村上龍の文章には感情がない。
村上龍は事実しか書かない。
村上龍の旋律(リズム)は、そこから作られる。
もしも私に、二十日間という時間を用意されたら、あのような物語を紡げるものだろうか。
もしも私に、あの強力なバックアップブレーンを用意されたら、あのような物語を紡げる日が来るものだろうか。
否。
否、否、否。
感情のない、記号としての文章の羅列。その繰り返しがリズムを呼び、巨大な物語としてうねりはじめるには、私には、なにか決定的なものが足りない。そして、村上龍はそれをもっている。
長編はそそるけれど短編はそそらない。私にとっても村上龍はそのような作家のひとりであった。
事実そのものに感情は含まれない。頁から吐き出されるこの確固たる主張に、リズムを与えるには、短編、という形式はやや、短すぎた。その分、十分な場を与えられた長編では、そのリズムのうねりに、酔った。
そして、「ヒュウガウイルス」は、現時点での、間違いなく最上の旋律である。
ウイルスに人権を与えない。ウイルスを擬人化しない。
徹底的に外部の物質とみなされたヒュウガウイルスは、人に危害を与える、という役目さえもらえずに、そこに、ある。その進化には、意志が、ない。
その、意志のないウイルスに克つことが出来るのは、人間の「意志」だけである。
出血熱ウイルスブームにのった幾多の駄作のなか、Ryu Murakaminのこの作品に出会った喜びは、大きい。