はもうない
SWITCH BACK
 「言わぬが花」とか「沈黙は金」とか「黙して語らず」とか「以心伝心」とかいろいろ。染み出る存在感の少なさを補いたいのか、会話でも文章でもことさらに饒舌になる昨今の風潮を戒めるかのように、辞典をひもとけばかくも多くの「寡黙」を尊ぶ言葉がならぶ。もちろん寡黙は誉められるばかりではなく、国会の証人喚問裁判の証人尋問試験の口頭試問で「沈黙は金」と決め込んだところで、得られるのは卑怯の謗りか判事の悪印象か試験の不合格、といったバッドな結果だったりするのだが。

 いやいや沈黙によってその場をしのぎ、後々に至るまで政治生命を保ち続ける政治家がいない訳ではないから、彼の人にとってやはり「沈黙は金」だったということか。とまれ寡黙さによって世の中不幸になれば幸せになる人もいる、ということだけは身に深く覚えておく必要があり、時と場合によって使い分けていくことが、どうやら大人の世界では強く求められている。沈黙すべき時には黙り、饒舌になるべき時には喋るのが、この世知辛い世の中を狡猾に、あるいは幸せに、生き抜くための大人の術なのだろう。

 例えば同じ20代の前半と後半では、世間に対する気の持ちようは文字どおり大人と子供ほどに違う、らしい。森博嗣の一連のシリーズで、その聡明にして賢明な才女ぶりを披露している西之園萌絵ですら、最新刊の「今はもうない」(講談社ノベルズ、880円)では、ついつい「言わぬが花」ほか寡黙と沈黙を尊ぶ金言の数々に背いてしまう。それが有り余った己の才をひけらかしたくなる欲望にかられたものなのか、いつもの如く朴念仁を決め込みながら全てを分かってしまっている、最愛の犀川創平の気持ちを惹きたかったからなのか、複雑怪奇な女心を理解した上で判断することは困難だが。とまれ西野園家のご令嬢が山道を行く車の道中、創平に語った物語は、その饒舌さとは対称的に「沈黙」の価値、あるいは無価値を問いかけるものだった。

 場所は西之園家の別荘がある岐阜県の山中。近付く台風で天候が悪化する中で、西之園家からほど遠くない場所にあるファッションデザイナーの別荘に客として来ていた笹木という男は、廃線になった森林鉄道の線路をたどって進むうちに、山中には似つかわしくないワンピース姿でサンダル履きという若い女性と出くわした。家族と喧嘩をして飛び出して来たと説明した女は、家には戻りたくない、麓まで送って欲しいと男に頼み、笹木は彼女を連れてとりあえず寄留先のデザイナー・橋爪の別荘までと戻る。

 道中、西之園と名乗った女性にほとんど一目惚れ状態の笹木だったが、彼には橋爪の別荘に一緒に来ているフィアンセがいた。間もなく30歳になろうかとい石原真梨子は、自己主張が強過ぎるきらいがあったものの、笹木を好きなことには違いなく、時にむき出しになる感情に、笹木は時折ウンザリさせられていた。そこに登場した絶世の美女。やがて笹木は22歳と自己紹介した西之園嬢に完全に心を移していく。

 叔母に無理矢理見合いをさせられそうになった事を憤っていた西之園嬢は、早くに橋爪の別荘を出て街へと向かいたがっていたが、橋爪の引き留めによってその晩は別荘に泊まることになった。折悪しく台風の到来で天候は悪化の一途を辿り、出るに出られなくなったこともあって、別荘での夜を迎えた笹木や西之園嬢ほか来客者たちだったが、真夜中になり、笹木が泊まる部屋に西之園嬢が訪ねて来た時から、ほのかな笹木の恋心は、その後の生涯を大きくかえる事件へと発展していった。

 女性の悲鳴が聞こえたと西之園嬢に言われた笹木は、夜を徹して悲鳴の出所を探し回るが該当者がいない。やがて三々五々、橋爪の息子・清太郎や橋爪たちが起き出して来て真夜中の厨房はちょっとしたサロンと化す。中で悲鳴の話題へと至り、不審の度を再び強めた一行は、鍵がかかっていて入れなかった3階にある娯楽室へと向かい、鍵をこじ開けて中に招待客として来ていた、そして清太郎と付き合っていた女優の朝海由希子嬢と、その妹でやはり女優の耶素子嬢が娯楽室と、映写室でそれぞれ死んでいるのを発見した。

 嵐で閉ざされた山荘での密室事件とはお決まりなミステリィ、そして語り手である笹木は時折煌めくばかりの聡明さを見せる西之園嬢に対抗すべく、その実気を惹くためにさまざまな仮説を組み上げてはガラガラと崩し、誰かが犯人かもしれないという猜疑心に満ちはじめた別荘の中で情熱的にふるまう。時に熱意が溢れだし、相談を持ちかけて来た西之園嬢にキスをして手ひどい罵倒を浴び、それでもくじけずに事件の謎をさぐる傍らアタックを続けて、ついにはプロポーズへとこぎ着ける。西之園嬢と約束した、相手の名前を当てるカケで、萌絵という名前を言うことによって。

 かくもラブストーリー然としたハッピーエンドな結末に、笹木という男が語った肝心のミステリィと言えば、饒舌な探偵による「さてみなさん」の合図もなく、一切が語られることなく終幕してしまう。聡明にして賢明な萌絵が、事件の真相に気付いていなかった筈はない。そして笹木が一切を語らなかった理由にすら、ちゃんと気が付いていた。けれども40歳を過ぎて惑いの心境を脱しつつあった笹木と違い、未だ20代の萌絵には、いかな理由があろうとも真相に沈黙している事ができなかった。そこで創平を巻き込んで、真相を暴かせる愚挙に出た。

 そんな萌絵をあからさまに非難しないところが、いかにも創平らしい振る舞いで、黙っていることが良いことなのか悪いことなのかが「わからない」という萌絵を、「良い判断」と言って優しく庇う。決して饒舌にフォローする訳でもなく、かといって厳しく糾弾する訳でもない。創平もまた適度な寡黙さによって、場をなごませ人々を幸せにする術を心得た、時にはそれが保身につながる小狡さを秘めていることも否定できない、良くも悪くも1人の大人だったと言うことだろう。「沈黙は金」。ほらほら効果はてきめんに現れている。

 あまりに甘ったるいエンディング、そして萌絵によって暗示された結末に、ミステリィならではの稀有壮大な謎解きの醍醐味を味わえなかったと不満の人もいるかもしれないが、森博嗣はまさに「黙して語らず」の、大きな謎を仕掛けていったので、興味のある人はそちらに挑んでみるのも良いだろう。ただしこれは極めて難解な問題だ。冴えない40男の笹木がどうして西之園嬢の関心を惹いたのか。赤面するようで沈黙を決め込みたい言葉だが敢えて言おう。まさに「愛はミステリー」、と。

森博嗣著作感想リンク

「すべてがFになる」(講談社ノベルズ、880円)
「冷たい密室と博士たち」(講談社ノベルズ、800円)
「笑わない数学者」(講談社、880円)
「詩的私的ジャック」(講談社、880円)
「封印再度」(講談社、900円)
「まどろみ消去」(講談社、760円)
「幻惑の死と使途」(講談社、930円)
「夏のレプリカ」(講談社、780円)


積ん読パラダイスへ戻る