【俳優との仕事】メソッドの演出は、ストレートプレーを基礎として舞台演出を学ぶ。俳優との仕事は、もっとも大切な舞台創造の中心的仕事だ。 ストレートプレーを基準にして、俳優を支援する。 ・ストレートプレー ストレートプレーは、台詞劇とも呼ばれ、音楽劇やミュージカルなどの舞台作品と区別される。 現代欧米の演劇『ストレートプレー』は、確実にギリシャやイギリス、シェイクスピア劇等の子孫だ。 暗黒の中世宗教劇時代を生き延びて、舞台作品としての様々な遺産を継承している。 日本現代劇は、散楽、神楽、田楽、太神楽、能、狂言、歌舞伎の子孫だろうか。 日本では奇跡的に、散楽、神楽、田楽、太神楽、能、狂言、歌舞伎を今も鑑賞することが出来る。 日本の舞台作品を見るとき、いまもなお平城・平安からつづく表現者の息吹を感じる。 日本の現代劇は、確かに古代からの芸能をルーツとして、その子孫に違いない。 先祖たちの遺産は膨大だ。ただ、私たちの多くが気づいていない。 舞台作品を見る時に、私たちは先祖の心を受け継いでいる。上手・下手も上座・下座の認知の中にある 演出は伝統芸能を含めて舞台作品を出来る限り見てほしい。 メソッドは演じ方を学ぶのではない。あらゆる表現者に共通する、表現者の創造の法則を学ぶ。 それは、散楽、神楽、田楽、太神楽、能、狂言、歌舞伎にも、欧米の舞台芸術にも共通する。 舞台作品において、より良い成果を獲得できる上演とは、一人の芸術家の努力の結果としては生まれない。 舞台作品は、一人の芸術家の意志によって支配されるようなものではない。 上演に参加するスタッフや俳優は、より良い上演を目指して、集団として統合・調和した意志と目的を持つ。 集団的舞台創造は、各々が専門家として役割を果たし、信頼と尊敬をもって共働する時に生まれ、 最大の成果を得ることが出来る。その時、私達は舞台芸術の総合性という特色に気が付くだろう。 メソッドの芝居は舞台作品に関わる全ての専門家や俳優が、責任を平等に担ってその努力を舞台創造に傾注する。 俳優は舞台創造の責任と義務を果たし、舞台創造の中心という信頼を獲得しなければならない。 言い換えれば俳優の演技創造に責任を持つ演出は、俳優の舞台創造の障害となるあらゆるものを排除し、 俳優の自由な創意と表現を促していく努力をしなければならない。 【演出と俳優の係わり】俳優は人間。彼の内には精神、感情、知覚が含まれている。俳優は舞台創造の素材というだけでなく、彼自身が創造者だ。 しかし演出と俳優の係わりの中で、不幸な時代が長く続いている。 多くの演出家は、俳優の姿形、声色、運動能力が大切な要素だと見ている。 そして演出家の望む演技の鋳型に、俳優を押し込んでいく。 演出家の仕事は、準備された演出プラン・舞台上の行動プラン(ミザンスツェーナー)にみることができる。 演出家のプラン通り忠実に実行し、振り付け通りに真似をすれば、演出家は俳優に満足だ。 この方法が俳優のロボット化を招く。つまりクレイグ流の人形になる。 映像作家の映画監督やビデオディレクターなら許されるだろう。映像のための演技は彼の作品のためにある。 舞台作品は、俳優を表現者として、大勢のスタッフの努力の成果だ。質が違う。 もう一つ大きく間違った演出法がある。この演出家は俳優がある瞬間にどう感じたかを大変気に掛ける。 俳優が正しい情緒(感情)を感じさえすれば、肉体はそれに相応しい行為を生み出すと信じている。 演出家は、俳優にその役が必要とすると思われる情緒・感情を指示する。 俳優は演出家のイメージした演技「・・・らしさ」を演じる。 クレイグ流よりも生気はあるが、しかし依然として演出家の操る人形にすぎない。 いずれの場合にも俳優の才能が必要とされ、鍛えられることはない。 メソッドの演出は、『俳優の創造』こそ、自分の舞台作品の資源だということを知っている。 俳優の「優れた肉体や様々な感情を必要に応じて喚起する能力」だけではなく、 俳優の「人生における経験、人生に対する姿勢、社会に対する姿勢、人として生きているすべて」が、 舞台創造の資源なのだ。 この素材は常に変化している。演技は俳優の人生の一瞬であり、俳優は変化する。 この要素を承知するならば、俳優を演出するために、その成長を阻む一切の障害を克服し、 幼子を慈しむように愛護し育成していくことを、演出は試みなければならない。 川の流れのように無常そのもの、とどまる事のない速やかな変化… 俳優の創造を観客がより感動する舞台作品の方向へと導く、『急流下りの棹さばきのような技』、 これこそ演出の熟達すべき技術なのだ。 【演出と俳優の舞台創造上の関係】創造のパートナーとして、演出と俳優の事例を考えてみよう。舞台監督とプロデューサーのような専門職は、古代から必要とされていたが、 演出と劇作家は、独立した専門職としては近代まで必要とされなかった。 そのためか、20世紀初頭には、とんでもない劇作家や演出家が居た。 二〇世紀の初頭、演劇は劇作家の独占的作品であると信じた劇作家がいた。 彼は、「まず、放逐されなければならないのは俳優だ。 …俳優に才能があれば有るほど、俳優の劇作家に及ぼす専横が甚だしい。 これは戯曲のために良くない。 …俳優は朗読者によって取って代わられるべきだ。出来れば俳優自身が朗読者と成るべきだ。 朗読者は舞台の近く、どこか片隅にひっそりとつつましく腰を下ろしているべきだ。 用意が整ったら、最初に戯曲の題名、作者の氏名、配役、劇作家のト書を読む。 続いてどんなに瑣末な物であっても、あらゆるト書を含めて戯曲を読む。 その間に幕があがり、俳優達が姿を現し、台本の朗読によって要求される動きをやってのける。」 彼によれば、俳優には人形や機械と同じ機能が求められ、表現者としての義務も権利も認められていない。 しかし「俳優が人形だからといって、それで結局なんの違いがあるのか」とその劇作家は言った。 戯曲を朗読することと、戯曲の上演とは全く異なる。 朗読によって文学的に鑑賞できるかも知れないが、演劇としての価値は全く無い。 演劇は舞台作品として、大勢の専門の技能者が力を合わせて創造して行くものだ。 劇作家も専門の技能者の一人として、舞台作品へ統合される仕事の一つなのだ。 演劇が演劇である最低限度の枠組みは、そのライブ性にある。 即興性や偶発性なども感じられる、ライブな観客と表現者の交感こそ、演劇の根源的な魅力でありパワーだ。 築地小劇場の小山内薫も学んだゴードン・クレイグという演出家は、演劇には劇作家も俳優も必要ないと宣言した。 クレイグが劇作家を必要ないといった背景には、演劇を文学化する傾向にある劇作家達への反動だが、 俳優を必要ないといった真意は完璧に演出の指示通り繰り返し上演できる能力… まるでアンドロイドやロボットのように、人間を越えたスーパーマリオネット(超人形)が 舞台で演じるべきだという主張のものだった。 もし彼が今に生きていたら、映像の世界、特にコンピューター映像の世界で活躍していたかも知れない。 俳優が舞台創造の主体であるという考えは、大変古くてまた新しいものだ。 多くの劇作家や演出家が、俳優の舞台創造を信用していない時期が長く続いている。 今もその状態が続いているのかも知れない。 多くの演出家が、舞台創造の稽古場で演技指導という演技の振付けを行っている。 だけではなく、台詞の言語化・・物言い・・まで実演して見せる。 俳優の演技創造を待ちきれないとか、「スターシステム」によって、 スター以外の俳優を、大切にしていない。など、原因は数多く有るだろう。 特に、演出に依存している俳優もいるのではないか。 演出の言う通りにしていれば、考えもせず努力もせず、稽古が早く終わり、 演出に認められる芝居ができると、勘違いしている。 俳優が舞台創造の主体であり、演出にとって舞台作品を作り出す大切な素材であるという考えは、 多くの優れた俳優自身の手によって裏切られてきた。 演出と俳優の共同の仕事 A:演出に幅広い経験があり、教養もあり、稽古する戯曲の内容に深く理解と意見と信念を持っている時、 もし俳優が経験が浅く、限られた素養や、その戯曲の上演には不十分な知識しかないときには、 この二人の共同の結果はどうなるか? 演出の仕事は創造的な性格を持たざるを得ず、俳優の仕事には創造的要素が何一つ存在しないかも知れない。 このケースでは創造上の相互性はあり得ない。 しかし優れた演出は、俳優に演出自身の演技を振付けして、俳優の演技創造を台無しにしない。 俳優に様々な機会を捉えて示唆し、演技創造の気付きと目的を持った行為を発見発明してもらう。 このようなケースは演劇学校に多く見られる。 公演を控えた稽古では無理かも知れないが、日常的な訓練ならなおさら、演出は俳優の成長を見守り、 より優れた演技創造へ至るように、「待つこと」が仕事となる。 演出は、俳優の演技によって観客の心を動かした「結果」を求めるのであって、 演出が気に入った「演技」を求めるべきでは無い。 どんな表現でも、演出が求めた観客の反応が生まれるなら、それは素晴らしい演技なのだ。 どんなに優れた演技でも、演出が期待する観客の反応が生まれないなら、それは演技でも、表現でもない。 どんなに未熟な俳優でも、演出は彼から学ぶ事がたくさんあるはずだ。 俳優が生きている事そのものから、演出は学ぶ事がたくさんあるはずだ。 表現は常に変化している、その変化は、今生きている人から学び続けなければならないものだ。 創造上の相互性はどのような時にも消える事無く、表現者としてお互いを常に尊敬するところから芽生える。 B:次にまったく逆の立場であったら? 演出には経験や素養もなく、戯曲の理解も足りず、俳優は経験も知識も豊かで、 戯曲の理解も深い場合、おそらく俳優が演出を支配するといえる状態になるだろう。 自然の成り行きとして、演出は彼の創造上の特権を失い、俳優に対する指導的な影響力を失う。 俳優は、演出の示唆や指示が不明瞭であったり、ぐらついていたり、一貫していなかったなら、 本能的に俳優自身の考えを表現すべく、彼の選ぶがままに振る舞うだろう。 その結果舞台創造は、あらゆる面で必ず統一感の欠如に悩まされる。 演出は、学ばなくてはならない。座学ではなく、実地の体験として、演出とは何かを学ぶ。 演出は必ずしもあらゆる舞台創造の技術(美術や照明、音楽等)に精通し優れている必要はない。 同様に演技力が優れている必要は全くない。 しかし舞台作品として描く人間のその土台となるような人生に真摯に向き合い、 知識や洞察力に、誰よりも徹底した理解と深さを保持していなければならない。 人生や人間こそ舞台芸術の源泉だから、人生や人間をより探究し続けることが求められる。 演出は、[あらゆる部分を統合して、調和する統一体とする]という、 舞台作品における基本的なルールを守るために、常に努力を怠ってはならない。 【俳優の創造的役割】演出の課題は、俳優の創造的資質を十分に活用する事だ。それは俳優の努力に正しい方向を示す事。演出の示唆が俳優に理解されること。 一方、俳優は演技創造に柔軟性を保つように努力しなければならない。 言い換えれば、自分の正しさを最も疑うのが俳優自身であって欲しい。 どんな事でも解決済み・決定済み・完成、としてはならない。 いつも新たな発見や発明を求めて、物事を注意深く受け入れて欲しい。 演出も俳優を機械的にコントロールせず、俳優の自由な創造力を保ち、 何者もこれを妨げることがないように努力すべきだ。 俳優の自由な演技創造とは、予期された刺激に対する俳優の反応が、 予期されない刺激に対する反応と同様に、私達にリアリティ(真実感)を感じさせてくれることだ。 俳優の創造的役割は、反応の完全な自由ということを含んでいる。 言い換えれば、何物にも拘束されたり、制約されたりしない俳優の自由な発想の表現と言える。 しかし注意しておくが、ルールに縛られない自由は無い。 俳優の創造の自由とは、台本の許容する範囲に縛られる。 死なないデスデモーナもジュリエットも許されない。 舞台上で俳優は好き勝手して良いのではない。 よりよい舞台作品を作る上で、そのルールに則った自由が確保されなければならない。 ましてや、俳優自身の個人的な忌避で、演技創造を偏ったモノにしてはならない。 演出が俳優の健全な心身を守ろうとするように、俳優自身も自分を大切にしなければならない。 ここに俳優が基礎技術の修得と日常的訓練を必須とする諸問題がある。 青年期までに家庭や学校や仕事先で教えられてきた、○○すべき、××してはいけない等の、 規範意識や生活の中で植え付けられた禁止命令が、心の柔軟な発達を妨げて、 成人期にまで無意識にその枷に囚われている可能性があるからだ。 メソッドの基礎訓練は、「子供のような率直さ」と言われるように、様々な心の枷を取り払うために実施される。 【演出のアドバイスとサジェスチョン】演出の仕事は、具体的で分かり易いアドバイスとサジェスチョンから成り立ち、「こうしなさい」「こうすべき」という指示や命令を発するものではない。 俳優が進む、演技創造のための道を指し示すだけだ。 演技のための行為を、発見するのも発明するのも、俳優自身の手でしなければならない 演出は、『ほのめかし』『クイズ』『選択肢の提示』など、示唆を通じて、 俳優自身がいく道を発見、発明するように導く。 俳優もまた、諦めずにいく道を求めて行くことが大切だ。 稽古に入って、いきなり俳優から演技の完成品を受け取ろうとするのは、演出家の有害な行為の一つだ。 しかし不幸にして、このような演出家が多い。 演出家が「ここで君はちょっと笑うべきだ」と求め、俳優は当惑しながらも強いて笑おうと努める。 「ここで君は泣くべきだ」、そこで俳優は涙を流せる記憶を刺激すべく、あらゆる手段を動員するだろう。 しかしそれは明らかに嘘であり、「・・・らしい」紋切り型の演技になる。 結果はわざとらしい、こわばった、不自然なものだ。 感情とその表現は、行為の積み重ねによる結果だ。 俳優は、内的な状態を表現するために、観客にも納得される行為を積み重ねなければならない。 そこには近道はないが、そのルートを進めば、俳優は彼の真の目的地へ行き着ける。 この過程はどのように展開されるのか? 俳優は何よりも先ず「登場人物」として、何を目的として行動するかを理解する。 そして目的を持った行動を、行為の論理に従って積み重ねて行く。 登場人物の感情は、俳優の目的を持った行動の中で「ささやかに」生まれる。 俳優自身が感じ取って、表現しなければならない。 俳優が、目的を持った行為に気づけるよう、演出は示唆(サジェスチョン)するだけだ。 演出が俳優に感情をすぐに表現するよう求めることも、演技を振付けすることもあってはならない。 俳優の演技創造の過程を、破壊するだけだ。 行為の論理・テンポ・リズム・注意の集中 一流の指揮者はオーケストラのメンバーに、リズム・テンポ・アクセントを要求する。 強く弱く、早く遅くなどと演奏することで、各楽器は感情(情緒)を表現できないのに、 奏でられた音が演奏者や指揮者だけでなく、観客にまで感情的な交感・共感を生み出していく。 音楽を聞いて単に心地好いだけでなく大きな感動を味わえるのはその為だ。 しかし指揮者は演奏者に「泣くように、笑うように演奏しよう」等とは求めない。 ゆっくり優しく丁寧にとか、早く激しく強く等と、全て行為の方向として指示している。 演技も同じ。演出は俳優に[演技創造の結果]即ち「感情の爆発または発露」を直接求めてはならない。 笑いにしても悲しみにしても、感情的な反応は、俳優が目的をもって遂行した行為の過程で生まれてくるものだ。 だから何時も新鮮で即興的な表現を、台本のレールの上を走る演技プランの中で創造していくことが出来る。 その為に俳優は、自分の行為の過程で生じる感情的な反応「感情の芽」を見逃さない、「注意の集中」が必要だ。 演出は、俳優のどんな些細な行為であっても、目的や方向の中途半端なものを見逃さない。 行為の論理の欠如やテンポリズムの破綻、注意力の散漫を見逃さない。 つまり嘘やあいまいさを許さないで、動機の明らかな、行為の積み重ねを求め続ける。 感情を直接演じることは出来ない。また感情を演じられるかと心配する必要もない。 確かな行為の実行ができれば、感情・情動は常に新鮮な輝きをもってやってくる。 もし俳優が感情を演じようとすれば、まるでゴム印を捺すような感情の形骸化、 …平凡な「・・・らしさ」という代用品を観客に提供するだけだ。 俳優は、舞台の上に行動するために立っている。その場合のみ彼は生き、感じる事が出来る。 感情が訪れるのを待ってはいけない。早速行動する。俳優は行動することで表現の創造ができる。 もし演出家が俳優からいきなり感情表現を要求するなら、彼は俳優を泥沼に陥れ、創造の道を遮断する。 これは大多数の演出家の明瞭な間違いだ。 演出が俳優に求めるのは、感情の物真似ではなく、俳優が発見した行為の結果生まれる感情。 演出は俳優に何を目的として、何を行うべきかを語る事が出来なければならない。 俳優に「どう感じるべきか」を命令すべきではない。 「行為」が「感じる」ことと異なるのは、そこに存在する意志の問題だ。 そこへ行く、其れを見る、触る等から始まって、説得する、なだめる、お願いする、別れを告げる等、 これらの動詞は目的を持った行動を指し、意志を表示している。 俳優はこのような動詞の示す行為ならば、その背後の動機を理解し、何時でもその行為を実行できる。 このような示唆の言葉は、演出の武器として大変有効だ。 その他の動詞、興奮する、哀れむ、笑う、腹を立てる、泣く、悲しむなどは感情を表現している。 従って俳優の仕事を示唆する言葉としては用いるべきではない。 演出は、俳優に演出上の問題を説明し、同時に場の状況及び登場人物の基本的な疑問の解答を示唆する。 1:行為(何を行うか、行っているか) 2:欲求(何を欲するか、目的はなにか) 3:方法(いかにして其れを行うか) 例として、暗い部屋に幽閉された人間を描く場面を考えよう。 その人間の精神状態を台本から分析した結果、全く絶望状態だという結論に達した。 しかし演出が俳優に絶望を表現するよう、いきなり要求するなら、とんでもない間違いを犯すことになる。 絶望も一つの感情だ。俳優は演出に最低限の抵抗を試みつつ、陳腐な「らしい」表現を実演するだろう。 頭を抱えたり、髪の毛を毟ったり、唸ったりもするかも知れない。 しかしこのような表現は、感性豊かな俳優にとっては納得できないものだろう。 これを避けるためには、演出は俳優が絶望の感情を喚起し得る方法を、示唆していかなくてはならない。 演出は、幾つかの疑問を提示してみる。 その人間はどんな人物だろう どんな性格だろう そのような性格の人間だったら現在の状況で何を行っているだろうか? またなにをしようとしているだろう。 そしてなぜそれを行っているのか? 「君はこの牢獄から逃げようとしている。窓や天井の状態、格子の材質や強さ、床の状態・石なのかタイルなのか、 床を掘れるのかどうか、様々な可能性を調べたらどうだろうか?」 俳優はたちまち行為の実行に忙殺される。そしてその行為の中で、感覚の記憶や想像上の対象と係わり、 より具体的な感情・情動を感じ取れるだろう。 演出は緊密に関連のある即興の課題を俳優に提供することで、俳優を感情的な状態へ高めることが出来る。 俳優の注意は、間断なく彼が行っている行為によって占められ、 自分がいかに感じるべきか、感情をどう作るかについては考えることもない。 その結果感情・情動とその表現とは、目的を持った行為の副産物として、常に新鮮に生み出すことが出来るようになる。 |
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