スター・ウォーズ ローグプラネット
STAR WARS Rogue Planet

 例えば高飛び込みの競技を想像してみよう。踏み切り板から真っ直ぐ下へと重力に従って落ちる以上、入水の場所はだいたい同じになるし、指先から入水するポーズは得点に関わるから寸分の狂いも許されない。問題は空中にある過程で、そこでどんな技を繰り広げたかが優劣の基準になる。

 77年に公開の「スター・ウォーズ」に始まる3部作で、ダース・ヴェイダーはアナキン・スカイウォーカーでルークの父親で、フォースの暗黒面にとらわれて闇に堕ちたものの最後は自分を取り戻す、という展開が描かれている以上、たとえアナキンが「エピソード1」で可憐で可愛い少年に描かれていても、あるいは「エピソード2」で白面の貴公子然とした姿で出て来ても(そうなるかどうかは知らないが)、やがて「ああ」なることはキマっている。

 細かく言えば「エピソード2」の構想すら描かれているだろう状況で、「エピソード1」から「エピソード2」の間を埋めるブリッジ・ノベルが直面するのは踏み切り板から飛び上がって入水地点へとまっ逆さまに落ちていく空中に、幾つものチェックポイントが設けられた飛び込み競技をやるようなもので、並大抵の選手では満足の行く演技など出来る訳がない。

 しかし流石は米国でも現在トップ10には確実に入る売れっ子人気SF作家のグレッグ・ベア。チェックポイントはしっかり抑え、フリーの部分は存分に演技してみせる力技を、「エピソード1」と「エピソード2」をつなぐブリッジ・ノベル「スター・ウォーズ ローグ・プラネット」(大森望訳、ソニー・マガジンズ、1600円)で華麗に披露して見せてくれる。

 舞台は「エピソード1」から3年後。オビ=ワン・ケノービの弟子になったアナキン・スカイウォーカーが2人で未知の星へと乗り込んで、行方不明になった女性ジェダイを探しつつ、その星でしか作ることのできない宇宙最速という宇宙船を建造してもらおうとしているところに、後に「デス・スター」を駆ってルークやプリンセス・レイアたちと戦うウィルハフ・ターキンが襲いかかる。

 メカおたくとでもいった称号が似合う、ターキンの友人ながら決して和やかな関係にはない宇宙船製造会社の社長レイス・サイナーという男も登場し、ターキンとの手では握手しながら足は踏み合い蹴り合っている、すさまじいまでのやりとりはおかしいけれど、人間が権力をつかむためには、踏みつけなければならない理性があるのだということが見えて結構恐ろしい。

 そんなキャラクター描写も勿論だが、ベアの本領ともいうべきSF的なガジェットが繰り出されるのが未知の惑星での宇宙船の建造の様。「セコート船」と呼ばれるその宇宙船が作られている模様をビジュアルで見たらいったいどれほどの奇妙で不思議なシーンになっただろうか。ブリッジ・ノベルで良かったとも、残念だったとも思える複雑な気持ちが起こる。

 副題「放浪の惑星」をそのまま示すラストのアイディアも「火星転移」を書いたベアならでは。「ブラッド・ミュージック」も思い起こさせる惑星の描写もあって、ベア好きならはまること請負。普通だったら「SWノベルかよ」と投げ出す人も、「エピソード1」の要点と「スター・ウォーズ」の世界観さえおさえておけば、空中で演じられる10回転15ひねり級の技を存分に堪能できるだろう。

 アナキンがどうして暗黒面へと堕ちて行ったかをほのめかしながら描く部分は、水柱を微塵もたてずに入水する金メダリストに匹敵する鮮やかなフィニッシュ。奴隷の身分のままで残して来た母親への感情、出自に対する劣等感を払拭できずにいる人間らしい弱さをつかれ、怒りと憎しみを呼び起こされて暴走するアナキンの姿は、なるほど後の暗黒卿、ダース・ヴェイダーの姿を思い起こさせる。

 人間なら誰でも抱く侮辱への反発、残虐な存在への憎しみの心が、超然として何事にも動じないジェダイという存在と相反するものだとしたら、ジェダイと暗黒面に堕ちたアナキンの、果たしてどちらが「人間らしい」のか、といった疑問も浮かぶが、勧善懲悪の映画ではそういった深い人間の悩みが描かれることは、あまり期待できそうもない。

 「エピソード2」から「エピソード3」へとつながり、決定的な瞬間へと至る間の感情の機微を細かに描けるブリッジ・ノベルは、だからこそますます重要度を増して行くだろう。誰が書くのかは不明だが、空中での自由演技と入水の規定演技をともに満点以上にこなせる人の起用を望みたい。


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