縮刷版2005年3月上旬号


【3月10日】 「週刊将棋」を読んだら羽生善治4冠王がA級順位戦で1頭抜けて森内俊之名人への挑戦権を獲得したみたいでまずは善哉。調子をめきめきと落としている森内名人が相手だったら調子をめきめきめきめきと挙げている羽生4冠王がいつかの失冠をカバーして返り咲く可能性は極めて大。と同時に確か5期目の名人位となって永世名人の資格も獲得してしまう訳で残る記録は棋聖位を奪取し竜王位も奪って今再びの全タイトル制覇(朝日オープントーナメントもタイトルとするなら既に獲得中)を成し遂げてくれれば、ちょっぴり関心の遠のいていた将棋界に今一度のスポットが集まりそー。

 前の7冠時代は羽生4冠王がひとり孤高を行ってた感じがあったけど、今回は渡辺明竜王とか、三浦弘行さん山崎隆之さんといった強い若手も続々出てきて丸山忠久久保利明深浦康市郷田真隆藤井猛に佐藤康光森内俊之森下卓といった面々も揃って多士済々。プロレスみたくいろいろアングルも作り甲斐があるんで気の利いたメディアがそこに着目して盛り上げてくれれば今再びのブームも起こって面白そー。もっともこれほど多士済々の中をぶっちぎりの勝利数を稼ぎタイトル戦をほとんど総なめにする羽生4冠王、やっぱりただ者ではないのかも。、大山康晴さんの全盛期ってこんな存在感、だったのかなあ。

 この人を呼ぶとネットの諸々な人が反応して自分のページでかき立てるため波及効果がでかいって評判になりつつあるらしー眞鍋かおりさんをゲストに迎えて開かれた新しい検索サイトの「MARSFLAG」が不思議なことになっていると聞かされて実験。3月10日を前にした数日間、ブランクに「出井伸之」ってソニーの会長さんの名前を入れるとソニーのサイトじゃなくって何故か、我がサイトがトップに出てきてしまう。確かにソニーの出井さんの退任会見の取材にいった話を紹介したけど、それより以前に話題にしたってことはなく、どーゆー仕組みでページを収集しているのかがまるで分からない。

しかしなにゆえに出井伸之で俺ん家が? まさか生き別れのお父さん?  ちなみにこの日に退任が決まった「久多良木健」さんを入れるとやっぱり上位に我がページが。これを見てサイトに富んで来た人が目にするの話はまるでたいしたものじゃなく、そーした積み重ねがやがて検索サイトの利用者減へとつながらないか心配になる。ちなみに「眞鍋かおり」を入れるとずらずらっと眞鍋さんのあられもない姿がトップになったページが並んでなかなかに壮観。こーゆー使い方の場合は、サイトのイメージで表示してくれるってアイディアは悪くない。でもアイドルによってはエロサイトばっかりが並ぶ場合もあるから考え物。まあそれはそれで目には麗しいんで実用にはなっているのかも。

 せっかくだからといろいろと実験。トップにリンクを入れている将棋の「渡辺明」竜王を入れるとやっぱり結構トップに来る。作家では集英社スーパーダッシュ文庫で活躍している「桜坂洋」さんに「霜越かほる」さんでトップになって「海原零」さんでも良い順番。「滝本竜彦」さんでもやっぱりトップに来てしまうのもまあ分からないでもないけれど、どっちかってゆーとこっちよりは書評のページが出てくれた方が利用者には優しいんじゃなかろーか。ほかにどんなキーワードで自分がトップかその近辺に来るか実験実験。「オタク」「ロリ」「禿」では出ないぞ良かった。

 ダン・ラザー降板。っても日本においてダン・ラザーがバーナード・ショーがピーター・ジェニングスがトム・ブロコウであってもその活躍ぶりを目にする機会はあんまりないし、あっても英語なんで何を喋っているから分からないからそのイケメンぶりも偏向ぶりも含めてまるで縁はないんで辞めるって言われても大きな感慨はない。それより先に辞めなきゃいけないキャスターってのが日本には多すぎるし、って今はもう1人か。いや就任して間もない奴でも辞めて構わないんだけど、ねえ古館。

 しかし年齢を見て仰天の73歳。そんなに歳を喰ってもそれをそれを感じさせないで(それとも明らかに老いていたのかな?)テレビに出ては滔々として堂々と喋り世論を左右し続けたことで状況の見えてなさが囁かれる赤坂の局の某キャスター御歳今年で70歳と比べてなるほど、人材の大きさの違いってものが伺える。年収もケタ違いだったんだろーな。六本木に君臨した彼の年収の10倍くらいはあったとしたら……田園調布に家が建つ。否ビバリーヒルズに御殿が建つ。建ててたりして。

 もっとも晩節を汚し気味に去るダン・ラザーよりさらに先輩、彼にキャスターの座を譲ったウォルター・クロンカイトは在任中に自分の意見を滅多に言わず、それだけに唯一無二くらいに喋った「私はベトナム戦争に反対だ。アメリカ軍に名誉ある撤退を求める」とゆーコメントは、世論を大きく動かし戦争終結へとつなげたらしー。それに比べてダン・ラザーが言った言葉が米国を、世界を動かしたって話はあんまり聞かない。「9・11」の時はブッシュを支持して涙を流したって逸話もあるくらいで、にもかかわらずキャスターの地位に居続けられた状況が、メディアも含めて帝国化してしまった米国の現状を伺わせる。いずれにしても日本よりは遙かに増し。所属している局を「死んだ」と言ってから10年、居座り続ける赤坂の某キャスターの言葉は世界どころか自分だって動かせないなから。困ったもんです。

 今回もいました体は元男な別荘の住人さん。夢路行さんの不思議な物語を集めた短編集「モノクローム・ガーデン3」(スタジオDNA、552円)はそんな彼な彼女と戯れる管理人少女がまたしても不思議な輩を出会ってはその魂を安らぎへと導いてあげる物語で、心は生まれたときから女性な彼からその鈍感ぶりを嘆かれ導いてあげなくちゃって言われてしまってちょっぴり可哀想。他の話では誰もいないはずの家の前で傘を売ってる少女の話が少女の可愛らしさとも相まっていい感じ。売られた傘の正体が可笑しくって、けれどもそんな騙され方ならされてみたい気もしないでもない。値段は5円で十分に使えて晩のおかずにもなる素晴らしい”傘”に拍手。


【3月9日】 そーかアンコールもやったのか。帰ってしまったんで登場したらしー「カツケン」とやらは見られず香取慎吾の踊る姿を目の当たりに出来なかったのは残念ではあるけれど、最近あんまり「SMAP×SMAP」を見てなかったんでそんなキャラクターが人気になっているとは知らなかったんで、悔しいって地団駄を踏みたくなるよーな感情は浮かばない。ってゆーかみんな本当に「カツケン」なんてものが存在することを知っていたのかなあ。ホント最近あんまりテレビを見ないんだよね、アニメとニュース以外はほとんど。

 なるほど視聴率は良い番組かもしれないけれど、最近の人ってあんまりテレビを見なくなってるじゃん、そーした傾向ってのはけれどもビデオリサーチなんかが調査端末を設置している家にはおそらく出ない訳で(リサーチされてることを分かっている家がテレビを見ないで通すなんてこと、心情として出来ないだろーし)、昔のよーに視聴率を人口に当てはめて何千万人が見たなんてことを言うのはもはや無理なよーな気がする。テレビが「マツケンサンバ」の大流行に果たした役割の大きさなんかを言ったけど、そーした傾向も人がテレビをどんどんと見なくなっている昨今の情勢において、今後どー変化していくのかとっても気になるところ。ネット内での盛り上がりが一部コミュニティ的な範囲で島状に林立するよーになるのかなあ。それともネットがマスになるのかなあ。

 第1巻が人々が線で繋がる話だったとしたら第2巻は線が面となって別の面と競り合ったり重なり合ったりする話か。成田良悟さんの「池袋サンシャインストリート」シリーズ、なのか「首無しライダーが行く」シリーズなのかは人によるけどともかく傑作だった「デュラララ!!」に続く「デュラララ!!×2」(電撃文庫、662円)は第1巻で存在が浮かび上がり繋がりも分かりリーダーも明かとなった人々の集まり「ダラーズ」とは別に、池袋を根城にする「黄巾賊」ってチームが入り込んでは池袋の面々と角突き合わせ、さらにそれとは別にある種の怨念めいたものを抱えた一派が浮かび上がっては三つ巴の状況へと進んでいく。

 発端は池袋界隈で起こった通り魔的な事件。刃物で切られる事件が続出しあの首無しライダーのセルティちゃんもその首を落とされてしまうとゆー事態に。ってか首はもとからないから落とされたのはヘルメットだけだったけど、それも含めて頻出する事件の解決にセルティと、そして怒らせたら冷蔵庫だって車のドアだって持ち上げ取り外しては放り投げる危険な男、平和島静雄とゆー異色のコンビが実現。さらには1巻で外野的な癖に中心的な役割を果たした男も乗り出してきて怨念の連鎖が生み出した怪事件へと挑む。

 かくして現出した三つ巴的な状況が、それぞれの中心にいる奴らの意外性とも相まってこれからどう展開されていくのかに超注目。裏で操る野郎の目論見が一体何なのかも気になるけれど奴のことだ、きっといろいろあった方が楽しいからって理由なんじゃなかろーか。首無しセルティちゃんは今回もそのナイスなバディをシルエットでそこいらじゅうに露出してくれていて目に栄養。その黒いバイクの後ろにまたがり腰に手を回した平和島への羨ましさも募るけど、そんな事を言ったら怒りに我を忘れた静雄に天空の彼方へと法理あげられること間違いないんで言わない。「デュラララ!!×3」はいつ読めるかなあ。「ヴぁんぷ」の続編の方が先かなあ。いずれにしても成田さん、今年もいろいろやってくれそーです。

 続けてハセガワケイスケさんの「じーちゃん・じぇっと」(電撃文庫、599円)なんかをぺらぺら。女の子見たいに可愛らしい主人公の祖父は結構な歳なのに20歳といっても通用するくらいの若さで、なのに街の誰もそれを不思議と言わず問題にもしないで寺の住職と認めて付き合っているとゆー世界。もちろんじーちゃんには秘密があって夜ともなると街を脅かす魑魅魍魎の類を戦っていたんだけど決してリーダーって訳でもなくって配下にいるはずのいろんな一族が、牽制しあい独走したりしたりする。

 退魔師物の枠組みに歳をとらないじーちゃんってゆー親味を加えた物語って今は言えそーで、お稲荷さんとか神様たちを退魔師物にぶち込んだ柴村仁さん「わが家のお稲荷さま」と比べて読むとなかなか興味深いかも。こちらの場合の主人公の少年が単なる傍観者なのかそれとも名実ともに主人公へと育っていくのか、そのあたりが出るとしたら続編の見所となって行きそー。オカアサハさんの描くイラストは主人公の可愛らしさに実にマッチしているけれど、じーちゃんもティーンに見えてしまうのがひとつの悩みどころ。まあ見慣れれば気にならないんで気にしないことにしよー。

 英語敗者に朗報。なのかどーかは使ってみないと何とも言えないけれど期待だけは持ちたい新製品が登場したんで記者発表へと行く。その名も「GOGAKU」って製品は見かけは携帯型音楽プレーヤーかICレコーダーで、ソフトもSDカードで供給されるけど再生したらこれが吃驚。英語の文章が普通の速度と遅い速度と速い速度でもって収録されていて、普通の速度の奴を聞いててこれは聞き取れなかったって所で遅い速度の音声を聞けるボタンを押すと、当該の言葉がセンテンスの冒頭から再生されて聞き取れなかった言葉を改めてゆっくりとした速度で聞き直せる。ボタンを押すタイミングがブロック分けされた次のセンテンスへと差し掛かっていても、当該の言葉が含まれているセンテンスの冒頭へとちゃんと戻るから素晴らしい。

 でもって速い速度を再生するボタンを押せば同じセンテンスが速い速度で再生されて、なおかつ別のボタンを押せば日本語訳も聞けるよーになっているから普通に聞いて遅く聞いて速く聞いて日本語聞いて、もう1度英語を聞き直したりして文章を耳へと馴染ませられる。こーゆー学習方法がリスニングにどれだけの効果があるのか、英語の専門家じゃないんで分からないけど英語の文章を目で追うよりは頭に負担をかけずに英語に浸れそー。機械も小さいんで持ち運びの負担はゼロ。MP3プレーヤーとして音楽も聴こうと思えば聞けるから、飽きたらそっちに転換するって手もあったりする。ステレオ再生が可能かはちょっと分からないけど。

 そんな機能を持って値段が驚きの9870円と、この種の機械にしては異例に安いそーで(この機能なら2万円でも不思議はないとか。開発は三洋電機の子会社の三洋テクノ・サウンドで素性はしっかり)ソフトも1本が4830円とかそんなものん。今のところ高校生のヒヤリング教材と中学生の英語教科書のソフトしかないんで大人には使い勝手が悪そうだけどレベルから言えば中学英語な我が身には、それくらいから始めるのが良いのかも。大人向けには「TOEFL/TOEIC」用ソフトとか英会話ソフトとか中国語ソフトも出してくれるそー。個人的にはやっぱり小説の録音を速いのと遅いのと普通のと日本語朗読で入れたソフトが欲しいなあ。フォーマットは外部にも提供するそーなんでそーゆーソフトを作ってみたい会社には是非に挑んで頂きたい。SFは流石に出ないかなあ。


【3月8日】 でかいでかいギリシア人でかい。宇宙船に乗せられ遠く惑星ギリシアから「ベフォールの子供たち」の体も地球へと持って来られていたよーで、それがヒルダを手に入れたデュマによって宇宙船から切り離されて地球へと落下。最後までその肉体に戻ることにこだわったヒースマはそのまま地表へと叩き付けられてしまう。まあ裏切りの連続で自らを苦境へと追い込んだ奴だから自業自得なんだけど、ひとつの記憶を持ち続けてきた日々が途絶える恐怖も合わせて味わうその最後には、ちょっぴり同情心も浮かんでしまう。安らかにヒースマ。

 でもって地表には宇宙船に乗せられていたカプセルが浜辺にごろごろと突き刺さって何だから異様な感じ。7歳だかの「ベフォールの子供」とは違ってそれなりな歳に成長しているんで顔立ちも大人びていて、それが目をつぶり下を顔で見下ろしている感じはなかなかにゾクゾクとさせられる。このまま果たして地上に突っ立てたままなのか、それともデュマが言ってたよーに朽ちていってしまうのか。そんな先も含めてこれからの展開が楽しみ。しかしあの可愛かったメルが歳を取るとゲルタ博士なんだよなあ、女性って変わる世名亜、ヒースマなんて歳なんて関係無しに鼻デカいのに。

 3月8日はさんはちでサンバの日ってことで「東京ドーム」で開かれた「マツケンサンバ2in東京ドーム」を見物に行く。おそらくは今年限りのブームに「日刊スポーツ」の60周年記念ってのも重なって実現した奇蹟のイベント。例えれば一昨年だかに同じ会場で見た「tatu」のコンサートにも匹敵する稀少さに、これはやっぱり見て置かなくては”出没家”の名が廃ると自腹を切ってドームへとかけつけ当日券を買い、「マツケンタオルマフラー」を買って首にキリリと巻いてドームに入り席を探すとステージ真正面だった。当日券なのにA席なのに何でだろ? 場内に降りて踊る権利があるS席は折口に近い左右に散らばらせられていたからかな。どっちにしても特等席で我らがマツケン、松平健さんの登場を待つ。

 サンバのリズムと踊りの後に会場置く、城門より現れたのは馬にまたがった松平健ならに8代将軍徳川吉宗、そのまま華麗に手綱を操り馬を走らせ場内を回り、ステージへと上がり歌を披露し踊り左右のステージへと移動してリフトで上に上がってやっぱり歌を披露しては、その美声ぶりを聞かせてくれる。サンバばかりが注目されてしまいがちだけど時代劇の役者の人、演歌もムード歌謡もやっぱり上手い。「暴れん坊将軍」の挿入歌らしー「斬って候」なんて難しいメロディをこともなげに歌い上げてしまうからなあ。こうしたベースがあるからサンバのよーな飛び道具も、ギャグすれすれでこなせてしまうんだろー。

 休憩を挟んで第2部はマウンド上の四角いステージを囲んで四方に儲けられたスペースに場内から人が入ってマツケンと一緒に踊る一代スペクタクル。グラウンドに降りてバックスクリーン側に群がった人が正面になった関係で第1部とは逆に真後ろから眺めることになったけどそれもまた一興、サンバらしく振られる腰の動きが直接見られてなかなかになめまかしい。まずは前振りとしてバックダンサーの公募で選ばれた2グループの演技披露。うち東京大学医科学研究所附属病院だかに勤務する医者とか看護士とか臨床検査技師といった面々が登場して見せたダンスは、中身よりもナース服姿での富んだり跳ねたりするダンスがこれまた気持ちをそそる。中央でマツケン役を務めたのは心臓外科医の人とか。手術でもきっとステップを踏みながら両手にメスを握って執刀しているに違いない。でもってBGM代わりの「マツケンサンバ2」の「サ・ン・バッ!」って箇所で両手をバッと上げてしまって見ると先に心臓が刺さってる、と。

 続いてもう1組の披露があってその後はマツケンサンバ2の振り付けを担当した真島茂樹さんによる実技指導。パートに分けて教えてそれを会場にいる人に演じてもらう段取りだけどグラウンドに降りた数千人が一斉に踊り煌めく房を持ったまま両手を上げると輝く波のよーで目に鮮やか。スタンドでも開店は無理ながら腰振りとかする人もいてジーンズ姿の女の子の腰が眼前でくいっ、くいっと動く様に来て良かったと歓喜する。

 ってゆーかみんな本当にノリノリ。好きだから来てるんだろーけど5000円とか6000円とか払ってまで来る人が万の単位でいてステージの指導によっていっしょに踊ってみせる人がこれも万の単位でいる状況は、つまりそれだけ「マツケンサンバ2」ってものが一般的でそれを踊ることが一種のエンターテインメントで決して恥ずかしいことなんかではないってことを証明していたりする。過去にこーゆームーブメントとして何があったかを思い出すと昭和50年くらいに流行った「電線音頭」だけど(古いねえ)、これとか「東村山音頭」といった一種の流行が、世間を巻き込みムーブメントとなって理性のタガを壊し人々に働きかけるって構図は、やっぱり中核に「テレビ」ってメディアが存在していることが大きい感じ。

 インターネットで起こるムーブメントもない訳じゃないけど、万単位の人を巻き込み一斉に踊りを踊らせるだけの”祭り感”を醸し出せるのかどーなのか。いつかはできるかもしれないけれど今はまだ、そこまでのパワーはないよーな気がする。勝手な妄想として言うならそれはネットを見る時に人はまだ、頭でいろいろ考え理解しながらそこに起こっていることを割りに能動的に受け止めているけど、テレビの場合だとそこから流されててくるものを身構えもせず受動的に受け止めつつ、それを媒介に共同の幻想を抱くよーな心の組み立てをしてしまからなのかもしれない。

 フジテレビとライブドアのニッポン放送株をめぐる綱引きはいよいよ第2段階へと向かうけどそーした媒体の今はまだある違いについて、双方が理解し相手のメディアをどう取り込むかって、ビジョンを示してくれないとどちらも信じたくない気が今してる。勝ち負けではなく融合。そしてその方法。ホリエモンも曖昧だけどフジテレビだってビジョン、出してないからねえ。

 さて登場のマツケンは金ぴかの衣装で腰元ダンサーズを従え圧巻の踊りを披露。それを身ながら1万人とかが両手を上げ腰を振り体を回す光景はスタンドから見ても総監で、世紀に残る1つのイベントだったなって印象を強く抱く。あの波に参加していた方が後生に語りぐさになったかもしれないけれどそこは傍観者が旨の”出没家”。同じ空間で同じ場面を見たという、その事実で十分に満足だし目的も果たせたから良しとしよー。

 しかし果たしていつまで続くかこのブーム。夏まで続くよーなら今度は湾岸に10万人とか集めて全員で一斉に「マツケンサンバ2」を踊るってイベントでも仕掛けて欲しい気が。女性は全員がサンバのあの露出の激しい衣装で来るか、夏なんで水着で来るって条件で。そんな中に入り込んで揉まれることができたらこれはミレニアムに残るイベントになるんだけどなあ。周囲が全員ふんどしの男たちだったら? まあそれもそれでミレニアム。

 例えばひとつの村があったとしよう。山野で狩った動物や海で捕った魚、畑で栽培した野菜を集め出荷しては生活に必要なものを手に入れることで全村人が日々を暮らしていた。決して人口の多い村ではないため山へ猟に行く猟師も海に行く漁師も畑で作物を作る農民もギリギリの人数。普通の猟師や漁師や農民が働く2倍、3倍を猟や畑仕事に充ててどうにか経済が保てるだけの収穫を得ていたのだが、ここに尊重から不思議な命令が下った。

 何でも村長が言うには獲れたままの動物では見栄えが悪いので羽根をむしり毛皮もはがして綺麗に精肉してから出荷した方がしっかり売れるらしい。または3枚に下ろし刺身にして出した方が人気が出るらしい。農作物についても綺麗に磨いて汚れを落とし、箱に詰めて出荷した方が市場で高値で売れるらしい。ついでには売り先ごとに好みがあるため出荷の際には贈る場所によって遠ければ早めに出荷し、近ければ後に回すような作業が必要だということらしい。

 なるほどそれも一理あると、村の幹部たちは出荷する獣はしっかりと加工して送り出すことにした。魚は3枚に下ろすことにした。農作物は見栄えを良くして綺麗な箱に詰めるように改めた。ただし問題があった。そうした作業を行う人間がいないのだ。何しろ人口の少ない村人で、動ける者は基本的には山へ向かうか畑へと出て、売るための動物を狩るなり作物を作っていた。これ以上を加工に裂けば収穫が減ってしまうことは明白だった。にもかかわらず村長は目先の金に目が眩んで、強引に猟師や漁師や農民を狩りや畑仕事の途中で村へと帰らせ加工の仕事を行わせることにした。

 なおかつその時間が狩りや畑仕事に最適の時間だったからたまらない。狩るべき人間が経れば当然ながら得物は減り、耕す人間が経れば作物は痩せる。そんな自明のことをけれども村長は気付かないか、気付かないふりをして前線から人を呼び戻しては出荷品の見栄えを良くする作業に当て続ける。かつては獲れていた大型の獣も魚も時間がないため捕れず近隣の鼠か兎で魚は雑魚になる。それを加工で見栄え良くして、時には貴重な動物であると偽って出荷する。痩せた野菜には色を塗り金色の箱に詰めて降級野菜と偽り市場に流す。

 けれども消費者は騙されなかった。クズ肉は加工されていてもクズ肉だし雑魚は文字通りの雑魚、色の塗られた野菜も囓ればそれとすぐ分かる。かつては珍しい動物だ魚だ美味い野菜だと評判だったその村の産物は程なくして消費者からそっぽを向かれ、村の収入は減り明日の糧にも困るようになる。けれども村長は改めない。退く気配もまるでなく、クズ肉や雑魚やクズ野菜を高級品と偽り出荷し続けた。そして訪れる崩壊の時。後にはぼうぼうに荒れた土地だけが残り、村人はその姿を消した、なんていう寓話が何を意味する者かは面倒くさいんで語らない。語ったところで何の効果もないんだけどね。そしてまた1人。


【3月7日】 相変わらずのホリエモン記事が”充実”の「AERA」2005年3月14日号には別に「日本のセレブ 実録[御曹司界]」って記事もあってそこに気になる記述。メインは杉田かおるさんを結婚した日産財閥創業者の鮎川義介氏の孫、鮎川純太さんなんかを枕に振った旧財閥系の血筋を引いた閨閥が今いったいどんな感じになっているか、って所なんだけどそんな鮎川さんが中心メンバーとなっていた勉強会「透水会」に参加していた人に、意外な名前を見つけてちょっと驚く。

 石川六郎鹿島名誉会長の長男の石川洋鹿島専務が代表を務めるこの勉強会。バイオリニストの諏訪内晶子さんがおり木村剛さんがおりトヨタ自動車創業家の令嬢がおり他血筋もあれば金もある面々が揃っていた中にあって、鮎川さんとともに人脈の広さを発揮して来たのが「同氏と旧山一証券で同僚だった木谷高明ブロッコリー社長」だったという。諏訪内晶子さんがあるいはデ・ジ・キャラットに会っていたのか? って疑問はそれとして鮎川純太氏、石川洋氏といった”銀のスプーン”組に関わるだけの人脈人徳の類を木谷さんが持ち得ていたって所に、その一筋縄でのいかなさを見る。今はタカラ傘下で再起を図っているけどそのうち人脈を活かして出てくるか。でもって杉田かおるさんをアニメの声優に起用するか。

 ソニーの社長交代があるってんで興味本位で会見場へ。ぎっしりと埋め尽くす記者とかの数にソニーが未だ衰えず日本の代表的な企業の知名度を保っているんだってことを認識。すると同時にそのトップの交代がすなわち知名度とは比例しない業績不振に陥ってしまった事の重大さを現しているんだってことも思い知る。それだけに会見でも自らの責任の所在を明らかにした上でこれからの経営を若い人に託すのかと思ったら出井伸之現会長、「インターネットやグローバルといった、自ら会得した時代が到来した時に去るのは寂しいが、次世代のページを繰った爽やかさの方が大きい」なんて自らの業績にいささかの濁りもなかったことを訴えつつ、「会社を決めるのはOBでも委員会でもない。会社は365日考えている経営者と社員で出来ている」って感じに自分がどれだけ会社のことを覆っていたかをアピールしてみせたから驚いた。

 ソニーが停滞した理由は何なのか。それはひとえに魅力のある製品を生み出せなかったことに尽きるんだけど、そーしたプロダクツ的な視点からの反省はまるで聴かれない。なおかつ後継に就任した中鉢良治新社長も「IT時代の到来に向けた出井さん安藤さんの2人の布石の炯眼には敬意を払う。新しい体制では一致団結して、布石の開花結実を実現したい」って具合に先達の路線を讃えつつ継承しようって考えを満天下に表明してしまった。ソニーは果たして変わるのか? って疑問もこれには当然浮かぶだろー。

 選んだ中鉢新社長を評して出井さんは「グッドリスナー」と言った。他人の話を良く聴く人って意味でそれがエンジニアの意見を聞いて次につながる商品化発へと進んでいくってことなんだろーけど、一方で”俺の話をよく聴く奴”ってニュアンスも、取って何となく取れそうな気がする。対して久多良木健副社長は自分の話を他人に聴かせてまるめこもうというタイプ。リーダーシップという意味では建て直しに向かうソニーに相応しい資質って言って言えそうだけど、それが出井さんのお眼鏡にはどうにもかなわなかったことらしい。

 ハワード・ストリンガー新会長は久多良木さんを「ソニーにとって重要な人」だって強くコメントしたけど、担当していた半導体とかネットワークとか家電の管掌を外されゲームだけになってしまった人物が、再び役員に選任されて改めて当該部門を任されるとは考えられない。コアデバイスを内製化してそれを優れた製品開発に結びつけるビジネスパターン、「セル」を核にしてネットワークに対応した情報家電の分野を展開していく青写真を、続く新社長が受け継ぎ発展させていく可能性は皆無ではないとしても、ゲームも含めたビジョンの中で実行しよーとしていた久多良木さんとは自ずとスタンスも変わってくる。

 棚上げされた「セル」が次世代家庭用ゲームでトップの性能を発揮しても、連動したはずの家電やIT機器がそこに繋がらなかったら、「セル」の威力も半減どころか大きく減ってしまうだろー。それを捨てても規定の路線、すなわち出井会長の路線を引き継ぐ方が「ソニーの企業価値」を維持し発展させられるんだと考えていたのだとしたら、それはそれで見物でもあるんでいったいどんな商品でもって、世界を席巻した「プレイステーション」なりこれから席巻する「プレイステーションポータブル」を超えてソニーブランドへの支持を集められるのか。生暖かい目で観察して行きたい。これでソニーに見切りを付けてマイクロソフトなり、アップルコンピュータへと転籍したら面白いんだけどなあ。

 デビュー作にその作家のすべてがあるって説は成長をし続ける作家に失礼なんで信じないけど、書きたい多くのテーマをデビュー作に込めるって意味では正しい部分も少なからずある。平谷美樹さんの場合は小松左京賞を受賞した「エリ・エリ」(角川春樹事務所)より以前、デビュー作として世に問われ様々な反響を引きおこした「エンデュミオン エンデュミオン」(角川春樹事務所、1390円)で問われた「神殺し」とゆーテーマが、その後に書かれた様々な作品の中で幾度と無く問われて神無き世の有様へと想いを至らせる。

 そして登場した「黄金の門」(角川春樹事務所、1900円)はそんな一連の「神殺し」にまつわる諸作の掉尾を告げるとどうじに、位置的には劈頭を占める作品で世界がどうやって神を殺すに至ったのか、その端緒ともなる事件が描かれる。エルサレムへと入った1人の日本人青年が、発掘現場に招かれそこで掘り当てた謎のプレート。本当だったらバチカンへと渡すはずだったその遺物を青年は、周辺に出没する不思議な少年の誘いもあって自分で持ち続けてしまう。それが世界の変革へとつながっていくとは当時の青年は思いも寄らなかった。

 少年は発掘現場ではただの現地の人間のような顔で青年に近づいてきたが、エルサレムでは有名な”教祖”として崇められていた。話すのは既存の神とは違った救う神、許す神、犠牲を強いない神がいるってことだけどその裏には既存の神、有史以来人が信じ続けてきた神を否定するニュアンスが込められていた。やがて起こる大暴動の中で青年はエルサレムを抜け出して日本へと還る。それから数十年後。榊という名字を持っていた彼の子孫が世界に、否宇宙に大きな変革をもたらす訳でその手には例のプレートが握られているという次第。すでにして忘れてしまった「エリ・エリ」「レクスティオ」とそして「エンデュミオン エンデュミオン」だけど、完結を期に読み返しては平谷美樹が描こうとした神無き世界のビジョンを改めて、受け止めてみよう。それには掘り返さないと。


【3月6日】 格好良ければ使いやすいかってゆーとそうでもないのが道具って奴で、ルイジ・コラーニが丸く流れるよーなペンとかデザインしたって普通に使ってるグリップの太い、傍目には格好悪いペンの方がよほどか使いやすい。機能美って奴は昨日を突き詰めた果てに生まれたフォルムを使い勝手の良さとも相まって”美”と認識しているに過ぎないんだと、まあそんなことを考えながら埼玉県立近代美術館で開かれている「椅子のでざいん日本の<座>かの誕生から未来へ」なんをぞ見物する。

 凍えるよーな寒さの中を降り立った北浦和駅から徒歩5分。来たのはプラスチックか何かの展覧会をしていた時以来だから4年ぶりくらいになるのかな、入るとロビーにまず4脚ばかり椅子が設置されててご自由に座れるよーになっているんでまずテスト、うーんまあまあ。けど会場の入り口に向かう階段付近に置いてあった、その評判も名高いチャールズ・レニー・マッキントッシュの背もたれが高くそびえる有名なハイバックチェアは座面が小さい上に背もたれ部分も細くて背中を納めきれず、座っていると背中に角がごりごりと当たってあんまり心地よくない。なるほど見た目は美しいけどそれが機能に結びついてない。それとも何か別の”機能”があってそれに即したデザインになっているんだろーか。拷問とか矯正とか。

 一方で入り口の横に置いてあったらラフレシアみたいな椅子は低くてふかふかとした座面もお尻に良ければ左右に開いた花弁部分が肘掛けになってて肘を置いた感じがなかなかに心地良い。1日だって座っていたくなる椅子だったけど日本の閑散として静謐な部屋にはちょっと合いそうもない。日の射し込むテラスルームみたいな所に置いて座って本をか読んでいたいなあ。

 場内に入って、1970年の万国博覧会に置かれた椅子をスライドで見せる部屋に置いてあった椅子、たぶん実際に万博に展示されていた椅子の幾つかだと思うんだけどこれらも同様に1日だって座っていたいくらい心地良い椅子。座椅子みたいなもので座って脚を曲げて置くとようとおるよーになってて、目線に床に置いたモニターが入って眺めていると心地よさに眠くなってくる。床で暮らす風習のない欧米人だとこーゆーのをどんなシチュエーションで使えば良いのか分からないだろーけど、日本風の靴を脱いであがるリビング向けだと置いて具合も悪くなさそー。でも狭すぎる日本の家には置き場所がない。

 万博の映像なんかを見ながらふと思ったこと。1970年の時は三波春男さんの歌が作られたのを筆頭に、小説でも「人類の進歩と調和」って万博のテーマをひねって筒井康隆さんが「人類の大不調和」を書いたし眉村卓さんも「EXPO’87」を書いたりと、万博が文化に何かしらの影響を及ぼしていたけど今回の「愛・地球博」で露出して来ている文化・社会面の影響はせいぜいが「モリゾー&キッコロ」の縫いぐるみくらい。これとて数あるイベントとキャラクターマーチャンダイジングの連動の域を出ていない。万博の公式主題歌ってあったっけ? アテネ五輪の「ゆず」程にも評判になっていない。いや本当にあるのかすら知らないけれど。

 そこに何かを見出すほどのテーマもなければネタにする程の知名度も、影響力も「万博」が持ち得ていないって現れで、つまりはそれだけ日本が「万博」に頼らなくても日々を贈れるくらいに豊かになった所作なのか、それとも今回の「万博」がまるで話題に乏しいだけなのか。来週あたりから公開も始まり月央には開幕だってのにこの話題の乏しさでは、半年くらいの会期中にさらなる話題のヒートアップを図るのは難しそう。まあその分、静かにゆっくりを会場を見られるから良いんだけど。気候も良くなってから行くとしよー。モリゾー&キッコロに飛びつきに(飛びついてはいけません)。

 その万博の会場に出る「踊るサテュロス」って像が一足早く東京でお披露目されてるってんで上野にある「東京国立博物館」も見物。「大唐招提寺展」が超満員になってる横で果たしてどれだけ入るのか、それもたった1体の像を見るのに800円も払う酔狂がどれだけいるのか楽しみでもあり不安でもあったけど、そこはそれ1000万人からの人口を央擁する首都圏だけあって、場内は「踊るサテュロス」をぐるりと囲む人垣が出来るくらいの混雑ぶりで、東京って場所に住む人の趣味嗜好の多様性に感心する。それとも後援の読売新聞が何か大きく宣伝でもしているのかな?

 像は1998年にシチリア島沖の海底から引き上げられたってもので素材はブロンズ。高さは2・5メートルあって両腕と片脚がないものの胴体と顔はほぼ原型を留めてる。古い以上にどう凄いのかは分からないけど思うのは当時の肉体美って奴が現代の完成とさほど変わってないってことで、分厚い胸板に引き締まった尻の具合は女性のみならず男性すらもほれぼれとさせる。

 後ろに流れる髪型の表現が日本の仏像の、隣で開かれえいる「唐招提寺展」に出てきている、四天王あたりなんかの表現に重なる感じもあるけどそこに果たして関連性はあるのかな。股間についているものだけは現代とも、あるいはミケランジェロがダビデなんかを作った頃とも違う感性があったみたい。被ってて小さいだこれが。身長2メートルでこれなら180センチだとどれくらいになったのか。大小についていろいろ言われて悩んでいる男子は彼女を連れて行って自信を取り戻そう。

 おっと椅子だ。「埼玉県立近代美術館」でやってる椅子の展覧会には座れる椅子も何脚が用意されてて実際に座れて楽しめるのはさっきも書いたとおり。今回の目玉があるとしたらそれはおそらくはgrafってチームが作った「XL」って巨大な椅子で、普通の椅子を1・5倍くらいに大きくしただけなんだけど座ると自分が子供になった気になって、気持ちが緩みイライラとした気持ちが消えていく。大の大人がスーツ姿でこれに座って会議をすると、その滑稽さに堅苦しさが抜けてリラックスした雰囲気で会議が進むって、そんな効用があったのなかったのって先週の「日曜美術館」で解説されていたけど、これが置ける会議室を用意するのがそもそも大変そー。机もやっぱり巨大だったのかな。アンドレ・ザ・ジャイアントとヤオ・ミンだったら普通に座ってそう。座らせてみたいなあ。KONISHOKIだと重さで歪むかなあ。

 有名な柳宗理の「バタフライスツール」にも座れたけれどちょっと小さい。どーゆーシチュエーションで使うものなんだろー。プラスチック製にしてくれたらお風呂場でシャンプー時に使えそうだけどそれだとちょっと高いか。津村耕佑さんの紙で作られたベンチ「ファイナルホーム」シリーズも自由に腰掛け可能。木とかプラスチックといった素材のベンチもあったけど、気持ち的にはこれがいちばん掛けてて心地良い。問題はやっぱり耐久性だけど、値段も値段だしリサイクルも簡単なんであるいはこれからの世界に求められるよーになんるのかも。環境がうたい文句の「愛・地球博」の会場内の屋内ベンチは全部これにすれば良いのに。会場にはコートとして着る「ファイナルホーム」も展示中。特にオレンジ色の奴。米光一成さんが着てて格好良くって買おうか迷ったけど、やっぱり買っちゃおうかな、路頭に迷いそうな時期でもあるし。

 移動の途中は一条理希さんの「ばとる・おぶ・CHUCHU」最終巻「最後の戦い」(集英社スーパーダッシュ文庫、590円)なんかを読了。男装の麗人きたーーーーーっ、と叫んだもののこの巻が最後でさほど活躍もしないまま終わってしまったのがとにかく残念でなりませんので、作者の人には予定を変えて番外編など書いて頂けないものかと遠目にお願いする次第。いやこの登場とそしてイラストだけでも十分に堪能できるんですけどね。

 お話の方は5人の吸血っ娘を倒す力を受け継いだ家系に生まれながらも男子であるため力を発揮できないでいた正太郎が、本格化して来たシャルロットたち吸血っ娘の攻撃にいよいよ秘められた才能を発揮し始めるってクライマックスならではのストーリー。恋するあいに訪れかかった悲運すらも乗り越え進んだ先にある、さまざまな想いの交錯にちょっり泣ける。特にミルフィーユと胡桃の関係とか。人もばんばんと死ぬシリアスな物語なのに主役クラスでは恋だの友愛だのが働いてまるで死なず、コミカルに進むあたりのバランスを、どう捉えるかで評価も変わって来そうだけど大勢出てくるキャラクターたちにそれぞれ見せ場を与えつつ、お話をまとめあげる手腕はなかなか。引き際へと向かわせる手並みの鮮やかさもあって読み終えた時の感慨も悪くないんでこれはこれとして面白いシリーズだったと感じ讃えよう。最終的な評価は次の20年後を描いたシリーズで(と願望も込めて)。


【3月5日】 腰にお肉の余ったビヨンセをどっぷりと堪能した後は若いスティング。ザ・ポリスの「ライブ・ゴースト・イン・ザ・マシーン」のDVD。ステージの裏が草むらになってて、壁みたいなものがあってショボさも漂う会場なんだけどそんなことはお構いなしに、スティングが叫びベースを響かせそれにアンディ・サマーズのギターが重なりそしてスチュワート・コープランドの超絶的なドラムのリズムが刻まれればそこに現れるのは完全無欠のポリスの世界。ホーンセクションの3人が加わってはいるけれど、サウンド空間をたったの3人で作り上げてしまっているその凄まじさに、改めてそのただ者ではなかった様を思い知る。見たかったなあ生で。

 後にトリオのバンドも山と出たけど歌の迫力ビートの凄まじさは感じられてもひとつの空間を感じられる3人組、サポートの力を借りなく立ってそれを現出してしまえる3人組って解散から20年以上経った今に至るまで、現れていないんじゃなかろーか。あのギターあのドラムあのベース、そして何よりスティングの声と音楽のどれが欠けてもそうは成り得ないんだから、他の誰が真似しようたって近づこうたって無理なんだろーけどね。しかしスティング、あんな複雑怪奇なメロディラインのベースを弾きながら良く歌えるよなあ、これも後に誰も真似できてない理由の一つかなあ。スチュワート・コープランドのドラムも誰も真似できないだろーけど。アンディ・サマーズの欽ちゃん走りなら何とか。あのメロディは作れないけど。

 ライブ自体は最後のアルバムになった「シンクロニシティ」が録音される直前の、スターダムを上り詰めて頂点へとあと少しってな所での公演だけにトリオとしての成熟ぶりも堂に入ったもの。入っている曲にはだから「シンクロニシティ」「シンクロニシティ2」に「見つめていたい」は入ってないけどポリス的な不思議感漂う「スピリッツ・イン・ザ・マテリアルワールド」に「ウォーキング・オン・ザ・ムーン」、パンキッシュな感じが残る「孤独のメッセージ」にレゲエっぽさも出ている「マジック」、ある意味で名曲な「ドゥ・ドゥ・ドゥ・デ・ダ・ダ・ダ」と腹8分目にポリスらしさを楽しめる名盤かも。これに「シンクロニシティ・ツアー」のDVDが出れば完璧なんだけど。何で出ないんだろ。

 起き出して開幕なったJリーグの日産スタジアムこけら落とし資材「横浜F・マリノスvsジュビロ磐田」の試合を見に横浜まで向かう途中に西風隆介さんの「SANCTMUMゼフィロス」(徳間書店、819円)を読む。いろいろな気分になる。たとえるならNFLの名クオーターバックと呼ばれたジョー・モンタナを読んできては彼に本を持たせてスタンドへと投げ飛ばしてもらいたいとか、あるいはラグビーのワールドカップで大活躍したイングランド代表の名キッカー、ジョニー・ウィルキンソンに、本を場外へと蹴り飛ばしてもらいたいとかいった感じ? いやつまりそれほどまでに狭いスタジアム内に留めず世間に存在を知ってもらいたいって意味ですね。本当かい?

 未来を伺える不思議な能力を持っていたがために誘われ投資顧問会社の共同経営者に収まった物の思いもかけない事態に会社に危機が迫りマフィアに追われる羽目となった主人公。ニューヨークの路地裏を逃げ回り路地に入り込んだところで何故かバニーガールの格好をした東洋人の少女からマッチを手渡され、それをするとあら不思議、どこかアジアの密林へと迷い込んでは不思議な遺跡の突端へと昇りそこで奇妙な怪鳥やら得体の知れない婆さんと遭遇。したと思ったら再びニューヨークへと舞い戻ってホームレスのような身なりでやっぱり街を逃げ回る。

 あれはマッチが見せた夢? なんて思っていたらそこに再び今度はバニーガールならぬ赤ずきんちゃんの格好で少女が現れ主人公を誘いパスポートも与えてアジアの地へと送り込む。そこで出会った舞踏の踊り手がさらわれ救い出しにいこうとする展開の中で、寡黙な少女だったはずのバニーガールな赤ずきんちゃんが口の悪い奴だったことが分かったりしてちょっと吃驚。したと思ったら今度は目の前にシヴァ神が現れ主人公をメソポタミアの冥界の王と認めてつまりは互いに神様どうしで、それが手を取り合ったと思ったらやっぱり喧嘩を始めたりしたりと激しく仰天。どこに連れて行かれるのか分からない展開と、その展開が意味することがまるで見えないエンディングに戸惑わされて悩まされる。

 あるいは既成概念にある物語とかエンターテインメントといった枠組みに留まらない、新しくいタイプの小説なのかもしれず散りばめられた神々に関する知識から得られることもいろいろとあるのかもしれないけど、割にストレートな物語になれた身には謎が明かされ結末が訪れカタルシスが得られる話でないと一読ではちょっと理解が及ばない。シリーズは続くそーなんでこれは世界の得体の知れなさをとりあえず披瀝するプロローグみたいなものだと理解しつつ、2度3度と読み返してみることにしよー。その上で室伏広治に3回転半から彼方へと投げてもらうかどーかを決めよう。

さすがにここではトヨタカップは出来ません。終わって正解。なら世界クラブ選手権はどこで? 豊田スタジアムだよねやっぱ  到着した「横浜国際競技場」は看板もすっかり「日産スタジアム」に衣替え。日産車が並んだ横では焼きたてのメロンパンを売るワゴンも出ていて、ずらりと並ぶ行列に元選手の山田隆裕さんの凱旋を祝うマリノスファンの暖かさを見る。山田さんは前座で行われた日産のOBチームとそれからヴェルディ辺りを中核にしてJリーグとか日本サッカーリーグのOBによるチームの試合に後半からちょっとだけ出たけれど、お腹がメロンパンみたいになってしまっていると流石に走れないよーですぐに交代してしまった。逸材がその才能をフルに発揮することなく去ってしまうのは寂しいけれどそれからも続く長い人生を着実に自分の物にしている堅実さには脱帽。売れるといいなあメロンパン。

 OBどうしの試合はラモス選手に武田北澤戸塚中村菊地菊原といった読売勢とそれから浅野哲也中西哲生の元名古屋な選手とほかいろいろな選手が参加したチームが読売っぽいパスワークで攻め立てやがて1点を先取するも、我らが名手・木村和司さんが日産スタジアムのこけら落としの試合って意味からもゴール前でフリーキックを蹴る機会を得てこれを見事に叩き込んで同点。その後も再度からのセンタリングを押し込み1点をリードして日産OBチームが勝利して終わるとゆー、まさしくこけら落としに相応しい展開となった。

 これとあとサポーター代表ってことで登場して超絶技巧のギターを披露したチャーのライブを生で見られただけでもお腹は十分、帰ってもいいかなって思ったけれどジェフユナイテッド千葉から移籍した茶野隆行選手村井慎二選手がジュビロで虐められていないかを確認する意味もあってスタジアムで本番も観戦。左サイドに入った村井はやっぱり村井で駆け上がってはボールをもらいかわし絶妙な場所へとクロスを放り込んで得点機を演出する。名波選手にも負けない存在感はなるほど乞われて入団しただけのことはある。見てたかジーコ。日本にいませんてば。残念。

 今はまだ村井は放り込んでもトップでそのクロスにどんぴしゃりで合わせる選手がおらず得点にはならなかったけど、1昨年にジェフでホットラインを作ってたチェ・ヨンス選手とのコンビネーションが復活してくれば、放り込まれたクロスとチェ選手がゴールに叩き込むなりポストになって落として誰かが蹴り込むなりって得点が、増えてジュビロ復活につながるかも。返す返すも惜しい人材をとられたジェフだけど名古屋相手に後半に2点を追いつく離れ業で引き分けたよーでこちらも幸先は良さそう。千葉と岩田の激突が今からとっても楽しみ。いつあったっけ?


【3月4日】 恋する女は怖ろしい。それが生物学的な常態とは一線を画し、時に”道ならぬ”と表現される類の恋なら、余計に渦巻く感情沸き上がる情念は強く激しくなるよーで、邪魔する存在妨げる存在があれば全霊をかけてこれを排除に向かう。ってことで「舞−HiME」は母親が裏切り者だったと分かって落ち込んでいる所に、頼りにしていたチャイルドのゲランにも去られ、半ば呆然として静留の屋敷に引きこもっている玖珂なつきに襲い掛かる影ひとつ。白い裸身を露わにして横に添い寝することもあれば、赤い唇を近づけ唇に重ねることもあったりと、それはもう真夜中の番組に相応し過ぎる光景がテレビの中に繰り広げられる。

 想像だったらもーちょっと、大人の感性を持ったキャラクターで心に秘めたまま陰で支え続け危ない場面でも力を貸しつつ、ラストシーンまで行くんじゃないかと思っていたけどそーゆー偽善っぽいキャラなどこの世界には不要とばかりに、先週当たりから欲望の赴くままに走らせ遂には体まで開かせる展開に。あるいはどこかで人の自制のタガを外す力が働いて、聡明な藤野静留を突き動かしてしまったのかもしれないって思ったけれど、なつきを菊川雪之侮辱された時の即座の反撃ぶりを見ると、抑えきれないくらいに強い熱情を元から持っていて、弱まってしまった相手に同情心も込みで発動してしまったのかもしれない。発情? そうとも言うか。

 んでもっていよいよクライマックスへと向かう物語は、心を黒曜の君に完全に奪われた命が碧と戦闘状態に突入。二三さんは目を虚ろして黒曜の君に付き従って訳に立たず、主役の舞衣は人間的な情愛を捨て去りただひたすらに弟の巧海の復活にかける感じ。離れた場所では恋心に燃えて萌える静留と雪之とのバトルも繰り広げられているよーで、そんなバトルロイヤル状態から抜け出たなつきと再参入する深優の物語への関わりが、この先の展開を大きく左右しそー。それにしても実際になつきの唇へと顔を近づけた時は美しかった静留長が、なつきの夢の中ではどこか欲望ギラギラな感じに描かれていたのが意外とゆーか。緒戦はなつきにはそーした対象としてしか見られていない会長が、今はとにかく不憫です。僕でよかったらお世話しますいりませんかそうですか。

 家を出ようとしたら部屋の中が何やら煙り臭くって、もしかしてどこかで何か燃えているかとドキっとしたけど電気毛布に電気ストーブしか火の気のない部屋で燃えているものもなく、外でたき火でもしているんだろーと思いそのまま部屋を出て10メートルほど歩いたら3軒隣のアパートが火事だった。どーりでさっきから消防車のサイレンが鳴っていた訳だよ。けどこれだけご近所が火事な割には消防士が家々を回って逃げろと言う訳でもなくまた家々から人が慌てて走り出てくる様子も無し。どこか遠くの世界のことだと思っていたのかもしれない。これが災害がいざ我が身に降りかかってもそれが自分のことだと思えないまま押し流され押しつぶされてしまう心理って奴なのか。雪の中で焼け出された人にはとりあえず気の毒と行っておこー。でも安心吾妻ひでおさん「失踪日記」(イースト・プレス、1200円)を読めばどんな雪の中でだって生きていけますから。大根は薄と辛いし厚いと甘い、のだ。

いつでもどこでも犬といっしょの押井さん  取材にかこつけて「日本SF大賞」の授賞式に潜り込む。今回は「イノセンス」で押井守さんが受賞して「愛・地球博」の展示映像を作ってそっちにかかりきりらしー押井さんも東京へとかけつけ出席。マルチメディア関係の賞を受賞した時には代理でプロダクションI.Gの石川光久社長が受け取ることが多かったけど、「はじめはSF作家になりたかった」と言うくらいにSFに強い関心を持っている押井さんだけあって「日本SF大賞」は出ずにはいられなかったのかも。「その本を読んで圧倒されてしまった」ってゆー山田正紀さんがプレゼンターな訳だし。

 嬉しさもひとしおだったよーで雛壇で喋った時間も結構長くて最後は「小説も何冊か書いているので次は是非に小説での受賞を」と言って会場を微笑ませる。「ネクタイをしてこようとも思ったけれどシャツが全部半袖で、この雪の中を半袖で来る訳にはいかなかった」といつもどーりの犬が描かれたセーターで登壇した経緯も話してくれて、押井ファンにはなかなかにたまらない時間を過ごすことが出来たかも。ってか比較的若いSFの人アニメの人で押井さんのファンじゃない人なんていないって。東浩紀さんは「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」の素晴らしさを「月刊アニメージュ」の大野編集長とかに力説してたし会場で。

 重鎮では小松左京さんが来られていて去年の10月の「小松左京賞」の時以来のご尊顔拝見。まだまだ元気そうで何より。歳で言うなら小松さんとそれほど変わらないはずの辻真先さんは選考委員の一人として壇上に上がって「イノセンス」に賞を授与した経緯をひとしきり披露。話っぷりは堂に入ったもので中身も濃くってユーモアたっぷり。押井さんがアニメの世界に飛び込んだ時代にはすでに一線で活躍していた人だってことを考えると、流れた時代の厚さには驚くばかりだしその時代を感じさせない辻さんお矍鑠ぶりにも頭が下がる。人間、かくありたいものだけど果たして。明日があるかもやばいんだよね。ホリエモンは関係なしに。

 バスケットボールのNBAのオールスターに出たって話を聞いて急に聴いてみたくなって「ディスティニー・チャイルド」のライブDVDを買ってきて見たらビヨンセが太ってた。ってそりゃあいわゆる肥満とはケタが違って細いんだけどスーパーモデルもかくやって肢体を持ったシンガーって評判の彼女が脇腹にお肉をつけているのはやっぱりマズいんじゃなかろーか。太股もぱっつんぱっつんだし。まあその分ヒップにつまったお肉の量感もなかなかなものがあってホットパンツ姿で踊る場面を後ろから捉えた映像は迫力たっぷり。太めが好みの人には歓喜をもたらすに違いない。ほかにこれも突発的に聴きたくなって「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」とそれから「ポリス」のライブDVDもまとめて購入。これから見入るんで明日にはモーリス・ホワイトな気分になって踊りながら「セプテンバー」を唄っているかも。誰だグッチ裕三っていう奴は。違うモト冬樹? そりゃ頭はモト冬樹。ほっとけ。


【3月3日】 あかりをつけましょ。しょんぼりに。古すぎて元ネタも忘れてしまった雛祭りの早朝を評判の女性作家など読んで明かす。三浦しをんさんの連作を連ねた形の書き下ろし長編「むかしのはなし」(幻冬舎、1500円)は、第1話では女性を幾重にもまたにかけていたホストが1人に去られ2人に消えられ自殺されした挙げ句に最後はヤクザの情婦に手を出していたことが分かり追われ港の倉庫に隠れて親しかった、本当に親しかった女性に携帯電話でメールを送って辞世の言葉を告げる物語が描かれる。

 アクションと呼ぶにはドラマが足りずうぬぼれた男が破滅する話と言えば言えるけどただそれだけ。とりたてて言う程の目新しさはない。第2話目は飼っていた犬の話で川から流れてきたその犬を助けて老いさらばえるまで飼ったって物語で、犬の散歩中に溜めた家を観察するノウハウを活かして空き巣になった語り手の境遇と、訪れた運命に可笑しさはあるけれど、何かメッセージや教訓を得られるかってゆーと展開に意外性とかがなくどこか物足りなさを覚える。

 3話目は14歳だか歳の離れた叔父に恋する少女の話で体も重ね結婚も希望するけど適わないとゆー、性の話を集めた投稿集に載っても違和感のない、かといって性の最先端を読ませるには冒険の足りないもエピソードって印象を読む人に与え、そこでページを閉じられかねない。

 だがちょっと待て。そこでページを閉じてはこの「むかしのはなし」は絶対に損をする。田舎の入江で暮らす男の所に都会から同級生が大人の女性を連れて返ってきたエピソードが綴られる第4話から物語は大きく転がる。暴走をして爆発をする。すべてのチャネルを使って政府から何か告げられたとこを境に世界の様相は激変し、世界や社会や組織や国といった中に埋没し翻弄されていた個人が個人として屹立しては、それぞれが決断を迫られる。生きて生き抜くべきなのか。座して運命を受け入れるべきなのか。過酷な状況に直面した人間が取るさまざな行動が、読む者に流される生き方を是とするべきかはたまた非とすべきかを考えさせる。

 登場人物たちの身に降りかかったことが何なのかは読んでのお楽しみ。言えるのはどんな事態に直面しても己が己で有り続けることが出来るのか、って命題でそれをなし得た人たちの潔さを格好良さを見て惚れるもよし、徹底的にしがみついて未来を目指し突っ走るも良し。小説の中ほどではないけれど、生きていれば1つや2つは必ずや直面する岐路とゆー奴を、どう受け入れ咀嚼し脚を踏み出せば良いのかを教えてくれる小説だってこと、だろー。

 印象を語れば吉野朔実さんの描いた短編連作「いたいけな瞳」に近い雰囲気。不条理だったり奇妙だったりするシチュエーションの中で様々に振る舞う人間たちのエピソードが、キャラクターだったりシーンで少しづつ重なって1つの物語をそこに現出せしめる手法がちょっと似てる。あと雰囲気も。いっそだったら草思社版の「格闘する者に○」の藤原薫さんと同様に、表紙を吉野朔実さんにお願いすればそっち系のファンには受けただろー。ちなみに新潮文庫版の「格闘する者に○」は普通のイラストの表紙でちょと残念、目立たない。

 けどそこはそれ、そろそろ大ブレイクをして欲しい才能を広めるにはシンプルな表紙にしておくのが良かったってことなのかも。何しろベストセラー続出の幻冬舎。なので「むかしのはなし」も「キッパリ!」同様に広告をバンバンやってもらって10万部100万部を売ってもらおーではないか。でもってその後は吉野朔実さんによる漫画化後だ。

 印象を言うなら「はやまったなあ」って感じ? あるいはちょっと取り乱しているってゆーか。ライブドアの買収攻勢を受けているニッポン放送の社員が何やら総出でライブドア反対の声明を出したとか。基調は経営陣が出した方針に従いますってことらしーけど、その経営陣が行った対策の是非が唯今現在、法廷の場で争われている時に経営陣見方するってのはちょっと如何なものかって気もしないでもない。仮に法廷で株主のことを考えない手法だから認められないって処分が出た時に、それを支持した社員はすなわち株主のことを考えず自分たちのことしか考えなかった人たちだって言われかねないから。

 それでもやっぱり現経営陣の方針は正しいんだと支持するのは、企業社会に生きるサラリーマンとしては半ば当然な行為かもしれないけれど、こと世の中に公共性を説きそれをライブドア拒否の拠り所にもしているメディアの人間が、公正性を欠いていた行為に荷担する可能性のあることに、結果も見ず検証もしないまま手を挙げ賛意を訴えたことにはやっぱり「はやまったなあ」って印象を抱く。審訊の結果を待ってそれがニッポン放送に軍配を上げたものだと見極めてから賛意を表明するなり、ライブドアに軍配が上がったならそうした施策を取った経営陣に苦言を呈した上で、それでもやらざるを得なかったと自分たちの意見もそこにこめてアピールして欲しかった.

 とゆーか経営陣の苦言は現段階でも盛り込んで欲しかった気もしないでもない。事の発端は株式が自由に売買され得る状況すなわち望まぬ相手に買われる可能性を、意図するとせざるとに関わらず放置してしまった経営上の戦略ミスがある。相手の取った手がグレーゾーンだったとしてもそれは決して黒ではない。いかがなものかとは言えても真っ向から否定しては法治の理念をも否定することにつながってしまう。糾すべきは糾した上でなおかつやっぱり放送メディアの公共性を維持する観点から、現状の経営が維持されることが株主的にも望ましいので現経営陣に賛成するってなロジックを組み立て見せて欲しかった。今回の声明じゃああまりに経営陣と一心同体少女隊、だよなあ。

 さらに言うならトップに誰が来たって関係ないぜ、自分の思惑だけで動かそうとしたってそうはさせない、俺たちゃ信念に基づき作りたい番組を作る、視聴者が求める番組を作り続けるだけなんだ、それでも買う気なら買ったらいいさ、覚悟しておくんだな、それが出来ないんだったらお引き取り願おうぜ、ってな気概を込めた声明を発表しては、世間からやんやの喝采を浴びて欲しかった気がとてもする。

 現経営陣の言い分をそのまま受け入れるって声明は、つまりフジテレビジョンの強い影響力にあってこそ経営が成り立つんだってゆー、メディアの公共性や独立性とどこか相容れない理論を、ニッポン放送の人たちが上から下までまるまる受け入れてるってことにはなりはしないか。買収されたって今の俺たちと付き合っていた方が得だぜってことをフジテレビ側に思わせ、手放せないよーなパワーを見せつけてこその天下に轟くLF人って奴じゃないか。

 それで手放すんだったら狭量な奴と笑い飛ばし、別に活路を見出し凄い番組を作り凄いスポンサーを集め見返すくらいの根性を、ここで見せれば後になっても語り伝えられたよーな気もするけれど、これはまあ理想に偏り過ぎる人間の、現実を見ていな戯れ事であって、現にライブドアから迫られているプロポーズに怖気を奮っている人たちにとっては、至極当然の反応だったと深い理解を示しておこー。まずは審訊の結果に注目。次に打つ手はそれからだ。


【3月2日】 公務員の戦争だろーと結婚だろーと言われた職務なら忠実に、それも形式的に遂行する様を描いてこの社会の惰性っぷりを感じさせてくれた三崎亜紀さん「となり町戦争」(集英社)も優れて批判性に富んだ作品だったけど、現実の公務員の世界が持っている不条理っぷりは架空の寓話なんて目じゃないくらいに凄まじい様子。山本甲士さん「とげ」(小学館)に描かれている関西のある都市の市役所に勤める公務員に起こった事件は、まこと公務員って仕事の非効率ぶり、形式ぶり、そして益体のなさを突きつけて来る。

 主人公は市民相談室に務める倉永晴之という男。役職は主査で上には課長がいて下には使えない部下がいるとゆー中間層で、その関係でいつも仕事で割を食わされ参っている。本来だったらあくまで相談窓口であって中身を聞いてそれが公園の金網の破損していて子供がケガとしたとゆー話だったら、公園を管理する課へとつなぎ修繕を依頼すれば済むものを、お役所仕事の常とゆーか面倒な仕事は背負い込みたくないとゆーことなのか、金網で子供がケガをしたのは本当なのかと問われそれを確かめて来いと言われ確かめた後の修繕もついでに自分でやってこいとまで命令されて、けれども逆らえず粛々と仕事をこなしては部下に冷たい目で見られる。

 公園にワニがいると言われればそれも見に行かされる羽目に。家に帰れば子供が学校でイジメをしていると先生から言われさらには妻が酒気帯び運転で交通事故まで起こすといった具合に、次々と災難が巻き起こる。そんな晴之に転機が舞い込む。用水路を繁殖力の強い浮き草が埋め尽くしていることを強く訴えそれが市役所でもエリートコースを走る若手課長に回りそのまま市役所の中で改善をしよーと集まった人たちのグループに招き入れられることになる。その会合の流れで出会った飲酒中の市長から、突き飛ばされケガを負わされるという事件にも遭遇して晴之は自分が惰性で歩いてきた道を飛び出し、自らの決断で道を開こーとする意欲を持つ。

 もちろん事はそう簡単には運ばず市長からの懐柔もあれば上司を通しての恫喝もあって晴之の道は揺れ動く。遂には自分たちのグループで押し立てた市長候補が落選するとゆー憂き目にあって将来の展望も真っ暗になってしまう。けれどもそこは開き直った中年男の心意気。起死回生の一策を、半ば周到に進めて人生の大逆転を成し遂げる。いささか卑怯な部分も見えない訳ではないけれど、自分のためだけっていったギラギラした感じの成り上がりストーリーへと流れず最後まで誰かのために何かをしなければならないとゆー、意志が貫かれている部分が読み終えて心地よさを感じさせてくれる。

 一方ではすべてを行政に任せきりにして自分で出来ることでもやらない市民たちの怠惰で無責任な様も指摘されていてなかなかに痛快。道ばたのゴミは自分で拾えばそれだけ街が綺麗になるし、金網が破れていたら自分で繕えば知り合いの子供もケガをしない。そーした行動が普通にできなくなってしまっている、今の社会の不思議さが「とげ」ではあぶり出される。

 大阪あたりでは公務員の非効率ぶりがやり玉に挙げられていたりするけれど、非効率になってしまったのは公務員が自分の至福を肥やそう都市からだけじゃ決してない。何もかも公僕と押しつけてしまう市民の限度を超えた依存心、裏返せば自らの無責任ぶりもそこには何らかの陰を落としていたりする。そんな鬱屈して閉塞感の漂う組織の中から、あるいは市民の名かから正義なんて大仰なものじゃなくても構わないから普通に、真っ当に世の中を明るくしていこうって意欲を持って動き出す人が、この「とげ」なんかを読んで出てきてくれたら面白いかも。お前がやれ? いやだって面倒くさいし。

 TV番組の敏腕プロデューサーとして名高いマーク・バーネットは言う。「有名人を引きずり降ろす欲望を満たしたメディアが次に望むのは、カムバックさせること」だと。「ニューズ・ウィーク日本語版」の2005年3月9日号に掲載されている、アメリカのカリスマ主婦、マーサ・スチュワートに関する記事によると、インサイダー取引の罪で起訴され裁判となり出た一審の判決をそのまま控訴せずに受け入れ服役したマーサ・スチュワートへの支持が、全米では急激に高まっていて近く出所したマーサが再びカリスマ主婦の座へと返り咲く可能性が高いとゆー。

 もちろん悪あがきをせず服役したって所がマーサ・スチュワートの場合は大きなポイントだったんだろーけど、いったん黒のレッテルを貼られた人でもそれを償えば認めるところが”自由の国”の面目躍如。事件を起こして獄中に入っても会社は潰れることなく健在で、雑誌も広告こそ減ったもののちゃんと発行され続けていた辺りも、罪人の周囲をすべて黒と見なして徹底的に叩きに回る日本とはやっぱり事情が違う。無印良品が有楽町の店に開いた「マーサ・スチュワート」のコーナーは今ないし、SSコミュニケーションが刊行した日本版もとっとと廃刊になったからねえ。

 一方でバーネットを筆頭にメディアの仕掛け人たちの辣腕ぶりもテレビ先進国の米国ならではってところ。マーサ・スチュワートの雑誌からマーサ・スチュワートの色が消えかかっていることに危機感を抱き、服役中の当人に会いに行きそこで格子柄の上着に縞のシャツを着てきたバーネットを見て「なんてステキなの」と言い記念撮影しよーとしたマーサ・スチュワートの姿に「隠れたユーモアの才能」を見てテレビ番組への起用を思いつく。日本だったらまずそんな発想は出てこない。

 なおかつドナルド・トランプの「お前はクビだ」で知られる「アプレンティス」って番組のマーサ・スチュワート版を作ってそこに出演さえてしまう実行力。何かあればトカゲの尻尾切りよろしく問題を起こしたタレントを切り、ほとぼりが醒めたころにこっそりと出してお茶を濁すのが関の山の日本と比べて、その堂々っぷりには良いか悪いかはともかく頭が下がる。ともあれ敏腕プロデューサーに名音楽プロデューサーも加わり動き始めた「マーサ・スチュワート再生プログラム」が成果を上げるかはこれからの展開を見てのお楽しみ。イメージのダウンした経営者なりタレントが、失地回復を図るプログラムの手本として、騒動の渦中にある経営者とかタレントは成り行きを眺めておいた方が良いかも。「堤義明再生プログラム」なんて考えて提案してみよーかな。

 秋葉原の店はたいていが売り切れ中の「ボトムズ箱」を探し歩く気力もないんで1店舗だけのぞいてそこで大貫妙子さんの古いアルバム「MIGNONNE」と山下達郎さんの「イッツ・ア・ポッピンタイム」を買って帰って聞く。「MIGNONNNE」はちょっと前に買ったベスト版に入っていて気に入った「海と少年」が入ったオリジナルアルバムで、どこかで聞いたことがあると記憶を探って矢野顕子さんが唄っていたことを思い出した。槙原智教さんも唄っているそーだけどそっちの印象はまるでなし。でも優しげな声の人だけにイメージは何となく浮かぶ。似合ってるかも。調べるとライブでこの3人が一緒に唄ったこともあるらしく、聞きたかったよおと歯噛み。ライブも行かなくちゃいけないかなあ。達郎さんはアナログもあるし前のバージョンもあるしリマスター盤も買ったけどリマスター盤を実家に送ってしまって手元にないため再購入。何度聴いても良いものは良い。ライブに行きたいなあと痛感。でもチケットが。取れないしそもそもライブが始まらない。生きているうちに見られるか達郎。


【3月1日】 コミケで買った直筆のミャアちゃんだかは雑然とした部屋の中でも被害の及ばない棚の上へと上げて置いて大事に愛しんでいるけどでもやっぱり、イラストよりは漫画の新作が読みたい吾妻ひでおさんに待望のコミックスが登場。仕事に嫌気が差して失踪していたホームレス時代の境遇にアルコール依存症で入院していた時代の様子なんかを描いた実録漫画だけど、そこは流石に吾妻ひでおさんだけあって辛さが吐露されていて読んで痛みを覚えるとか、逆に自慢話に偏って鬱陶しさを覚えるとかってのが一切無しに、エンターテインメントとして諸々のエピソードを楽しめる。

 まず感動したのは11月にホームレスとなっても一冬をちゃんと生き抜けるってこと。街へと出向いて寒さをしのぐ場所で夜を過ごすんじゃなく山の中で筵にくるまり夜を眠る生活なんだけど、全身の骨がきしんで凍死寸前になっても死なずにちゃんと朝を迎えることが出来るらしー。食べるものは野生の大根が畑にいくらでもあって(野生じゃねえ)それを抜いて薄く剥けば辛い大根、厚く剥けば甘い大根を堪能できるとか。サラダ油もすすれば立派なエネルギー。なるほど猫またが行灯の油を舐めるってのも理に適った行為なんだなあ。

 漁れば食べ物はそこいらじゅうに落ちているらしーし、料理する方法もそれなりにあるよーでいざ自分がそーなった時に備えていろいろ勉強できる。とは言え吾妻さんがホームレスをしていたのはもう10年以上も昔の話で不景気が続き街に山野にホームレスの溢れかえった昨今で、同様に食料が手に入れられるかどーかはなかなか微妙な感じ。まあ吾妻さんみたく街ではなくって山へと向かえば良いんだろーけどそっちはそっちで食べ物がなく降りてきた熊とかと奪い合いになりそーだからなあ。闘って勝てる体力を養ってから山へと向かおう。倒せば食料になるし。食料にされる可能性? そっちの方が大。

 復帰してからアル中になって入院した話はホームレス時代と違ってキャラクターに女性が増えて、吾妻キャラの可愛さっぷりを堪能できてとても幸せ。タバコのお金を渡した渡さないで吾妻さんを困らせたうそつきナースはその嘘つきっぷりも含めて可愛いいし、いっしょに入院していたN崎夫人って人も夫人なのに若くてとっても美しい。実物との差は果たしてどれくらいあったんだろー。もしかするとシスターなのかもしれないT木女王も性格は怖ろしげで顔にしわが描いてあってさえ跪きたくなる可愛らしさ。そんな女性を描ける腕があってさえ仕事に見切りを付けたくなる辺りに吾妻さんの天才ならではの葛藤があるんだろー。ともあれ復活おめでとうございます。

 巻末のとり・みきさんとの対談も読み応えたっぷり。とりわけとりさんが吾妻さんの作画方法について指摘した部分はなかなかなに示唆に富んでいて、1枚を3段に切って中に顔とかバストショットしか描かない漫画家が増えている中にあって、4段に切って1コマにちゃんとキャラクターの全身を描き背景もデフォルメされていてなおしっかり何だと分かる絵柄で描き込んであって「分離してないものですね、背景とキャラクターが」ととりさんに言わしめる程、漫画として高い完成度をこの「失踪日記」は持っているらしー。不幸な境遇を客観視し醒めた視線で描く。本当のことを本当に描いてそれでおかしさもちゃんと醸し出す。40年近くを活動して来た漫画家のこれが実力って奴なんだなあ。だからとりさんも漫画を描こう。「石神伝説」の続きを。

 「SPA!」の課題図書に「もえるるぶ」(JTBパブリッシング)が混じってて振り分ける側も人を選んでいるのかと想像。発売されるって聞いたときには街案内にちょっぴりオタク趣味をまぶしつつ漫画点とかフィギュアショップを紹介する程度かと思っていたらこれが間違い。イントロからいきなり脚の間の白をのぞかせる美女に美少女を登場させては冒頭で秋葉原のそれも細かい店まで網羅しなおかつメイド喫茶なら写真も添える徹底ぶり。撮影に行くだけでも手間暇かかっているはずで、その編集スタンスの本気ぶりに素直に脱帽する。

 それでも秋葉原だけなら1日2日もあれば回れるけれどこれに池袋が加わり新宿に総武線沿線に中野ブロードウェイにその他諸々の玩具から漫画からフィギュアから喫茶店から何から何まで載っていない店はないってくらいの網羅ぶりで、いったいどれだけの時間をかけて取材し記事にしたのかとその苦労を偲んで感涙を滴らせる。巻末に近い部分ではオタクの殿堂「コミックマーケット」の後に寄る店の紹介までしてあって、その章の扉を「新世紀エヴァンゲリオン」のタイトルを真似たデザインにしてある凝りっぷり。正直言ってとっても使えるガイドブックに仕上がっているんで東京近郊に在住の現役のオタクも、東京のオタク歩きに憧れている人も買って損なしの優れた仕事と認め讃えよう。オタク大賞、間違いなし! オタク大賞って何かあんまり知らないんだけどね。

 150センチはとてもないチビっ子でバックにまとめた髪型で頭が禿げてるって思われがちな少女が実は希代の殺し屋で、頼まれホテルに乗り込み敵のボディーガードをしていたかつての師匠をうち破って名を挙げその腕前をさらに働かせるため日本に乗り込み大活躍を果たす漫画、って思って1話を読んだのに続く話は弱々しい美少女の中に眠る獣が目覚めては、ちびっ子の殺し屋すらも上回るバトルを見せていつかは2人の対決が、あるのかと思ったらこれがどうして第3話では華道の宗家の娘で生け花の天才ながらもその実プロのボクサーですら倒す腕前を持つ美少女が、幼なじみのボクサー相手に一度は曲げて鍛え直してうち破る感動の物語へと転じてはてさて、誰が主役で誰が1番強いのか、読んで悩んだけれど一方で闘う美少女がわんさと出てきて楽しめたんでむしろ絶賛を送りたい。高遠るいさん「シンシア・ザ・ミッション」(一賽舎、552円)に幸あれ。


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