ディエンビエンフー 第1巻、第2巻

 軽く見える。というより軽く描こうとしている。ジャングルを。戦闘を。爆発を。死を。平板な画面にシンプルな線。可愛らしいキャラクターたちによって繰り広げられるベトナム戦争は、誰がどう見ても現実の、泥と汗と血にまみれて大勢が殺され、大勢を殺したあのベトナム戦闘とは似ても似つかない。

 今世紀に入ってから立て続けに起こった、アフガニスタンやイラクへの派兵というアメリカ合衆国による帝国主義的、覇権主義的な立ち位置からの他国への“侵略”。その根元とも言えそうな出来事であり、また軍事力と経済力を背景に、世界を席巻しようとする存在に対して、己が尊厳をかけて闘う民の反抗と独立という歴史的快挙の発端と、あのベトナム戦争を受け止めている者たちにとって、あまりに軽くて薄っぺらに見えるかもしれない。

 西島大介が描く「ディエンビエンフー」(第1巻、第2巻、小学館、各714円)は。

 けれどもどうだろう。悪と認められるアメリカ合衆国による他国との戦争は、抑圧された国々に民主と自立をもたらした正義の鉄槌なのだと捉える見方もある。平等とは言いつつも権力が特権化して、民を弾圧する共産的な主義主張は悪だったと後に歴史が証明するケースもある。どちらかに肩入れすれば、どちらかがないがしろにされる。そしてないがしろにされた側にこそ正義があるかもしれないという、多面的で多層的な視点からでしか今の世界は見通せない。

 だから西島大介は、どちらにも肩入れせず、そして情動的な描写による感情移入を極限まで廃することを狙った絵柄と物語を取り入れた。オールフラット。どちらが正義でも悪でもないキャラクター設定と、残虐だけれどそうは見えず快楽的ではあってもどこか虚ろな絵柄という、すべてがフラットな状況におかれた手法を取り入れることによって、ベトナム戦争とは一体何だったのかを、改めて僕たちの前に問いただす。

 全身を火傷に覆われた人々が叫びをあげながら燃えさかる街を歩き回る圧倒的なビジュアルで、原子爆弾のすさまじさと恐ろしさを見せつけてくれた中沢啓治の「はだしのゲン」という作品があり、平凡に見える日常の中に原子爆弾が残した後遺症を浮かび上がらせ、読者の悲しさや憤りといった共感を招くこうの史代「夕凪の街」という作品がある。ビジュアルの衝撃から来る憤怒。シチュエーションから浮かぶ共感の惹起。だからこそこれらの作品は歴史に残り、記憶にも残っている。

 けれどもこれらは共に、作者が狙いとする情動の発露を読者に求めている作品だとも言える。対して西島大介の「ディエンビエンフー」は、憤怒も同情もどちらの立場も拒絶して、ひたすらフラットにベトナム戦争を描き、見る者に考えさせる。戦争とは何だと。

 記号に近いところまで単純化された、飛ぶ腕や散らばる内臓の絵。相手の背景など無用とばかりに銃を撃つ米兵に、山刀を振り回す姫。見た目の可愛らしさの向こう側にある、起こっていることの残酷さに気づき、考え、飲み込んで初めてベトナムという地であの時代に行われたことの意味、そして今なお続く“南北問題”的で“民族問題”的で“宗教問題”的な争いの根元に、きっと何かがあるのだということに思い至る。

 ではそれは何なのか。答えは容易には出ないし、「ディエンビエンフー」でもそこへと物語が導かれるのかも分からない。ただ確実に言えることは、かつて「コミック心現実」に連載されたものをまとめつつ、中途で終わった角川書店版より居場所を移し、新たに描き直されているIKKI版「ディエンビエンフー」は、確実に完結する、ということだ。5年後かもしれないし10年後かもしれない。けれども絶対に完結し、冒頭で描かれた固く握られた手首の場面へと回帰するのだ。

 誰の手か。おそらくやっぱりあの2人なのか。どうしてあそこにいたのか。どうしようもなくたどり着いたのか。巡らされる様々な思案が作品として答えとなって立ち現れた時に読者たちは、すべての死とあらゆる破壊を越えて育まれる、1人の人間の最愛の人間を求める心の美しさを知るだろう。

 そこより再びぐるりと時代を遡って1巻の冒頭へと舞い戻って、そしてラストまでを辿るうちに、投げやりで無頓着に見えるフラットな絵と物語から、立体視のように立ち現れる前向きで強烈なメッセージを受け取れるはずだ。

 まだ出会えないその感動に、出会えるまで生き抜こう、この困難な時代を、フラットな気持ちを抱き続けることによって。


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