高野山 奥の院裏参道

和歌山県伊都郡高野町

 

公園墓地

みがわりばし

 

 海防艦「大東」戦没者慰霊碑 忠魂

戦没戦友に捧ぐ

霊地高野山に眠る戦没戦友の霊を永遠に慰めんと 我等戦友一同茲に集り名を連らね肩を抱き合いつつ

友情を温めるものなり

若き日の面影を偲び懐旧の情亦新なり

昭和五十二年五月十八日

 

第十五号海防艦鎮魂碑

戦記

本艦は昭和十八年日本鋼管造船所にて着工、竣工後直に制海権・制空権を失った南方護衛作戦に参加、

兵員物資の輸送任務遂行に偉大なる貢献を致しました。

昭和十九年六月、南支那海に於ける護衛作戦中戦死されました、諸兄の労苦をしのび、皆様の御魂よ永

遠に安かれと、此処に碑を建て御冥福を祈る。

国のため 盾と散りにし 戦友の ふかく眠りに 祈りささげん

平成五年十月吉日  正八位 勲六等 成尾好一建之

 

  

海軍通信学校第四十一期慰霊碑

碑文

昭和十年一月全国より選ばれた精鋭三六三名は 翌年海軍通信学校第四十一期生として卒業 勇躍第一線部隊

へと赴任して行った 以来十ヶ年余海に陸に空に幾多の戦域に多くの同期性が国家存亡の戦に潔く散華した ここ

において戦後三十七年余経過した今日 生存する同期生が相寄りこれら英霊の功を永く顕彰すると共に 戦後永眠

された同期の霊を共に祀り 将来順次これに続く同期生一同 高野の聖地に集合し 俺お前で戦前戦後又未来を末

永く語合いの場所をここと定め氏名記載鈑を内蔵してこの碑建つ

海軍通信学校第四十一期慰霊碑建立委員会

 

  

和歌山県伊都郡戦没者追悼慰霊碑                        兵庫縣三木市戦没者英霊供養塔

 

三光汽船慰霊碑

碑文

我が社創業よりここに三十有余年社業の益々隆盛なるは 創立以来役員従業員が協力一致身を顧ず一意

その職務に精励努力した賜である

然るにその間 或いは国家の危急に赴いて戦火に斃れ 或いは傷病のため中道に物故されたもの三百余

を算するは 誠に痛恨に堪えない

ここに社名変更三十周年にあたり地をこの浄域に相し慰霊碑を建立してその功を讃え霊を弔うと共に 向後当

社及び傍系会社において不幸 在職中の物故者あるときは その霊を合祀して永遠にその冥福を祈らんとする

ものである

昭和四十三年十一月  三光汽船株式会社 取締役社長 河本敏夫

 

  

大阪府八尾市戦没者 英霊塔                            兵庫県尼崎市戦没英霊供養塔

 

  

東部ニューギニア派遣 第四十四兵站地区隊 猛第四八一七部隊 戦没者慰霊塔              黒龍江省冨錦第七七五部隊慰霊碑

 

    

平和祈願/戦艦陸奥殉職者供養塔

建立由来

戦艦陸奥はワシントン海軍軍縮条約下最後の戦艦であり 全海軍の叡智と国民の心血を傾注して完成した一個の

芸術品にして 乗員も亦誇りを持って二十有余年に亘り名実共に世界第一艦として国の守りに任じ戦争抑止力とし

ての実を発揮す

然るに昭和十八年六月八日将に国家存亡の機に直面し山口県柱島水道より出撃の為 解覧の直前にその機能を

発揮し得ず悲運にも自爆し 三好艦長以下千百二十一名の将兵は艦と運命を共にし悠久の大義に殉ぜられた

爾来二十七星霜漸く機熟し 四十二米の海底より深田サルベージ会社の犠牲的作業により引揚げられた其の鋼板

の表面に重積した牡蠣の付着に異様な光を感じ即刻京都大覚寺門跡睨下を迎へ法要を厳修した

(中略)本供養塔は殉職将兵の英霊を永く顕彰し恒久平和を祈念し本艦の各部を取り纏め此の塔を製作した四番

砲台の砲座を台盤に推進軸を柱とし 台座と柱の下部に千百二十一柱の英霊の芳名を謹書銘記し青銅鋳物に陽

刻して艦霊と一体の大魂魄のお働きをお願いし同時に御冥福をお祈りする(後略)

昭和四十八年十月二十三日  株式会社興国鋳銅所

碑文

不可思議の みちびきかなや 英霊は み艦にこもり ここにしずもる

昭和四十八年十月二十三日  三好近江(陸奥艦長・三好輝彦海軍少将 令夫人)

 

  

大阪市東成区中本校下 戦殉英霊供養碑                      三重県飯高郡出身英霊供養塔

 

和歌山県特別攻撃隊供養塔

趣旨書

大東亜戦争に於いて海空の特別攻撃隊員として出征し壮烈なる戦死を遂ぐ和歌山縣出身四十六士

 

アンポン島海軍特別陸戦隊戦士之碑

碑文

共に往き、共に戦い 遠く南十字星輝くアンポンの島に 懐かしき故郷を恋いつつ 歓びと哀しみを分ちし幾歳月

忘れ得ぬその過去 この人達 帰らぬ人 帰りし者 今幽明を隔つとも 若き日の面影を思えば 懐旧の情 

日々に新たなり

幸いに志を寄せ善意を集め この聖浄の地に碑を建て 戦友再び名を連ね 肩を抱き合って生命の限りに燃えし

友情を温む

心の憩の地として我等遥に歩み来し、悲しき長き戦の戦の沈黙の歴史と その追憶を此処に埋め自然の慈うけて

翠とともに土に還る

戦友よ 異国の友よ 永遠に平和の 祈りの中に安らかにあれ

 

海軍通信学校第五十二期慰霊碑

碑文

昭和十四年六月 横須賀 呉 佐世保 各海兵団に入団                  .

昭和十四年九月 海軍通信学校に入校 無線電信術を修得                

昭和十五年八月 第五十二期普通科電信術教程修了                    

若干十五才から十八才にして海軍に身を投じた同期生一千百余名はかくて掌電信兵 偵察兵として連合艦隊や

航空隊などに配置され 更に激しい実戦的訓練により技術を磨いた

昭和十六年十二月八日 大東亜戦争の勃発とともに ハワイ マレー沖 ソロモン ミッドウエイなど各地に転戦

し海軍無線通信の中核として活躍したが 昭和二十年八月戦争が終結した

生死を越えて結ばれた戦友愛は 未来永劫のものであり この大戦に祖国の勝利を信じ莞爾として海空に散華

した六百有余の友や 病に斃れた友の霊よ安かれと此処に慰霊碑を建立する

昭和五十年七月十二日

 

英霊殿

英霊殿

 

  

大東亜戦争一般無縁者之墓                        大東亜戦争無縁戦士之墓

 

昭和殉難者法務死慰霊碑

建立誌

第二次世界大戦終結後、連合軍によって行われた戦争裁判は、勝者連合軍が札無く、敗者日本を裁く、歴史上

世界に例を見ない過酷で報復的裁判であった。ましてや故なく戦争犯罪人として処刑された将兵は、戦闘下に

おける帝國軍人として職務上の責任又は受命行為を犯罪として処刑されている。

戦後半世紀を経た今日、我が国は世界の経済大国として大きな役割を果たしているが、移りゆく歳月は、人々に

戦争の記憶を風化させつつある。ましてや戦犯として汚名を着せられて無念極まりない最後を遂げられた人々の

ことを知る人も少なく、追悼菩提を行うこともない。

前橋陸軍予備士官学校八期生築野政次氏は、フィリピン最南端、ミンダナオ島の深いジャングルの戦闘で生き残

り、終戦後、レイテ島、ルソン島に護送され、カンルバン収容所において同方面最高司令官山下奉文大将ほか、

処刑のため連行されるのを、深夜ひそかに断腸の思いで見送り、同じ幕舎に収容されていた同窓萩野舜平氏が

上官の身代わりに銃殺刑に処せられことを知り、聖地高野山奥の院に不幸にして死刑去れた尊い同胞1068柱

を昭和殉難者として、その菩提を弔うことを宿願としてきた。

刑死された人々の無念を空無にすることなく、再びかかる悲劇が繰り返されることなきよう祈りつつ、有縁の同志

あい集い、ここに昭和殉難者法務死追悼碑を建立した。心から諸精霊の冥福と永久の平和を祈るものである。

 

沖縄戦戦没者供養塔

碑文

この塔は、第二次世界大戦の末期(昭和二十年)に沖縄とその周辺で戦没した学徒を含む十八曼万余柱の英霊を

供養するため、全国の遺族会、沖縄県人会、財界、一般学生、報道関係者及び元戦友らの協力によって昭和三

十九年八月十五日に建立さりました。

形式は日本最古の宝篋印塔を大きくしたもので、現地から運んだ石材をもってその下に沖縄の本島と海をかたど

ってあります。

塔の下部には高野山大学講演部の学生らが沖縄本島摩文仁の丘で収集した遺骨百二十柱の分骨をはじめ、各部

隊戦没者の分骨や霊石などがおさめられ、全国から寄せられた英霊の過去帳が合祀せられていて、毎月二十三日

と毎年の記念日に法要を行い供養が続けられています。

昭和三十九年八月十五日終戦記念日  沖縄戦戦没者高野山供養塔奉賛会

 

  

前橋陸軍予備士官学校慰霊碑                                        

      かつて大東亜に雄飛した国際運輸株式会社 華北運輸股份有限公司 蒙古運輸股份有限公司の親愛なる社有の霊ここにねむる

 

高野山  山内   高野山 奥の院表参道

 

鎮魂の霊地

更新日:2009/07/05