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2009年4月17日
大阪フィルハーモニー交響楽団
第427回定期演奏会
大植英次:指揮
ザ・シンフォニーホール 1階J列30番 A席

ブラームス:交響曲 第3番
バーンスタイン:組曲 キャンディード
ストラヴィンスキー:バレエ組曲 火の鳥 1919年版

 大フィルさんの、新学期が始まったよ。
 オオウエエイジの7年目のシーズンになるんだね。今年も楽しい演奏、いっぱい聴かせてね。

 新年度の第一弾は、オオウエエイジのごった煮。
 ブラームスとバーンスタインとストラヴィンスキーなんて、名曲コンサートでなければごった煮っていうしかないプログラムだよね。
 でも多分、本人にしたら大まじめに、十八番を集めたプログラム、ってことなんだろうね。
 おととしのドタキャン以来、ブラームスはオオウエエイジにとって大事なプログラムになったんだろうね。大事に、一年一曲プログラムに入れて。バーンスタインは言わずもがなだし、ストラヴィンスキーだって、結局実現しなかった大フィル就任前のミネソタで持ってこようとしたのが春の祭典だったから、十八番の一つなんだろうし、ね。
 僕は、オオウエのハルサイはあんまり感心しなかったから、火の鳥はちょっと楽しみ半分のこりは、、って感じだったのだけれども。

 ともかく、今年もおんなじ席で楽しませて頂きます。

 ブラームスの、3番。
 ブルックナーほどではないけれど、ブラームスのCDもいくつかは持っているんだけどね。全集を買うと、大体3枚組で2番3番は1枚のCDに収まっているんだよね。そのおかげで、3番だけを集中して聴く、っていうことがあんまりなくて。つまりは聴いたことはあるけれど良く知らない曲なんだ、僕にとってはね。
 その3番。
 前に書いたことがあるけれど、ブラームスの音って、独特の響きがあるよね。ブラームスフィルターって呼んでいるんだけれども。つまり、どんなによく鳴るオケがどんなにフォルテをならしても、ヴェールを一枚かけたような、蓄音機の向こうから聞こえてくるような響き。それがブラームスフィルター。多分中音域の厚さのせいだと思うんだけどね。
 オオウエの3番も、ご多分に漏れなくて。十分しっかり鳴っているんだけれども、なんかどっか他のところで演奏しているような、他人行儀感がつきまとってたんだよね。
 第1楽章はね。

 ところが。
 演奏中に後ろのお客さんが、鈴付きのおさいふか何かをごそごそやっていて。その音から逃れるために途中からちょっと前のめりになって聴いていたのだけれど。
 そしたら。
 いや、前のめりになったせいではないと思うのだけれど、途中から。
 突然、音が生々しくなった。
 薄い緞帳のようなブラームスフィルターの、内側に入ったような感じ。
 こうなったらもう、何でも受けてしまう状態なのだけれど。この状態で聴く3番。なんて立派な曲なんだろう。
 途中全休符がいくつかあるのかな、何楽章を演奏しているのか、途中から分からなくなったのだけれども、多分3楽章かな、ホルンのソロ。完璧。
 大フィルさんのホルンのソロでは、いつぞやのパヴァーヌのソロがものすごく印象的でね。そのおじさんは多分去年に退官しちゃったから、それ以後ちょっと寂しかったのだけれども。でも、今日のソロは凄いね。技術的に完璧かとかそういうことではなくって、歌として完璧。終演後にソリスト立たせたときに、思わずブラヴォーコールしちゃったよ。2回目だな、ソリストにブラヴォーしたの。そのくらい凄かった。
 そんなこんなで、前座にするにはもったいないブラ3、面白かった。

 第一部は弦バスが後ろに並んだ両翼の配置だったのだけれど、休憩中に戻してね。バーンスタインは打楽器が後ろに来るおなじみの配列で(このごろこっちがスタンダードって言えなくなってるけれど)。
 始まったバーンスタイン。キャンディードの軽快なファンファーレ。
 だと思ったら、そうではなくってね。

 ああ、そうか。
 星空コンサートとかで良くやるやつは、キャンディード序曲で、今日は組曲なんだ。
 僕はアメリカものはコープランドくらいしか聴かないから、キャンディードの組曲もはじめてなんだけれど。先週の京都のガーシュインと違ってクラッシックアーティキュレーションのミュージカルメドレー、楽しく聴きました。
 拍手を受けるオオウエエイジが、ヴァイオリンの楽譜を取り上げて、バーンスタインに敬意を表していたけれど、彼の師匠は作曲家バーンスタインだっただろうか?

 火の鳥。
 ティンパニと弦の急襲。最初の一撃だけは乱れちゃったけれど、その後のアンサンブルが完璧でね。こういうアンサンブルで聴くストラヴィンスキーは、楽しいよね。
 僕の中の火の鳥は、ムーティ/フィラデルフィアの息切れよれよれ大団円の演奏と、映画ファンタジア(2000だったっけ?)の演奏がリファレンスなのだけれど。
 そのイメージからするとオオウエエイジの火の鳥は、ゆっくり大事に進んでいくんだよね。ハルサイの時もそう感じたのを想い出したけれど。
 もうちょっと、ノリに任せて突き進んで欲しいな、っていうところもあったけれど、キメのところを一つ一つ大切に、正確にクリアしていくこの演奏も、ちょっと好き。汗かきべそかき大運動会になりやすいフィナーレも、結構余裕でクールに決めて。

 とか思ったらね。
 音には現れないんだけど、一人だけ、クールじゃない人がいたよ。
 コンマスの、長原君。
 ラス前の、ヴァイオリン渾身の伸ばし。
 8分音符かもっと早く、弦を上下させる最強奏の場面でね、長原君が一人だけ浮いているんだ。ビジュアル的に、ね。
 何でかな、ってよく見てみると。
 一人だけ、必死の形相。そして、もっと目を凝らすと。
 細かく往復する右手の弓。その弓の使い方が、他の奏者と全く違うんだ。
 他の奏者が弓の根本から3分の1くらいを使ってギーギーやってるのに比べてね、長原君だけは、弓の半分以上を使って弾いているんだ。
 つまり、他の人の倍、弓を使ってるってこと。弓の速さも倍なら、手の動きも倍。そこから出てくる、渾身のオーラ。
 ああ、これがオオウエエイジ御用達の、コンマスなんだよね。コンマスとしての長原君、ちょっと見直したな。
 それを見ながら追随しない1stヴァイオリンってどうよ、とは思うけれど。

 ああ、楽しかった。

 今年もこういう演奏会、いっぱい聞かせてね。
 がんばれ、大フィルさん。

 そうそう、さらに痩せちゃったね、オオウエエイジ。ダイエットならいいけれど。
 健康にも気を遣って、がんばってね。

2009年4月12日
京都市交響楽団
大阪特別公演
広上 淳一:指揮
山下 洋輔:ピアノ
ザ・シンフォニーホール 1階K列23番

ビゼー:カルメン 組曲第1番
ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー
 en. 枯葉〜スイングしなけりゃ意味ないね
チャイコフスキー:交響曲 第6番 悲愴
 en. リャードフ:8つのロシア民謡 より 遅歌

 今日のお目当ては、もちろん山下洋輔。ラプソディ・イン・ブルー。
 京都市響と山下洋輔のラプソディ・イン・ブルー、てっきり前にも聴いたことがあると思ってて。コンサート聴いたときには全く誤解していたのだけれど。今調べてみたら、京都市響で聴いたのは、山下洋輔の作曲したEncounterという曲で、ラプソディ・イン・ブルーは、佐渡裕の大フィルさんだったんだね。どっちにしても20世紀の話だけれども。

 そういう訳で、どちらにしてもひさびさの山下洋輔のガーシュイン。ジャズマンの弾くラプソディ・イン・ブルーは、ちょっと前にオオウエエイジと小曽根真の組み合わせでやったっけ。あんまり定かではないけれど。

 山下洋輔に目が行っていたから、他に何をやるのか気にしてなかったんだよね。開場についてプログラムを見てみると、カルメンと悲愴。大阪特別公演だからね、精一杯気張って集客出来るプログラムを考えたんだろうね。そのおかげで、場内ほぼ満員。凄い。
 僕の席は、1ヶ月前くらいにとったにしては凄くいい席。K列のど真ん中。一つ前のJ席は大フィルさんでいうS席だからね。ほぼ特等席。わーい。

 もちろん山下洋輔目当てなんだけれども、プログラムを見てもうひとつ、興味が湧いたんだよね。ガーシュインのジャズのアーティキュレーションと、外連味たっぷりとはいえ正統派クラッシックの悲愴。どうやって演じ分けるんだろう、ってね。そこの切り替えが、今日のもうひとつの見所。

 最初はカルメン。
 タンタカタカタカタンタカタカタタンタタタンタタン、のおなじみのメロディを期待していたら、いきなりなんか物々しい音楽が始まって。えっ、とか思っていたら、一区切りのあとにラッパのファンファーレが始まった。
 このファンファーレを聴いてね。ああ、ガーシュインの練習をたくさんしたんだな、って思ったよ。
 つまり、アーティキュレーションがクラッシックじゃなくって、ジャズのそれになってるんだ。
 ランタカタンタンタンタンランタカタンタンタンタン、っていうのが普通のクラッシックのタンギングだとしたら、きょうの京都市響のラッパは、カッカカカカッカッカカッカカカカッカッカっていう、舌でべったり音を切るタンギングをしてるんだよね。音の始まりと終わりをきっちり定義する音型。僕らはカマボコ音型っていってるんだけどね。音の始まりと終わりでビートを表現するポピュラー音楽の発音法。それをしてるんだよね。
 ラッパだけじゃなくって、弦楽器を含めたみんなが、ね。
 もちろんカルメンはフラメンコを基調にしたビートのはっきりした音楽だから、それはとっても正しいアプローチで、楽しかったんだけどね。
 意識的にそういう音を作るオケって、今まであんまり聴いたこと無いなあ。

 そして、ピアノをステージ真ん中に運んで、山下洋輔の登場。
 いつ以来だろう。20世紀最後のガーシュイン以来なんだろうか。久しぶりだね。ちょっと白髪が増えたのかな。
 もちろん冒頭のクラリネットやラッパとトロンボンのプランジャーや、聴き所いっぱいなんだけど、そりゃあやっぱり洋輔さんのソロだよね。
 プログラムによれば、山下さんがフリーに演奏できるカデンツァは4カ所あるらしいけれど。もう、どこがどうとかそんなことどうでも良くて。山下洋輔節全開。
 他の人は絶対出来ない高音部パラパラ系の手癖も、左手の肘打ちも。持てる業を惜しみなく投入しての、汗まみれのガーシュイン。
 全身全霊を込めた猫背の洋輔さんを見てるのも楽しいのだけれど、僕の席からその後ろに見えるセカンドヴァイオリンの女の人が、ものすごく嬉しそうに洋輔さんの一挙手一投足を見つめていて。肘打ちなんか出た日にはもう、楽器を放り出して拍手するんじゃないかっていうくらい嬉しそうに見ていて。それを見ている僕も嬉しくなったなあ。
 当然のことながら、プログラムに16分って書いてある演奏時間は延び延びで。
 でも、楽しいなあ。
 佐渡さんの兵庫オケとやったやつはチケット取れなくて悔しかったけど、その分を補って余りある楽しさ。ありがとう。

 おまけに、アンコールのピアノソロ。枯葉からスイングしなけりゃ意味ないね。って枯葉のメロディほとんど弾いてないやん。

 休憩は、ホールの窓から枯葉ならぬ風に舞う桜の花びらを愛でながら、ワインを一杯飲んだよ。いっぱいじゃないからね。

 そして。
 悲愴。
 僕は実は、かなりと言っていいくらいのチャイコフスキーファンで。とはいえ5番6番に限定されるのだけれども。この、恥ずかしげのないロマンティストさ加減が、好きなんだなあ。
 悲愴も、この10年で何度となく聴いてきたけれど、今日はどういう演奏をしてくれるんだろう。楽しみだなあ。
 今日まで曲を知らなかったから、余計得した気分。

 頭の方で、ガーシュインから悲愴への切り替えが今日の聴き所、っていったけれど。
 最初の音が鳴ったときに分かったよ。
 こいつら、切り替えるつもりなんか無いんだ、ってね。
 クラッシックよりはジャズの語法に近い、始まりと終わりにビートを持たせた四角い音でチャイコフスキーを演奏していく京都市響。拍子をはっきりさせた、ラジオ体操のような広上さんの指揮。
 結果として出てくる、パートごとの分離のいい、即物的な、そしてものすごく魅力的な、音。

 いやあ。
 でもね。
 3楽章まではそれでいいな、って思ってたんだよね。メロディのはっきりした、脳天気と言っていいほどの明解な音楽だから。
 でも、4楽章はどうなんだろう。聴きながら、それが気にかかってたんだよね。
 3楽章の大盛り上がりに耐えきれずおこる拍手をてで制して、広上さんは気を抜かずに4楽章へ。
 そして、驚くべきことに。
 4楽章も変わらないんだ。はっきりした音型で、すべてのパートを主張させて音楽を作っていく。
 そして、それがいいんだ。
 トロンボンのコラールが終わって、チェロと弦バスの後始末。3楽章まであれほど楽しかった音楽が、やっぱり悲愴として終わって。
 終わって。

 ホールを満たした低弦のザッっていう響きが消えて。
 それでも広上さんの背中から緊張が消えるまで、十分な、静寂。

 大きなブラボーコールと、拍手。
 僕はそれに激しく同意しつつも、すぐには拍手できなかったよ。
 とりあえず鼻と口を手で覆って、涙を堪える方が先決だったから、ね。

 凄いな、京都市響。
 失礼かも知れないけど、アマチュアオケが目標とする演奏って、これじゃないかなあ。
 精神性とか、官能とか。音楽雑誌の頭の悪い批評家が使う訳のわからない言葉じゃなくって、ものすごく具体的な、音。
 その具体的な音で、この交響曲が悲愴っていうタイトルがつけられている、その意味を見事に表現してくれたね。

 アンコールのリャードフの前に、広上さんが、今度は京都に来て下さい、っていっていたけれど。
 ホントに遊びに行きたいな、京都に。
 ブル9もやるんだね。楽しみ。

 ありがとね。山下洋輔さん。そして、京都市響の皆さん、広上さん。

 桜の花びらにまみれながら、いい気持ちで家まで歩いて帰ったよ。

2009年4月9日
大阪センチュリー交響楽団
第140回定期演奏会
指揮:小泉 和裕
フルート:ニコリンヌ・ピエール
ザ・シンフォニーホール 2階AA列40番 

イベール:フルート協奏曲
ブルックナー:交響曲 第4番 ロマンティック

 このごろブルックナーのメジャーな曲を聴く機会があんまりなくってね。高関さんの5番が最後、なのかな。あ、メジャーな曲っていうのは、4,5,7,8,9番のことね。長調ではなくて、僕の好きな、っていう意味で。だから、シンフォニーホールに響くロマンティック、聴き逃す訳にはいかないよね。
 センチュリーは、もしかしてはじめてかな。どんな音がするんだろう、わくわく。

 第一部は、フルート協奏曲。
 ブルックナーばっかりに目がいって、こっちのほう全然気にしてなかったけれど、知ってたら二階席じゃなくって一階席を取るんだったな。やっぱりフルートのソロは近くで聴きたいものね。
 しかも、ソリストのピエルーさん、綺麗。
 ああ、一階席にすれば良かった。

 演奏はね、指揮者の小泉さんは前に前に行きたがるのかな。最初の速いパッセージ、結構転びまくっていて。弦がね。弦が転びまくるようなパッセージ、ソロフルートの音が朗々と響き渡る訳もなく。どうしたものかと思ったのだけれども。
 でもそれは、演奏者が悪い訳ではなくってね。朗々としたところでは音響き、そしてロングトーンの長さ、いい感じに聴かせてくれました。
 このピエルーさん、センチュリーのフルート吹きなんだね。ゴージャスだなあ。

 協奏曲はあくまで前座でね。僕の目当てはブルックナー。
 プログラム見てびっくり仰天したのだけれど、何とセンチュリー、今年度9回の定期演奏会のうち、ブルックナーを3回もやるんだね。しかもライブ録音でまとめてCD販売予定。しかも4,5,6番。もしかして来年は7,8,9番?
 ちょっとうきうきしちゃう企画だけれど、いかんいかん、まずは4番をきっちり聴いてから。喜ぶのはそれからにしよう。

 シンフォニーホールのブルックナーといえば、もちろん大フィルさんのそれと比べてしまうのはしょうがないよね。違うオケの、違う演奏だっていうのは百も承知だけれども。
 そういう眼で見ると、やっぱり編成の大きさの差って気になるよね。特に二階席からステージを俯瞰すると。大フィルさんの第一ヴァイオリン16人、ホルン8人(あとは推して知るべし)に比べて、ヴァイオリン10人、ホルン5人ではやっぱりステージの後ろがすーすーするのはしょうがないよね。ヴァイオリンの後ろの方にひな壇を作って、すり鉢状のステージ。一体感を重視した配列なのかな。どんな音が出てくるんだろう。

 結果的にいえば、めちゃくちゃ楽しいブルックナーだったよ。え、結果早すぎ?

 1楽章。朗々と流れるホルンのソロが、びっくりするくらいゆったりとしていて。
 4番の始まりって、原始の霧っていわれている弦のトレモロから、ホルンのソロで遙か彼方の山の稜線が見えて、楽器が増えるごとに近くの景色にピントが合っていって、チューバの二拍三連ですべてが噛み合って世界が動き出す。そんな感じで大好きなんだけど。
 テンポの遅さは否応なしに緊張感を高めて。その緊張感を保ちながら決してシリアスにならないで。なんていうんだろう。
 とっても楽しい。
 そして、とってもブルックナー。

 右奥のひな壇前方に固まったホルンの人数が見慣れた景色より少ないから、その後ろのトロンボンの前にがっぽりとスペースがあって。そのせいかトロンボンのコラールがダイレクトに聞こえてきて気持ちがいいんだよね。ラッパのアタックはちょっと刺激的なところもあったけれど、すぐにそんなの気にならなくなってね。

 おいおい、まだ1楽章だよ。
 っていいたくなるくらい、ブラスも弦も飛ばす飛ばす。
 CD発売が前提の演奏会なんて、きっとそんなに頻繁ではないだろうし。これはセンチュリーさん、本気やな。
 それも玉砕覚悟の。

 その本気度がダイレクトに伝わってきて、思わず背筋を正したよ。ああ、これもブルックナーなんだよね。

 フレーズの中の音は朗々とテヌートっぽいのに、フレーズの終わりは結構ぶっきらぼうなことが多くって、慣れるまでちょっとだけ違和感があったんだけど、まあそれもオルガンらしい、ってことなのかな。

 ゆったりした1楽章とは対照的に、スケルッツォは今度は飛ばす飛ばす。ホルンのタンギングとかちょっと苦しそうに聴こえるくらい飛ばすんだけど、その一直線さ加減がまた楽しいんだ。もう何でも受けまくりモードだからね。出てくる音がみんな愛おしいよ。

 玉砕覚悟で突き進んだ分、最後のコーダの、もうひとつぐわっと来る盛り上がりというか緊張感はさすがになくって。拍手とブラボーのタイミングがちょっと早かったのは残念だけれども。
 でも、そんなこと関係ないくらい楽しい演奏だったよ。ありがとう。

 僕を含めて朝比奈信者は、うのこーぼーの言葉にだまされていてね。「ブルックナーの演奏には正解が一通りしかない」とか、「二人のじいさんが死んだ今、本物のブルックナーを生で聴くことはもうできない」とか。
 もちろん、そんなの嘘っぱちだよね。今日、はっきり分かったよ。
 そりゃあ、じいさんのブルックナーをCDで聴くのもいいけれど、元気なオケで生のブルックナーを聴くのとは全く違うよね。ホルンが落ちないか、弦が転ばないか、そういうはらはらどきどきまで含めて、やっぱり生は楽しいよね。

 演奏が終わったあと、チケット売り場に行って、ファンクラブに入っちゃったよ。
 だって、あと2回のブルックナーもそうだけど、次回は芥川也寸志のトリプティークだもんね。
 楽しみ楽しみ。

2009年4月7日
いずみホール特別演奏会氈qハイドン没後200年記念〉
大阪フィルハーモニー交響楽団

ゲルハルト・ボッセ:指揮
郷古 廉 :ヴァイオリン
いずみホール 1階L列9番 A席

ハイドン:
交響曲 第85番 王妃
ヴァイオリン協奏曲 第1番
交響曲 第104番  ロンドン

今日は、ボッセのオールハイドンプロ。ちょっと前なら見向きもしなかったプログラムだけれども、バッハでいい演奏をたくさん聴かせてくれる大フィルさんだからね、ハイドンもさぞかし。結構楽しみだったんだよね。

 そうそう。
 ちょっと前に、菊地成孔の、東京大学のアルバート・アイラーっていう本を読んだんだよね。菊地さんっていうのは、ジャズのサックス吹きなのだけど、東大の教養でジャズに関する講義をした。その講義録としてまとまったのがこの本で、ジャズの歴史についてとてもおもしろくまとめていて、そのうち独立した記事として紹介しようと思っているのだけれど。
 その本曰く、音楽は過去に三度、記号化されていると。三度の記号化とは、十二音平均律、バークリー・メソッドそしてMIDIであると。バークリー・メソッドと時を同じくして発生したビバップと呼ばれるジャズは、分析の方法論としての記号を最初から持ち合わせていた希有な音楽であり、そのことが自覚的にモダン、プレモダン、ポストモダンを区別する独特の発展をした。ということなのだけれども。
 簡単にいえば、ドレミファソラシドっていう音階を作ることで、音楽は方法論を持ったよ、それ以後の音楽は、みんなそれにとらわれているんだよ、ってこと。
 誰もが再現することができるように音楽を書き表すこと、それが記号化。五線譜にオタマジャクシを書いて、これが音楽だってみんながわかるようになったのは、たぶんバッハの時代なんだよね。(違ってても受け付けないけれど)
 そして、誰もが理解できる記号化は音楽の裾野を間違いなく広げて。バッハが作った楽典と記号化の広野でなんの疑問もなく楽しめた時代、その音楽がバロック音楽なんだろうね。
 ちょうどチャーリー・パーカーが作ったバップという方法論の中で、カインド・オブ・ブルーによって夢から醒めるまで、みんながモダンジャズを謳歌したようにね。

 その、五線譜とオタマジャクシの幸せな時代、現在に残されている量から考えて一番と言っていいほど楽しんだのがハイドンだよね。十二音平均律の権化。
 この本を読んでから、僕の中でのバロック、あるいはその時代の音楽は、心地よいけれど退屈なラウンジのBGMから、何の不安もなく音楽をする喜びにあふれた時代の、パワー溢れる音楽に変わったんだよね。
 だから、じいさんボッセのハイドン、楽しみだったなあ。

 あ、演奏会だったね。

 予想に反して、といったら失礼だけれども、結構の大入り。この前のフーガの技法よりずっと入ってるよね。ボッセじいさん、人気者なのかな。ヴィンシャーマンもなかなかのものだと思ったけれど。

 演奏はね。
 曲とかあんまり知らないから、演奏の細かいところがどうとかそんなことを気にするきもなくて。
 ただ、音楽の楽しさ、ボッセじいさんのビジュアルからもきている暖かさを堪能したよ。
 五線譜とオタマジャクシが何でも表現できると単純に信じられた時代の音楽らしく、本当に鷹揚でね。きちんと音にしていったらそのまま形になりまっせっていう。その中にちょっとずつ、いたずらにも似たギミックを滑り込ませるのがハイドンの常なんだろうけれど、少人数の大フィルさん、そんなギミックもなにもかも正攻法で突き進む。
 気持ちがひねているときには、それが退屈に聞こえるのだと思うけど、アルバート・アイラーのおかげでハイドンの見方となった耳には、心地よさだけが強調されて聞こえたんだよね。

 二曲目、ヴァイオリン協奏曲のソリストは、15歳の男の子。郷古君。この子のヴァイオリン、僕は好きだなあ。音が太いんだよね。太くて、大きい。細かい技術や色っぽさが求められる曲じゃないから、その太さ、大きさがよく合うんだ。余りに気持ちよくてうとうとしちゃったけれど、気持ちいい夢うつつ状態だったな。
 アンコールは、同協奏曲の2楽章と、バッハの無伴奏から。唄ものいいね。また聞きたいな。

 ワーグナーとは違った意味で無限軌道のバロック音楽。金太郎飴ともいうけれど。でも、堪能しました。
 結局僕は、おじいさん指揮者が好きなだけなのかな、とか楽しく悩んでみたりもするけれど、いいやん、それでも。

 楽しいんだから。

2009年3月27日
関西フィルハーモニー管弦楽団 第209回定期演奏会
飯守泰次郎:指揮
畑田弘美:ソプラノ
竹田昌弘:テノール
木川田 澄:バリトン
ザ・シンフォニーホール 2階DD列12番 A席

ワーグナー:楽劇 トリスタンとイゾルデ より 前奏曲と愛の死
ワーグナー:楽劇 ワルキューレ 第1幕 演奏会形式

 降ったりやんだりのどんよりした天気が続いたりして、すっかり春だね。
 関西フィルのワーグナーを聴きにいったよ。

 僕はたぶん、大フィルさんの演奏会はそれこそ100回以上聴きにいっているのだけれど、在阪のほかのオケを聴く機会って、あんまりないんだよね。聴く機会っていうか、自分で望まないと聴かないんだから、聴こうと思わなかった、というのが本当のことだけれども。
 どうしてか、っていわれれば、まあ、浜崎あゆみは毎回いくのに、どうして倖田來未はいかないの、っていうのと一緒で、特に興味がないから、って答えるしかないのだけれど。

 ただ、偶然なんだけれども、在阪のほかのオケで、おもしろい企画がいくつか重なったので、いくつか見に行くことにしました。大フィルさんと違って1日しかないから、いけないやつもあるかもしれないけれど。

 というわけで、飯守さんのワーグナー。

「ジークフリートなんて、俗な名だ」by ラインハルト・ミューゼル

 高校時代から、ワーグナーの音楽には親しんでいたのだけれど、それは序曲とか管弦楽曲としての抜粋とかで、オペラとか楽劇とかって、ぜんぜん知らないんだよね。指輪も、CDでは2セット持っているけれど、どちらも台詞の対訳はおろかあらすじさえも(日本語では)のってないから、どんな物語なのかもよくわからない。ああ、松本零士のマンガで読んだか。でも、神々の黄昏は未刊行だしなあ。
 そういえば、昔BS-hiで指輪全編を放送したやつをD-VHSに録画して、ラインの黄金だけは観たな。

 というわけで、だからワルキューレとかジークフリーととかラグナロック(神々の黄昏)とか、どっちかっていうと銀英伝の言葉としての方がなじみが深いんだよね。っていうくらいの無知さ加減なのだけれど。

 だから、字幕付きの演奏会形式での演奏や、指揮者によるプレトーク付きのワーグナー、とっても楽しみにしてたんだよね。

 今回の演奏会のタイトルは、バイロイトの神秘。バイロイト音楽祭に、一昨年だっけ、日本人で初めて指揮者として登場した(そして、あまり評価されなかった)オオウエエイジに当てつけたとしか思えないこのタイトルは、飯守さんが20年間、バイロイト音楽祭の音楽助手を務めたことからきているみたいだね。
 まあ、そんなことはどうでもいいのだけれど、僕はワーグナーってよくわからないんだよね。モーツァルトとは別の意味で、あんまり指揮者が介在しない音楽なのかな、っておもってしまう。まあ、僕はオペラ全般そう思ってしまうから、単なる感性不足なのだと思うけれど。
 もちろんフルトヴェングラーのローエングリンは別格だけれども、そのほかのワーグナーの聴き方って、オケの機能に重点を置いているのかなあ。地獄の黙示録に使われた、カラヤンのワルキューレの騎行も喜んで聴いてしまう。その点、関西フィルのオケの機能ってどうなんだろう、っていうのが、初めて聴く身としてはちょっと心配だったのだけれどもね。

 関西フィルのいつもがどうか知らないけれど、今日のホールは満員。字幕の関係で、ステージより後ろ側には人を入れないから後ろ側がっぽり空いていたけれど、僕のいた二階席は超満員。客層はちょっと大フィルさんと違うのかな。若い人と、髪の毛びしっとセットした昔若かったおねえさんが多い気がする。

 プレトークで、指輪の全体像と、ワルキューレのお話を解説したあと、第一部はトリスタンとイゾルテ、前奏曲と愛の死。そういえば、去年ライブビューイングで観たな、トリスタン。
 ワーグナーの管弦楽曲として抜粋されるのって、多くが管楽器が活躍する派手な曲で、高校生のブラス吹きだった僕は、だからワーグナーが好きだったんだけれども、この曲だけはちょっと違ったんだよね。弦楽器主体の、高校生にしてみたらちょっと退屈な曲なんだけれど、なんか涙がでてくるんだ。なけなしのお小遣いをはたいて買った、バーンスタインのレコードでね。

 あ、演奏だね。
 曲の頭からいきなり二つ隣の人が大いびきをかいていて出鼻をくじかれてしまったけれど。でも、いいなあ。
 この曲に限らず、ワーグナーに抱くイメージって、キャタピラと巨大エレベーター。キャタピラは、無限軌道っていった方が近いかな。車輪じゃなくって、すべてを踏んづけてどんなところも粛々と進んでいく無限軌道。そして、上り坂とか下り坂とか、方向性を示さないのに全体がぐわっと持ち上がったり下がったりする巨大エレベーター。
 ブルックナーの浮遊感が、大きな池の底から浮上してくる巨大な水泡だとしたら、ワーグナーの浮遊感は水面そのものが波紋も立てずにせり上がってくる、そんな感じなんだよね。
 そして、愛の死の最後、弦楽器による浮遊感はまさに僕の思っているワーグナー。2階で聴いててよかったな。

 そして、休憩はさんでワルキューレ。
 ワルキューレの第一幕って、歌い手さん3人しかいらないんだね。
 物語は、ボーイミーツガール。行き倒れた男。助けた女に一目惚れ。女が人妻であろうが生き分かれた双子の妹であろうがかまわない。英雄にしか抜けない剣だって、女を手に入れるためなら抜いてやる。ああ、あなたは私の運命の人。私が名付ける、あなたの名前はジークムント。そして私はジークリンテ。
 産まれた子供はジークフリート、っていうのは第2幕以降なのかな。

 お話のおもしろさとか、ロータリートランペットの音のきれいさとか、チェロのソロのすごさとか。字幕を読むのに一生懸命だったりして。あっという間の第一幕だったのだけれども。
 最後に向けて、だんだん高揚していく二人の愛、そして音楽。
 その音楽がね、何ともシンプルに聞こえるんだ。たぶん関西フィルとして考えられる最大編成で、ワグナーチューバ4人も入れると管楽器なんていつもの倍くらいいたんだと思うんだけれども。
 それがぜんぜんガチャガチャしないで、シンプルなんだよね。なんていうんだろう。みんな自分の役割を守って整然と音楽を作っている。音は込み入っているのだろうけど、弦が土台を作って、管が厚みをつけて。アクセントとして木管のソロがあって。その固まりがすごくシンプルだから、オケの音量が大きくても、歌が伝わってくる。
 これって、実はすごいことなんじゃないだろうか。
 だから、最後のジークリンデの歓喜が、オケのトゥッティと一緒になって、ホールのお客と一緒になって高揚していって、フィニッシュ。

 いやあ、楽しかったなあ。

 オケの機能が心配とかいって、ごめんなさいね。まとまりのいい、いいオケだね。
 また、おもしろい企画があったら遊びに来るね。

top

2009年3月13日
大阪フィルハーモニー交響楽団 第426回定期演奏会
パスカル・ロフェ:指揮
大阪フィルハーモニー合唱団
ザ・シンフォニーホール 1階J列30番 A席

ドビュッシー:交響組曲 春
デュサパン:エクステンソ(日本初演)
ラヴェル:バレエ音楽 ダフニスとクロエ

 もう、すっかり春だね。

 先週くらいから、こぶしは満開で、お気に入りのお散歩道には白木蓮がちらほら咲きだして。今日なんてきっと桜がいくつか、咲きだしてるんだろうなあ。
 というわけで、すっかり春モードなのだけれど。もちろん新年度ではなくて、やたらばたばたする年度末なのだけれどもね。

 大フィルさんの演奏会も、年度末を迎えたね。今年度最後の定期は、オールフランスもの。だよね。知らない作曲家の人もいるから、要確認だけれども。
 その中でも、ダフニスとクロエ全曲、すごく楽しみにしていたんだよね。普段、手帳には大フィルさんの定期は、丸大としか書かないのに、今回は丸大ダフクロって書いてあるくらい。
 何回も書いたけれど、1986年の、埼玉栄のダフクロは、それはもう衝撃的でね。僕がみたのは予選会の招待演奏だったのだけれども。ヴァイオリンもチェロもいない、もちろん合唱なんて一人もいないたった50人の吹奏楽団からでてくる音楽に、僕は確かに天上の声を聞いたんだよ。すごかったなあ。

 ただ、そういうわけでダフクロは僕の大好きな曲なのだけれど、実際に合唱入りの演奏を生で聴いたことがなかったんだよね。そんなに演奏機会ないのかなあ。ディスクも、結局デュトワ/モントリオールしか持ってないし。まあ、あれがあったらほかいらないけれど。
 というわけで、初めての生声付きダフクロ。すごい楽しみ。みんな同じで、さぞかし会場は大盛況、と思いきや。
 あらら、ちょっと寂しい入りだね。

 まあ、気を取り直して演奏は。

 フランスものって、難しいよね。アメリカのブルース、日本の演歌、チェコのフィンランディアみたいに、その地方の専売特許、みたいなところがあるからね。大フィルさんも結構挑んでいるけれど、印象に残っているのは亡き王女のためのパヴァーヌだったかな。いつか忘れちゃったけれど。そのホルンのソロ、すごかったな。あとはオオウエエイジの幻想とか、長原君のソロがすごかったシェヘラザードとか。あ、これはロシアか? まあいいや。
 というわけで、ミッキーの担当だった大フィルフランスもの、今回はフランスの指揮者で、どう鳴らしてくれるんだろう。

 最初の曲は、ドビュッシーなんだけれど、聞いたことのない、春。
 音がでて最初、なにが起こっているのかぜんぜん分からなかったよ。フルートとピアノのユニゾンなのだけれど、音が混じりあって、聞いたことのない一つの音が、フルートとピアノの真ん中あたりから聞こえてきて。そしてそれが、とてつもなくフランス。
 これはすごいことが起こりそうだ、っておもったんだけれどもね。
 途中で、音楽が騒がしくなってくる頃から、紛れもない日本の響きが勝ってきたよ。腰で横に揺れるスウィングではなくて、ざっくざっくと土を耕す縦ノリの音楽。それはフランスの音楽とは違うのではないか、そうは思うのだけれどもね。
 でも、これはこれで楽しめたし、横ノリのフランスものは、どっかのフレンチオケがきたときの楽しみにしておこう、っと。

 次はね、現代に生きている作曲家の曲。まあ、僕の苦手な現代曲なのだけれどね。
 でも、これがおもしろかったんだ。
 詳細は忘れちゃったけれど。
 なんていうんだろう、みんな好き勝手な音をロングトーンでのばしていて、音の流れとか秩序とかがあんまり感じられないガチャガチャ感なのだけれど、それがものすごく静謐を感じさせるんだよね。
 ちょっと前にここでも紹介した、僕の好きなザオ・ウーキーの絵。この絵を音楽にしたらこういう音楽になるんだろうなあ。そう思いながら楽しく聞いていたよ。
 ただ、ちょっと長くて飽きちゃったけれど。12分で長いと思うなんてね。僕はザオの絵の前だったら1時間でも平気でいられるのに。
 音楽は時間の芸術だっていうけれど、時間を音で満たすのって、難しいんだね。

 さて、休憩時間に雛壇を一生懸命組み立てて、お待ちかねのダフニスとクロエ。
 そうそう、僕の持っているデュトワのディスクはそれはひどいディスクでね。60分のこの曲に、一つもトラック指定がないんだ。昔のディスクだから、インデックスが張ってあるのかもしれないけれど、昔車につけていたCDディスクマンにはインデックスなんて機能はなくってね。乗鞍のスカイラインからご来光を見るときに、ちょうど最後近くの夜明けの部分を聞きたくて、早送りで何十分分もきゅるきゅるやったっけな。
 結局、明るくなり初めてからお日様がでてくるまでが長すぎちゃって、曲が終わってずっとたってから、ホントの夜明が始まったんだけどね。

 まあ、いいや。
 演奏の話だよね。
 僕は、この曲を生で聴けたことで満足しちゃっているから、曲の細かいところとかどうでもよくって。
 聞きながらとった頭の中のメモには、ホルンの跳躍完璧、とかあるんだけど、どの部分にホルンの跳躍があったのかも思い出せないのだけれど。
 一つだけ、はっきり覚えているのはね。合唱。
 この曲の合唱って、楽器の一つなんだね。管弦楽パートと合唱、とかいうのではなくて、クラリネットからオーボエへ、さらにフルートに旋律が受け継がれるように、オーケストラから合唱に、シームレスに音が受け継がれていく。
 だからこそ、オケの向こうで降ってくる、天上の歌声。ああ、86年に僕が聞いた、幻の歌声がこれだったんだ。
 ちょっと日本語訛があるけれど、それはご愛敬。

 楽しいなあ、フランスもの。
 オオウエエイジも、ハルサイの失敗にめげずに、フランス/ロシアの管弦楽、もっとやってほしいなあ。

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2009年2月19日
大阪フィルハーモニー交響楽団 第425回定期演奏会
大植英次:指揮
ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ:ピアノ
ザ・シンフォニーホール 1階E列7番 A席

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第9番
マーラー:交響曲 第5番

 ひさしぶりに、想いだしたよ。
 息をするのを忘れることって、あるんだね。

 いつもの二日目から一日目の演奏会に振り替えて、大フィルさんの用意してくれた席は、前から5列目の左側。ステージいっぱいに広がったヴァイオリンの、一番後ろの人の真っ正面くらいかな。
 なんかなじみのある席。アングル。
 ああ、そうだ。じいさんの一般参賀を間近で見たくて、このあたりの席に座ったことがあったな、昔。

 開演直前に息を切らせながらホールに飛び込んだらね、今日の終演時間は9時45分を予定していますっていう張り紙。あれ、マーラーだけじゃなかったんだ。
 プログラムを見たら、マラ5の前にモーツァルトのピアノ協奏曲があるんだね。それで長丁場なんだ、こんなに。

 席はちょうどね、オオウエエイジを見るとその視線の途中にソリストが見えるっていう、ありがちな写真のアングルのような席。 協奏曲は、まあモーツァルトで。あんまり演奏がどうってわかんないんだよね。ただ、今回の曲なのか、席のせいなのかはわからないけれど、やたらピアノが裸になるところが多かったような気がして。その緊張感の保ち方がよかったんだよね。
 昼間の長い会議で消耗していた僕でも、ピアノ協奏曲なのに、ちっとも眠くならずに楽しめました。ピアノの音は僕の好きなぱらぱら系ではなく、まるまる系でまあ、そんなもんでしょう、っていうかんじなのだけれど。

 結構ヴォリュームのある第一部の休憩のあと、マーラー。
 オオウエエイジのマーラーって、2番と6番と、単発でやった1番(2回だっけ?)で4曲目になるのかな。僕にとっては特に大好きな作曲家っていうわけではないけれど、楽しいしわくわくするし、なによりオオウエエイジらしい、っていうイメージがあるよね。6番はちょっといまいちだったけれど。

 さて、演奏は。

 前から5列目だと、ヴァイオリンの外側の人しか見えないんだよね。低い位置だし、近すぎて。
 だから、最初のラッパが、ステージの上から吹いているのか、袖で吹いているのかよくわからなかったのだけれど(最後にたたせたラッパがものすごく左側にいたから、たぶんステージの上で吹いていたんだね)。すごいね。細かいところでちょっとはずれちゃったから、もしCDになるとしたら明日の演奏になっちゃうのかもしれないけれど。でも、あの素直な音と、何よりも特に中音域の響き、好きだなあ。

 今日の演奏のね、僕の中のキーワードは、この中音域。ホールの響きっていうよりも生音が直接聞こえてくる今日の席だから、もちろん僕は音に満たされているのだけれど、でもその音場がどれくらいまで伝わっているかはわからないんだ。だけど、ラッパの、ホルンの、そして弦楽器の中音域のロングトーンの響き。これはすごかったな。
 迫力が凄いとかそういうことではなくってね。そんなに力を入れずに、軽く演奏しているようなのだけれども、ちょうどホールと共震する周波数にぴたりとはまったみたいに、そこかしこから音が降り注いで、どこで演奏しているのか、5メートル先に見えているのにわからなくなる瞬間が、たくさんあったんだよ。

 オオウエエイジ的な聴かせどころ満載な曲でね、久々のトロンボンの咆哮をはじめとするブラスはもちろん、木管もハープも、みんなみんないいとこがあって。
 でも、今日の主役はなんたって弦楽器だよね。それもいつものチェロとコントラバスだけじゃなくって、高音域のヴァイオリンのイロっぽさ。いや、いろっぽさっていうのではないな、なんていうんだろう。

 この曲は、管弦を問わず、ロングトーンが多いよね。ぼくも管楽器を吹いていたことがあるから(かどうかは知らないけれど)、きれいなロングトーンを聴くと、一緒に息を吐き続けて、苦しくなるときがあるんだよ。例えばじいさんやヴァントじいさんのブルックナー8番や9番のアダージョの終わりとか、ね。
 たいがいそういうところって、ホルンとかワグナーチューバのロングトーンだから、まあ一緒に息を吐いていても死にはしないよね。かわりばんこに息してるのがわかるし。
 でも、今日の曲はね、ヴァイオリンのロングトーンが続くんだよ。これは反則。だって息継ぎしないんだもん、あいつら。
 四楽章だっけ、その前のお祭り騒ぎが静まって、弦の延ばしになるところ。一緒に息を吐いていた僕は、酸素が足りなくなって、ブラックアウト直前のいい気持ちになって気がついたよ。ああ、息するの忘れてたんだ、って。久しぶりだな、そういう感触。

 そのあと、五楽章で本当のお祭り騒ぎがやってくるのだけれど、僕はそこをかなりの部分、聴き逃してしまったよ。
 ちょうどその寸前、ヴァイオリンがパート譜の最後の2ページ目をめくったあたりで、コンマスの長原君が隣の人と楽器を交換してるんだよね。隣の人は後ろで弾いていたお姉さんと楽器を交換して。そのお姉さんが紙袋から新品の弦を取り出して、そこで交換し始めたんだ。
 前にもそういうことがあったけど、そのときはバケツリレーで後ろまで楽器を回して、袖で交換してたからね、プロの弦交換なんて始めてで、そっちに注目してたらお祭り聴き逃しちゃった。まあいいや、おもしろかったから。

 もう一つ。
 今回の席から、右の方のカメラブースのガラスをみると、明るいステージじゃなくって、暗い壁をバックに指揮するオオウエエイジが映っていてね。よくほんの表紙とかポスターでみるアングルと表情。たまに首を巡らせてそんなのをみるのも楽しかったな。
 でも、ずいぶんやせたね、オオウエエイジ。ダイエットならばいいけれど、体には気をつけてね。

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2009年1月22日
大阪フィルハーモニー交響楽団 第424回定期演奏会
ピエタリ・インキネン:指揮
ザ・シンフォニーホール 1階L列36番 A席

シベリウス:付随音楽「クオレマ(死)」より 鶴のいる情景
ラクタヴァーラ:交響曲 第8番 旅 (日本初演)
シベリウス:交響曲 第1番

 ごめんなさい。
 今となってはなんも思い出せません。

 心地よかったのは何となく覚えているのだけれど。。。

2008年12月30日
第9シンフォニーの夕べ
大植英次:指揮
スザンネ・ベルンハート:ソプラノ
スザンネ・シェーファー:アルト
トマス・クーリー:テノール
サイモン・カークブライド:バリトン
大阪フィルハーモニー合唱団
大阪フィルハーモニー交響楽団
フェスティバルホール 1階GG列R23番 A席

ベートーヴェン:交響曲 第9番

 さて、二日目。
 今日は昨日よりも一列だけ後ろにさがって、ちょっとだけ端に寄った席だったのだけれども。
 ずいぶん印象が違うんだよね。
 それは、席のせいなのか、それとも演奏の微調整のせいなのかはよく分からないけれど。
 そして、それが演奏の満足度にどう影響するかもよく分からないのだけれど。
 
 今日の第九はね、昨日感じた、とんがった部分を全部丸めて、完璧な盆栽に仕立て上げた第九。オオウエエイジの、第九。
 ラッパとかティンパニとか、ちょっとでもバランスを壊す恐れのある危険物は、細心の注意を払ってバランス取って。どこを聴いても意図した音が伝わる、そういう音楽。
 そういう音楽として、ものすごく高得点を与えられるであろう、音楽。
 
 でも、それって音楽なんだろうか。
 
 第一楽章の頭、ちょっとだけだけれども、何が何だか分からなかったんだよね。音が鳴っているのは分かっているのだけれど、音楽として聞こえてこない。
 青空が描いてあるとばっかり思って見ていた絵が、実は深海の絵で。そのことに気がつくまでに感じる訳のわからない違和感。そういう類のものだと思うのだけれどもね。何が進行しているのか分からなかった。
 もちろん、絵を見間違えるのとおんなじで、僕の認識のミスのせいなのだけれども。
 
 席が少し遠ざかったせいもあるかも知れないけれど、昨日はホールと、と言うより僕を満たしていた音の、広がりの輪郭が見えちゃったんだよね。ああ、ホール全体を満たしているものではないんだな、って。
 それは地球に住んでいるのと、宇宙飛行士になって地球を外から見ることの違いみたいな感じで、優劣とか、そういうことではないのだけれど。でも、コンサートにきているのなら、内側に入って聴く方が僕は好きだな。
 
 なんか悪口を言っているように聞こえるかも知れないけれど、もちろん楽しんでいるから二日も行くんだし、この忙しいときに無精な僕が二日も書いているんだよ。オオウエエイジだから、要求するものがずっと上になっちゃって、わがまま言っているだけなんです。もし気を悪くされた方がいたら、許して下さいね。
 
 さて。
 怒濤のブラヴォーコールで終楽章が終わって。
 いつも通りの律儀なカーテンコール。
 3回目か4回目かな。カーテンコールも中盤にやっと差しかかったくらいで、一人で出てきたオオウエエイジ。
 手でみんなを制して、マイクを手に話し始めた。

 皆さんにお詫びがあります。この年末、ベートーヴェンの荘厳な響きで終えるのが一番いいのでしょうけれど、もう一曲だけ演奏させて下さい。
 50年の歴史を誇るフェスティバルホール。大フィルの音楽監督として、またこのホールで演奏した世界中の素晴らしい音楽家の代理として、ありがとうございます。
 1958年に出来たこのホール、一番最初の演奏会は、非公式だったけれど、大フィルの前身、朝比奈大先生が指揮した関西フィルで、ベートーヴェンの(日本語でなんていうか分からないや、とメモを取り出して)献堂式序曲、この第九、そしてエルガーの威風堂々を演奏したものだそうです。
 今日でいったんお別れのこのホール、最後は、最初の日にも演奏した、威風堂々を演奏したいと思います。

 お話の最中に合唱団が退場して、ステージにはハープ2台やらパーカッションやら、チューバやらなにやら、みんなぞろぞろとあがってきて。
 そして始まった威風堂々。
 拍手を要求するオオウエエイジ。
 最後にゆっくりになるところで、一列目の観客の手を取って立たせるオオウエエイジ。それに釣られて総立ちになる観衆。
 曲の最後に、 festival hall ありがとう50年の垂れ看板が出てきて。
 ああ、本当に終わりなんだな、って。
 僕なんかこの10年、数十回しかきていないのに、50年の歴史が降りかかってくるような気がして、総立ちで拍手をするお客さんを見ながら、ちょっとうるうるしてしまったよ。
 そして、オオウエエイジが去り、演奏者も撤収の準備をし始めたステージ。
 お客さんも当然帰り支度を始めた頃。いつの間にか客席の通路に入り込んでいた合唱団員の始めた、蛍の光。
 ハモるでも何でもない、ただのユニゾンの蛍の光、多分客席のみんなも唄っていたんだよね、僕も唄ったけれど。本当にあたたかく、ホールを包んだよ。
 粋なことをするね。
 
 ホールから出て、ロビーへの階段を下りる正面に、ありがとう、また会いましょうの紅い横断幕。演奏中に取りつけたんだね。
 粋なことをするね、これまた。
 
 2013年。どんなホールが出来上がるのかな。シンフォニーが霞んでしまうくらいのホールが出来たらいいね。
 それまで、年末の第九は場所の取り合いだね。大フィルさん、がんばれ。
 
 良いお年を。

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2008年12月29日
第9シンフォニーの夕べ
大植英次:指揮
スザンネ・ベルンハート:ソプラノ
スザンネ・シェーファー:アルト
トマス・クーリー:テノール
サイモン・カークブライド:バリトン
大阪フィルハーモニー合唱団
大阪フィルハーモニー交響楽団
フェスティバルホール 1階FF列R9番 A席

ベートーヴェン:交響曲 第9番

 年末だね。
 年末の風物詩、と言うほどには僕は熱心な第九の聴き手ではないのだけれど、オオウエエイジの振る去年から、久しぶりに大フィルさんの第九に復帰したよ。
 50年の歴史のあるこのフェスティバルホールが、このコンサートを最後に取り壊しになっちゃうから、チケットの足が速くて、ぼおっとしていたらちょっと後ろ目の席になっちゃったんだけれど。
 でっかいフェスティバルホールを、最後に大フィルさんの音で満たしてくれるのか、楽しみにしてたんだよね。

 もちろん満員のフェス。開場のちょっと前についたら、ロビーは人だかりでね。いつものことだけれども。ロビー階の通路には、フェス50年の歴史を振り返るパネルが貼ってあったりして。シンフォニーホール世代の僕らは、フェスの音響をいろいろ悪く云ったりするけれど、昔は大阪随一のホールだったんだよね。有名どころのオケや指揮者や、いろんなヒトがいっぱいきてるんだよね。
 もちろんじいさんの頃の大フィルさんは、このホールが大好きで。大きくてデッドなこのホールに特化してたから、あの大フィルサウンドが出来たんだよね。
 個人的には、このホールの椅子、結構好きだな。となりの人が腰を下ろしたらその気配が伝わってくるシンフォニーホールの椅子と違って、どっしりして。改修後はクッションも厚くなって。結構座り心地がいい。
 まあでも、大フィルさんの定期がシンフォニーホールに引っ越してからは、あんまりきてないのだけれどもね。

 ステージは、両翼配置のオケに、合唱のひな壇。ティンパニの後ろ、合唱の真ん中にソリストの席。大きいステージに大きい編成、わくわくするよね。

 わくわくしたのはいいのだけれど、この演奏、どう聴けばいいのか、難しいなあ。
 なんか、凄いことが起こってるんだよね。弦楽器の合奏とか、ただ者じゃない密度。一楽章の最中、やけに苦しいな、って思って気がついたのだけれども、息を吸うのを忘れてたんだね。それくらいの緊迫感。
 でも一方で、その弦と、ラッパとティンパニが、全く違うテンポ感なんだよね。別々の音楽を演奏しているみたいな、噛み合わなさ。位置的に、ラッパのベルが直撃する場所だったから余計にそう聞こえたのかも知れないけれど。その噛み合わなさが、余計緊張感を高めてたのはそうなんだけれどもね。
 2楽章。
 弦の密度が、木管楽器に伝染して。ソロの掛け合いの中、自分のテンポで突撃するファゴットを見た瞬間、弦と管、そして打楽器の音が混じり合ってね。凄い世界が見えてきたんだよ。
 ラッパのテンポに釣られた(あるいはあくまでもインテンポを貫いたのかな)長原君が、ヴァイオリンの中で飛び出したりするところを見ると、テンポ感の違いは相変わらずなんだろうけれど、もうそういうことは関係なくなってね。それを含めたオオウエエイジの第九が、フェスを満たしたんだよね。

 もちろん、それは素晴らしいことに決まっているのだけれど。
 決まっているのだけれどもね。なんか違うなあ、って思っちゃう僕も、いるんだよね。
 たとえば、ティンパニがフォルテで叩いているときに、ヴァイオリンの細かいフレーズがきちんと聴こえてくる。それ自体はとてもいいことなのだけれど。なのだけれど、ね。その完成度の高さ自体が、なんか箱庭的世界を感じちゃうんだよね。
 野放図な、じいさんが追い求めたサウンドから、えらく遠くにきちゃったな、って。

 ああ、まだじいさんの音を追い求めるんだ、俺、っていう自己嫌悪も少しだけ持ったりして。
 難しいね。

 じいさんがバランス取るのをいやがったのは、それで音楽のスケールが小さくなるのをいやがったんだ、っていわれてるよね(そういう記事を読んだことがある、っていうだけの根拠だけれど)。
 でも今日のオオウエエイジの第九は、バランスを完璧に取った上で、なおかつフェスを、シンフォニーホールではなくてフェスを音で満たして見せた。それを、バランス取ったからスケールが小さくなった、っていうのはフェアでも正直でもないよね。

 演奏の間中、全休止になる度に、フェスのエアコンの音が耳についたよ。これだけ、耳のゲインをあげて、必死に演奏を聴いたのっていつ以来だろう。
 それだけの、演奏だったんだよね。

 それは分かっているのだけれど。
 エフワンと暴れ馬。そんなイメージが聴いている最中に浮かんできたよ。
 制御の効かない暴れ馬を御しながら刻んだ奇跡的なラップタイムと、エフワンマシンで成し遂げた渾身のラップタイム。現時点でのベストラップがおんなじだとして、でも、もっと速くなるってわくわく出来るのって、どっちなんだろう、ってね。

 もちろん、じいさんの50年以上のキャリアが残した最上の演奏プラス神格化され続ける想い出と、オオウエエイジの一回の演奏会を比較するのはフェアじゃない、っていうのはよく分かっているのだけれどもね。

 4楽章。
 バランスのいいソリストの掛け合いと、ラス前のオオウエエイジのためとアッチェランド。そう、これがオオウエの第九。
 第9シンフォニーの夕べになった今年も、頑としてアンコールを拒むオオウエエイジ。

 あたり前だけれども、時代は変わっていくんだよね。
 生で見られるオオウエエイジ、僕は大切にしていくよ。

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