縮刷版2006年7月下旬号


【7月31日】 さらについでと宮崎駿監督が最初に監督として手がけた「ルパン三世 カリオストロの城」をDVDで見る。なんか違う印象。映画館とかテレビでは見たことがあってもパッケージソフトで見るのは実は初めてで、映画館だと必ずスクリーンの横に出ていた黒いフィルム替えのマークが出ていなかったり記憶だと最後の埼玉県警との追っかけシーンでスクリーン上に出るフィルムの傷めいたものがなく、また音声の途切れもなくってどこまでも鮮明なのが場末の映画館での上映に浸りきった目に不思議に映った。何せ見たのが「宮裏太陽」だったから、平場に破れた椅子とかが並んだ名古屋の劇場では傷も音の途切れもそれが当たり前のよーに感じらてしまったんだろー。こんなに綺麗な作品だったんだなあ。赤くもないし。

 セリフもシーンも完璧なまでに覚えているのに次にそのシーンが出て次にそのセリフが口にされるのを待ち遠しく思い繰り出されれば出されたでまた嬉しく思ってしまえる映画ってのはこいつと押井守監督の「うる星やつら ビューティフルドリーマー」くらいか。さらに挙げれば「機動警察パトレイバー2」。よーするに何度も繰り返して見て飽きない作品ってことなんだけど、だったらどーして飽きないのかって部分を論理立てて説明するのはちょっと不可能。好きだから、では曖昧過ぎるし面白いから、でも同様。敢えて挙げるならどのシーンもはっとさせる所があってどのシーンにも無駄がなくってどのセリフも練り上げられていて、それを演じる役者の声も深いから、ってことになるんだろー。

 翻って昨今そこまでの作品がアニメーション映画についてあるのか、ってことになるとうーん、映画館で何度も繰り返し見る作品が少なくまたDVDで2回以上再生するのもほとんどない状況で、そこまで内部で熟成させらえる作品が出ないのも仕方がないか。かろうじて劇場で4回見た「千と千尋の神隠し」を挙げたいけれど、これ、DVDが赤いからなあ、映画館との違和感に気もそぞろとなって画面に見入れないんだよなあ。勿体ない。誰だ責任者は。あるいは「時をかける少女」がそんな1つになるかもしれないけれど、劇場へと脚を運ぶ時間が今はない。あと3回は見たいんだけどでも、いつまで公開していることやら。せめてあと1回なりとも言ってシーンとセリフを記憶に擦り込み、それからDVDの発売を待とう。年末かなあ。来年かなあ。

 吃驚仰天の引退発表からこっち、「中田英寿」がまるで盛り上がっていないように感じるのはまるでそっちに興味を示さないまま代表監督の人事とか、その後のジェフユナイテッド市原・千葉の動向にばかり目を向けてしまっている当方の、視野の狭さ故かもしれないけれどそれでもテレビで特番が放映されたり、雑誌の特別号が店頭を飾っていてもそれを録画してまで見なきゃとか、勝って永久保存したいって気分がまるで起こらないし周囲にも起こっているような雰囲気がない。インタビューが堂々掲載された幻冬舎の「ゲーテ」だって売れている風に見えないし、周囲で買って読んでいる人の姿もない。

 これも極私的なことだけどドラガン・ストイコビッチが引退した時はもっと気分が高揚していて出る雑誌はだいたい買ったし頑張って引退試合に行こうとチケット売り場を走ったりしもした。買えなかったけど。でもその後も雑誌なんかにインタビューが載れば読んでそのご託宣を耳にしたしDVDが出れば買って華麗なるプレーを心ゆくまで堪能した。そんな延長が木村元彦一さんの本への関心につながり旧ユーゴのサッカーへの関心へと向かいイビチャ・オシム監督への多大なる興味へと繋がっていった訳でつまりはストイコビッチ熱は今なお僕の中にブスブスと燻っているってことになる。中田熱? まるでなし。カケラもなし。

 それは単に中田が苦手だったってことではない。むしろ好きな選手だった。なのにもう既に過去の人、無関係な誰かって状態になってしまったのは、中田英寿がまるでサッカーに関わるそぶりを見せないでいることが理由になっているからなのかもしれない。解説者になるにしてもコーチの道を歩むにしてもキャスターになるにしても何にしても、サッカーというフックがあればそこに関心を抱き続けられる。あの偉大な才能と多大なる経験が何を言うのか、何をするのか見たい聞きたい知りたい気持ちも膨らむはずだ。

 けどそうじゃない、何をしているか分からないし何かしたところでこれまでの中田英寿への関心を支えて来たサッカーとは関係のない事柄に、興味を抱くだけの理由がない。サッカー自体でも決して世界のトップチームで輝きを放ち続けた訳じゃなく、サッカー以外のことならなおのこと何事もなし得てこなかった人間の、とりあえず始める素人仕事なんぞに関心を抱く暇などない。

 それが僕個人的な考え方であることは承知しているけれど、見渡して半月も保たずして世間の話題からフェードアウトしてしまった背景に、似たよーな一般の感情がないとも否定しきれない。ただの一般人・中田英寿。そこから再び何かを成し遂げ世に出て来た時にこそ世間は再び関心を抱くだろーし、メディアも関心を向ければ良いんだけどそれができないのがスターに頼らなければ仕事にならないメディアの常。世間のズレを感じないまま何かがあれば中田だ何だと引っ張り出しては苦笑を買うことになるんだろー、長嶋茂雄を未だ持ち出しては新しい野球ファンの苦笑を買って信頼を失いまくっているよーに。

 大昔からの知人だったスポーツライターの増島みどりさんが中田と海辺で語らうのはまあ、婦女子のファン活動みたいなものだと理解しておいてあげよー。それがスポーツとはかけはなれた仕事でも。つか何、フェロー諸島へとフェネルバフチェの試合を見に行くのかみどりちゃん。まだジーコに縋るつもりなのかみどりちゃん。読者の欲しがるものとまるでかけ離れている気がするんだけどなー、中田のその後に負けず劣らず。

 「平成COMPLEX」は連載が終わってしまったのかな「ヤングキングアワーズ」はしばらく連載が止まっていた内藤泰弘さんがおまけ漫画ながら復活してはしばらくぶりの再会なんぞを約束してくれちゃっているんで今後に注目。一方で平野耕太さんは単行本の直しがあっても構わずより深いところへと踏み込んで死に神ウォルターの言動への懐疑を投げつけている。きのう今日裏切ったのでないとっすれば裏切っていたのはいつからだ。それがアーカードの復活をも見据えたことだったとしたら狙いは何か、等々。ヤングウォルター編とも繋がりそーな話なだけに展開に興味。少女の格好をしていた若いアーカードに足蹴にされた怨み? だったら可愛過ぎ。「ジオブリーダーズ」もインターミッション的。過去に重点で話は微速前進。一気に進むのは何時か。でもって進んだ先は? 5年は楽しめるなあこのペースなら。


【7月30日】 勢いで明け方にかけてDVDで「耳をすませば」を見る。過剰なまでの街並み描写に室内描写に情景描写。だけどこれくらい描き込んでようやくリアルな日常の生活感って奴が出るんだろー。実際の街はさらに大勢の人がいて沢山のものがあってそれらがめいめい勝手に動いてる。そこまでの描写は求めなくってもそれなりに、描き込まれた上でもって繰り広げられるドラマがあったからこそ過去のスタジオジブリ作品は、アニメーション映画として大きな明日クリーンに負けることのない強くて鮮烈なドラマを、見る人に与えられたんだろーなー。

 ゲド戦記の場合はだいたいが郊外やら農村で人の少ない場所が舞台だし、時代も時代なんで部屋に物が少なくたって仕方ないっちゃー仕方ない。ただハイタカとアレンが連れ立って入った街だけは、もっと混雑していたって良かった気がする。街道を歩いてだんだんと都市へと近づくに連れ歩く人が増え、前泊するあたりの宿場町ですら大勢の人で賑わっているもの。「ゲド戦記」だとまるで人の歩いていない峠から見下ろすといきなり大きな街があって、門前でようやくちょっぴりだけど人が増えただけだった。

 ここでわんさと人の溢れていたりしたら街って感じも出たのに。港を見下ろした場面もそこにまるで人とかいなかったし。だってあれだけの港だよ。船の数だって半端じゃない。1000人の人が動いていたって不思議のない港に息づく生命感がまるでなかったもんああ。覚えてないけど1枚絵、だったっけ? 「耳をすませば」だったら見下ろした街の道路をきっと人も車もわしわし動いていただろー。「魔女の宅急便」でも同様か。無駄だけど必要なモブシーン。それがあってこそピンで立ったキャラも生きてくるっていうか。

 05年の夏前あたりから作業に入って1年で無理矢理に仕上げた作品にそこまでの密度を求めるのは酷なのかも。あるなら次にはそれなりの時間も与えて空間を、アニメ的にどこまで描き込んで来るのかに興味深々。抜ける手も抜かずむしろ足し込む過剰さ。それがなきゃジブリ映画がジブリ映画である必要なんてないからね。頑張れ吾朗監督。そしてアニメーターたち。既にして宮崎駿監督が陣取っているそーだからきっと手本を見せてくれるだろー。んで何作るの?

 夏の3大アニメバトルで個人的評価の1段下がる「ブレイブストーリー」と、ほかの2作品を比べて自分の趣味が絵とかじゃなくって、繰り出される主題に向いているんだってことを実感するこの頃。身辺の不幸を神様にお願いしてリセットしてもらうんだって主題があって、最後に実際にリセットされて平穏を取り戻したかに見えるキャラクターも出てくる「ブレイブストーリー」だけど、それって実はリセットをさせた個人の満足感でしかない。蘇ったって彼等はその恩恵を感じない。改めて得られた生を喜ぶこともない。とりわけそのうちの1人がやっぱりリセットを願っていただけに、他力とはいえ適った喜びを感じさせてあげたいんだけれどそれもない。そこが見ていてどうにも引っかかった。

 「時をかける少女」は違う。幾度とのなく反復可能な時間を悦楽のうちに享受した果てに、そんな個人的な悦楽が別の誰かを絶望に落とし込む可能性を見せ、いずれ終わりの来る反復の果てに結局は人はたった1つの生しか選べないんだってことを見せて、そのかけがえのなさを感じさせる。そして「ゲド戦記」。いずれ死んでしまうんだったら人が生きる意味なんてないのかもって感じさせながらもそんなことはない、いずれ死んでしまうからこそ生きている今をしっかり生きろってメッセージを放つ。

 できればそこに死して後も残る記憶の連鎖が、総体として人間の世界を豊穣にしていくんだって示唆があれば良かったけど、それは本筋じゃないから仕方がない。いずれにしても今を精いっぱい生きようってゆーメッセージに元来憧れる自分がいて、それらを見せてくれた作品の評価が相対的に高くなったってことで「ブレイブストーリー」に罪はないからあしからず。でも2度目に「ゲド」「時かけ」は見ても「ブレイブ」は見ないなあ。せめてミーナがもうちょい目立ってたら。せめて脱ぐとか。脱いだらどんなだ。やっぱり猫みたく毛が生えていたりするのかな。ふかふかもこもこ。

 ああ負けちまったよ北朝鮮との3位決定戦にサッカー女子日本代表。暴行でキーパーとディフェンスが2人抜けた3人落ちでも前線の選手層には変わりがなく、激しい攻撃でもって前半から3点を奪って日本を突き放してくれちゃった模様。あとは暴行事件を重く見た連盟あたりが北朝鮮の出場資格を云々するとかすれば別として、北中米カリブのチームとのプレーオフに回ることが確定した。どこが出てくるのかは知らないけれどまたメキシコだったらやっぱりアステカスタジアムでの10万人アウェーなんて過酷な試合になるのかなあ。高地で食事も今ひとつ。崩れた体調の中で今の前半のずるずると崩れるチーム状態ではちょっと勝てそうにもないなあ。

 これが前の上田栄治監督が率いていた頃だったら、キャプテンの大部由美選手を筆頭にベテラン勢が大勢いて、俊敏な若手も混じった精神的な強さがあって踏ん張れた感じもしたけれど、今の大橋浩二監督に代わってからのなでしこジャパンってどうにも試合運びが淡泊で、勝つときは強いだけど負ける時はあっさり負けるよーな印象がある。スカウティングも上田監督の時ほど緻密にやってるって雰囲気もないし。まあ前回だって結局はアジアで勝てずプレーオフから再出発した訳だし、今回もここで気を入れ直してプレーオフを抜けワールドカップに出て五輪みも出場を果たして、今1度のなでしこ伝説を作り上げてやって下さいな。ままだ終わっちゃいないぜ。

 まだ終わっちゃいないぜ、って言いたいけれど優勝争いは終わったかもなあジェフユナイテッド市原・千葉。「フクダ電子アリーナ」での対名古屋グランパスエイト戦はパスがまるで繋がらずぼよーんと放り挙げてはヘッドで競るも後が続かず奪われ戻りまた、前に出してはトラップをミスして奪われる繰り返し。攻め手に欠けて相手のゴール前を脅かすことなく45分が過ぎた前半のロスタイムに、新加入の巨大なヨンセンに1点を奪われリードを許してしまう。こんなにパスが繋がらなかったとは。つか運動量のこんなにないチームだっとは。

 後半にはいっても右サイドの水野晃樹選手がアレックス状態で半分くらい役立たず。パスをもらってもそれを前に出すだけで後を走らず後ろに来ても走り込まないからサイドをえぐる決定的な仕事へと繋がらない。それでも瞬間に仕事をみせてサイドを前へと走りそこから攻撃を組み立てる動きを見せてまず1点。さらに中央から巻が落としたところを佐藤勇人選手が蹴り込むジェフらしー攻めで2点を奪い逆転に成功するも、以後またサイドが前に走らずかといって守らず、最前線の巻誠一郎選手がなぜか最終ラインで痛んで転がっている脇を抜けられ点を決められてしまった。

 そこから奮起し同点へと迫れと願ったものの相変わらずサイドで崩す動きがない。なるほど仕事をする時はするけれどそれ以外の局面において無駄になりそーな走りを見せない選手のちょろちょろと出てきた所にかつて見せてた連動性が失われた理由があるのかも。こういった所を見るとオランダのワールドユースで大活躍を見せた直後であっても、イビチャ・オシム監督(当時)が水野晃樹選手をトップチームでほとんど使わず、今年に入ってもほとんど先発には起用しなかった理由がちょい分かる。アマル・オシム監督も途中で見切りをつけたから、次出なければもう先発の機会はないのかな。せっかくの才能もここまでか。勿体ないなあ。

 周囲を見ず意識もしないでただ出すだけのパスとか増えて来たのも気になった。出せばそれで仕事をした気になってる選手が増えて来た感じ。このままいくと噛み合わない中でモチベーションが下がり崩壊しかねない。いったん挟まれる「A3」でどこまで立て直してくるのかに注目。幸いいんしてこれがあるんで代表チームに選手を抜かれることがないんで、せいぜいチームの約束事を作り熟成させていってくださいな。折角だから李天秀選手の所属する厨山現代との試合くらいは見たいなあ。あと大連実徳との試合も。いずれ出るだろー(出て欲しい!)アジアチャンピオンズリーグの常連チームに勝てれば未来に希望も繋がる。アジアカップなりワールドカップアジア予選での勝利にも目処が立つ。頑張れジェフユナイテッド市原・千葉。ふがいない闘いだけは見せるなよ。


【7月29日】 結構にリテイクが入っていた「銀盤カレイドスコープ」のDVD第1巻。食べ物が美味しそうになったり表情が豊かになっていたりと見てえっ何これって場面は減っている、らしい。けど1話2話あたりは別に絵とか気にせず見ていたから手放しで嬉しいってことはないかなあ。もとよりセリフ劇を楽しんでいたって所もあったんで。タズサとメディアの心理戦めいた所も、でも特別版のボックスのイラストとかエンボス加工された手触りとか良いからここまで発売を引っ張った意味はあったってことで。肝心な最終話にかけてのスケートシーンがどんな絵になっているかに今は興味。豪華絢爛になっていると信じたい。信じて、良い?

 こっちもリテイクが入っているのかなあ「涼宮ハルヒの憂鬱」DVD。絵とか見てもあんまり分からないけど放映バージョンを何度か繰り返して見て体感した絵とセリフと音楽の組合せがどこか違っているよーな気がする。気のせいだろーけど。でもここでこんな音楽鳴ってたっけ? って思うのはDVDで音が良くなったのと、それをワイヤレスのヘッドホーンで聞いているからなんだろーなー。ぶつぶつ言ってるハルヒのセリフなんてテレビからじゃあ聞き取れなかったし。言っていたかも知らないけれど。このままエピソードとしての「涼宮ハルヒの憂鬱」ばかりで続いて感動のクライマックスを経た後に繰り出される、退屈だとか孤島症候群だとかって枝葉のエピソードが果たしてどんな印象を受けるのかにも個人的に興味。DVDの最後ってどれになるんだったっけ?

 なんだ傑作じゃん宮崎吾朗監督版「ゲド戦記」。傑作って言葉が「千と千尋の神隠し」級な作品に使う言葉だとしたらそれには及ばないまでも優れて秀でたアニメーションであることは確か。褒め殺しでも何でもなくって素直に見られて次にいったいどうなっちゃうの? ってドキドキしてそうだったんだ! ってちょっとした驚きなんかも感じつつ最後まで全然退屈することなしに鑑賞できた。欠伸なんて皆無。それを言うなら「ブレイブストーリー」なんて途中ホントに欠伸ばっかり出たっけか。時間これより短いのに。だから夏のアニメーション映画3本(もう1本は「時をかける少女」)の中でもトップクラスの1本だって断言できる。見て損はなかった。むしろ得した気分。ありがとう「ゲド戦記」。

 見たのは近所にある「ワーナーマイカル市川妙典」で朝8時50分からのを。割に入ってた。満杯にはほど遠いけど幕張で見た「時かけ」以上。親子連れもいっぱいいてその辺はやっぱりジブリアニメだからって期待から来た客層か。隣が小学生くらいの女の子で細くて長い脚をスカートから伸ばして座ってくれちゃって目の毒に。でも映画がつまらなかったらそれを目でちら見て時間を過ごせばいいかなあって思っていたらスクリーンの方へと目を引きつけられて脚を見ている暇がなく残念。かといって目にカメラを仕込んでおく訳にもいかないし。人間って不便だ。

 ストーリーはストレート。名君ときっと仰がれている王がいてその王に頭の賢明さがきっとプレッシャーになってた息子の心に湧いた不安が親への反抗へと向かって刺してしまい、挙げ句に出奔。それがアレン。馬らしき動物を駆り砂漠へと入ったところで狼たちに追われ囲まれもはやこれまで、まあもとより自暴自棄なところもあって命を差しだそうとしたところを、旅をしていたハイタカってオヤジに助けられ、そのまま連れて行かれる。ハイタカがアレンの中に何かを見たかは不明。あるいはその持っていた剣から何かを感じたのかな、って想像はできないことではない。あとでマントを買ってやり隠しておけって言ったから。

 そして語られる世界の異変。調和が崩れ自然は荒み悪徳が横行する、その原因に人間があるんだってことを語るゲド。でも説教臭いってことはなくって淡々と喋るからそうなのかもなあって思わされる。縦糸を減らした粗悪品を売ってる女がいたり、麻薬を騙して売りつけようとする男の描写も挟み込まれて人間の荒廃ぶりも示唆され説得に力を貸す。反発は感じない。それはこっちがいい歳をした大人だからなのかもしれないけれど、喋るハイタカ自身が世界を見聞して知識を溜めた大人だって感じられるから説得されてしまったのかも。その意味で菅原文太さんの声は良かった。

 世話になる農家のシーンがまたリアル。食べ物は粗末だけど美味しそうだったし牛に鋤を引かせて畑を耕す場面なんかも荒れ地を掘り起こす大変さが伝わってきた。引く牛は力持ちだから楽でも跳ねないように押さえつければ手だって豆だらけになるよなあ。ほかに畑があったり牧場もあったり近所に沼地があったりとたっぷりの自然の描写といい、大げさじゃなく目を打つ派手さもないけどそれがかえってリアルっぽく目に響く。造園業に長く関わってきた吾朗さんなりのこだわりってものなのかなあ。

 そしてテルー。出会いは最悪。何か心に深い傷を負っているような感じ。命というものへのこだわりがつよくって、身を投げ出し助けてくれたアレンに反発し、一方で生まれた子羊がやっとのことで立ち上がって母羊の元へと身を寄せる姿に同情し、牧場でその子羊が元気に母羊へと駆け寄る姿に追った境遇を思い出して涙をこぼす。このシーンにぐっと来た。じんわり涙がにじんできた。

 そりゃ「千と千尋」のおにぎりのシーンみたくそこまで目一杯に張りつめていた気分がふっと抜け、於かれた境遇に気づき一気に吹き出した千尋の涙ほどの衝撃はなかったけれど、じんわりと浮かんで来る思慕の念、って奴は伝わってきた。こういうシーンをそれっぽい展開を見せつつちゃんと入れてくれる吾朗さんって、決して能無しなんかじゃなくってちゃんと考えている人なんだって分かる。ハイタカが食べた食器を濯いで返した場面とかも細かいけどハイタカの律儀さが伝わる場面だった。真面目なんだねえ、吾朗さん。

 そんな地味だけど安らぐ展開に立ちこめてくる暗雲。襲ってきたクモ。取り込まれるアレン。捕まるハイタカ。そして危機。ハイタカはクモと過去にいろいろあったらしい。それは農場の主とも同じで、そこら辺の説明が不足しているって言えば言えないこともないけれど、賢人であるハイタカ、というよりゲド自身に過去があってその過程で出会い慈しみ、あるいは振り落としてきた過去が再び立ち現れたってことだと思って理解できないことはない。

 クライマックスへと向かう映画。捕まって、打ちのめされて、そのまま黙するアレン。どうなっちゃうの? 立ち上がり、駆け出すテルー。命の重さにこだわるテルーが見せる決して諦めない強い気持ちが世界を貫き幸福な帰結へと導いていく。そこに起こる唐突な展開も人間たちの間で苦労してきたテルーを思うと、むしろそうだったんだ、良かったねって感じられる。ファンタジーの世界ではよくある話。「千と千尋」でもあったじゃないか。やや説明が不足しているけれど、そこはそれ、百戦錬磨の駿監督とこれが初演出という吾朗監督との経験の差でしかない。若さとは未熟さではなく可能性。アレンやテルーが映画の中で見せた可能性に重ねて、未来の大監督がここから育つ可能性にむしろ期待が湧く。

 演出に通じた人が見れば不思議なシーンもあるかもしれないし、原作の「ゲド戦記」をこよなく愛する人には不満の脚本かもしれないけれど、1本の映画として見た場合に発せられるメッセージが物語の中で真っ直ぐと伝わってくる良い映画、描かれる自然の豊かさを堪能し、繰り出される展開のスリリングさに興奮しながら最後までを引っ張っていってもらえる良い映画って言って絶対に言い過ぎじゃない。「もののけ姫」みたく人間と自然のどっちがどっち? って観た人にめいめいに感じさせる曖昧さとは違って、人に負債のウェートがかかっているって突きつけて来るのは「もののけ」よりも文明の進んだ世界だから仕方のないこと。けどそれでも人を声高に断罪するより人にある良心にかけたいって気持ちは感じられた。

 エンターテインメントと言うには真面目に作られ過ぎてて、笑える場面の皆無だったのが気になる所ではあるけれど、世界の有り様にどことなく疑問を抱き始めた賢明な子供たちには、監督の真面目さがきっと伝わり何かしなきゃって思わせるはず。ヒットするかどうかはうーん、分からないけど今時にない真面目さでもって真っ当に何かを伝えたいって気持ちにほだされた観客の感情が世界にしみ出て広まっていくことで、共鳴した人たちが集まり観て共感を覚えて気持ちを広めることで、それなりな人数に映画館へと脚を運ばせそー。

 不幸なのはヒットメーカーの宮崎駿監督を看板に掲げるスタジオジブリの新作ってことで、おまけに駿監督の子息が監督してるってことで、その話題性に見合った動員を期待されてしまうことなんだけど吾朗監督は駿監督じゃないんだから期待するのがそもそもの間違い。ジブリの新作で他の誰かが監督した作品くらいに賑わえば、それはそれで大成功だって認めたい。ただ作品の出来としてはベテランなだけあって上質の細田守監督作品「時をかける少女」が興行の弱さもあって同じくらいの収益を得られない現状だけは残念といいえば残念か。

 駿監督の名にすがりたがるスタジオジブリ以上い駿監督の名で引っ張りたがるメディアが純粋に作品力じゃなくって名前で「ゲド戦記」ばかりをメーンに掲げて持ち上げ、興行側も同様に駿監督の名前にすがりたがる状況を、どうやったら変えられるんだろー? メディアの力しかないんだけどそのメディアの1つが手前ん所の「ブレイブストーリー」にかまけてる様に先行きの暗さを見てしまう。困ったなあ。今敏監督の「パプリカ」にはだから海外で賞とかとって大凱旋、してもらいたいなあ。


【7月28日】 いよいよ明日へと迫った「KSN=監督が素人なので」映画の公開を前に見た感想の予定稿などを書いてみる。やっぱり桐生悠々風。題して「素人監督を世襲させてアニメファンの信頼を失ったスタジオジブリ」。でもって曰く「だから、言ったではないか。吾郎禅譲よりも細田抜擢が先きであると。だから、言ったではないか。宮崎駿監督の名声に対して一部メディアが余りに名人的、賢人的の賛辞を呈すれば、これが神格化を防ぎ能わないと」

 「だから、言ったではないか。疾くに鈴木敏夫プロデューサーの猛進を諫めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると。だから、私たちは平生スタジオジブリと鈴木敏夫プロデューサーとに苦言を呈して、幾たびとなく東小金井出入り禁止の厄に遭ったではないか」

 国民はここに至って、漸く目ざめた。目ざめたけれどもう遅い。スタジオジブリは−たとえその鈴木プロデューサー個人であっても彼は−彼自身が最大罪悪、もっとも憎むべきアニメ制作態度として敬遠すべきであった監督の世襲を敢てして憚らなくなった。アニメ界の不名誉というよりも恥辱これより大なるはない」

 「彼はその武器、しかも日本有数のアニメーター達を濫用して傑作アニメを作ることをなさず、却って愚作を制作した。しかもこの愚作はいずれも映画館の中心的な作品となり、内外に鳴り響く傑作でありながらも、その上映機会を簒奪することにより、悔しくも「時をかける少女」を見たいファンの懊悩を招き奉りしことよ。罪万死に値いすべきである」。 個人的には懸念が杞憂へと終わり予定稿が没になると信じているけど、でも、うーん。いずれにしても明日公開。見に行くぞ。見に行った後でお目直しに「時かけ」へと走らないことを願おう。

 DVDの発売日としてその活動が満天下に披露される記念すべき今日を逃しては御利益も下がると「SOS団」のTシャツを着込んで銀座にある「チャンスセンター」へと宝くじを買いに行く。前に何億円かが当たったおっさんが来ていた謎の模様のTシャツとして宝くじを買いに来る人のおよそ8割が着ていることで有名になったってデマも脳内に乱れ飛んでいたからさぞや、壮観な絵図が見られるかと思ったのに並んでいる人の1人として着ていやがらない。チェッ。

 でも逆に考えれば着ていた僕1人に幸運は舞い降りるって訳で買った連番20枚から6億円が出てバラから3億円くらいが当たって300円と3000円も2枚づつ当たってさらに涼宮ハルヒ級の美少女(不思議系)がやって来ては靴底を頭の上に乗せて這い蹲れこのゴミ野郎と言ってくれるに違いない。8月も楽しい月になりそーだ。見上げればそこに、閉鎖空間。白かな縞かな水玉かな。

 しかしちらりと寄った紀伊國屋のアドホックでも新宿のゲーマーズでも「ハルヒ」DVDの1巻限定版は見かけず。昨夜も秋葉原の「ゲーマーズ」は早売り分は完売となり今日の当日分もきっと凄いことになったと予想。幸いにして近所の「ときわ書房船橋本店」で昨日のうちに限定版を仕入れておいたから良かったけれど、おかげでゲーマーズの全巻購入特典は諦めなくちゃいけなくなった。毎月こんなんかなあ。そうそう紀伊國屋新宿南店1階のDVD売り場には0巻「朝比奈みくるの大冒険」の限定版「かえるコスみくるちゃんバージョン」が午後5時半の時点で2枚、キャンセル分として並んでいたので買い逃した人がゴー。もうないかな、何せ秋葉原じゃあ1万3800円とかで売られてるんだから。しまった買い占めれば良かった。

 その紀伊國屋新宿南店では橋本紡さんのサイン会。最新刊の「ひかりをすくう」(光文社、1500円)の発売を記念したもので、「半分の月がのぼる空」が人気とはいえライトノベル文庫がメーンだった橋本さんが新潮社の「流れ星が消えないうちに」に続いて出した一般向けの文芸書に、どれだけの人、どんな層の人が集まるのかを見ておくことがライトノベルから一般文芸に進出していく作家の将来なんかを伺う上で役立つと、思ったのは6割くらいであとはまあ、出没家としてのお仕事です。

 行って驚き。100人以上は軽く並んで文芸書でもこれだけのファンがちゃんと付いてきてくれているんだと理解。年齢は見た目高校生くらいから大学生って感じが大半で、一部に小学生とか20歳代とかが混じり僕みたいなおっさん級はまず皆無。男女比でいうなら9割以上が男性でティーンって感じだったからおそらくは「半分の月がのぼる空」「リバーズエンド」といった電撃作品を愛読している人たちだろー。決して裕福ではないのに倍以上はするハードカバーを買ってくれるとは、良いファンが付いているなあ橋本さん。

 散見された女性は年齢不詳。女性に年齢はない、ってことではるけれど特定の年代ってよりは少女もいれば学生もいればOLさんっぽい人もいるって感じで果たして電撃のファンなのか、それとも「流れ星が消えないうちに」とか「猫泥棒と木曜日のキッチン」といった大人向けの一般小説を読んでファンになった人なのかは見た目ではちょっと分からない。花束やらおみやげやら持参していたから相当なファンっぽい。こいつはこいつで羨ましいぞ。

 1人ひとりとゆっくり話す感じでだいたい1人1分くらいかけていて、120人くらい集まった最後尾までたどり着くのに2時間くらいはかかっただろうか。それでも流されるよりは間って何言でも良いから話したいってファンの多さがハードカバーに言っても売上を支えているのかも。これに「ひかりをすくう」で描かれた内容が特に響きやすい、才能もあるんだけれど自分に不安で忙しさに溺れそうで将来に悩んでいる働く女性たちが存在に気づき買うよーになれば売上は3倍5倍と増えて行くことになるんだろー。そっち方面へと回路を広げるとなるとやっぱり「ダ・ヴィンチ」辺りで特集されることが必要なのかなあ。メディアファクトリーとは付き合いがまるでないから分からないけど、MF文庫Jだってまるで付き合い、ないからなあ。マガジンハウスのどっかで組まれないかなあ、特集。


【7月27日】 豊洲に新しい屋内型のテーマパークが出来るってんで発表会に行く。その名も「ニートニア」って施設はいわゆる定職にも就かないまま、やや引きこもり気味の生活を送りながらネットやアニメーションやゲームに耽溺している人たちを対象に、彼等彼女達が感心を持ちそうな職業を楽しみながら体験できるパビリオンを並べた、教育とエンターテインメントの融合した新しいコンセプトのテーマパーク。いきなり社会に出るとどこかで無理が生じて再び引きこもり気味の生活に戻ってしまうものだけど、こーして徐々に社会に慣らせることによってニート暮らしからの脱却を促す効果も高くなるらしー。

 パビリオンには企業がスポンサーについていて、そこで働く人たちに自社ブランドについて好印象を持ってもらえるよーになっているとか。一例ではコスプレ衣装を製造している会社があってそこが出してるパビリオンでは、画集とかアニメといった2次元の画からパターンを弾いてコスプレ衣装を作り上げる作業を体験できるし、キャラクターショップがスポンサーのパビリオンでは、エプロンをつけ猫の耳を生やした店員になって品物を仕入れたり並べたりやって来る妙に知識の豊富なお客を相手に、更なる豊富な知識をバックに応対しながらキャラクターショップで働く大変だけど充実した体験を贈ることができるとか。

 メイド喫茶もあって様々ある衣装を身にまとって来店客に”ご奉仕”するメイド体験が可能。いきなり街のメイド喫茶じゃどんなお客が来るか分からず不安って人も、ここなら数時間だけのことと我慢もできる。ほかにアニメの動画を描く体験とか漫画家のアシスタントをつとめる体験とか駆け出し声優になってモブのガヤを演じる体験なんかも可能。それぞれに大手のアニメスタジオとか劇画プロダクションとか声優学校がスポンサーについていて、気に入った仕事があって本格的に学びたくなったら働いたパビリオンにある応募用紙を使って本格的なインターンへの応募ができる。

 ちなみにこーして体験した分は、その施設内で使える紙幣で給料として支払われるから溜まれば自分が動画で参加したアニメのDVDを買ったり、メイド喫茶でサービスを受ける側に回ったりキャラクターショップで品物を購入したりできる。ニートの社会化につながり企業はPRができリクルートも可能。でもってしっかりショッピングモールにもなっていたりする、一石で何鳥にもなる世界初の超画期的テーマパーク「ニートニア」。完成したらやっぱり大勢の人が集まって声優のまねごとをしたりメイドに扮したりするんだろーなー。自分だったら何がやりたいかなあ。オタク専門の新聞記者。「ニートニア」内で起こっていることを取材して記事にして新聞にして「ニートニア」内で配るんだ。

 ってのは大嘘で、発表会があったのは同じ職業体験が出来る施設でももっと下の未来もあれば将来もバラ色な子供達を相手に仕事を体験させる「キッザニア東京」の方。メキシコで生まれたコンセプトであっちだと昼間っから子供がいろんな職業を体験にしに来てなかなか繁盛しているらしー。飛行機の操縦しになったり消防士になったりピザを焼いたりレジを打ったり手術のまねごとをしたりデパートの店員をやったり。でもって働いた報酬は専用の通貨で支払われて館内で誰かが焼いたピザを食べたり誰かが整備した車に乗ったりデパートで買い物をして還元するとゆー。コンセプトだけならなかなかに面白そうで教育効果もありそー。

 パビリオンを出す企業も日本だと全日空があり大日本印刷があり三菱自動車がありヤマト運輸がありJTBがありエイベックスがあり朝日新聞があり東京電力がありビザハットがありモスバーガーがありタカラトミーがありとなかなかなラインアップ。それぞれでキャビンアテンダントかパイロットの体験をしたり新聞記者のまねごとをしたりファッションショップの店員をしたり電力の監視をしたりできるそーで、そんな体験をしながら子供は職業にたいする意識を持ちつつ、脳裏には働いているお店への親近感も植え付けられ、将来の消費者となりあるいは就職希望者となってそれらのスポンサー企業に何らかの利益をもたらす存在となる。この辺もなかなかに巧いコンセプトになっている。

 課題があるとしたら平日の昼間にいったい子供がどれだけ来てくれるかってところで、例えば東京都なり近隣の県の教育委員会あたりと話を付けて、総合学習の一環として授業のある昼間にも訪れても構わないってことにしてもらうとか、遠隔地の県から修学旅行の途中に「東京ディズニーリゾート」なんかに立ち寄る感覚で寄ってもらって楽しんでもらうといったアプローチがあれば良いんだろーけれど、自由な来場に任せると来るのは土日か祝日ばかりで昼間は閑古鳥が啼きまくる、ってことになりかねない。商社がバックについてオープンする「ララポート」時代もそれなりの商業施設なんでブランド力は確たるもの。その辺りから教育分野に営業をかけて集客につなげるってことになるのかな。ともあれ10月のオープンが楽しみ。子供に混じってキャビンアテンダントの仕事を体験したいなあ。年齢制限とかあるのかなあ。

 ちなみに「キッザニア」には就業時間を過ぎた後に「夜のキッザニア」ってプログラムがひっそりと可動するそーで女の子がキャバクラで接客の体験をしたりとか男の子がホストのまねごとをしたりとかコンビニ店員になってヘルメット強盗を対峙したりとか道路工事の現場で赤色灯を振ったりとか体験できる……ってことはありません。もちろん「キッザニア・アンデベロップメント」って開発途上国の子供になってサッカーボールを縫ったりとか遠くへ水くみに行ったりとか銃を手に政府軍とか闘ったりする体験ができる施設も絶対にありません。絶対に。でもあるいはアジアとかアフリカに作るとそんな施設になっちゃったりして。スポンサーは地域のゲリラ。あるいは多国籍企業。働くって大変だなあ。

 あいや負けたかサッカー女子日本代表。来年のワールドカップに勝てば出場できる豪州戦で2失点を跳ね返せずにそのまま終了。3位決定戦へと回ることになった。山郷のぞみ選手があるはいあたら勝てたか少なくとも敗れはしなかったかも、って思わないでもないけれどここまでをよく頑張った福元選手にそれを言うのは酷。ここは気を取り直して次の3位決定戦に勝ち、幸いにして中国が来年のワールドカップ出場国ってことで2位までに入っても出場権には関係なくなり、日本は北朝鮮に勝てば上位2チーム以内に入れてワールドカップ出場権を獲得できる。思えばアテネ五輪出場をかけた試合でも対戦して勝利した北朝鮮。昨今の不穏な情勢もこれありで喧噪も大きくなりそーだけど、そんな雑音異音に紛らわされずにここは力でもってうち破り、すんなりと出場を決めてもらいたいところ。それともまたしても10万人のアステカのアウェー行き? それもそれで見てみたい気が。怖いけど。


【7月26日】 「QBK」とえいばもはや世界も芸術と讃えたシュートなのか何なのか分からないキックでもって、真正面に蹴り込めば良いだけのボールをなぜか来た方向へと戻しては、ゴールキーパーの股間を抜きあまつさえゴールマウスの外へと外してしまう偉業を成し遂げた柳沢敦選手の称号で、試合後に吐露した明言「急にボールが来たから」の頭文字「Q(急に)B(ボールが)K(来たから)」を取ってそう呼ばれるよーになったんだけど、ここに新しく「KSN」という称号が出現した。

 2006年7月26日付の「朝日新聞」紙上でもってこの夏のアニメーション映画に関する論評が出ている中で、かの宮崎駿監督の子息で期待を背負わされた宮崎吾朗さんによる初監督作品「ゲド戦記」を見たアニメ評論家宣言者が指摘した「監督が素人なので」を略して「K(監督が)S(素人)N(なので)」と呼んでは、宮崎吾朗監督お呼び「ゲド戦記」にかかわる称号として幕が開けば「KSN」、いかにもな演出が見られたところで「KSN」、そしてエンディングのスタッフロールに名前が出れば「KSN」と叫んでその偉業を讃えまくることにしよー。果たして何度見ながら叫ぶことだろー「KSN」。週末が楽しみで仕方がないです「KSN」。

 欧州情勢は複雑怪奇。例の審判買収疑惑でもって本来だったらセリエC落ちになっても不思議のなかったユヴェントスが、B落ちで留まっただけでもなかなかに興味深かったのに一緒に落ちると最初の審判では出たラツィオにフィオレンティーナはセリエAに留まるとゆー上訴審の判決。いろいろと虐められて挙げ句に仲間に引き入れられたフィオレンティーナにはまだしも同情の余地があるんだろーけどズブズブと目されていたラツィオまでもが留まるって判決には何だろー、あんまり見知らぬチームがAに入ってきては視聴率なんかが落ちるのを嫌がる勢力があって圧力でもかけたのかどーなのか。経営危機にあえぐラツィオじゃあ落ちたら一巻の終わりと同情でも集まったか。

 落ちたユヴェントスだって最初の減点が減らされ1シーズンでAに戻れる公算が一気に強まった感じ。ここで受け入れればまだ反省してるって印象も持たれるところをなお上訴しようってんだからなかなかなタマだけど、でも上訴した結果ラツィオとフィオレンティーナが残って自らも減点を減らされた状況を鑑みるに、もう1度ゴネればA残留だってありえるのかもって踏んだかな。A残留で減点40とかだったら逆にB降格の可能性だってあるんだからここら辺で妥協しておくのが傍目には良さそーなんだけど。でもやっぱりまだ1つ2つ波乱がありそー。

 カターニアはとりあえず1部か。唯一のセリエA選手になってしまった森本貴幸選手ちゃんとレギュラー取れるのかねえ。日本の2部でしかない東京ヴェルディ1969だって控えのフォワードだった人間がいくら昇格したばかりだとは言え日本のJ1チームときっと互角以上のセリエAに行っていきなり、レギュラーを取れるとは思えないんだけどなあ。そんな移籍に何ら疑問を差し挟まないでラモス監督の激励を載せる新聞が、一方で日本代表のオシム監督が示したレギュラーじゃなきゃ海外移籍なんて意味がないって日を変えて書いていたりするこの矛盾。だったら森本の移籍会見でぶつけてみたら如何って感じ。だけどまあまだ18歳。日本じゃ行き詰まっててもあっちの環境でブレイクする可能性はあるし2年やって戻って来たって20歳。やりなおしは十分に利くからとりあえずは頑張ってもらいたいと行っておこー。

 あれっ、て印象だった矢場とんの味噌カツ。銀座の店に初めて寄って食べたんだけど名古屋あたりで食べてた味噌カツの大半が割にこってりとした味噌ダレでもって油のよっく滲んだ豚カツを覆ってあるもんだから、ひと口ふた口は美味しくっても全部食べるころには内臓がなかなかハードになっていて、食後に食べたなあって感銘とともにもういいやって感覚も浮かんでなかなかに足取りも重くなる。けど矢場とん家のはみそがさらっとしていて甘さも抑えてあってどちらかといえばソース風。油もそんなに滲んでなくってヒレカツだったら衣も薄くて食べても食べても胸が焼けない胃に染みない。

 名古屋じゃ矢場町の店も名古屋駅西口のエスカ店にもあんまり行かなかったから、どんな味だか印象に残ってなくって自宅なかで食べてたものを含めて想像を膨らませた挙げ句、とんでもないハードな味を思い浮かべていたんで現実に出てきたものにはちょっぴり肩すかし。でもむしろだからこそこれだけの人気を夏でも保っているだなって2階3階へと男性女性を問わずどんどんと入っていくお客さんたちの列を見ながら理解する。用心してわらじ豚カツを遠慮したけどこの味噌ダレこお揚げ方ならいけるかな。また行こう、高いけど、でもいい味。

 第1部完。とは書いてないなあ山本弘さんのソードワードノベル「サーラの冒険」シリーズ最終巻「やっぱりヒーローになりたい!」(富士見ファンタジア文庫)はサーラにかけられた呪いを解きつつも自らは魔獣となったデルを敵に回してサーラとパーティーが最後の決戦へと臨むストーリー。最初はぐっと落ち込んでいたサーラだったけど、過酷過ぎる運命が待ち受けているのを承知で自分を奮い立たせて闘いに挑む中でだんだんと心の強さを育み寛容さも学んでガキから大人のヒーローへと大きく成長を遂げていく。そして訪れる大団円。だけど敵は未だ残って世界の平和に挑み続ける。

 ならば再び立ち上がるのがライトノベルの世の常って奴なんだけどここまで来るのにかかった年月を思えば今ふたたび、新たな旅が始まり新たな冒険が幕を開けたとしたら閉幕するのは20年は先のこと。読者も不惑を超え還暦を過ぎ喜寿を迎えて鬼籍に入るものも出てくるだろー状況を作っては、さすがに著者も版元も読者に申し訳が立たないだろーからここはやっぱりすっぱり完結を訴え読者を安寧の中にページを閉じられるよーにする方が、健康にも良いってものなのか。それとも別の誰かが続きを描いて100年の大作へと発展させる? いずれにしても僕にはとてもつき合えないんでここは立派に成長の物語として完結した「サーラの冒険」を手に著者への感謝を捧げよう。まあ1巻を読んだのが1年前なんで待ってもたったの1年だったんだけど、僕の場合。それずるい?


【7月25日】 それを運命と呼ぶならばまさしく運命以外の何物でもないのだろう。日本橋三越で始まった「はろーきてぃin江戸」のイベントに出品された252万円のフェンダーギターに6人の申込者があって抽選の結果、見事に引き当てたのは去年もやっぱり日本橋三越で開催されたサンリオ絡みのイベントで、実に577万円もするハローキティのペンダントを即金で購入していった福井県の不動産業経営者。娘がキティファンだからって親ばかっぷりを発揮しつつその実に不安定な髪形も話題となっていったいあれは誰なんだって追いかけるメディアも出てきたけれど、そんな衆目の目線などまるで気にせずまたしても現れ今度はギターに食指を動かす。

 ペンダントくらいなら娘のためにって理由も通じるけれどギターともなると、それもフェンダーのアメリカにいるエリック・クラプトンのギターも手がけているマイスター級のビルダーが、1人で隅々まで手作りで仕上げた音的にもおそらくは最高品質のギターをミュージシャンではなくギターフリークでもない福井の単なるお金持ちが、ハローキティだからとゆー理由だけで買っていくのは全世界のフェンダーギターのファンが怒り出すんじゃないかって心配も浮かんでこれは是非に、ミュージシャンの手に渡ってコンサート会場で誰か有名人のシンガーのバックで奏でて戴きたい、それが作られたギターの為だって思ったけれども世の中そーはうまくは出来ていなかった。

 まあでも例のペンダントをもらった娘に子供が出来きて、購入者には孫にあたるその子供がいつか弾くために買ったってこともあるからなー。いったいそいつは何年後の話だよ、それまで名器が弾かれずに死蔵されるのかよって怒りるフェンダーフリークもいそーだけど、考えればそんな非難をものともせずに突っ込んだ挙げ句、6分の1ってロシアンルーレット並の確立で見事に引き当てた福井のお金持ちには、すなわち何かのご加護があったってこと。魂をこめられ作られたギターがもっとも自分を愛してくれる存在として福井のお金持ちを選んだんだと考えられないこともない。

252万円vs39900円。比べるとやっぱり252万円は輝いているなあ。問題は音だ。どんな音なんだ?  それならばもはや貧乏な外野があれやこれや言うべき筋ではないと納得するより他にない。良いでしょう持って帰って孫にでもくれてやりなさい。ただし15年の将来において彼を立派なミュージシャンへと育て上げること。ギターの神様もそれを臨んでいるだろー。ジェフ・ベックかクラプトンかは知らないけれど。世界3大ギタリストってあと誰だったっけ? よっちゃん?

 252万円は出せないけれどもキティラーギタリストになりたいって人にはちゃんと廉価版も用意されているからご心配なく。フェンダーの中にあるスクウェアだかってブランドから39900円でもってボディにでっかくキティの顔が描かれたギターが販売中。黒字に白いキティのデザインは252万円するカスタムモデルにイメージだけなら似ているから、こっちを選びたいって思うのがスタイリッシュさを追求するギタリストの希望だろーけどここはやっぱりキティってことでピンク色のボディにしっかり鮮やかに白いキティが描かれた方を選んで弾いて戴きたいところ。たとえばKISSのエース・フレーリーとかがこんなのを弾いてたら楽しいなあ。あとはヨハネ・クラウザー2世さん。毎回燃やすからキティも燃え燃え。

 ミレポック可愛いよミレポック。ルイーズ・ブルックスみたく切りそろえられたおかっぱ頭に軍服を着て、生真面目に武装司書としての職務を遂行する堅物ぶりでマニアの興味を弾きつつ、そんな興味を鼻にもかけず無視してそれがさらなる賛辞を集めていたミレポックちゃんだったけど何を思ったか幻想の中に浮かんでは人が求める本を運んで来るとゆー「ラスコール=オセロ」なる人物を捜しに行くと言い出したからもう大変。ひとり休暇をとっては情報の伝わる街へと乗り込みそこで軍服を脱いで白いドレスに身を包み、腰にガンベルトを巻く珍妙な出で立ちでもって路地から路地を歩き回ってはラスコール=オセロの行方を探ってさまよい歩く。可憐だ。

 けど噂にはもうひとつあってそれは「ラスコール=オセロの行方を追う者は必ず死ぬ」とゆーもの。けれどもミレポックを失いたくない武装司書でもトップクラスの能力を持ったマットアラストが、半ばミレポックを諦めてる覚悟でいたハミュッツ=メセタを説き伏せ自らミレポックの後を追っては彼女を助け、そしてやっぱりラスコール=オセロを探す神溺教団の殺し屋少女とも闘いそしてラスコール=オセロの正体へと迫る、とりあえず。けどでもどーして追う者に死をもたらすと知ってなおマットアラストがミレポックを助けてラスコール=オセロの行方に迫るの? それにはちゃんと理由があるけど今は秘密。読めばなるほど世界にはそんな秘密があり、図書館と神溺教団がどーして対峙しているのかも明かとなって彼等彼女達の住まう世界の構造がおぼろげながら見えてくる。

 ではなぜそこまでして守らなければならない秘密なのか、ってところにさらに物語世界がはらむ大きな設定がありそーで、そんな高みへと迫る過程を楽しみつつも異能の使い手たちが繰り広げるバトルに目を奪われつつ、今は繰り広げられる展開に目を向けていこー。赤毛で手に剣を持ってミレポックを上回る剣技を見せるアルメのキャラクターにはもっといっぱいいろんな姿を見せて欲しかったなあ。けどでもある意味で心から望んでいた幸福とゆーものを手に入れた訳だから引き際としてはベストのタイミングだったのかも。可愛そうなのはむしろミレポックか。マットアラストもハミュッツ=メセタも神溺教団以上に悪だなあ。悪2つのぶつかりあい。果てに広がる世界は破滅? それとも再生? 続きをどんどん。

 桜野タズサが還ってきた。DVDになって戻ってきた。本当だったらとっくの昔に販売が始まり今頃は完結を迎えていたかもしれないものが、あれやこれやあった模様で半年ほどの遅れをもってシリーズの刊行と相成った。それだけに中身への期待もかかるけど放映の初期はそれなりだったから問題はこの後に続く内容が、果たしてどんな感じになってるかってところで再来月発売とか最終巻とかがどんな感じに仕上がっていて、なおかつ監督がタカマツシンジかアラン・スミシーかにも気を配りつつ刊行を待つことにしよー。1巻目は薄っぺらいプラケースに入っていることの多いアニプレックスにしては珍しく普通のトールケースに入りそれを固いケースが覆っているとゆー凝りよー。そこまでしないと売れないと思ったかそれとも純粋なサービス心か。いずれにしてもジャケットのタズサ、可愛いよなかなかに脚もにょっきりで。


【7月24日】 男子に例えるならドイツイタリアフランスイングランドオランダスペインポルトガル辺りに次ぐ実力を持ったチェコとかスイスとかスウェーデンあたりをガチで抑えて勝ちきったって感じ? 世界レベルでもアメリカドイツにスウェーデンノルウェーあたりに並ぶ実力を持った中国を、我らが「なでしこジャパン」ことサッカー日本女子代表がオーストラリアの地で開催中の「AFC女子アジアカップ2006」で撃破。ともに決勝トーナメント進出を決めての試合なだけに調整気分で臨むって可能性もあったけど、地元開催の2007年女子ワールドカップを前に国際試合で真剣勝負の経験を積んでおきたい中国と、そんな中国にいずれ国際舞台の場で再び三度見える可能性からここで叩いておきたい日本の意地もあって攻め合い守り合う拮抗した良い勝負になった。

 そんな勝負を生で放映したテレビ朝日は偉い。実況が拙くても解説が応援モードでも絶対的に偉い。4年前じゃあ考えられなかったよなあ、サッカー女子代表の試合が日曜日の昼間っからテレビ中継されるなんてことは。ひとつにはあれやこれや非難も浴びまくっている日本サッカー協会の偉い人が、そっち方面も強化しよーと画策して「なでしこ」なんて恥ずかしいけど浸透しやすいネーミングを付けてアピールしまくった結果でもあるんだけど、そんな「スタアシステム」に載せられた挙げ句に自滅の道を歩んだ男子もいた訳で、持ち上げられてもそれは今だけ、負ければ今ふたたびの地獄が待っていると自覚し03年のワールドカップに出場し、04年のアテネ五輪に出た後もたゆまぬ努力をし続けた選手にスタッフの頑張りがあったからだろー。

 ここは続く準決勝でも豪州を相手に持てる力を発揮し勝利して、07年の北京でひらかれるワールドカップに5大会連続(男子より多いじゃん!)の出場を決めてしまって欲しいところ。とはいえ相手は体格では日本よりも1割2割大きい上に、足りない運営費用をまかなおうと時々ヌードになってはカレンダーを作り売りさばくハングリーさでも世界に知られた豪州女子代表。惨敗はしないまでもパワーで押されて得点を奪われ敗退した挙げ句にプレーオフへとまわり、今はどこが残っているのかは不明だけれどもしもメキシコが相手だったらあのアステカスタジアムでの10万人のアウェーてゆー、未曾有の体験をまたしてもしなくちゃいけなくなるんでここはすっきりと勝利して欲しいもの。

 03年の7月27日に当時の仙台スタジアムで見た日本女子代表対豪州女子代表の試合は、攻められこそしなかったものの大きな豪州のディフェンスを相手に攻めあぐねていた感じが確かあって結果は0対0の引き分けだった。ここに男子ばりのパワープレーを持ち込まれたら身長に劣る日本のディフェンスラインも疲弊し得点を奪われかねないだけに、下がらず中盤を制圧して左右を使い早めに得点を奪い相手を諦めさせることが必要かも。中国戦では山郷のぞみ選手じゃなくって福元美穂選手がゴールを守っていたけど決断の早い飛び出しでピンチをしのいでいただけに、ロングボールにもハイボールにもしっかりと反応しはじき飛ばしてくれることだろー。

 我らが酒井與惠選手が中国戦に出ていなかったのがひとつ残念。つなぐサッカーの時には中継点として不可欠な存在だけど、相手のプレッシャーをロングボールで跳ね返したい試合ならやっぱりキック力と高さのある中岡麻衣子選手をピルロな位置で使うかなあ。21歳で164センチと将来期待のプレーヤー。見栄えもなかなかなだけに勝利の立て役者ともなればいつかの宮本ともみ選手とか、川上直子選手のよーにそれなりに名を広めそー。でもインパクトではやっぱり荒川恵理子選手に適いません。つか男子にだって適う選手はいねえ。澤穂希選手と組んでの突破は相手選手も絶対夢に出るに違いない。雷様に仁王様。そりゃ強いわ。

 こいつぁ面白え。中央公論新社の「C・NOVELS大賞」で特別賞を受賞した九条菜月さんの「ヴェアヴォルフ」(中央公論新社、900円)はそのタイトルのとおりに人狼(ヴェアヴォルフ)」が大活躍する物語時代は1900年のドイツ。未だ巨大な黒い森が国土に残ってそこに暮らす妖精妖怪も多く暮らしていたものの、発展する文明に押され人族の侵入に居場所を失いかけていた。

 そんな人族との共生を目指す一派が作ったのが「オルデンベルク探偵事務所」。人族ならぬ者たちを集め雇いその能力を生かして探偵の仕事をさせていた。ジークもそんな中の1人で先代の所長に拾われ今は2代目のアルの下、妖怪変化の間に起こる事件をもっぱら解決する任についている。その日も一仕事を終えてベルリンへと戻ってきたジークに、アルが依頼したのはエルという名の人狼の少年を世話してくれというもの。折しもベルリンでは人狼らしき者による連続殺人事件が起こっていて、ジークもその犯人探しの仕事を任される。

 満月にしか発動しない人狼の力が満月でもないのに発揮されて起こった事件の奇妙さに戸惑うジークたち。さらにはジークの友人で人族の軍人アドルフが婚約していた女性が人狼の被害に遭う事件も起こってジークは調査にのめりこむ。やがて浮かび上がって来たおそるべき実験と陰謀。誰が見方で敵かも分からないなかで絶体絶命の危機が訪れた時、ジークの力が発動してすべてを解決へと導いていく。ミステリー仕立ての展開で謎解きがある上に、メーンキャストのジークがどんな力を持った存在なのかがクライマックスまで明かされないのが最後まで興味を引きつけられる点。あとは人族による半ば迫害めいた行為があっても怯えず恨まず自らの立場をしっかりと守り共存を探ろうと努力する面々の高潔さが素晴らしい。

 キャラクターが多彩でそれぞれにいろいろと特徴を持っていそーで今後の活躍に期待できそー。本当の年齢は相当なのに見かけはまだ若いジークの髪を切ったり髭を剃ったりして変幻する表情は若いご婦人の興味を集めそーだし、似合わない口ひげを生やして超然としたところを見せるけど秘書の女性には頭があがらず虐められるアルの軟弱っぷりもなかなか。アルの人狼になって夜の公園でネズミを追いかけころころと転げ回るシーンなんて想像するだけで口元がほころぶ。わけてもシルキーちゃんの秀麗な顔をして細腕で首根っこを持ち上げ引きずり回してぶち倒す暴れっぷりが素晴らしい。こいつは是非にでもアニメで見たいところ。次には是非にもっと多くの活躍を。

 いあー驚いた。東京駅の横にある「OAZO」にある丸善で「レースドールの世界展」ってのがやってて、アイリッシュドレスデンみたいなレースの陶器人形が展示されてるってんで見物に寄ったらど、っかで見たことのあるおじさんがいて誰だったっけと頭を巡らせつつドールの作者らしいご婦人と仲睦まじげにしているのを見つつ、ふと展覧会の主の名を見たら松下あけみとなってて納得。徳間書店の松下武義社長でした。「日本SF大賞」の授賞式とかで見たことのある顔だから何とはなしに覚えてた。なるほどだから博報堂の社長とかニッポン放送の社長とかって凄い所からも花が届いていたんだなあ。

 けど人形もアイリッシュドレスデンに負けずむしろオリジナリティがあって大きさもそれなりにあってなかなかに美麗。レースに粘土を染みこませた上で人形に張り付け焼くとレースの部分が飛んで粘土が焼き上がって人形に張り付くって技法が使われているんだけど、その重ねっぷりが半端じゃなくって見た目にもなかなかに美しい。なおかつ顔立ちもとっても愛らしく、1900年代初頭の欧州で焼かれたものだって言われても納得しちゃいそー。値段も30万円近くするけれど1体求めて飾っておきたくなった。そんな場所が部屋のどこにあるかって。ごもっとも。会期中は松下武義社長も多分奥さんの様子を見に来るのかなあ。


【7月23日】 赤ずきんと並んでは澄ました委員長とやんちゃ小娘って感じの同級生にしか見えない白雪姫が、名を白鳥雪子と変えて現れるだけで20歳を過ぎた女教師に見えてしまうというアニメーションならではの時空間をあっさり突破する技法に感動しながら見た「おとぎ銃士赤ずきん」の弟4話は、グレーテルが正体を明かして巨大なあれは剣? それとも何かの巨大な文具を振り回しては赤ずきんたちを亜空間だか何かに閉じこめ固定する。

 もっともそこは生来の阿呆さが繊細な魔法を受け付けさせないのか、ヴァルともども自在に動き回っては闘う、んじゃなく逃げ回って果てにグレーテルの作った結界に白雪姫の仕込んだ隙間を見つけて白雪姫を召喚。難敵を退けるとゆー血沸き肉おどる展開を今日も面白かったですと日記には書いておこう。手にした挟みで結界を切り裂くとそこはグラトニーならぬグレーテルの腹で血しぶきあげながらグレーテルがのたうち回る中を血みどろになった赤ずきんと白雪姫が現れ鎮座するヘンゼルと対峙する、って展開こそが「赤ずきん」に相応しいかもしれないけれどそれやると深夜アニメどころじゃなくなるからなー、残念。

 一方でグラトニーの腹から現れたエルリック兄弟にシン国の王子リンがそこに見たのは、ホーエンハイムみたいなホーエンハイムなのか何だかいまいち不明なおっさんで、身を震わせると途端にエルリックたちの錬金術が使えなくなる技を繰り出し攻めて攻めては遂に脱出を諦めさせてエルリック兄弟を今ふたたびラースことブラッドレー総統の下で国家錬金術師の任に就かせる。単なるホムンクルスたちの陰謀と闘っていたかに見えた展開が、背後にある巨大な何者かの存在が明らかされてさらに奥行きが出て謎も深まり、果たしてどこに帰結するのか分からなくなって来た。

 グリードを受け入れたリンの行く末も不明だし、だいいちホークアイの背中にあるあの入れ墨はいったい何? って引きをもたせて荒川弘さん「鋼の錬金術師」弟14巻は書店で絶賛好評平積み中。1年ものアニメが終わりお話もそれはそれで完結してしまったにも関わらず本編の漫画はまるで影響を受けないまま、より深く激しい方向へと進みながらファンを広げているってゆーのはやっぱり作品が生来に持つ強さ故のことなのか。アニメでハマったファンもアニメと違う配役や展開と違ってもそれはそれとして付いていくってのはちょっと珍しいかも。作品がしっかりとしてさえいれば、漫画がアニメ化とその終了によって旬を食われ尻窄みになる心配を、覚える必要なんてないんだな。

 出かけて「書泉ブックマート」で山本弘さんのサイン会を見物。「ソード・ワールド」シリーズの120巻突破を記念しての秋田みやびさん、藤澤さなえさんととの合同サイン会ってことらしーけど山本弘さんは「SFマガジン」でのコンテスト常連って感じに名前を知ってはいても、「ソード・ワールド」については年齢的にその洗礼をあんまり受けていなくって、いったいどれくらいの人がハマっているのか分からず当然にして秋田みやびさん藤澤さなえさんの人気も不明。はたしてどんな年齢性別の人が駆けつけるのかに興味があってのぞいたサイン会は見事に男ばかりだった。

 世代的には20歳代後半? それとも30歳代? 10代後半って言ってもさほど違和感のない服装感覚の人たちばかりが9階のイベントホールに無言で整列しながら順番を待っている風景は、それだけアイドルファン的感覚ってよりは素晴らしい世界を作り出してくれた人たちへの敬意を抱いての直立不動って感じでなるほど、こーゆー層にこーいった受け取られ方をしているシリーズなのかって感想を抱く。きっとみんな10余年を付き合ってきた歴戦の強者ばかりなんだろーなー。「サーラの冒険」完結、作者もファンも編集の人もお疲れさまでした。

 サインは順に藤澤さん秋田さんと来て山本さんへ。面識はなくSF大会とかで遠目に見たことがある程度かな。机の前には「アイの物語」も積んであったけどこれを「ザ・スニーカー」で紹介したのは自分です、とは言えず。だってほら、富士見書房の文庫の刊行記念サイン会だし。「心はいつも15才」との添え書きはなるほど15歳の心があればこそ、好奇心も旺盛に様々な事象について興味を抱き調べ物語を紡ぎ僕たちを感動させてくれるってことの意思表示なんだろー。

 こっちが15歳の頃にはたしかすでに「奇想天外」のコンテストで佳作を取り、「SFマガジン」のコンテストなんかにも投稿していた山本さんの、往事の創作力がそのままストレートな小説家として発揮されていたら今頃は、どんな重鎮になっていたかに興味もあるけどそーはならなかったからこそ、ライトノベルの方面へと出向き「ソード・ワールド・ノベル」の世界を創り上げ、一方で「と学会」方面の活動で小説に留まらないSFとその周辺を豊穣に飾る疑似科学やらオカルトといった分野の斜に構えた、ってゆーか真理を理解した上での楽しみ方ってのを教えてくれたんだろー。そしてよーやく小説の世界へと還って来て現した「アイの物語」が果たして日本SF大賞に輝くのか。それとも今回も涙を呑むのか。興味津々。対抗馬になりそーなのって何だろー。

 うーん悩ましいなあこのキャラクター。地界とやらを脅かす怪物「石化骸」を倒す力を持った魔銃を扱う資格もあれば能力も極めて高くって、魔銃の中でもぬきんでた威力を持つ「牙王(ファング)」の使い手として認められてもいるんだけど生来の気弱で巨大な石化骸が怖くて逃げ出してしまうとゆー体たらく。列車が破壊され人々が恐怖におののいていてもそれでも後ろを向いて逃げ出すってキャラクターへの共感を、果たしてどーやって抱いたら良いものかと思いつつ、きっとそこには力を発揮させた挙げ句に暴走させて大勢を巻き込んでしまった過去があって、解放させられずにいるんだって理由でもあるんだろーかと想像しつつひびき遊さん「魔銃使いZELO」(富士見ファンタジア文庫、580円)を読む。読む。ないのかよトラウマ。

 いやあ、まああるにはあるんだけどそれはかつて石化骸に一族郎党を皆殺しにされたって過去であって、そんな悲しみを2度と味わいたくない、生きて生きて生きのびたいってやわらか戦車的な思いがゼロって少年を、「渇望」をエネルギーにして敵を破壊する魔銃使いたらしめているんだけど、そーした生きのびたいってやわらか戦車的な想い発動するのは、詰まるところは自分自身の身が危険になる場面。けれども一方で正義の見方って奴は、時に自分の身を犠牲にしても大勢を救わなくちゃいけない訳で、けれどもそーした肝心な場面で後込みして逃げようとする所に共感をなかなか抱けない。

 それでも魔銃を発動させる上で必要な「処女血」を持つ「鎖乙女」って存在が別にいて、逃げ腰のゼロを叱咤し引っ張って来ようと頑張っているからまだバランスも取れているんだろーこの話。勝ち気な女の子の尻を叩かれ嫌味な魔銃に叱咤されつつ逃げ腰弱腰な男の子が使命に目ざめ心を強くしていく過程を楽しませてくれるって期待しつつ、今後の展開を追って行こー。現代の世界から”神隠し”とやらにあってこの「地界」へと落ちてきたらしー「鎖乙女」の卯月の方にもいろいろとドラマがありそー。案外に揃って地上へと出てしまい、ファンタジーの世界と現代社会とのギャップを描くよーな展開あるのかな。でなきゃわざわざ現代社会から引っ張ってくる意味もないし。期待。


【7月22日】 当時のスタジオの事情とかまるで分からないし、人となりとか置かれていた立場とか持っていた才能の方向性とかも詳しくは知らないから、果たして正しいかどうかは言えないけれども仮にもし、「耳をすませば」の監督をした近藤喜文さんが存命だったならばその後のスタジオジブリも、何年かに1度の宮崎駿ブランドによる大作アニメを軸に生きていく道を選ばなくても何か別の、例えば青春アニメの殿堂って感じの道が拓けたよーな気がして来てならない。

筒井康隆原作! 細田守監督! ならば100万人の動員は確実! って時代がどうして到来していないのだろう? 悪いのは誰だ  これが初監督という宮崎悟郎さんによる「ゲド戦記」を御旗と掲げて夏の映画戦線へと討って出ては、興行的にはともかくもアニメの歴史的には1つの事件を起こしたりすることもなかったかなあ、なんて思ったりもしたのは細田守監督による「時をかける少女」を見たからで、近藤さんが存命なら「耳をすませば」路線が広がり継続される中で、「海がきこえる」のよーな作品が生まれ宮崎監督の「千と千尋の神隠し」も間にあって近藤作品も加わりつつ、細田守版「ハウルの動く城」もあって更に宮崎御大による満を持しての「ゲド戦記」制作ってゆー、実に多彩で芳醇な記録が日本のアニメーション映画の歴史に刻まれたじゃなかろーか。

 合間にジブリもそれこそラインを増やしてテレビアニメなんかも手がける、東映アニメーションのよーなプロダクションへと変貌を遂げていたって可能性もありそー。実際に97年頃に鈴木敏夫さんに話を聞いた時には、ちょうど徳間書店がディレクTVにのめり込んでいた頃で多チャンネル化に向けてテレビ作品をやろうなんて話もしてていたっけ。けど現実は「山田くん」とか「ギブリーズ」って技術的には凄くても位置づけの悩ましい作品を挟みつつ、宮崎御大の枯れかけた魔法の杖にばかり頼る体制となり、そして宮崎ブランドをどーしても使いたい勢力の思惑なんかも見え隠れした中から生まれた「ゲド戦記」の公開とゆー、ある意味で歴史的な瞬間が真もなく訪れよーとしている。

 その間には徳間康快さんの死もあったし、裏方然としていた鈴木敏夫さんの妙な表舞台への露出もあったから、ひろち近藤喜文さんが存命でも代えられない流れだったのかもしれないけれど、でもやっぱり細田監督の「時をかける少女」を見ていると、「魔女の宅急便」とか「耳をすませば」といった大人の手前にある少年少女たちを描いて、子供から大人たちまでわくわくどきどきとさせる青春アニメの殿堂にスタジオジブリがなっていて、その列に細田さんも加わって周囲の期待と一般からの注目を浴びながら、晴れ舞台に立っていたかもしれないって思えて来たりもしたりする。

 だいたいが東京では「テアトル新宿」1館のみでの公開ってゆーのは何の冗談だ?  これだけの人口がいて待ち望んでいるファンの数だってケタ違いに多いはずの地域でたったの1館。それも218人ってほとんどミニシアター扱いでの公開に加えてまるで放映されない宣伝で、いったいどれだけの人が知り劇場へと足を運んで作品を見ようって気を起こすのか。幸いいんして口コミとゆー手段がネットの発達で誕生して、人口に膾炙される素晴らしさを伝え聞いては劇場へと行き、見て感銘を受けてまた通う人の登場に連日連回の満席が続いているらしーけど、それでも1日に見られて1000人がやっとだろー。

 2週間やっても2万4000人。全国分を掛けてもせいぜいが10倍超で30万人。比べて「ゲド戦記」はいったいどれだけの館数で公開されるのやら。前宣伝も行き届いて半年前から誰もが知ってる作品となっての公開に、詰めかける人の数は全国の初回分だけでこれまでの「時をかける少女」の動員を超えてしまうんじゃなかろーか。角川資本で作られていたから角川系のシネプレックスでロードショーが出来たんだろーけど、小屋を持っていなかったら果たしてどこがどれだけ上映してくれていたことやら。それを思うと製作が小屋を持つ弊害とは裏腹の意義って奴も分からないでもない。

 まあ仮に細田さんが「ハウル」をジブリで完成させていたとしたら角川書店の企画でッドハウスに入り「時をかける少女」を作ったりはしなかっただろーから是非は言えないけれど、少なくともジブリってブランドの確立した中に細田さんが入っていたとしたら、一部の好事家たちの間だけにまたしても膾炙されつつも、あと10年は続くだろー宮崎ブランドへの一極集中とあと、押井守さんへの残り何割かの注目の影に紛れてしまうことにはならないよーな気もしないでもない。

 これはまあ、ジブリばかりにすがり喧伝に力を貸しつつ自らも売らんと欲するメディアの体たらくが背景にもあったりするんだけど。代わりに台頭して来るブランドがGONZOでは役者が不足気味なんだよなー。「千年女優」を作り「パプリカ」を作ってるマッドハウスや「アリーテ姫」を手がけ「鉄コン筋コンクリート」が控える4℃には是非にも頑張って戴きたいところ。それには応援するメディアが必要ななんだけどうちはマイナー紙だからなあ、いくら書いても誰も読んでくれないのです。

 ともあれ現実はほとんどミニシアターの単館系扱いな「時をかける少女」だけど、幸いにして千葉県では東京よりも人口が少なく当然にして細田ファンも少ないにも関わらず倍の2館で上映中。場所の「シネプレックス幕張」って比較的行きやすい場所にあったんで出向いて朝から小さいながらも音響も映像も真っ当なスクリーンで鑑賞してこれはなるほど誰もが傑作良作だと、口を揃えて褒めるはずだと納得する。いやあ巧い。絵も演技も脚本も。声の人たちは別に巧くないけど、誰もが精一杯に頑張ってやってて微笑ましい。

 アイドル系の男子もいたはずだけど気取ってない。やんちゃな千昭をそんな若手に演らせ、攻助役にはちゃんと年輩の舞台俳優の板倉光隆さんを持って来るバランスが素晴らしい。そのコントラストがあったからこそ間でひたすらにぶっ飛びまくる紺野真琴が光り輝く。絵はキャラクターの表情の付け方が最高。ギャグになっているけどしつこくない。攻介に告白したいと悩む少女を挟んだ3人組のあたふたとしたりする仕草とか、真琴の悲しみを心から吐き出して泣きわめいたりする表情も素晴らしい。印象だと引いたカメラが多いよーな感じで映画っぽい。野球をしているシーンなんか雰囲気と仕草と声でそれだと感じさせる絵。これがテレビだと更に小さくなってしまって分からなくなってしまいそー。

 その意味でも劇場で見るべき劇場アニメって言えそーで、だからこそ東京で1館のみの公開ってゆー状況が何とも恨めしい。もっと何とかならかなかったのがプロデュース陣。いくら良作作ったっていくら傑作を送り出したって見られず終わり”伝説”になっちゃあ意味がないんだ。願わくは「カリオストロの城」みたく場末でも良いから名画座で何年かに1度はかかる映画になって欲しいけど、テレビ放映されDVD化されて終わりって消費のサイクルに、今時の映画と同様入って流されていってしまうんだろーなー。宮裏太陽で短い上映期間に3日は通って「カリオストロの城」を見た時代は既に遠くへ。

 SF読みとしちゃあ、おいてきぼりにされた時間のその後について思索すべきなんだろーけれど、そこは考えないのがこの映画については良いのかなあ。載せていた人の消えた自転車消えた後席を見てあれっと訝ったその後は果たして続いていったのか。時間は不可逆だって敢えて言わせてみたりしているところから考えると、誰かが消えてしまっても時間はそこから先に続いているって思えるんだけど、だとするとどこか別の時系列ではプリンが消えたりとか告白が邪魔されたりとか不幸が起こったりとかした時間が、あって悲しんだりあわてふためいたりしているってことになる訳で、それはそれで何ともやり切れないんでここは1人真琴の主観のみで時間は、止まり戻って再出発するんだと思い込んでおくのが精神的にも安心か。とするとあの空っぽの後席は? あるいは千昭だから空っぽなことを認識できた? うーん分からない。けどいいや面白かったから。また行こうっと。

 幕張メッセでスーパーサウルスの模型を見物し、ティラノサウルスの腰骨の化石(これは本物)に触ってから秋葉原へと回りパナソニックから出たライカレンズ搭載の1眼レフを触ったけれどうーん、高級感があんまりないなあ。これだと同じフォーサーズの規格を持ったオリンパスの「E−500」の方がずっとカメラっぽいし使った感じも良さそうで、それにライカのレンズだけ買って付けた方が良い絵が映りそー。それともパナソニック限定のレンズ? だったら一眼レフの意味がないからなあ。どこが違うんだろー、オリンパスの「E−330」あたりと。エンジン? 手ブレ補正? 試用リポートが上がって来るのを待とう。

 さらに近所にある「書泉タワー」で「ソードワールドノベル」を3冊ほどまとめ買い。何でも明日に山本弘さんほかによる合同サイン会があるそーで、年齢的にシェワードワールドにもテーブルトークRPGにもまるでハマらず「ソードワールド」にもほとんど関心を持っていない人間ではあるけれど、山本さんが東京でサイン会を開くのも珍しいんで行ければ行ってお顔を拝見して来よう。「サーラの冒険」はこれで完結だから取り上げ紹介の予定。ほかに「富士見ミステリー文庫」とか「富士見ファンタジア文庫」の新刊なんかをどっちゃり。読めるかなあ。読まなきゃいけないんだけどなあ。ライトノベル新刊多すぎ。


【7月21日】 店頭に出そろってきたんで早速触ってみたソニーのデジタル一眼レフ「α100」だけど、カタログの見た目に比べてどこか感じが軽いかなあ。その遠因は覆っている樹脂の質感なのかもしれないし、手の平に入った時に伝わる重量感かもしれないし、ダイヤル部分の色目なのかもしれないしシャッターを切った時の音質触感の類なのかもしれないけれど、いずれにしてもトータルとして手に伝わってくる感じが10万円弱とゆー価格に見合ってないかもって思わせる。あるいはかつてはそーした感触をカバーして付加価値として機能していた「SONY」ってブランドが、逆にマイナスに作用するよーになっていたりするのかも。

 本来ならばそこに性能って要素を加味しなくちゃいけないんだけどスペック表をみても各誌のレビューをみてもおおよそ予想の範疇でプライオリティとしては働かない。あるとしたら天下のカールツァイスのレンズが使えるって部分なんだけど、これが登場するのが秋ってのが残念なところ。店頭であのボディにシャキッとしたツァイスのレンズが取り付けられた様を見られてそして、横に作例のプリントでも飾ってあればたいして違いが分からなくってもそっちへと流れてしまうんだけど。その意味で未だツァイスってブランド力は生きている。なればこそいっそ「CONTAX」と「ツァイス」のブランドを引き取りデジ一眼を作ればいいのにソニー。作らなくなった京セラが持ってたって勿体ないだけなのに。

 同時期に並んでる「PENTAX K100D」はまあそれなりの完成度。コンパクトさでは「istDS2」とかの方がコンパクトに見えるし引き締まって質感もたかいよーに感じるんだけど、それでもほぼ同等の作り込みがされてて「istD」と並べても遜色はない。持った感じもまあそれなり。グリップがやや大きいのが気にかかるけどそれとて「CANON EOS Kiss Digital」ほどの量感はなくって黒いボディともあいまって、全体に程良い質感を醸し出している。

 シャッターは「istD」に比べてカシャポンしてるけど連写性能は「istD」より上だし何より液晶がデカい。ファインダーがプリズムではなくミラーだけど暗さは気にならず大きさもまずまず。フォーカスも速くて仕事の場でも安定して使えそう。続く1000万画素のスペックと価格次第では、こっちを2機目として買ってしまうかな。21ミリのパンケーキレンズと合わせて欲しいな。でもって秋葉あたりのメイドさんたちを取り歩くと。勿体ないやら情けないやら。

 「週刊新潮」にて白井佳夫さんが「ゲド戦記」のことを書いているけどうーん。曰く「『ハウルの動く城』を、イギリスの女性作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの原作をアレンジして作って作品をパターン化させ、燃えつき症候群に突入してしまった宮崎駿監督のアニメは、次にどんな展開を見せるのか?」という書き出しが何とも意味が不明。つか日本語的にとっても居心地が悪い。「原作をアレンジして作って作品をパターン化させ」って通じない訳じゃないけどどっか変。まあそれはそれとして「やはり物語がダイジェスト(要約)的になってしまった」「原作を読んでいない人間には、消化不良気味の展開だ」 「静止した背景画の前を、主要人物たちが動くという形の、基本的な動画の構成にも不満がつのる」「ジブリアニメ独特の、魅力的な映像表現の見せ場にも、乏しい」って辺りから類推すればそれなりに宜しくない作品だったって言えそー。

 ただ「ジブリアニメの魅力を本道にもどすために必要なのは、日本の話を日本人が演じる、夢とロマンを秘めた作品を、何とか現実の不条理を克服して、つむぎ出すことではないのであろうか?」って結語もやっぱり意味不明で、そんなことを言い出す白井佳夫さんの言葉をどこまで信じれば良いのか悩みどころ。日本にこだわっていてなるほど確かに「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」も面白かったけどそれだけって訳じゃない。「風の谷のナウシカ」だって「紅の豚」だって「魔女の宅急便」だって「天空の城ラピュタ」だって日本じゃないし日本人じゃないけど面白かったのに。「ハウルの動く城」は……。ともかく結果が分かるのもあと少し。期待しないで公開を待とう。

 走り続けるなんて無理だし、気を張りつめっぱなしでいるのも大変。だけどこの都会で仕事をしながら生きていると、どうしても走り続けなきゃ、頑張り続けなきゃって思い込んでしまう。そして気が付くと心は固いしこりでパンパンになって、押しても引いても動きもしなければ弾みもしなくなっている。なのに走れと背中から声が押す。頑張ろうって前から手が伸びる。もう動けません。走りたくなんてありません。気が付くとそこは暗い闇の中。耳を塞いで目を閉じてうずくまって永遠の停滞に身を沈める。

 どうしよう? どうにもできない。そんなジレンマに心を苛まれ、蝕まれている人たちに1筋の光が射し込む。橋本紡の「ひかりをすくう」(光文社、1500円)という物語が、立ち止まっても良いんだ、しゃがみ込んでも良いんだ、脇道にそれて寝転がっても良いんだよって教えてくれて、光の射す方向へと暗闇から心を導いてくれる。それなりに売れっ子となりかけていたグラフィックデザイナーの女性がある時、パニック障害に陥ってしまう。期待されていて才能もあって、けれどもそれに答えられない。出来るかもって自信よりもできないかもしれないって不安ばかりが膨らみ身動きがとれなくなる。

 どうしよう。辞めちゃおう。思ってもなかなか実行できないのが現実だけど、女性はいっしょに暮らす青年の彼女をいたわり包み込んでくれる気持ちや行動に居場所を見つけ、2人で郊外へと引っ越しそこで蓄えを崩しながら静かに暮らし始める。近所に住んでいる不登校の少女に英語を教えたり、少女が拾ってきた猫を育てたりとささやかな事件はあっても、再び社会と深く関わることだけは出来ないでいる女性。評価してくれていた女社長から仕事の話が舞い込んで来ても、同居している青年の別れた妻から青年を社会から遠ざけたままにしないでくれとわがままで乱暴な言葉を投げつけられても、今はまだ留まったままでいる。

 いつか帰るかもしれないって可能性はあっても、だから帰らなくちゃいけないって教唆はない。それを選ぶのは物語の中の女性ではなく読んで何かを思った読者たちだ。脇道にそれたままでしばらく草を眺めていたって、立ち止まったまま空をぼーっと眺めていたって構わない。前には進んでいなくたって後ろに逃げているんじゃない。ただ今を、かけがえのない今をおおいに味いながら固まった心を解きほぐそう。と、そんなささやきが全編に溢れて心を撫でる風のような物語。これはなるほど売れるかも。忙しすぎて働きすぎて、けれどもそれがいった何なのかって分かって迷っている都会暮らしの若い人たちに響くかも。行くかなあ100万部。紀伊國屋の新宿南店じゃああの「東京タワー」と並んで平積みだったし。もう片方には桜庭一樹さんの「少女七竈と七人の可愛そうな大人」も平積みだったけど。どーゆー組合せなんだ?


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