今日はいよいよ最終日。高々3日間の予定の旅行なんですが、なんでここまでネタが大杉なのかと。
ということで今日はまず江田島の海上自衛隊第1術科学校の見学から始まります。
と、こんな感じでスムーズにいければいいんですが今日も初っぱなからトラブル発生であります。
見学の時間は10:30からなんで、ホテルをどんなに引っ張っても10:00には出発しないと間に合わ無さ気なんですが、9:30を過ぎてもイトウ君がフロントに現れません。ジョージはここぞとばかり仕事してるわ、僕もたまにはお灸のつもりでほったらかしにしてましたら結局10:05頃にイトウ君華麗に登場です。流石に恐縮してましたが、顔はまだ半分寝ています。ほら行くぞ。
と、慌ただしく出発したものの今度は運転手である僕に災難が降りかかります。
チラホラと雪が降る曲がりくねった道を運転していると会社からの電話です。こっちは急がないかんというのに他人の仕事の状況説明を求められるという暴挙に晒されることになりました。危ないって。
そんなこんなで道交法違反とかしながら車を飛ばし、目的の江田島の術科学校に着いたのが10:27!なんという奇蹟!
これがイトウマジックかと一瞬思いましたが、 単なる遅刻しかけたということです。ということでいそいそと受付を済ませ見学開始です。

まず最初に連れて行かれたのがこちらの大講堂。大正6年築、御影石づくりのえらく立派な建物で当時の軍の置かれていた立ち位置みたいなものが透けて見えます。


講堂の内部はこんな感じ。2000名もの収容力でありながら音響設備がありません。設計の妙により内部では声が充分に反射して後ろまで届きます。それにしてもアーチが非常に美しい。12月の冷たい空気と相まって凛とした雰囲気を醸し出しています。

そして大講堂の前がこんな感じ。丁寧に掃き整えられた白砂が非常に綺麗です。松の木も真っ直ぐに伸びて起立してるかのよう。つか、松も垂直に伸びれるのね。

前面ファサードも荘厳な感じでいい感じ。で、ここ実は設計者不詳だそうで。

そしてこちらが幹部候補生学校。設計は永らく英国人ダイアックとされてましたが実際は曾禰達蔵らの手によるものの模様。曾禰達蔵は丸の内の三菱の煉瓦造りの建物を設計した人としても知られてます。

正面からの様子。ここんちの煉瓦は非常に高質なものが使われておりまして、一個の値段が当時の作業員の日当とほぼ等価というものらしく、製造されたイギリスから一つ一つ丁寧に包装されて軍艦で運ばれてきたそうです。どうりで手触りとかが抜群にいいはずです。建造から既に100年以上経っているというのにつるっつるでボールドのCMの玉山鉄二のようにすりすりしてしまいそうです。アッー!

気を取り直して、戦艦陸奥の主砲。戦前の近代化工事の際に付け替えられたものを持ってきて砲撃訓練用として使ってました。現在はこんな主砲持った艦なんかありませんから、まぁ、記念碑みたいな感じですかね。

あらゆるところが手入れが行き届いていて非常に凛とした雰囲気が漂っています。

もうこれなんて「愛と青春の旅立ち」みたいな感じ出しまくりですよ。

ギリシャ神殿風ですが、こちらが教育参考館。1936(昭和11)年築のもの。単なる資料館といったらどこからか怒られそうですが、海軍設立当初からつい最近のものまでゆかりの品が満載です。東郷平八郎の遺髪とかあったりしますがここは残念ながら撮影禁止です。いいじゃねぇかちょっとぐらい。
そんなこんなで1時間半の見学はあっという間でした。それにしても綺麗で立派な建物と整然とした規律、そして数々の栄光の品々というのは立派なプロパガンダですな。これで軽く洗脳される人たちも出てくるというものです。現に僕の横にもそんな人が約一名ほどおりますからね。ちったぁ裏の意味も読めよ。
という感じで江田島での見学は終了。本探訪の最後のネタに向かいます。

江田島から広島市内まではまたも船です。今度はカーフェリーを使います。

ん?他に乗る人いねぇの?

平日なもんで観光客もおらず結局待てど暮らせどでそのまま出航です。

なんか紹介パンフにでも出てきそうな写真が撮れるほど人いません。

見てお分かりの通り車は我々の車のみです。恐ろしくガラガラ。

冬の日射しが水面に反射して、のどかに船は水面を滑るように進みます。
そんなこんなで我々は広島まで戻って参りました。さて最後のネタである市内の広島平和記念資料館に向かうとしますか。
ん?ここでまたイトウ君から提案です。
「平和記念資料館は小学生の頃行ったことがあるのでつまらない。そんなところに行くぐらいなら宇津井駅まで行きたい」ですと。
ふ〜ん。で調べてみるとその駅は広島の県境を越えて島根に突っ込んじゃってますがな。行くとなると結構時間かかって往復でカーナビの弾き出した時間は既に超ギリギリな時間。行って、何もせずに帰って来なきゃいかん時間かかります。しかも天気は生憎の雪。かなりパラパラですが山間部には降ってないという確証は何もありません。リスクだらけでやんす。
流石に今回はチト切れました。
「じゃあ俺は降りる。車渡すから空港までフライトの時間までに来てくれればいいや」
と突き放してみますと、流石に彼もリスクが高いと察したのかあっさりと陥落です。結局付いてくることになりました。そんな遣り取りを経てようやく平和記念公園に到着です。

まずは慰霊碑。丁度真正面に原爆ドームが見えるんですな。亡くなられた方々に手を合わせます。

そして建物自体も目的である原爆資料館へ向かいます。


そしてこちらが世界の丹下健三設計の広島平和記念資料館です。1955(昭和30)年築で老朽化が進んでいますが、広島市は出来る限り残す方針で補強などを行う模様。日本のモダニズム建築の傑作といってもいいこの物件。一度実際に見てみたかったのは確かです。

丹下自体が旧制広島高校出身であり、原爆投下と同日の今治空襲により母を亡くしており、このコンペには並々ならぬ熱熱意でもって臨んだようです。
この建物のデザインコンセプト、思想、都市設計などの凄さはここを参照して下さい。
僕は不覚にも泣きました。いや、ホント、マジで。これだけの明確かつ強靱な意志をもって設計された建築を僕は知りません。過去、現在、未来の建築、いや日本の社会について思考を重ねながら、広島しかも原爆というあまりにも重いものを背負い込み、そして平和への意志を後世に伝える。そのためにありとあらゆる細部にまで意志の力がみなぎっています。この頃の丹下マンセー。

ピロティの柱の意匠。これは模様をわざわざ付けたというより、施行の時の支えとした板の模様がそのまま付いたのではないかと思いますが、どうなんでしょうかね。
一通り外側を見学した後は中も見学します。中は写真撮影可能というミュージアムとしては珍しいのですので一部紹介しときます。ホントここはスゴイので一度行ってみることを激しく推奨です。

湯飲みに蓋が付いてるかのようですが…

実際は陶器製の缶詰。陶器製なのに缶詰とはこれ如何にという感じですが、当時はありとあらゆる金属が接収されたためにこんなものまで陶器で作ることになったようです。日本人の技術改良の力に感嘆すると共に、こんなことやってたら士気が下がるに決まってるじゃないかと。そりゃ負けるよ。



そしてこれらは米軍が蒔いたビラの数々。これらのビラの主張をみるとここに戦後教育の根っことなるような考え方があるような感じがします。


海苔弁かと思いましたが(不遜)、原爆の熱線により炭化した弁当。東京大空襲の8倍相当のエネルギーが一瞬にして放射されたわけですから、あちこちでこのような風景が見られました。

爆発直後に降る黒い雨がつたった壁面。直接爆発の被害を受けなかった人たちもこの強い放射能を帯びた雨による二次被爆により被害を受けています。

資料館中から記念碑と原爆ドームを望む。この一直線のラインが原爆ドームの象徴性を高める効果を持っており、やっぱり丹下案しかあり得ないですよ。ここの計画は。

夕日をバックに背負う平和記念館。意味のあるミニマムさは力強ささえ感じさせます。

広島の決意表明。理想論として揶揄されることもある絶対平和主義ですが、あの惨劇を目の当たりにすると、そのような思想に至るのも理解は出来ます。
そして広島の原爆を語る際に忘れてはならないあまりに象徴的な原爆ドームへ向かいます。

原爆ドームは元々広島県物産陳列館として1915(大正4)年に竣工されたもので、設計はチェコ人のヤン・レツル。被爆当時は内務相などが入り行政機関・統制組合の事務所として使用されていました。


建物自体はこのドームの後方にまだあったのですが、原爆の爆風の直撃により崩壊、かろうじてこのドーム部分だけが残った形となりました。爆心地にかなり近いにも関わらずこのドームだけが残ったのはやはり半円の構造物が力を分散させることが出来たからなんでしょうかね。

初めてなんで知らなくても当たり前かも知れませんが、広島市民球場って原爆ドームのすぐ近くなんですな。広島カープの資金力の無さからくる阪神のファーム化の方がある種の涙を誘います。

このセセッション建築は確かに美しいんですがレツルのデザインする建築物は耐震性に致命的な欠陥を持っているらしく、同じように爆心地近くに立地していたレストハウス、日銀旧広島支店は倒壊していないという点、彼が同時期に設計した上智大学校舎は関東大震災で倒壊している点などからもそれは推測できます。

そしてこの歴史の負の遺産は1996年世界遺産登録されました。アメリカは最後まで登録に強く反対していたそうですが、全く持って反省がないというか何というか。
てな感じで初の原爆ドーム見学も終了。これを残すことにはやはり大きな意味があると改めて実感しますた。
そんなこんなで今回仕込んでおいたネタも全て終了、後はもう帰るだけです。
ん?もう一つある?
おおぅ、そうですな。広島といえばのお好み焼きを忘れていました。飛行機までまだ時間ありますからチト食べて帰りましょう。 
今回食については全然考えてませんでしたので旨いお好み焼き屋さんなんて調べておりません。なのであまりにベタではありますがお好み村というお好み焼き屋だけのビルに入りました。
因みにではありますが、この2軒隣にはお好み共和国
ひろしま村(ここのウェブはあまりに酷い…)というあまりに名前の似た競合店があります。
で、お好み村がサンフーズのソースが公認ソース、ひろしま村がおたふくソースが公認とソース代理戦争を繰り広げてますが、広島という土地柄は何かに付け抗争が好きなところなんでしょうか?

そんなこんなで一軒適当に選んで入りました。広島風のお好み焼きは随分と久し振りです。

個人的にはお好み焼きは素材を喰う感じの広島焼きより粉を喰う感じの大阪焼きの方が好きなんですが結局ソースの臭いでKOであります。

そして余裕の完食。

入った店は確か厳島だったかと。ホント記憶ありません…
メシも喰ったし後はホントに空港に向かって帰るだけです。
…がここでイトウ君が女の子へのお土産を買いたいと仰ってます。あら、いい心がけ。でも時間がないから何時までに帰って来いよという時間設定をした上で解き放ちました。僕とジョージは適当に街をブラブラします。 …で、時は経って約束の時間。
まだ戻ってきやしません。しかも何の連絡も無しに。まぁ多少のバッファは見てましたからまだもう少しは余裕ですが、明日からまた仕事なんでこんなことで飛行機乗り逃がすのだけはゴメンです。
結局約束の時間から5分くらい経って彼から連絡がありました。彼は一度我々がお土産用に奨めたにも関わらずスルーした熊野産のメイクブラシ屋に行ったようです。
時間の使い方が優雅すぎです。で、のたまうことが…
「戻りたいんだけど、道がわかんないんだよね」
呆れてものも言えません。しかも
「迎えに来て欲しいんだけど、今どこにいるかも説明できない」
もう素晴らしすぎます。
一時は置いていこうかとも思いましたが、流石にそれは惨すぎるのでなんとか自力で戻ってくるまで待ってみました。そして更に10分以上の時間が経ってからようやく戻ってきやがりました。もう説教してる時間すらありません。空港まで急ぎます。
しかしまたここで試練が降りかかります。またも雪です。夜の高速で雪、しかもノースタッドレス。積もるような感じの降りではないものの最早成る様に成れです。
…そして今回もなんとか間に合いました。滅茶苦茶集中して跳ばしましたからもうヘトヘト。ホント心臓に悪いよ、こんな旅。
後は飛行機乗って帰るだけです。最後までバタバタしっぱなし。

飛行機の中ではいつものように凄惨な精算の風景が繰り広げられます。 
年末恒例のネタじゃないかと思えるほど帰りの飛行機で誰かの結婚を知り愕然とするイトウ君。前回は紀宮でありましたが、今回は仲根かすみの結婚で呆然としてます。何故に知り合いでもない偶像の結婚で凹むのかさっぱり分かりませんが、本命の彼女と仲根かすみと選べるとしたらどっち?と聞いたところ彼曰く「迷わず仲根かすみ」とのことで、彼は女の子を選ぶ価値基準は容姿のみのようです。いいのかなぁ、そんなので…

とまぁ、相変わらず数々の伝説を作りながら今回の旅も終了です。ホントお疲れさんでした、我々。
ホント今回の旅は巡ったところ全てが強烈な意味を持ち、もの凄く感じ入ることが多かった旅でした。怒ることも多かったのも確かですがね。
ではでは。
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