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2.波乱 翌朝。アーロンは時間通り6時半に迎えに来た。 「おはよ」 ティーダはその頃にはすっかり身支度を済ませており、玄関先に立った長身の彼に向かって微笑んだ。 「……ああ」 応える声は、心なしか普段より少し、優しかった。 何だかくすぐったいような甘い想いがこみ上げてきて、ティーダはそっと手を伸ばし、アーロンの袖口を掴んだ。 アーロンの手が、優しく少年の髪に触れる。 ほんの小さな愛を交わして、二人は部屋を出た。 昨夜は一睡もできなかった。 車内で激しく抱き合ったアーロンとの感触を想い出しては、幸せな気持ちでいっぱいになって、一晩中、ベッドの中でコロコロしていた。 幸せな、睡眠不足。 辛くて哀しくて一睡もできないことはままあったけれど、こんな気持ちになるのは初めてで、 ティーダはその幸せを強く強く、噛みしめる。 多分自分は今、世界一幸せ者だとさえ思った。 (アーロン……) 撮られる危険を犯してまで、自分を抱いてくれたアーロン。 (アーロン、好き……) 身体を重ねて、その想いは一層強まった。 この日は、朝から写真撮影の仕事が入っていた。 『Tidus』初の写真集発売決定、と、つい先日公に告知され、世間は異常なまでの盛り上がりを見せている。 その写真集用の、撮り下ろしを何枚か、都内の某スタジオで撮影の予定だった。 「お早うございます」 スタジオ入りすると、ティーダはいつものように笑顔でスタッフに挨拶する。 撮影用の際どい衣装とは裏腹のその純粋そうな笑顔がちぐはぐで、しかしまた魅力的でもあった。 「『Tidus』くん、入りましたー!」 「はいよ」 応えて顔を上げたのは、『Tidus』のデビュー当時から彼を撮り続けているカメラマン、ワッカだった。 彼はまだ23歳の若手だったが、しかし『Tidus』の魅力を最大限に写し出せる腕を持つと定評があった。 もちろん、今回の写真集も、その腕を買ったエイブスプロダクションが、彼に直に依頼したという訳だ。 ワッカはティーダの姿を認めると、人なつこい笑顔を向けた。 「写真集のタイトル、決まったぞ」 「……どんな?」 「Soleil」 「それいゆ?」 「フランス語で、「太陽」って意味だ。それくらい勉強しとけ」 自分の名前に、「太陽」という意味があることは、無論知っている。 「へえ、なかなか洒落てるね」 歳の近いこのカメラマンとは、ティーダはうち解けて話ができた。そんな部分も、ワッカがティーダを魅力的に撮れるゆえんなのかもしれなかった。 「さ、始めるか」 軽くティーダの肩を叩いて促し、ワッカは三脚にセットされたカメラのファインダを覗いた。 ワッカがティーダに対し、注文を出すことはあまりない。 ただ自然に、ティーダがポーズを取るに任せる。 その辺り、ティーダももうすっかりプロで、自分を美しく見せる方法を、ちゃんと心得ていた。 表情も、ころころ変わる。挑むような瞳、悩ましげな顔、物思う顔……。 「そろそろ休憩すっか」 ワッカの声が飛び、ティーダはホッと、身体の力を抜いた。 スタッフがわらわらと周りに集まり、メイクや衣装の乱れを直していく。 やがてそれも終わると、ワッカが近寄ってきた。 「今日は一段と、いい顔するねぇ」 「そう?」 「ああ、オレが知ってる中じゃ、最高だな」 そう言って、一呼吸おいてから小声で、 「いい恋、してるな?」 ティーダはたちまち赤くなる。 ワッカは、ティーダに想い人がいることを、ちゃんと知っていた。 兄貴分のようなこの男には、ティーダはそういうことも隠さず話せた。 もちろん、相手がマネージャーであることまでは話していないが、ワッカはティーダが恋をすることに賛成してくれる数少ない人間の一人だった。 ―――恋愛禁止令なんか馬鹿げてる。年頃のアイドルに、恋人がいない方がおかしい。 それに、恋をしている人間は、普段の数倍、良く撮れるもんなんだ。 それがワッカの持論だった。 ティーダはふと視線を巡らせ、スタジオの隅でこちらを見守っているはずのアーロンの姿を探した。 壁にもたれてたたずんでいた彼は、ティーダの視線に気付き、軽く、肯いて見せた。 ティーダの胸が、またキュッとなった。 たとえ、プライベートで一緒にいられなくても。 好きな人が見守る中で仕事ができる自分は、幸せだ、と。 写真撮影の後も幾つか仕事をこなし、遅い昼食の後、更にもう1つ、音楽番組の収録があった。 それが終わると、時刻は既に午後6時を回っていた。 今日のティーダにとって、12時間労働になろうかという時間だ。 しかも今日はまだあと1つ、ラジオ番組の仕事が残っている。 疲れているだろうに、少年はそんな素振りひとつ見せず、控え室に戻ってくると、例によって明日の出演番組の台本チェックを始めた。 アーロンがコーヒーを淹れて持っていくと、ティーダは微笑んで、 「ありがと」 と一口、美味しそうに黒い液体を口に運んだ。 「疲れてるんだろう」 「……ん……少し、ね」 台本に目を戻し、少年は軽い口調で応える。 「まだ次の仕事まで30分ある。少し眠れ」 ティーダは目を上げてアーロンを見た。 台本チェック中の自分に、アーロンがそういったことを言うのは珍しいことだった。 「でも。今日これできるの、今しかないし……」 言いかけた少年の手から、アーロンはパッと台本を取り上げた。 「いいから休め」 彼にしては珍しく声を荒げる。 「アーロン……?」 驚くというより不思議そうな瞳が、アーロンを見上げる。 「頑張ることも、たまには休め。いつも精一杯頑張っていたら、何処かで駄目になる」 こんな台詞を、マネージャーである自分が言っていいはずが無い。 けれども、昨日その腕に少年を抱いてから、アーロンの中でどうしても止まらなくなった気持ちだった。 こみ上げる何かを抑えるような苦しげな口調で、彼は呟くように続ける。 「精一杯の、お前を見るのは辛い……」 そしてそっと、少年の柔らかな頬のラインに手を添えた。 ……ティーダの目から、みるみる涙が溢れ出した。 気張って、緊張して、プロのタレントに徹していた少年に、その言葉は優しすぎた。 控え室で、泣いたことなど無かったのに。 「……っ」 声を殺して泣く少年の髪を優しく撫で、その肩をそっと抱き、アーロンはティーダを近くのソファに寝かせた。 余程疲れていたのか、少年はあっという間に眠りにつく。 30分ほどの、浅い眠りに。 未だその頬に伝う乾ききらない涙を、親指でそっと拭ってやりながら、アーロンはただじっと、耐えていた。 ……何に対して? 分からなかった。けれど今は耐えることしかできないような気がしていた。 ラジオ番組の収録スタジオは、直前に収録したテレビ番組と同じ系列の局内にあったため、大きな移動はない。 少し眠って幾分すっきりした顔の少年が、スタジオでスタンバイする様子を見守っていたアーロンの胸ポケットで、携帯が音を立てた。 ラジオ番組のスタッフが、本番までには電源を切っておけ、と言わんばかりにこちらを睨むのを目の端にとらえながら、アーロンはスタジオを出て電話に出た。 「はい」 『社長から大事な話がある。至急戻りなさい』 名前も名乗らず突然用件だけを告げたその電話の主は、しかしすぐに、事務所の社長秘書・リンだと分かった。 アーロンは腕時計に目をやる。 「今から戻ると、『Tidus』の番組終了時間に間に合わないが?」 『マンションに送るだけなら、誰か別の人間をよこします。貴方は早く戻って来なさい』 ひどく慌てている。その様子は、アーロンにも伝わった。 何か一大事か? アーロンの胸を、一抹の不安がよぎった。 スタッフと二言三言会話を交わして、アーロンがスタジオを出ていくのを、ティーダは不安そうに見つめていた。 様子がおかしい。何かあったのだろうか? 結局アーロンは戻って来なかった。 番組終了間際に、同じ事務所のマネージャー、ルールーがスタジオに入って来た。 今日は彼女に送ってもらえということか。 ティーダは不安とともに、少しがっかりした。 「どういうことだ、これは」 目の前に乱暴に放り出された夕刊を目にし、アーロンは一瞬目を伏せた。 やはり、そうだったか。 予測はしていた。全て自分の責任だ。 《『Tidus』車中で密会・相手はマネージャー》 夕刊のトップ記事として、昨夜の自分とティーダの写真が掲載されている。 はっきりとした写真では無かったが、抱き合ってキスする二人――― アーロンは唇を噛みしめる。 どうして、こんな……… 「よりによって『Tidus』に手を出すとは、何て奴だ!」 社長―――マイカは、その老齢からは信じられない程の激しい口調で、アーロンを叱責した。 「……申し訳ありません」 「謝ってすむと思うのか!!」 拳を震わせ、なおも言い足りないとばかりに口を開こうとする社長に、秘書のリンが脇から声を掛ける。 「社長、今は身内で揉めている場合では……。 もうマスコミが動き始めます。私共は対応策を考えねばなりません」 「ああ……そうだな」 忌々しそうに、マイカは唇を噛んだ。 マスコミ………。アーロンはハッとする。 ラジオ番組を終えたティーダの元へ、マスコミが殺到するのではないか? 記者達から心ない質問が飛び、ティーダはどれだけ傷つくだろう? ティーダ。ティーダ………! 身を翻し、社長室を出ていこうとするアーロンの腕を、リンが素早く掴む。 「何処へ行くんです」 「離せ。ティーダが……」 「安心なさい。彼にはルールーをつけてあります。彼女は有能だ、どうにか切り抜けてくれるでしょう」 ルールーが……。 確かに適切な人選ではあったが、それでも尚、ティーダの元へ駆けつけたいアーロンの衝動は収まらない。 そんな彼に、リンは厳しい口調で諭すように言う。 「今貴方が行っても事を荒立てるだけです。それに、貴方には今日をもって『Tidus』のマネージャーを降りてもらうんですから……」 それは当然の処置だった。 しかし―――― 目の前が、暗転する。 激しい絶望が、アーロンを襲った。 もう二度と、逢うことができなくなる―――― アーロンに抵抗する力がなくなったことを確認し、リンは再び社長に声を掛けた。 「社長、幸いにもこの写真、『Tidus』はあまりはっきりとは写っておりません。 車はアーロンのものですが、『Tidus』は別人だと言い切れば、なんとか通ります。 年格好の似た別のタレントだと会見しましょう。 都合の良いタレントなら用意しております」 ……用意、か。どこまでタレントを物扱いする? リンの言葉尻を捉え、アーロンは低く嘲笑した。 そして、記事はこう書き換えられるのか? 《『Tidus』のマネージャー、駆け出しアイドルと車中でキス》 その不誠実さを事務所に咎められて、俺は辞めさせられるというわけか。 汚いやり方だ。 けれど――― ティーダが、難を逃れられるのなら。 ティーダが、何事もなく、芸能活動を続けられるのなら。 それで構わない。 身代わりになるタレントには申し訳ないが、アーロンには、ティーダが全てだったから。 ――――これでいいんだ。 ラジオ番組を終え、帰り支度を整えたティーダに、ルールーがさっと近付いて来た。 「急いで」 「―――?」 ただならぬ彼女の様子に、ティーダはその整った眉を顰める。 「車は用意してあるわ。裏口から一気に駆け抜ける」 「一体なに?」 「撮られたのよ、貴方」
一瞬、ティーダは自分の耳を疑った。 「撮られ………?」 「何を撮られたのかは、分かるでしょ?」 まさか、まさか。 顔から急速に血の気が引くのを感じた。 ルールーに腕を引っ張られるようにして呆然とスタジオを出たティーダは、やがてはっとしたように足を止めた。 「ねえ、アーロンは?アーロンは?」 今何処?何してるの?戻って来るよな? ルールーはそれには答えず、ただぐいぐい、ティーダの腕を引っ張って歩かせる。 ……涙が出そうになった。 オレのせいだ。 オレがあの時、キスをねだったりしなければ。 泣いたりしなければ。 アーロン、アーロン……。 自分がこの先どうなるのか、今はそのことよりも、もうアーロンと逢えなくなるかもしれないその恐怖で、ティーダの膝はガクガク震えた。 どう歩いてきたのか分からない。ただルールーに引きずられるようにして辿り着いた、うらぶれた感じのその扉を、ティーダは焦点の合わない目で見上げた。 「何人かいるわね」 ―――ナンニンカ? ルールーが呟くのを、ティーダは半分上の空で耳にしながら、それでもやがてその言葉の意味を理解した。 ああ、マスコミか…… もう何もかも、どうでもいいことのように思えてくる。 「大丈夫、囲まれる程の数じゃない。走るわよ」 言うなり、彼女はさっとティーダの腕を掴み直し、ぱっと扉を開けて外へ飛び出した。 車まで、ほんの僅かな距離だった。 不意をつかれた記者達には、ティーダに追いつくことはかなわなかった。 けれども、幾つか飛んだ矢継ぎ早の質問の声は、ティーダの耳に届いた。 「マネージャーと密会していたというのは本当なんですか!?」 「事務所から恋愛は禁止されてるんじゃないんですか?」 「恋人はいないというのは嘘だったんですね?」 「どんな気持ちでマネージャーとヤったんです?」 ――――最後の質問には特に、傷ついた。 マネージャーとじゃない。アーロンとだ。 好きだから。大好きだから。 だからだよ、当たり前のことじゃないか…… 車のシートに凭れたティーダの瞳から、堪らず堰を切ったように涙が溢れだした。 アーロンの車じゃないこと、そばにアーロンがいないこと。 それら全てが、身を切るような痛みとなって少年を襲い、 やがて彼は気を失うようにして、眠りについた。 |
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