縮刷版2000年12月上旬号


【12月10日】 「ケロリカン」は4ステージ目をクリアして案外簡単だったじゃんと思ったらさにあらず、謎の豚めが次なるステップを用意していて、同じ曲であるにもかかわらずいきなり刻むリズムが複雑になってステージ1であるにも関わらず何度やってもクリアできない。連打に裏打ちにその他もろもろのテクを駆使しても、ついついイキんでしまってタイミングを外してしまい、それがさらなる焦りを読んで気持ちさえ乗っていれば刻めるビートを刻めずあえなく討ち死にとなる。同じステージでも出てくる障害が順序もタイミングも変わっていて、同じリズムを体に覚え込ませるだけでは絶対に勝てない。こうまで複雑なゲームだったとはやっぱり流石は松浦さん。どうにかこうにかレベル2のステージ1はクリアしたけど2がまた難しくって1昼夜かけても未だクリアできず。「FF」で100時間とか遊んでる人もいるだろーけど「ワンダースワンカラー」、下手なら1000時間だって遊んでいられてかつ飽きない「ケロリカン」もお勧めですぜ。ヘッドホンは必携だけど。

 ”20世紀的なんとか”を探るツアーの一貫として池袋のサンシャインへ向かう。決してサンシャインシティの中で大々的に開催されている「ドールズパーティ」なるお人形様のイベントに行く為じゃなくって、サンシャインが建っている場所にその昔建っていた巣鴨プリズン13号扉の跡地を尋ねるためにいったのであって、有楽町線の東池袋駅を降りてサンシャインシティの中に入っても体はちゃんと真っ直ぐに、エスカレーターを上がって屋上へと出てそこからワールドインポートマートで開催中の「ドールズパーティー」の会場内へと用意してあったカタログを見せて滑り込む……って違う、いや違わない、すいませんワタクシ嘘をついてました。

 ってことで入った「ドルパ」はすげえ人。ガレージキットの祭典が来年2月あたりに開催されない宣言があった関係なのかガレージキットを展示即売するディーラーの数も結構見受けられて、人形が中心とは良いながらも人間の形をした立体造形物に関連した展示会へと解釈を拡大させつつある。これで中古業者が山と集まれば一気に「ワンフェス」「スーフェス」化も進むんだろうけれど、そこは出自がお人形さんなイベントだけあって、大きい方の部屋にドールを入れて中古玩具やフィギュアや企業関係は別室に集める運営施策をとっていて、人形を目当てに来ている大半が女性なお客さんたちとガレージキット目当ての男子がぎゅうぎゅう詰めになっている、男子にしてみれはシアワセな光景はあんまり見られなかった。とはいえ女子もすなる人形を男子とてやってみんと欲する人が増えているのかドールのコーナーのそれもミリタリーとかキャラドールじゃないブース当たりでも男子の影がチラホラ見えて、人形者の広がり具合を実感する。男子向け洋裁教室(ただし6分の1専門)とかやったら客、集まるかな。

 ガレキの方はそこそこ。昼過ぎに言ったんでソールドアウトも結構あって、あるいは「ワンフェス」なみとは言わないまでも早朝行列とかあったんだろーかと想像する。売り子の姿が見えない卓とか版権とれませんでした卓とかあるのはまあ風物詩か。トイズワークスの「あずまんが大王」シリーズはメンバーがだいたい揃って来ていて、智ちゃん大阪を販売している横に展示してあたこれからの商品化予定の中で、よみの出来がなかなかだったのがちょっと驚き、フトモモまででの黒ストッキングは当然で、眼鏡もちゃんとかけてる上に手にもった雑誌に「あずまんが大王」のページが描いてあったんだよね。ちょっと驚いたよーな表情だったよーに記憶していて、大人びた雰囲気の中にあるカワイサが込められているよーで出来として満足、これが出たらよみファンがまた増えそうで高まる競争率によみファンの間で暴動が起きるかも。是非買いの逸品、問題は自分じゃあそこまで塗れないってことなんだよなー。神楽スクール水着バージョンとかも欲しいなあ、塗りやっぱり難しいけど。

 知り合いとは別に会わなかったんで(友達少ないと何故言わない)適当に散策してから当初予定していたとおり(まだ言うか)にサンシャインの下にある「巣鴨プリズン13号扉」の跡地を探す。おおよその検討を付けてあった場所に行くと、誰も寄りつかない林の中に石碑が置いてあって「永久平和を願って」とだけ書かれてあるだけで、ここが第二次世界大戦における日本のA級戦犯たちが処刑された巣鴨プリズンの跡地だってことを伺わせるものがなにもない。碑の裏側にかろうじて石碑建立の理由が書かれてあるくらい。とはいえ一切の痕跡を消す訳ではなく、書かないけれども碑を残して知る人と知る状態にしておくところに、日本人のあの戦争への複雑な感情も見てとれる。

 英雄とはいえないけれど犯罪者と呼ぶにはしのびない感情、それを優しさと言うべきなのかそれとも優柔不断と謗るべきなのかは難しいところだけど、こちらをとればあちらが立たずな状況へとお込んで誰かを傷つけたり誰かを刺激したりするよりは、白黒ハッキリさせない曖昧な状況で、引きずりつつも記憶し続けた方がは四方まるく収まるのだと言えなくもなく、その意味で説明抜きの碑のみって状況も、あながち間違ってはいないのかも。大江健三郎さんがが責任を不明確にした日本人の引き裂かれた心理を「あいまいな日本の私」と銘々してノーベル文学賞の授賞式で批判めいたことを言ったとしても、曖昧だからこそ保たれる矜持ってものがあって、それが日本人のプライドを支えて来たんだとすれば、その最たる例がサンシャイン下にあるんだと言えなくはなかろーか、って「ドルパ」帰りのおっさんが言う台詞じゃねーよな。

 ものはついでと渋谷に回って桜新町へ。桜上水に間違えて行かなくて住みました。日曜の夕方だけあって「サザエさん通り」を歩いている人も少なかったし、奥にある「長谷川町子記念館」も休館中で20世紀の半分近くを生き抜いた漫画に縁の場所にしては盛り上がってないなー、とか思ったけれどそれだけごくごく日常の中に溶け込んでいるんだとも言える訳で、日曜の夕方にテレビをつければ「サザエさん」が放映されているのが当たり前になっていることも合わせて、漫画における”20世紀”のトップをさらに引き離した、偉大なる存在だったってことになるんだろー。せっかくなんで通りにぶら下がっている看板をバックに記念撮影、これで漫画代表アニメ代表はとりあえず押さえた。次はゲーム代表。うーんやっぱり20世紀の最後の5年で世界を替えた「PS」の生みの親、久多良木センセイと記念撮影してもらうしかないかなあ。


【12月9日】 最初っから何かひっかけてやろうと思っているのがミエミエな議会とマスコミの嫌らしさって奴? 田中康夫長野県知事の所信表明演説について判を押したよーにどのメディアも「辞書でもなくっちゃ言ってることが分からぬ」なんて記事を掲載してはヤスオちゃんを揶揄ってる。全国でも名だたる教育県の長野で教育も含めて県政を支える県会議員の方々が分からないってんだから、漢籍ならまだしもアフリカのキクユ族独特のムンドゥムグ(祈祷師)が使う寓話でも始めたのかと思ってよく読むと、どーってことはない「サーモスタットとして機能させる矜持を諦観」とか「パブリック・サーバントとして全身全霊を」ってな高校生だったら分かって当然、中学生だって理解できるよーな言葉にイチャモンを付けてるってことが分かる。こんなんだったら「前向きに検討(=とりあえず聞いたよ)」とか「善処させて頂きます(=無理だからあきらめなさい)」ってな政治業界用語の方がよほど分かりにくいと思うけど。

 世界に冠たる教育県の議員や高学歴者が山積みなマスコミの人が、矜持とかパブリック・サーバントが分からないずはないんだろーけれど、そこは「田中康夫の演説はムズかしい」ってなイメージをどうしても付けなくちゃいけないって言明が天から降ったか地から湧いてでもいるんだろーとしか思えない。「辞書でもなくっちゃ分からない」ってんなら辞書ぐらい引けば? それが勉強の基本だよね。県民に伝わらないってんだけど、何を言ってて何をやろうとしているのかを伝えるのがマスコミの仕事なんだから、いっしょになって分からないって騒ぎ立てるのはちょっとばかりみっともない。あるいは自ら愚劣に振る舞うことで、田中康夫の正当性をもり立てようって深淵なる作戦なのかもしれないから、責めるのは今後の成り行きを見てからにしよー。

 20世紀を語る時にはずせない事件なり人物なり文化と関わりのある場所に行って記念写真を撮りつつ行く世紀来る世紀を思おーってな極私的企画推進月間、ってことでさいたま新都心にある「ジョン・レノン・ミュージアム」へと向かう。20世紀を語る上で「ザ・ビートルズ」ってやっぱり外せないんだけど、かといってリバプールにもダコタハウスにも行けるだけの資金も取材費もないから埼玉で我慢しなくっちゃいけないのが辛い、もっと有名になって取材費をフンダンにつかって全世界の20世紀に縁のある場所を回る仕事をしたいよー、次こそは(100年後だけど)。さて「ジョン・レノン・ミュージアム」、迎えた12月8日がダコタハウスで撃たれて絶命した日ってことで、10日までの期間限定であれやこれやイベントがあって、おそらくは昨日ほどじゃなかっただろーけど、ほとんど大宮ってな場所にあるにも関わらず、全国から来ている人でそれなりな賑わいを見せていた。

 ニューヨーク時間で12月8日の午後10時えっと50分頃? だったらしい撃たれた時刻は日本時間だと12月9日の何時頃になるんだっけ、その意味では正真正銘の20年目にほぼ近い時間にさいたま新都心にいたことになるのかも、あんまり意味はないけど。入ると奥に献花所があって巨大なジョン・レノンのタペストリーが下がってて、前に花束が何束も飾ってあって雰囲気を出していた。ミュージアムに置いてあるのはジョンの使っていたリッケンバッカーやギブソンなどのギターに、「イマジン」の詩を書き付けたメモ帳といった、ファンなら涙なくしては見れない貴重なものばかり。もっとも熱烈なファンの何パーセントかは「ザ・ビートルズ」解散の要因になったらしーオノ・ヨーコの作品とか2人の写真とかが飾ってるのには反発するかかもしれない。2人が出逢うきっかけになった、天井に「YES」の文字が小さく書かれたヨーコのインスタレーションも再現してあったのは面白い。階段がしつらえてあるのは親切すぎる気もしたけれど。

 戻って京成高砂から柴又へ。20世紀を語る上でやっぱり外すことのできない国民的映画、「フーテンの寅さん」ゆかりの柴又帝釈天に行って帝釈天とか駅前にある寅さん像なんかをバックに写真を撮る。土曜日の夕方だってのにそれなりな観光客が参道を歩いていて、亡くなってから結構経っているにも関わらず、衰えを見せていない人気に改めてその偉大さを実感する。でも映画、1本も見たことがないんだよなあ。20世紀を代表する日本映画だとあとやっぱり極私的な趣味として外せないのが「ゴジラ」ってことで、日比谷シャンテ前にある「ゴジラ」の像の前でちょっと前に記念撮影を実施済み、残るは20世紀を代表すると個人的に勝手に思いこんでいるアニメが生まれた場所も押さえておきたいんだけど、ジブリもガイナックスもサンライズも遠いからなあ。桜新町にしとくかなあ、「サザエさん通り」がある。

 「ワンダースワンカラー」で「ケロリカン」を遊ぶ日々。タイミングに合わせてボタンを押して遊ぶいわゆる”音ゲー”なんだけど、グラフィックの不思議さは「パラッパラパー」をプロデュースした松浦雅也さんだけのことはあるし、音楽の方も本職だけあって単独て聴いていてもそれなりに聴ける良い曲ばかり、問題は4ステージ分しかないことかな、今のところ。初心者向けだとそれほぞ難しくはないんだけど、4ステージ目になるとリズム感があっても裏で打たなきゃいけなかったり微妙なタイミングが求められたりと結構難しく、未だにクリアできないのが情けないし、1ステージもちゃんと全部こなしているにも関わらず、ランクがDを越えてくれず頭を悩ませる、どーやったらCなんだ、どーやったら3万点越えるんだ。「ワンダースワンカラ」は暗めな場所だと液晶暗過ぎ。上からライトがあたっていれば問題ないんだけど。他の人とかどう感じているんだろう。


【12月8日】 送りつけられたカセットテープを介した死者との対話、ってのが描かれる大江健三郎さんの「取り替え子」(講談社、1900円)にちょっと似たところもあるのかなあ、なんてことを思いながら、「聖の青春」(大崎善生、講談社、1700円)で将棋を知らない人の間にもその存在が知られるようになった天才棋士、村山聖9段が残した棋譜について、羽生善治5冠とA級棋士の先崎学8段が徹底的に検討した本「村山聖名局譜」(日本将棋連盟、2000円)を読む。

 生きていればその容貌その振る舞いなんかが時に奇矯、時に無頼と語られる棋士だっただろうけど、作家での芸術家でもパーソナリティじゃなく残した作品でもって語られるのが本分だとするならば、棋士にとっての本分は指した対局の棋譜が作品ってことになる訳で、その良し悪しだけが棋士の全てってことになる。その辺りを村山と同格に天才だった2人の棋士はちゃんと分かっているんだろう、この本は例えば対局中のエピソードとかはほとんど描かれていなくって、徹底して村山が指した1局の1手に至るまで、その心理なり戦略なりを語ることで、棋士・村山のすべてを見せようとしている。

 手の良し悪しについてはパソコン相手に大駒2枚落としてもらっても勝てないヘボには分からないけど、羽生5冠を筆頭に佐藤康光大山康晴谷川浩司米長邦雄ら錚々たるメンバーを相手に唸らせたり困らせたり大変にさせたりしていたことが、羽生先崎の検討なんかから浮かび上がって来て、改めて村山将棋の凄さとゆーものが将棋を知らないなりに見えて来る。ってゆーか羽生先崎をして棋譜を徹底検討したいって思わせるくらいの凄さが村山将棋にはあったんだろー、返す返す残念。「週刊文春」の12月14日号で筆者の1人の先崎8段が自分のコラム「先ちゃんの浮いたり沈んだり」で自ら紹介してるんで内容とか出来るまでの経緯を知りたい人はそっちを読もう。けど下に堂々と当該の本の広告を入れてしまうあたりがやっぱり週刊誌だなあ。

 棋士が残すのが棋譜なら作家が残すのは小説ってことになるけれど、毎日山のよーに小説が生み出されては本屋に並ぶ状況だと、どれこもれもが22世紀まで(今出ているものは21世紀くらいまでは残るだろーから)語り継がれる作品になるはずもなく、いつか記憶からこぼれて時間の波間に沈んでいってしまう。20世紀の終わりってことで、20世紀を代表する文学作品を選ぼうって企画なんかがあちらこちらで行われているけれど、選ばれなかった作品がそれこそ星の数ほどある訳で、リストに挙げられたから絶対に語り継がれるってものではないけれど、リストに刻まれることで多少なりとも記憶される可能性が高まるものだとするならば、リスト選びとゆーのも結構神経を使う作業ってことになるんだろー。

 慶応大学の藝文学会ってところが開いた「文学?の20世紀」ってシンポジウムが三田で開かれてたんでのぞいたところ、米文学英文学仏文学大蟻喰文学の中から20世紀のベストみたいのを挙げる企画があって、1年に1作で100作品程度にまで絞り込まれた米文学を見ると、選んだのが巽孝之さんだっただけあって「オズの魔法使い」や「ラルフ124C4プラス」や「夏への扉」や「アルジャーノンに花束を」や「鉄の夢」や「高い城の男」や「リトル、ビッグ」や「ドクター・アダー」や「ニューロマンサー」や「ディファレンスエンジン」や「グリンプス」なんかが入ってて、SF好きには嬉しいことこの上なかったけれど、だったらあのSFが入ってないぞと言いたくなる一方で、ジョン・アーヴィングとかレイモンド・カーヴァーといった村上春樹さんの紹介で日本人にはお馴染みだったりする人の名前も見えなかったりする辺りに、リスト作りの難しさが見える。

 シンポジウムは「文学」のあとに「?」が入っているのがミソで、入れたのは慶応の助教授の萩野安奈さんとゆー人で、別名の荻野アンナ(同じじゃん)で小説も書いている人だと言えばなるほど「?」を入れそーだなーと理解してもらえるかもしれないけれど、シンポジウムを聞いていると、ギャグとかダジャレをテレビで連発するアンナさん的な「?」ってよりは、文学的なものが旧来の活字でもって紙の上に刻まれる形から変化して、たとえば映像なり音楽なりといった他のメディアの中にも浸透したり拡散していったのが20世紀だったと考えるならば、「文学」とはいったい何だったんだろー? ってなことを立ち止まって考えさせる役割を込めた、仏文学者の安奈さん的「?」だったってことが見えて来る。

 だったら文学って何やねん? ってな話の中で萩野さんは「美」として見せるよりは込められたメッセージなり意味なりごたくなりを分からせようとする現代アートの中に語られている文脈をスライドなんかを使って紹介していたし、大蟻喰文学の佐藤亜紀さんは色彩の頚城から解放されたフォービズム、形の束縛から離れたキュビズムが純粋な色なり形なりへの探求を推し進めたアート界の話とか、「ザ・ロック」とかグリーナウェイの「プロスペロウ」とかを参考に、時間を自由に操って人間の心理状態にも操作する技法を発展させた映画界の話なんかを例に挙げて、こうした革命的な動きが果たして小説の世界にはあったんだろうか、ってなことを言っていた。いくら変わって来たとは言っても「せいぜいが印象派」とも。

 「前後左右」とか「ビタミン」とか「虚構船団」とか「バブリング創世記」とか、数々の実験をエンターテインメント性たっぷりに見せてくれた偉大な筒井康隆さんですら、果たして文学の歴史の中ではちょっとした変奏にすぎないんだろーか、なんてことも考えたりはしたけれど、それはともかく文学が映像とかアートとかで起こった変革の波に乗り遅れているのが悪いのか、と言われれば、「形式」よりは「物語」の方に重きを置いてしまっている、フツーの本読みの当方には全然困ったことではない。古びようとも遅れようともその時々に自分を楽しませてくれれば良いんだ、ってな考えを持っている。が、「20世紀は文学の時代だった」と大声で喧伝できないもどかしさもまた、「?」の中に込められているのだとするならば、そのもどかしさを消滅させる「大発明」が起こっても面白いとも思っていて、それがどんな形になるのかはともかく、端緒なり成果なりを生きているうちに見られたら安心して(それとも仰天しながら)死んでいけるだろー。佐藤さん、やる気かなあ。

 歓談があったんで潜り込んで巽さんに挨拶、先の「日本SF大賞」で小説が選ばれず「日本SF論争史」のみの受賞となったことに意外感を表明していたのがバレていて焦る。文学部で藝文学会なんで文学芸術映画その多諸々な話題が飛び交う中で、アニメでゲームでライトノベルなワタクシなんぞが何を言える訳でもなく、隅の方で行き交う人々をながめつつ分からないなりに話に相槌を打って時間を過ごす。面識のない佐藤さんには近寄れるはずもなく、周囲に出来た話の後ろに立ってトークに耳を傾ける、これぞ必殺パーティーテクニック「背後霊」。場違いなところに来てしまったなあ、でも壁花はいやだなあと思う人は試してみて下さい、ただしいつも周囲に輪の耐えない人の後ろでしか通用しません、数人だと単なるストーカーになっちゃうから。巽さんの下で研究している傍ら、レビューとか掲載しているネット誌「カフェ・パニック・アメリカン・ビック・レビュー」を運営している大串尚代さんとゆー人を見る。「ゼロコン」とかの「論争史」関連リポートも掲載間近だそーで行けなかった人は心待ちにしていましょー。何時載るかは知らないけれど。


【12月7日】 今やニューメディアに続いて墓石にその名前を刻まれつつある、のかもしれない”マルチメディア”なるキーワードを冠に掲げて幾星霜、それでも続けることが大切なんだとウェブ日記ばりの信念でもって開催し続けている、みたいなところもあるマルチメディアコンテンツ振興協会主催の「マルチメディアグランプリ2000」が発表されるってんで会場に向かう。一時期のシネマティックアドベンチャー的なコンテンツは影を顰めて、94、5年のネット登場あたりから増えて来たネットワークコンテンツの数々がいよいよ主力になりつつある感じもしたけれど、さらにその後に登場した携帯電話向けコンテンツなりサービスも賞にちょくちょく顔を出すよーになっている。

 1000万台なんて数の「iモード」の普及もこれありで、サービスの広がり方とか使っている人の数から言えばなるほどネット以上に携帯向けのコンテンツがデジタルメディア市場の活性化に大きな貢献をした事は分かるけど、マックにCD−ROMを突っ込んでわくわくしながら「作品」を見ていた時代から、志的にも派手さでもトーンダウンしているよーな気がしないでもない。超絶パワーな家庭用ゲーム機をもてあまして携帯型ゲームが流行るのと同じ理由? まあ一種の揺れ戻しみたいなもので、先行するハードにやがてソフトが追いつけば、その時には再びな興奮を味わえるんだろーと思いたいんだけど。

 行く途中にあるコンビニエンスストアの前にテレビ東京のクルーが陣取って何かを撮影してたんで横目でのぞくと、どうやら「僕たち話題のネットベンチャーです儲かってるからタイユバンだってマキシムでだって行けるんだけど仕事がとっても忙しいからご飯はコンビニで買った肉まん餡まんカレーまんをコンビニの前で立ち喰いなんです」的な絵を撮っていたみたい。どーでも良いけど横1線に並んで喰うなよ出入りの邪魔だなんとか兄弟(だったよーな)。さて始まった授賞式では1等賞は黒澤明の映画で美術を担当した人のスケッチとか写真をデジタル化して、映画美術の保存以上に黒澤映画に出てきた近代日本の街並みなんかを永久保存しよーってなプロジェクトで、インタラクティブムービー的な迫力はないけれど、デジタルの良さを存分に活かしつつ未来へと遺産を継承しよーとする志の高さも見えて妥当なところ。受賞式で黒パンさんが「21世紀は新しいものとかゆーけど古いものも連れてってくれよ」と苦言を呈していたのが印象的、あと眼前の中村雅哉会長に「映画をまたよろしく」と挨拶していたあたりとか。

 人物賞の1等賞は坂口博信さんで例の「ファイナルファンタジー・ザ・ムービー」の一部なんかを見せてくれたけど、表情のリアルさに比べると手足の棒的な動きがところどころでチラっと神経に触れるよーな気がしてならなかったのは気のせいか、「CGなんてダメだ」とゆー意識が垣間見せた幻って説もあるけれど、動きはギクシャクしていても人形劇が面白いのは様式美であったり物語性だったりする訳で、今はただの「絵」に過ぎない映画をあれこれ言っても始まらない。とにかく完成した物語を早く見たい。後ろ姿の女性のお尻のイメージはなかなか良いです。

 同じCG映像でもリアルさの追究よりは面白さの追究をまずもって来て、そこに3DCGならではの表現力を加味してくれた「PiNmen」の方が完成されているって意味で個人的には買い。見たのは去年の「東京国際ファンタスティック映画祭」以来になるけれど、ほんの数十秒の映像でもあの顔が思わずニマつく面白さが甦って来た。あとの講評でも何故もっと見せない的なコメントがあって大いに同感、合図とともに整列したピンメンたちのたどる悲惨な運命は何度見たって泣けるし笑える。池田爆発郎さん万々歳、手にはめていた指抜きグローブは京極か鈴木あみかツール・ド・信州か。授賞式には月尾嘉男さん浜野保樹さん武邑光裕さんに河口洋一郎さんとマルチメディアな方々がそろい踏みでポーカーのロイヤルストレートフラッシュを見た気分、1枚足りないカードの石井先生は所用でいなかったのが残念、でも代わりにジョーカーを見たんでよしとしよー。

 大江健三郎さんの「取り替え子」(講談社、1900円)が面白そう、「自らの意志で向こう側へ行ってしまった友−義兄の映画監督」って帯から見当が着くよーに、奥さんのお兄さんで高校時代からの知り合いだった映画監督、伊丹十三さんの突然の自殺に題をとって、主人公の作家が義兄の映画監督の突然の死を見つめなおしていく物語らしーけど、家族的寓話的なイメージがあってどうにも手を出し辛かった一連の作品なんかと比べると、ジャーナリスティックな部分でのとっかかりがあって手を出しやすいってことや、あとは作中で大江さんが嫌悪感を示しているよーな野次馬的な興味が引っ張ってくれるってことがあって、読んでいてもネムくならない。起用すぎる作家が1本、文壇で「偉大な作家」として名を刻まれるようになるためにはどうすれば良いのか、なんてことを死んだ映画監督と「田亀」みたいなヘッドホンを通して妄想の中で対話する主人公の言葉の、どこまでが大江さんとリンクするのかなんてことを考えてみるのも楽しい。あるいはこんな具合にモデルが重なるよーな小説を今発表するってことが起用すぎる作家の戦略なのかもしれないけれど。老獪か韜晦か追悼か随想か。どんな解釈が出てくるのかも楽しみ。


【12月6日】 「大カエル祭り」もそこそこに帰ってパソコンを立ち上げ年末進行で早まっている雑誌の締め切りに挑戦するも、椅子に座って横のベッドに足投げ出して布団を引っ張って体にかけて暖を取っているうちに、体がホコホコとして来てそのうちに「スーパーカエルフェスティバル」でちょっとだけ、でも久々に飲んだ麦酒が効いてきたのか瞼が下がり膝に乗せたパソコンの上の手も沈黙。ブラックアウト。気がつくとしっかり朝だった。それでも消え入る気力を振り絞って書いた、いつも苦労する出だしの部分が残っていたので後を速攻で書き殴ってメール、これで連山の前峰の1つは攻略したぞヒャッホー。もう幾つ「起きてる」とお正月?

 渋谷のマークシティにある会社で取材、カード系。時間までを下のカフェで潰そうと思って探したけれど行き着けの「ドトール」とか「プロント」とかいったローコストなお店はなく、いっちゃん手前にある「スターバックス」は「反スターバックス同盟船橋総本部総務課長」としては入る訳にはいかないので、奥深い建物をズンズンと中に入って無いか純喫茶、無いか歌声喫茶と探していたら、「スターバックス」に雰囲気だけを似せたえっとあれは「ドトール」の上位機種だったけ? 確かそんな感じの店があって「スタバ」もどきに「ラテ」なんて売ってやがったけど、外で缶コーヒーを飲むのも何だかしのびないんで入って時間を潰す。中央にある巨大な丸テーブルが本とかパソコンとか新聞とか広げて読んだり書いたりするスペースもあってちょっと良いかも、と感じた瞬間に「コーヒーはストレート」派として如何なものだった「ラテ」も美味しく思えて来るから人間の味覚とか感覚とかなんていー加減なもの。明日には「スタバのピタが」なんて言ってるかもしれません。

 偉いぞオーケン鏡だオーケン。アイドルとお近づきになりたいあわよくば結婚なんてしてみたいと思ってる明朗健全な男子諸君の願望を、それもおそらくは絶対口には出して言えない恥ずかしくもおぞましい欲望を、心の内の葛藤はともかく対談の場であっけらかんと出してしまえるオーケン大槻ケンヂさんに心からの拍手を賛辞と羨望から来る罵倒を贈ろうパチパチ。アイドル不在の現代にアイドル誌として今なお燦然と輝く雑誌「ボム」で行われた、オーケンが元アイドルたちを口説く、じゃない元アイドルたちや現役アイドルに最近のこととか昔のこととかを聞いた対談が「偶像(アイドル)列伝」(学習研究社、1500円)にまとまってたんで早速読む。男関係事務所関係アイドル仲間関係の話は御法度な時代を抜けて辛酸なめなめ地べたをはいはい到達して来た「元アイドル」の座。その高みから繰り出される少女に元少女たちの言葉はどれも生々しさに満ちていて背筋を上から下に向かってナメクジが這うよーな快感が体を襲う、どんな快感だ。

 最高です千葉麗子さん、単なるカワイサ物珍しさだけでオヤジに弄ばれているよーに見えた女社長転身初期も、すでに人脈作りから始めて「根回ししまくり! ゲーム会社やパソコン会社、ソフトバンク、出版社…。みーんな社長さんとお知り会いってゆーくらい根回ししてた(笑)」とか。元アイドルとゆー人間と知り合うことで自分にちょっとした遊び心があるんだってことを見せようともくろんでチバレイを手のひらの上で転がして、と思っていたおじさん経営者たちは実はチバレイの手の上で転がされていたのです。あのダイヤモンド社から出た異例な業界初の美人会社経営者写真集も「私の中にポイントがあって、経営者ってやっぱりダイヤモンド社から何らかの本を出版するのが夢なわけ…なんだけど私ができるのは写真集くらいしかなかったから、とりあえず出してみたの!」とゆー裏があるらしー。そこまでの計算目算があったとは、驚きましたお見それしました、次はだったら東洋経済新報社からヘアヌード写真集、だな(出ねーよ)。

 ちょい前の「SPA!」の「80年代アイドル特集」には出てたんだっけ? な元「セイントフォー」の濱田のり子さんもご登場、40億円かけて売り出したアイドルグループの初任給が5万円(ちなみにオーケンは3万5000円)だった話から、4畳半に2段ベッドで4人が寝ていた話とか、体育が2なのにバク転と宙返りを練習させられ失敗を恐れる気持ちでトラウマになって夢にまで見るよーになった話とか、もうアイドル哀史な話が満載で読むほどに目から涙がにじんでくる、いや面白い。1人が突然辞めてしまって抜けた穴を埋めた新しいメンバーは「入ってすぐにやめちゃいましたね」「だから解散コンサートのときは3人でやりました」ってあるけど、この子ってやっぱり「SPA!」の特集にも出ていた岩男潤子さんのことなのかな。対談にはほかに新田恵利さん三浦理恵子さん中嶋ミチヨさんとその世代の人たちには胸ドキュンな人が満載、世界でも希なインディーズ・アイドル宍戸留美さんもステキな脚線美を披露してくれてて読んでよし眺めてよしの1冊。白いジャムだって作れます(参照チバレイの項)。


【12月5日】 トーハンの決算発表に行くと売上はダウンしているものの返品率は改善していてつまりは受入を絞って配本を少なくして返本も減らそうって動きが強まっているってことで、それだけ無駄な本とか雑誌を業界が刷ってたってことにもなるけれど、一方ではカットされると立ち行かなくなるくらいの雑誌ってのもあって実際に立ち行かなくなっている所もあって、そんな影響があったかなかったか分からないけど残念ながらも98年に休刊になってしまった「コミックFantasy」に連載されて、1巻と2巻は出たものの3巻は出なかった紺野キタさんの「ひみつの階段」(紺野キタ、偕成社、880円)の単行本未収録作を集めた「ひみつのドミトリー 乙女は祈る」(ポプラ社、580円)をようやく発見して買う、うーん「乙女は祈る」はおじさんちょっと電車で開けません。

 陰口を叩かれて「ゴゴゴゴゴゴゴ」と燃える竹井の表情がなんともにかんともだけえど、赤間とかに引っ張られて共同体からパージされたくなくってよくやる批判への同調が結果としてプチいじめに繋がって、他人を傷つけてしまうんだってことが改めて思い出されて胸にチクリと来る。怒りまくって突っ張ってはいても、ボーイッシュな少女の三島のぶっきらぼうだけど優しい言葉にホロリと来て三島のブラウスで鼻かんだ竹井の顔なんか見ていると余計にそー思う。専業主婦になった奈里が昔にかえってやり直したいと落ち込んでいる時に、飾らずごまかさない言葉で物が言い合えた学生時代の雰囲気に針を戻して友達から辛辣だけど真っ当でかつ勇気が湧いてくる言葉を吐かせるエピソードもなかなか。この歳で言うのも気恥ずかしいけどやっぱり良い話、どーして終わってしまったんだよー。

 それにしても未だドン底なのか出版業界はデジタルハリウッド出版局が局ごとリストラくらったらしく、ここから出ていたミニコミ誌の「カエルブンゲイ」も創刊1周年を気に一段の飛躍ならぬ奈落の底へとドテポキグシャ。とてつもなく有名だったりそうでもなかったりする人たちのコラムがギュウギュウ詰めになっていて、全国もれなく60店舗以上の書店で7000部もの配布部数を誇りながらも自腹での発行と相成ってしまって超大変。なので現在「カエルブンゲイ」ではスポンサー&広告主を募集中。松尾スズキサンとかペリー萩野さんとか豊崎由美さんとか宮藤官九郎さんとか石原壮一郎さんとかいろいろな所で活躍しているいろいろな人たちが他よりちょっとだけ面白い、かもしれないコラムを書いてる”活字のフリーマーケット”、なんで出せば広告の効果はきっと絶倫、思いもよらなかったところから反響があることでしょう。キッチュな人スノッブな人サブカルな人暗黒な人にアピールしたい企業は是非、ってあるのかそんな企業。

 創刊1周年を祝いつつデジハリ出版局からの独立については記念になるのかどーかは分からない催し物があったんで顔を出す。某「サイゾー」なんかでも活躍している辛酸なめ子さんが辛酸をなめていた。あれが辛酸か。雑誌「ナンバー」で全国を飛び回ってはアマチュアスポーツの振興にいそしんでおられた豊崎さんとは初対面、ってゆーかきっと「ロフトプラスワン」のイベント時なんかにすれ違ってはいたんだけど、寂しがりやの自意識過剰は滅多なことでは知らない人と口をきかないから、これまでは遠巻きにしてカンサツしてたりしました。伺うと名東区出身でこっちは天白区だから同じ名古屋の隣の区、他人が聞いてもまるで分からないローカルな地名を出しながらしばし歓談に興じる、あとミステリーな書評の世界でのいろいろなこととか。前にも確か山形浩生さんだったかな、言われたよーに書いてる内容からして当方、小さくて丸い人だと信じられている節があって豊崎さんにもそう思われていたよーで、まあそれもカムフラージュになってて良かったのかもしれないけれど、逆に言うなら顔出しのないマイナー仕事しかしてないってことでもーちょっと頑張る必要があるのかも、ヅラのモデルとか。

 出来ていたんですねホームページ。「フラワーガーデン」(スコラ、500円)とか「ラプンツェル」(偕成社、880円)とか「双晶宮」(偕成社、上下各980円)とかを描いてる遠野一実さんの「遠野屋本舗」を教えて頂いて早速見に行く、ををいっぱい絵があるぞ。水墨画似ってゆーのか流麗な描線の美男美女がいっぱいいて、アニメ的ともマンガチックとも違うハイソな雰囲気のあるイラストを見ることができて、知らない人にはしっかりと、知ってる人にもあらためのその魅力を伝えている。問題はリストにある単行本のほとんどが一体どこに行けば売っているのか分からないところかな、最新刊だってすでに1巻が店頭で見つけにくい状況だし、うーんこれも出版不況の影響か。ペースゆっくりでも作品だけは発表し続けてやって下さいな。


【12月4日】 「エイトマン」でも鮨喰うんだねえ、なんてことを思いながら「エイトマン」が鮨喰ってるイラストが表紙の「メガビタミン・ショック」(平井和正、駿台曜曜社、1300円)を読む。よくよく見ると「エイトマン」が鮨喰ってるイラストの、看板には「ビタ3」「かきC」「ハイC」「アスコルビンサン」と書かれカウンターの上には「C6H80」と書かれたラベルの張られた容器が置かれまな板の上ではレモンが切られといった具合に、そこいらじゅうに「ビタミンC」の影がちらついていて見る人の意識下に「ビタミンC」の効能を知らず植えつけよーとする隠れた意図に満ちている、ってことは全然なくって、だいたいが帯に「不老長寿の仙薬の正体がビタミンCである」なんて書かれてあるくらい、堂々と「ビタミンC」の素晴らしくもすさまじい効能を訴えている。

 開くといきなりな謎の爺さん「ひらりん」の登場。でもって他誌から出張して来た「コミックマスターJ」によるキャラクターの顔の描き代えといった具合に「ひらりん」登場の「バチガミ」以来、平井さんの知脈人脈に連なる余湖裕輝さんが熱く激しく女性キャラだけは可愛らしく、描く漫画と平井さんの熱く激し過ぎる文章によってポーリング博士提唱による「メガビタミン」の素晴らしさが綴られる。その効能の真否はともかくとして、「メガビタミン」に出逢って移行の平井さんが圧倒的な執筆意欲と執筆速度で大量の作品を送り出し続けているのは事実で、金銭的な面はともかく文学的な精力ではまさに絶倫状態にある様を見ると、たとえ事実なんだとしてお、あるいは「病は気から」の類だとしても、「メガビタミン」を摂ることに何らかの意味は見いだせそう。食品に過ぎず薬価が低過ぎて旨味のない「ビタミンC」の効能を製薬会社も医者も嫌がるってな”陰謀史観”めいた指摘もやっぱり真否は不明だけど、安いし健康に害はないんだったら試してみるのも1つの手かも、96歳まで生きる平井さんを69歳まで読み続けるためにはこっちも健康でいなくちゃいけないんだから。

 秋山瑞人さんになりたい古橋秀之さんになりたい三雲岳斗さんになりたい上遠野浩平さんには難しいかもしれないけれどやっぱりなりたい中村恵理加さんでも良いし時雨沢恵一さんでも嬉しいとにかく作家になりたいなってみたいってな人に、電撃ゲーム小説大賞を主催する会社の株主の人がだったら小説はこう書けってなことを指南してくれる本が出たんで早速読む、刊行もとはメディアワークスじゃなくって朝日新聞だけど。著者は「漫画ブリッコ」編集者にして「多重人格探偵サイコ」や「木島日記」の原作者でありノベライズをやった作家でおある大塚英志さん。タイトルも堂々と「物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン」とあって、読めば本当に小説が書けそーな気がしてくる、秋山古橋三雲上遠野はまだまだちょっと遠そうだけど。

 とにかくいきなりが「盗作をしよー」だから仰天。手塚治虫さんの「どろろ」の構造を分析しては他のキャラなり世界に置き換え肉付けしてく訓練によって、プロットを組立て設定を加えて物語りを作っていくテクニックが身について来るんだとか。それから現代作家の中でも世界観の構築に冴えを見せる村上龍さんになりきってみることで小説に不可欠な世界観への関心が高まって、物語を作る上での大きな役に立つとも言っている。さらにはつげ義春の漫画を小説にしてみる訓練。私小説風の漫画作品なのにどこか「つげ」的な貧乏を装う架空の人物を描いたキャラクター小説風の漫画にも見えて来るあたりから、近代小説の2つの形を見出してどっちに進むんだと問う場面を読むにつけ、たしかに小説の書き方を指南している本だけど、そんな目的に向かって小説を解体していく作業を通じて、小説の構造そのものを考える不思議だけれど真理に近い評論書にもなっている。あるいはそっちが狙いだったのかもしれないけれど後書きにしても相変わらずの辛辣さに満ちていて真相はちょっと判断できない。どっちにしても読めば何とかなりそーな気にはなる。読めば阿智太郎さんになりたいかどかはともかくなれるかな。


【12月3日】 掃除と洗濯と炊事の日。合間に本を何冊か。素晴らしき哉独身貴族。どこがやねん。倉阪鬼一郎さんの「首のない鳥」(祥伝社、900円)は印刷関係で仕事をしていた経験のある倉阪さんらしく印刷会社の描写が妙にリアル。地下鉄の駅から歩いて結構な距離の場所に本社があって周辺に工場やら関連会社が固まって建っていて「村」っぽい雰囲気になっているってのはどことなく市ヶ谷の某社を想像させるけど、あそこは市ヶ谷から坂を上って下ってまた上って行かなきゃいけない場所だから、ダラダラと下って行く光鳥印刷とはちょっと違うかな、建っている土地にもたいして謂れはなかったし。とは言え光鳥印刷だって表向きには一流企業ながらもその繁栄を維持するためにあんなことをやっっていた訳だから、あるいは市ヶ谷の某社にも世にはばかられる秘密があるのかも。今度行ったら首の無い鳥の像とか置いてないか探してみよっと。

 お話しの方は1人の女性が謎めいたバッジを貰って選ばれたんだってちょっとだけいい気になっていた所に、実は100年も会社が繁栄していた影には忌まわしい契約があったんだってな過去のエピソードが挟み込まれて、バッジをもらった女性は実は……ってなことが明らかになっていくストーリーで、読み始めておおよその展開の見当はつくけれど、そこは根っからの怪奇作家だけあって、じわじわと真綿で首を絞めていくよーに女性を追い込んでいくあたりの流れはなかなか。クライマックス以降のスプラッタな描写も迫力で、唐突に訪れるエンディングから浮かび上がる光景の、壮絶にして荘厳な様にしばし唖然とする。そこまでやるか倉阪鬼一郎。

 全社を挙げて大事に護らなくっちゃいけないはずの女性のサポートに下半身が服着て歩いているよーな奴を付けるってあたりの流れの妥当性にはちょっと悩むけど、彼が騒げば騒ぐほど会社の言うことの方が信じられるよーになるってな逆説的な存在として送り込まれたのかもしれないし、あるいは秘密の小部屋に棲みついた野郎の怨念が会社の思惑を越えて下半身野郎を呼び寄せてしまったのかもしれない。結果としてそれが裏目に出たかというと、そこは何度も繰り返し失敗をやらかしかかった会社だけあってちゃんとスペアは用意してあって、何か無駄死にっぽくって可哀想な着もする。もしかすると2008年の事態とリンクしてるのかな。殉職者であっても死人が出ればダメージを被るのが現実の企業。だったらリスクを冒して社員を犠牲にしなくたって、10歳くらいの時にどっかから購入して着て育てておけば良いじゃん大企業なんだからとか思うけど、きっと神様も和食がお好きなんだろーってことで。

 続いて岩井志麻子さんの「岡山女」(角川書店、1300円)。岡山県の女性気質について書かれた本って訳でもなく岩井さん本人の伝記でもなく、妾として囲われながらも身代を潰した旦那に襲われ片目を失った女性が、その後なぜか見えない物が見える東浩紀さんみたいな状態になって、それを良いことに霊視とか占いとかってな商売に鞍替えして、さまざまな事件に出逢ってはそれを解決していくどこか探偵小説っぽい構造を持った短編集。霊視ができるとは行っても完全ではないらしく、きっかけめいたことを霊視なり相手の話から聞き出すなりして、後を母親と父親の足による情報集めが補って次第に事件の真相に迫って行く。全体に漂うのは、人には良心の呵責とゆーか、自分のしでかしたことを分かって欲しいとゆー思いが強くあるんだってなメッセージで、人様の命を奪う人間の強欲さ、身勝手さ、我侭ぶりが描かれていても、最後にはちゃんと良い所に落ちている。怪奇小説の体裁を借りつつ人間の弱さと優しさを描き上げた傑作短編集。山周の次は直木だ芥川だ。

 DVDで箱買いした(BOXなもんで)「御先祖様万々歳!」をダラダラと見る。声ちいせーなー。オープニングのザラザラしたテレビの画面の中で走査線がハネるシーンってビデオだともっと線のエッジが立ってたよーな記憶があるけどDVDだと虹色のクロスカラーが出ていてあれれと思う。ビデオとかLDもこんな感じだったっけ、ビデオは探せば中古で借った1巻だけがどっかにあるけど相変わらずの地下300メートル状態で発見できず。本編に入れば音声はともかく色はちゃんとしてたんでやっぱりこんなものだったのかも。お話はビデオとか千葉テレビの夏休みスペシャル放送とかで見てたんで別に驚かないけど、演劇的なビジュアルに哲学的なセリフはおそらく10年前の初出時に見ていたらテレビをぶん投げていたかもしれない、難しすぎて。心に余裕の生まれて「トライゼノン」だろーが「ミカヅキ」だろーが受け入れられるよーになった今では、あーゆー実験の意義をセリフの意味も含めて理解できるんだけど。

 この「御先祖様万々歳!」といー、まだ見てないけどDVDで買って来た「ロボットカーニバル」といい、すげえ奴等によるすげえ作品がベキベキと生み出されていた時代があったってことを思い出しつつ、すげえ奴等が最前線に立つよーになった現在、だったらすげえ作品が山のよーに生み出されているかとゆーとこれがなかなかに厳しい状況だってな経済的だったり人材的だったりする現実を前にして頭が重くなる。もっとも映画だと「BLOOD」があって「人狼」があって来年の「メトロポリス」も期待持てそーで「デ・ジ・キャラット」は大好きでOVAの「フリクリ」はニナモ萌えだったりして、山ほどじゃなくても探せばそれなりにすげえ作品は出ているから、「ロボットカーニバル」とか「御先祖様万々歳!」が見たい時に見られなかった経験を活かしつつ、今あるすげえ作品を地道にちゃんと拾って行き、今後あるかもしれない20年の空白期に備えることにしよー。

 「SFマガジン」の慣れない漫画メインの仕事は第1陣がとりあえずOKなよーでひと安心、しかしあんなんで良かったんだろーか。追加の第2陣に向けて週内もドタバタとしそーだけど、別注のヤングアダルトメインの仕事もあって「マガジン」の仕事と対象が重なっていなくって、かつ「電撃」のおそらくはそろそろ締め切りの仕事は新刊メインでレギュラーの「SPA!」は一般書メインだったりして、あまりなバラつきぶりにネタの使い回しが出来ず苦心する。とはいえもとよりガレージキットから現代アートから玩具からイベントリポートから、何だってやってしまうコンビニエンスぶりが売りの3流ライター。パーティーに招かれ社交に勤しみ友人知人の伝を伸ばして仕事を増やし格を上げて行くなんてこと、引っ込み思案の自意識過剰人間には無理だしだいいち最初からお呼びもかからない。なれば自分の物となった時間を精一杯使って与えられた仕事をこなしていくのが、せめて2流のケツにでも食らいつくのが筋だろー。ってことで頑張りますのでホンのちょっとだけ締め切り過ぎるのは許してね(それが甘いってんだよ)。


【12月2日】 水戸へ。初めて行った「水戸芸術館現代美術センター」は森と泉に囲まれた小高い丘の上にあってゲージュツの伊吹をまき散らしているんだろーってな想像とは正反対で、繁華街から1本中に入った場所の平地にちょっと綺麗目のホールっぽく建っていて拍子抜け。大通りから路地に入って民家の間を進むと、電柱とか電線とか看板の向こうに怪獣よろしくシンボルにもなっている高さ100メートルのタワーが聳え建ってる、そのギャップがゲージュツになってるって言えば言えるんだけど。

 到着するとそのタワーの前に赤絨毯が敷かれてあって椅子なんか並べられていて、講演会でもあるんだろーかと見ていたら奥にあるレストランで黒服の一段がガヤガヤやって結婚式だと納得。青空をバックにシンボルがそびえ立つ前で式を終えたカップルが晴れ姿を披露している光景、それ自体に違和感は全然ないんだけど、1つの機能を与えられた場所を柔軟に使うって発想のあんまりない国、でもってゲージュツは神聖不可侵なものと思いたがってる国だけに、こーゆーハイブリッドな使い方はちょっと面白い。流石はテレビゲームをゲージュツとして展示・陳列しているミュージアムだけのことはある。

 ってことで「ビット・ジェネレーション2000 テレビゲーム展」。ガレージキットをアートと主張して大顰蹙を買った村上隆さんに比べると、ゲームを現代アートの殿堂に並べてもあんまりゲームファンから「アートなんて権威にすがらなくたってゲームはゲームとして立派に誇れる文化だ」といった声が上がらないのは開催された場所が神戸に水戸だから、あんまり伝わっていなかったのかもしれないし、CG映像や電子音楽を取り入れた「総合芸術」的な存在にゲームがなっていて「現代アート」と重なる部分があるんだと理解されているのかもしれないけれど、一方では歴然として玩具の延長でありエンターテインメントの最先端であり工業品の一形態であるゲームを「現代アート」の文脈に乗せるには、アートの側ゲームの側に立って依然釈然としない部分が残る。

 そのあたりはキュレーションした水戸芸術館の浅井俊裕さんが「テレビゲームと現代美術」とゆータイトルの一文を展覧会のカタログに載せていて(2500円もしゃがるが資料としては1級品)、作者の自意識的積極的主体的な部分での「イズム」とか「コンセプト」の有無からテレビゲームに芸術性はあっても現代美術ではないと言っていて、とらえずの区分としては分かりやすい。けれども現代美術が殺ぎ落として来た物語をゲームが持っていることの素晴らしさ、かつその物語なり世界観はプレーヤーの能動的なアプローチによってのみ見えて来るとゆー点での現代美術との共通性についても触れていて、「イズム」によって切り分けず、ジャンルに貴賎を見出さず「やわらかい価値観」で対象をとらえることの大切さを訴えている。

 もっとも、そう考えないことには「現代美術」の場で「ゲーム」が展示されることの意味を了解できなあたりがやっぱり双方の間にある壁のよーなものなのかもしれない。展示の方法もゲームん「現代美術性」を妙に誇張したものにはせず、古今のゲーム機やソフトがフロアにあんまり工夫もなく順繰りに並べてあるだけで、現代アートの美術館とゆーよりは博物館的なアプローチに近い。てところどころに「ドラクエ」かららしーセリフがドットの粗い文字で壁に書かれてあるあたりは美術展っぽいかも、あと大きなスクリーンに映し出された「ポン」とか「スペースインベーダー」を遊べるよーになっている所では、インタラクティブなメディアアートに近いニュアンスを感じる。アートとゲームのどっちかがどっちかを取り込もうなんて意図よりも、現代アートの場にゲームが置かれている、その状況から両者の間にある壁が曖昧になりつつあることを、意識的でも無意識的でも感じてみるのが良いのかも。800円払ってやり放題のゲーセンに行ったと思うんならそれもそれで良し。帰りがけに見たら「ランドネットDD」の宣伝チラシが山と詰まれていたんで束にして持ち帰る、絶滅した三葉虫なみに貴重な標本かも。


【12月1日】 「ヴォーグ」の日本版を出している出版社の社長が「ブルータス」の編集長だった人に代わったとかゆー雑誌業界的には話題のリリースを見たり昔は「アニメック」からだったけど今度は「アニメージュ」かららしーとゆー雑誌業界的にはちょっとだけ話題の噂を聞いたりする20世紀最後の月の初日は、だからといって騒ぐほどの大きな出来事もなく、粛々と目覚めて会社に行ってからお台場へと出かけて新しくオープンしたナムコととセガのアミューズメント施設を見物する。まずセガは「ジョイポリス」を改装して新しい乗り物を入れたってことらしく、クールだったイメージから少しファミリーっぽくなったエントランスを潜って入ると正面に何やら行列が。見るとスカイダイビングを経験させてくれるライドらしく、下からエアでもあてて周囲に映像を高速で流して落ちてる感じでも演出するんだろーかとか思ったけれど、確かめるには持っていた荷物が多くって面倒そーだったんでパスする。怖かったからじゃないぞ。

 ボードに乗って立ったまんまでジェットコースターよろしくぐるぐると走り回る乗り物もあったけど同じ理由でパス、「弟切草」をテーマにしたホラーハウスも以下同文。これじゃーリポートにも何にもなりゃしないけれど、見てきたよーに嘘を書くのが新聞記者ってものだから、とりあえずはどれも素晴らしかったと言っておこー。それにしても「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」だの「五条霊戦記」だのホラーハウス的なアトラクションばっかりってのは恐がりの僕には、じゃなくってしがみついてくれる女性のいない1人者にはちょっと嬉しくないかも。お洒落なお台場に見物に来ている人を現地調達すればいーじゃん、って人もいるだろーけどそれが出来れば始めっからちゃんと連れて行くってば。なのでセガには是非ともホラーハウスの入り口に、男1人がアトラクションを楽しめるよー、しがみついてくれる女性(人形可、ダッコちゃん不可)を用意しておいて下さいませ。

 ナムコの方は新しくオープンした「デックス東京」の新館にある、中華料理屋とか中国雑貨の店が軒を並べるスペースの奥に作った一種のゲームセンターで、昭和30年代を作り込んだ「ナンジャタウン」に比べると若干見劣りはするけれど、置いてあるゲーム機が赤とか黄色の中華風に塗装してあったり、プライズマシンの景品が中国茶だったり中国菓子だったりブルース・リーのフィギュアだったりってな感じに変えてあったりして、雰囲気だけはなかなかに「香港の雑居ビルにあるゲーセン」ってな感じを出している。店員さんもスリットの入ったチャイナドレスで良い感じ、しゃがんて景品の入れ替えなんかやってたら1人者の健康な男子だったらやっぱりついつい見ちゃいます。周囲の香港風モールとの連携が旨くとれれば来店するファミリー層とか若いゲーム好きとかを呼び込んで、爆発はしなくてもそれなりな人気は確保するかも。クレーンゲームでも縫いぐるみとは流石に一般の流用なんで、オリジナルに中国風の景品と作るとかすれば、是非行こうかって気にもなるなけど。毛沢東語録とか主席バッジとかが取れるんだたら通うね。

 枡野浩一さんの「かんたん短歌の作り方(マスノ短歌教を信じますの?)」(筑摩書房、1300円)を買う。毛のある枡野さんの写真を見る。ほへー。あと愛猫(その名はさくらももこ)がころころとしていて顔の上に乗せると肉球を通して猫重がズッシリ来そうで羨ましい、もう10年くらい顔に猫を乗せてないなー。それはともかく投稿されている作品とか読むとどれここれも57577を使いつつ昔ながらのリズムに縛られず自由にのびのびと思っていることを書いていて、下手な学校教育よりも良い実作と丁寧な指導と忠実な実践があれば人の持っている能力ってのはこうも伸びるものかってことを実感する。スポーツ新聞に綺麗な写真入りで添えられた恋とか愛とか男とかってな短歌に比べて何とゆー同時代感、皮膚感か。南Q太さんかわかみじゅんこさんらの賛辞漫画と枡野さんの返礼文もあって贅沢な1冊かも。ちなみに表紙もQ太さんだ。

 「天地無用」で有名なアニメスタジオのAICとアニメ雑誌やゲームの攻略本で有名なスタジオ・ハードの親会社に取材に行く。ああドリームネットワークね、と思った人が果たしてどれくらいいるのか分からないけど、アニメとかの業界ではこれって「定説」級に知られている話だったんだろーか、それとも関係者を除いては存外と知られていなかった話だったんだろーか。実は僕は知らなかった、AICとスタジオ・ハードが今年の春に相次いで、ドリームネットワークとゆー会社の100%子会社になっていて、AICの三浦亨さんもハードの高橋信行さんもドリームネットワークの取締役になっていたってことを。アニメの雑誌に文章なんか書いて、アニメ通とか何とかいって鼻を高くしていても、肝心な所で実は全然業界のことを知らないってことを思い知らされました。業界ってやっぱり奥が深い、もっと勉強しなくては。

 知らない人のために説明すれば、ドリームネットワークとゆーのは東大の工学部を出てプーを3年やったあと、堀紘一さんで有名なボストン・コンサルティング・グループでコンサルをやってスライドを何枚も焼いた後(ボストン用語)、意を決して独立してインターネット回りを手がけるドリームネットワークを興した福田訓士さんが経営する会社。98年あたりからアメリカとかに向かって日本のアニメの情報発信とか、キャラクターグッズの通販とかを行うサイトをずっと運営して来て、いつか本格的にそーゆービジネスをやりたいと思っていた所に、仕事上での付き合いがあったりベンチャーキャピタルを介してだったりしながらハードとAICに伝ができたとか。

 でもって福田さんの意向としてある、アニメや漫画やゲームに関して情報提供からコンテンツ配信から物販まで、何でもできるサイトを作りたいねとゆー展望を元にいろいろと話し合ってるうちに、情報発信に必要なコンテンツだったらハードだし、ネットで流すんだったらアメリカでアニメスタジオとしてとっても有名なAICだってことで、買収する運びになったとか。12月1日から日本語版のサイトもオープンしたんで、どんなことやってるかを知りたければのぞいてもるのが吉。魎呼アイコンがあるあたりがAICっぽさかな。

 だから決して新興ネットベンチャーによる”日本の魂”買い集めって訳ではなくって、割とマジメにアニメとかゲームとか漫画を世界に向けてネットを使って広めて行きたいってな意志を持っていそー。でなければその道20年の老舗プロダクションも、「ブルージェンダー」とか「今そこにいる僕」ちか話題にだけはなった作品を作って厳しい状態にあったとは言えやっぱり20年近いキャリアを持つアニメスタジオも、一緒にやることに踏み切らなかったと思うんだけど、何しろ半年以上もこーゆー状況を知らなかった身なんで、あんまり当てにはならないかも。神田神保町の岩波ビルに会社があって入り口付近にビデオとテレビが何台も置かれて、LDとかアニメ雑誌とかグッズとかが山と並んだスペースがあって仕事じゃなければ1日でも浸ってたい気分にかられる。棚の上に噂のマクファーレン・トイズ謹製「魎呼&魎皇鬼」のブリスターが飾ってあって顔立ちはともかくバストがアメリカーンに良い感じ。探して買おう。


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