縮刷版2000年8月中旬号


【8月20日】 レトロにフューチャーな書体が一時期大流行してデザイナーさんが使いまくってたけどそこは流石は次号から晴れて「月刊誌」になる「サイゾー」様、9月号のデジタルテレビ糾弾記事に使ったフォントは40代の元闘士には懐かしい「立て看」書体のブラッシュアップ版で、見た目に権力と戦わなくっちゃヤングじゃないってな気持ちを引き起こしてくれる。のは良いとしても中の本文でアイキャッチよろしく添えられている美少女の水着写真はいったい何? 立て看板には絶対に見られなかったユーモラスにコマーシャルなスピリットは、ただでさえウザったいアジ文で高揚した気持ちをムニュムニュとした肢体でもって和らげてくれる、いやいやご立派、こーゆーセンスを晴れて「月刊誌」になっても忘れないで欲しいものです、まるで学生の書いたアジビラなみにサヨクな某巨大新聞でも使って頂きたいセンスです。

 押井守さんの世代だったら青背じゃなくって銀背の方が気分かなー、とか思ったけどそーゆーのを「サイゾー」に期待するのも間違ってるんで気にしない。しかし「現実の体験が人間をつくるというなら、妄想それ自身も瓶源をつくるのだ、と僕は言いたい」は二次元にふくらませた妄想の中にズッポリと遊んで抜けられない人間にとって有り難いお言葉。「僕がつくる作品と僕の実人生における体験との因果関係というものも皆無に等しい」って自分の空想体験に確たる自信を表明できるクリエーターがいるってことに、「マンガばっかり」「アニメばっかり」「SFばっかり」と非難されてる僕も君もあなたも私も、もっと希望を持って良いのかも。だとしたら犬は何のSFから来たんだろー、鳥は、立ち食い蕎麦屋は。幾ら作品に原体験めいたものを求めるなって言っても、あれほどまでの拘り様に、やっぱり何か原体験なりを求めたくなるよなー。

 2時間並んで開場から30分以内に入場するなんてチカラワザを出せるほどには、購買意欲も体力も財力も夏バテ気味で停滞している関係で、9時半頃に家を出て有明に到着したのがだいたい午前の10時40分。それでも観覧車へと続く陸橋部分にまで及んでいる行列の最後尾へとくっついて、ゾロゾロと歩いたり止まったりすること約20分。西館から東館へと続く渡り廊下で「VIP」とか「Press」とかってなご大層なワッペンを首から下げた「ワンフェスエリート」たちが歩いていくのを横目で見ながら隊列を崩すことなく東館の2回部分を東口までいったん歩いてそれから階段を降りて、どうにかこうにか「ワンダーフェスティバル」の会場へとたどり着く。

 不思議にも今年の冬の時には届いた招待状が、仕事の都合でいけなかったせいなのかそれとも単純に前が単なる誤配だったのか今回は届かず、空振り即アウトとはさすが浪速の商人締まりがよろしゅうおま、とか思ったけど首から「Press」とか「VIP」とかぶら下げて玩具を買って回るのも精神的に結構よろしくなかったりするんで、一般で入場して条件イーブンの中を汗だくだくさせながら駆け回るのがやっぱり道として正解かも。個人的にはともかく会社的には一応は新聞で一応はおたく業界を担当してたりするんで、「ワンダーショウケース」のプレスリリースくらいは届いても良さそうには思うけど、個人的な意識はともかく世間的には認知度ゼロなんで眼中にないのも当然っちゃー当然か、まあ前と同様気にいったら勝手に紹介するだけのことなんだけどね、資料とかカタログにちゃんと書いてあるし。

 ざざざっと歩きつつ「H.B.Company」で噂の「尻子田にう子インパクトモード」が瞬殺される瞬間をながめたり「ぐるぐるマルチ」が瞬殺された跡を確認したりちよちゃんのお下げは取り替え式じゃないのを確かめたり、海洋堂のブースで噂の「ニコラス・D・ウルフウッド」の限定カード入りアクションフィギュアを列もそろそろ途切れようかとゆー時に並んでささっと購入したり、ウルフウッドの原型を担当した浅井真紀さんがやってる「f−face」で普通の人でも手軽に始められるガレージキットの入門書&参考フィギュアのセット「ガジェット・ドライバー」を購入したり、「時代劇フィギュア」のアルフレックスに行って悪代官人形に千両箱と鯛がおまけに付くことを発見したりしながら散策、あとガイナックスのブースで来年の「日本SF大会」の参加申し込みもやっておく、「ワンフェス」以上に「VIP」とか「Press」とかとは縁遠いし、何より「SF」へのこれはお布施みたいなもんだし。

 これまた噂の「Project Ko2」の最終形態にあたる3段変形戦闘機美少女の展示に仰天、いや変形ギミックそのものには「マクロス」のバルキリーからガウォークへと遂げる変形や、「トランスフォーマー」「ビーストウォーズ」「ゴールドライタン」なんかで遺伝子のレベルにまで擦り込まれてたりするんで「ふーん」ってなもんだったけど、胴体の前面が肩あたりを支点にしてガバリを開いて戦闘機の機種になる変形を行う関係上、胴体の真下についてる女性器が機種の先っぽに来てまるで「ヤマト」の波動砲よろしく見る者に対峙するよーになってしまった変形の仕組みに、どこかセクシャリティを隠蔽してエッチなんだけど猥褻にはならないよーに自制するおたくの限界を挑発するよーな作り手の意図なり哄笑を感じる。

 それが村上隆さんの案なのか、変形ギミックなんかを極めておたく的発想で反射的に描き上げたあさのまさひこさんの案なのかは分からないけど、「おまえらホントは好きなんだろ?」的強気が作品からほとばしっていて見る者の内心を激しく衝く。とはいえそーいった感慨を抱けるのも、ベースとして過去の「vsおたく」から「inおたく」へと移り変わっていったプロセス、フィギュアとゆー文化の成り立ちを現況を知っているからであって、普通一般の人が見たらやっぱり「3000万円エッチフィギュア」でしかないんだろー。アートとおたくの垣根をいくら村上さんの3年余りに渡る奮闘がぶち壊しても、世間、とゆーかオヤジが率いるオヤジの感性でもって塗り固められたメディアの殻をこじ開けるとろこまではいっていないのが、同じメディアに身を置く者として何か情けない。と思っても「ワンフェス」からも「アート」からも相手にされず、情報なんてまるで届けてもらえない当メディアなんで、言っててちょっと切ないものがあるんだけど。「VIP」ですか。

 東浩紀さんにあさのまあひこさんを交えたトークショーは、喋る2人に村上さんがいちいち納得していくいつもながらのパターンで、動き始めたプロジェクトを何らかの権威筋に乗せるために言葉を紡いでも、根幹の部分ではアーティスト的「天然さ」がやっぱり村上さんにはあるんだってことを確認する。その意味では遺伝子のどこかにおたく的なものが村上さんにはあるとは思うんだけど、一方で「アート」に反応してしまう遺伝子を大量に持っているがために、本格的なおたくにはなれなかったんじゃなかろーか。有名なアーティストの作品を一言のもとに「つまらない」と斬って捨てられるあさのまさひこさんは、ゲノムのレベルまでおたくって訳で、そんな感性の徹底ぶりが時に糊代の部分を削り取って摩擦を引き起こすってことなのか。東さんは哲学遺伝子とおたく遺伝子が分裂交合を繰り返してごっちゃになり始めている真っ最中なんで、末代にどんな影響が出てくるのか要観察ってとこで。

 しかし鎌倉時代の仏像がガレージキットでもうちょい時代が下がってリアルにギミックが加わるようになった仏像を最近の部品取り替え自由なアクションフィギュアやドールに例える村上さんの突き抜けぶりには頭が下がる。横でふんふんと聞いていたあさのまさひこさんが言葉を選んで答えていたのが面白かったけど、ホントはどう思ったのか機会があれば聞いてみたいところ。分かりやすいたとえではあるけれど、ガレキが温い玩具へのアンチとゆーか一種の補完で始まって造形技術で突き抜け市場を発生させ、それに玩具が目を醒まして技術を育みようやく追随して来た流れがあるだけで、あさのさんがよく言う「ガレージキットスピリッツ」はガレージキットがアクションフィギュアでも変わらず脈々と受け継がれている訳で、仏像の鎌倉時代を最高潮としてどこか衰退していく流れにガレージキットからアクションフィギュアへの流れを重ね合わせるのは、ちょっとそぐわないよーな気がするんだけど、どーだろー。

 ドールは女児玩具から続く別の文化にリアルさの「ガレージキットスピリッツ」が混じったよーに見えるんで、進化の系統樹につなげるのはやっぱり難しいよーな。まあ人によって「ガーレジキット」の定義も「ドール」の定義も「アクションフィギュア」への期待も違うんで、どうだとはっきり言うのは無理かも。そうは言っても、やっぱりどことなく「ガレージキット」に対して過剰気味な思い入れが村上隆さんにあるみたいで、圧倒的なギミックなり徹底的なディティールを誇る昨今の「アクションフィギュア」の良さを知らず、植毛してパーマして目をプリントして服を縫って、ネジからボルトからあらゆる物体をどうすれば6分の1の世界に適応させられるかを考え続ける奥深い「ドール」の道も踏まないままで、村上さんをこのままおたくの世界から「卒業」させるのも早計な気がしないでもないけれど、とりあえずは今回の「ワンフェス」を最後に「Project Ko2」を終えた村上さんが今後どれだけの「天然」さでもってアートの世界を賑わせてくれるのか、およ呼びじゃないし事実呼ばれてないけれど、「カラオケ甲子園サッポロ」なる奇妙な文句が岡田斗司夫さんの名前も含めて書かれたチラシを谷中のバスハウスで手にした時から、西館での初登場を経て今日の「卒業」までをウォッチし続けた身として、ふすまに穴あけてジト目で見守っていきたい、迷惑を省みず。


【8月19日】 「e−BOOKOFF」から荷物が届く、午前中と指定しておいた時間にストライクなのは嬉しく、ニッポンの運送会社のサービス向上に向けた努力の甲斐を見る。こーゆー便利さがあって初めてネット通販の市場も伸びるんだろーけれど、その影でまとめで運んで一度に届けるってな効率が犠牲になっている可能性もある訳で悩ましい。エネルギー問題云々、環境問題云々と言ったところで人間の結局は便利さを求める欲望に、地球なんてひとたまりもないってこと、ですか。わかっちゃいるけどやめられない。届いた竹宮恵子さんの「疾風のまつりごと」全2巻は前に「月蝕歌劇団」で芝居を見て以来、探していたけどマイナーだったためか地球(テラ)ても風と木に詩ってもなかったためかあんまり見かけなかったんでちょっとラッキー。値段は棚にあるよーな100均じゃなかったけど、「まんだらけ」並の多分価格だから、まあいっか。

 あぽさんの「ワインカラー物語」(白夜書房)は新刊時には多分帯があったと思うから届いたのは帯なし、でも本自体は確か部屋のどっかに埋もれているやつより美麗かも、ホントどこに埋もれてるんだか。掲載されているメカの設定に、出渕裕さんが描くメカの延長に当たってそーだけど、ごたごた飾り立てるんじゃなく、シンプルに可愛くこじっかりとした印象を受けて、もしも存命ならばきっと活躍してただろーってな感慨をやっぱり抱いてしまう、奥付は1984年8月1日。数日後だったんだなあ。ほかに牧野修さんのゲームソフトを題材にしたノヴェライズ「VIRUS 紫の花」(アスペクト)を購入。後に大張正己さんがアニメにしてそっちの印象ばっかりが残っているけど、前段として確かハドソンだかからゲームソフトが出てたんだなってことを思い出す、派手に宣伝してた割にはあんまり売れなかったんだよなあ。

 「クロックタワー」でも結構悲惨な後書きが話題になってたけど、こっちもご多分に漏れず悲惨な境遇が綴られていて泣ける。「今まで隠していたが、実は私はとても貧しい作家である。念のために言っておくが、才能が貧しいのではない。経済的に貧しいのである。だと思う」。掘り起こせば「牧野ねこ」の名前を「SFマガジン」だか「SFアドベンチャー」だか「奇想天外」だかで見聞きしてから10数年が経っていた97年の時点で、貧乏だ経済的に苦しいんだと良いながら、しつこくもし っかいりと作家をやり続けていたことはやっぱり驚嘆に値する。「偏執の芳香 アロマパラノイド」(アスペクト、1800円)やら「リアルヘヴンへようこそ」やらが出て、ホラー界に猫をふりまわす牧野修がいるよってことをごくごく普通の人までもが知るようになる、なってる、なってないかな、まあいいや少なくとも大手の会社からガンガンと本が出るようになるのはもうちょっと先の話である。「ビヨビヨ」も拾っておくか。

 残念ながら牧野さんの名前はラインアップにはまだないよーだけど、角川春樹事務所からホラーの書き下ろしがずんべらぼんと大リリースで本屋さんも大変そー、近所の本屋は平台に面で積めないんで平台に背中を見せて立てて並べてありました。20点近いからなー。中からやっぱり設定の素晴らしさにデフォルトで買ってしまったのが山田正紀さんの「ナース」(角川春樹事務所、571円)。「未知の怪物に立ち向かう七人の看護婦!」なんてまるで「ナースエンジェルりりかSOS」の戦隊バージョンだねー、とか思って読んだら全然違ってナースは別に変身もしなければ魔法も使わず、至極真っ当にナースとして未曾有の危機に立ち向かう。

 そのナースぶりが何とゆーか実にナースしてて、とにかく職業に対する使命感が強く患者を守るために身を投げ出してでも尽くそーとする本能を土台に、墜落したジャンボ機に乗っていた被害者たちの遺体をめぐるこの世とあの世の実に壮大なドラマを前にしても、平然と、とは言えちょっぴり恐がりながらも「遺族に遺体を返す」ためにナースとしての勇気を振り絞り、ナースとしての技術を、知力を、体力を縦横無尽に発揮する。果たしてナースとう職業の人たちをこーゆー場面にたたき込んだらどーなるんだろー、ってな感じのシミュレーションノベルっぽい書き手のお茶目な意識を感じつつも、読んでいるうちに例えメタ的ナース像でもやっぱりナースって凄いんだと思えて来る。毒の薬をもるナースもいたりする昨今だけど、これを読めば安心して病院へと通えます、でも軍曹&元ヤンキーはやっぱり怖そーだなー。

 和田はつ子さんの「木乃伊仏」(552円)はアイヌの血を引く食物学者の日下部を一種の探偵役に据えたシリーズの1冊。「魔神」(角川春樹事務所、1900円)講談社ノベルズの「蚕蛾」と言い、シリーズ物には珍しくあちらこちらの出版社から体裁もバラバラで刊行されてていまいち全貌を掴みにくいのが難だけど(西澤保彦さんのタック&ボアン・シリーズも同様ね)、記憶をたぐりながら読むとなるほど、いつもながらに食物への蘊蓄なんかを交えつつ日本の民俗的な風習なりに端を発した事件が起こってそこに行って解決に一役を買う展開。今回は塩の話や木乃伊の話が開陳されていて、いろいろと勉強になる。

 とは言え前に読んだ何冊かが結局は人間に起因する事件だったのに比べると、どこか超次元的な力が今回は加わっていてミステリーの枠組みに入れると反発する人も出てきそう。その意味でまさしく「ホラー文庫」の1冊ってことなんでしょー。日本海上でいきなり若者が爺さんになって干物みたいにからからになって死ぬんだもんなー。ほかに佐々木禎子さんの「鬼石」(743円)なんかを買ってこっちはまだ未読だけど、ほかに朝松健さん、松尾未来さんご一家が1冊づつに友成純一さん井上雅彦さん小沢章友さんといった注目株、森村誠一さん高橋克彦さん鎌田敏夫さんにら重鎮に何故かやっぱり入ってしまう栗本薫さん等々、ずらり揃ったメンバーを書き下ろしで揃えられるとは、やはり偉大なり角川春樹、弁護士に自分の弁護本まで買いてもらって最後の闘争にいそしんでいるけど、さてはて9月末の「小松左京賞」授賞式にはその天才ぶりを私たちの前に披露してくれるのか。ちょっと注目、リポートは「DASACON4」でいたしましょう。明日は「ワンフェス」で東さんウォッチの予定。一般で潜り込んでカンサツしてまーす。


【8月18日】 朝の「ワーナーマイカル市川妙典」で「さくや 妖怪伝」を読む、カッパのビルトゥング・ロマンスね、って違う? でもそーでしょ、お話しで1本通った筋は妖怪退治の専門家の一家に拾われたカッパの赤ん坊が半年で急成長して知能も普通ってなご都合的設定はともかくとしても、そんなカッパが仇を姉と慕いつつも悩む中から裏切りそして再び巡り会うってな少年によくある成長物語。肝心の妖怪退治の方はそれを助けるサブストーリー的な役割しか果たしておらず、なのに安藤希を主役に晴らせて戦闘美少女的映画に仕立て上げようってしたあたりに、どうにも見ていてどっちつかずな印象を受けるストーリーになってしまった理由があるよーな気がする。アメリカ人ならこの程度の単純さ、平板さが良いのかなあー。

 あと気になるのがクローズアップの多用で、どんなキャラもどんな場面も必ずってゆーかほとんどクローズアップに取られていて、どでかいスクリーンに半分だけ顔が映し出されたり刀の鍔が映し出されたりすると、中段のあたりでスクリーンが1目で入る位置から見ていても結構目にキツい。ビデオで家で14インチくらいで見ていると丁度良い映像になるのかもしれないけれど、映画館だとちょっとね、米国だとホームシアターの40インチくらいなんで耐えられるのかな、化け猫にカッパにサムライ藤岡のどアップでも。もちろんいくらクローズアップになっても「さくや」を演じている安藤希ちゃんだったら全然オッケーです、笑うと溶けるよーな顔になって笑わないと実に凛然とした表情になる、あの整い具合が好きです、ちょっとたれ目だけど。

 巨大松阪慶子が土蜘蛛姿じゃなくって普通のキャリアスーツ姿で巨大化して村なんか踏みつぶして歩いていたらそれはそれで面白い映画になったかも、庵野さんの「帰ってきたウルトラマン」みたく。とか考えながら帰宅した途中にあった駅の古本のワゴンセールでケイブンシャの大百科「’85年版全アニメ大百科」を拾う。85年といっても発売が1月なんで最新の情報は84年のアニメが中心、でもってこの84年ってのは自分にとっておそらくはアニメ人生において意義深い年だってことで、読み返しながら深い感慨が込み上がり、そこから重ねてしまった人生に熱い溜息をつく、ほーっ。振り返って見れば84年はアニメのとりわけ劇場映画に大作名作話題作の相次いだ年で、筆頭に来るのは何と言っても「カッくんカフェ」、じゃない「地球物語」、でもないそうです「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」。これを映画館で見て東京湾だかを泳いでやって来た吉川晃司に未来の大器を予感した人も多かった……ってだから違うって。山田辰夫の罵倒芸、カッコ良かったなあ。

 「うる星2」はもちろん「うる星やつら」のシリーズの1本としても話題になってなるべき作品だったけど、何時まで経ってもどこまでいっても永遠に成長しないキャラクター、でもってそんなキャラクターたちによって永遠に繰り返されるお祭りの前日の楽しさといったマンガやアニメによくある「形式」を、見事に逆手にとって1つの作品に仕立て上げてしまった腕前に、「押井守」とゆー映像作家の凄みをテレビ版の時より「オンリーユー」の時以上に感じたなー。アメリカで拾って来たDVDを見直したくなって来た、眼鏡も英語で喋ってるんだよ。84年と言えば続く大作が「風の谷のナウシカ」。もちろん「カリオストロの城」以来の宮崎駿監督作品ってことでマンガ版の面白さもあって注目はしてたんだけど、案外とスンナリ落ちついてしまった物語に「ふーん」と感じたくらいしか記憶がない。回頭するオームのゴムを使ったとかゆー作画に話は後で聞いて関心したっけ、あと溶けく巨神兵とか。

 夏には「超時空要塞マクロス 愛、おぼえていますか」があったんだー、愛はおぼえてないけどストーリーの何か爆裂ぶりはよっく覚えてるよー。同じ日(7月7日)に「SF新世紀レンズマン」も公開、タイトルに「SF」なんて付けられたんだねー、当時はまだ。「超人ロック」と「綿の国星」も同じ年、「ロック」が劇場で見た記憶がないから名古屋はトんだのかなー、それとも見ていたのに記憶から除外してるとか。2月公開らしー「綿の国星」は暑い夏に名古屋の「中日シネラマ会館」にある「シネチカ」だかに見に行った記憶があるから公開時期がズレたのかな、劇場公開のあと、1度もどこでも見てないしLDもあんまり見かけないんでどーゆーストーリーだったのかまるで記憶がない、タイプは違うけどいちおー猫耳娘のハシリなんで「けも」系の「萌え」を体感する意味でもおさえておきたい1品なんだけど、DVDとか出ないかなー。

 テレビシリーズにも「レンズマン」ってのがあるんだけどこっちは全然記憶がない、面白かったの? マンガ原作だと「ふたり鷹」ってのがあるんだけど放映中なのにコメントに「残念ながら視聴率はいまひとつふるわず、苦戦する」ってあって可哀想。このコメントってのがなかなかに愉快でタツノコ作品を紹介する時は「SF」と「ギャグ」の組み合わせを使うのが筋らしく、「破裏拳ポリマー」だと「ハードなSF設定にギャグをからませたタツノコプロならではの作品」になって、「未来警察ウラシマン」だと「タツノコプロ得意のギャグとSFアクションをうまくミックスした軽妙な作品」となる。ひっくり返しただけねん。でも「SF」と銘打って頂いてるのは有り難い、それで「営業妨害だ」なんて訴訟とか起こされない良い時代だったななあ、そーいえば「SF大会」でやっちゃってた野尻さんはまだ大丈夫なのかなあ。

 良い時代と言えば15年前は「ロリコン」とゆー言葉が恥ずかしさの中にいささかの韜晦も込めて自称できた時代だったせいもあり(そうなのか)、例えば82年の「おちゃめ神物語 コロコロポロン」には「ロリコンまんがの元祖・吾妻ひでお初のアニメ化作品」ってなコメントがあって翌年の「ななこSOS」にも同じ言葉があって、77年の「女王陛下のプティ・アンジェ」にいたっては「ロリコン・ファンに絶大な人気を持っている作品」とまで言われている。それにしては「プティ・アンジェ」見た記憶がほとんどない自分はロリコンじゃないってことが証明された訳だけど、いや嘘だけど。しかし60年以降はテレビアニメもほとんど見なくなっていった自分にとって、まさにアニメに浸りきってた昭和50年代を思い返させてくれる格好のムック。評論も悪くはないけどこーゆー系譜を確認できる百科的、辞典的なムックが今やっぱり欲しいなあ、「アニメ大百科事典」とか。

 でも著作権の処理とか制作者の負担も結構面倒だろーなー、無理かなー。ってのも「ブルータス」で実施された「20万人が選ぶ日本のアニメBEST100」を見ると、画像がところどころ抜けているのがあって、その理由にどーも制作者のスケジュール的な問題ってよりは権利を持っている側の都合っぽいところがあって、結構大切な作品なのに抜けられると痛みが結構大きい。12位の「サザエさん」と15位の「キャンディ・キャンディ」は一方は権利に厳しいところで一方は係争中だったりして事情も分からないでもないんだけど、25位に入った「うる星やつら」、59位の「めぞん一刻」、69位の「らんま1/2」の高橋留美子作品がいずれも「しばらくお待ち下さい」になっているのは何故だろー、あと「人気アニメキャラ名鑑」の「トトロ」&「ナウシカ」の宮崎キャラ2人(匹)が「欠席」なのも。どーしてなんだろ。

 ランキング自体はまあ順当、とりあえず「長くやってるもの勝ち」なところがあって、それは長いってことはそれだけ支持されてるってことと、長いってことで全世代的に票が集まるってことが理由になってるんだろーけど、中でも1位が「機動戦士ガンダム」ってところに、世代も人気も超えた「力」があったんだってことが改めて伺える。2位の「ルパン3世」も順当、最近の年に1度の露出では仕方もないんだろーけれど、ここは「カウボーイ・ビバップ」のカッコ良さを超える色気があった初代「ルパン」の再放送で一気に巻き返しちゃって欲しいところ、です。以下「ドラえもん」「ドラゴンボール」「宇宙戦艦ヤマト」「アルプスの少女ハイジ」と来て7位が「新世紀エヴァンゲリオン」と初めて純粋な意味での「90年代アニメ」がランクイン、ちょっとホッとする。

 だってベストテンではあとその下に「あしたのジョー」「巨人の星」の2大梶原スポーツアニメを挟んで10位に「名探偵コナン」が入ってるだけなんだもん90年代のアニメでは。超国民的な人気を誇って放映年数だって5年に及んだ「セーラームーン」だって83位。「日本の名曲」ってやってもここ3年くらいの曲が入るでしょ、ポップスだと。なのにアニメの場合だと、「エヴァ」の大ブームを受けたのかアニメの放映本数では空前だった90年代後半を経ても、心に残る「名作」になり得た作品がないってあたりに、今時のアニメ市場のどこか「歪み」みたいなもんが浮かび上がって来る。もっとも「ブルータス」を読んでたり投票したりってな世代が結構な年よりばかりって考えるなら、「懐アニ」が上位に来るのもやむを得ないのかも。分析しがいのある結果でした。


【8月17日】 「bk1」ではてんで買わないのに「イーブックオフ」だとついついあれこれ買い込んでしまうのは、近所に新刊の本屋はあっても古本屋の大きいところがないこととか、新刊の本屋では決して売ってない絶版本が存外と見つかってしまうこととかがあるからで、決してどちらが使いやすいとか素晴らしいってことじゃないんで許してね、茗荷谷方面。でもって「イーブックオフ」では「まんだらけ」でも置いてなかった竹宮恵子さんの「疾風のまつりごと」の1巻2巻と、探している人も結構多いあぽ(かがみあきらの別名)さんの「ワインカラー物語」をゲット、あとは牧野修さんとか伊東麻紀さんとかってなあたりのゲーム系とか大陸系とかってあたりを探して篭に入れて手続きする、土曜日には届くでしょう。「ワインカラー物語」は前に買った1冊が部屋のどこかにある「はず」なんだけどいつもながらの惨状故に発見できないのが情けない。まあ2冊も必要ないんで無事に無事なのが届いたら「レイディキッド」を里子に出した東北方面に流そう。

 麻宮騎亜さんとキクチミチタカさんの名前が何故かふと頭をよぎったのは全然関係ないとして、幡地裕行さんと伊東岳彦さんがいるスタジオ、ってんでしょうかアニメやコミックの企画なんかで名を馳せる「モーニングスター」のページが移転・リニューアルしているってなご連絡を頂いたんで早速チェキ、うん良い絵だ。進んだページの背景っぽい部分に「サウザンドアームズ」ってロゴがあって、そーいえばゲームバブルはなやかかりし頃(っても一昨年くらいだけど)に六本木はベルファーレで開催された真っ赤な王子様とプリティサミーなお姫さまが登壇された同名のゲームの記者発表に行ったなーってことを思い出して、あの時に確か遠目に伊東岳彦さんを見たんだなー、体格の良い人だったなーってとこまで思い出す、でも記憶が錯綜してるんで勘違いしている可能性も大。たしかアトラスだったあのゲーム、ちゃんと発売されてちゃんと売れたんだろーか、実は美人な眼鏡っ娘キャラだけ今も鮮明に覚えてるんだけど。

 正直に言います「モナリザ」って全然美人だと思いません。フェルメールは許せますセザンヌもオッケーですでもルノアールは頂けません。なのにこれらの名画における女性が一般的な通念で言えば「美人」ってことになっているのは、あるいは作品として価値のあるものに描かれている女性が美しくないはずはないという経済的、社会的な理由なのかもしれないし、本当に芸術的な教育を受けて来た人は、そこに絶対の「美」が見いだしているのかもしれない。いずれにししても一般的な通念といっても、これが美だとゆー教育なりこれが美なのかもってな経験による部分が大で、決して生まれながらに持ち得た感性でもって「美しい」と判断している訳ではない。人間にそんな傲慢な感覚があって良いはずがない。

 100年前だったら誰も見向きもしなかっただろーアニメに登場して来る下ブクレだったり目が異常にデカかったり猫耳がついてたり「にょ」とか言いやがる美少女キャラクターに、今の人が平気で「萌え」られるのも、それが「可愛い」「美しい」と認識しても良い、あるいは「可愛い」「美しい」と言っても良い空気が、能動的か受動的かは不明だけどおそらくはどっちもどっちな関係で登場して、そんな空気を呼吸し続けて来た経験があるからで、決して生まれながらに持っている感性ではない、と思う。だから東浩紀さんが「戦闘美少女の精神分析」を取りあげて何人かで論じている「網状書評」で新たに行った、経験で語るんじゃなくってもっと純粋に原理的に図像として「美少女」を見て「萌え」の要素を汲み出そうとしてみる提案は、果たして成立し得るのだろうかという期待半分に不安半分の感慨を呼び起こす。

 折しも朝日新聞社が見栄からか信念からか刊行し続けているオピニオン誌「論座」の9月号で、ともに学術機関からドロップアウトして野に下った大月隆寛さんと小谷野敦さんが「だから大学ってダメなんだ」とゆータイトルで対談していて、中にサブカルを真面目に論じることを茶化している文章があって気になる。大月さんが「今そうやってサブカル論じて得意になっている学者って恥知らずか、確信犯が商売人のどっちかだからさ」と言えば、小谷野さんも「最近やたらと、突然、マンガを論じるとかいうやつがいるんですよ。四十歳ぐらいで『俺はマンガ読んできた』みたいな自負があって。『めぞん一刻』について論文書いたりするのがね」と返し、「どだいサブカルに対する認識がおぼこすぎるよね」(大月)、「カルチュラル・スタディーズっていうんだけど、あんたがカルスタっていう前に、ちゃんとマンガ評論という世界があんだよって」(小谷野)と続く。

 さらには「あの手のサブカルチャーの研究で、系譜学ができていないやつは全然だめ。もっとひどいのが、そういうのが外国行って『風の谷のナウシカ』『寄生獣』のあらすじだけを話して『オー』って感動されて」(小谷野)とも。見えるのはつまみ食いが成立しない世界でも通用するだけの研究をしなきゃ笑われますよってことで、それには過去の研究なり系譜をちゃんとおさえておく必要があるってことらしー。翻って東さんが提案している「『そもそもマンガやアニメの絵がセクシュアルってどういうことだろう?』的な原理的で図像的な話」が果たして可能かどーか、少なくとも経験でしか物を語ることのできない僕にはちょっと思いが寄らない。

 「『僕はアニメに萌える』『いや萌えない』というような個人的な話」ではなくとも、アニメとゆーか二次元の美少女に「萌える」感覚が変遷して来たプロセスを遡って、対象となる図像がかつての浮世絵的美女、あるいはひき目かぎ鼻の平安美女から今のアニメの美少女へと変わった理由なんかを辿ってみるのはありかなーとは思う。けどまー、そこは何らかの挑発を常に心がけている東さんのこと、誰もが一家言あってまとまらない「経験」と切断することで「萌え」の感覚を客観的に解き明かした上で、再び経験に落としていこーとしているのかもしれない。

 あるいは「戦闘美少女の精神分析」の著者の斎藤環さんに話を振って「マンガやアニメにひとがセクシュアリティを感じるのはなぜ」なのかを精神分析の立場から語らせつつ、斎藤さん自信の「萌え」っぷりを暴くとか。まー同じラムちゃんでも高田明美のラムはダメなのにもりやまゆうじ、土器手司(この辺の人選、ちょっと記憶いーかげん、他に可愛いラムちゃん描くの誰だったっけ?)はオッケーとかゆー「萌え」も在ることだし、経験を超える直観なり純粋な「図像」に起因する要素があるいは「萌え」には存在しているのかもしれない。期して議論が進むのを待とう。


【8月16日】 鼻水頭痛に薬を飲んだせいもあって急激な眠気が襲って来たんで2時間くらい眠るべえと横になって気づいたらプラスの10時間、計12時間も眠ってしまっていたのは果たして薬のせいか、それとも次第に着実に衰えつつある体力のなせる技なのか。とりあえず気分がスカッと快調になったところで日記を書き書き朝の支度をし、本屋に寄って何冊か仕込んで仕事へと向かう。読むのはここんところ急激に世間の注目を集めつつあるサッカーJリーグの「名古屋グランパスエイト」を取りあげたサポーターズマガジンの「GRUN」。読むのは当然例の3人、平野大岩望月の3人の去就に絡んだ記事ね。

 何せ一時期は激しい平野大岩望月寄りで反フロント的な記事を書き飛ばしていた「中日スポーツ」「中日新聞」を出している中日新聞社が刊行している雑誌、サポーターマガジンとは言ってもチームが大事な雑誌が多い中であるいは派手にチーム批判でも展開しているのかと思いきや、フロントの毅然とした態度に敬意を表してはいても決して罵倒はしていない。スポーツ専門誌の「ナンバー」や週刊誌の「プレイボーイ」が続けざまに3選手のインタビューを拾って「最初は起用法の問題だったのにいつの間にか反抗的だってことにされてフロントの野郎め」的な反論をさせていたのと比べても、グランパス以外の選手は出せないこともあるんだろーけど、全体におとなしめでどちらかといえばチーム寄りの内容になっている。そーいえば大岩って行き先決まったんだったっけ? まだならグランパスの選手なんだから出しても良いのにねえ。

 とはいえ、どこの誰も責任をとらないようなうやむやな事態にはぜす、フロント側に責任があることを明確にしようとしている雰囲気はあって、例えば呂比須へのインタビューの中で触れられている部分では、「クラブのトップが責任を明確にしてアピールしたことは問題を引きずらないという意味で、正しい処置だったのではないか」とインタビュアーが地の文で書いて、呂比須も「監督とフロントが決めたことですから」と従うようなことを言っている。ピクシーへのインタビューの末尾にも、フロントが決めたことだからとゆー一文が保険みたく載っている。プロとして選手がなすべきこと、プロチームとしてフロントがなすべきことのそれぞれにきっちりと線引がしてある。

 選手上がりか親会社からの天下りなフロントが経営とかスポーツとかに知識もないのに幅を利かせたり、そんなフロントでも敵にしたらヤバいと選手が臆したりして、どこか曖昧で良く言えば家庭的で悪く言えばなれ合いだった両者の間に、ある種の緊張感を生んだってことでやっぱり1つの「事件」だったと言えるんだろー。でもって選手とフロントのどちらにもおもねっていない点で、「GRUN」の姿勢も評価できる。これがスポーツ紙の世界にも活かせたら、とか思ってもそうならないあたりがスポーツ界より旧弊で横柄な新聞業界のいけないところ、誰か首にならないと分からないんだけど、オール選手でオールフロントで曖昧どころか一体となった中心も周縁も存在しない新聞業界には、リーダーシップを取るフロントも主張する選手もいないからなー。千葉すず問題なんか言ってる場合じゃないよなー。

 ピクシーへのインタビューは「ユーロ2000」終了後では最長規模の分量で最良の中身。監督との諍いについて激しい言葉で書いてあって、辞めようかどうしようかとゆー葛藤の中で出場したことが明らかにされている。監督にも無理だった選手の最適な起用の部分でピクシーに一家言があることも分かって、ユーゴ代表の次の監督と噂されるだけの流石に目を持っているんだなーってことを伺わせる。しかしあのピクシーに「選手たちを全員起こしたか」とまるでフロント係がマネージャーのよーなことをさせよーとするボシコフ監督って、そんなにピクシーのことが嫌いだったんだろーか。自分のことを「ユーゴにおいて僕はレゲンド(伝説)」と自覚した上で、それでも起こらず静かに事態を見守るピクシーが、ことピッチでは激しく闘士を燃やしてキレまくるのはそれだけサッカーに情熱を注いでいるってことなんだろー。いや面白いインタビューっす、ファンならずとも必読っす、問題はなかなか売ってないことか。本に早くまとまらないかな。

 角松敏生の新譜「存在の証明」を聞く日々。「TIME TUNNEL」で復活を遂げてあのポップにメロディアスでクール角松ワールドを存分に見せてくれてから1年半、間にはさまっていた「ユア・マイ・オンリー・サンシャイン」がT’sなバラードの世界にどっぷりだったことから、最新作では余計にそんな角松の世界が深化しているのかと思いきや、一転しての激しいビートに鳴り響くギターってな感じのロックなサウンドになっていて、最初は耳にあんまりなじまなかった。けど何度か繰り返し聞いているうちに、今とゆー気候もあってサウンドがややもすれば暑苦しく感じられても、独特な節回しのしゃくれ方がやっぱり角松っぽいなーと思えて来るから不思議。もとより音楽業界の有り様にヘソを曲げて沈黙に入っただけのことはあって、メッセージ性のある内容も相変わらず。その意味では深化と言えるのかもしれない。とりあえず5度聴け。


【8月15日】 特別な日の多分はずなのに全然その気がしないのは、仕事を始めるよーになってそれがお盆に休みにならない業界のせいもあって且つ、特別な日絡みの記事とは全然無縁の経済畑ってこともあって、家でゴロ寝しながらお昼前のニュースを見て追悼集会やってるなーと思ったり、正午に黙祷を捧げる甲子園球児を見たりしなくなったから、かもしれない。せめてこの日が全国民的に日本だけだとナショナっちゃうから大戦が一応終わった日ってことで、世界の恒久平和を願う日とか言って休日にすれば多少の感慨も沸くと思うんだけど、緑の日が昭和の日でも8月15日には手を付けがたいのかどうなのか。戦勝記念日だったら祝えるけれど戦敗じゃあやっぱりなあ。他の国ではどーなってるんだろ。

 「戦争を知らない子供たち」がおっさん世代になって、「戦争を知らない」と言っても30年代、40年代のまだ貧乏だった日本で暮らした体験を持ち、「なんかいけないことをしちゃった」的自意識を植えつけられているが故に、どちらかと言えばネガティブな傾向を持って無関心を装うその下で、「ベトナム戦争を知らない子供たち」やら「湾岸戦争を知らない子供たち」やら「ルウム戦役」「ガミラス戦役」を知らない子供たちが育って、体験ではなく言葉の応酬から正否を汲み出そーとした時に、勝つのはどうも耳に聴こえの良い方になりそーな気がして仕方がない。戦没者の慰霊祭に6歳の曾孫を連れてやって来た一家4代を取りあげた報道があったけど、「戦争の悲惨さを子供の頃から知って欲しい」的解釈の左よりは「戦死した人たちの勇気を子供の頃から知って欲しい」的解釈の右の方が、ただでさえ膨れ上がっている自意識を擽んじゃなかろーか。どっちにしたって上っ面な空気しか伝えないメディアの中になって、イデオロギーじゃなく空論でもなく、何があったのかを地道に語り継いで行くことで美化も風化もさせまいとした黒田清さんたちの仕事が惜しまれる。嗚呼ニッポン。

 会社に置きっ放しだったCD−ROMドライブをパソコンにつなげて「メディア戦隊レッドテイラー」のCD−Rを見る、1人でも戦隊? それも紅1点? まあそれは良いとしても戦闘のシーンでたとえ中身はスタントの男でも紅1点が戦っているよーに思わせながらチラチラと赤でもピンクでも白ならなお結構なシーンを見せてくれないのは頂けない。変身のシーンでたとえ逆光でよく見えなくってもいったん素っ裸になっているよーに見えないのも以下自粛。そんなところしか見ないのかって言うけれど戦隊物ってそんなところしか見ないものですおじさんは。中身については極めて順当に戦隊物しているけれど、しかし並んだ自転車を倒す悪事はちょっとセコいかも「PS2仮面」。あるいはソニー的なる表向きの華やかさとは違った影でのしっかりガッチリぶりを暗に批判していることになっているのかも。次は燃えるゴミに空き缶を混ぜて前日の夜に出す「悪事」にチャレンジだ。

 全米ベストセラー作家の本邦初訳って帯にあるアマンダ・クイックの「禁断のリング」(WAVE出版、1900円)を読んでなるほどこれがベストセラーになるのも分かると得心、ハーレクイン的なベストセラーにはなるわなあ、あるいはソープオペラとか。「怪僧」とあだ名される人嫌いの貴族で考古学者が住む否かの屋敷に嵐の夜、1人のレイディがやって来て「禁断のリング」について教えを乞う。彼女にどーゆーはずみか惚れてしまった怪僧は、表向きは貴婦人を装いながらお実は別名でロマンチック・ホラーを書いているベアトリスと一緒になって「禁断のリング」の謎に挑むのだが……といった導入部を読んだだけで、この暑い時に何ってものを読んじまったんだってな自戒の念が浮かんで額に汗が吹き出る。

 ホラー小説へのよくある非現実的だとか子供騙しとか言った批判を考古学者に言わせているあたりをつかまえて、そんなホラー小説のあり方をメタ的に突破していくよーな話だったら読めないこともないものを、どうやらホラー小説の通俗ぶりを順手に取って真正面から飲み込まれてしまいよーな展開らしく、よほどロマンチックな世界にはまれないと読み通すのは難しそー。ってんで最後の部分をチラ見たら最後の最後でやっぱり真正面からロマンチックの大津波に飲み込まれるよーな一文があって気分はオフショア若しくはビックウェンズデー、ピンク色の大波に脳味噌は融け血液は沸騰し夜通し熱帯夜の寝苦しさにうなされる。この夏の暑さが足りないと思われる方々や最近のホラーにはロマンが足りないと思われる方々には勧めよう、でも夏場ややめといた方が吉かも。


【8月14日】 とりとめのない話。MISIAのライブのDVDを見続ける日々、顔の輪郭がなんだか小渕優子代議士に見えて来たのは果たして目の錯覚か。名古屋が発祥の地と言われているミニ浴衣、「吸血姫美夕」からはるか辿って「ドロロン・えん魔くん」に源流を見るといった説を思いついたけど如何に。講談社の文庫PR誌「イン・ポケット」。ベストセラーになった「最悪」(講談社、2000円)よりも個人的にはオクちゃんっぽいと思ってる、最近文庫化もなっていっぱい読んでもらえるよーになって嬉しい奥田英朗さんの「ウランバーナの森」(講談社、1600円)
の誕生にそんな逸話があったとは。「B型陳情団」はエッセイの傑作です。

 さらにとりとめのない話。「噂の眞相」9月号。「ロフトプラスワン」からスケジュール表の定位置を奪取した「セロニアス・モンクの鐘」ってどうよ、「たま出版」ってのが謎、やっぱり霊か、宇宙人か。今号は東浩紀さんネタがないような。夏枯れか。コミケで買った「超オタク」(超人オタク、と書き間違えると印象がまた違うなあ)で神無月マキナさんの「I.G」絡み発言を再確認、汚れた大人に自分をなぞらえたらロボットがソ連製に見える脈絡を理解できない僕はやっぱり映画評論家には向かないのかも。政府役人の視点を採用するならソ連製もありだけど、まるでアメリカ人そのものな政府役人の立場で「アメリカ人都合良すぎ」と嘆くあたりのレトリックも高度過ぎて僕にはちょっと思いつけない。って書いてる文章にも「芸」がない、やっぱり批評家にも向いていないなあ。

 公正中立とか言いながら、その実右とか左とかってな傾向の記事や主張ばかりを拾って暗に読者を誘導するよーな態度よりは、堂々と「左向け左」「回れ右」を主張する方が正しい態度なんじゃないかって、常々新聞については思っていたけど、こと読書のページに関しては、右も左も無関係にその時点で意味のある本を幅広い視野から選んで欲しいって気持ちがあって、それが身勝手と言うならば、例えば敵の考え方を知ることは決して損にはならないから、適性思想に染まるリスクも踏まえた上で、批判しつつも紹介するってな態度があってしかるべきじゃないかと反論も出来ないこともない。あるいは甘いお菓子賑やかな玩具で客を集めつつ次第に染めて行くとか。従って寄らせもしなければ知らせもしない、すべてが「右向け右」の傾向で固められた読書面ってのを見せられると、もう少し巧くやれば良いんじゃないのと思ってしまう。土曜日曜の「産経新聞」ね。

 まずは日曜13日付は見開き2ページのうちで「著者に聞く」は「コンピュータはそんなにエライのか」(洋泉社、680円)の柳沢賢一郎さんへのインタビューで下の「文庫コミック」も阿刀田高さん二階堂正宏さんでオッケーとして、横にこぶりに並べた4冊のうちの3冊が「零戦 最後の証言2」に関東軍と関わりの深かったモンゴルの親日勢力を研究した「徳王の研究」に司馬遼太郎さんの「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」、でもって右面は大きめの3冊が米潜水艦に撃沈された輸送船の話を書いた「阿波丸撃沈」に「靖国公式参拝の総括」に「日本の失敗と成功」、でもって小さい4冊も「撤退戦の研究」に「玉砕ビアク島」に戦場小説「螢の河・源流へ」に戦争体験とか国旗・国家への思いを綴った文章を集めた「孫たちへの証言(第13集)」と来る。14冊のうちの10冊がソレ系てのはちょっと凄い。

 土曜日は1面で1番大きく紹介されているのが「日本は『神の国』ではないのですか」(加地伸行編著、小学館文庫、476円)で下の中くらいの2冊が「昭和精神史 戦後篇」と「真相 杉原ビザ」で、さらに下の小さい2冊のうちの1冊が「検証一九四五年夏」と来た。残り1さつが「妖精たちの物語」(ビアトリス・フィルポッツ著、井辻朱美監訳)なのは良いけれど、さすがにここまで右旋回な傾向の本で卍固めに足4の字からチョークスリーパー&裸締めをかけられると、たとえシンパシーがあってもやっぱり辟易とさせられる。おまけにかつては文壇論壇の内ゲバが楽しかった「斜断機」もプチ正論な「『中曽根発言』の残酷さ」(金美齢)に「ポツダム宣言」を出すよう奮闘した駐日米国大使の功績を省みない日本人の忘恩ぶりを文化荒廃に絡めて嘆いた一文と来たもんだ。これでいったいどう取り付けってゆーの。

 森博嗣さんへのインタビューとかも掲載されていたし、普段はエンターテインメント系の作品も漫画を含めて(セレクトな温いけど)それなりに扱ってくれているし、週に3回で4ページは、かつての毎日掲載の時に比べれば小さくなったとは言え、一般紙でも最大級のスペースを読書面に割いている訳で、本好きにとってはあなどれない存在感を持っている。本を読まなくなったと嘆く出版社には、多少の入り口での選別はありそーでも、宣伝する窓口が開かれているって意味で、存在価値は無視できない。だからこそ、もうちょっとだけ融通を聞かせて欲しいって気もあるんだけど、まあ8月15日を目前に控えた時期が時期ってことで、おそらくは担当のデスクなりが大ハリキリをし過ぎたんだろーと内部事情を憶測した上で、来週以降の傾向と対策を練っていこー。しかしそれにしてもやっぱりなあ。


【8月13日】 とゆー訳で岩本隆雄さんの「星虫」(朝日ソノラマ、571円)を買いなおして読み直す、どーゆー訳かは内緒。確か昔に出た旧版を読んだ記憶があったんだけど歳なんで中身まるっきり忘れてしまってて、再刊された時に買って読もうかと思って置いておいたらネズミに引かれたのかゴキブリにかじられたのは地層のどこかに埋もれてしまって発見できず。しゃーないんで朝方に本屋に寄って見たら2刷がかかってて、幻だったってことを差し置いても結構な人気があるんだなーってことを実感する、これなら「鵺姫真話」(朝日ソノラマ、近刊)だって大丈夫かも、ホントに面白い話らしーし。

 でもって「星虫」はつまりは「この子悪くない」話でありまして、あるいは優しい気持ちが人類を救う話でもあって、額についた奇妙な生物「星虫」が果たして人類の敵か味方かが分からなくなって迷う中、果たしてどんな行動をとったら良いのかってことを「信頼」とゆー気持ちとともに教えてくれる。「地球の叫び」が半ばトンデモなガイア思想につながるかどーかは別にして、実際問題蔓延る人類汚される自然に地球が悲鳴を上げたくなるのも分からないでもない。難しいは地球がそーなってしまった時にどーにも都合よく「星虫」が現れたってことだけど、事が成就する時には何かしらの「ご都合」が生じるのが歴史の不思議だったりするから、気にすることでもないんだろー。ともあれ「ありきたり」の話ながらも浮かび上がる感動は、例えば人間は優しくありたいって気持ちを捨てられないことの現れなんだろーか、だとしたら人間も安心だ。それとも逆に優しくなれなくなっているからこそ物語の中だけでも優しくありたいってことなのか、だとしたら人間は救いようがない。未来は読んだ人の心次第。

 でもってついでに「イーシャの舟」がどんな話だったのかを知りたくってあちらこちらのネットをあたったけど、感想は結構あってもあらすじまで完璧にフォローしていてどんな内容か分かるってのはほとんどなくって、どんな感じで「星虫」とつながってるんだろーかと思案する、いやちょっと必要なもんで。探してあった簡単なあらすじから見ると、どーやら「星虫」よりは前の時代の話になるのかな? でもって宇宙的ファンタジーってよりは伝奇的ファンタジーって感じ? まあおお方のとろこは判明したんで何とかなるでしょー。「星虫」の好評さに続けばこっちも再刊になるのかな、新作も近いよーだし、15年を経て復活なった山尾悠子さんに続いて10年の寝太郎から再起動した岩本さんの、今年が本格的な「デビュー」になること祝おー。次は20年とか寝ないよーに。

 つらつらと3日目。とり急ぎ静岡大学メディア論戦隊のブースへと行ったらコスプレってるお姉さんがいて何とまー素晴らしい大学なんだろーと羨望なんかを浮かべてみる。先生は見えず挨拶がけら「私家版PS2の真実」を購入、巻末の筆者近影はどー見ても「PS2」にしか見えないんだけど、全高が1メートル80センチくらいありそーな。いったん離れて近くのブースで宮武一貴さんの「エンジェルリンクス」でのデザインワークスを収録したを購入、個人的にはアニメ自体も好きで美鳳はアニメ史に残る美麗な胸の持ち主だと思ってるんだけど、人によってはデザインワークスだけを讃える人もいて、そーゆー人にとっては発進のシーンとかゴチャついたブリッジとか細かなギミックとか戦闘場面とかが詳しく解説してあって最高の1冊だったかも。好きだと言いつつ途中で止まってるDVD、まとめて残りも欲しくなって来たなあ。

 東へと向かう渡り廊下が暗くて人がぎゅうぎゅう詰めで倒れそうになったけど、無事到着して評論のあたりを散策、岡田斗司夫さんとこの「超おたく!」は前に見た「ロフトプラスワン」での講演録に「日本のセバスチャン」とかを足した本だけど、講演では話だけで流したんで分からなかった図版が入っていて「哭きの竜」で「竜が牌を食った」場面が良く分かる、ホントに「竜が牌を食って」たんですねえ。池沢さとしさんの家に謝りにいかなかったバンダイの鵜之沢さんもちゃんと登場、をを痩せてる、でもってふさふさ、10年とゆー年月の重さをふと思う。鶴岡法斎さんのブースでは唐沢俊一さんもいて両名に挨拶あいさつ、でも瞬間だったったんで次に会ってもきっと分からないかも。「ロフト」のイベントでは買えなかった「できんボーイ」のTシャツを買う。美術出版社の担当がボーナスを注ぎ込んで作ったオリジナルにして公式のTシャツで、売れなかったらボーナスが全部飛んでしまうって話だったけど、果たしてちゃんと売れたんだろーか。

 SFの方面で妙に話題になっていたのがふぢーさんと金田明洋さんが作った「SF作家の値うちVol.1」で、東洋大の田中香織さんが持ってていっしょに話していた小谷真理さんも持っていて、何でもネットで評判を聞いた巽孝之さんが「是非に」と言って買いに向かわせたそーでしっかりゲットして帰途につかれた模様。ほかにも会うSF会うSFの誰もが持っていたからよほどSF作家の「ワルクチ」が聞いてみたかったんでしょー、だったら何で自分で言わないかって? コワいからに決まってます。点数的には野尻抱介さんの「ピニェルの振り子」が89点で最高点、80点以上の「日本SFの金字塔」となっていた。あと1点あれば「世界的水準のSF」となったのに。80点以上は他には篠田節子さんの「聖域」が入っていただけ。「作家の値うち」で言うところの船戸与一さんはどーやら笹本祐一さんみたいだったけど、近作に近づくにつれて点数は伸びて「お金を払って読む価値はあるSF」になっていたから、決して気に入らないばっかりじゃないってことらしー。しかしやっぱりとにかくまあ。

 島本和彦さんの「新谷かおる本」(何故に?)とかオタキング柳瀬さんのNASA本とか紺野キタさんの新刊とか「ヴァンデミエールの翼」の解説本とか「レッドテイラー」のCD−Rとかを適当に購入して散財、しまったエロを1冊も買ってない、いったい何しにコミケに行ったんだー。企業ブースは雨天でコスプレ広場が使えない関係でコスプレ関係の人が山といて目には嬉しいんだけど身動きがとれず。海外の同人誌が展示されたコーナーに行って韓国の同人誌なんかを読むと日本のその辺の適当な奴より絵なんかプロ級に巧くってハングルだから何書いてあるかわかんないけどそれなりに迫力もあって知らず文化は進んでいるってことを実感。エンターブレインから最近刊行された韓国の漫画のセリフだけを日本語に直してある漫画「橋無医院」(林光黙)が、冒頭藤原カムイさんっぽい線画だったものが描き混まれてスピード感も増していく展開を見ると、吸収してから成長も早いってことが分かって末恐ろしく成ってくる。言葉が解禁になってこれで日本からどんどん輸出されるんじゃないか、とか言ってるけれど逆だって十分に通用しそーな雰囲気。


【8月12日】 NHKでMISIAのライブがやってたんで見てしまう、しまった録画しておけば良かったと後悔したけど空いてるテープがないから仕方がない。雲形定規が天空を舞うセットの下で歌いだした最初のうちはディーヴァ系の代表格みたいに言われていてもやっぱりそこは日本人、ちょっと声細いよなあとか感じたけれど、曲自体の良さとか演奏の巧みさに、MISIA本人のマライア・キャリーかよとか想わせるよーな上声のハイトーン・ボイスとかが飛び出してハマりはじめてそのままだいだい1時間。ラストをギターとピアノのアコースティックな演奏をバックに占めるあたりで、録画出来なかった後悔を越えて確か出ていたライブのDVDを買うぜってな決心に打ちふるえる。

 でもって買って来たDVDを見たら、途中に出てきた「オナペッツ」のMCも含めておそらくは同じ「横浜アリーナ」でのライブを撮影していたものだと判明して、ちょっとだけビデオ撮り失敗の後悔が甦る。でもまあ収録時間がテレビの倍だしオマケもあるし音はCD以上だし何度も繰り返し簡単に頭出しで見られるから良っか、ってすっかりDVDエヴァンジェリストですね、音楽物はDVDオーディオよりもスーパーオーディオよりも「絵のついたレコード」のDVDビデオで結構かも、いっぱい買っちゃいそー、森高のライブのDVDも出るみたいだし。それにしてもちょっと前のブランキー・ジェット・シティと言いスガシカオと言いそれなりに価値のあるアーティストのライブ音源を集めてるなあNHK、どうあがいたって民放にやあ作れないもんなあノンストップCM無しのライブ映像なんて。ペイ・パー・ビューなら可能だけろーけど、それだとマライアとか話題性のある宇多田ヒカルは出来ても「一部に人気」なアーティストは何万人も見ないだろーから無理だろーからやっぱりそこは「皆様のNHK」なんだろーなー、官軍は勝つ。

 先週に続いて上遠野浩平さんを見物に新宿は紀伊国屋書店で開かれた「冥王と獣のダンス」発売記念サイン会をのぞく。サインが欲しいってこともあるけど既に貰っていたりするから優先順位的には2位以下で、メインは「どんな人が上遠野さんを読んでいるのか」ってなあたり。おじさん的に良い良いと言ってもネットで良い良いって評判を聞いても、それが決してメジャーな読者層を代表している訳ではないことは、ネットでド派手に売れているよーに見えても現実的には再版もかからない本がいくらもあるとゆー現実が証明してる。本当は書店の店頭で実際に売れていく様子を見ていれば良いんだけど仕事もある身でそれもかないんで、ファンが集まるサイン会ってのはやっぱりマスではないけれど、それなりな傾向をつかむのに役立つんです。

 集まっていたのはやっぱり若い人が圧倒的で、高校生から大学生あたりが大半、ヒゲ面にサングラス野郎はハッキリ言って浮いてます。あと比率で言えば男が8割くらいだったのは意外だったけど、サイン会ってゆーハレの場所に出て行くアクティブさを男子の方が発揮しやすかっただけかもしれないから実際のところは不明、あるいは本格的なファンはお台場方面で開催中のアレに扮装したり同人出したりして駆け付けられなかったかもしれないし。それとも告知が男子系の雑誌でしかやってなかったのかな。人数的には到着した段階で50人くらいはいたみたいで後からもうちょっと増えたみたいでサイン会としてはそれなりな入り。サインを貰って「超うれしー」的な興奮の面もちで出てきた少年が、ツレらしー順番待ちの少年に「何か霧間誠一みたいな人だったー」と言っていたのを聞いて、憧れの人を見る時に働くファン眼(ふぁん・まなこ)の威力を改めて知る。もっとも「しゃべる人」になっていたらしー「Zero−con」でのトークとかを見ずに、一心不乱にペンを動かしサインをする姿をはじめて見ればそう思うのも仕方がないかも。

 しかし看板作家だけあってメディアワークス的にも気遣いがなかなかで、イベントなんかで何度も顔を会わせている社長の人とか役員の人とかがやって来たのにはちょっと驚き。でもって粛々と行列に並んでいる当方を見てニヤニヤしていたりするのが恥ずかしいけど面白い、まあ趣味なんで。入って整理券を渡して書かれた名前を見て気づいた様子でどうもと挨拶、ストーカーが路地の角からいきなり顔を出して「ばあ」とやるよーなもんだけど、これも趣味なんで許して下さい。もっとも本読みの仕事なんかやってたって、実際のサイン会で名前から気づいてもらえるケースなんて10に1、2もなく、頑張ってそんな身分になりたいもんだと思うけど、そーなったらなったで優越感とか親近感からサイン会に出向いて行くよーな内的モチベーションが失われている可能性もあるからなー。現場第一それが捜査の鉄則と改めて意に決する。

 本読みとして大成するためにその1、読むべし読むべし読むべし。ってことで「bk1」から新作らしーゲラが届いたんで一気に読む、すげえと唸る。どうも同じ世界を舞台にしたデビュー作があって最近再刊されたみたいで書き直しとかが話題になってて枝編もあってそっちも絶版になってて書き直しが進んでるみたいでやっぱり話題になりそうで、そんな2つの作品から流れる話ってことだけでも話題性は十分、かつそれだけ読んでも立派に見事なまでのタイムトラベル物として成立していて少女の成長物語としても読めてガール・ミーツ・ボーイのラブ・ストーリーにもなっていて100億年ものスパンで語られる宇宙の物語にもなっていて、ってな具合にたくさんの読み所があって何を切り口にすれば良いのか迷う。混乱する時間軸の多彩な登場人物たちの行動を合理的に終息させ、その中で幾つかの物語を成立させ、冒頭に提示された命題に最後に答えを出して前作の2話をつないでさらに大きな物語へのブリッジ役も果たす、その創作力の凄さたるや言葉ではなかなか語れない。とにかく読もう、デビュー作も、遠からず刊行の枝編も。


【8月11日】 月曜が休刊なんで仕事がないんでコミケへ、まあコミケに行くのも仕事みたいなものなんだけど、ってどんな仕事だ。西館の企業ブースへといきなり駆け付けるあたりがコミケの本質を理解していないってゆーか、自分たちで何かを生み出そうとする意欲を示すためにとか、何かを批判するためにとかいったコミケ的な理念から遠くへ来てしまっている、今時の一般的なキャラクターファンの行動様式にはまってしまっているけれど、かけつけると「メディアワークス」やら何やらといった企業ブースにおそらくは数時間待ちを覚悟して並ぶ人たちの実に多いこと。「電撃大玉」でも見ようかと思ったけど、即座に断念してブース類を見て回るだけにする。「ナインライブス」の赤井孝美さんは今週も来ているなー、頑張るなー、来週も「ワンフェス」だしなー。

 それにしてもな大混雑。「キャラクターショー」じゃなく何でコミケで既製品を買うかなー、ってことに昔ながらの人ならなりそーだけど、企業の活動自体がコアなマニア層を視野にいれてコミケ的な方向へすり寄っている一方で、コミケも大きくなって変容を遂げて運営の面とかマーケットとかに企業的な要素を取り入れていかなくっちゃならない、そんなお互いの思惑が交錯しているのが西館4階ってことになるのかな。もっとも同人誌即売の方のブースにパロディといった理念から離れて、著作権の考え方とぶつかりそうなグッズ類が結構な数出ていることも現実で、1つ屋根の下にマスプロダクツとインディーズが混在する状況を、それぞれがどこまで容認できるかって辺りで今後にあるいは何かしらのアクションがあるのかも。

 ガイナックスも山ほどの行列で今更「エヴァ」のテレカもないんで、とりあえずってゆーか実はこれが西館ブース詣での目的でもあった、オリジナルのファッションドールで有名な「ノアドローム」のブースで先行限定販売中の、ホームページはリアルタイム更新が基本な小松ちあ紀ちゃんとの関係についてはあんまり詳しくは知らない脚本家の小中千昭さんがプロデュースした、岩倉玲音くまパジャマドール(9800円)を買う、あうう。もとより真夜中のカルトアニメのヒロインだけにキャラクターグッズとかほとんどなかった「lain」だったから、放映から2年も経ってのほとんど初キャラクターグッズ化はファンとして感無量、もちろん脚本やって趣味が高じて人形まで作ってしまった小中さんの感慨たるや、単なるファンを上回って絶大なものがあるだろー。

 部屋も急激に狭さを増してグッズ類とか置く場所もなくポスターにしてもトレカにしても急激に購買欲が落ちているだけに、超メジャーな作品のキャラクターをコンプリートするってよりはカルトだったりマイナーだったりするキャラクターを1点買いってのが最近の傾向かも。置場所がないのは重々承知で「岩倉玲音くまパジャマドール」もそんな天の邪鬼的心理が働いての購入ってことになるのかな、あとは限定品ってあたりへの妙な下心とか。この人形も「コミケ」と「ワンフェス」で100体先行販売らしーから、やっぱり速攻ゲットが吉だろーけど、何しろ90年代でも1、2を争う「もったいないアニメ」、果たして日本にそれだけの「lain」ファンでかる「人形者」がいるのかどーかが分からない。とは言えアニメ自体は海外でもやっぱりカルトながら人気高いみたいなんで、通販とかやればきっとそれなりなリアクションがあるのかも。「くまスリッパ」も欲しいよー。

 人形と言えば今欲しいのがドールじゃなけど「ウドちゃん」。あの「ウド鈴木」とはまったく全然関係なくって、小田ひで次さんって人が描いた漫画「クーの世界」(講談社、505円)に出てくるキャラクターで、諸星大二郎が巧くなったか、あびゅうきょさんが柔らかくなったよーなタッチの絵柄で夢の世界へと飛ばされた少女・麗寧(れねい)が冒険をするとゆー話の中で、彼女がお守りとして手渡されたのがこの人形。決して全然カッコ良くも可愛くもないんだけど、麗寧との旅に同行することになった王様とか、砂の中に流れてしまった「ウドちゃん」を拾い上げた薄幸の少女とかが一様に「かあわいい」と言って抱きしめるその姿を見ていると、妙に可愛く見えてくるから人間とは不思議なもの、まあ他人が持っているものを横取りしたくなるのはジャイアンの時代からガキに共通の思いではありますが。「ワンフェス」とかに「ウドちゃん」出してくるディーラーはないのかな、「ホシ丸リュック」でも良いけれど。

 中学校への入学式を明日に控えた夜、麗寧の夢の中に何年か前に死んでしまった兄と同じ顔をした「クー」という青年が出てきて、そこが夢の中だとは気づかない麗寧を連れて家を探して歩くのがおおまかなストーリー。1日に1歩だけしか歩かない巨大なイグアナみたいな怪獣イッポとか、小くて口の悪い王様とか、クーに一目惚れしたらしく遠くからかけよって来たら実は何メートルも身長があった女の子のミュウとか、登場する不思議なキャラクターたちのコミカルな味もさることながら、砂から「ウドちゃん」を抱き上げて麗寧から譲り受けた途端に砂へと流してしまって泣く女の子が、その住んでいる街とともにたどった哀しい運命とか、実は夢が夢だと気づいて出逢った「クー」の正体も分かって、現実へと帰ってそこで枕を抱きしめ兄を想って泣く麗寧の仕草とか、読んでジンワリと来る展開もあってほのぼとの暖かい読後感を与えてくれる。まとまった終わり方なのに続いているあたりが連載を読んでないんで謎だけど、癖はあっても味のある作家さんなんでちょっと関心を持っていこー。これだから「アフタヌーン」はあなどれない

 新宿へと回って伊勢丹の古書市をざっとなめて筒井康隆さんの単行本がひとまとめで4万8000円で売られていてちょっぴり欲しいとか思ったりしつつ、金も置場所もないから断念して紀伊国屋書店へと回って上遠野浩平さんのサイン会整理券配布状況をチェックすると、まだ配布していたみたいんだんで先週「Zero−con」で直々にサインをもらった身でありながら、当日のサイン会にいったいどんな人たちが集まるんだろーかをマーケティングリサーチしたい気持ちも起こったんで、文庫本って気安さもあって「冥王と獣のダンス」(電撃文庫)を買ってしまう、藤木稟さんの「スクリーミング・ブルー」<(集英社、1800円)も平で買ったのとサインをもらったのの2冊があったりして、ただでさえ狭い部屋がどんどんと狭くなっているけれど、そこはそれ、マニアで出没家で有名人好きのなせる技、土曜日は2時からの紀伊国屋に髭面さげて参る予定、でも有明に沈没してるかも。


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