜までうろうろとして真夜中から明け方にかけて「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」と東映動画の傑作選を見てたから、もはや土曜の朝に早起きをして家を出るのが半ば習慣ずいているから今日も今日とて行われた新宿ピカデリーでの「ねらわれた学園」の舞台挨拶も、午前9時の上映開始に遅れるどころか速く着きすぎカフェ・ド・クリエで朝ご飯を食べる時間すらあったという、そんな土曜日。

 入ってもらったミニ色紙は、花澤香菜さんが演じたカホリが描かれたイラストに花澤さんのサインが入ったもので欲しい、と思っていたものだから良いんだけれども、映画での印象度から行くとやっぱり小野大輔さんが演じた京極が、やっぱり欲しかったかもと思ったりもしてまた行けばもらえるかなと期待しているけれど、そんなに果たして用意してあるか。といっても明日また行くって気にもなれないしなあ、明日くらいはゆっくりしたいぞ昼くらいまで。あとプレス向けのシートももらったけれど、これは前に試写を見たときにももらっていたからダブり。あと大きいのでカバンに入らないという罠。でも試写を見ない人にはシンプルにまとまっていてそれでいて判型も大きいプレスシートは買えないグッズとして嬉しかったかも。クリアファイルより大きいんだから。そして小野Dさん花澤さんの写真も載っているから。

 さて映画だ。「ねらわれた学園」だ。僕は2回目で前に試写で見たあとに、これは眉村卓さんが書いた小説の後を受け継ぐタイプのものではないかとサジェスチョンをもらって、そうかと読み直しまではしないまでもあらすじとか、記憶とかを掘り起こしてだいたいの人間関係を了解した上で見たから、誰が誰でそして何をどうしていたかが繋がって、そうかそういう話だったんだと理解した上で、現代に舞台を移して繰り広げられた少年2人と、少女2人の愛しくて切なくて痛くて優しい関係を、存分に味わうことができた。でも、そうでない人は果たしてどうだったのか、ってところが見終わっての感想。あれだけ大騒ぎをして、対立まで起こりかけていた学校の話は投げっぱなしで終わってて、巻き戻されて修正された記憶の上で、何事もなく進んでいるような描写がエンディングにあったとはいえ、ちょっと肩すかしをくらったような気分になった人もいたんじゃなかろーか。

 ケンジという少年のおじいさんがお参りしていたお墓に、先に来ていた京極が、誰のために花を手向けていたのか、といった話からケンジのおじいさんと京極の父親との関係に話が進むかと思ったものの、そこでの説明はまるでなし。かつていろいろあった2人がだったらどういう風にいろいろあって、そして京極の父うさんは誰を連れて行ったのか? ってあたりはたぶん、原作版を読んでいれば、あるいはこれまでに映画化されたりドラマ化された「ねらわれた学園」を見ていれば、何とはなしに分かるもの。でも最近映像化されてから、10年以上は経っていたりするそれを、覚えている人も少ないし、有名な角川映画版「ねらわれた学園」では、余りにもシチュエーションが違いすぎて参考にならない。だからやっぱり原作は読んでおいた方がいいかもと、これから見ようと思っている人には言いたいし、1度見てポカーンだった人も、小説を読むなりあらすじをサルベージしてそていもう1度見に行けば、筋が立ってその上で繰り広げられる人間関係の機微と、それから演出されているキャラクターの演技に集中できると思う。

 関係性でいうなら、ケンジはカホリが好きでそのカホリは京極に一目惚れ、ナツキはお隣さんのケンジがずっと好きだけれどケンジはそういう彼女の気持ちに気づかず、カホリが好きだってことをナツキの前で露わにするから、ナツキも苛立ちモヤモヤとした気持ちを抱き続ける。設定とか展開を了解できる立場にあれば、そんな内面が表情に出たり態度に出たりするのをじっくりと見ることができる。あと絵の演技については、飛んだり跳ねたり転んだりする動きがとってもアニメ的ではあるんだけれど、それが場とそして感情にとってもマッチしている。嬉しい時とか急いでいる時とか、そんな感情をオーバーな動きで拡張して見せてくれているんだって分かってとっても面白い。細田守さんの作品ではちょっと見られない動き。アニメってものの動きが持つ意味性ってものを、考えさせ感じさせてくれる作品、それが中村亮介監督の「ねらわれた学園」って映画なのかもしれない。

 声優さんについては、本城雄太郎さんのケンジが初々しくって良いなあと思ったら本人もとっても初々しい人だった。そうか「エウレカセブンAO」のアオを演じてたあの人か。記者発表で見たんだった。普段はもっとナイーブでセンシティブな感じだけれど、それをケンジってハイテンションな役に合わせて来た訳で、やっぱり声優という仕事は凄いものあんだなあ。花澤さんはやっぱり演技巧者で内面に恋情を秘めてもだえるカホリを演じきっていた。小野さんはもうひたすらに格好いい。あのささやき、あの愛の言葉を聞きに行くだけでも映画館に行く意味がある。抜き出して繋げてずっと聞き続ける人だっていそう。それは女子に限らず男子だって。何かに目覚めてしまいそう。それくらいの美声を聞かせてくれる。たぶんAKB48での握手会があったからか、舞台挨拶には参加してなかったけど、渡辺麻友さんも完璧な少女ぶりを演じてくれていた。明るくて感情豊かでちょい強気でけれども傷つきやすくって。そんな少女をあれだけ演じられるなら声優としてだって活躍していけそうだけれど、そういう道は選ぶかな、やっぱりアイドル一直線か。

きもいかわいいフィギュアたち  舞台挨拶ではあと、中村亮介監督が登壇していて、見るからに良い人そうな感じでそれだからこそ揺れ動く少年少女の感情をとらえ描いて、見る人にそれだけで感涙させる映像を作り出せたんだろう。両隣で見ていた女子はたぶん原作とか読んでなさそうだけれど、見終わって泣いていたから。冒頭からセリフに被さって流れる「銀色飛行船」が、最後の最後でアカペラで流れてそして感動の場面へと行き着くあの構成の完璧さにも喝采を贈りたい。麻友さんが唄うアイドル歌謡っぽいエンディングも、それはそれで映画に必要なのかもしれないけれど、その後にエピローグというより本編の本当のラストに重なる「銀色飛行船」の染みいるような美しさ。あの映画に必要な歌は何だったのか、ってことを改めて感じさせてくれた。原作との関係という点で扱いに難しいところがあったけれどもそれを勘案すれば、この映画はとてもとても良い映画、そんな結論を噛みしめた朝だった。また行こう、不登校娘のガーターベルトを拝みに。それかい結局は。

 そこからJRとりんかい線を抜けて東京ビッグサイトまで出むいて「デザインフェスタ」をさっと見る。monjackが元気そうにブースを広げていてひっきりなしの来客にその人気ぶりを再確認。9月のギフトショーにも出ていていよいよ商品化も始まりそうでその先触れになりそうなミニのmonjackがラックにぶら下がっていた。ヴィレッジヴァンガードで販売されるそうな。あとKamaty Moonも常連でいっぱい。ご主人ごご夫人がカウボーイというかスチームパンクというか革とメタルの装飾をつけて店番をしていてあまりの格好良さにそれを作って欲しいと言いたくなったけれど僕では似合いそうもないからモデルな人におまかせしたい。夏のワンフェスでも見た扇風機ケースはホント、商品化して欲しいくらいに格好いいんだ。

 それからくずしまきんさんという人のブースに行って前見かけたけれども買わずに公開した不思議な人形を購入。目つきの悪さとスタイルの良さとはみ出た内臓とがとってもマッチして可愛くもグロテスクな世界観って奴を醸し出している。こういうのって原宿系な不思議少女に受けそうなんだけれどそういう人にはまだ届いてないみたいなのが残念。そこで一緒に売られていた未来生って人が作った、少年がカエル柄の合羽着て大きな葉のかさをもっているフィギュアも購入。ヤドクガエルとかのシリーズみたいでそのセレクトのセンス、フィギュアに仕立て上げるデザインの妙、少女もいるけど少年もいたりするバランスに惚れた。オリジナルでもいけそうだけれどワンフェスにはまた違うキャラクター物で出るそうな。ほかOTACCIMANでサイケなTシャツも購入、迷彩柄の上にガスマスクが描かれたハードコア。格好いいなあ。こういうのが出ていてそして買えるから、デザインフェスタ通いはやめられない。明日もまた行こう、ってやっぱり早起きするのかい。


【11月9日】 何か朝からワイドショー関連でちょこちょこと聞こえてきた情報を元に開いたサンケイスポーツにドン! と載ってた桜坂洋さんによる小説「All You Need Is Kill」のトム・クルーズによる映画化決定の報、といってもすでに10月1日の段階で情報はワーナー・ブラザーズとそれからトム・クルーズのブログから発表になっててそれでライトノベル界隈と、トム・クルーズ界隈では多いに盛り上がっていたんだけれど、日本の映画メディアだったるスポーツ新聞の文化メディあがライトノベルの映画化なんてものに関心があるはずもなく、そのときはまるでどこからも記事が出ずせいぜいがネット上に情報が回る程度だった。集英社はちゃんと公表、してたのになあ。

 でもそこはやっぱりトム・クルーズという稀代のスターが持つバリュー。それを軸にしつつ日本のライトノベルというエンターテインメントが世界で一足飛びに受け入れられたという話も載せることで話題になるってあるいは日本のワーナー側から売り込んだか、それでも足りないからと世界でも初となる撮影中の凄い写真の公開も持ちかけたかして見事に紙面の確保に成功。舞台挨拶だってベタくらいにしかならない昨今、トップ級の扱いでもって大きな写真と記事が掲載された。いやあ凄い凄い。見るとパワードスーツというよりちょっとしたプロテクターといった感じだけれど、それでも重たいだろうそれらを身につけ50才のトム・クルーズが走ってるのには、役者魂って奴を見てしまう。あれだけやるからあそこまで稼げるんだよハリウッド。

 記事には作者の桜坂洋さんの写真とそしてデビュー作となった「よくわかる現代魔法」ってタイトルも掲載されていたりして、スポーツ新聞にこれらが載る時代がようやく来たんだと当時はまだラジオ会館にあったK−BOOKSでサイン入りの第1巻を買って、面白いと思ってSFマガジンで紹介したりした昔を思い出しつつ感慨にひたる。ここまで来て撮影中止、公開延期ってことはないだろうし、2014年3月と発表までしている公開日がズレることもまずないだろう。数あるハリウッドで映画化話を脇においやりゴールラインを駆け抜けてくれることを期待。その先に来る世界中での大ヒットと、そして桜坂洋さんによる新作の執筆も。それが実は1番くらいに大変かも。

 しかしとことんライトノベルもそうだけれどアニメーションとか漫画に疎いというか毛嫌いすらしているような新聞文化系記事。金曜日はだいたい明日土曜日公開の映画を取り上げるコーナーが各紙にあるんだけれど洋画のおしゃれな作品とか邦画の文学な作品なんかは取り上げ監督とか俳優をもてはやしても、客が入る話題のアニメ映画とかはまるで取り上げられないか、取り上げられてもベタで小さいコマに案内とコメントが載る程度で、監督がいったいどういう考えでそれを作り上げ、あるいは声優がどういう気持ちでそれらを演じたかなんて話しは欠片も載らない。「伏 鉄砲娘の捕物帳」の宮地昌幸監督も「ゴティックメード」の永野護監督も「宇宙戦艦ヤマト2199」の出渕裕総監督も「魔法少女まどか☆マギカ」の新房昭之監督も誰も出てこない。

 あれだけ有名な「サイボーグ009」の新作「009 RE:CYBORG」ですら神山健治監督のインタビューを載せた一般紙は見えなかったし、明日公開の「ねらわれた学園」に至っては小さい紹介すら載ってない。何だこれは。AKB48の娘さんが声をあてってこれが割と良い演技をしていて、エンディングの1つも唄っていたりするのにまるで取り上げられていない。アニメ嫌いな世代が上でどっちゃり固め、アニメを見下すブンカな記者ががっちり中を固めている状況では仕方がないとは言え、しかしやっぱり哀しいなあ。サブカルで面があったら絶対に取り上げられていたはずなんだけどなあ。乖離して沈没すれば良いだけなんだけれどその影響を被る立場でもあるし複雑なところ。せめて「ONE PIECE Z」くらいは何かしてよとお願い。

 いやもう今年最高の1冊に推したって罰は当たらないんじゃないかと思えるくらいに奇妙で奇天烈でそれでいて面白い巌百合彦さんの小説「クラウゼウィッチーズ」(講談社、1600円)にようやくというか予告されていた声優さんを使ったウエブラジオドラマが登場していて聞いたら「全兵器使用自由(オールウェポンズフリー)」という名セリフの場面でイラストと同じように時雨黎ちゃんが鼻血を吹き出していた。ぴゅーっというかどばーっというサウンドがちゃんと聞こえて来たからきっと相当な吹きだしっぷり。それでも意気軒昂と作戦に望んで若い身空を挽肉に変えたり焼肉に変えたりする戦術を繰り出していたりするところに彼女の大物っぷりが伺える。名戦術家っぷりじゃないところは要注意。勇ましいだけで勝てるんだったら戦術家はいらないし、いや彼女は戦術家だけれど、だから本当に戦術家なのかって。

 最強にして最高に可愛いヒロインが遂に姿を現した横田卓馬さんによる漫画版「戦闘破壊学園ダンゲロス」の第2巻。その名も邪賢王ヒロシマがその巨体を両性院男女の前にさらして男女の魔人としての能力「チンパイ」を浴びて変化した姿は意外や小さくてそれでいてちゃんと出るところも出っ張っていた美少女。早速飛びかかる番長グループの一味もいたけど、あれでそれなりな力は残していた邪賢王ちゃんに弾かれ壁にめり込んでしまったもののそれでも減った筋力だからその程度で済んだらしい。もしも前の邪賢王だったらいったいどんなことになっていたのか、というか邪賢王はどんな魔人の能力を持っていたんだ。そこんところちょっと忘れてた。

 そして懐刀も美少女になってやっぱり美少女とか少女とか少女っぽいものとか訳の分からないけど少女だという物体を引き連れ向かう生徒会室の途中で待ち受けていた者とは? ってところで始まる容赦のない殺し合い。1巻2巻がメルヘンに思えるくらいのスペクタクルが楽しめそうだけれどそれにはまた半年、末必要があるんだよなあ。この後で剣豪はあっさり退けられるし淫乱もやっぱり脳みそ食われてしまうし邪賢王ちゃんも元に戻ってそして両性院乙女までもが……って展開だった記憶があるけどずいぶんと経過を忘れてしまった。スクラップからバイクを作った彼というか彼女はどうなったんだっけ。やっぱり殲滅されてしまったんだっけ。小説版を掘り起こして読み返すか。


【11月8日】 たぶん第1回目の放送は見てその後も何度か見ていたんだろうとは思うけれど、どこまでしっかりと見ていたかはあんまり記憶になくって詳細は、後に「アニメック」か何かで特集された懐かしの特撮番組って奴から知ったんだと思う「アイアンキング」。水がないと活動できないとか、脇にいる人が鞭をもっているとかいった印象はあってもそれが日活の大スターだった浜田光夫さんと、それから不良とかをやらせたら絶品な石橋正次さんだなんて見ている子どもには分かりっこない。というより今みたいにネットで調べてどうってこともないから、浜田さんが「なんたって16才」とかに出演してコミカルな演技をしているのを再放送とかで見たときだって、誰このコミカルな役者はと思ったくらい。後で吉永小百合さんと競演して一世を風靡した人だと知って驚いた。そいういうものだ。

 だから本放送時に「アイアンキング」がどこまで世間に強く受け入れられ、熱狂的に語られていたかなんて知る由もないんだけれど、それでも「シルバー仮面」や「サンダーマスク」や「レッドバロン」といった作品と並んで記憶に残っていたのはやっぱり当時はテレビは娯楽の王様で、そして子どもには「ウルトラマン」の影響から特撮変身ヒーロー番組が大人気で、それが夜のゴールデンタイムに放送されて目にする機会がちゃんとあった、ってことだけは言えそう。そしてそれは今と決定的に違うこと。今のゴールデンタイムに放送されている番組が、たとえば30年後に特集されてそれを見た大勢の人が見ていた見ていた面白かったつまらなかったと騒ぐかというとそれは無理だろうから。そんなところにもテレビって媒体の凋落がちょっとだけ見えてしまう。どうしたものかなあ。

 そんな「アイアンキング」で思い出したのが宣弘社という会社。代理店で製作なんかも担当していたところで古くは「月光仮面」や「隠密剣士」といったヒーロー物を手がけ、後に「シルバー仮面」やこの「アイアンキング」そして「レッドバロン」といった巨大特撮ヒーロー物も作って一世を風靡し子どもたちの間に強烈な印象を残した。元々は戦後の日本に巨大なネオンサインを作り屋外広告というものの概念を広め、あるいは本物の象を使ったパレードなんかも仕掛けてちまちまとしてない広告の凄さってものを満天下に見せつけた会社で、そこで音頭をとった小林利雄さんという人がこの「アイアンキング」でもプロデューサーとして名を連ねてた。

 戦後の街をネオンで埋め尽くした話は加藤文さんという人が「電光の男」(文藝春秋)というフィクションながらも小林さんや、戦後の起業家たちをモデルに描いた小説の中で紹介していたりするんだけれど、その語にテレビが出てきた時に、これを新しい広告の媒体になると見て、番組を作り視聴者を引きつけそこに宣伝を流して設けるといった今に通じるモデルを築き上げたのも小林利雄さんだった。そんな彼が「月光仮面」を経てどうして「アイアンキング」や「シルバー仮面」といった、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」のようなものとは一線を画すヒーロー物を作り出したのか、それで何を世に問おうとしたのか、聞いてみたかったけれどすでに小林さんはこの世にはない。

 1度、「電光の男」が刊行された時にその出版パーティに来られていたのを拝見したけどすでに高齢だったから、話は出来なかった。誰か聞いていてくれたら記録として貴重だったのに。そんな時に新聞が、あるいはメディアが流行を追うだけじゃなく、過去を探り残す作業をしてくれたらと思う。僕もやりたいんだけれどやらせてもらえなくってね、窓際だし。哀しいなあ。「電光の男」が出た直後に、続きとして小林さんがテレビの世界に進出して席巻していくようすを「電影の男」という小説に書いて欲しいなあ、なんてリクエストしたこともあったけれども、モデルとなる人がおらず証言もないと難しいだろうし、加藤さん自身も昨今、小説家としての活動をあんまり聞かなくなってしまっている。「電光の男」も文庫とか出ていないみたいだし。だからここで「アイアンキング」が盛り上がっているこの時に、一気に復刊、そして続編といって欲しいんだけれど、どうでしょう?

 「ロウド・オブ・デュラハン」でこのライトノベルがすごい!大賞を受賞した紫藤ケイさんって人がその続編とかじゃない新作で勝負。「千の剣の権能者(エクスシア)」(このライトノベルがすごい!文庫)って話は富士見ファンタジア文庫から出さなきゃいけない王道なファンタジーって感じの小説で、今時の萌えとか異能バトルとかいっぱいなライトノベルにあってどこか懐かしさと、そして喜ばしさを感じさせてくれた。古来から眠る権能者という異能持ちが甦ってはその凄まじい破壊力で世界の危機となっている上に、甦って暴れる権能者の影響で力を得た人間も現れては、力にまかせて暴れるようになって、大変になっていたところに、帝国だけが力を持った人間の魂を抜いて暴れるのを防ぎ、命令を聞いて異能の力を振るう権能兵として使役できるようになって、その力を背景に世界を支配するようになっていた。

 といっても重税を課すとかいった感じではなかったんだけれど、権力を奪われた旧支配者層には不満もあった模様。何より権力にたてつく気持ちはいつの世も同様で、ゲリラめいたものが生まれ暗躍し始めていた、そんな街に騎士が権能兵を連れて現れた。ゲリラの掃討に来たのか。ところが不思議なことに突然、権能兵が暴れ出しては騎士たちを殺害。街の住人にも被害が出そうだったところに、少女の姿をした権能兵が現れ事態を鎮圧してみせる。本当だったら騎士がいてその命令に従って動くはずの権能兵だったけど、彼女には騎士はおらず、どうやらその最後の命令で動いているようだった。

 彼女は街をまもる役割を果たすようになり、そんな彼女の力を得て街では帝国に反旗も、と考えていたらより強大な権能者が街に迫っていることが判明。もはや反帝国と言ってられなくなった。相手は権能兵すら操り動かす強大な権能者。立ち向かうには権能兵に魂を返す必要があったけれど、そうすれば権能兵たちは権能に耐えられず発狂してしまう。もはや捨て身の攻撃しか通じないと分かって、それでも少女は魂を取り戻して戦う道を選ぶ。「千の剣の権能者」は喜びも苦しみも悲しみも痛みも知る魂の意味を問い、それを持ったまま力を振るうことの凄絶さ、けれども人間が人間であるには魂が必要だという矛盾を前に、困難を乗り越え何かを掴もうとする健気さが見えてくる。

 彼女を拾い助け戦いにも参加する総督の息子で暗殺者となった青年も、かつて殺伐としていながら、前に拾った少女の影響もあって次第に人間らしさを取り戻していった。魂があるから狂うのではなく、魂を得ることで苦しみを乗り越える力にする。そんなことも感じさせてくれる。彼とは知り合いで元貴族ながら威張る帝国に範囲を抱いた青年なども周囲に現れ、ともすれば陰惨な殺し合いになりそうなところを、割にさっぱりと展開を描き、悲劇の向こうに感動も描いてまとめてみせる展開も好ましい。その意味でも王道ファンタジー。この路線でもっといろいろ書いてくれると、萌えとか異能バトルとかに飽きた層にヒットしそうな感じもするけどなあ。


【11月7日】 明けてワイドショーではたぶんWOWOWの放送用に収録された中から抜かれたダイジェスト映像が流され日本武道館でのきゃりーぱみゅぱみゅのライブの様子が全国的に伝わった様子。空を飛んだ妖精の衣装がいったいどういう風にデザインされていたものか、そのスケッチを放送した局もあってそのラフスケッチがどうしてこうなる的なコメントを出ていたけれど、原型があってこそ広がる想像力もあるってことだとここは理解。かの「大日本サムライガール」の神楽日毬のファッションデザイナーデビューをサポートした有名デザイナーだって確かそういってた。でも日毬は倒れるくらいにデッサン描いていたよなあ……。天才はスケッチでもその意図が相手に伝わるってことで。

 そんなきゃりーぱみゅぱみゅの武道館を見た人から音楽評論とか長くやっててYMOをアピールしRCサクセションも世に押し出した吉見佑子さんが「YMOの登場? XJAPANををはじめてみた時? サンプラザでポリスを見たあの衝撃、何か『トキメキ』が形になって溢れていた武道館」とまでツイッターで書いてその醸し出す存在感から与えられた衝撃を書いている。いやポリスとは。初来日した始めての公演がサンプラザで行われた1980年のポリスは世界に知られ始めてはいたけれども今へと至るロックレジェンドになるとは思われてなかったし、YMOだて出だしは奇矯なテクノバンドだた訳で、それがその後にどうなったかを知った筆が敢えて例えに引っ張り出すくらい、衝撃とそして将来性をそこに見たってことになるんだろう。

 「ミッキーやキティの登場と一番近い」、ってそれはもはや音楽というジャンルすら超えた世界のイコン。それらに並び立つ存在になるかもしれないとは。まだ本格的に音楽活動を始めたばかりの頃に書かれた本で中田ヤスタカさんは、動じないで自分の歌にしてしまってそしてしっかりと唄いきるその声質と、周囲を引きつける魅力をアピールポイントとして語ってた。武道館公演を見た人の感想には、やっぱり1人であの日本武道館に集まった1万人近い人たちを相手にひるまず、場を持たせてしまえるパフォーマンス力を誉めていた。すでにサウンドとして、あるいはビジュアルとして世界にジワジワと広がっていたりもする訳で、それが本格的に広がり始めた暁に起こること、それを想像すると何かとっても期待がわいてくる。まずは来年の欧州、そして続く北米とかアジアで何を起こすのか。それより前に凄いムーブメントが来たりするのか。楽しみになって来た。

 気がつくとアメリカ大統領選挙の投票が終わっていて続々と明らかになる開票結果は見てのところオバマ大統領とロムニー候補の間にそれほど差はないように見えたけれどもそれはすでに結果が分かりきっている州の結果であって接戦が予想された地域がどちらに転ぶかで、結果も大きく違ってくるだろうと思い見守っていた選挙速報でオハイオがオバマに傾き、前にアル・ゴア候補がブッシュ大統領に敗れたか敗れたことにされたかで結果もアル・ゴア候補の敗戦となったフロリダ州の結果を見ないまま、それが決め手となってオバマ大統領の再選が決定してしまった。

 なんかダイナミック。でも州ごとにいる選挙人を勝った方が総取りっていうシステムは、時に接戦もあるけれど、時にこうした一気の勝利もあり得るから見ていて面白い。それがアメリカという国の運営にどういう意味があるのかはちょっと分からないけれど。面白いのはだいたい共和党を支持している州はずっとそのままで民主党支持の州もだいたいそう。オハイオとかフロリダとかアイオワといったあたりでゴロゴロと変わることはあっても多くはそのままだったりするのは日本と違うところで、小選挙区となった日本だと1人だけしか当選しない地域で選挙結果の決め手となるのはその時々のムーブメントというか雰囲気というか。それで一気に傾きすべてがオセロの白となったり黒になったりする。

 それもダイナミズムではあるけれど、中身はやっぱりポピュリズム。アメリカのどっしりと構えて親子孫の代に至るまでひとつの政党を支持し続ける空気とは全然違う。まあ向こうはどっちを選んでも基本は変わらず変わり様がなく、さらに上院下院の議会でバランスが働くってこともあるから安心して暮らしていけるんだろう。こちっはといえば。右に触れ左に触れ白になり黒になるたびにひっくり返され何も進まない。その無意味さに気づいてさて、どうするかといっても中選挙区には戻れないからなあ。かといって首脳の直接選挙ではポピュリズムがこれでもかって勢いで発動するだけ。挙げ句に言ったことを実行できないまま、何も変わらない無為の数年間が過ぎてきたのがこの6年ほどだし、きっとこれからもそんな感じで行くんだろう。変わらないと行けないのは選挙制度ではなく議員のマインドでもなく国民の意識。そしてそれは永遠に変わらない、変えようがないもので……。参ったね。

 新聞を読んでいたら広告が載っていて知った「ホテル仮面ライダーイベントツアー」はそのまんまホテルで仮面ライダーと一夜を過ごそう、じゃなくってホテルに宿泊すると仮面ライダーが現れ記念撮影に応じてくれたり、ショーを演じてくれたりするというもの。昨今のフォーゼだウィザードだといったライダー人気から企画された者かと思いきや、その広告にも掲載されていたように仮面ライダーは仮面ライダーでも仮面ライダー新1号とそれから2号、そして仮面ライダーV3という僕の世代にとっては最も直撃された仮面ライダーが登場してくれそうな感じで、それだけで興奮の度合いが高まってついついどんなツアーか調べて行きたいとすら思えてきた。さすがに行かないけど。

 見ればもう浮かんでくる興奮は、フォーゼやウィザードを見て喜んでいる世代には絶対に分からないものだろうけれども、逆に言うなら僕にとってはフォーゼやウィザードのあのビジュアルにどうして人が仮面ライダーの存在を見るのかが分からない。だって仮面ライダーじゃないじゃないか。ってことなんだけれどこれらを確実に仮面ライダーだと感じている世代もいたりする訳で、そんな辺りのギャップはきっと一生埋まらないんだろう。ただこれだけは確実に言えるのは、新1号に2号にV3の顔に仮面ライダーのオリジナルを見て大興奮できる“権利”であり“特権”を持っているのは僕等の世代。その喜びだけは分けられないし分けるつもりもない。お前たちはロケットだの魔術師だのを模した顔立ちに喜んでいれば良いんだよ、って遠くから思って悦に入る。でも今時人気なのはそんなフォーゼやウィザードが現れるツアーなんだよなあ、やっぱり。まあ仕方がない、それも時代だ、月光仮面や七色仮面を埋めてきた僕たちに回ってきたつけなんだ。


【11月6日】 週末の興行ランキングで「のぼうの城」が頭ひとつ抜け出している見たいで、金曜日からスタートしたといってもそれでもやっぱりな抜け具合はつまり待ってた人が大勢いて、見た人が大勢いたってことの証明。公開が延期されてからこっち、なるほどあちらこちらでテレビCMは打たれていても社会現象的なムーブメントが起こっている訳でもないように感じていた映画が、それでもふたを開けてみればこれだけの観客を集めるというところに宣伝の一過性ではない継続性の持つ意味ってものを少し感じてみたり。有名人が1日出てきて応援してますじゃあテレビにちょい出て終わり、ってことでしかないんだろうなあ。

 あとはやっぱり作品力。予告編なんかでつままれたそれぞれも、映画における野村萬斎さんの存在力って奴を存分に感じさせてくれて、これがいったい映画ではどう映るのかを気にさせてくれるけれどもそうやって誘われた人が映画に行って、ぐっさん山口智充さんの「やろうぜ」って感じな強い演技をまず見てそして、佐藤浩市さんの「やっちまうか」と嫌々だったはずなのに妙に楽しげな豹変なんかを目の当たりにすればこれは何か格好いい奴らによる格好いい映画だって思えて仕方がなくなる。そうなるとあとは最後まで一直線。2時間25分とかある映画なのに長さをまるで感じさせずに引っ張っていってくれる。そしてまた見たいと思わせる。だからこの賑わいは1日1週では終わらないと予想。さらに未見の人、そして未知の人を巻きこみ大きく化ける映画になるだろう。100億円? 夢じゃないかも。

 限定版を買ったものの、まだ開けてないからよく知らないんだけれども「新世紀エヴァンゲリオン」の漫画版の第13巻って、つまりは1995年から96年にかけて放送されてたテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の放送にやや先だって始まった漫画がそのまま続いている訳で、決して昨今の劇場なんかで上映されて人気の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の内容を描いたものではないんだろうと思うんだけれどそれを読んで映画版からファンになった人たちって、いったいどれくらい満足して読んでいるんだろうかとふと思う。それともエヴァが出ていることが重要であとはパーツくらいにしか感じていないってこと、なんだろうか、パチンコからのファンだって多分そうなんだろうなあ。素材としてのエヴァ。

 でもそれでもやっぱり夜中に放送が始まった「新世紀エヴァンゲリオン」の前のテレビ放送はちゃんと見て楽しむんだろうか、やっぱり古すぎて楽しめないと今度の金曜ロードショーかた続く序と破の劇場版を存分に楽しむ方に回るんだろうか。そのあたり、どういった需要が世代によってされているのか興味があるところ。まあそれは「サイボーグ009」なんかについても言えたりすることで、東映動画の劇場版があって白黒のテレビ版があって「赤いマフラーなびかせて」の歌がついたバージョンをこそ至高と思う世代もあれば、芦田豊雄さん描くキャラクターたちが幽玄の中を活躍する高橋良輔監督による昭和版を最高と思う世代もあって、それぞれに受け止め方のニュアンスが違っていたりするから。

 平成版をマスターピースと感じている世代がいるかは少し謎だけれど、石ノ森章太郎さんの絵の雰囲気が出ていたという意味では実は平成版が1番だったりするからなあ。そうやってそれぞれの世代に受け入れられ、あるいは反発をくらって来た「009」が新たに神山健治監督の手によって3DCGでもって作られた「009 RE:CYBORG」をさて、それぞれの「サイボーグ009」世代はどんな風に需要しているんだろう。絵が違うとか中身が違うとかフランソワーズがエロいとか007が曽我町子さんじゃないとか言いたいことはいろいろあるだろうけれど、でも多分共通して「意味わからん」が多声になっているような気だけはしてる。それもまた石ノ森監督の意識ではあってもアニメとなるとそうではなかったのが「009」だから。活劇。超越。友情。そして勝利のドラマ。それがないとやっぱり、ね。難しいなあ、リメイクって。

 そしてボーダーのツアーロングTを着込んで武道館へと出陣、昨日は「ももいろクローバーZ」が男子だけを集めてライブを開いた会場で、今日は女子ばかりが集まるかと思ったらそうでもなくって男子も結構居たりして、中には男子なんだけれども女子な人もいるなど多彩な面子が揃ったきゃりーぱみゅぱみゅの初武道館。そしてやっぱり子どもがいっぱいいたのが印象的で小学生とかそれより小さそうな子もいてめいめいに飾りなんかを着けてお父さんとかお母さんに連れられて武道館の階段を上っていった姿を見た。つまりはとてつもなく幅広い年齢層から関心を持たれているということで、国民的になるために必須なことをすでにして持っていたりするところに何かとんでもない将来って奴を見たりする。ジャニーズだってAKBだってここまでバラつく年齢性別のファンがいるか、ってことなんだよなあ。

 そして始まったライブはセットも何もなかった早稲田での学園祭とは違って背後にサーカスのような動物園のような不思議なセットが置かれた前で、キャリーキッズのダンサーたちを従え踊り唄い喋りそして唄うきゃりーぱみゅぱみゅ。すでにして早稲田で見てはいたけれどもやっぱりちゃんとしたアクトでもってファンを魅了し引きつける。それも早稲田とは比べ物にならない規模で。バンドが入ってデカいサウンドで聴かせるって訳でもなくセットの前で踊って唄っているだけといえばそれだけなんだけれど、重なり会う煌びやかなサウンドとそしてそれに良く乗る粒だった声が場内に響いてファンを飽きさせないし、ライブをただのカラオケショーみたいなものにはしていない。そこが凄い。Pafumeでも多分すでにそういったライブを経験済みってこともあるだけれど中田ヤスタカさんって人の持つ音楽の華やかさと奥深さが、こういう場で改めて強く感じられた次第。

 曲も良ければ歌詞も良く、知らない曲でも聴いていると知っているような気になれて本当に知ってしまえる簡単さも多分、子どもたちに受ける理由かな、あとはやっぱり可愛らしさか。でもやっぱりかかる「CANDY CANDY」のイントロとか歌には引かれるものがあってダンスも含めて傑作感強し。なおかつ今回のライブではこれを2度も聴けたんだからもう素晴らしい。なぜってそれはごりーぱみゅぱみゅちゃんの登場があったから。「SMAP×SMAP」でもって月曜日の放送に登場しているのを見たばかり、でもってかたせ梨乃さんを引っ張り出して同じ衣装でりのーぱみゅぱみゅとして女子化させて踊らせて、デカい胸をゆっさゆっささせていたのが眼に強く残っていただけに、それが(といっても悟郎ちゃんだけだけど)が目の前に現れて驚いたし嬉しかった。来てくれたんだ。

 2人で踊る「CANDY CANDY」もやっぱり可愛くそして良い曲。他にも「ちょうどいいの」とか「チェリーボンボン」とか「もしもし原宿」かららの曲も良かったし「PONPONPON」ではみんな飛んでたし「みんなのうた」ではみんなで手を上げて手を開いてぱんぱんしてた。そういう感じに曲に載せ動かし引っ張り込むことが出来てしまうのがこのライブの良さでもあってそれは曲によるものなのか、きゃりーぱみゅぱみゅの良さによるものなのか、その両方なんだろう、そしてそれらを見極めてプロデュースしている中田ヤスタカさんって人の凄さでもあるんだろう。新しい曲ではやっぱろ「ファッショモンスター」はビートが聴いて迫力があってそしてダンスも眼に刺さる。爪を立てた腕を回して上へと上げる動きをいっしょにしたくなるのは早稲田祭で動きを教わったばかりだったからかな、その意味でも行っておいて良かった早稲田祭、というかそれ見なきゃ今日も見ようて意欲にはたどり着けなかったんだけど。

 ラストにとっておきの「つけまつける」で両手を左右に揺らすダンスもいっしょにやってピッタリの終わり。午後の8時を回るとキッズダンサーもお仕事が出来なくなるから大人のダンサーとかを背後に従えてのアクトになってそれも8時半くらいまでとトータルで2時間くらいしかないライブだったけれど、早稲田の時とどうように長い喋りはいれずとことん自分の歌で聴かせ、衣装治しの時はぬいぐるみとかダンサーのパフォーマンスを見せてそこに中田ヤスタカさんの曲を聴かせるという段取りも、見ていて飽きが来ず退屈しなかった。シンプルで充実していて濃密で、それでいてポップでキッチュでエキサイティングなライブ、それがきゃりーぱみゅぱみゅのライブ。また見たいなあ、今度はどこでやるのかなあ、ワールドツアーはちょっと行けそうもないしなあ。あと8才のキッズダンサーの男の子が女の子みたいな恰好でキレキレで踊っていたのが良かった。後のEXILEであった、ってことは別にないか。


【11月5日】 あ〜るだ、R・田中一郎が帰ってきた、カーニバルだ。ってそういうネタも当時を読んでいる人ならすぐに分かるし、そうでない人にはさっぱりだけれど、でもそう言いたくなるくらいに嬉しいゆうきまさみさんによる「究極超人あ〜る」の新作掲載。東日本大震災の被災地支援につながるチャリティの一環として企画されたもので先週までは細野不二彦さんが2回にわたって「ギャラリーフェイク」の新作を描いては、被災地を舞台にフジタが暗躍ならぬ活躍する話を描いて現地における美術品や史料の保存の大変さと大切さ、そしてそうではない普通の品物でも集め綺麗にしてあげることの大切さってものを描いて涙を誘った。

 そんな感動のストーリーに対して基本ギャグの「究極超人あ〜る」でいったい何を描くのか、あるいは何を描けるのかが見えなかったけれども掲載された作品はまったくもって普通の、そして過去からの延長線上に位置する「究極超人あ〜る」でそれ事態が何かチャリティの訴えかけをするものではなく、そこに掲載され多くに読まれ、そして単行本に収録されることで結果としてチャリティに繋がるための、作品としての存在感そのものがチャリティになった作品だった。これはこれで良いと思う。読んで胸が痛む作品もあれば、読んで結果が何かにつながる作品も。そうした様々な窓口があって誰もが自然にチャリティに参加できるようになるのだから。

 そんなお話は成原博士が暴れたりアール・デコが暗躍したりと「あ〜る」のクライマックスのまるで再来。鳥坂先輩は相変わらずの戦い好きで手に懐かしの粉砕バットを持って立ち上がっては成原博士たちの野望をものの見事に粉砕する。やっぱり最強だなあ粉砕バット。あと曲垣がやたらと太っていたけどこれは20余年の時間が太らせたのかお話の中では対して時間は進んでないのか。大戸島さんごとか西園寺えりかとかあんまり変わってないからやっぱりあれは昭和の姿なのかもしれない、ネガポジブレスレットとか出てきたし、今ではいったいそれ何だ的な? いやでもこれの似たのを映画館で特典としてもらって大喜びの若いアニメ世代もいるから別に大丈夫か、とか。春風校長はここでは存命だったなあ。西園寺まりいに再びの変身ポーズを取って欲しかったなあ。その辺は連載に期待だ、って続くのか、続きません、そんなあ。

 1994年のサッカーワールドカップ米国大会の予選が繰り広げられていてドーハの悲劇が起こった頃だから1993年の10月終わりごろに立ち寄った北京はとても寒くて、朝なんか背広だけではちょっと大変そうな感じだったしそこからはるばるバスで出むいた八達嶺の万里の長城は雪こそなかったものの氷点下に近い気温で皆分厚いコートなんかを着て急な斜面になってる長城をひいひい言って登ってた。11月に入れば北京市内だって最低気温は0度近くになる緯度の土地。そこで標高が1000メートルに達する張家口の万里の長城がいったいどれくらいの寒さになるのか、想像すればたぶんそれは可能だったんだろうけれど、半ば観光として訪れたその土地で、日本ほどは土地勘も働かなかったんだろうかどうなんだろうか。

 それこそ半世紀ぶりともいう大雪に見舞われたことも最悪だったようで100キロを走破する万里の長城ツアーに参加していた人が寒さから相次ぎ死亡した模様。見ると皆さんなかなかの高齢者でそれだけでも体力に不安なところに雪と寒さに直撃されればやっぱり大変だったってことなんだろう。もっとも昨今、登山者の高齢化ってのは著しいようで早朝のアニメ映画の舞台挨拶を見るため総武線に乗って新宿へと向かっていた電車の中には、登山靴を履いて全身を防寒着で覆ったおばあさんなんかが何人も乗っては高尾山とかそっちの方面へと向かっていった。中国のトレッキング参加者もそうした高齢者の山好きで、体力はたぶんあってそれなりの経験もあったんだろうとけど、7月のトムラウシにだって負けない寒さを予想したのかどうだったのか。企画した会社がどこまでサジェスチョンを出していたのか。そんな辺りが真相を解明して責任の所在を追求する上で、ポイントになって来るんだろう。ともあれ中国で賢明な救助活動にあたってくれた現地の人やガイドや警察や軍隊には感謝。

 そうか工事済みなのかそれだったら膨らんでいて谷間がくっきりしているのも当然だろうマリアンデール。「イクシオンサーガDT」に登場してはその美貌とその時々野太い声でもって異色っぷりを放っていたマリアちゃんがいよいよもってその道行きを表明、したかというと周囲が勝手に言っていただけだけれどもそれでも上は膨らませているってことだけは分かった。決して見間違いだったり影の具合でそう見える訳じゃなかったんだ。触るとだからきっと柔らかいんだろうなあ。それを触れて良かったなあDT。でも朝に目覚めて痛いのはうそとか言われたのはいったいどういう意味だろう。マリアンデールって本当は? それとも逆に主人公が後ろを掘られたってこと? 分からないけどともあれやっぱり面白いなあ。玉割られたEDはいったいどうなったんだろう。生えてきたかな(そういうものではなありません)。今1番楽しみなアニメかも。

 そしてライトノベルで先行するDT物の幾谷正さん「神童機操DT−0 phase03」(講談社ラノベ文庫)はいよいよもって動き始めた敵勢力が原子力潜水艦を奪いぶっぱなした核ミサイルをDT−0が立ちふさがって落とそうとしたら2発目3発目とかがも発射されてさあどっちを落とすのかっていろいろ大変。でも誰かを見捨てることなんて出来ないとDT−0のパイロットは立ちふさがって北京へと向かうミサイルを無力化し、自分たちがいる島とか街とかに迫るものも周囲の助けとかを借りて討ち果たしたその先に、待っていたのは中国の偉いさんたちへの洗脳であったりといろいろ大変そう。同級生の少女が乗ったりその知り合いが敵に回ったりと錯綜もあってドラマとしての厚みが出てきた感じ。1発芸でしかないと思われた当初から、どんどんといい感じになって来たんでここからどんどんとキャラを掘り下げ物語を厚くしていっては、世界をめぐり童貞の少年と処女の少女が頑張る話にしていってもらいたいもの。期待して読み継ごう。


【11月4日】 あの能登麻美子さんをイジメてイジメてイジメ抜いたなんて宇田鋼之介監督、羨ましすぎるよと思った新・文芸坐での『虹色ほたる〜永遠の夏休み〜』を始めとした東映動画作品のオールナイトで、上映前に開催された宇田巻頭と小黒祐一郎さんによるトークイベント。大人になったサエコの声を演じている能登さんの素晴らしさは、短い出番でしっかりと少女の頃のサエコを感じさせる声と演技を聞かせてくれていることでも分かるんだけれど、そこで能登さんが言う「見つけてくれてありがとう」なんかのセリフを、まず1度録ってそれでOKを出しながら、何かが違うと感じでしばらくしてもう1回録れないかと、プロデューサーに頼み再録音を行ったらしい。

 なおかつその時も、同じセリフを何十回となく言ってもらうというスパルタぶり。たぶん能登さん怒ってたんじゃないかと宇田監督は想像していたみたいだけれど、能登さんだってプロなんだから何がいけないのか、そして何がOKとなったのかをちゃんと自身の演技とそして映画から感じ取っているに違いない、とは思うけれども僕が聞くだけではそれがどうしてOKなのかは分からない。他と比べても多分分からないんだろうなあ。そこがだから声優って仕事の凄いところであり、音響監督や監督という仕事の凄いところでもあるんだけれど。

 しかし宇田監督、『虹色ほたる〜永遠の夏休み〜』がディープな作品、難しい作品と受け止められているといった認識を持っているみたいだけれど、僕としてはシンプルに少年が過去にいって体験をして現代に戻って再会を果たすという単純なストーリーラインの上に、過去で得た自然を楽しむ経験とか友達の有り難さとか、命を繋げる意味なんかを描いて乗せた作品で、難しく考えなくたってスルリと受け入れられるように思うんだけれど、自然な流れに乗せているため説明が少なく、何がそういうことなのか、今の何でも説明されたが人には気づけないことも多々あるかもしれない、っていうのも一方で事実なのかも。

 冒頭の携帯に残っているのが死んだユウタの父親の声だったり、その父親が死んだ現場を避けてユウタがダムの脇の道路を進んでいたりと、後でふり返って気づくこともあるからなあ。それを今そうだと気づかせないといけないとなると、映画の監督もお話作りが結構大変。それを臆面もなくやるからハリウッドは世界で売れるんだろうけど、そうやって量産される想像力の及ばない人たちばかりを相手にしていると、やがていつか大変な眼にあうし、実際にあいかけていたりする映画界。未来はどうしたものかって気にもなる。まあ『虹色ほたる〜永遠の夏休み〜』の場合はそうした展開とは別に、絵柄のところで一見さんを悩ませるところが多過るから。昔から作画がばらつくアニメを見てきた世代には何てことない映像なんだけど。やっぱり強烈だからなあ、大平晋也さんのパートは。

 気になっていたエンディングに見かける映画本編では使われていなかったシーンは相当あるみたいで、それがDVDには特典として収録されていない悲しみがなおのことブルーレイディスク発売への渇望となったトークイベント。フラッシャーが輝くジュニアスポーツのテレビCMは、テレビの中でキャンディーズが踊る場面で3人の微妙な脚の動き方の違いを描いた新井浩一さんが、ちゃんと描いて映像にもなっているのに使われなかったというから勿体ないというか勿体なさ過ぎるというか。それだけ抜いて今のCMで使っても大受けするんじゃなかろーか。売る物がないけれど。あとはケンゾーがゴムひもか何かお尻につけたモリを弾いて魚を捕るようなシーンも。これは「アニメスタイル002」に原画が載っていたりするのかな。帰ったら見てみよう。

 愉快だったのは開場に師匠にあたる佐藤順一監督が来ていたことで、とりあえずエンディングに使われた「それでも子どもたちは今を生きる」の文が、どういうタイミングではさまったのかを聞いていたけどそれはやっぱりいろいろ思うところがあった、ということか。僕はあの震災を経てつくられた映画、そして大船渡で原作者が被災し、そんな大船渡で上映会が開かれた映画として、やっぱり子どもたちがこの時代に生きているということを、大人たちが感じ取り子どもたちもほんわかとながら自覚する意味ってのを、その言葉から感じ取ることが出来たんで、あって正解だと思った。そもそもどうしてああも問題にされたが分からないんだけれど、押しつけがましいメッセージだったってことなのか。

 そんな佐藤順一監督は自分のいた頃、そして宇田監督と同じくらいの歳でこういう作家が自由に挑める作品をやりたかったとのこと。宇田監督によれば最初はプロデューサーとか会社の偉い人たちのコントロールの中で作っていたけど、いつしかそれを踏み越えて、仕切りの外で作った感じになったと話してた。あるいは勝手に飛び越えたとも。それが許されるという会社のユニークさ、だからこそ生まれたこうやって上映がずいぶんと前に終わっても親しまれ取りざたされ大勢のファンが集まり、プロのクリエーターも見に来る作品。そこに東映動画であり東映アニメーションという会社の強さを感じ取る、てもこれだけで終わっては意味がないんだけれど。1年くらい前に「マジンガーZ対暗黒大将軍」の西沢信孝監督も、オリジナルをやんなきゃって叱咤してたしなあ。そんな声の裏側で作られていたのがまさしく「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」だった訳で、今も何かがこっそりと画策されているのかなあ。だとしたら楽しみだなあ。違うかなあ。

 そして『虹色ほたる〜永遠の夏休み〜』の上映を経て、9度目の観賞を終えてやっぱり9度見ても飽きないし発見もある作品だと確認してから、東映動画の傑作ラインアップを観賞。まずに登場の『龍の子太郎』は松谷みよ子さんの原作を受けて、親と子の再会のドラマをしっかりと貫きながらも山村に暮らして貧困に喘いでいる大勢の農民たちの苦労ってものを本筋に1本通して描き、それが母親に苛烈な運命が科せられた理由にもなっていることを描いて大変さを知らしめ、人としてだから何をするべきかってところを描いてのけたところが凄い。もちろん冒険物としても楽しめるけど、それだけに留まらない映画を昔は作っていたんだなあ。太郎が稲穂を運んだ山奥の村にいた全裸の幼女とそれから女性が美人で可愛かったんで、退色してない映像で見るためにDVDあったら買おうかな。高いのかな。

 『空とぶゆうれい船』はもう何度も夏休みとか冬休みのテレビで観たことがあって、ストーリーも結末もだいたい完璧に覚えていたけれども、改めて見るとやっぱり面白いなあ、BOAジュースとかトラウマって程じゃないけど、しっかりと心に刺さって抜けないキャッチも多々あるし。あと納谷悟朗さんの声が無茶苦茶凛々しくて格好良かったと改めて思った。一方で野沢雅子さんは最新の『アシュラ』に至るまでまるで変わっていないという。『どうぶつ宝島』は前半が何か間延びしていたように思ったけれど、明け方で意識が漂っていたからそう思っただけなのか。敵の海賊船が現れ戦うようになってからと、そして宝島でシルバーとジムが追いかけっこをするシーンはやっぱりの活劇。宮崎駿さんの真骨頂。キャシーも可愛かったなあ、縛られながらもロープの端を握っている相手をぐるぐる振りまわしちゃったりして。ありえねえって笑ったよ。これもDVDでまた見たい。今度は途中で眠らずに。

 支局の記者が科学関連の発表に行って大変な目に会いました、って話を書いていろいろ言われているけれど、全部の学術研究機関を本支社にある科学部とかがカバーできるはずもない訳で、それで出むくことになる素人が、それでも食らいつきかみ砕き書いた記事が間違ってなければ、それはそれで良かったんじゃないかとは思う。問題なのは素人が素人でございと偉ぶり、素人にも分かるように説明しろと言ったりすることで、それで素人にも分かる記事が書けるというかと大間違い、分かってないのに書ける訳ないんだから。だから例の一件は現場は頑張った方として、問題は現場がやっぱり不勉強過ぎて、それでも世のためになるんだとと情に訴える情報元がインチキであるにも関わらず、そうか世のためになるのかと記事にする場合。永久機関とか、倍の発電が出来る発電機とか。

 そういった記事が載るのは現場の書き手が無理解な上に、載せる側も無理解だからでそのどこかで精査しせき止めるセーフティが人減らしとか無自覚とかで利かなくなっている方が多分問題なんだと思う。誤字脱字だったらいざしらず、そういう現場での勘違いとか間での勘違いを校閲が正すわけじゃないんだから。さらに言うなら科学記事の正確性がどうとか言うより以前に、「最近、大阪の繁華街が随分とすっきりした。休日は人波で歩くのも難儀する道頓堀通りもミナミの地下街も、拍子抜けするほどすいすい歩ける。張り上げているとしか思えない大声の会話もほとんど聞こえない」という書きだしで始まる、あまりにもゲスでカスな記事をこりゃあ拙いと止める方が、よほどクオリティの維持として大切だろう。

 だってこの記事、「なぜだろうと考えて、はたと気づいた。中国人の団体客が消えたのだ。同時に、列に並ばない、平気で割り込むといった無法もなくなった。一市民として、これほどうれしいことはない」って続くんだから。あきらかに特定の人種なりをねらい打ちにして批判しているんだけれど、こんなあからさまな差別記事を書く方も書く方なら載せる方も載せる方。だいたいが秋葉原にだって中国人観光客はいるけれど、張り上げているような大声なんて出してないのに、どうして大阪だと出すことになるのか。それは周囲の大阪人があまりにも喧しいから聞こえるように言ってるだけじゃないのか。割り込みはどちらかといえば大阪人のお家芸じゃないのか。証拠もないただの印象をもって特定の人たちを貶す文章に、いかなる大義も存在しない。存在して良いはずがない。

 かの国の政体を嫌気するのは自由だし、それが原因で起こる事象をリスクととらえ避ける方向に向かうことも商売として当然だけれど、そういう主張の枕に奴らが減ってすっきりしたぜと書くのはやっぱり違う。こんなの絶対おかしよ。自分を誇り他人を慈しむ日本人としての尊厳を貶め、雅さと美しさを奥ゆかしさを持った日本語を汚すような文章を書きながら、一方で活字文化の維持のためには消費税が上がってもその適用から除外される必要があるだなんって訴えたところで、世間が認めると思うのか。そんなあたりへの目配りの悪さ、想像力の貧困さが思い込みから来る間違いを犯したり、間違いであってもそう主張することが必要悪とばかりに乱暴狼藉を働いてみせる。参ったね。とはいえ明確な差別であり侮蔑を書いても、某週刊誌とは違い世間がまるで騒がないところが影響力の差って奴で、むしろそこを嘆くべきなんだけれど、もう遅いか。


【11月3日】 果たして昨晩の「ルパン三世」に峰不二子の乳首はいったいどれくらい出たんだろうかと、そればかり気になったけれども眠っちゃって起きて見たのは録画しておいたそれではなくってまずは「K」。何でササクラさんの「緋色のスプーク」の表紙絵が看板になってんだろうと思ったら、それがいきなり開いて中から白と黒と猫が現れたのには驚いた。抜け穴かよ、っていつも伊佐那社はそこを抜けて出入りしているのか。問題はそれがいったいいつから、ってことで当人は端末を落としたからって言い訳をしているけれど、だったらすぐに発行すれば済む話。それをしないでずっとそのままセキュリティをくぐらない生活をしていたりする所に、彼の正体めいたものも浮かぶと思ったらやっぱり最後にドカンと大逆転の言葉が。いったい誰なんだ伊佐那社とは。でももっと誰なんだあの猫は。煎餅食うのか猫の癖に。

 でも「K」で今回の1番の目玉は誰が何と言おうと淡島世理さんの登場シーン。くるりくるりと華麗に回っては刀を振り下ろすあのシーンは変身バンクとして1分と言わず10分くらいの長いバージョンにして見せて欲しいもの。ツンと突き出される胸も悪くはないけれど、くりりとこちらに背を向けた時にチラっと見えそうなんだけど見えないお尻とかがとにかく最高。止めて見たけどデジアナ変換ではザラついてよく見えないんでこれはこの回だけはブルーレイディスクを買おうかと思った真剣に。そんな彼女もツンドラの女王とか言われると何かイヤそうな顔に。表情があるってことは氷の女って訳ではないのか。人間味もあるからああやって交渉もできるのか。できなけりゃ一刀両断だよなあ、伊佐那社も八田美咲も。

 そんな美咲も悪ぶってる割には女の子たちに声をかけられないところが純情というか真面目というか。相手が淡島世理であってもどこかドギマギとして直視できないところが実に可愛らしい。いっそ世理も胸はってそしてとい前屈みになって上目遣いに「お・ね・が・い」って言えば美咲もすぐに引いたんじゃなかろーか、恥ずかしくっていたたまれなくって。でもそれだとやる世理にも気恥ずかしさがつきまとう、か。そして退散した美咲が勇気を振り絞って聞いた少女が言ったセリフのその真意は? そこに無色の王の無色たる所以なんかも潜んでいたりするのかも。ただ守っているようにも見えなかったしなあ。今回は料理はなかったけれども夜刀神狗朗は裁縫も得意なところを見せてくれた。いったいどこまでしっかり物なんだ。そして強さはいったいどれくらいなんだ。そんな興味も引きずり次回へ。楽しさが増してきた。世理さんをもっと出せ。

 やっぱり1度くらいは実物を見ておきたいと早稲田祭に来るらしいと知ったきゃりーぱみゅぱみゅのライブを早稲田まで見に行く。整理番号順とかだと結構遅い時間の入場になりそうな気もしていたけれど行ったらそのまま列整理となってそし到着順に入場という形で1時間前から並んでいたんで割と前の方へと行けたのはなかなかラッキー。ただし向かって左側のスピーカーの真ん前だったんで始まったら音が凄いかなあと心配したら不安は的中して爆音がガンガンと響いて耳を痛打。その影響は終わってからも夜までずっと残ってた。場所には注意。でもそれでもバンドが入って大爆音を成らすって感じではなく舞台をみたらそうした機材は一切なし。どうやるんだろうと思っていたら始まるとまずキッズダンサーたちが出てきて踊る踊るすごい勢いで踊った中に飛び込んできたきゃりーぱみゅぱみゅ本人も、子どものダンサーたちとしっかり会わせた踊りを次々にこなした上に歌も唄って場を盛り上げる。

 「ぱみゅぱみゅレボリューション」を聞いていれば耳に馴染む音楽がだいたいでそうでなくても聞いているだけで体が弾むようなサウンドの楽曲ばかりってところにこのアーティストの持つダンサブルでポップな素質って奴を見つけ、それを引っ張り出そうとしているプロデューサーの中田ヤスタカさんの見る目の確かさ、プロデュースする腕前の見事さって奴が垣間見える。何よりそうした楽曲を中田さんに作らせるきゃりーぱみゅぱみゅって素材の良さがあり、ちゃんと歌ってそして踊れるクリエイティブな才能ってものがあって成り立つステージであり、その存在。手を振ったり手拍子したりポーズをつけたりってことを押しつけがましくなく、かといって下手に出るでもなくいっしょの空間にいて同じ時間を共有している仲間たち、といった感じで誘いかけて来るからついつい体も動くし手も挙がる。そうやってまとまった空間の心地よさ。わずか1時間にも満たないライブだったけれどもそれのせいか充実した時間を過ごすことが出来た。

 楽曲では冒頭からヒット曲の「CANDY CANDY」とかやってそれでぐいっと引きつけ一緒に参加できる「みんなのうた」とか「PONPONPON」とか並べて動いたり飛んだりして体を温めMCなんかも最小限にして続けざまに畳みかけるように誘いかけ唄うライブは本当に濃密で、これをもしも日本武道館でさすがに1時間弱ってことはないから2時間とかぶっ続けでやったら疲れ果てて崩れ落ちる人だって出てきそうだけれどそれはさすがにやらないか。「ファッションモンスター」とか「つけまつける」とかCMなんかにも使われる曲の多さはつまりやっぱり今の最先端。それを何十人って大勢ではんかうたった1人でやってしまっている凄さをみんな、やっぱり気づいた方が良いんじゃないかってことをライブに行って改めて思わされた。「豆しば」のあたりだとひょいっと出てきたイロモノっぽい雰囲気もあったけれど、音楽活動をメインに見るとやっぱりこれは逸材かも。中田ヤスタカさんの凄さともども。年末の紅白に出たとしたらこれはいよいよ世界へと向かうかも。うぇいうぇい。

 そして早稲田松竹に行ったらすでに満席で「桐島、部活やめるってよ」は見られず仕方がないけど諦め新宿へと出むいてテアトル新宿での夜のトークショー付き「伏 鉄砲娘の捕物帳」のチケットを買ったら前に2人ばかり女性がチケットを買ってトークショーの前の回を見ようとしていた。何か女性にヒットしているなあ、この映画。そして時間を潰してからかけつけた劇場もやっぱり女性客がアニメーションなのに結構居たりして、この映画がだからアニメという枠組みを超えてラブロマンスを描いた映画だという感じで受け止められ始めていることを知る。ここでぐいっと押せば一気に女性層に火が着き満席御礼って事態もありえそう。テアトルならそれを我慢して上映し続けてくれるかもしれないけれど、地方だとどうだろうなあ、その辺を興行の人が機敏に感じて運用してくれたらと思うんだけれど、果たして。

 3度目になる「伏 鉄砲娘の捕物帳」は見れば見るほど良い映画。細かい部分でいろいろと感情や状況を現す演出が施されているのが見えて何度見ても見飽きないところに宮地昌幸監督の見かけはともかく繊細な作品作りへのマインドが染みている感じ。信乃がつけているあの狐の面は新兵衛がかぶっていたものだよなあ、母親に会いたさに芝を抜けて吉原に行って見つかってしまい打たれてしまってそれを知らない凍鶴はどうして来ないのと案ずるすれ違い。何ともいじらしくいじましい。泣けてくる。それを言おうにも言えない信乃のその心情。哀しいなあ、そうした存在がどうして出てしまうのか、それはそうした存在を作りたがる者がいるからなんだと改めて知ろう。トークショーに登場した「借りぐらしのアリエッティ」の米林昌宏監督はそうかジブリで宮地昌幸監督といっしょだったのか、というか宮地さんもジブリにいたのか。話ではやっぱりジブリ的な、というより高畑勲演出で宮崎駿レイアウトの作品が持つ世界観に浸り育った世代らしく、影なく線がやわらかく細密さより動きで見せるアニメを作りたいって心情が、「伏 鉄砲娘の捕物帳」には現れている。そういう意味ではジブリの子であり日本アニメーションの子であり東映動画の子、なのかも、ということで東映動画の良い所どりのオールナイトに駆けつけて。


【11月2日】 といった具合に全身から褒め称えた後でふと立ち止まって気がついたことについて語ってみたくなる「ゴティックメード」。とりあえず気になったのは背景で小倉宏昌さんの名前が挙がってはいるけれど、他でみせる深くて緻密な印象の背景とは違って「ゴティックメード」は何というかあんまり奥行きがなく広がりも少ない、絵に水彩で描いた風景といった感じが最後まで続いてた。ずっと荒野と草原で奥行きだとか広がりを表現しづらいってこともあったのかもしれないけれど、「グスコーブドリの伝記」のあの鬱蒼とした森とか火山島の風景、あるいは「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」におけるダムができる村の自然がたっぷりと残った風景と比べてしまった時に、平べったさが見えてしまってキャラクターの漫画的にくっきりとした線との違いが気になってしまった。

 それは永野護さんが漫画に描く風景そのものと言えば言えるのかもしれないし、キャラクターを際だたせようとした時に背景が背後から前面へと出てきては宜しくないという判断だったのかもしれない。いずれにしてもどこか書き割りめいてしまった印象のあるあの背景が、あと少しだけリアルさに降られていたら主人公たち以外の村々に活きる人たちの生活の空気、そしてエンディングに見られる花でいっぱいの星という展開への盛り上がりも、違ってきたような気がして成らない。花が咲き乱れたはずの星ですら、そうした輝きと絢爛さからはちょっと離れていたしなあ。やっぱりだからキャラクターの絢爛さを際だたせようとする時に、背景にはずっと引っ込んでいてもらおうって意図があったのかな、分からないけど。

 ゴティックメードと呼ばれるマシンについての扱いにもやっぱりいろいろと考えるところ多し。せっかく母船にあれだけ強そうな騎士とゴティックメードを積んでおきならが、いざという時にハッチが攻撃されて開かず使えないっていうのは、軍隊としてやっぱり用兵の点から宜しくないし、そうしたゴティックメードの発信と活躍を期待してみていた人に肩すかしを食らわせたって点でもちょっぴり宜しくなかったんじゃなかろーか。相手方も何機か持ってきていてその中に「破烈の人形」だなんて懐かしくも凄まじい一機を忍ばせておきながら活躍はさせず、赤と青の雑魚メードを立たせては皇子に瞬冊されていた。その動きも素速すぎて目が終えずロボットどうしの重厚感たっぷりな戦闘とは違った印象。かの映画「ファイブスター物語」のモーターヘッド戦と時間や内容で並ぶような印象すら浮かんだけれど、それをメインとするより少女と少年が出合い会話を重ねながら思いをひとつに結んでいくストーリーに重きがおかれた話なんで、気にしないのが幸福への道ってことで。

 朝に歩いていたらワゴンで「ワンピース」の第68巻とそれから「新世紀エヴァンゲリオン」の13巻の特装版が売ってたんでとりあえず買ってまず「ワンピース」から。やっぱりぐちゃぐちゃとして展開が見えにくいけれども連載で1話1話おいかけていると見えにくかった部分がつながってどうやらとてつもなく複雑なことをやっているのが分かってくる。前の魚人島の時も複雑で分かりづらかったけれど単行本になりアニメになって見えてきた、目的もなくただ闘いのためにたたかうような人種の存在、そしていわれなき差別がもたらす悲しみなんてものが浮かび上がってきたかなあ。今のシリーズでも危険を顧みずに実験をして破壊を繰り返す科学の恐さ、それを人間が扱うことの危険さめいたものが浮かび上がって実に311移行だってことを感じさせる。それをスーパーエンターテインメントでやってしまう所が尾田栄一郎さんの真骨頂。この先にもとてつもないテーマが潜んだ話が繰り出されてくるんだろうなあ。たしぎとスモーカーが元に戻ったのは残念だけれどずっと早く先が読みたいな。連載もそんなに進んでないし。

 「めだかボックス アブノーマル」はめだかちゃん最強伝説に変化なくベン・ジョンソンだか誰かアスリート系のアブノーマルを倒して先へと進んだ模様。つか13組ってことごとくAB型なんだなあ、やっぱり多いのかAB型にはアブノーマルが。自分もそうか。いろいろアブノーマルだし。んで「ハヤテのごとく」は夜中に相応しく人が金で墜ちていく話。借金に追われ食う物もなく彷徨う姉と妹って構図はやっぱり見ていてつらいなあ、ギャグにして良い話じゃないよなあ、ヒナギクさんはどうして今はちゃんとお金持ちなんだろう、とかいろいろ思ったり。「武装神姫」はやっぱり「BEATLESS」のレイシアたちを張るかに上回る知能の持ち主だよ。マスターに置いていかれたら勝手にマスターを喜ばせたいと家を出て沖縄まで向かおうとするんだから。どういう知性になっているんだ。フレーム問題とか存在しないのか。スイカが小さすぎやしないか、ってあればバーチャル空間での話だから良いのか。塩水につかっても壊れないのか神姫たち。来週にも津尽くのか沖縄編。


【11月1日】 残る2カ月もあっという間に終わってそして何もなかった1年が過ぎて何もない1年が始まるだろうと予言。絶対に当たりそう。そんな朝に気がつくと日本SF大賞の候補作が発表になってて月村了衛さんの「機龍警察 自爆条項」が候補になっていた。これが受賞してくれるとちょっと嬉しい。伊藤計劃さんと円城塔さんの「屍者の帝国」では何か流れの載りすぎているし。でもそれも取って当然の作品だから仕方がない、か。あとは見渡すと早川が多くて日本SF新人賞系が幾つかあるけど世間的なインパクトではどうだったかっていうと野尻抱介さんの「南極点のピアピア動画」の方が上だったような気も。でも「南極点」は候補に入らず。一条明さんの本も当然ながら入らず。「スワロウテイル人工少女販売処」の続編とか入っても良いと思うんだけどなあ。何かその辺り、よく分からないけど偉い人たちが決めているんだから浅学の下っ端が何か言う資格もないってことで。日本ライトノベルSF大賞とかってないのかなあ。

 んで気になったのが評論から候補になった藤元登四郎さんの「シュルレアリスト精神分析−ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論」だけれどこれって版元が中央公論事業出版でぶっちゃけるなら一種の自費出版。朝日新聞社に朝日新聞種パンサービスがあったり幻冬舎に幻冬舎ルネッサンスってのがあったりするように、大手の出版社とかでも今は自費出版の請負をやってて例えば文芸社とか、一時の碧天社とかいったところのどこかひっかかるイメージを大手の看板の下で押さえつつ、一般の人から原稿を募って料金ももらって本の形にして発行している。取次にも流してくれるけれどもそれにも費用がかかったりして、出版社がリスクをとって編集して刊行して販売する本とは、やっぱり違ったものになっている。

 言い換えれば出したいと思えば出せる本、ってことなんだけれどそれをもって編集の目がかかっていないから劣るかどうか、辺りは作品そのものの価値とは無関係で、結果として素晴らしければそれはそれで良いってことになる。なるんだけれど一方でやはり編集の厳しい目を通り、リスクを負って刊行するに相応しい物だと出版社が判断したものが商業出版物として刊行される訳で、そうした物とは違ったルートを通って世にでた自費出版物を、まずは横一線に並べることが是か否か、ってあたりを考えてみたくなる。いくら優れた同人誌だからって、いくら優れたネット小説だからって、それで小説作品がSF大賞の候補になるとはちょっと思えないから。商業出版物であっても雑誌に掲載された作品が候補になることだってあり得なさそうだし。

 それが評論ならどうして、といったところで浮かぶ作者の出自であったり、選ぶ側の傾向だったりするけれども、一方で評論という形態が今やほとんど商業出版のルートには載りにくいといった現実があって、それでも商業出版でなければ賞とかの候補には至らないといった時に、いったいどれだけの優れた評論が世に埋もれて消えてしまうのか、といった問題が一方にある。そうした物を許容し遡上に挙げる枠組みを日本SF大賞が持っているなら、挙げて構わないといった見方も出来そう。ならばだったらウェブ上で連載されている評論でもいいのか、同人誌でも評論なら入るのか、といったことになるとうーん、その辺りはやっぱり人間的なつながりってことになるのかな、どうなのかな。評論だったら柳下毅一郎さんの「新世紀読書大全」が量でも質でも頭抜けていた上に体裁も素晴らしく、誰かがどこかで評価すべきだと思うんだけれどやっぱり候補には入らず。ならば星雲賞か。星雲賞ならどの部門だ。来年の夏、それが決まる。取れるって決まった訳じゃないけどね。

 せっかくだからと朝早くからいそいそと池袋まで出むいて見たぞ「ゴティックメード 花の詩女」。あの永野護さんが「ファイブスター物語」の連載を続けずそれでも頑張ってリブートの構成とかやりつつ一方で作り続けていた劇場アニメーションなんだけれども最初に話が持ち上がってからいったいどれだけの年月が経ったのか。本当に完成するのかなんて話もまことしやかに語られるくらいだったけれどもイベントなんかで映像が見られるようになり、制作が順調に進められていると分かってだいたい安心していたらようやく公開の日取りも決まってやれやれと腰を下ろしたところでふと見たら、11月1日木曜日だなんて劇場公開には半端な曜日からのスタートだったと気づいて慌ててチケットを確保して朝1番の公開を見に行ったという次第。前夜から行列しなくてもチケットを買えるのは嬉しいねえ。それが過去とは違うところか。

 そして劇場は割と人が入っていた朝1番。映ったスクリーンに現れたこれは「ゴティックメード」とは関係ない「ファイブスター物語」の面々じゃないか手に持っているのも単行本だしと訝りつつ見て始まった展開に、とりあえず「ファイブスター物語」的な要素はなく詩女という役職に選ばれたベリンという名の少女がいて、彼女を狙う勢力があるからとドナウ帝国の第3皇子トリハロンが遣ってきて護衛につくといって、けれども平和を望む詩女のベリンは戦争のために生み出された存在でもあるトリハロン皇子をどこか敬遠して関係はぎくしゃく。割におっとりとした少女かなあ、と思ったベリンが意外や嫌味も言えば感情も露わにする性格だったりして、それを喋る川村万梨阿さんが実にそれっぽかったのが良かったし、受けてたつトリハロン皇子の佐々木望さんも強さと若さが同居した良い声で掛け合いを演じて聞かせてくれた。

 そんな演技に答えてくれたのが描かれたキャラクターたちの表情で、それは漫画で永野護さんが描くキャラクターの凛々しかったり笑顔だったり抜けていたりといった豊かな表情がそのまま大きなスクリーンで繰り広げられていたから驚いたし感動した。例えば以前に映画化された「ファイブスター物語」は結城信輝さんによるデザインのキャラクターになっていてとても神々しくはあったけれども今の永野さんとは当然違うし、当時の永野さんともやっぱり少し違っていた。「ゴティックメード」は今まさに「ファイブスター物語」を描いている永野護さんのキャラクターそのもの。そしてそれが表情のみならず、永野護的なポージングなりウオーキングなり加速装置走りなりを漫画そっくりに、なおかつ動きもつけて見せてくれている。だから永野護ファンは嬉しがる。ただしそうでない人にはどこか紙芝居めいて見えてしまうかもしれない。実際に動きが乏しい盤面もあるし、顔アップも多すぎたりする。映画の演出としてどうなんだろうと言われても仕方がない。

 でもそれが良い。だからそれで良いんだ「ゴティックメード」は。「ファイブスター物語」を買ってページを開くと冒頭に掲載されているキャラクターたちをアニメ風に塗ったカラー口絵があって、それがいつか動いたらいいなあという願望を別のキャラクターだけど叶えてくれているのが「ゴティックメード」。だから満足だし、また見たいと思えてくる。なおかつまったく「ファイブスター物語」と関係ないって訳ではないのは、冒頭でも示されていたし後の方でも見せてくれた。何だあれは「破烈の騎士」だ? いやいやあれはエンプレス? そんな気すら起こさせてくれる展開のその先に、今につながるビジョンて奴が待っていたからもう感慨。そこに繋げてくれる物語が描かれる日なんてのを夢みるし、そうでなくてもこうやって映像化されたそれはを「ファイブスター物語」の何巻かとして見なして喜ぶことだって出来る。結論。永野護漫画が、永野護キャラが動く感動を味わえる、永野護による永野護ファンのための永野護映画。それが「ゴティックメード」。それを見たい者は行け。そうでない者もひとつの世界にこれだけのファンがいることをその目におさめるために行け。


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