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6.宵の夢

都内テーマパーク『ザナルカンドランド』に勤めていると、アーロンは言った。
ティーダにはそこへの行き方はまるで分からなかったけれど、幸いにも環状ガガゼト線の駅に「ザナルカンドランド前」という文字を発見し、半分無意識に、その切符を買っていた。
この時、少年の心を占めていたのはただアーロンのことだけで、
もうそれ以外の何も、浮かんでは来なかった。
自分が失踪中のアイドルだということも、シーモアに犯されたあの忌まわしい記憶も、何一つ。
小さなプレゼントの包みをちょこん、と膝に乗せて、
ティーダは電車の中でほんの少し、眠った。

時刻は夕暮れ。
降り立った駅の、ライトアップされた美しい景観に、ティーダは圧倒されていた。
ザナルカンドランドの、入場門前。
吹き上がる噴水の水が、色とりどりの光と戯れる。
中央に光る獅子の面の彫刻は、イメージキャラクターの『キマリ』。
巨大な入場門は、それだけで1つのオブジェとなって、少年の眼前に佇んでいた。
さすがに、都が誇る巨大テーマパークなだけはある。
……ここに、アーロンがいる。
そう思うとティーダは堪らなくなった。
夢のような景色。アーロンのいる場所……。
ここにはきっと、哀しいことも辛いことも、何もない。
もう何も、我慢することなんて無い。

入場券を買い、小走りに園内へと入った。
(アーロン、どこ?)
夢中で、広い園内を歩く。
人々の歓声。様々なアトラクション……
それらをぼんやりと心の隅に捉えながら、ひたすら歩き続ける。
(アーロン、逢いたい、逢いたい……)
何処へ行けばアーロンに逢えるのか、ティーダにはまるで分からなかった。
けれどこうして歩いて行けばきっと、自分に差し伸べられるアーロンの手に、出逢える気がした。
……そう。そんな気がしただけ。
30分ほど歩いて、ティーダは疲れた足を引きずるようにして、隅のベンチに腰掛けた。
……分かっていた。
むやみに歩き回ったところで、都合良くアーロンに逢える訳など無いと。
だったら電話して、会いに来たよ、今ここにいるから来て、って言えばいいのに。
…それができないのは、そうしたらきっとアーロンの迷惑になってしまうと、心の隅で思っているから。
夢のようなこの景観を前にして、もう我慢することなんて何も無いのだと、思ったばかりだというのに。
(何も考えずに好きな人の胸に飛び込むなんて、やっぱり出来なかった。
……可哀想な『Tidus』……。)
涙で視界が滲んだ。
急に現実に引き戻されて……これからどうすればいいのか分からず、少年は心細くてただ泣いた。
疲れた。今日は何処に泊まろう?酷くお腹もすいている――――
……と、泣いているティーダに、てくてくと着ぐるみが近付いてきた。
勇ましい獅子の面……ザナルカンドランドのイメージキャラクター『キマリ』。
彼は黙って、ティーダにキャンディを差し出した。
顔を上げ、涙の溜まった目で、ティーダは『キマリ』を見上げる。
小さな子供だったら怖がって泣き出しそうなその面構えが、なぜイメージキャラクターに選ばれたのかは分からないが、この時、ティーダの目には『キマリ』の顔がひどく優しく映った。
「……ありがとう……」
キャンディを受け取り、ティーダはちょっと微笑った。
少しだけ、元気が出た気がした。
「もう、大丈夫」
立ち上がって『キマリ』に手を振り、ティーダは再び歩き出した。
何処かで適当に食事でもして……近くのホテルに泊まろう。
明日のことはまた明日、考えればいい………。
アーロンに逢いたくて足を運んだ場所だったのに、結局、逢うことは叶わなかった。
でも、いいんだ。
ほんの少しだけ、夢を見られた。
ほんの一瞬の、幻だったけれど。

「ねえキミ、ひとり?」
足早に出口へと向かっていたティーダに、若い男の声が飛んだ。
アトラクションが並ぶブロックとは少し離れた、木立に囲まれた静かな道。
ティーダは無視して通り過ぎようとしたが、さっと目の前に男が二人、立ちふさがる。
「ひとりなんでしょ?オレ達に付き合ってよ」
「顔隠してっけどさ、キミ、すっごい綺麗なんじゃない?細くて可愛いし」
嫌な笑いを含んだ声。
園内にカップルが最も多いであろう時間帯だ。男二人、ナンパに精を出しているところなのだろう。
顔を隠しわざと野暮ったく見せているティーダだったが、その輪郭の美しさは夜目にも明らかで、標的になったとしても何ら不思議は無かった。
「悪いけどオレ、急ぐから……」
俯いたままくるりと彼らに背中を向けようとしたティーダは、次の瞬間、ぐっと腕を掴まれ、びくっとした。
「つれないこと言わないでさぁ。行こうぜ」
そのままぐいっと、引っ張られる。
強い力。
不意に襲ってくる、恐怖。
「や…っ」
足を突っ張り、その手を振り解こうともがくティーダの腰に、もう一人の男の手が回る。
「んだよ、そんなに嫌がるこたぁねぇだろうが?」
《……何を嫌がっているんです?》
甦ったのは、シーモアの声。
ティーダはサングラスの奥の目を見開いた。
「やだ、やだ……っ!」
小さく叫んで、身を捩る。
自分の身体をまさぐり這い回ったシーモアの手の感触が、怒濤のように甦る。
怖い。こわい……っ
「暴れんなよ、この!」
二人の男に押さえつけられ、ティーダは身動きがとれなくなる。
《君は私のものだ。いい加減、観念したらどうです?》
「…っ、離せってばぁっ!」
頭の中に響く声を消そうと、ティーダはがむしゃらに暴れようとするが、力強い男二人の腕はそれを許さない。
「ムカつくなぁ、こいつ…」
一人が険しい声で言うともう一人が、
「その辺に引きずり込んで、ヤっちまうか?」
と、ティーダのサングラスに手を伸ばす。
顔……!
男の暴言にもティーダは恐怖したが、同時に今最もかばうべき場所を思い出し、更に恐ろしくなった。
顔を、見られたりしたら……
「や……っ!」
ダメ、嫌だ、離せ……っ!!
髪を引っ張られるのも厭わず、ティーダは必死で顔を背ける。
犯される恐怖。顔を見られる恐怖。
それらが一緒くたになって少年の小さな身体を襲い、彼は正気を保つのがやっとだった。
どうしよう、どうしよう。
アーロン、どうしよう……オレ……
「何をしている!」
薄闇の中に、突如響いた声。
懐中電灯の光の輪が歪んだカーブを描きながら、男二人とティーダを捉える。
「……っ、やっべぇ」
ぱっ、と掴んでいた手を離し、二人の男は一目散に逃げ出した。
ティーダは放り投げられたような格好になり、地面に転がる。膝が擦り剥け、小さな痛みが走った。
そのまま動けず、倒れたまま荒い呼吸を繰り返す。
怖くて、怖くて、今更のように身体が震えた。
そして――――
「……大丈夫か?」
足音と共に近付いてきたその声を耳にして、ティーダの目から、堪えていたはずの涙が溢れた。
「何をされた?一人で立てるか?」
ティーダは動けない。
「おい…」
倒れている少年の傍らにさっと屈み込んだその男は、次の瞬間息を呑んだ。
「……ティー…ダ……?」
動揺に揺れる声が、少年の名を呼ぶ。
その声のあまりの懐かしさに、ティーダは堪らず、嗚咽を漏らした。
動けない。言葉が、何も浮かばない。
やがて男の逞しい腕が、ティーダをそっと抱き起こす。
ティーダは据わらない首をどうにか持ち上げ、男を見上げた。
見下ろす視線に、出逢う。
「ティーダ……」
再度、今度はひどく優しいトーンで呼ばれ、ティーダはしゃくり上げて男の腕を掴んだ。
「ごめ…ん、めいわく、かけたく、無かった…のに」
やっとの思いで出した声は、嗚咽混じりの、ひどく掠れた声。
きっと、顔は涙でくしゃくしゃで。
「逢い…たくて……逢わなきゃ、死んじゃいそうで……でも…逢う勇気、無くて……」
何を言っているのか、何が言いたいのか…まるで分からず、ティーダはただ、心に浮かぶ言葉一つ一つを無心に口に出した。
大きめの帽子は斜めにずれて色味の柔らかな金髪が露わになり、不格好なサングラスはずり落ちて、涙を湛えた蒼い瞳が目の前の男を直に映し出す。
「ごめ……、でも、オレ、逢いたくて……っ」
泣きじゃくるティーダを、男は黙って、抱き寄せた。
「逢いたかった。アーロン、逢いたかった……っ」
ずっと求めていたその胸に夢中で縋りつき、ティーダはただただ、泣き続けた。
アーロンの匂い。アーロンの温もり。アーロンの………。
あまりの安堵にやがて意識は遠のき、抱き上げられた心地よい感覚だけが残った。



「落ち着いたかな?」
気が付いたのはソファの上。自分を見下ろす見知らぬ男の穏やかな微笑に出逢って、ティーダはビクリ、と身体を震わせた。
「ああ、怖がらないで。私はアーロンの上司で、ブラスカといいます。
君のことは、色々聞いていますよ」
おっとりした物腰、柔らかな喋り方。
それらは誰かに似ているような気がしたけれど、明確な答えは出なかった。
けれども、目の前のこの男が、悪人でないことはすぐに分かった。
「あの……?」
アーロンは?と問おうとして、ティーダは小さく「あっ」と叫んだ。
「箱、なかったスか?プレゼント用に包装してあった…ええと、これくらいの…」
手で大きさを示しながら、慌てて辺りを見回す。
「…これのことか?」
背後で、良く通る低い声が響いた。
振り返ると、出入り口の扉からアーロンが入って来る。普段着に着替えていた。
そういえば制服、案外似合っていたな、とティーダはぼんやり思いながら、当のアーロンが例の箱を手にしているのを見て、少し頬を染めた。
「……そう、それ」
「……俺に、か?」
「……他に、誰かいる?」
わざと素っ気ない返事を返す少年に、アーロンは溜息をつき、
「お前という奴は……こういうものを用意して来るんだったら、ちゃんと会いに来い」
ぞんざいに投げかけられた言葉は、けれど何より優しくティーダを包んだ。
…また少し、涙が出そうになる。
と、それまでにこにこと二人のやりとりを見守っていたブラスカがつと立ち上がった。
「では、私は仕事に戻りましょう」
「……本当に、良いんですか?」
部屋を出ていこうとする上司に、アーロンが申し訳なさそうに声を掛けた。
ティーダは何のことかと、二人を交互に見やる。
「構いませんよ。私からのボーナスです。楽しんできなさい」
そう言って微笑み、ブラスカはゆったりした足取りで出ていった。
「……ねえ、何の話?」
ティーダが不思議そうに問うとアーロンはチラリと窓の外に視線を投げ、
「そこで、お前と楽しんで来いと。上司命令だ」
窓の外――――すなわちそこは、ザナルカンドランド。
「えっ」
ティーダは顔を輝かせる。
「いいの?ホントに?」
「俺の上司は、寛大でな」
「やった♪」
無邪気なその笑顔は、マネージャーとタレントの間柄だった頃には決して見られなかった17歳の少年の笑顔で、アーロンは眩しげに目を細めた。
「じゃあ、早く行こう、すぐ行こう!…っと、その前に」
勢い良くソファから立ち上がって、ティーダはアーロンの手の中の小箱を指さす。
「それ、開けてみてよ」
黙って言うとおりにしたアーロンは、箱の中から出てきたシンプルなデザインのネクタイを、いつになく丁寧な動作で指の間に挟み、ゆっくりと少年の顔を見た。
ティーダは恥ずかしげに頬を染める。
「あ…えっと…アーロンどんなのが好みかとか、全然、分かんなかったんだけど…さ」
探るような上目遣いは、さしずめ親に伺いを立てる子供のようで。
「どう、かな?」
「…なかなか、趣味が良い」
「ホントに!?良かった」
心底嬉しそうに笑うティーダを見て、アーロンは胸が痛くなった。
独りマンションを抜け出して電車に乗ったその先で、自分へのプレゼントを選んでいたティーダ。
どんなにか心細かったことだろうに……小さな包みを大事に抱えて。
それでも真っ直ぐ逢いに来られず、今までどんな気持ちでいたのか。
「…アーロン?」
「…馬鹿だな」
それだけ言って、アーロンは少年を抱き寄せた。
その柔らかな金の髪に唇を寄せ、指で優しく梳く。
「……楽しかったよ」
じっとそうされることに身を任せていたティーダは、ぎゅっとアーロンの背中に腕を回して言う。
「楽しかった。アーロンのことだけ、考えてた」
その頬に、ぽろりと一粒、涙が落ちた。

しばらくそうして抱き合って、何度か軽いキスをして。
やがてティーダはぱっと顔を上げ、アーロンの服を引っ張った。
「さ、早く行かないと、時間、もったいない」
すっかり元気を取り戻した少年は、目の前のザナルカンドランドに興味を惹かれて止まない様子。
「行こ、アーロン」
そう言って、そのまま軽い足取りで外に出ていこうとするのを、アーロンは素早く呼び止める。
「忘れ物だ、ティーダ」
「あ…」
テーブルの上の、帽子とサングラス。
こんな状況下でも尚、ティーダは『Tidus』であり、顔を隠さずに外を歩くことなど叶わない。
アーロンは再度胸の痛む想いだったが、ティーダは笑って、
「……何か、懐かしいな。アーロンと、こういう会話」
と、嬉しそうに帽子をかぶった。
「せっかくだしさ、アーロンも、そのネクタイ、してってよ」
今日のアーロンは薄いグレイのYシャツ姿。
ティーダの送ったネクタイは、そんな彼によく似合った。

「オレさ、遊園地とかで遊ぶのって、初めて!」
二人並んで歩きながら、ティーダが弾んだ声で言った。
日はすっかり落ちて、ライトアップされたアトラクションたちがひときわ美しく夜空に映える。
帽子とサングラスに隠された少年の顔は、しかし満面の笑顔であろうことは容易く想像出来た。
「ずぅっと前から、夢だったんだ」
色とりどりのライトが、少年の横顔を照らし出す。
「こんな風にさ、好きな人と、遊園地でデート」
そう言って照れたようにへへ、と笑うティーダの手を、アーロンは黙って握る。
ティーダは握られた手に視線を落とし、それからゆっくり、傍らの男を見上げた。
「迷子にならんようにな」
「って、子供じゃねぇっての!」
軽口を叩き合いながら、けれど握った手はそのままで、二人は歩いていく。
……幸せだと、ティーダは思った。
このまま時が止まればいい。ずっとアーロンといたい。もう離れたくない―――――
我知らず、ぎゅうっとアーロンの手を握りしめる。
同じ力で握り返され、ティーダはそっと、アーロンに身を寄せた。
「さあ、まずどうするんだ?言っておくが、ここは広いぞ?」
「ナビはお願いするよ、警備員のオッサン」
「俺を観光ガイドと一緒にするな」
……と、タイミングを見計らったかのように、ティーダの空きっ腹が情けない音を立てた。
「……」
アーロンが可笑しそうに口元を歪める。
「まずは腹ごしらえということか」
ティーダは真っ赤になった。
「来い。ボリュームのあるものをたっぷり食わせてやる」
手を引かれ、少年は素直に従う。
本当に久しぶりに、食が進みそうな気がした。



「お父さん!」
突然あまりにも聞き知った声に呼ばれて、ブラスカは椅子からずり落ちそうになった。
「…ユウナ?」
アーロンのノルマを代わりにこなし、警備員室で一息ついていた時の事。
娘のユウナが制服姿のまま目の前に現れ、彼は仰天して瞳をしばたたかせた。
ユウナがザナルカンドランドで遊ぶことは度々あることだったが、父であるブラスカの職場に足を運ぶことなど、過去に一度として無かったことだ。
「…どうしたんだい?学校から直接ここに?」
驚いて尋ねると、ユウナは頬を紅潮させ、
「ここに、『Tidus』が来てるって本当?」
「…何だって?」
ブラスカは唖然とした。
「……誰から訊いた?」
「誰からも何も…さっき、ニュースでやってたの。
ここに、『Tidus』がいること、警備員の話で分かったって」
――――どういうことだ?
常に穏やかな彼でも、さすがに動揺した。
「マスコミに漏らしたの、お父さん?」
ユウナはかなり苛立っている様子だ。
『Tidus』目当てのミーハー心からやって来たのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
「…『Tidus』が失踪したのはね、すごく、辛かったからなんだよ。
頑張り屋さんなのに…耐えられないくらい、辛かったんだよ。
…だからね、わたし、このまま『Tidus』が見つからなければ良いって、本気で思ってたのに」
切なげに眉根を寄せて父を見上げながら、ユウナは訴える。
我が娘ながら感心することを言う、とブラスカは思ったが、今はそんなことを悠長に考えている場合ではない。
ユウナがここへ来ているということは、マスコミやプロダクション関係者の手も、既にここへ回っていると考えて間違い無いだろう。
「ねえ、お父さんなの?お父さんがマスコミに――――」
「私ではないよ、ユウナ」
努めて冷静にそう言い、ブラスカは思考の回転を早める。
「じゃあ誰が――――」
…キノックだ。
ブラスカは唇を噛んだ。
『Tidus』がここへ運び込まれた時から姿の見えない、部下のキノックでしかあり得ない。
何処かでこちらの様子を窺い、マスコミか何かへ連絡を入れたのだ。
その情報料として、いくらかが手渡されるのに違いない。
……あの男のやりそうな事だ。
「余りに無警戒すぎたな……」
額に手をあて、悔しげに俯く父の姿を見て、ユウナは思う。
(…良かった。やっぱり、お父さんは『Tidus』の味方だった)
しかし依然として『tidus』の危機であることに変わりはない。
「ねえお父さん、わたしが来たとき、入場門前に、マスコミが大勢いたよ」
ブラスカは肯く。
「そうだろうね。…こうしている場合ではないな。知らせなければ……」
そう言うと彼は素早く携帯電話を取り出し、急いでアーロンの番号を液晶画面に呼び出した。
時刻は午後9時。
ザナルカンドランドの夜のパレードがひときわ盛り上がりを見せるその時間帯に、
不穏な影が音を立てて立ちこめた。


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