ジャック
JACK THE POETICAL PRIVATE

 かつて「芸どころ」と称された尾張名古屋も、今では夜の10時ともなれば繁華街ですらその灯を落とす、地味で質素な街となった。名古屋在住の芸人たちにも、全国に通用する人は数えるほどしかおらず、これではとても「芸どころ」などと威張ることはできない。

 数えるほどの全国区という芸人も、「金太の大冒険」で根強いファンを持つつぼイノリオ、名古屋弁の激烈な演技が持ち味の山田昌と、きわめて特殊なジャンルに限られている。若い女性にファンを持つミュージシャンが、名古屋に在住したまま全国区の人気を得るなどとは、たとえ名古屋が首都となっても、絶対にあり得ないことだと断言しよう。

 けれども森博嗣の「詩的私的ジャック」(講談社ノベルズ、880円)には、何枚ものアルバムを出してテレビにも頻繁に出演し、グルーピーも大勢いる名古屋在住のミュージシャンが登場している。何ともリアリティーに欠ける設定である。いや、彼「結城稔」が住んでいるのは「那古野」であって「名古屋」ではないから、あるいは世界に通用するミュージシャンが住んでいたって、何の不思議もない。

 登場人物の誰1人として「なも」も「だがや」も使わず、結城稔もステージ上では「おみゃーら、のっとりゃーすか」とは叫ばない。そんなところを見ると、森博嗣の小説の舞台となった「那古野」は、現実の「名古屋」とは全く別の、一地方都市として考えるべきなのかもしれない。

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 那古野在住のミュージシャンである結城稔は、那古野でも1番の国立大学、N大学の工学部に通っている。通っているとはいっても、8年目を迎えて単位が足らず、退学か除籍かを迫られており、そのことを伝える役目を、担任だった助教授の犀川創平が務めることになった。研究室を訪れた結城稔に、相変わらずの淡泊さで除籍か退学になることを伝えた犀川は、知り合いだったS女子大学助手の杉東千佳が、結城稔の兄、寛の妻だったことを知らされる。

 その杉東は、自分が勤務するS女子大学の密室になったログハウスで、全裸の体に謎の傷をつけられた姿で死んでいた、1人の女性を発見するという事件に遭遇していた。事件を調べていく過程で、死んでいた女性が結城稔の熱烈なファンだったことが明かとなり、愛知県警の捜査線上に結城稔の姿が浮かんで来る。さらに別の大学で、同じように女子大生が全裸で殺されている姿が発見され、前に殺された女性といっしょに、最初の事件の前の日に、いっしょに結城稔のマンションを訪れていたことが解って来る。

 密室で殺された女性たち、全裸の体に残された傷跡。結城稔が作った曲「詩的私的ジャック」の歌詞との符合が、ますます結城稔の立場を危うくする。結城稔の友人で音楽の手伝いもしている篠崎敏治、兄の結城寛、その妻杉東千佳らを巻き込んで、事件は新たな悲劇を引き起こす。かつてN大学で起こった事件を犀川といっしょに解決した学生、西之園萌絵が持ち前の好奇心で事件の解決に首を突っ込み、いやいらながら犀川も事件の渦中に身を置くことになる。

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 密室を作った必然性、犯人が凶行に及んだ動機など、ミステリーではことさらに重要視される要素が、この「詩的詩的ジャック」では曖昧にぼかされる。犀川創平は言う。「動機なんて、本当のところ、僕は、聞きたくもないし、聞いても理解できないでしょう。それに本人にだって説明できるかどうか・・・。(中略)他人に説明できて、理解してもらえるくらいなら、人を殺したりしない。そうではありませんか?」(310ページ)。必然性の定義と動機の追求によって、事件の全貌を推理させ、犯人の当たりを付けさせるパズルのようなミステリーを、森博嗣は目指していないように見える。

 ならば何を書こうとしてるのか。それは他人の想像が及ばない人の心の複雑さであり、だからこそ掻き立てられる想像することへの楽しみではないだろうか。故にすべてを型枠にはめるような論理的思考によって犯行を推理し、犯人を追求しようと懸命になる西之園萌絵は、常に壁にぶつかっては犀川創平に助けを仰ぐ。

 そして犀川創平は、萌絵以上に精緻な論理を構築しながらも、最後の部分でゆとりを残し、結末を曖昧にして逆に読者に問い直す。ふたたび問題をわが身とした読者は、だからといって犀川創平からの再挑戦などとは考えず、複雑に揺れ動く登場人物たちの心の内を読みとりながら、どうして事件は発生したか、登場人物たちはこれからどうなっていくのかを、それぞれに想像すれば良い。

 「すべてがFになる」から「笑わない数学者」まで、過去3作において傍目には異常とも思える「博士たちの日常」が描かれていたのに対し、「詩的私的ジャック」には「異常な愛情」を持った博士は登場せず、全体にメリハリに乏しい印象を受けた。クールで知的な「理系ミステリー」などと尊称された森博嗣の作品にしては、恋と将来に悩む萌絵の揺れ動く心の内を軸にした、いわゆる「キャンパス恋愛ミステリー」に近い内容となっていて驚いた。

 ますます恋慕の情を募らせる萌絵のアタックをかわして、犀川創平はあの甲斐性に乏しい性格を維持できるのか。それもまた、想像してみるだに楽しい試みであるが、次作にはやはり「異常な愛情」の持ち主を登場させて、「象牙の塔」の異様さ奇妙さ不思議さを、淡々とした犀川創平と対比させることによって、知的にクールに描き出して頂きたい。


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