演劇ラボ

【演出の仕事】

【演出による俳優教育】

【俳優教育上の演出の立場】

1972年から高山師のもとでスタニスラフスキイ・システムを学び、既に半世紀、今も研究し学んでいる。
メソッドと呼ぶスタニスラフスキイ・システムは、主として俳優を育むシステムであり、
結果として舞台創造に関わる各パートのディレクターを育てている。
スタニスラフスキイは何を望んでいたのか。
弟子のワフターンゴフの言葉の中に、スタニスラフスキイの未来へのまなざしがあった。
『スタニスラーフスキイのシステムの狙いは、俳優が自分の創造的個性を解放する機会を獲得するための、
様々な能力や資質を育て上げることにある。
…創造的個性と言うものは、普段はさまざまな偏見や生活習慣的な枷によって閉じ込められているものだ。
個性の解放とその発揮(表現)こそ、俳優教育の主要な目標になるべきだ。
演劇学校は生徒の創造的可能性を開く道を明らかにしなければならない。
…しかし俳優は独力でこの道にそって進んでいかなければならない。
なぜならそれは教わることの出来ないものだから。
演劇学校の使命は、俳優の中の深く隠された潜在能力の自発的な発現を妨げている、
あらゆる因襲的なくだらない考えを取り除いてやるべきなのだ。』
(「ワフターンゴフの演出演技創造」)

演劇学校を演出、とくにメソッドディレクターと読み替えれば、今の私たちのやるべき事が見えてくる。
システムは炊飯と似ている。『かまど』でお釜のご飯を炊くようなものだ。
システムはお米を洗って水を張ってごはんを炊くとは教えてくれるが、
やってみれば、おかゆのようなごはんや、おこげのごはんになってしまう。
お米の状態やその日の天気、自分の気分でさえも、ご飯の味を変えてしまう。
おいしいご飯を炊くのは、名人芸とも云える。
でもシステムは、おいしいご飯とは何かさえ教えてくれない。
おいしいご飯はこれだと、自分自身が発見しなければならない。
システムは、課題を実行しながら、どうすれはおいしいご飯が炊けるようになるか、
自分自身の探求と自分の立つ状況への探求が欠かせない。
演技は職人芸であり、芸術だと思う。
観客に確実に届く表現のために、身体的な優れたコンデションと創造の為の心のコンデションを、
日々大切に磨き続けなければならない。
限界は、自分が諦めた時に現れる。求め続ければ、常に答えは目の前にある。
演出として俳優に接し、本当に彼らの創造性を十分に解放し、彼らの仕事を全うさせているかどうか、
いつも演出自身が自問自答し、反省しなければならない。

舞台作品において演出は最終責任者だが独裁者ではない。
意思決定者として最終決定するが、スタッフや俳優の上に君臨するわけではない。
演出は、舞台創造に参加する全員の進む方向を示し、
方向を取りまとめ、一つの作品を創り上げる指揮者の役割を果たす。
さらに各スタッフや俳優の、創造的な質の維持と向上に努めなければならない。
特に俳優の創造的な能力の維持と向上には、演出の責任が重大だ。
演出の基礎の大部分は、俳優教育の実際的な知識と経験の蓄積にある。
俳優教育こそ演出の能力を磨き上げる修業の場なのだ。
但し、演出が習得すべき俳優教育の理論と実技は、実際に俳優が学ぶ数倍の量を覚悟しなければならない。
俳優にとって演出は一人だが、演出は俳優が十人いれば十通りの俳優訓練を実施する覚悟が必要だ。
つまり俳優教育とは、一人一人に合わせた課題を考えて俳優の創造の能力を育てていく、
演出力そのものを試される現場なのだ。

【俳優教育のための演出】

・はじめに
俳優教育は、俳優が稽古成果を稽古場でプレゼンテーションすることから始まる。
稽古成果をプレゼンテーションすることは、習慣化することが大事だ。
稽古場で、予習・復習として与えられていた課題を考案したり、
初めて台本を読んだりすることの無いように習慣化しよう。
与えられた課題を、自分で稽古して来て、教室・稽古場で上演する意識を持つように。

稽古場は大勢の俳優やスタッフが時間をやりくりして、創造の為に集う貴重な場だ。
プレゼンテーションに必要なものは、すべて整えてから参加する習慣を身につけよう。

スタニスラフスキーシステムの第一学年・・初めの一歩の課題は、大変素朴なゲームだ。
学生の中には、『なんでこんなことを、やらなきゃならない』と怒りだす者もいる。
もっともだ。まるで歩き出したばかりの幼子向けのように、課題が用意されている。
メソッドの目的は、生まれ変わることだからだ。
メソッドに不満を抱く者は間違ってはいない、人としてプライドも面子も自負もある。
しかしそれが演技創造。舞台創造の障碍となる。
幼子のように率直に、大胆に、集中して、心の枷を取り払って行く。
教室・稽古場では、人間への尊敬・愛情以外、プライドも面子も自負もタブーも取り払って行く。
メソッドが求める俳優は、いまここに人として無垢に立っている人間だ。
本能に従って、歩くこと。見つめること。聞くこと。感じること。模倣すること。叫ぶこと。
メソッドの初めの一歩だ。

課題
メソッドは、初歩と熟練者の課題にそれほど差はない。
演出が課題の実践において、『どのような広がりと深さを俳優に求めるか』、
によって課題の難易度・困難さが決まる。
課題は、俳優の努力と演出の求めるものによってその難易度が変わる。
演出は、俳優がプレゼンテーションしてくるものを受け入れ、
その上で今求めている「課題が理解されているか」、「消化し表現されているか」、
俳優の「表現からなにを感じ取れるか」を判断して、
優れている所は必ず評価して褒め、足りないところは補う工夫をサジェスチョン(示唆)していく。

課題は、複数の教育効果持つものが多い。
『ハンカチ落とし』のような10人前後で輪を描いて座り、回りを巡る鬼がハンカチを落として、
落とされたものは、鬼を追いかける。1周回っても追いつけなければね鬼の交代。
というゲームを課題としても、無言の中で、周囲の座っている仲間の気配や鬼の行動を察知し、
ハンカチの落とされた場所を特定して、直ぐに行動を起こす。
この課題遂行の行為の中に、集中・観察・判断・勇気・行動の発明など、多くの効果が見込める。
演出は、この効果を課題に取り組む俳優のレベルに従って、一つ乃至二つを要求する。
例えば・・・『座っている者は、鬼がハンカチを落としたかどうか、周囲の仲間の反応も観察しながら、
ハンカチの行方を判断するように。』この示唆から、俳優に観察の重要さが伝わる。
羞恥心や遊びに対する反感など、創造の障碍となる心理作用も、『子供のような率直さと大胆さ』で
取り除く訓練になる。

俳優修業の現場では、演出は子供に絵を教えるように、俳優の創造性を見守り、
サジェスチョン(それとなく知らせていく・示唆)していくことが大切だ。
例えば、空を緑色に描く子供に、空は青だと教えるのではなく、なぜ空が緑色なのか?と尋ねることが大切だ。
話された内容が表現されたものより豊かであれば、どのようにすればその思いを表現できるか話し合い、
また話された内容が表現されたものより少なければ、表現されたものを解説して、
観客として何を感じたかを、俳優に説明する必要がある。
その結果、俳優が自分の仕事として何を為すべきかを理解し、創造していくように導くのだ。

俳優は、第三者=観客へ向けて表現するのだから、何を表現したいのか明確に知っていなければならない。
またそれがどのように観客に受け取られ感じ取られたかは、観客である演出が、俳優に解説していく必要がある。
俳優の意図と観客の受取り方に差がある時は、その差が何故生じたかを演出が分析し、
俳優へフィードバックしなければならない。
この共同作業が、俳優教育に演出が必要な最大の理由だ。
ある時は俳優の鏡となり、ある時は俳優の進むべき道の指標となるのが演出の務めだ。

【俳優訓練の実際】

【自己暗示の回避】

演出が立ち会って、俳優がメソッドの課題をプレゼンテーションする時に、
演出は、俳優の自己暗示と注意の集中の違いを理解し、見分ける技術を習得しなければならない。
俳優の自己暗示による表現は、創造の障害となることはあっても、プラスにはならない。
自己暗示は、ほとんどの場合、自分の情緒反応に直接働き掛けようとする、俳優の怠惰の証明だ。
自己暗示に陥る俳優は、徐々に肉体が緊張し、泣き叫んでいようが笑っていようが、
周囲との関係を断って、自分だけの世界で表現しようとする。
相手役の微妙な変化に対応するような、周囲に対する敏感な反応が見られず、
また自分が利用できる様々な道具や装置、照明を省みることもなく、
唯々自分のつくり続ける演技に陶酔していく。

演出は、俳優をすみやかに自己暗示の状態から救出しなければならない。
演出が俳優の表現を停止させる場合、明瞭な指示と説明が必要だ。
なぜ行為を止めたのか、なぜ止める必要があったのか、なにが起きていたのか、
止めなければどうなっていたのか、演出は俳優に説明できなければならない。
注意の集中が出来ている俳優は、演出の些細なアドバイスにも相手役の微妙な変化にも素早く反応し、
自分が利用できる周囲の様々な道具類をすべて視野に入れている。

自己暗示状態の俳優と、注意の集中が深い俳優とは一見似ているが、注意深い演出の観察によって、
簡単に見破ることが出来る。将来の禍根を残さないため、自己暗示状態の俳優を早く救出しよう。

【課題遂行時のケア】

基礎課題を繰り返し学ぶ中には、簡単な課題を遂行しながらより高度な課題に自然と取り組んでしまう俳優もいる。
例えばリラクゼーションを遂行時に、感覚の記憶の再現を体験して、
そのまま状況づくりへ移行する俳優もいる。
温かいという感覚を感じ、そのまま陽だまりの匂いの記憶が現れ、ついには思い出の海辺の再体験へと進んでいった。

課題の結果として優れているように見えるが、これには重要な問題を幾つか含んでいる。
一つは、この俳優がリラクゼーションをし続けていたかどうかが大きな問題だ。
もしリラクゼーションが中断していた時には、俳優が再体験した感覚の記憶から、
自己暗示的な状態に移行していった危険性がある。

自己暗示的な状態は、ほぼ筋肉の緊張を伴う。
気持ちだけが先行して、体の行為が停止しているときが多い。
この場合は、リラクゼーションの徹底、つまり身体の状態の点検を実施し、
体を緊張から解放することで自己暗示状態から脱出する。
またリラクゼーションを継続し、感覚の記憶の再生も注意深く行われていた場合でも、
再体験した記憶された状況によって、感情の記憶の暴発が起こりやすいことも事実だ。

感情の記憶は、悲しみや怒りといった具体的な情緒として発現することは少なく、
俳優自身には胸のうちに高まる不安として(時には呼吸困難や吐き気として)現れる。
演出には俳優のデスマスク的な表情や呼吸の異常として感知されるときが多い。
この状態から脱出するためには、拍発声や呼吸調整を行う。

しかしそれも無事クリアした場合、演出は俳優が自分のコントロールを見失わないように導きながら、
俳優が発見した課題の遂行を援助しなければならない。
 
同じ課題を俳優達が演出にプレゼンテーションしても、演出が俳優に同じサジェスチョンを繰り返すことはない。
課題遂行の結果が問題なのではなく、どのように取組み、どのように工夫し、どう表現したか、を演出は評価し、
俳優個々に適したサジェスチョンをしなければならない。
つまり、一つの課題でも十人の俳優がいれば十の作品になるのだ。
そのように俳優一人一人に適応して指導し、見守っていかなくてはならない。

・課題「観察」と「表現」について
俳優訓練の初歩の課題「観察」は、俳優の基礎技術として生涯俳優を助けていく武器になる。
「動物や人間を観察し、その姿を再現する」というシンプルな課題の中に、演技創造の重要な糧が含まれている。

「観察」の初めは、観察した対象の些細な行為まで、注意深い観察の成果として再現することを求める。
この段階では、『ものまね』レベルで十分だ。といっても、
観察した対象の『テンポリズム・行為の特徴』は表現されていて欲しい。
その中で演出は、対象の合理的な行為を推測し、俳優が再現した行為との差異を見極めて、
俳優に観察した時の状態と感想を求めていく。

「観察」の次のレベルでは、観察した対象を俳優自身がどう感じたかを表現することが求められる。
例えば敏捷な小動物を観察した場合、落ち着きの無さや素早さなど、
俳優がその対象からどんな印象を受けたかを確認し、
その印象が観察した対象のどんな行為から生じているのか、そしてその行為を再現できるのかどうか、
できなければどうすればその行為を、人間にできる行為で表現する事が可能か、実験することを求める。
これは行為のシンボル化であり、観客が特殊な行動の特徴から様々な性格を推測し納得出来ることから、
登場人物の性格表現につながる事を理解し、レパートリーとして習得して行くことを勧める。

次のレベルでは、俳優が観察した対象に感じた情緒……例えば悲しそうだった、
楽しそうだったなど俳優が感じた感情(俳優が感じた、対象自身の感情)が、
対象のどのような行為によって感じたのか、
より注意深い観察の再現を求めていく。

その結果俳優は対象の行為の再現、または工夫された表現によって、
自分が感じた感情を観客が感じ取れるように表現して行くことが求められる。
もし観客に、俳優自身が感じた情緒が生じないとしたら、その原因を突き止め、
自分の表現をより工夫していかなければならない。

これは基礎技術の習得の中でほぼ最初に体験する舞台創造の実際的体験だ。
対象を注意深く観察する俳優と、ただ俳優を見ている観客とでは見る姿勢がまったく違う。
そのため観客に分かりやすい工夫、おそらく多少の誇張や省略が必要となる。
これが、現実(リアル)と舞台創造というリアリティ(真実感)の違いであり、
俳優の演技創造による『表現』だ。

演出は、課題遂行時にこのようなレベルへの移行が誰にでも出来ると考えてはならないし、
全ての俳優が必ず実行しなければならない課題と考えてもいけない。
個々の俳優の能力や特徴にあわせて、課題の深さを求めていかなければならない。
また、俳優の理解の仕方に合わせて、それぞれの俳優が理解し易いように、
サジェスチョン(示唆)も工夫していくことが必要だ。

・想像力の育成
演技創造の現場では、想像力が大きな推進力となる。
台本から演技プランを組み立てる時、まず俳優が取り掛かるのは、状況(場の状態)の把握だ。
屋内ならば、何処にドアや窓や家具があって、それぞれどんな模様で色合いなのか、その家はどんな間取りで、
登場人物は家の中の何処にいるのか、朝か昼か夜か、食事は済んだか、何か飲食しているか、など。
台本から分かること、想像できることをまとめて、状況を把握しなければならない。

次に登場人物どうしの関係の把握が必要だ。どんな人間関係が考えられるのか、台本を元に推理して組み立てていく。
親しいのか、対立しているのか、俳優自身の人間関係も参考に、観察し推測出来るような、状況の把握をしていく。
そして自分の役も、どんな身体的特徴や行為の特徴があるのか、話し方や物の見方、
性格のあり方などを想像して組み立てていく。
既に分かるように、単に想像といっても、実際の様々な知識や体験の裏付けがなくては、
何物も想像出来ないことが理解されるだろう。
演出は俳優が想像しやすいように、発見の糧となるアドバイスを俳優に提供しなければならない。

ここで大切なのは、演出が知識を直接俳優に与えるのではなく、俳優が自分の力で発見する手助けをするのだ。
自分で捜しだし理解した知識と発見は、人に与えられた知識とはまったく異なる、
可能性と広がりを持つことを忘れてはならない。
演出の提示した道の中で俳優が発見した演技の糧が、舞台創造の深さを求める段階で、
どれ程舞台創造の助けとなるか計り知れない。

・テンポリズム
日本語には聞きやすいテンポリズムがある。
演出の落ち入る罠として、聞き取りやすい演技がいい演技で、
方言やテンポリズムの乱れた演技は分かりにくい、「よくない演技・へたな芝居」という。
しかし、演技は戯曲の朗読ではない。ましてや、戯曲の説明でもない。
演技は、身体行動や言葉の勢い、抑揚など人間の営みすべてを表現としているのだから、
テンポリズムの変化は、重要な表現だ。
テンポリズムを変えながら演技出来る俳優は、とても優れた表現者だ。

人間のテンポリズムそのものは、心理的にも生理的にも物理的にも、ある狭い範囲の変化しかない。
しかしその微妙な変化は、様々な意味を観客に伝えることができる。
演技は、音楽と同じようにテンポリズムによって構成されている。
テンポリズムを速くするというのは、単純にセリフを早口、動きを早足、ということではない。
ポドテキストを速く励起することや、体そのもののテンポリズムを変化させることだ。
登場人物の性格描写や感情表現に大きな効果を上げる、行為のテンポリズムの変化は、
アニマルエクササイズで習得した、様々な動物の行為の描写を活用出来る。

演技と言う「観察・適応・対応・表現」を支える情動・行動の変化に、俳優を不安にさせないことだ。
俳優が演技行為によって感じ取った自分の中の情動を、勇気をもって活用・表現するように支援することだ。
それがテンポリズムをコントロールする演出の力となる。
演出の勘違いがよくあるのは、登場人物の「行為のテンポリズム」と「言葉のテンポリズム」の違いがある。
登場人物が病気や怪我をしていると言って、常に「言葉のテンポリズム」が遅い訳でも無いし、
「行為のテンポリズム」が一定のテンポを維持できる訳でも無い。
俳優が演技の中で、どういう目的でなにをするか、意志の表現として、テンポリズムが活用される。
難しいのは「行為のテンポリズム」と「言葉のテンポリズム」が異なる時、
どのようにそのテンポリズムを維持し表現していくかということだ。

・行為の論理
行為の論理とかいうととても難しそうだが、そう言って偉そうにしないと、間が持たない。
実はとても簡単なことだ。
『鍵を捜す』エチュードを考えよう。
・いつ・・・朝、仕事に出かける直前
・どこで・・自宅、自分の部屋。机や棚や箪笥、テーブル、椅子など何処に何かあるか知っている。
・誰が・・・私。
・どうして・出かけるために鍵をかけようとして。または持ち物点検して。
・どうした・出かけるのに自宅の鍵が無いことに気がついた。
・どうする・鍵を捜す
という前提条件が示される。
さあ鍵を捜そう・・・その行為の論理を考えてみよう。
まず前提条件にプラスして、自宅の何処で、鍵が無いことに気がついたか。
その瞬間から捜す行為の順番・流れを考えてみよう。
1.行為<鍵をかけようとバッグをあけて、鍵が無いことに気づく>
2.行為<バッグやポケットを捜して、鍵が無いことに気づく>
3.ポド『昨日帰って来て、鍵を開けて、その後鍵をどこに置いたか・・机の上』
4.行為<靴を脱いで、机の所へいく>
5.行為<机の上を見る、無いことを確認>
6.行為<机の回り、下を見る、無いことを確認>
7.行為<鍵を何処に置いたか考える>
8.ポド『そうだ机の前に台所、冷蔵庫からジュースを出した』
9.行為<台所へ行き、そのあたりを見ながら、冷蔵庫を開ける>
10.行為<冷蔵庫の棚に鍵を見つける>
この1から10までの一連の行為が、行為の論理に従った表現行動『演技』だ。
行為の論理は、演出が俳優の演技に違和感を感じた時に、最初に確認する項目だ。
日常的な何気ない行動、椅子に座る、紙に字を書く、普段無意識にしていることが、
演技表現になったとたん、行動の順番・流れがガタガタになる。
原因は俳優の緊張であったり、行為の目的への焦りであったり、様々だ。
演出は俳優に、いま演じられたことを繰り返して、行為の論理の点検を示唆する。
行為の論理が正しければ、日常的な行為が演技化され、無駄な行為が削られて、
観客・俳優・演出の状況への信頼を確かなものにする。

看板 【演出するあなたへ贈ることば】


隠居部屋 あれこれ
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