失踪日記

 2004年12月に「東京ビッグサイト」で開かれた「コミックマーケット」の会場で、「ミャアちゃん」が直筆で描かれた同人誌を見つけた時は驚喜した。あの吾妻ひでおが描いたミャアちゃんが手に入る。その価値を図る単位はこの世界には存在しないけど、敢えて日本の貨幣価値になぞらえるなら、付けられていた8000円は破格ともいえる値段だろう。

 ミニスカート姿のミャアちゃんが、脚を広げて本を手に持ち微笑んでいるイラストレーション。その寸分の狂いもない吾妻絵に、偉大な漫画家の偉大な才能を改めて見せつけられる。彼が商業誌にてその才能を発揮しなくなってから久しいことへの寂寥感も湧いてくる。もっともだからこそこうして直筆のイラストが、破格の値段で手に入れられる僥倖に見えることもできるのだけど。ことほど左様に世の中というやつはままならない。

 購入した直筆のミャアちゃんは、雑然とした住まいの中でも積み重なっていく本の下敷きになるような被害の及ばない棚の上へと納めて日々愛で愛しんでいる。それでもやはり新作の漫画が、吾妻漫画が読みたいという世界からの叫びにようやく応えてくれたのか。ここに待望の新作漫画が収録されたコミックスが登場した。

 イースト・プレスから刊行された「失踪日記」(1200円)は、漫画を描く仕事に嫌気が差して失踪してしまった吾妻ひでおが、ホームレスをしていた時代の境遇を描いた実録漫画と、アルコール依存症で入院していた時期のドタバタとした日常を描いた実録漫画をまとめたもの。それ故に「やけくそ天使」や「不条理日記」のようなフィクションから放たれる、どこへ導かれるのか分からないような破天荒さはあまりない。

 もっともそこは天才・吾妻ひでおだけあって、苦労した日々の辛さが直裁的に吐露され、読んで痛みを覚えさせられるとか、逆に自慢話が延々と垂れ流されて、鬱陶しさを覚えさせられるといったことはなく、エンターテインメントとして吾妻ひでおが経験した苦闘と苦悩の日々が綴られた諸々のエピソードを楽しめる。

 読んでまず驚いたのが、11月にホームレスとなっても一冬をちゃんと生き抜けるのだという事実。街へと出向いて寒さをしのぐ場所で夜を過ごすのではなく、山の中でムシロにくるまり夜を過ごす生活だけど、全身の骨がきしんで凍死寸前になっても死なずにちゃんと朝を迎えることが出来る。というより出来たからこそこの本がここに刊行された。

 食べているものも実に多彩。は野生の大根が畑にいくらでも生えていて(野生じゃないぞ)、それを抜いて薄く剥けば辛い大根、厚く剥けば甘い大根を堪能できるという。サラダ油もすすれば立派なエネルギー。なるほど猫またが行灯の油を舐めるってのも理に適った行為なのかもしれない。

 漁れば食べ物はそこいらじゅうに落ちているらしく、缶をくりぬき炭を燃やして料理する方法もあってそれがイラストレーションによって紹介されていて、いざ自分が同じ境遇に陥った時に備えていろいろと勉強できる、貴重なハウツー本にもなっている。

 とはいえ吾妻ひでおががホームレスをしていたのはもう10年以上も昔の話。不景気が続き街に山野にホームレスの溢れかえった昨今で、同様に食料が手に入れられるかどうかはなかなか微妙。吾妻ひでおのように街ではなくって山へと向かえば他のホームレスとのバッティングは避けられるけど、一方では異常気象で食べ物がなく山から麓へと降りてきた熊と食料の奪い合いが起こりそう。なので山へと向かう人は闘って勝てる体力を養ってから実行に移そう。倒せば食料になる。倒されれば食料にされるけど。

 復帰してからアル中になって入院した話は、ホームレス時代と違ってキャラクターに女性が増えて、吾妻キャラの可愛さっぷりを堪能できる。これはとてつもない幸せだ。タバコのお金を渡した渡さないで吾妻さんを困らせたうそつきナースはその嘘つきっぷりも含めて可愛いいことこの上なし。いっしょに入院していたN崎夫人って人も夫人なのに若くてとっても美しい。

 もしかするとシスターなのかもしれないT木女王も、性格は怖ろしげで顔にしわが描いてあってさえ、足下に跪きたくなる可愛らしさ。そんな女性を描ける腕があってさえ仕事に見切りを付けたくなる辺りに、吾妻ひでおの天才ならではの葛藤があるのだろう。天才の心天才のみぞ知る。その境地に少しでも近づくべくこれからも精進に励みたい。

 巻末に収録された漫画家のとり・みきとの対談がこれまた読み応えたっぷりの内容。とりわけとり・みきが吾妻ひでおの作画方法について指摘した部分は、漫画批評を行う上でも漫画の実作を行う上でもなかなかの示唆に富む。

 原稿用紙の1ページを3段に分けて中に顔とかバストショットしか描かない漫画家が増えている中にあって、4段に切って1コマにちゃんとキャラクターの全身を描く。背景もデフォルメされていてなおしっかり何だと分かる絵柄で描き込んであって、「分離してないものですね、背景とキャラクターが」ととり・みきに言わしめる。描かれているエピソードのみならず、漫画として高い完成度をこの「失踪日記」は持っているということらしい。

 不幸な境遇を客観視し醒めた視線で描く。本当のことを本当に描いてそれでおかしさもちゃんと醸し出す。40年近くを活動して来た漫画家のこれが実力という奴なのだろう。ともあれ復活を喜び、なおいっそうの活躍をここに願おう。活躍し過ぎて「コミケ」で直筆の「ミャアちゃん」が買えなくなる日が来てしまうのは寂しいけれど。


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