縮刷版2011年9月下旬号


【9月30日】 現在の媒体に所属している最後の日。10月からは9階とやらに行くみたいだけれど、今日のところは特にやることもないんでライトノベルとか漫画とかグッズとかの記事をあれやこれや作り上げる。といってもライトノベルが見あたらなかったんで、手元にあった横溝正史ミステリ大賞を受賞した長沢樹さんの「消失グラデーション」(講談社、1500円)を学園ミステリでライトノベル読者でも割に普通に読めちゃうんじゃないかってことで紹介する。っていうかこれが富士見ミステリ文庫とかから出てたって普通に読まれてしまいそう。それくらいに世代にシンクロしている上に、大人のおっさんたちですら驚き瞠目し刮目して驚嘆するくらいの内容の濃さがあったりするから凄いというか素晴らしいというか。

 基本線は女子バスケットボール部のエースだった少女が部を逃げ出した果てに屋上から落ちるという展開。それを見て駈け寄った主人公は誰かに眠らされ、気が付くと少女は消えてなおかつ生死すら不明って事態になっていた。そこから始まる少年少女の探偵団ストーリー。謎を探っていった果てに、浮かんでくるのが消失してしまった謎と密接にリンクする事態だったりするところに、単なる謎解きのパズラー的な小説ではなく、リアルに現代とシンクロした小説なんだってことが伺える。その意味からも同世代のライトノベルファンに読んで欲しい1冊。自分というものを見つめ他人というものを尊重する大切さってやつが分かるから。

 3年にわたってサブカル情報を見開きで紹介し続けて、だいたい150回ってことで、ネタだけで300は越えるくらいのトピックを出して来たけど世の中的にはあんまり媒体の存在感は広まっていないような。一部にはジグジグと広まりつつはあってもやっぱり世の中は目立つものにはすぐ目を向けそれに群がり持ち上げ称揚するけれど、目に付かないものにはなかなか飛びつかず知られないまま通り過ぎていかれてしまうってものらしい。あちら側へと転じるブレークポイントがあるとしたら一体どこなのか。ただでさえ活字媒体の弱体化が言われている中でネット向けに一気呵成に受けるネタを提供することが大事って考えで、そいういう方面に受けそうなオタクネタをやって来たけどブレイクする前にどうやら潰えてしまいそう。おしゃれじゃないもんなあ。メジャー感もないし。でも未来はあるんだこういう分野。それを買うか買わないか。判断なんだろうなあ。

 どうもタムロンとかシグマのレンズのピントが合わないんでこれはもう純正にするしかないと、マップカメラまで出むいてペンタックスのスターレンズとかいう奴を買う。中古で。16ミリから50ミリでf2・8ってのは明るくて広いんだけれどそれだけにやっぱり値段もそれなり。でもやっぱり肝心なところでピンが来ない不安が重なってたんで仕方がない。これを持ってすればきっとあの美少女もこの美少女もいっぱいいっぱい取れそうだけれど、でもなあ、そんなに美少女に出合える時間も残ってないんだよなあ。何せ岐阜に小田原だから。まあ良いや。いっそカメラ小僧に転向してイベントだといって出むいていってコスプレするか。美少女モデルで撮影している吉岡平さんに弟子入りしたいものでありますなあ。

 なんかあっさりと敗退してのけた3年生にいったいどーして誰もがあんなに苦戦したんだろーと思った「バカとテストと召還獣」は、明久の唐変木ぶりが相変わらず示されて周囲でもだえくるしむ女子2人。けどしかしどーしてあんな唐変木にあんな女子がいっぱい群がるのやら。ついでに男子まで。分からないわからない。雄二についてはなるほど確かにカッコイイんだけど。でもすでについてる娘が1人。近寄ったら抹殺されること確実なので誰も女子は近づかない。それもそれで良いのか反対に悪いのか。ということで粛々と続いた話は今回で終わったのかどうなのか。10月番組改編も迫って毎週ゲラゲラ笑って見て即消してしまえるアニメはどれだけあるのか。アニメって本来そーゆーものなんだよなあ。

 これは別に電撃文庫でも良さそうなんだけれども主人公が大学生ってことでメディアワークス文庫なのか。いやそれだったら『特異領域の特異点』だって大学生だったよなあ、まあきっとそれなりにそんあ感じの判断基準があるんだろう。ってことで西村悠さんの「妄想ジョナさん。」(メディアワークス文庫)は妄想がリアルに見えてしまう大学生が、電柱を彼女と信じ込んで話し込んでいたけれどもそれを指摘されて妄想が張れてしまってしばらく。それでもやっぱり浮かぶ妄想はジョナさんという少女を現出させてしまう。そして少年はジョナさんにダメぜったい、とは言われないまま導かれい推理研究会とかが出すクイズに挑み、新たな何問に挑んでいく過程でジョナさんはだんだんと存在感を希薄化させていくという、一種の成長の物語。滝本竜彦「僕のエア」の文学性に比べればエンターテインメント色が出ている感じ。でもやっぱり見える人には見えるんだなあ、妄想彼女。


【9月29日】 影房がどーしてって思ったけれどもやっぱり姉君、そして流れに逆らうアウトローってことで目的も意識も違うものの出奔して家に逆らう千房をあるいは憎からず思ったか、あるいは誰よりも憎んで自らの手で倒すまでは誰にもやらせないと決意したか。いずれにしても奪われた胸は戻らないまま詰め物だけが揺れたり落ちたりしてちょっぴり可哀想。一方のといえば目覚めた千房の手刀によって胸が戻されぺったんこからちょっぴりふっくら。もしかしたら本当に成長してたってそこまではいかなかったかもしれないボリュームを取り戻したけどお家の仕事でそれおりはるかに巨大なものを見慣れている胸幸の目には平らも同然に映ったのか、歯牙にもかけられないままスルーとは哀れ桜花。

 この流れだったら第2期だってありそうな感じで本腰を入れて後を追う魔乳一族を相手に戦い戦い戦い抜いては胸を奪い戻していく千房の姿が見られそう。そしていったい今週はどれくらいのサイズだったんだと悩む制作スタッフがつい間違えてちょっぴり大きめの絵を混ぜそのカットだけが通ってしまってフィルムになってラッシュを見て初めて気づくのだ、日本初にしておそらく最後の「胸パカ」アニメって奴が出来ていることに。それで責任とりましたてんじゃあアニメ史に名前が残ってしまうなあデカデカと。でもちょっと面白そう。次があるなら今度もオープニングは山内重保監督で、そして前よりは動いて戦うよーな激しさって奴とそして誰のか分からないようでしっかり分かる体のパーツのクローズアップを見せてくれたらとっても嬉しい。期待したい。

 もやはいったいどの世代に売りたいのか見えづらくなっているくらい、アダルトな広告がわんさか載り始めた「週刊SPA!」にはアダルトな記事も増えていて、例えば「『女のオナニー』が進化しすぎてえらいことに!」なんて記事では自分でイタす女性たちのとっても変形な張り型をつくって試したとか、仰向けになって大股ひらいていろいろ添えるとかいった話があって、そんな様を実際に見たら100年の恋もさめるというか、開けっぴろげな姿に恋心を深めるというか。ともかくそんな記事が載っているから「メガネっ娘パンチラ萌写真館」なんて記事が割におとなしめにすら見えてしまうから人間、慣れって怖いなあ。いやしかし「SPA!」ってこんなにエロ満載だったっけ。

 んで「メガネっ娘パンチラ萌写真館」には眼鏡をかけた女性の下着が見えてしまうシチュエーションって奴がモデルを使った写真によって漫画仕立てで掲載されているんだけれど、そうした間の流れの部分よりもむしろポイントポイントをしめてでっかく掲載されている、みやすのんきさんによる眼鏡っ娘のパンチライラストの方がとってもグッと来てしまうところに生まれてこのかた鍛えられた二次元心眼の効果が発揮されているというか、単なる二次コンなオタ野郎っていうか。でもそうやって描かれた絵の官能度合いに比べると、写真の方はサイズも小さい上にキメたポーズってよりはプロセスをあからさまに見せているような感じがあって今ひとつ。わざとそうしているのかやっぱりイラストが現実に勝ってしまっているのか。その結果次第では何か大きく時代が変わる先触れって奴を、そこに見いだせるかもしれない。もはや現実は死んだという。

 ふと気が付いたら「BLEACH」のかげろーざ編が終わってた、ってそういう言い方してたっけ。何か自分たちにはとっても大切な使命があるからお前らなんぞぶっつぶす、って威張ってたニセモノの隊長たちだったけれど、それが瀞霊邸に仇なす存在の暴走を止めることだったなんてどーやったらそーゆー展開が導き出されるんだ。何があっても海の親についていきますその思想に従いますじゃなかったのか。でもってやられっぷりもあっさりで、何かの役にたったかどうかも定かじゃない。あれだけの強さを実現できるんだから性格はともかく強さを写せば戦力だって倍2倍に出来たのに。ああ勿体ない。でもやっぱり生きてたって本物と喧嘩して果てただけだから消えて本望ってことなのか。九条望実には最後に「大丈夫でゲソ」って言って消えて欲しかったなあ。

 なるほど同じ大森貴弘監督だけあって悪党共がくんずほぐれつ楽しく騒ぐ……じゃなかったそれは成田良悟さん原作のアニメの方だった、緑川ゆきさん原作の「夏目友人帳」でずっと見せてる淡々とした仲に楽しさと切なさを織り交ぜる腕前を存分に披露していた「蛍火の杜へ」は田舎の森に暮らす面をつけたギンって少年と、そして森にまよいこんだ蛍って少女との時を重ねてつむがれる触れあえないふれあいの物語。人間に触れられると消えてしまうギンに最初は蛍はそれでも飛びつこうとして殴られていたけれど、そんなギャグめいたシーンを経て2人の間に通い始めた心の交流。一方は永遠に育たないまま森で生き、もう一方は人間として育ち老いて死んでいく、そんなすれ違いをも越えていっしょに歩んでいこうかどうかという迷いの際で、ひとつのきっかけが一気に両者の距離を詰め、不幸だけれど幸福な終わりへと誘う。それで良かったのか。良かったんじゃないかなあ。心に染みるストーリー。短いけれども充実の1本。テレビで普通に特番で流せば良いのに。

 池袋にもあるナポリタンの店へとよってこちらのベーコン乗せを食べてみる。渋谷のパルコ横にあるスパマッチョの方が何となく分厚くてカリカリ感もあるけれど、ナポリタン具合はアキハバラとか池袋にある店の方がケチャップとっぷりで味が濃くって深い感じ。渋谷はその辺がやや上品。どっちも好きだけど。さすがに量も量なんでやっぱり大盛りにはせず並でいったけれど、それでも400グラムとかあるんで結構大変。これを女性でもやって来て食べているんだからなかなかの人気具合というか。それとも今女性にトレンド? 山ガールならぬナポリタンガールとか現れている? それはないか。ともあれちょっと注目したい店。あとは高田馬場にあるナポリタン屋の偵察か。いつ行こう。


【9月28日】 迦喪建角でもって空を飛ぶ枸雅紫音がちらりとでも映ったことで中途半端に何も未解決な状況で第1期を追えてしまうことへ許しを与えたい。あれでキャラクターからオミットされて空羽子と並ぶ貴重な眼鏡が1人でも欠けたら「神様ドォルズ」を見る楽しみも激減だ。あれでスカート姿で飛んでくれれば嬉しいんだけれど漫画ではそうでもないのはやや残念。そのあたりアニメならではのキャラ変更でもって衣装をグッと引きつけるものにしてくれないと。ただでさえまひるは浮浪してるし日々乃さんは次でも縛られっぱなしで見て麗しくないんだから。んでもっていったいどのくらいまで描かれるんだろ。話はどこまで進んでんだろ。「BLACK LAGOON」が潰えてからもうずっと買ってないんで分からないんだ「サンデーGX」での連載。「ヨルムンガンド」はどうなった。

 来る10月4日だかにいよいよアップルがiPhone5について発表するとかしないとかで、クパチーノにある本社でiPhoneのあゆみなんかが語れるという話が伝わっているけれどもアップルのことだけに本当か否か。おそらくは想像するなら市原悦子さんと常田富士男さんという最強の語り部コンビがクパチーノへと登場し、冒頭で「坊や良い子だ」って流れた後で常田さんがあの渋くしゃがれた声でもって「むかーしむかしのことじゃった」としゃべり、スティーブ・ジョブズ生誕の物語を語ったあと、市原さんも絡んでアップル創業からスティーブ・ウォズニアックとの訣別、そしてジョン・スカリーの反乱からジョブズの追放を経て、流浪するジョブズの姿を描いた後で奇蹟の復活、そしてiMacからiPhoneへと突き進む成功のドラマが語りおろされることになるんだ。題して「日本ジョブズ話」。日本じゃねえ。

 いやここはやっぱり未来のテクノロジーをそこに込めてこそのアップル魂。ステージの上に引っ張り出された縦2メートル横1メートルの巨大なiPhoneのモニターに、映し出されたのはあのスティーブ・ジョブズ。黒いセーターにジーンズ姿で「君たちがこれを見ているということはもう私はこの世にいないということだな」と微笑みながら語りかけ、そしてこう言う。「けれどもこうして私は君たちと会える。私は永遠になった。iPhone5は、魂をクラウドにして蓄積し、いつでもどこにでも現れることができるようにする技術を持った装置だ」とアピール。そしてこう結ぶ。「iPhoneは魂の永遠を約束する」。
BR>  いやもう格好良すぎ。そしてこれは絶対に売れるだろう。買ったらその場で命のリアルかクラウドかを選び、クラウドならばその場で命を預けデータという魂を抜きだアップルが密かに開発していた巨大なサイズのコンピューターへと蓄積する。体は灰にして海へ大地へ。こうして永遠となった魂はネットの海を自在に泳ぎ回っては音楽を楽しみ映像を嗜み味覚というデータを味わい恋愛だって思いのまま。そして子作りも。その舟に乗れるのはiPhone5のユーザーの最初の10億人だと言われた時にいったい世界でどれくらいの人が雪崩を打って魂のクラウド化に挑むだろう。ちょっと楽しみ。そして10億人が消えた世界の気楽さにも。なんて夢を見たけど、本当にそうなる可能性は、ある?

 ああそうか、結局廃部にして移管するってことにはいかなかったんだなあ、東京電力マリーゼに関しては。移管すればもはや参入する道は断たれこれから盛り上がろうってなでしこのムーブメントに乗り遅れる。かといって再会するには今はタイミングが悪いってことで休部扱いにしてそのまま“権利”は保っていようって腹か。でも今の状況で福島第2原発を再稼働させることなんて無理でしょう。それこそ永劫に近い年月をかけても難しく、また福島第1原発の展開によってはJビレッジだってしばらくそれこそ10年単位で再会できるか難しい。そんな状況において女子サッカーチームを再会できる補償なんてあるのか。福島で原発に務めさせながらチームを維持するなんてできるのか。まず無理。非現実的。なのにそうしてしまうところに妙な雰囲気を感じてしまう。

 あるいは福島を出て東京電力管内の関東へと持ってきてはそこで再会、って手もないわけじゃない、っていうかそっちの方が現実的。福島には悪いけれども東電として、チームを持って維持するならそうやって選手たちの関心をつなぎとめておく必要がある。けどそこまで福島を見切れるのか。関東に持って来られるのか。無理だろうなあこれも。ってことで選手にはしばらく生殺しの状態が続きそう。だから選手にはもはやマリーゼを出て活動できる場所で暫く活動して欲しいと強く願いたい。とりわけ長身ゴールキーパーとして日本を背負うだろう山根恵里奈選手にはなでしこではくてもJ1J2でゴールキーパーが弱いところか、ディフェンスに人数が足りてないところに入ってその187センチという長身で、来るボールを跳ね返し続けてやって頂きたい、って無理かそれは。見たいんだ僕は山根選手がロンドンのピッチに立ってウェンブリーの天上を突き抜け空に吠える姿を。

 レディー・ガガに会えるってんでお台場に行ったらいるにはいましたレディー・ガガだけれど喋ってくれない動いてくれない。その分触り放題ではあるんだけれど触って柔らかいかどうかというとうーむ。ってことでロンドンにあって世界に名をとどろかせる「マダム・タッソー」の人形エンターテインメント施設が日本に上陸。来年1月までの限定ながらも本場の技術がてんこ盛りされたリアルな等身大フィギュアが並んでお出迎えしてくれる。いやあもうリアル。蝋人形って言われていたころはどこか不気味さも漂っていたけれども今は全身200カ所をくまなくはかり200枚近い写真もとってそこからしっかり立体に起こしてみせる。目も本人と同じ色を選び歯並びもそろえ肌の質感顔の色つやのどれも本物に近付けていく。その労力といったら。なるほどあれだけの完成度になる訳だ。

 今なら立体スキャナーで顔の形もすとんと1発で読みとって、それを掘削につなげれば自動的に原型だって出来てしまうんだけれどそーやって採寸したものがいったいどれだけの生身感を持っているのか。タッソーん処ではそれを嫌い徹底的にアナログで寸法を測り色つやを整え髪の毛を植えて送り出す。だから人間的。見ていると本当に動き出しそう。脱がせればいろいろついてたり開いていたりする……かは分からないけれどもそれがあっても不思議じゃないくらいの生身感を放ってた。いつかそこに並べるセレブになれればねって思いたくてもかなわぬ夢。だから坂本龍一さん葉加瀬太郎さんと鉄腕アトムの日本代表を見ながらいつかいつかと願い続けよう。女性も欲しいな日本代表。ゆさゆさの綾瀬はるかさんとか。


【9月27日】 第1作目の「圧縮」のブルーレイディスクがどこにも売ってなくってみられないまま続編というか中編となる劇場アニメーション映画の「マルドゥックスクランブル 燃焼」をみたら乳だった。そう大声で言えるほどの魔乳一族めいた巨大さはないものの、程良い形をしたそれが尖端も露わにされて大きなスクリーンに映し出される様に目はもうしっかりとくぎ付け。テレビじゃきっといろいろ霞みがかかるかシールが貼られるかしただろうから、劇場で見せるってのはなるほど大きなメリットなのかもしれない。まあ所詮は絵だけどさ。

 原作も順番とか忘れてたんでどのくらいのテンポで進んでいるのか分からないけれど何となく、ウフコックに昔惚れてた男が横恋慕してバロットを襲って大変な目に合わせかけたところで前編が終わって今回は、卵みたいなマシンに乗ってインダストリアルへ、じゃなかった楽園とやらへまずいってウフコックを治しつつバロットはイルカと交流するという心温まるエピソード。ドゥエル教授みたいなのも出てきたけれどもいったいどーやって動いているのか。そこに襲ってきた横恋慕野郎とその連れが、暴れたものの連れはサメに食われて一巻の終わり。横恋慕野郎も引き上げそして次なるバトルに備えるという。

 一方でバロットはチップに隠された情報を手に入れるべくカジノへと出かけてスロットにポーカーにルーレットの戦いに邁進。小説だと細かい説明とかあって読んで勉強になりスリリングでもあったけれどもちょっと解説書めいてた感じもあったものが、アニメだと着飾ってまるで前とは違った印象のバロットが、可愛くも鋭くルーレットで相手と渡り合い最後には勝利してみせる展開が実に緊張感たっぷりで、みていて自分もそんな世界で勝負したいと思えたけれどもあっという間に負けるんだろーなー。次ぎはいよいよポーカーでの大勝負。そこに現れるディーラーのやさぐれつつも深淵そうな声は家弓家正さんか。いやあぴったり。そして迫る横恋慕野郎との激しいバトルの果てにバロットに幸せは訪れるのか、ってあたりで次もまた劇場でみよう。胸はみられるのかな。

 阪本さんって大将だったのか、ってそんな伏線張ってあったっけ「日常」。なのをつけねらう教師にして変態な中村かながかつて飼ってた黒猫が、大将という名だったんだけれどカップヌードルの汁をぶっかけられ風呂の熱湯をぶっかけられ周囲を檻で囲まれる仕打ちに居たたまれなくなって逃げ出して、拾われた先が東雲のはかせとなのの家。そこで阪本という名で喋る猫として飼われていたけどやっぱり乱暴名子供相手の日々に辟易していたところに、なのをつけねらう中村先生が現れ大将こと阪本さんを間に挟んで笑顔でやりとり。その間にたってどっちが幸せかを悩む阪本さんこと大将。うーん。でもあれで中村先生可愛いところもあるからきっとはかせよりはかわいがってくれるんじゃないのかな。かわいがり方は問わないみたいだけれど。それが問題。

 んでもって第4期が知らず決まっていたらしい「夏目友人帳・参」は眼鏡の笹田純がいっぱい喋っていて可愛いわかいい。そして夏目を慕う妖怪たちが集まってのどんちゃん騒ぎ。あんまり出てこなかった三篠様まで出てきて暴れ回るものだから中には潰され消えてしまった妖怪なんかもいたりして。あるいはすっかり獣に戻った斑様に喰われちゃった奴とか。不思議なのは人には見えない影みたいな存在の妖怪たちも、日の光の下ではしっかり影ができること。だってそーでなきゃ影踏み鬼ができないじゃん、って物語上での設定ならばそれはそれで仕方がないけど、でもちょっぴり不思議。案外にそのために自ら影を作りだしていたとか。ひのえと紅峰の邂逅ってのはあんまり見ない絵。どっちが上位なんだろう?

 全100巻の予定で始まった栗本薫さんの「グイン・サーガ」シリーズは、100巻を越えても終わる様相を見えないうちに栗本さんが病没してしまって未完に終わってしまったし、半村良さんが全80巻とぶち上げた「太陽の世界」は18巻あたりで刊行がストップしたまま半村さんの病没によってやっぱり未完で終わってしまった。長い話は続いているから楽しいし、あるいは未完で終わってもそれもひとつの人生だて割り切れないこともないんだけれど、でもやっぱり今のこの時期に全100話って触れ込みでひとつのミステリーのシリーズが始まると、やっぱり最後までちゃんと行くんだろうかって不安というか好奇心がメラメラと燃えてしまうのも仕方がない。

 吉村達也さんってもうベテランのミステリー作家の人が人気シリーズという氷室想介が活躍する作品を新たに「魔界百物語」という体裁でもって全100巻書き下ろしとしてスタート。その第1作目の「妖精鬼殺人事件」(ノアズブックス)が刊行になったんで買ってはみたんだけれども、でもしかしいったい本当にどこまで続くんだろうかという不安がもやもやと湧いて気になってしまう。果たして完結をこの目でみられるのか。吉村さん自身が今だいたい59歳くらいで年に5冊出たとして20年だから79歳はやっぱりちょっとご高齢、っていうかこっちが生きている保証がない。年に10冊とペースを上げても69歳はやっぱりいろいろと考えてしまうけれどもなあにそこはそれ、書かれている間は楽しめるってことで生きていることを実感しながらその展開をみていこう。表紙のイラストはなかなかの可愛らしさ。その全身像だけでも100枚溜まれば結構な見ばえになりそう。

 「もやしもん」が載ってないイブニングなんてとお嘆きの貴兄貴女らにも「ブッシメン!」の表紙とそれから漫画の掲載はきっととっても嬉しかろう、ってファン層重なってたっけ、まあ何かにかける若い奴らの物語って意味では似ているか。とりあえず玄蔵は逝って良いと思うよ。またしても美少女仏師の胸に顔とか埋めやがってもう。どうやったらそんなにたびたび埋められるのか。運気が知りたい。そして舞い込んだ新たな依頼はどうみても中途半端な吉祥天の彫刻を真っ当にすること。下手の横好きだったと思いきや、同じ爺さんが作ったものでも美少女仏師に預けられたものは完璧だった。どーして違いがあるのか。そんな辺りからヒントは生まれてきそう。そこに天才フィギュア原型師で美少女専門の要・ジョン・寅がどう絡むのか、絡まないのか、そんな辺りも気にして読んでいこう。今回も「おせん」の扉絵はおせんさんがエロかった。食い込んでた。ところでおせんさんって幾つなの。


【9月26日】 急な寒さでこれまでタンクトップに何も被らず寝ていたのが災いしてか、風邪をひいたみたいで頭が朦朧としてきたんで毛布を掘り出し被っても1枚ではたりず2枚でどうだとやったけど、内からわき出る寒気に気絶して夜を過ごして起きたら朝も随分と日が昇っていた。そういう状況に陥っている人が全国的に1億人はいそうな昨今。これだけ急に変わるとは流石に日本、四季のある国、ってそいういう問題でもないような。また急に暑くなったりするのかなあ、せめて9月中はもうちょっと温かいと良いなあ。

 ICAF2011に辻真先さんも来られていたとかでさっそく長岡造形大学の「春風一夜百千年」についての可愛らしさを誉めていた。ほかに先鋭的な作品だっていっぱいある中であのアニメ的なアニメーションに着眼してその愛らしさに着目するところがやっぱり商業アニメーションの世界で子どもたちを相手に長く脚本を書いてきた人。そんな辻さんのお眼鏡にかかってさてはて作者の中山紫さんはどんな方向へと進んでいくんだろー。増えているけどまだ多くはない女性アニメーション監督に割って入るか遠からず。あとしっかり「IAMAS 岐阜県立国際情報化学芸術アカデミー」の“校歌”ギャグに笑ってた。響いてましたよIAMASの方々。

 そんなIAMASから辻真先さんが上げていたのが「大垣、遠いストーリー」だったのはちょっと面白かった。他のはアートっぽい作品だったってこともあったけれども、やっぱり地元愛知県に近い大垣が宣伝されるアニメーション、ってことで関心を抱いたのかな。大垣の各所にペイントされた微妙なキャラたちを音楽に合わせてちょっぴり動かしつつ、大垣の町々でシルエット状になった3Dの芭蕉像がダンスするという作品。最後はショッピングモールへと行って大垣という地方都市にありがちな光景を見せるあたりに社会性って奴もあったのか。タイトルにある「遠い」って言葉の意味は何だろう、行くにはやっぱり遠いってことなのかな、確かに愛知県に住んでた時だって2度くらいしか行かなかったもんなあ。

 土曜日は来られなかった辻真先さんが見られなかった大垣女子短期大学について触れておくなら玉森智恵美さんの「かげ」は描きのアートアニメーションっぽかったかな。吉田未来さん「ココロ」は絵本を動かした感じ。「グループAクマ大作戦」は実写とアニメの組み合わせで大事にしていたはずなのに落とした(なぜだ)クマのぬいぐるみが実体化したりアニメになったりしてそれを告げようとするストーリー。可愛かった。スタジオイグチの「パン美ちゃんのお料理大作戦」は家族の団らんの温かさに涙。3DCGの藤野彩さん「おやすみ!」は最初の上映でフリーズしたけど2度目は無事に。キャラが良い。「橋本未知さんafter the rain」は……忘れたご免。大山明里さん「幻想」は少女漫画を動かす試み。村上海さん「idea」はアートっぽかった。

 水野香里さん「break time」も線画で目を引いた……んだっけ。そして加藤充留さん「GO GO!! SEVEN☆」は色にまつわる戦隊が街を染めて疾走する感じが絵的に拙いながらも躍動感があって見せられた。安田育恵さん「OTAKU」は10分以上の作品で、オタクな少年少女のオフ会にリア充っぽい女の子が混じってみんながバレないようにするんだけれど……って話。ありがちだけれど楽しいし胸に響いてそしてエンディングでやっぱりな落ちがあってまた泣ける。リア充っぽい女の子可愛すぎ。10分を持たせる脚本力はすごいかも。加藤千洋さん「Junp into the New World」は普通のアニメを目指してた感じ。短大だから2年でまるでアニメを知らなかった人たちが勉強して付くってこれだけになるならなかなかか。後のキャリアをどこかでアニメ作りに当ててほしいなあ。大垣。IAMASとか。協力し合えば良いのになあ。

 書き忘れでは京都精華大の白井孝奈さん「トリップ・トラップ・マップ」が絵的に凄かった。「フミ子の告白」の石田祐康さんと同じ学校なだけってことはある。商業アニメーション的によく動く絵とストーリー。評判になっているのかな。あとこれも研修室で見たさばくチームってところの「ワイルドフラワー」が荒野を舞台の少女が巨大な鳥と出合って冒険するストーリーで飛翔する感じが出ていて広大な雰囲気もあって目に残った。2年次でこれを制作なら4年次にはどんな映画が出来るやら。楽しみだ。チームK「稲生怪物日記」は民話的な雰囲気が良い塩梅。淡々とした描写の中に妖怪たちの頑張りつつも果たせない気落ちっぷりが出ていて楽しかった。人間万歳。

 なんとブラッド・ピット主演とは、って誰を演じるんだろうって思いも浮かばないでもないけれど、まだ少年だった主人公のキリヤ・ケイジをベテランな兵士に変えつつ繰り返される戦いを描いてその不条理に叩き込むってのはやっぱりありかもしれないなあ、「ファイトクラブ」っぽい感じだし。ってことで桜坂浩さん原作の「ALL YOU NEED IS KILLのハリウッドでの映画化は、単に企画が売れましたって段階を超えて実現に向けて着々と動いているって感じ。確か記憶では脚本まで出来てそれにお金が出たってことで残りはキャスティングでもってそれで製作費もぶち決まって、一気に撮影、そして上映ってことになるんだろー。とはいえあっちのことだから出来ても2013年とかか。生きているかなあ。でも見たいなあ。チャイニーズシアターでのワールドプレミアの会場を原作者の桜坂浩さんと挿し絵の安倍吉俊さんがタキシード姿で歩く姿を。

 被災した直後から手書きの壁新聞を張り出して報道を続けた石巻日日新聞が国際新聞編集者協会賞でもって特別賞を受賞したとの報を、日本新聞協会に加盟していないからといって日本新聞協会賞を与えず当別表彰もしなかった日本新聞協会の加盟者が平然と恥じ入りもせずに報じている様を見ていてどうにも胸が狂おしい。制度がないからっていうのはそれは出したくないという気持ちの発露でしかなく、本当にジャーナリズムとして顕彰したかったら大新聞の関係者が集い集まった場でなにがしかの議論があってそしかるべきだったんじゃなかろーか。同じ様に日本ジャーナリスト会議も7月に何の賞も出していなかった。毎日新聞の震災報道は入っても。協会とか無関係の場で議論の余地もないのはやっぱりどうにも狂おしい。せめて菊池寛賞が広い讃えてくれればなあ。残る賞ってそれくらいだもんなあ。


【9月25日】 遠く横浜へとトリエンナーレを見に行く気力もないのとあと、やっぱり大きなスクリーンで植草航さんの「やさしいマーチ」を見たいと思って、六本木にある国立新美術館で開かれているICAF2011へと向かう途中で、六本木のアマンドとかある交差点に降り立ち、赤坂の方を見たらいつの間にやら角にゴーゴーカレーが出てきていた。新宿西口から秋葉原へと広がって来た当時を思い返すと、何という進出ぶり。今だと高田馬場にあって新宿の三越裏にあってあと御徒町あたりにもあったっけ。それはそれで嬉しいんだけれど、もう1つの金沢カレーの店がやや押され気味な印象。さらにもう1つは高田馬場から撤退して移行、首都圏では見なくなってしまったからなあ。強気で商売が巧いところがスタンダードになるという真理を見る思い。アルパとチャンピオンは巻き返せるか。

 そして到着した国立貸し画廊では、新制作展と行動展の真っ最中。どちらも有力な美術団体なだけに作品も見たかったけれども時間もなくまず研修室でちらりとあれは武蔵野美術大学のループ上映で戻ってきた小長谷明弘さんの「人情物語」を見たら暗かった。ガロの漫画が口パクでアニメになっている感じでそれもアニメーションではあるけれども動く漫画といった雰囲気。そのコラボが漫画だけどもアニメだけとも違った黄昏っぽさを感じさせてくれる。なるほど映像芸術。そして始まったまずはICAF2011のEプログラムから大阪芸術大学は……半分寝てました、いや作品のせいではなくって体調がどうにも不安定でくらくらと。

 それでもホルスン工房ってところの「釣人」は、フィギュアを動かし良い感じ。そして村瀬明宏さんって人のたぶん3DCGアニメーション「Baked Pudding」は、鳥獣戯画な蛙と兎のバトルをプリンの争いに変えてエスカレートしていく戦いぶりを描く。もっと仲良く半分こ、したと思ったらまだまだ。笑えます。岩岡夢子さんの「なないろマーメード」はメルヘンな少女漫画が動いているよう。そのまま商業アニメーションへといけそうな腕だけれどもうそっちに進んだのかな。

 長岡造形大学は中山紫さんって人の「春風一夜百千年」がもう可愛くってかわいくって最高。どこかで上映があるなら絶対に見て置いた方が良い。何よりも仏像萌え。どっかのお寺に並べられた月光やら弥勒やら阿修羅やら何やら(そんなに幾つも仏像が並べられているはずないってのはなしね)といった仏像たちが夜になると人間風になってさわぐという話。その人間化した仏像たちがまた可愛いんだ。弥勒なんて上半身何も着てないし。おまけに男か女か分からないんで逆にエロティック。とても良い。

 話はそんな中で1体、動かなかったあれば何だろう、儀軌を調べれば分かるんだろうけどそれは後にして、笹団子を食べられてしまって拗ねていたのが謝られちゃんと動き出す。感動のストーリーも得られます。最後に流れた「かぐや姫」は、地元のプラネタリウムで上映された映像らしく30分近くあってボリュームもたっぷり。映像はたいしたことないけどそれも1つの日本昔話的趣向と思えば商業ベース。何よりかぐや姫の造形がすらりと美人で目にも惚れます。

 そしてアート・アニメーションのちいさな学校は阿佐ヶ谷ラピュタにあるらしくノルシュテインの流れを汲んでいるらしいから本格的。いきなり上映の嶋倫子さん「Fisherman」は長新太的というか、あんなシンプルな線で不思議なキャラを描いて不条理な展開を見せてくれるところが「わからないブタ」の和田淳さんっぽかった。きっとこれから世に出てすごい作品を見せてくれるんじゃなかろーか。吉川さゆりさんと川平美緒さんの2人は、橋の下で女の子がザリガニと出合うフィギュアのアニメーション。表情のつけかたが素晴らしい。ザリガニもよくちゃんと動かしていた。操演なかなか。中川晋介さんって人の「frend」は雰囲気がイジー・バルタの「屋根裏のポムネンカ」っぽかった。もっと長い話を見たいなあ。「豹」は意識を失い欠けつつ見てたんであの幻想が現実と混じってさらに恐怖。クリアな意識で今一度見たい。

 そんな感じの終わったEプログラムから今度はトリとなるFプログラム。まずは東京工芸大学。見てすごいと思ったのは袴田圭吾さんって人の「REVERSI」で、オセロをやってる白と黒の熊を軸にして賞賛が罵倒へと変わり敵が見方に変わる、生々流転で縷々変転な世界って奴の裏表っぷりを、その映像の中に込めてみせた。強いメッセージ性とそれを表現する映像センスを持った人。吉村静香さんの「ハバネラ通りの女たち」は、外国の絵本風な絵の中にあからさまだったり内に秘めていたりする女の性を描く。シャワーカーテン越しのシーンとかあってなかなか凄い物語を、よく描いた描ききった。森田志穂さん「10本の白い足」はイカ釣りの話。連れたのがイカ娘だったら海には帰されなかったんじゃなイカ。ハン・スンアさんの「Present」も岩岡夢子さんのようなやさしい話。ハンさんは日本でアニメーターになったとか。頑張って。

 「あーあー、IAMAS、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー」という無理矢理感たっぷりの“校歌”を出だしに始まった大垣にある学校は、名前のとおりに高度な映像が作られていた印象。「Good by Good Boy」と「かくまく」で応募の澤村ちひろさんは、リアルに描きそれを動かして撮る手法でもって画面に白と黒の変幻を描きうごめく樹木を描いた。根気とビジョンの必要な作業。それをやり抜く体力も。素晴らしい。「girl」と「scean〜駅、夜、街〜」の北上伸江さんは、水彩画のような絵を積み重ねて動かしていく手法。滲む絵が変化しうごめく感じがとても心に染みてくる。ハガキ大に写真を9コマをプリントしてその上から絵の具を塗ってリアルを滲ませそして順に撮っていったらしい。どこまで塗って崩すか。それを連続させたらどなるか。計算と計算外が現れ見える世界の非現実感が見る人を引っ張り込むのかも。次に作る作品も見てみたい。

 さてトリの大トリに構えますは東京芸術大学、ってすでに昨日の研修室で見てはあるんだけれどやっぱり大きな画面で見たかった。東京藝大には2つの流れがあって、ひとつは上野にある芸術学部のデザイン専攻でアニメーションをやっている人たちの作品と、そして馬車道の方でアニメーションを作っている映像専攻の人たちの2種類で、それぞれに独自性って奴を感じさせてくれる。といっても現れてくる物は同じアニメーションであって、動く映像ってところに違いはないんだけれど、選ばれる基準としてアニメーションの方にはおそらくは作り手の意識なり、目的って奴が、単純な見た目のビジュアルだけでないところで意味を持ってきていそう。それは植草航さんの「やさしいマーチ」って作品なんかで言われていたことで、パッと見には相対性理論の「ミス・パラレルワールド」にシンクロして動きうごめき爆発する絵の心地よさだけが目に入ってくるんだけれど、その中に描かれている少女の浮かべた思いが、妄想となって爆発していきそれを少女が超えていこうと進む心理までをもが、表現されているから良いんだとか。なるほどなあ。

 一方のデザイン側は、やっぱり表現の楽しさ凄さがメーン? いやでも高橋昂也さんの「VESSELE」は、前に東京藝大の卒業制作展でも見たし昨日の研修室での上映でも見たけれども、大きな画面で良い音響で見るとやっぱり迫力。祝詞めいた言葉がしっかり聞き取れて日本に迫る危機めいたもについて話していることが分かってその上で、起こるスペクタクルが目に広がって日本って国の原始の荒々しさと神秘性って奴が浮かび上がってくる。モノトーンの映像もやっぱり大きな画面で見るとしっかり細部までクッキリ。潰れないで目に入って来る。また上映があればどこかで見たいもの。テレビとかネットじゃあの凄みの1割も出はしないから。

 池亜佐美さんの「USAWALTZ」は、動いていく絵と楽しげな音楽のシンクロが本当の意味で心地良い作品。さまざまな動物が泳ぎ昇っていく上で兎たちが刎ねたり落ちたりする様が可愛いかわいい。臼井聡美さんの「ゆらゆらの森」は横スクロールのゲーム世界で熊が踊り冒険するといった感じ。ビジュアルの緻密さに惚れます。アニメーション専攻からは中国の人らしい胡さんの「Spots Spots」が絵的にも動き的にも凄かった。告畑毅さん「今村商店」は人形アニメで過去を形にしてく試み。シリーズとして固まった時にどんなワールドが飛び出すか。ノスタルジーを喚起しつつ現代を貫く何かを盛った作品になってくれていたらと期待。

 そして最後の折笠良さん「Scripta volant」は、オスカー・ワイルド「幸福の王子」が朗読とともに紙に書かれては消されていき上書きされる絵を撮りつつ、燕を飛ばし王子を像にして動きも受け絵を見せてその物語世界を、音声的文字的なだけでなく映像的に感じさせる。涙も落とし雪も降らせる。それを文字で。映像として。凝ったなあ。さらに片方の目が見えなくなったら半分薄くし両方の目が見えなくなったら全面を薄くして表現。王子の悲しみと絶望がその絵から伝わってくる。ラストもきれいで神々しい。このまま海外に出ても即座に何かとっちゃいそうな勢いだけれどそーゆーことって、されていたのかな。ともあれ折笠良。絶対に忘れられない名前。次ぎに何を作るのか。見たい見たい絶対に見たい。


【9月24日】 起き出してゆっくりともせず国立新美術館へ「ICAF2011」ってインカレなアニメーションのフェスティバルを見に行く。すなわち学生でアニメーションを専攻なり制作している人たちの発表会。全国の各大学とかから作品が集まり上映されるんだけれど今日はそのプログラムに京都精華大があって、石田祐康さんの「rain town」が見られそうだってことでかけつける。到着して見渡した美術館では行動展と新制作展ってのを開催中、ってどっちも美術団体の発表会じゃん、貸画廊的な扱いでの。

 これが例えばパリのルーブル美術館とかポンピドゥーセンターとか、オルセー美術館とかだったとしてやってきた外国からの観光客が、国なんかがやってる美術館ならその国の至宝なんかがあると立ち寄ってみたら何のことはない今時の美術団体が発表会をやってました、他の作品は見せてませんじゃあいったい何をどう感じるのか。もとより貸し画廊的な立ち位置でコレクションを持たない美術館として発足したんだからって事情はあっても、それでもやっぱり国立と名の付く美術館にきてみられるのがそうした団体の発表会だけの期間があるってんじゃあ、日本国外への示しが着かないんで運営する人たちはもーちょっと、考えていろいろやって欲しいもの。ICAFが見られるから十分? まあそうあけど。

 さっと見て早稲田の川口芸術学校の作品はアート系の映像作品といった趣が大。きれいでめまぐるしいけどアニメーションとしての嗜みとはややズレているような。そんな中にあってひとり吹き飛ぶ毛と葉の関係について描いた人は素晴らしかった。きっとこれから成長していくことだろー。岐阜県から参加の大垣女史短期大学はようやくアニメーションを作る楽しさを覚え始めた初々しさが漂う。絵はアレだし話も頓狂だけれど情熱と好奇心にあふれてる。秋葉原が舞台のオタクな奴らの我慢比べを描いた作品はわが身を刺すように見せて貰いました。落ちはなんとなく読めたけど、でもそこへの持っていきたかがオーソドックスで好感持てました。頑張りましょう。

 京都精華大は流石に頑張っているなあって感じ。ノートの切れ端に描かれた顔が動いてストーリーが紡がれるようなのとか美味かった。なかでもあっぱり石田祐康さんのは「フミコの告白」に続いての作品だけあって、見る側の期待も煽られていたけれどもあそこであれだけのアクションを見せながら、こちらでは淡々と雨が降る街での少女とロボットとの邂逅を描いてあって胸にしっとりとしてきた。雨の降る街の表現とか少女の表情や仕草とか、とっても良いしむしろ完璧。ふきゃまけいこさんが描くような童話的なほのぼのさと切なさを味わわせてくれたし、「フミコの告白」のアクション至上から一転しての叙情主義には引き出しの多彩さも見せられた。ここに集団作業から受けるインスパイアや揺らぎふくらみが加われば。今の仕事とその先の仕事に期待、って何やってるんだろう?

 異形になっていく自分を、あなたは愛し続けてくれますか。そう聞く勇気を永遠に永劫に持てる人が、この世界にいったいどれくらいるだろう。自分という存在に絶対の自信を持っていて、たとえ異形となってもそれは自分なのだと強く世に出て、誰しをも引きつけられると思い込んでいるのだとしたら、らそれはそれで幸せなこと。けれども、、そこまでの自信を自身に持てる人なんてそうはいない。自分を愛してくれているのだとしたら、それは今の自分という存在に固定されているもの。そこからわずかでも異形へと変じた途端、自分だとはもう誰も思ってくれないという不安が、浮かんで身を苛むからだ。

 逆に問うなら、異形になっていく誰かを自分は愛し続けることができるだろうかと、そう自問して明解に答えを出せる人も、やっぱりこの世界にいったいどれだけいるのか曖昧だ。顔か心か容姿か家庭か。そんあものは関係ない、存在そのものが誰かのすべてなんだと日頃は胸を張って言っていても、そんな誰かを構成する要素のどこかが少しでも欠けてしまった時に、それでも愛しているのだと言い募れるだけの自信を持てるかどうか。同じような不安が身にまとわりついて離れない。

 異形になっていくあなたはそれでも愛され続ける自信を抱けるのか。異形になっていく誰かをあなたはそれでも慈しみ続けられるのか。浮かんでくるさまざまな問いに果たして答えが得られるのかどうかまでは分からないけれど、少なくともひとつの姿勢を見せてくるのが、市川春子の最新短編集「25時のバカンス 市川春子作品集2」(講談社)だ。たとえば表題作。12歳はなれた姉は奇妙なものにばかり興味を持つ天才不思議少女。その弟は誰かが目を離した間に木から落ちて目の周囲を怪我して、血流が左目のすぐ下を通るようになってしまって常に目が真っ赤になってしまい少年の頃は怪物呼ばわりされていた。

 それから10余年、今は研究者となって海洋生物を研究している姉の乙女だったけれど、会社の都合で研究機関は閉鎖となってしまいその後始末の追われている最中、休暇を取って灯台の後を利用した保養所に行ってしばらくぶりに弟と過ごすことにした。やってきた弟は目こそ今も充血しているものの体格はがっしりとして世界を飛び回りカメラマンをやっている。その彼に姉は自分を撮って欲しいといって、25時の海辺に呼び出し今の自分がどうなっているかをあからさまにする。

 異形。まさしく異形となってしまった彼女だけれどもそれでも意識は彼女のままだし、外見もそんなに変わっていない。弟との会話も少女だったころのまま。そんな姉を弟は前と変わらないまま愛おしく慈しんで抱き続ける。その本心はどうだったのか。内臓ならぬ奇妙な者共に専有されたその肉体。がらんどうとなった内側にはなにもなく、そして時折罅がはいってやがて折れて砕け散る。それでも姉を姉と思い続けて慕える弟の心境の、どこにこれだけの強さがあるのかが分かれば多分、人を愛するということの意味も分かるのだろう。

 そんな愛をはじめは不安に思っていた姉が、やがて自分に愛されているという自覚を抱いてだんだんと、身を柔らかくしていく様がどこか艶めかしくてとても良い。むしろ肉体的には硬くなっていくはずなのに、表情は優しさを増し態度は開けっぴろげになっていく。これが愛されていることへの自信なのだとしたらなるほど、愛して抜いているおとを身で示し言葉で表し続けることによって女性は、愛されている自身を得て自らをより美しく、艶めかしく昇華させるのだろう。平気で人前で尻を掻くのも愛されている自身なのだとしても。いやそれはそれで可愛いんだけれど。

 天才をどこか咎められるような言動を浴びて自分を投げ出し北の果てに行こうとした少年が出合ったのは、街の人たちから妙に慕われている男。王子とすら呼ばれ風邪をひけば供物があつまるその人気ぶりを端で見ながら少年は彼の下で自分を癒そうとする。そんなある時、彼の正体を知りその未来を知り、なおかつ自分の責任がかかわる形で人の命が失われたことで少年は自分に決心し、もといた世界へと戻っていく。異形になっていく男は見捨てられたのか。否、むしろその異形さ故に少年からの敬愛を受け、博愛のもとに延命を施されようとしている。「月の葬式」に描かれる異形との愛もまた、見かけや出自とは無関係に通う情愛の意味というものを考えさせる。

 「パンドラにて」はやや方向性が違うものの、異種族との交流から生まれる情愛が時間を経ても形を変えても続く素晴らしさが描かれる。木星の衛星で学んでいる少女たちの奔放すぎる日々が、卒業という儀式を経ていきなり残酷すぎるものへと転じるその一瞬を、最初はちょっと掴みづらかったけれども、渦中にあったナナという少女の、兄という人物に秘められたその冷淡で合理的な性格を重ね合わせた時、見えた恐怖すべき状況に身が震え、けれどもそんあ状況にあって異形たちは異種族への慈しみを見せ、救済の手を差し伸べてくれていることに感謝と歓喜がわきあがる。ありがとう。あのまま彼女たちはどこへ行ったんだろうか。どこかでダンスは踊ったんだろうか。想像しかできないけれど、きっと幸福が待っていると信じよう。

 「虫と歌 市川春子作品集」にも続いて異形との、異種族との交流が描かれている市川春子さんの作品集。その絵柄の繊細さ、キャラクターたちの柔らかさもあって異形を異形と受けて嫌悪を浮かべるのとは逆に、異形の優しさが感じられて読んでいて胸がすっときれいになってくる。絵柄ならではのメリットであるし、物語の組み立て方事態もそーした慈しみにあふれている。女性の艶めかしさは前以上か。とくに乙女。可愛いなあ。「虫と歌」はSFとして場らしかったけれどもそうしたシーンにはひっかからず、マンガ大賞もとれないまま手塚治虫文化賞で新生賞を受賞したけど今回は、SF大賞で星雲賞でマンガ大賞でネビュラ賞ヒューゴー賞まで及んで行きそう。行って欲しい。いくべきだろうけれどSFは果たして応えるか。

 パルコ前のKalafinaのショップで3人が店長さんをしている姿を遠巻きにしながら近くのスパマッチョってスパゲッティ屋で昨日に続いてナポリタン。秋葉原にあるナポ屋とは違ってトマトソースがケチャップ的ではなくやや薄手だけれど味はしっかりついていて、なおかつパスタの噛みごこちが良くってもりもりと食べてしまう。マッチョで400グラムでメガで600グラムは秋葉原とか渋谷池袋にある店といっしょか。やっぱりメガは今は無理。今度はミートソースにも挑戦したいもの。その脚でアップリンクへと出むいて黒坂圭太監督の13年かけたアニメーション映画「緑子/MIDORI−KO」の初日のスペシャルトーク付きの回を確保する。12番。大丈夫か?

 と思ったら本番までにはしっかりいっぱいで満員のお客さん。あの難解そうに見えてグロテスクにも見える映画にこれだけ人が集まるって処に東京って場所のフトコロの深さを見る。何をやってもしっかり見る人がいるんだもんなあ。そして始まった映画は前回すでに観ていたとおりにアクションあり入浴ありの美少女活躍ストーリー、ってまた嘘を書くなといわれそうだけれども後でトークの時に紹介のあった黒坂監督の昔の同人誌が、異形の存在を守って得たいの知れない化け物と戦う美少女の漫画になっていて、仮にこっちの線で描けば立派に戦う美少女アクションになったんじゃん、とか思ったけれどそれだとアートの人が眉を潜めたかもしれないからどっちもどっち。結果的に美少女の可愛らしさを残しながらもグロテスクでアーティスティックな色も出て、両方から迫れる貴重な作品に仕上がっていた。だからみんな気にせず見よう、アートだけれど美少女だし、美少女だけれどアートなんだから。


【9月23日】 もうたぶんとうか絶対に、続きは読めないんだろう大迫純一さんの「法石姫」(GA文庫)はまず妙な状況が起こってそこで少女が幼なじみの介抱に喜ぶ一方で、まるで知らない少年からさも知人のように話しかけられ誰? と戸惑う場面からスタート。少女がいて少年がいてくっついているようなそうでないような、若々しい日々を過ごしていたところで少年は、道ばたで何か得体の知れないものと戦っている女性を見つけてそして戦い巻きこまれ、さらには戦いで女性が傷ついて倒れたところを看取ってそして女性が連れていた人形のような少女から、世界を脅かす何者かとの戦いの話を聞いて恐怖しつつも戦いが街を巻きこむ可能性を聞いていてもたってもいられなくなる。

 放っておいていと拒絶する小さい少女の言うことをはいはいと聞いて戦いから身を引けば平穏な日々が送れるかっていくとそうでもないように事態は深刻化して街を学校を得たいの知れないものたちが遅い始める。安全なところに引っ込んで関わるなというわりにはそうもいかない事情を意法にチラつかせて少年を戦いに引っ張り込んでしまうあたりの展開は、つまりは関わったならもはあそうなる運命は避けられなかったってことであってひたすらに、その運の悪さを嘆くよりほかになさそー。かくして戦いに身を投じて少年がたどった末路が冒頭。その状態から果たしてどういう立ち直りを見せていくのか、ってところを続きでは描いて欲しかった。でないとあまりにも寂しすぎるから。

 枕元に埋もれていて読みかけから進んでいなかった中田明さんの「バベル」(電撃文庫)をいよいよもって引っ張り出して読んだら女性がみんなトんでいた。名家の執事のセーラは殴るも蹴るも圧倒的で、チンピラなんかあっという間に10人単位でねじ伏せる。治安局のリズは覆面をかぶって鉄パイプでチンピラの向こうずねを刈り上げ殴りゲロさせる。あと女王の通訳を負かされて卑わいで下品な言葉を交えた日本語を勝手にねつ造してそのまま喋る。IQ145とかいう教会のシスターのマリアンヌは、布教がうまくいかない憂さを晴らすべく酒場へと出かけていっては大暴れして周囲全滅。もう誰1人としてマットな女性が出てこない。

 リズを配下に持つ治安局の副局長は、グラマラスなビジュアルながら陰謀めぐらせ局を掌握しようとするし、豊満な女怪盗も1度捕まり悔い改めてもう普通の人間に戻ると言いつつも腹の中はいまだに真っ黒。中華マフィアの娘の教育係も娘の方もやっぱりあれやこれやを抱えている。物語のヒロイン格の名家の令嬢にしてからが電脳掏摸のエキスパートとして中華マフィアの娘がマフィアの御曹司の間抜けを相手に結婚する直前、誘拐されてしまった事件に出しゃばっていく。いやもう凄い女性たちがいっぱい。なおかつどうでも良い男たちもいっぱいいて組んずほぐれつで進みながらもしっかりと、近未来的なアンダーグラウンドの世界を描き国宝が盗まれた事件の謎解きも行い中華マフィアの娘がさらわれた事件の解明も行ってみせる。ミステリーにしてアクションににしてSFでもある作品。成田良悟さんの「バッカーノ!」に負けず多人数を絡め喧騒の世界を描いて愉しませてくる。今後が期待かも。とりあえず女性では圧倒的強さを誇るセーラさんが好き、かな。踏まれたい蹴られたい。

 外に出たらもうTシャツ1枚では寒気がするような気温になってていったい何事かと驚く。先週どころか今週の頭まであんなに蒸し暑かったのに。季節って気まぐれ。そんな中を新宿から渋谷へと回ってタワーレコードで「Kalafina」の新作「After Eden」の売れ行きなんかを観察。インストアライブイベントがあるってことでどちらも出足好調だった模様でライブの整理券はすべて配布が終了。ちょっとこれは凄いかも。何しろデイリーとはいえオリコンチャートの1位に初登場でなるんだから。普通にはおそらくまるで知られていないユニットのアルバムが。あのDAIGOとかエブリリトルシングといった有名どころのタイトルの上に来る。これはいよいよやっぱり何かが始まっているってことで良いのかな。その先に来るのはいったいどんな世界かな。武道館とか東京ドームとかウェンブリーとかウッドストックとか。

 渋谷にはパルコの向かいに限定のKalafinaショップが出来ていたんで入ったら月曜日付けで書いた記事が張ってあった。何かお役に立てて光栄です。っていうかメディアなんてそういうことにしか実は案外に役にたたないもので、実際の物作りに何か関わっている訳ではないし、それをアピールして広めて売るって行為にも関わっている訳ではない。持っている媒体の力を借りてそこに何かを書くだけのこと。媒体という虎の威を借りての行為であって自らの力量なんてものはそこには毛筋ほども絡まない。売れたのはほとんがアーティストの力でありスタッフの力。そしてそうした結果を喜ぶ気落ちを共有できるのも。書いた側はだから外野で良かったねえと呟きながら、所詮は傍観者に過ぎない寂しさを味わうのであったという。もしも本当に満足感を得たいなら、達成感を得たいのならみんななるならジャーナリストでもライターでもなくクリエーターだよ。若いうちはだからそっちを目指した方が絶対に良いよ。

 閑話休題。Kalafinaのショップにはあの「魔法少女まどか☆マギカ」のキャラクターたちがKalafinaの衣装を着た姿で描かれたクリアファイルが置いてあったんで購入。限定だった模様だけれど問い合わせが多いので作り足したとか。それが入ってきたのが今日。寄ってよかった。あとあウォレットチェーンとそれからアルバムの限定版。繊細そうなKalafinaにぶっとい鎖なんて果たしてとは思うけれども尖端にメタルのチャームやクロスもついててその辺はおしゃれ。ごつくておしゃれという不思議なアイテムをぶら下げて歩けばきっと不思議な気分を味わえるだろー。アルバムについては既にサンプルを聞いているからたぶん開けない、と思ったけれども付属のDVDが見たいんで帰って開けて見よう。どんなんだったんだろう、アニメエキスポでのKalafinaと、それを見る人たちの熱狂は。

 せっかくだからと夕方の新宿はタワーレコードへと出かけていってインストアライブを遠巻きにして見物。登場して狭い場所でそれほど整っていない音響のなかをしっかりコーラスしてハモらせる腕前、っていうか喉前を見せてくれたところはやっぱり凄い。聞けば誰でも気になるグループになっていたのか終わった後にCDを買っている人が結構いた。今までは買った人がライブに来て終わりって感じだっただけにこれはやっぱり進歩と言えそー。見た目はやっぱり男性の方が多かったかな。でもアニメタイアップの曲はやらずにオリジナルで通したところは進歩というか、そうやって“Kalafinaという音楽”を次第に浸透させていこうってしている様子。それはじょじょに達成されつつある模様。あとはだからメジャーなシーンでのピックアップか。紅白歌合戦に出ないかなあ。出て欲しいなあ。


【9月22日】 あのテンポ感に合うようにもしも動かすとしたら相当な動かし方にしなくちゃならず、それだと割がきっと合わないってことで出来る範囲内でスタイリッシュな絵を追求したのが山内重保監督による「魔乳秘剣帖」のオープニングだと聞かされて改めて見るとなるほど動かない中にアングルで見せカットバックとかで見せていたりするところがあって山内さんらしさをそこかしこに感じる。千房は胴体しか映ってないのに楓はちゃんと全身が映っているようなアングルとか。あと絵柄については自分の方がより原作に近いんじゃないかなってのが山内さん説。とはいえ原作読んでないんで本当のところはちょっと不明。どーなんだ。

 そしていよいよむなもりの里とやらに到着した魔乳千房は母親を支えていたおばばと再会し、乳流れの極意の伝授を受けるや受けざるやってところで魔乳一族が攻め入って競うな不穏な雰囲気。あの圧倒的多数を切り伏せそして胸を奪った日にはいったいどれだけの巨大さになってしまうんだろう千房さま。でもむこうにはすでに奪われ平べったかったり平べったいのをごまかしていたりするのもいるから、そんなに一気に巨大になって重くてったかえないまま滅多斬りに合う、なんてことにはならないか。そんなこんなでクライマックス。なんだかんだ言いつつずっと見てきたなあ。最終回で果たして乳こそすべての世の中に終止符が打たれるのかなあ。

 きっかけはだから何月何日に発表会をやりますよ、ってリリースが出たことだと思うんだけれどそこに具体的な発表の内容が書かれておらず、新製品とかにありがちなスターとかアイドルとかいったタレントの名前も見られないことから相当に意味があり、そして具体的な内容を公表できないものだと辺りをつけて、だったら巷間言われていたよーなiPhone5をKDDIが導入するって発表に違いないと考えて、それをまずは雑誌系でつづってみせて反応を伺いそして本家の経済新聞でもぶち上げて、既成事実化していっている今がまるっきり最中だって言えるのかな。おそらくはそうなるとは思っていても、すべての情報はクパチーノに集積されてて、なおかつそこの口の堅さが尋常ではない以上は類推から憶測を経て既成事実にしてしまうより他、方法もないんだろー。ともあれ期待のKDDIによるiPhone。INFOBARはどーなっちゃうんだろ。

 就任以来、ずっとAクラスに居続けていてそのうち優勝だってしていれば日本シリーズだってとっている。3位になったのはたったの1度。つまるところは名監督としか言いようがなく現時点でも2位とかにいてクライマックスシリーズへの進出を確かなものにしつつある中日ドラゴンズの落合博満監督が、どーして辞めなきゃいけないのかってところにこの国の、ひとすじなわではいかない困難さって奴が見えてどうにもげんなりとしてくる。

 おまけに後任が前に決して好成績を収められはしなかった人。なるほどミスターではあるけれど、その活躍した時期はすでに前世紀もバブル以前の高度成長期。覚えている人も少ない中で落合監督以上の客寄せを期待できるのか。過去のネームバリューに溺れがちなおっさんメディアには意味が見えても普通の野球好きにはまるで見えないこの人事を、メディアに向けて行って果たして球団は保つのか。足下を見て周囲を見渡す必要があると思うなあ。もう手遅れか。

 お仕事物といったらSF界では小川一水さんが大得意で深海探査亭の乗組員を描いたりブライダル業界の人を描いたりヘリコプター乗りを描いたり郵政省で配達をやっている人たちを描いたりしてプロフェッショナルが仕事に取り組む情熱と、そんな魂から生まれる素晴らしい仕事ぶりって奴を見せてくれている。現実世界に振るなら池井戸潤さんが仕事に取り組む男たちって奴を描き続けてついに「下町ロケット」で直木賞を受賞した。そこに描かれた恋愛とかスポーツといかいったものよりも我々にとって切実な仕事という分野に対する情熱は、身近な分だけやる気って奴を醸しだしてくれる。その系譜に三浦しをんさんの「舟を編む」(光文社)がるとしたら三浦さんも立派に直木賞候補になれ……ってもうすでに取ってたよ。だったら次は山本周五郎賞? そーゆーのってあるんだろーか。

 ともあれまっさらな作家としてこの作品が世に出れば、賞レースに名前が挙がってくることは間違いないしってくらいの完成度を保ち面白さを保っているの「舟を編む」。真面目に辞書を作っていると美人の板前さんといい仲になれるとい、う夢を見させてくれるところがうれしけれども残念にも僕は辞書を作ってないからなあ。それから周囲に板前さんでなくても美人がいないという。困ったもんだ。いやそれはそれとして。壮大な辞書を作りたいと挑み始めた編集者たちの先達から当代、そして後進と3代に及ぶ辞書作りの執念って奴が、楽しく明るく描かれているから読んで絶対に楽しめる。たかが辞書とはもはや絶対に言えなくなるくらい、真剣さに満ちあふれている辞書作りの現場の描写。今からでもそーゆー大変だけれど実りある仕事に就けるかなあ。漫然と日々をフローで過ごしていたって未来につながらないんだよなあ。


【9月21日】 そして見た山内重保監督による星矢映画の今のところの最終版ともいえる「聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜」はなるほどやっぱり山内さん節炸裂に、全員が集合しての派手なアクションとかにはいかずに冥王ハーデス十二宮編を経て傷ついた星矢が、意識も混沌とした中を城戸沙織の屋敷にかくまわれるように住んでいるところに現れたアルテミスとその配下が、沙織ことアテナに地球を譲るように行ってそしてアテナはそれを諾々と受け、星矢は捨てられ呆然としたなかで目を覚まし、そこから未だ癒えない体を引きずって彷徨する姿が淡々と、荘厳な音楽の元に描かれる。

 いみじくも古谷徹さんが最高のスタッフとそして自分を高めることに熱意を持ったキャストたちの再結集から生まれた劇場長編アニメーション。唐突な展開もあってなるほど山内さんらしさが出ているなあって思えたりもしたけれど、オーディオコメンタリーなんかを聞くとやっぱり問題は尺の方で、紫龍と氷河の最初の戦いなんかはそれで描けず、なぜか氷河が自ら得意とする氷の攻撃によって沈み、紫龍もその敗北を意味する裸体で背中を見せて刺青の龍を薄らげた姿でうつぶせになっていたりするところから始め、敵が攻撃を跳ね返すタイプだと“了解”させて後にそれを星矢の参画もあってどううち破るのか、といった展開へと繋いでいる。アクロバティック。

 それでもやっぱり少ない出番に監督も、古谷徹さんもいささか残念ではあった様子。とはいえ一方では星矢と沙織との間に通う恋情とも、親愛ともとれる深い心のつながりを、よりくっきりと描いた映画になっていてそうしたラブストーリーを好む人には受けそうな予感もしないでもない。今となっては5人のブロンズセイントたちのそれぞれにファンがつき、その活躍と友情のドラマを軸に物語を見ていった層も高齢となってアニメの一線から引退気味。むしろ若い層に見せるとなった上で”お約束”でいっぱいのテレビアニメのサービス的な劇場版を見せて果たして通じるか、って疑問も浮かぶ。

 その点で山内監督の劇場版は、そうした世界観なりキャラクターも踏まえつつ、しっかりと沙織と星矢の関係性に軸をおいてドラマとして見せようとしているから、今見てもそれなりに“分かる”よーな気がする。「聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜」の意味深なラストシーンについても、総花的な活躍ストーリーではないからこそ描けたもの。そして理解への感心が及ぶもの。その真意を確かめる意味でも、今度出るブルーレイディスクによる「聖闘士星矢」の劇場版ボックスは必見だ。

 さらわれては縛られ見つかっては引きずり回され、果ては放り出されて絶体絶命の日々乃さんの不幸は、単行本だとこの後ひっくり返った自動車の中でシートベルトをはずせず逆さ吊りになりながら潰されかけるという、さらに上乗せとなって襲いかかってくるんだけれどもアニメーション版の「神様ドォルズ」の方は、日向まひるとの決戦をクライマックスに置いて匡平の覚醒を描いたところでとりあえずの第1期として、その後の田舎での天照素戦とおそらくは連載で続いているだろう阿幾との決着なんかを、第2期で描くことになるんだろー。あれだけのクオリティをもって描かれ、そしてあれだけの物量でもって揺れる胸とかが描かれているアニメがこの後続かないなんてことはない、と思いたいけどそういう理由だけではことが運ばないのがこの不況。なので第2期を願い天下に向かって激しく放とうビームビームビームビームビームッ。

 台風の中をがんぷら向上を見学してから1カ月も経たずに台風の中を上井草へと出かける9月。縁があるのか。仕事を終えてふと見たチラシに杉並アニメーションミュージアムで沖浦監督による最後! のセルアニメーションらしい「人狼 JIN−ROH」のセル画に関した展示があるってんで、バスに乗ってとことこと出かけていったら鈴木伸一さんが何かの取材を受けていた。ラーメンは食べていなかった。セル画の展示自体はツリーからスライドして飛び出すような形で重ねられたいくつかのシーンが置かれている程度で、そこからセル画そのものの持つ不思議さとかってのが分かるようにはなってはないけれど、脇のモニターでセル画を重ねて撮影する昔の撮影の仕方なんかが語られていて、実に10枚ものセルを重ねて撮ってたんだって分かって驚いた。光抜けるのか? 相当に強烈だったんだろうなあ。人もセルも保たない訳だ。そんな世界が今ではモニターの中でちょちょいと何でも出来てしまう。便利だけれどそこから失われてしまったものがあるのか、ないのか、そんなところを知りたくなってきた。見返すか「人狼」、BDも石丸で安値で買ったことだし。

 忙しくって帰っちゃって昨日は山内重保監督の話をあんまりうかがえなかったんで、今日ならうかがえると思って歌舞伎町のロフトプラスワンで開かれるアニメスタイルのトークイベントに行こうと思ったものの外を降る雨は激しさを増すばかり。それでも台風の進み具合から夜には通り過ぎて電車も動き出すだろうと賭けて止まり止まりしながらも新宿まで行った丸の内線で出かけて7時過ぎに会場に入ると20数人しか人がいなかった。うわお。まあ肝心の小黒さんも山内監督も到着できてないくらいの状況だったんで仕方がないんだけれど、それでもこれだけ集まってしまうところに山内監督が持つ何かってやつが見え隠れ。その何かってものを詳しく知る身にはないってこともあって、1時間半くらい遅れて到着した山内監督の話にずずっと聞き入る。すごいなあ。

 映画を繰り返し見ていたってわけでもないしアニメが熱烈に好きだったってこともなく、テレビでやってたフランス映画を見ていたってくらいの映像体験ながらも東京で仕事を探してアニメの会社に行ってそこで見習いみたいなことをしつつも撮影の技術なんかをすぐに身につけ演出だってできると直感。とはいえ半年の新人に演出を任せる会社もなかなかなく、流転をしつつそれでもやっぱり出来ると信じた直感を頼りに仕事を受けてはこなして力を見せ、東映動画っていう名だたる作品を世に送り出してきた会社に行ってそこで次第に力量を発揮していったという感じ。

 その装置を見ればマルチクレーンに7段くらい積んでああいった絵を作れるんだと思えるところが凄いんだけれどそれはやっぱりこういう絵が欲しいっていう、ひとつのビジョンがちゃんとあって、それに向けていろいろと道具を使いコンテを切っていったんだろー。どう描きたいか、っていったところで何かが浮かぶその才能が、漫然と見ている人間としてとても羨ましい。前だったら真似たい、そうしたいって欲求があったんだけれど、今はそうした感受性も薄れてしまったなあ。もちろん作り手にだって自分の好みなり経験をテンプレートにして当てはめ作っている人もいない訳ではないし、それが逆に慣れ親しんだ心地良さを生むってこともないでもない。とはいえ山内監督は今なおテンプレートではなく、新しいことをやろうとコンテを切り続けているというからやっぱり凄い。その腕が見られる作品は何か。楽しみ楽しみ。


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