縮刷版2000年6月中旬号


【6月20日】 「フリクリ」第2巻「ファイスタ」を見る、ニナモリやっぱりかーいーです。冒頭のギターかきならすハル子のネタって「課長王子」と何か関係あるのかなー、見てなかったんであんまり知らないんです、ナマの「課長王子」がふらいんぐいV演奏するのは2回も見たことがあるんだけど。あと「BOMB」の釈ちゃんネタって今しか通用しないよーな、来年も残っているのかなあ、新山だって優香だってそろそろ沈みかけてるってのに。話は実は読んでしまったノベライズ「フリクリ」の第2部といっしょで場景描写はそっちの方が詳しかったりするんだけど、絵で見る迫力動くキャラクターに音楽セリフの耳から入る情報が、小説の場景描写を越えて別の大量の情報を流し込んでくれて楽しい。慣らしにズラしにバトルにホロリな落ちのパターンが第1巻といっしょってのが何だけど、それが1番落ちつくのも事実なんで良しとしよー。次巻はニナモリ大フィーチャー、待ち遠しいよー。

 朝日新聞の20日付夕刊「窓」のコラムで「A君へ」なんてタイトルを見かけて何だろーと思って読むと、例の森総理の「神の国」発言に関する釈明会見で、首相官邸記者クラブの人間が想定問答どころか「こう答えなさいそーすればマスコミには追い込まれません」ってなアドバイスを送っていた件に関して、同じマスコミの人間として遺憾だってな内容の記事だった。「日本の政治記者とはそんなものか、と思われるのが悔しい」とは良く言ったもので、だったら普段からどんな質疑応答をしてるんだい? なれ合い会見を続けてやしないかい? 与党なり政党の広報担当になり下がってやしないかい? ってな意見も出ては来るだろうけれど、それはそれとして、首相官邸に現役で詰めている記者が、衆目の関心が集中する首相への糾問に関連して、こうかわせば良いんだってな指南書を作っていたんだとしたら、大きく一線を越えてしまっている観はある。

 政治に限らず取材対象との緊張感を恒に持っているべきなのは経済でも社会でも文化でも、あるいはフリーであっても批評なんかを手がける人なら当然な話。とは言え例えば経済団体とか金融の団体とかのトップが会見する際に、事務方が事前にどんな質問が出そうかを探りに来ることがあって、本来はいけないことでも「資料なんかを用意する必要がありますから」なんて言われて普段の取材での付き合いもあって「示唆」することはあったりする。そーいった悪く言えばなれ合い、良いとは言えないけれど「ギブ・アンド・テイク」な部分を許容できるのも、半ばルーティンと化した定例会見を中身のあるものにしなくっちゃってな意識が働いてのことだと、強弁してできない訳でもない。

 某経済系の大新聞社から某パソコン系出版社へと転職して広報とかの担当をして記者クラブの会見で司会なんかをしていた人を見た時は、質問なんかはこーやって切り抜けたら良いんだと指南してるんじゃないかとか、かつての部下が取材に来た時にはあれやこれやと指導してるんじゃないかってな想像が頭をよぎったけど、それが傍目に好ましいかどーかは別にして、立場を変えての態度だった訳で「ジャーナリストの姿勢がうんぬん」と糾弾するのは難しい。元記者が評論家となって政治家に取り入ってあれやこれや言うのも、「経験を生かした仕事」ってことになるのかも。ホワイトハウスの報道官に米国でも有数のメディアから有能な記者が転職した例なんて過去に幾つもあるからね、現役から見れば鬱陶しいことこの上ないけれど。

 朝日は「週刊朝日」の方でも追っかけていて、他のあらゆるシーンで完璧になれ合いを排除してやっているのかってな疑問が出てきた時に困る可能性を考えると、あんまり潔癖症でいるのも「つらいわよ」なんて茶々の言葉をかけてやりたくもなったけど、逆にどっぷりとハマって何も言えない新聞社もあったりするから、これでバランスは取れてるのかも、ねえ読売新聞さん。だってナベツネさんとこ渡邊恒雄社長自らが指南どころか「キングメーカー」もかくやと思われるようなスタンスで、政治に対して深くコミットしてるんだから、首相への直言を部下が言い出せるはずもない。魚住昭さんの「渡邊恒雄 メディアと権力」(講談社、1900円)を読むと、まだ駆け出しだった時代からどれだけ政治の世界に記者の身分ではまりこんで、メッセンジャーのみならず閣僚人事やら政治家の資金調達やらに「貢献」して来たが書かれている。中曽根康弘元総理が初入閣して皇居で認証を受けた帰りにナベツネさんのところにかけつけたって話もあるくらいだし。

 経営の実権を握ったら握ったで、例えば稲村元環境庁長官の脱税事件、あるいは山口敏夫元代議士への過剰融資の記事に直接だったり無言のプレッシャーでもって圧力を与えていたらしいってな話もあって、首相にアドバイスをしたかしなかったかなんてレベルじゃない、言論機関としての資質をも問われ兼ねない事柄が列挙してあって、事実とすればゆゆしき事態だけどさてはてどう出る読売新聞、大平光代さんや乙武洋匡さんの本の広告はどしどし載せても、同じ講談社のこの広告を「だって事実だもん」と載せる度胸はあるか否か。「事実無根」と裁判にでも訴え無実を証明しない限り、森総理に対する政治記者の指南の是非をうんぬんできる立場には立てそうもない。さてどう出るか。

 それにしても不甲斐ないのは政治記者よりもむしろ森総理のブレーンたち。ブンヤふぜいに指南してもらわなくったって、頭の超切れる官僚やら政治家やら秘書やら元ジャーナリストやらが周りに山といる訳で、テーマが決まっていて、隠し玉をぶつけて来られるよーな会見ではない以上、こう聞かれるんじゃないかってな想定くらいは出来て当然、出来なきゃ無能ってことになる。それだけ記者の状況に対する認識力と対応力を買ってくれてるんだと思えば悪い気はしないけれど、そーゆー人たちが百戦錬磨の諸外国を相手に外交交渉をしたり、経済交渉をしてるんだと思うとなんだか心配になって来る、ってゆーか勝てないのも当然か。メディアの堕落をあれこれ言うより先に国の頭脳の凋落を嘆く方が先かも。

 新聞からネタをもう1つ。毎日新聞が同じ20日付夕刊で「コミック作家と著作権」とゆー話題で、例の漫画家が新古書店の台頭を懸念して作った「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」の事務局で、弁護士の山崎司平さんが文章を寄せている。この件に関しては当欄でもずいぶん昔の4月27日付にあれやこれや書いているから面倒だけど見て頂くとして、中身はおおむね漫画家サイドの立場に立った内容で、「新古書店やマンガ喫茶が、今、コミック作家の権利を大きくしているのである」と訴えている。

 「ある呼び掛け人は『収入が減少したので、人気は落ちたのかと反省した」と発言した。しかしコミック作家の収入が減少したとすれば、コミック愛好家の数は減少していないのであるから、本来はコミック作家に支払われるべき印税が支払われなくなったのである」なんて前後の脈絡がない一文もあったりするけれど(実際に人気が落ちた漫画家もいるし、逆に収入が増えてる漫画家だっているからね)、総体としてマンガ市場なり書籍市場の縮小に新古書市場の台頭が影響を与えている可能性は高い訳で、最後の「コミックの愛好者は、コミックのソフト面、すなわち印税が発生するそくめんを重視しているのであるから、『リサイクル』という一見すると美名のもとに、コミックのハード面にだけ着目して印税が支払われない状態が続くことは、著しく『正義』に反すると思う」という言葉は、問題の本質すなわち「本なりコミックの対価は何に対して支払われているのか」を、わりと素直に言い表しているように思う。

 折しも新古書市場の急先鋒にしてリーダーでもある「ブックオフ」への批判を旨とした小田光雄さんの「ブックオフと出版業界 ブックオフ・ビジネスの実像」(ぱる出版、1800円)が出ていたんで読んだけど、読者が消費者へと変化して本を有り難がらなくなったってな話はそういった部分の確かにある「読者兼消費者」として耳の痛いところではあるけれど、出版革命によって印刷された本が大量に出回るようになったことで情報の共有化なり知識の底上げが出来たって部分も一面にはある訳あし、時代の変化に伴う気質の変化はいかんともし難いもので、むしろそうした変化と折り合いをつけながら、どうしゃって「クリエーター」が良い作品を作り続けられる環境を整えてあげるか、そのプロセスにおいて出版社が必要なら出版社の利益を、書店が大切なら書店の利益を考えていく積み上げが必要なんだろう。

 ひるがえって「ブックオフと出版業界」は、ブックオフを持ち上げるマスコミが悪いだの、実はそんなに儲かってなんかないといった、僕の思う本質とはちょっとずれた批判ばかりが目立って読んでいて隔靴掻痒、というよりは足の中が痒いのに頭をはたかれているよーな印象を受けて正直思考の役に立たない。「ブックオフ」を利用している人の多くがどうして「ブックオフ」を使っているのかとゆー、経済的に切実だったりする理由への想像をめぐらす訳でもなく、「ブックオフ・コーポレーション」を率いる坂本社長を「宗教のようなところがある」(209ページ)といって非難し、斎藤貴男さんの「カルト資本主義」を持ち出し「加盟店やパート、アルバイトの若者や女性たちのグルとしてのブックオフ運命共同体を司っている」(212ページ)と言ってのけるのは、ブックオフから「奪還」すべき読者(あるいは消費者)をも含めて「カルト信者」と言っているに等しい。これは拙い。

 「本」が好きで「ブックオフ」を非難するのだったら、今は消費者であっても将来は読者となって出版業界の発展に貢献してくれそーな人の気持ちを忖度し、かつ「本」というものが世に問われる上で本屋よりも出版社よりもクリエイトする作者がやっぱり大切なんだとゆーここを考えた上で、だからどうしたら良いんだろうってなことを考えさせてくれるよーな分析が欲しい。だったらお前がやれ? 弱小新聞社のおたく記者が言っても説得力がないから、まかせますよ大新聞の学芸部文化部の記者サマ方。


【6月19日】 布っ切れを張り合わせて取っ手を付けただけなんで軽いことと、口が大きく開いているから中の品物を出し入れしやすいことが案外と便利で、「トートバッグ」を実は僕もここ何カ月か愛用していたりして、会社にだってそれを肩にぶら下げて行ってるんだけど、ハイナー・シリングのイベントに登場した山形浩生さんも、やっぱり白のズダ袋ってゆーか「トートバッグ」を肩に通してたりしてて、主婦御用達の省ゴミ買い物袋に見えないこともないけれど、やっぱり便利さを買ってのことなんだろーか、それとも本当にスーパーに買い物に行く途中だったんだろーか。ゴツいエンジニアリングブーツに黒のスーツに白のトートはなるほどそぐわないかもしれないけれど、新聞記者が青のトートってのとどっちが似合わないんだろーか謎。「男がトートはみっともねえ、あたいがゼロのアタッシェ買ってやるよ」とゆー奇特な篤志のパトロンがおられるならそれは拒絶はいたしませんが。

 明け方までかかっても出来上がらなかった原稿をちょい仮眠してから一気に仕上げてメール、次回7月10日とゆー僕の二卵性双生児の弟の誕生日なんて全世界的に目出たい日に発売される「電撃アニメーションマガジン」は、「信仰」やら「伝承」なんかの重要さが盛り込まれた池上永一さんの「レキオス」に北森鴻さん「凶笑面」に加門七海さん「呪の血脈」に平谷美樹さん「エンデュミオン エンデュミオン」がメインの4冊で下は早川書房が満を持して大々的な広告まで打って送り出したマイケル・クライトンの「タイムライン」を押しのけて、頂戴した「スター・ウォーズ ローグ・プラネット」(グレッグ・ベア、大森望訳、ソニー・マガジンズ、1600円)が入ってほかはヤングアダルトに航空アクション&ロマンに画集。村田蓮爾さんの画集はピンクの箱入りなんて豪華なパッケージに負けず中身も豪華絢爛、40枚のイラストは目の大きくって丸顔で触れるとプニプニしてそーな体つきをした女の子たちが描かれて永久保存が必至の逸品。データブックも絵を描く時の試行錯誤なんかが書かれているから絵描きには訳にたちそー。3500円は高いけど、買って損なし。

 ルナテックってゆー平井和正さんの作品をネットで販売しているサイトを運営している会社からリリースが届く。すでにノベルズの方で平井さんが予告しているよーに「月光魔術團シリーズ」の第3部にあたる「幻魔大戦DNA」は紙の本としては出版されず(逃げたかメディアワークス)、仕方がないのか開き直ったかネットのみでの販売とゆーことで20日から「e文庫」ってところで全13巻が順次ダウンロード販売されることになったとか。紙で出せないことはなるほど作家のポジションに対する1つの解答ではあるけれど、普遍的な人気はともかく1部にカルト的な人気を未だ持ち得ている作者だけに、ネットとゆー世界で限定されたマーケットに向けて販売するのは1つの手かもしれない。見返す意味でも作家と読者がダイレクトにつながった「未来の」出版形態をうかがう意味でも是非とも成功して欲しい、とにかく未だにあたしは差し金の入ったヒライストだから(でもノベルズ買ってねえ)。

 それにしても驚いたことに平井さん、別の「ウルフガイ・ドットコム」ってサイトで「幻魔大戦」のナマ原稿に「エイトマン」の原作ナマ原稿なんかをオークションにかけてファンに頒布してしまうとか。それなら一種のファンサービスと言えないこともないけれど、何でも平井さん、「メガビタミン」ってノーベル賞を2度ばかり授賞した学者が提唱する、ちょっとばかりじゃせせこましい、大量に取ればビタミンCは風邪も病気も撃退するんだってな思想にどっぷりはまっているらしく、オークションの収益をその学者先生が書いた本の翻訳自費ネット出版の費用にあてる考えだとか。「メガビタミン」自体の信憑性については専門家の解答に任せるとして、関心を持ったことには迷わず突っ込み実践して成果があれば高らかに喧伝するのは、なるほど平井さんらしーとゆーか変わってないとゆーか。それほどアブない方面でもないから、行く末を暖かく見守りたいです、ナマ原稿とか落とせるといーな。

  どーゆー伝(つて)かは自明だったりはするけれどとにかく回ってきたオンライン書店「ビーケーワン」向けの本紹介文を書かなきゃなんなくなって締め切りが迫ってたんで、手元にあった「M.G.H 楽園の鏡像」(三雲岳斗、徳間書店、1600円)の紹介文を突っ込む。「SF」の王道にして覇道を行く世紀末勇者伝説的作品かといわれればパワーにいまいち欠けるってな印象も実はあるし、だいいち「SFJapan」で好評だったイラストを一切のっけておらず「売る気あんのかい徳間書店」ってことで意見の一致を見た単行本版だけど、「SF」の名前を関するコンテストから出た久々の作品で中身もA標準は超えてるから、取りあげない訳にはいかないなー、と自分で納得する。

 問題は誰かと重なってないかって点だけどきっと大丈夫なんだろー、むしろ問題はメンバー的には最後っぽい所で入ったにも関わらず、回ってくるのが最初だったりする締め切りで、来月早々には1本を決めなくっちゃいけないらしー、「ヤングアダルト」って5日とか10日とかってな発売が多いしノベルズも10日前後なんで探すのは6月売りの中からになりそー、ってことややっぱり今回は逃げたアレになるのか、ガキと幼女がヤっちゃって生まれた子供が大金持ちのプロスナイパーって滅茶苦茶爆裂ラブコメに? とにかく「本を売る」ためのサイトに出す文章だから「売れる」文句を並べるのが常套、なんで「是非これを」ってなヤングアダルト作品を書いて出版間近って作家な人は、「取りあげろ取りあげろ」ってな念力をモニターを通じて僕の「LC575」へと送って下さい、電磁波遮断エプロンを超えられる念波が出せたら答えさせて頂きます。


【6月18日】 青山の「NADIFF」へ。「サイゾー」でも紹介されていた、「家においでよ」の……じゃなくって同姓同名ながらも近年メキメキとメディアへの作品の露出が増えている写真家の飯島愛さんが作った、オリジナルのプリント10枚セット限定50部の作品集「Love pieces」を買いに行ってエディション・ナンバー19を手に入れる。5000円とゆー値段は1枚当たりの単価で500円だから、写真家の「オリジナル」のプリントとしては格安なんだろーけれど、50部「も」作るってゆーところで唯一絶対の価値を掲げたがるアートなマインドに照らし合わせると、それでも高いと思う人がいるのは「写真」とゆー作品が持つ宿命みたいなもので判断が難しい。

 写す行為、写った対象なんかを含めて「作品」と見た場合、10ページしかない写真集が5000円もしたら怒る人がいるだろーからやっぱり難しいけれど、写真集を数10部だけ自主制作したら印刷でも大変な値段になってしまうだろーからやっぱりお買い得な「作品集」か。まあ外部の環境から値段をあれこれ言うんじゃなくって、内容に対してどこまで自分が出しても良いと思えるかってな内部の衝動から値段を類推すれば、私生活スナップや街並み斜め切り、開き直ったアレブレなんかが多い「Jフォトグラファー」の頻出する中で、割と真面目に真っ直ぐに撮っていて、クールってよりはどこか淡く暖かい感じがある飯島さんの作品は、「好き」の部類に入るから妥当と見るのが妥当だろー。

 とは言え同じ写真を「男」が撮影していたら買うかって言われると途端に怪しくなるのが現実で、かつ名前が「山田花子」だったら関心も及ばなかった可能性が高い訳で、そーゆー下から舐めるよーな野次馬的な視線を本人が例え鬱陶しいと感じているのだとしたら御免とは謝るけれど、すでに知ってしまったプロファイルを頭から完全に払拭して思考するのは多分無理。むしろそんな部分をアイキャッチにして男のシタゴコロやら女のヤッカミを取り込みつつも、純粋な「作品」としての部分で勘違いをひっくり返して、よりメジャーな部分へと切り込んでいって欲しいと願ってはいるけれど、メジャーになればなったで、男社会のマスなメディアが今以上に好奇な目で煽るだろーからなー。とにかく4タイトルをシリーズで完結させて、プロファイルとは無関係な部分で人目を引くよーになって下さい。

 大森望さんより拝領の「スター・ウォーズ ローグ・プラネット」(グレッグベア、大森望訳、ソニー・マガジンズ、1600円)を読む。あの「ブラッド・ミュージック」のベアが初めて挑んでついでに大森さんが初めて関わった「スター・ウォーズ」ノベルズってこともあるし、本読みの仕事をやってても山ほどの本が送りつけられて選ぶのに困るなんて経験も皆無だったりするんで(本屋で買い込み過ぎて選ぶのに困ることはしょっちゅうでも)、有り難く来月の「電撃アニメーションマガジン」のレビューに採用させて頂くことにいたしましたんでまず読む。舞台は「エピソード1」から3年後でオビ=ワン・ケノービの弟子になったアナキン・スカイウォーカーが2人で未知の星へと乗り込んで、行方不明になったジェダイの姉ちゃんを探すついでに宇宙最速とかゆー宇宙船を作ってもらう、ってな話にまだ若いモフ・ターキンが絡むって展開。

 宇宙を突き進んで惑星を攻撃する衛星のアイディアをターキンが膨らませている場面があって、それがあーなってそーなった結果、77年公開の第1作目でかつて野田昌宏さんも演じたとゆー「デス・スター」(お腹に描いたんだそーな、それも油性マジックで)へと発展していくんだなーってな楽しみが、中学に入ったばかりだった78年の日本公開時にペプシならぬコカ・コーラを呑んでウラに名場面が描かれた王冠を集め、明治だか森永だかから出たキャラメルにチョコを家の財布から金盗んで近所の菓子屋へと買いに言っては中のオマケに一喜一憂し、映画は最初は弟と友達と3人で見に行きテーマソングの入ったドーナツ盤を買い、後で1人で家に黙って見に行ってお小遣いを使い果たし、バンダイだかから出ていたムックを貪るよーに読んだ程度の薄い「スター・ウォーズ」ファンでも感じられて良かったです。

 どっちにしたってワルモノになることが決まっているアナキンが、どーやって堕ちて行ったかをほのめかしながら描かざるを得ない当たりに、オリジナルではあるながらもブリッジノベルとしての制約があって手出しする側もあれこれ考えるんだろーけれど、約束はちゃんと押さえた上でベアらしさって言うならなるほど「ブラッド・ミュージック」のベアらしいアイディアが盛り込まれていて、もちろん「エピソード1」は見ていた方が楽しめるしシリーズのせめて第1作くらいは見ていた方がなお楽しめるのは間違いないけれど、一応の知識さえあれば後はいわゆる惑星探検物SFみたく読めるんで、映画を見ていない人でも(まずいないだろーけど)とりあえず読んで損なし、と宣伝。関係ないけどターキンのライバルめいたメカおたくの経営者が出ていて名前がレイス・サイナーってことはルイス・シャイナーの親戚か誰かなんだろーか、でも瞳が緑なんでルーシャス・シェパードの親戚とか。


【6月17日】 横浜へ。日本のヘンな建物やら郊外の風景やらを撮り続けているドイツ人の写真家、ハイナー・シリングの展覧会に関連したトークショウの2回目は、日本の郊外を撮影した写真集「東京郊外 TOKYO SUBURBIA」で木村伊兵衛賞なんかも授賞したホンマタカシさんに山形浩生さん、司会に荒木経惟さんの解説本なんかで名前を見かける八角聡仁さんを迎えて、タイトルもズバリな「郊外をめぐって」、になるはずだったけれど日本で言うところの郊外=新興住宅地=無機的ってな連想から最近の人間のココロの荒み具合の一因とされる傾向が、木村伊兵衛賞の授賞によって一気にホンマさんに向かったのか散々っぱら聞かれたらしくホンマさんが食傷気味で、話を別方向へと逸らそう曲げようとして頑張って、関心のあった「郊外話」は少なかったけど(でもエッセンスは嗅げた)別のいろんな話題が聞けてなかなか為になった。

yamagata  とりあえず見たのはホンマさんが現在ドイツで撮影しているらしー空撮シリーズでベルリン上空を撮影したもので、巨大なニュータウンっぽい団地が続く様なんかは日本の浦安あたりと言っても差し支えのない景色。これに関連して地域開発が専門な人らしく山形さんが役所の設計試験で出されるらしー課題を持ち出して、2万人が入る住宅地を作れって言われた時に最初はしょこしょこと小さく綺麗に住宅街なんかを作っていたら時間がなくなって来ているのにまだ1万人が入らない。仕方がないのでえいやっと1万人を押し込む団地をぶっ建てて辻褄を合わせた時の感じに似ていると言う。つまりは数字と技術が共通だったら、どうしてもこーゆー感じになってしまうものらしく、だから世界のどの国を見ても同じよーな景色が出来てしまうとゆー。

 もっともよりミクロな視点で見ると、どこかに個性を出したいよーってな頑張りが見えるものらしく、例えばハイナーの写真では公園で子供が乗ってる魚だか何かの形をした遊具の部分なり、細かなせこい部分での差異を付けよーとするものだから、それが経済的、技術的な制約なり限界から没個性かせざるを得ない全体とのあいだで微妙なズレを生じさせて、郊外の風景をどこか不思議なものにしている、とか。なるほど印象として感じた違和感を、人間の感性の変遷ってな部分からじゃなく、厳然として存在する経済的、技術的な制約の部分から規定した上で考えてみるってアイディアはほかにもいろいろと適用できそーで、視点の1つの軸として目の前にある品物1つをとってもそーいった部分があるのかないのかを、あちゃこちゃ考えてみるのも面白いかも。

 さて巨大なニュータウンに限らず個建ての住宅でも規格化されたものが延々と並ぶ風景ってのが新浦安付近とか各地には結構あるもので、どの家が自分の家だろーと迷わずに皆さん良く返れますねと常々不思議に思っていたけれど、こーゆー没個性化はハイナーに言わせるとドイツでも進んでいるよーで、最近のシリーズとして見せてくれたプリントはそんなドイツ的規格住宅の外観を正面からまっすぐにパチリと撮影したもので、並べていくと個別にはいささかの差異はあっても、全体のトーンはいっしょとゆー印象が立ち上っ来る、らしーんだけど日本のいかにも同じって建物に比べると、ドイツのはそれなりにバリエーションがあるし、なにより日本の規格住宅にあるよーなペラペラ、パカパカな感じがしなくって、どこが没個性的なんだろーと思ったたのは、兎小屋に慣れてしまった日本人の磨耗した感性のなせる技、質実剛健でなるドイツは一方で「バウハウス」なんかを作ったデザインの国だから、経済と技術によって規定され均質化されてしまう風景への反発を抱く気持ちが、ちゃんと残っているんだろー。

 逆にホンマさんの方は、そーいった感情から離れて均質化の中の差異なり差異を超えた没個性化をそのまま楽しむ方向にあるんだろーか、無理に郊外を何らかの象徴ととらえて、そに何を見たのかってな言及をホンマさんに求める風潮を嫌って答えをはぐらかすはぐらかす。ハイナーが学んだ環境やカリキュラムなんかを本人に聞いたり、写真家家アーティストかなんて頻繁に聞かれるんだけど撮ってる側には関係ねーよってな質問をハイナーに降って、やっぱりそーだってな答えをもらってそーだろうってな感じを盛り上げるのは、司会で無理矢理話を纏めようとする評論家へのイタズラ心か反発心か。個別の差異を拾って鋳型にはめ込むのが仕事な批評活動への、実作者のスタンスめいたものが見えてなかなかに面白かった、とは言え自分の活動範囲はどちらかとゆーと八角さんの側なんで、同時に背筋に針をピンと通された気分になって痛みが脳天から尻へと突き抜ける。難しいなあ批評って。

 ホンマさんはほかに、建築物をいくら綺麗に作っても外国の人が見るのは写真でなんかだら建築家はもっと建築写真を撮る写真家を大事にした方がいーよってな話とか、絶対非演出による絶対スナップではなく演出しているのかしていないのかを曖昧にして見る側が戸惑うよーにしたいってな話とかをいろいろ。質問コーナーでは写真の「テーマ」ばっかり聞く人が多いけど目の前に写真をやってる人間がいるんだからどーしてもっと技術についての質問が来ないのか、ってな事を言ってみたり。作品を批評することが作品を作り出すことよりも1段高いところにあって、だからテーマがどうとか「郊外」がどうとかって事は質問はしても、具体的な作品を生み出す技術についてはこーゆー場では聞かないんだろ? ってなニュアンスがあったか無かったかは別にして、いろいろと受け止めるべき内容があったイベントでした。作品とは全然関係ないけど、山形さんは相変わらずのエンジニアリングブーツでホンマさんは多分レッドゥイングのスゥエードのワークブーツ、ハイナーはチャッカーブーツでブーツがハイエンドな人のトレンドか。

 アートにメインカルチャーでハイブロウなイベントの後でも横浜駅前の「アニメック」によるのは条件反射なお約束だから仕方がない。夏目さとるさんの「人造少女」(角川書店)を上下で購入、連載時とかに読んだことがなくこれが初見だけど、起きたら脳味噌が美少女の中に入れられてたって出だしに弓月光さんの「ボクの初体験」を瞬間で思い出せるのは歳寄りの特権かそれとも哀しみか。軽い学園コメディに行くのかと思ったら、「輝夜姫」っぽい話も盛り込まれてたりしてシリアスな方向へと進んで行って、ここから広げれば結構大きな風呂敷になったところを、人造少女を作った凄腕の錬金術師の出自来歴が不明だったり、敵になる錬金術師の来歴目的がやっぱり不明だったり2人の優れた錬金術師のバトルがしょぼかったりして、話が膨らまないまま終息してしまうのはページ数の制約なのか当初からの意図なのか。ちょっと勿体ない気もしたけれど、女の子が可愛いんで全部許す、ああ批評になってない。


【6月16日】 正しい日本人らしく「モーニング娘。」のビデオクリップ集DVD「映像 ザ・モーニング娘。ベスト10」を見る。誰が誰やら。結成した当たりと「サマーナイト・タウン」「抱いてHO−LD ON ME!」のヒット、福田明日香の脱退から全日空だかJALのキャンペーンになった「真夏の光線」から飛んで「LOVEマシーン」の大ヒットってな具合に、ポイントポイントくらいしか見てなくってそれもじっくり見たことがないから、何とゆーメンバーがいるかくらいの知識はあっても誰が誰なのかがさっぱり分からずキモチワルイ、んでネットで増員脱退の歴史を変遷なんかを調べつつ誰が誰だってな当たりをつけていく。

 通して分かるのが飯田圭織、だってデカいから。あと鼻ピアスの石黒彩も顔が濃いから判別つきやすくって、フロントの安倍なつみと脱退時にたくさん露出してた福田の違いが分かって中澤裕子は年寄りってことで初期の5人はオッケー、あと後藤真希は最近なんで出てるの少ないんでオッケーで、最近脱退した市井紗耶香も眠そう系の美人なんでビデオクリップで瞬間映っても分かりやすい。問題だったのが「プッチモニ」「タンポポ」で追っかけてなかった保田圭と矢口真里の顔も声も実のところは名前すらも判然としなかったけれど、別に知らなくってもいーかー、なんてことはファンの大勢きっといるだろー事実に配慮して却下して、それでも小さいのが矢口で髪の毛がプードルみたいのが保田、って感じでとりあえず納得。追加の4人? もーいー。<

 「ASAYAN」での苦闘物語をあんまり知らない目で、純粋に配置と楽曲だけで10曲を見ると、5人から8人への追加にはあんまり違和感がなかったけど、「真夏の光線」から「ふるさと」とへと流れてボーカルを聴かせるユニットとして良い雰囲気が出てるなー、と思ったところに「LOVEマシーン」が来た訳で、驚いた人はきっと驚いたんだろーなー。とはいえそこいらで釘付けにされた人も相当にいる訳で、以後の「恋のダンスサイト」「ハッピサマーウェディング」と続く色モノ風な集団ダンス路線があるいはいきなり前のしっとり路線、ハード路線なりへと展開していけば、そろそろ食傷気味になっている人の、目先が変わって次のステップへと移れるのかも。どっちでも良いけど。

 クリップとしては「真夏の光線」が市井戸がたくさん出てるから、じゃなくって楽曲が良いから好き、あとヒット曲で頭に残ってる「抱いてHOLD ON ME!」かな。メンバーでは誰が良いかって? それはうーむ、何かの漫画だったかに出ていたんだかで忘れてしまったんだけど、たぶん「動物のお医者さん」の漆原教授だったと思うけど、子犬が生まれて可愛い元気な子犬が欲しいと思っていたのに、弱々しくって色柄も好きじゃなかった1匹をもらって帰って来てしまう性格に似たところがあるからなー、ってことで。だから誰なんだ? うーむ。

 「IN☆POCKET」を買う。「アカシックファイル」を連載している「築地の先生」こと明石散人さんの仕事場をイラストで大公開とゆー企画が載っていて、古今東西和漢洋を問わず資料を引っ張り知識をめぐらせて新説異説を繰り出す人の仕事場がいったいどーなっているのか興味のある人も多かっただろーから、まさにその希望に答えた企画ってことになる、有り難う御座います北村周編集長。実のところはオフィスには入ったことがあってアーカンソー教会にあったベンチも本棚に並ぶ京極さんの本も入り口に張ってある張り紙も見たことがあったんだけど、探せば何だって出てくるんだよと言っていた史料の置いて有る書斎の方は連載のイラストが初見、なるほど確かに何だってありそーな部屋ですね。

 「古事記」真福寺の写本とか「源氏物語」室町期の遊行三十三題普光自筆本とかを持ってるってゆーことも羨ましいけれど、目録をそろえて史料へとアクセスする窓口にしているらしー分類・整理の方法は、原史料を並べて悦にいるんじゃなくって何が実際的かが考えられていて面白い。もちろん適切な目録を選んでそこから適切な史料を探し出すことができるだけの知識のバックボーンと、目録から先へと進んで原史料に実際に当たることが出来る環境があってのものだったりするから、真似して目録だけ集めたって駄目なんだけど。って訳で「謎ジパング」(明石散人、講談社文庫、648円)絶賛好評増刷中、解説は誰だ?


【6月15日】 ボーナスが200万円ほど出たんで早速築地の鮨屋に行って鮪の良いところを食い散らかそーと思ったけれど根が貧乏性なんで大トロが頼めず中トロだけになってしまった所に自分の人の良さを感じ……たいもんだなあ、200万のボーナスだぁ? いったいぜんたいテレビ局の正社員ってのはどーしてそんなに年収が良いんだろー、景気だって低迷してるし視聴率競争だって厳しいなかで新しい設備投資に百億円の単位でお金を注ぎ込まなきゃいけないってのに、30歳で1500万円の年収で40過ぎると2000万円もザラってんだから恐れ入る、「週刊文春」最新号を参考のことね。

 さすがは三冠王の日本テレビはボーナスの金額こそ良いものの、全社平均だとお台場にある目ん玉のテレビ局だって、本給がえっと30歳くらいで36万円だったっけ、それに手当が何十万も載ってボーナスもたっぷりで年収がやっぱり1500万円くらいは行ってしまうとか。同じ目ん玉を名刺に刷りながらも大手町の万年赤字&人手不足新聞社はそれより年齢がぐーんと上がっているにも関わらず、年収では半額も行かないんだから堪らない。正論な親の新聞の方はそれでも時間外の手当がみなしで厚かったり、ハイヤー乗り放題の役得があったりするから雀の涙くらいは上乗せになるんだけど。それでもまー、土日に遊んでられるんだから半額以下でもいーかなー、えっ拗ねて週休6日の人でも1000万円? テレビ局員募集してなかったかなー。

 一応は本当に至急されたボーナスだって3ケタに届くためには雪解けの始まった北朝鮮と韓国の国交回復への期待すらも乗り越える困難さが待ち受けていそーで、夢の1000万円をこの手に掴めるのは一念発起して書くかもしれない小説が江戸川乱歩賞でも授賞するか、定年近くになって物価が超インフレになって1000億円札なんかが出て来た時くらいかも。とりあえずはリーバイスの立体裁断なエンジニアジーンズを買って近所の安売りシャツ屋で半袖のボタンダウン買って溜めてる佐藤春夫全集を引き取りに行ってデジタルカメラの借金を払えばほとんどが飛んでいく計算。あと1万円のウクレレと、スニーカーと大塚ヒロユキさんところが作るらしー「ウサギムササビ」のオシャレなTシャツなんかを買って、日本SF大会のお金を払いたいんだけど、こーゆー時に家電製品の故障寿命が相次ぐものなんで、そのあおりで突発的な買い物をして足が出て赤字生活へと入ってしまうんだ。あー夏も終わったなー、冬のボーナスはまだかなー。

 地下鉄で女子中学生だか女子高生だかが3人、それぞれに「ワンダースワン」を持ってゲームをやってる姿を見かけてちょっと不思議な気分、1人は「たれぱんだ」バージョンで別の1人はメロン色したパステル調のバージョンだったりする当たりのマシンへの拘りぶり、加えてやってるゲームが「デジタルモンスター」って当たりに、あるいは大人の男の知らないうちに、地下組織「女学生ワンダースワン&デジモンネットワーク」なるものが出来上がっていたりするのかもしれない、それとも「フリクリ」効果か。女学生の流行って奥が深い(単純にゲーマー女学生だっただけかもしれないけれど)。次は学校でリッケンぶん回すんだな。

 ふらり池袋へと出て最近の玩具なんかを観察、バンダイが「ロボットコンテスト」に触発されて作ったっぽい、フィールドにおいてある四角い物体を、クレーンだかフォークリフトみたいな可動部分を操作して取り合う動く玩具があったけど、ロボットなんだからマジンではなくても電子頭脳はのっけてるだろーから「ノットデジタル」には弱いかなー、とか思ってデモ機を見たらドッカン、単なるリモコンマシンでやんの。どう考えたってここからロボット工学の道へを足を進めそーな人間は生まれないと思うんだけど。これをして「ロボコンからインスパイア」なんて言うんだったら、起こるサイエンスライターとか出て来そーだなー。センサーが入ってる分まだ「ジャレット」の方がロボットっぽいぞ。

 現場の正義と国の正義がガチ合うなかに欲望と保身の醜さも混ざって複雑な色彩をなしていた夏美正隆さんの「僕はイーグル1」(徳間書店、1300円)もいろいろと考えさせられる小説だけど、夏に登場する映画「英雄の条件」も同様に軍隊の正義と国家の正義がぶつかり合う様子を描いて見る人に戦争とは、国家とは、忠誠心とは、ってなことを考えさせる意味で、結構な話題になりそーな気がする。ギャガ・コミュニケーションズの試写がヤマハホールであったんでのぞいたもんで、最初はもっと戦争&法廷物のミックスジュースみたいな活劇サスペンスロマンかなー、とか想像していたらとんでもなくどシリアスな展開で、来ていた襟川クロもおすぎも後の批評に困るかもなー、とか思ったけれどどうにでも言い繕う人たちだし、トミー・リー・ジョーンズ老け役でも格好良かったんで、あるいは高い点数が付けられるかも。

 ベトナムで全滅になるところをサミュエル・L・ジャクソン演じる仲間に助けられたトミー・リー・ジョーンズ演じる海兵隊員がいた。その彼が退役するかしないかの間際になって、彼を助けた男がイエメンで大使館を取り囲んだ民衆に向けて発砲し、83人が死んでしまったとゆー事件が起こる。民間人に銃を向けたってことで軍法会議にかけられるけど、当人は銃を向けたのは民衆の中にゲリラだかが交じっていて銃を撃っていたからであって仲間を守るためには当然の行為を主張、でもって自分を弁護して欲しいと戦友だったトミー・リー・ジョーンズに依頼する。民衆が海兵隊に向かって発砲している姿を見たのは支持を出した大佐だけ。監視カメラがとらえた映像は省みられず、民衆をいたずらに殺害したとゆー国際的な非難もあって、裁判の流れは大佐に不利に進んでいく。

 で、トミー・リー・ジョンズ。イエメンまで出かけてベッドでのたうち回るけが人を見て、本当にサミュエル・L・ジャクソンが信じられるのかに疑問を抱くけど、実直にして真面目で愛国心が強く仲間思いの大佐が感情にまかせるままに民間人を殺戮するはずがない、との思いもあって迷う。そんなこんなで前半の迫力なる戦闘シーンが後半一転してスリリングな法廷ドラマとなる展開は、戦争映画と法廷映画の両方を1度に楽しめる1粒で2度美味しい映画かも。イエメンで助け出される大使をリチャード・アッテンボローが演じてたりしてキャスティングも豪華、監督はエクソシストのウィリアム・フリードキンね。

 さて、問題となるのは例えば大佐の言うよーに敵にゲリラが交じっていて、回りに民間人がいるにも関わらず一斉射撃を命じるのは良いか悪いかってな「高度に政治的」な判断を要する部分で、映画でもそーした政治的な思惑と、純粋に命令と信念にもとづいて行動する海兵隊員の融通は聞かないけれど実直で頼もしい姿が交錯して、見る人にさてはてどっちが正しいふるまいなのかを考えさせる。心配なのは大佐のとった行動を指して、「そら見ただろう、仲間を、国を守るためには時には鬼と後で呼ばれようとも行動しなくてはならないのだよ」と言い出す右っぽい人たちが出て来そーな点。あるいは軍隊が仲間の悪事を庇おうとする様を、最近の組織ぐるみの不祥事隠蔽交錯と関連づけて非難したがる左っぽい人たちが以下同文。

 けれども釘を指しておきたいのは、サミュエル・L・ジャクソン演じる海兵隊員の行動には恒に筋が通っていて、間違ったことなど絶対にしない人間であると分かっている点で、だからこそトミー・リー・ジョーンズも疑わしい証拠がどんどんと出てきても彼を信じて弁護出来たんだろーし、見ている方も彼のすることだったらと、見かけは残虐な行為でもあるいは正当性があるのかもと信じて見ていられる点。自分たちを守ってくれる軍隊が信じられなくなったら終わりだし、軍隊だって信じてもらえなくなったらやっぱり終わり、そこん所の矜持をちゃんと保ち続けているんだと、認識されているうからこそ成立する映画だと思う。

 ひるがえって組織防衛のためには疑わしい相手でも無罪にするとかってな、日本の役所なんかで一時期頻発した振る舞いとは精神性の部分で全く違うってことだけは考える必要がある訳で、仮に映画での仲間意識の強さを持ち出して、「だから自分たちの隠蔽工作は正しいんだ」なんて言い出す人がいたとしたらお門違いも甚だしいし、「自分たちで裁きますから」と言ったところで誰もが良心に従って行動している、ように見える映画の海兵隊とは違って誰かの保身、誰かの欲望を満たそーと組織が動いているってことがバレてしまっている日本の組織に、信じてまかせる人はいない。利用されやすい題材をはらむだけに、利用されずに正しい部分を組み上げ生かすための「見る目」「語る口」を準備しておこー。全国東急・松竹洋画系で8月上旬ロードショー。


【6月14日】 「共産党は君主制を否定する」と言っても「自由党はより国粋主義」と言っても「だったらあんたは君主制を肯定するのか」「少しは国粋主義なのか」と突っ込まれる森首相、李下に冠を何とやらで気を付けて言わなければ良いだけのことなんだけど、言ったからといって当人のおそらくは見知った単語を並べて気分を出しているだけのコメントを、無理矢理失言へとこじつけよーとしている築地マスコミの仕事ぶりにはやっぱりやれやれってな気分が起こる。

 もっと別の本質的に正面から突破しなくちゃいけないところを、脇からすぐに切れるよーな糸でもって足をすくおうとしたアリバイを作って世の中変わるのかい? 変わったらそれこそ既得権益も何もかもがなくなるから、イジったふりに止めるのが共存への正しい態度なのかも。とは言え1度はナマ失言って奴も聞いてみたいんで(どんなニュアンスの言葉が作為の上に記事化されるのかってのも調べてみたいし)、明日は朝から船橋駅前で開かれる森総理の街頭演説、ちょっと聞いてみよーかなー。

 すでに映画は公開された、オウム真理教(現アレフ)の荒木浩広報部長に密着したドキュメンタリー映画「A」を撮った森達也さんによる「『A』撮影日誌」(現代書館)を課題図書で読む。松本サリン事件に地下鉄サリン事件を起こした教団であることは厳然たる事実で、実行した人々は裁判によって裁かれ罰を受けなくてはならないけれど、だからと言って明らかに不思議な別件逮捕や弾圧といったものに対する、地域住民ならまだしも一応は権力と対峙して中立公正を旨に戦うことを標榜しているマスコミの、思考が停止してしまっているとしかとれない一方的なスタンスまでをも、認めていいのかという疑問が、筆者の見たオウムの日常から浮かび上がる。

 圧力をかけて潰そうとするくらいは世間体を考えてのことと理解はできても、報道の自由をふりかざして筋を通せと言ってるだけの相手を屈服させようとする態度を見せたり、会見のほんの一瞬の苦笑を「ふてぶてしい笑い」とか言ってフレームアップして見せるスタンスの、どこを切ったら公立中正なんて言葉が出てくるのかが不思議で奇妙で仕方がない。別にワイドショーが人間につきものの好奇心を満たすために吶喊するのは不思議には思わない、それが資本主義なんだから。

 でも一面で人権だの対権力だのと言ってるメディアの、けれども特定の相手には報道の自由をふりかざして迫る態度は、どこか外れてしまっているとしか思えない。記者クラブで撮影していた森さんを恫喝する若い記者って、どこに向かった正義を振りかざしているつもりなのか。「自分に対する問いかけをやめてしまったものの暴走」とオウムの事件を指摘する解説の芹沢俊介の言葉は、そのままメディアにも向けられている。痛いなあ。

 メディアが思考停止状態にあることは、もはや周知の事実らしく、夏見正隆さんが書いた何て言ったら良いんだろう? 航空アクション? 自衛隊サスペンス? それともやっぱりSFなのかもしれない「僕はイーグル1」(徳間ノベルズ、1300円)に登場する、自衛隊のやることなすことすべて悪ととらえて糾弾する方向へと持って行こうとするマスコミのスタンスは、デフォルメこそされてていも大筋として間違っていなかったりする当たりに、一般市民のメディアリテラシーの萌芽を感じつつも、気づかぬは当人ばかりなりな尊大にして自意識過剰なマスコミの未来をちょっぴり心配する。見透かされてるんだよー。

 国籍不明機に領空侵犯を受ける自衛隊を舞台に、シビリアン・コントロールとは言いながらその実八方美人で無責任な体制が蔓延した中で、どこかいいる誰かの顔ばかりを気にして自縛する幹部たちの奇妙な振る舞いや、その配下にあって、闇雲に正義の心だけで突っ走ることを牽制されているパイロットたちの苦渋が描かれる本作。とはいえパイロットが使命感から振りかざす正義じゃなく、大局を見た上での政治的に正しい判断が持つ正義もちゃんと示されていて、いったい何が正しいのか、それとも正しくないのかを自分の頭で考えさせるよーになっている。正しくないことでも正しいことをしているように思っていれば安心できる風潮に、中立の立場から切り込もうとするのはどこか森達也さんのスタンスと似ている。

 官僚の仕組みや政治の仕組みについても、小説的にオーバーにはされているけれど、選挙が大事な政治のうろたえぶり、あるいは高度な政治判断をすることが自分の役目と任じる高級官僚の過剰なまでの自信、血気盛んで使命に萌えた若者がシステムの中で磨耗し疲弊していくやるせなさ、なんかが納得可能な形で描かれていて驚く。どーやって調べたんだろー、榊東光さんの「三本の矢」とか読み込んだのかな。本職らしく飛行機ジェット機戦闘機に絡んだ描写の濃さは流石。現実の日本を舞台に進んでいるらしー物語の、途中から立ち上がるポリティカルにフィクショナルな出来事が果たしてどんな影響をもたらしてくるのか、架空戦記ならぬ仮定戦記の行く末を南北北朝鮮会談が行われたタイミングの良さも合わせて考えてみたい。続巻はいつ出るのー。


【6月13日】 川崎へ。ナムコが新作の業務用ゲーム機の展示会をやってるんってんでのぞく。まず目立ったのがカートのボディをそのまま乗せたレーシングゲームで、右アクセル左ブレーキ、だったかあるいは逆だったかもしれないけれど、ワイヤーで作ったよーなペダルを交互に踏み込んで小さなハンドルを右に左に切りながら、目線が路面ぎりぎりのコースを進んで行くカートの雰囲気がそのまま出ていて、ちょっちやってみたい感がムクムク起こる。

 でもカートって失敗した時のスピンも含めてカートだったりするから、本体の絶対にスピンしない(ゲーセンで着座してるぶぶんがグルグル回ってたらちょっと怖い)カートなんてカートじゃないって言う人もいるかも。もっとも別にシミュレーターじゃなくゲームなんで、雰囲気を味わえる上にゲームが楽しめるって点を取って良しとしよー。ボディも「セガ・ラリー」よりさらに簡素化(だってカートだもん)されている。今日日の”AM不況”時にあって値段を安く押さえる上で一石二鳥かな。

 とは言え立派にデコレーションがバリバリのトラックを燃した業務用ゲーム機だって、値段はそれほど高くしないで発売できるんだから、やっぱり雰囲気を優先させたってことなのかも。さてこのデコトラを模したゲーム機ってのは、セガ・エンタープライゼスがアメリカのコンボイを模したのに別に対抗している訳じゃなくって、どちらかと言えば今は亡き(会社はあるはずだけどゲーム部門がなくなったって意味で)ヒューマンの「デコトラ伝説」(だったっけ? 名前もすでに忘却の彼方)のAM版って雰囲気があるけれど、ボディにまでカリスマと呼ばれるデコトラ・アーティストの人のデザインを使っていたりするあたりでの、こだわりぶりにはちょっと関心するものがある。

 音楽にはロック演歌のパイオニアで大御所で第一人者な冠二郎さんが担当、「バイキング」聴きながら転がすトラック、「ワッパ人生」よりはよほどかデコトラっぽいなー。あとナムコらしく”人にやさしい”配慮もちゃんと行き届いていて、猫が飛び出して来てひきそうになってもひかないで別のより難しいコースへと分岐していく設定になっているとか。そーいえば「ゴルゴ13」だって人を撃つよーな設定ってなかったよね? さすがは人に優しいナムコ、暴力的なゲームは嫌いなナムコの面目保持ってとこか。だったら何故辞めてる永瀬麗子の由水さん? ってのは事情知らないからちょっと脇に置いておこー。でも何で辞めちゃったんだろ、ねえ雅やーん。

 モグラみたく地下へ地下へと掘っていく「ドリラー」だかってなゲームの新作もあって、「グンペイ」とはちょっとタイプが違うけど、新しいパズルゲームかもってな思いを見ていて抱く。人気があるのかはゲーセンでビデオゲームのコーナーに寄りつかず、ひたすらプライズで「たれぱんだ」を狙ってる身の上なんで不明だけど、スピード感とか操作性とかってな点でなかなかに見せるものがあある。良いパズルゲームってのは後ろで見ているだけでも、あれこれ心で(うまいっ!)(ナイスッ!)(そーじゃねーよ)とかって叫べるのが嬉しいんで、分かりやすい「ドリラー」はきっとそれなりな人気を獲得してるんだろー。

 会場に出されていた煎餅のノリが主役のキャラクターの顔風に張り付けてあったし、あるいは「パックマン」に次ぐAM発のキャラとして育てていきたい考えなのかも。ちょっぴり「スーパーミルクちゃん」に似てるけどこーゆータイプが今のトレンドなのかなー。「TINAMIX」のキャラにも似てるぞ、しまったTシャツ買い忘れてたー。

 「正しくないことをしているのに、正しいことをしているみたいに見えてくるから」。ってな言葉が指しているのは猫にキャットフードを与える行為で、なるほど一見すごく理に適っているよーに見えても、その実本来猫が食べるのは自然にいる生き物だったりする訳で、人間によって作り込まれた「キャットフード」を与えて良しとしている世間一般の雰囲気が内包している欺瞞を、針でつっつくよーなニュアンスがあって、欺瞞やら作り事だらけの現代を、何だかとっても象徴している言葉にも見えてくる。

 これが登場するのは元CBS・ソニーのプロデューサーで作家でもある須藤晃さんの書いた、タイトルもずばり「キャットフード」(リトル・モア、1700円)って小説で、スターを作り出そうとする音楽業界を挟んで、名プロデューサーと街の不良とゆー対称的な2人の運命が交互に描かれつつ瞬間交錯する展開の中に、作り事だらけの現代社会の「キャットフード」ぶりが垣間見える。

 かたや無職でぶらぶらしているところを巻き込まれ、額に星のあざを入れられベタだけどスターにさせられよーとしている少年の視点で描かれ、こなたヒット曲を数多く出している敏腕プロデューサーの視点で描かれていく小説は、都会のセレブリティの高級に退廃した生活ぶりや、唐突に事件へと巻き込まれていく展開、そして会話での気取りぶりが言葉遣いにちょっと品がない、ってゆーか無理に高踏にならずに庶民っぽく今っぽくなった村上春樹ってな雰囲気をふと感じる。

 交互の登場人物の視点で語られて行く展開の中で、居心地の悪さを覚えつつも、それでも出来合いの「キャットフード」を食べていかざるを得ない人間の、どこか無理っぽさの漂う暮らしぶりが行き着く先は、ギチギチの管理社会での諾々とした行動なのか、それとも「正しいことして正しいことだと見られる」社会を作ろうとした挙げ句に起こるエゴのぶつかり合いなのか。どっちにしたった不幸っぽいけれど、やがて遠からず訪れる未来のために、小説でも言論でも人は何かを考えかつ、行動に移す時期が近づいている。

 唐沢俊一さんプロデュースによる立川談之助さんをゲストに迎えてのロリコンナイト。のっけから今は貴重過ぎるビデオの放映があったりして、ここに官憲司直に国連アムネスティの手の者が混じっていたとしたら、明日の新聞に「ロリコン野郎、一網打尽」とかってな見出しで立川さん唐沢さんを先頭なりしんがりにして、手に縄をかけられた人間がおよそ100人、ぞろぞろと連なって交番へと連行されるよーな事態になったかもしれないけれど、幸いにして真面目なロリコン(おかしいかい?)ばかりが集まっていたせーか、普段の開幕前のお喋りによる喧噪もビデオを放映し始めた途端にパタリと途絶え、食い入るよーに画面の割れ目に注視する人が大半。「オタアミ」やら「トンデモ」やらで物事をナナメに見て笑う癖がついているっぽい人の結構多そうなイベントだってな先入観があったけど、ことがことだけに皆さん(自分もだ)真剣そのものでした。

 登壇した談之助師匠の衣装の派手さには参ったけれど、それ以上に幼女少女の成育教育に関連した雑誌なり本の中で、サンプルとして裸だったり割れ目だったりする少女の写真が掲載されている冊子なり雑誌があるんだってことを教えてもらったのが収穫の1つ。明日は探すぞ「主婦の友」の子育て記事に末永遥のスケ座布団の写真を、ってなもんだ。

 談之助さんはあと、NHK教育のチェックも当然ながら密にやってて、最近の「ひとりでできるもん」の主役のマズさに言及しつつ、一方では別の番組での「パジャマでおじゃま」とか他の体育座りしてそーな番組での見えっぷりとかへの蘊蓄を話し出したら止まらず、一気呵成にお喋りばかりで時間がどんどんと進んで行く。日本共産党とか公衆浴場とかのポスターに登場する美少女の話とかも、目配りって意味での集中力の高さが見えてちょっぴりジャーナリスティック。けど近所の幼稚園の手作りポスターにまで食指を伸ばすとは、筋金入りにはやっぱりとっても適いません。

 去年の「児童ポルノ法案」成立を景気に雑誌をつぶしてしまった会社の編集の人も登壇して、最後は「ニューヨーク・タイムズ」から「世界で最後に残った場所」とかってな関心の持たれ方でもって、ロリコン大国日本の象徴として雑誌が取りあげられそーになったってなエピソードを披露して、世界を敵に回してしまってる感が雑誌の休刊へと働いてしまったってな話をしてくれたのが印象に残る。

 なるほどチャイルディッシュなポルノは日本、海外も含めて昔から結構な数があったし今もあるんだろーけど、どちらかと言えば愛でる系の映像なり写真が多い日本に対して、海外だと性交渉なり虐待なりが露骨に絵となっているケースが多いよーな印象があって、だとしたら子供への影響も含めた罪深さの点では、海外の方に軍配が上がるのに、なぜか日本が極悪非道なロリコン大国として海外から槍玉に挙げられてしまうる状況の不可思議さは、いったい何に由来しているんだろー、文化の違いかはたまた「かれーなるせーちょー」を遂げても薄い日本人の体型故か。うらやましがられてる? それはあるかもなー。

 ホモセクシャルは言うに及ばず、SMだろーとスカトロだろーとフェチだろーといかな倒錯の入った行為であっても、今の日本ではマイナーにはなりえずむしろ市民権すら得てしまいかかっているよーな状況の中で、どーしてロリだけが規制も厳しく世間の目線も冷たくなっていってしまうのか。やっぱり相手が自分で状況判断の出来ない子供だってこととが、虐待の多い海外の事情なんかを勘案して、世間に暗雲と落としているんだろーか。あと、同じロリでも自分はロリですあたなもロリですかそうですかってな横の連帯がどー頑張っても出来そーもないこととかが、いつまでも隠微な存在へとロリを貶めてるってな考え方もある。

 まあ弾圧されればされたでその分「ロリである意味」も増すとゆーもの。下手に市民権なんて叫んで合法的なものにすることはせず、かといって現行では厳しすぎる法律はすこし弱めてもらい、見られないことで逆に膨らんでしまう妄想が犯罪を引き起こすよーな事態は避け、正しいことをしているんだけれど、どこかで正しくないんだと思ってしまう罪悪感、倒錯心を抱き続けさせることが、ロリの健全な発展(健全か?)につながりそーな気がするけれど、世界の敵になりたくないから結論は先へ。もはやロリコンは、北欧諸国が見方してくれていて、調査のためなら認められている捕鯨すら超えて、21世紀を待たずして消滅する危機に瀕している文化かも。唐沢さんじゃないけれど「調査ロリ」ってのを認めてもらって年に何人までなら写真は撮影していーとか、ならないかなー。


【6月12日】 しつこいってゆーか半ばライフワークになってしまったよーな「噂の眞相」の東浩紀さんネタは今月は1行情報に登場であれやこれやそれやどれや。真偽はさておき芸能文壇にジャーナリズムにアカデミズムのゴシップを拾って揶揄るスタンスの健在ぶりに比べると、一時盛り上がったオタク絡みのネタがこのところめっきりと影を顰めているのは、並べて報じるニュース的だったり経済的だったりするバリューがあんまりないってな判断があったからなんだろーか。猫も杓子も大メディアも企業広報誌までもがオタクなネタに何やらトレンドを見出そうとしていた時期の、どこかツクリモノめいた高揚感がなくなったのは一面有り難いことではあるけれど、置き去りにされていく気持ちも一方にあってちょっぴり複雑。とはいえ東さん、「ワンフェス2000夏」に村上隆さんと並んで登場なんて話もあって、そっち方面への関心は全然衰えてないみたいなんで、「やれやれ」と思う人も「やあやあ」と思う人も夏は有明にゴーだ。

 ウイっすエクセルっす「エクセルサーガ第6巻」(六道神士、少年画報社、495円)は裏表紙の日和子(ひよこ)ちゃんがナイスっす、って四王子みたいなことを言ってしまったマズいなあ、やっぱり行くべきだろーか13日は「ロフトプラスワン」のロリナイト。お話しの方はイルパラッツォ様と蒲腐博士との従前からの因縁めいたものがほのめかされたり相変わらずな先端恐怖症を知らず発揮してしまうエクセルの過去が示唆されたりと、全体を組み上げるに必要なパーツはちらちらと集まっては来ているものの、1000ピースのうちのせいぜいが1ケタってなピース数では全貌は依然として壁の向こう闇の中。本紙での亀よりのろい歩みもあって未だ脳天気爆発娘の暴走物語でしかな作品の、あると信じたい背景が見えてくるまでにはまだしばらく当分永遠に時間がかかりそー。21世紀入りは確実、あるいは22世紀とか。

 巻末4コマの新婚旅行に行くための金を使い込んでソニー製六本松、じゃないサイボーグ・メンチ、でもない例の「ア○ボ」を買ってしまったらしーアニメ版「エクセルサーガ」監督にして生きているルパン3世、ワタナベシンイチ監督の漢(をとこ)ぶりに涙が湧く、やっぱり人間そーじゃなけりゃ。次に積み立てた費用もおそらくは歩くザクとか第2弾の「ルパンガシャ」に注ぎ込まれて消えるんだ、かくしてオタク夫を持つ妻の悲劇は永遠に繰り返されるのであった。しかし某な「青性」のイベントで出演していた誰かがボソリと漏らしたやに聞こえたナベシンによる「天○無○!」監督話ってのは本当ですか詳しい人プリーズ、それはそれで「ヘッポコ実験アニメ」の名に相応しいアレンジぶりが楽しめるかもしれないけれど、シリーズを重ねるごとにすでに十分過ぎる「実験」が行われている作品を、どう脱構築するのか再生産するのか解剖するのか分解するのか、それはそれで興味津々。さても事実ならアニメを見続ける希望が湧くってもんだ、「デ・ジ・キャラット」新作と並んで。

 「イングランド南部の村。火事のあとに忽然と出現した古代遺跡。その発掘中に発生する不可解な出来事とは? 天文学者が追究する宇宙の生成は?」とゆー帯のアオリを読めば、沸き立つ興味に手も伸びそーなファンタジッーでSFで宇宙でロマンで現代文学なボーダーズもきっと多いはず。ピーター・アクロイドの「原初の光」(井出弘之訳、新潮社、3500円)は表紙の星が散りばめられた空の絵の神秘的な雰囲気も相乗効果となって、書店の平積みから「かえかえかえ」ってなビームをばりばりと発してる、ってんでとりあえず買ったけど何しろ長いんで今のところは数ページ読んだだけで頓挫中。海外文学だと今は「朗読者」とか「舞踏会へ向かう3人の農夫」がブレイク気味で関心が手中しそーで、「原初の光」のレビューをあんまりメジャーなメディアでみかけないのが難だけど、「チャタトン偽書」のアクロイドの新作がおもしろくないはずがない、とは思うんだけど実は「チャタトン偽書」も未読なんではっきりした事は知らないんだけど、それを確かめる意味でも、むし暑い外へと出かけず冷房の効きすぎた部屋で毛布をかぶりつつ、週末にでも頑張って読み通すことにしよー。


【6月11日】 ゆずれない1線ってゆーか許容範囲ってのを人はそれぞれに持っているもので、たとえば小説の設定で「12歳の女の子が銃をガンガン撃ちまくって敵をバンバン倒しまくる」のはオッケーで、その女の子が「実は大富豪で政府要人にも顔が効いて最新鋭のステルス機だって手に入れられる」のもオッケーで、別に登場する「風采の上がらない大学生が眼鏡を取ったら美男子」でかつ「いろいろと秘密」があってさらに「ミス・キャンパスの美少女から何故か慕われて」いたりしても、ってここまでですでに一線を越えて「なんじゃそりゃー」と叫んだ人も少なからずいそーだけど、慣れた小説読みなら「まあ、あるね」くらい言って笑ってページをめくり続けるだろー。

 だったらその12歳の女の子と、大学生が親子だったりしたら。別に2浪4留の26歳なんかじゃないぞ、1浪はしているけれど20歳そこそこの大学生で、なのにDNA鑑定レベルで12歳の女の子とはれっきとした親子だと認められているんだぞ、つまりは8歳の時に作った子供でおまけに相手は7歳だかの女の子だぞ、どうだ耐えられるか我慢できるか許せるか。「許せる」、と思ったのならあなたは今すぐに伊達将範さんの「ダディフェイス」(電撃文庫、590円)を手にとるべきだし、逆に許せなくっても「そんな小説が存在するのか」と怒りまかせに手にとって、ついでに続編の「ダディフェイス 世界樹の舟」(電撃文庫、690円)を読むべきです。

 正直言えばキリキリと来るトンデモ設定のオン・パレードに「マジかよ」とキレそーになる気持ちも心にポツリとは灯ったけど、それを超えて気持ちよくエスカレートしていく事態の中で手際よく気持ちよく躍動感たっぷりに描かれた、キャラクター描写のおかしさ可愛さ楽しさが設定の無理さ加減を気にさせなくしてくれて、漫画に失礼なのは承知で、いかなる無理な状況をもメタに誇張にオーバーアクトでもってこなしてしまう自由さを持った漫画への敬意を意味する言葉として漫画的と言うならば、まさに漫画的な作品で想像の場面を頭に描きつつ、繰り出される怒涛の展開を楽しめる。

 西E田さんのあざとくも可愛い12歳美少女の絵もナイス、とくに「世界樹の舟」での歳相応にちょっぴりプックリなバストにタイトなミニに包まれた小さくも引き締まったヒップの絵が、いかな設定をもぶっ飛ばして見る人の官能を誘うだろー。正直言えばすでに「12歳の娘に大学生の父親」とゆー設定で最初の巻を見送った自分も、2巻目のこのヒップに引き込まれた口。でもってまとめて呼んでトんでハマって今は次巻が待ち遠しい。ほかに「ちょーのーりき」とか「おーぱーつ」とか「うちゅーじんのまつえい」とかってな、トンデモ設定のてんこ盛りだったりするけれど、青筋たてず眉間に皺よせずに気楽にゆったり鷹揚に構えて寛容の精神と透ける下心でもって12歳美少女やら20歳美女の活躍ぶりを楽しみましょー。

 池袋へと出向いて予言どーりに水木一郎さんのサイン会へ。講演会とかサイン会ってな気軽にゆーめーじんを見たりさわったり出来るイベントへの「出没」を、ちょい固めてみよーってな下心もあるにはあったけど、半分は「1000曲ライブ」なんて前代未聞なことを勢いでもってやってしまえる「アニソン帝王」のご尊顔を、1度でも拝しておかなくては20世紀は終わらないと思ったから。で、会場になった「パルコブクセンター池袋店」に到着して、おそらくはすでにはけているだろーと思った整理券の有無を尋ねると「まだあります」とのこと、でもって肝心の本「アニキ魂」(アスペクト、3800円)を購入してもらった整理券の番号を見ると「40番」。一応は100人までで人が来れば誰でも受け付けるらしーとは聞いていたけれど、これではすぐに終わってしまうんじゃないか寂しいじゃないーつめたいじゃないかーー、なんて心配になる。

 それでもさすがにアニキは偉大で、見ているとサイン会を前に本をバラバラと購入していく人が幾人も。なるほどイカニモ系な人がオシャレなパルコブックセンターのフロアにたまっている様は、でもって設置されたスピーカーから「マジンガーZ」の曲とかがガンガンと流れている状況は、以前の自分だったら「あひー」とか言って眉を顰めたかもしれないけれど、すでにして「アニキ魂」を呼んでまさに「バイブル」的な有り難く懐かしく楽しい言葉と写真の衝撃に打たれて帰依している身、ゆえに刻まれるビートに爪先がステップをふみ、心も浮き立つ中で今かいまかとアニキお登場を待ちわびる。

 回って来た順番に本を差し出し顔を見ると、さすがに芸能人だけあって顔小さく整っていて感動。脇に立つカラオケ魔女な黒坂嬢にも挨拶しつつ、サインを押しいただいて握手をしてもらって会場を後にする。全体どれくらいの人数がサインをもらったのかは知らないけれど、値段の高い本だから50人が集まっても結構な売上になっただろー、やはり偉大なり。別に購入した「アメリカ案ペン小説興亡史」(青山南、筑摩書房、1800円)なんぞを読みながら帰途へ。ノーベル賞を授賞した直後のソール・ベローの短編であってもボツにするときはボツにするし、アーウィン・ショーでもアン・ビーティでもボツにする時には「ニューヨーカー」の逸話が、もちろん責任と自覚と結果が背景にあるとはいっても、米国の編集者の持つ力の大きさが分かって興味深い。妙に長くて詳しい下段の注釈も面白い米国の「文芸事情」が分かる1冊。


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