ディエンビエンフー
Dien Bien Phu

 終わりじゃない。始まってすらいない。ベトナム戦争。アメリカの自信を大いに失墜させた、血と泥沼にまみれて繰り広げられた戦いの中で育まれた、憎しみと慈しみの感情が渦巻く物語を、西島大介の「ディエンビエンフー」(角川書店、1000円)はまだ描き切っていない。

 時は1965年。ジョンソン大統領の命令で北ベトナムへの恒常的な爆撃が始まったその年に、ベトナムへとやって来た17歳の日系米人カメラマン、ヒカル・ミナミは戦場で華麗に舞っては手にしたナイフで米兵を切り刻む裸の少女と出会う。誰1人として逃すことのない少女のナイフ。それをヒカル・ミナミはなぜか受けることなく、傷をひとつ胸に受けただけで生きのびた。

 その後も幾度となく少女によって繰り広げられた一方的な殺戮に、ヒカル・ミナミは巻き込まれてはその度に逃れひとり生還を果たす。あまつさえ少女から胸に刻まれた傷口に口づけをされるほど。これぞ戦場に花咲く恋か、といった想像をかわすように少女の表情は変わらず「ンククッ」と含み笑いを残すのみ。愛玩動物を見るかのようなまなざしでヒカル・ミナミに接しては突き放す。

 そんな少女の感情を掴みがたい視線をヒカル・ミナミは強く意識し、ほのかな恋心すら芽生えさせは思い出して自慰に走る。まるで一方通行の感情が、邂逅と別離のなかで増幅していった果てにヒカル・ミナミは、米軍から北ベトナムのスパイという疑いをかけられる。

 さらには脱走の容疑もかけられ、あげくに米軍でも凄腕の大佐が飼う、凄腕の殺し屋の少年とともに少女を討つ旅へと出立する。そしてはじまる少年の戦い。一方で繰り返される少女の戦い。巨大な爆撃機による空爆という無粋な手段は唾棄し、ひたすらに拳銃とナイフで米軍の兵士を殺し北ベトナムのゲリラを殺す少女と少年の戦いが描かれる。

 その描写は、戦場を舞台に大量の人命が失われる非人道的な場面を描きながらも、一方で機械でも兵器でもない人間の手が、人間の命を奪うというある種の人間性をそこに見せる。戦争の美学、戦士の矜持とでも言えようか。

 勝てば官軍の戦争に人間性など不必要で、むしろ排除すべき思想といった見方もある。けれどもあまりに多くの人の命が人の命としてではなく、積み重なる数字としてのみ見られがちな風潮の中で、人の手による人の命の与奪は人間性の輝きをそこに放つ。快楽に導かれたものであっても、人としての感情がある限りそれはすぐれて人間的な行為だ。

 いずれ少女と少年は出会い、戦士の矜持をかけた戦いを繰り広げることだろう。その間でヒカル・ミナミは己が抱いた感情のままに全身をふるわせ官能におぼれるのだろう。世界が左に右に揺れる戦いの中で燃える人間的な恋の炎が、血と泥の戦いに彩りを与える。

 そして物語は回帰するのだろう。「ディエンビエンフー」の冒頭。1973年のある戦場を描いた冒頭で、地雷を踏んだのか砲撃を受けたのかは不明ながらも吹き飛んだおそらくは人間。その破片として、ギュッとつながれた手と手が降って来るシーンへと、回帰してグランドフィナーレを飾るのだろう。

 それは果たして悲劇の結末なのか。それとも幸福のエンディングなのか。いずれ紡がれる物語の中に答えを探り続けよう。その時に終わる。その時に向けて今始まった物語が終わりを迎える。期して待とう。続く物語が紡がれ描き上げられる時を。

 それにしても西島大介。相変わらずにポップな描線のキャラクターは、ベトナムに降り注いだ血肉の生々しさを覆い隠して臭いも痛みも伝えない。切られ首を飛ばされ死んでいく大勢の兵士たちのそれぞれに持つドラマも浮かばせない。

 果たしてそれは、ベトナム戦争という惨劇の描写に適切だろうかと問う声も多そうだが、しかしだったらリアルに描けば惨劇の実状が伝えられるというのだろうか。リアルな描写がすべてを語り得るというのだろうか。

 否。絵柄だけが惨劇を語り得るというのは間違いだ。血みどろの描写だけが痛みを感じさせるというのも違ってる。しょせんは絵。あるいは写真。さらにはビデオも含めてすべては平面の中の虚構でしかない。本物らしさはあっても本当の戦争ではない。ポップな絵柄が真実を描けないなら、リアルな絵柄も真実を描けない。

 20世紀の半ばから何10年もの間、ベトナムという地域に激しい戦いがあったという事実を喚起させること。そこで大勢が死に少年と少女が恋をしたという現象を想起させること。その目的さえ果たせるのだったら手段は問わない。そして西島大介が選び取った手段がポップな絵柄の突拍子もないラブストーリー。それが起こってしまったベトナム戦争を美化せず劣化も風化もさえないで、浮かび上がらせ伝え心に刻ませているか。答えは本の中にある。


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