演劇ラボ

【演出の仕事】

【俳優との仕事02】

【演出の実演の是非】

 演出のアドバイスとサジェスチョンは、口頭の説明と実演という二つの方法で俳優に伝達される。
口頭の説明が優れているのは、演出がどんな説明をしても、結局俳優の積極的な参加がなければ、
なにも生み出されないという点だ。
演出が実演して俳優に見せるときは、登場人物の心理的なもの(内的状況)やもの言い(抑揚)ではなく、
舞台機構や舞台装置上の制約など、特殊な舞台上の問題を解決する為だけに限るべきだ。
もし実演を演出の技術の一つとして認めるなら、その価値を判断して、
俳優が最も利益を得るような環境を検討しなければならない。
実演には大きな危険がある。多くの場合、俳優を演出の意志に従属させ、演出自身の演技の模倣にしかねない。

演出家が実演してみせるという方法が、多くの劇団に幅を利かしているのは当然だ。
安易に演出の意図を明らかにし、演出の求める演技を獲得し易いからだ。
人間は心弱く怠惰な動物だ。そこに答えが有るのに、他に答えを捜しに行こうとはしない。
多少に拘らず演出家が実演してみせる演出方法が、マンネリと形式主義とに悩む劇団の
すべてにおいて幅を利かしているということは当然のことだろう。

しかしこの方法には、演出の説明や示唆が役に立たなくなった場合、俳優を鼓舞して刺激する大きな効果を持つ。
そしてこの方法は時間の節約にも大いに効果を発揮する。
もしこの方法を選ぶならば、この貴重だが危険な道具を用いるに当たって、使用を規制するルールを設定しよう。
演出が自覚すべきことは、実演と言う方法が演出の仕事の基本ではないことだ。
演出の仕事の基本は、分析であり推理・想像・説明・示唆だ。命令や強制はあり得ない。
実演の手法は、ある条件下においてのみ用いられる最後の手段と考えよう。

先ず実演の指示が有効な場面とは、『俳優が創造的な状態を維持している』時。
この場合には、俳優は機械的に演出の実演を受け入れることはないだろう。
演出の実演の中から、俳優は自分の創造の糧を必要なだけ取り入れて、新しい創造を実行していくだろう。
もし『俳優が受身的な状態にある』なら、演出の実演は測り知れない害悪を及ぼす可能性がある。
俳優は演出が見せた実演を真似して、自らの創造を放棄するかもしれない。
演出の実演が見事であればあるほど、反比例して俳優の創造の障害となる。

演出は実演で演技表現のたくさんある可能性の一つを示唆するような表現を試みるべきだ。
演出の実演で台詞や行為を、特殊な場面の特殊なこれ一つだけというような表現をすることは、
演出の大きな間違いの一つだ。
演出は台本にそって色々な即興を考え、俳優に様々な表現があると気づいてもらう必要がある。
演出の実演は月並みなものを示し、特殊な表現であってはならないし、完成された演技を示すべきではない。
演出は俳優を示唆によって正しい方向へ後押しし、役の多くの表現の可能性を明示するだけにすべきだ。
実演で示した示唆は、俳優が演技をより大きく膨らませる要素を、
俳優自身が発見・発明できるように手助けすべきものなのだ。
俳優は演出からデッサンとして受け取ったものを、独力で発展させ完成させなければならない。

結論として、演出の実演は仕事の他のあらゆる方法と同じく、俳優の創造的エネルギーに正しい道を示すという
一つの目的のための多くの手段の中の一つにしか過ぎない。
演出と俳優双方に慎重な配慮があって、実演は初めて報われる結果をもたらすだろう。

【実演する演出の心得】

俳優に実演して見せるに先立って、演出はその俳優の立場に身を置き、俳優に理解出来る表現で示すべきだ。
演出は、二人の俳優に彼らが同じ役を稽古していても、全く同じ示唆はしない。
演出は、個々の俳優の能力を理解・評価・認識して、それぞれの俳優と本当の協力関係を確立することが出来る。
その名に値する演出は、常に俳優が俳優自身の創造的個性を発揮することを求める。
メソッドの演出は俳優の個性的な能力を発見し、それを守り、拡大していく。

これに反する演出家は、俳優の内部に存在する創造的材料を無視して個性を窒息させ、
演出にとってもっとも大切な創造の源を損なって省みない。
俳優を手前勝手に便宜的に利用する、このような演出家は、どんなに巨大で高名巧者であろうとも、
また彼を信奉する観客をどんなに感動させようとも、彼の俳優の大多数は存在感の乏しい紋切り型の人形だ。
彼は、未来の素晴らしい舞台作品が生まれる可能性を、彼の欲で摘み取っている。

演出は俳優の自発的な創造が働くようにする労を惜しむべきではない。
俳優が自分で行動・演技を発見・発明し、演出は彼に何を残し何を捨てるべきかを示唆すべきだ。

しかし現実に求められている演出は、俳優に何を表現するか指導出来る演出家だ。
俳優は、表現の完成寸前まで来ながら、表現すべきものとすべきでないものを選び損ねて、
混沌から抜け出せずにいる。
演出は、俳優の表現すべきものを、俳優自身に気づいてもらうよう、働きかけをしなければならない。
俳優の心の中の不安や迷い、恐れを感じとらなければならない。
絶えず俳優の立場に身を置くことができなければならない。
その時演出は、俳優の創造を、強圧や負担をかけることなく支援し、導くことが出来るだろう。

ヴァフタンゴフが演出する稽古場で、彼は「○○の場面で君はびっくりした。そこで力を尽くして立直った。
やがて、うまくゆくのに気をよくして、君はもっとよくしたいと思った。するとやり過ぎて自分に嫌気がさした。
そこでそれからというもの、受動的にまったく「しきたりや古臭い形式に則った」といった風に演じた。」というように、
俳優が稽古中に一個人として味わったあらゆる経験を事細かに物語って、当の俳優をびっくりさせた。
ヴァフタンゴフが俳優の心の軌跡と行動の軌跡を明らかにしてみせたのは、俳優を驚かすのではなく、
演技の質を決定するのが、俳優の意志に他ならない事を明らかにするためだ。

ヴァフタンゴフは俳優の観察の描写において、一人の俳優だけではなく稽古中の俳優全員について一時に行ったものだ。
一人の演出が、どうしたら多く俳優に注意を集中できるのか、客観的で在り得るのか、極めて難しい。
しかし、演出を志す私達には、是非とも獲得したい能力だ。

【行き詰まり】

俳優が稽古初日から中盤に至っても同じような演技を繰り返すばかりで、進展が見えない。
演技そのものは充分しっかりしているのだが、どうも迫力や煌めきが無い。
演出が繰り返される演技に飽きたのだろうか、
何処が悪いのかわからない。変化が欲しい。面白くない。行き詰まりだ。
演出は俳優に創造の手がかりを渡すため、必要な手順を踏んでいる。
演出は絶えず俳優の想像力を発揮させるように試みた。
相手役とも充分交流しているように見える。欠点は無い。
しかし面白くない。完成した作品とは思えない。
俳優には才能があり役にも適している。

1)俳優に演技陣の他のメンバーとのその相互関係を明らかにした。
2)舞台の示唆における演出の手前勝手なものは一切注意深く避けた。

にも拘らず、俳優は依然として創造的状態に到達することが無い。
こういう場合に演出はどうしたら良いのだろう?

演出の責任に帰する行き詰まりの原因は、演出の心から生まれる。
演技創造に対する障害が俳優の内にあると決める前に、行き詰まりは演出のせいではないか、
自分自身をよく調べて見ることが大切だ。
  演出が不可能なことを期待して、俳優を苦しめるということはよくある例だ。
優秀な俳優は、おとなしく演出の指示を聞くが、当然の事ながらその指示は何の結果も得られない。
時として俳優も演出もその間違いに気が付かないことがある。
彼らは次第に現実と理想のギャップの沼に深入りしていく。

例えば、演出が俳優に指示を誤ったものとする。
恐らくその指示は、演技の前後と何の論理的つながりもなく、戯曲全体に関わることもまったく無い。
俳優がいくらそうしたくても、そんな指示を遂行するわけには行かない。
指示された課題が、俳優が描きつつある有機的な演技創造にまったく不適合なものだからだ。
でなければ、あるいは演出が俳優にリアリティのまったく無い行為を要求したのだろう。
いくらやってみても、俳優は演出の要求を実現することができない。

演出が俳優にその経験や理解を越えた課題を指示した場合にも行き詰まる。
課題が俳優の素養や現在の理解力にとって困難なものであれば、
俳優が演出の望む表現を出来ないことは当然だ。
演出は、俳優に理解出来る形で示唆すべきなのだ。

創造上の行き詰まりの責任を俳優に求める前に、演出は自分の指示に間違いが無いか調べてみる必要がある。
未熟な演出家、自惚れて得々としている演出家ほど、自分が俳優に負う責任を回避することが多い。
演出家がある仕種や言い回しをしつこく俳優に要求し続ける場合の、異様な根気強さを見るのは辛いことだ。
演出家は思いつきに固執するが、その目的が目の前の舞台創造に必要なものなのか、彼は判断しようともしない。
しかし自分の思いつきをそれ程までにこだわるのは、実は大変珍しく、滅多に無いことだと言う可能性がある。
あまりにも特殊な仕種やもの言いが、観客に必要な内容を伝える事が出来るか、よく考えるべきだろう。

こういう演出家の典型的な特徴の一つは、俳優に対する信頼の欠如だ。
彼にはすべての俳優が才能がないように見えるのだろう。
彼は俳優に何一つ期待せず、こらえ性がなく、要求ばかりする。
彼は創造というものが一つの整然とした過程だということ。
舞台創造も、専門分野の仕事一つ一つも、保護を必要とする赤ん坊のようなものだということを理解していない。
こういう演出家は稽古を始めたばかりなのに結果を要求し、それが得られないと自分自身の手前勝手な指示を押しつけ、
俳優が受け入れを拒んだり、その実行がうまく行かなかったりすると渋い顔をする。
いずれの場合にもこういう演出家は俳優を責めるばかりで、自分を責めない。

メソッドの演出は、彼が愛し尊敬し大切にする俳優やその卵達に対してまったく違った対応をする。
彼は、俳優を責める前に、いつも自分の間違いのうちに失敗の原因と理由を求める。
彼は、至って厳しい自分自身の批判者だ。
彼は、俳優に対する彼の示唆のすべてを、単に真実であるだけでなく、明瞭・単純・簡潔で、すぐわかるように試みる。
彼は、漠然とした散漫な観念として与えられた指示には、まったく効果が無いと言うことを知っている。
彼は、単純な言葉と表現で、ある特殊な関係、ある特殊な舞台の問題の意味をはっきりさせようと試みる。

彼は、過度の理屈や理論で俳優を疲れさせない。
彼は、俳優に彼らの役を考えて語らせるでしょう。
彼は、俳優に必要な時には厳格に、必要とあればやさしく親切だ。
彼は、必要があればどんな俳優にでも自分を適応させる。
彼は、彼の創造が、この世で最もデリケートな最も滅び易い、最も気紛れな、最も敏感な、
最も複雑難解なメカニズムだということ、即ち一個の人間だと言うことを決して忘れない。

【行き詰まり2】

行き詰まりを招く原因を、俳優からも検討してみよう。

1.注意の集中の欠如
俳優が舞台で過ごす間は、絶えず何かの対象に注意の集中をしている。俳優技術の初歩的なルールだ。
相手役を見る。見る振りではなく事実見て観察を続ける。
相手役の言うことを聞く。聞く振りではなく、事実聞いて理解する。
俳優は、自分が得られるものをすべて吸収して相手役に対応し、自分の演技を作りだすことが出来る。

舞台で起きていることを何一つ聞きも見もしない俳優がいることは珍しい事ではない。
このような俳優が無我夢中で舞台に立っている時、演出が求める演技創造はもちろん不可能だ。
彼の演技は形ばかりとなり、彼が行き詰まるだけでなく(行き詰まりを感じるようだと、まだ救いがある)
舞台作品全体が行き詰まりを起こす。

「もし俳優が退場の際に、ただ自分がうまく演じたことだけを思い出すようなら、彼が悪く演じた証拠である。
これに反して、自分がどう演じたか一向に思い出さず、ただ相手役の演じた事だけを思い起こすようであれば、
その場合には彼は良く演じたのだ。」とスタニスラフスキィは言う。
もし俳優が、相手役がいかに演じたかを思い出すなら、彼は絶えず相手役に注意の集中を行っていたことが分かる。
彼は相手役を見て、耳を傾け、表情や行為を注意深く観察し、より一層相手役に自分を即応させ、
影響を与え、また受けとる交流を成立させていたのだ。
スタニスラフスキィは
「彼は生き、自分を相手にでもなければ、観客を相手にでもなく、相手役を相手にして行動していた。
彼は創造していたのだ。」と言う。

注意の集中は、俳優の創造的状態に不可欠な要素の一つ。この欠如は創造に対して重大な障害となる。
困難を除去し、創造上の行き詰まりを一掃するために注意の集中を促すことは、有効な示唆となる。
例えば俳優が聞いている振りをしている時に、その演技が聞いている振りであることを指摘して、
実際に聞くことを求めるだけで行き詰まりを解消できることが多い。
もしくは俳優が舞台で扱う対象に注意を喚起するだけで十分。
俳優はそれらを実行するだけで、以前には消化できなかった舞台上の問題を解決することができる。

2.心身の緊張
俳優の創造的状態に不可欠な要素の一つとして、彼の心身の柔軟性を維持することがある。
俳優の行為に無駄な力みが無い状態。
日常では無意識に行われているこの配慮が、舞台上ではしばしば消え失せてしまう。
俳優は、舞台上で彼の筋肉が緊張しているのに気がつく。
手や膝が震えたり、汗がでたり、雲の上を歩くようであったり、様々な心身の緊張を示す症状に襲われる。
心と筋肉はとても密接な関係にあり、緊張は無意識の興奮を喚起し、開演時の俳優を混乱させたり、行為を妨げる。
もし俳優が舞台上で注意の集中を実行すると、最初の興奮や不安を克服することができる。
注意の集中が心身の緊張を緩和するのだ。
逆も可能。俳優が筋肉の緊張から解放されると心の緊張も克服することが容易になり、舞台創造を助けるだろう。
俳優は、自分の緊張の度合いを習慣的に把握できることが必要だ。
緊張しているときの自分と緊張の無い状態のコンデションを理解することが大切なのだ。

3.正当化の欠如
俳優の創造的活動が可能なのは、舞台環境の一切が彼にとってリアリティを持つ場合だけだ。
舞台は、ピーターブルックが言うように、『なにもない空間』だ。
舞台上のあらゆるものは、全て嘘・フィクションだ。
舞台上のあらゆるものは、俳優の演技によってリアリティを獲得し、観客に信じられるものになる。
だからこそ舞台上のあらゆるものは、確かな意味を持たなければならない。

舞台上の行為は論理的で矛盾なく、動機は行為を生むために明瞭でなくてはならない。
常に新しく鮮やかな創造的イメージは、俳優個々が発明・発見するものでなければならない。
なぜ相手役に「○○」と言わなければならないのか、なぜこの位置に立つのか。
もし俳優に明確でない点が一つでもあるならば、
それは正当化・・意味づけ動機づけされなければならない
さもないと俳優は創造することができない。
些細な行為の不明瞭さが俳優を不安にし、演技創造を脅かす。
演出は俳優に、些細な事柄であっても、不安なものはなにもないことを示唆しなければならない。

4.「創造上の糧」の欠乏
舞台の創造に適切な、蓄積された観察や事実が、過去の稽古で使い果たしてしまったという事はしばしば起こる。
昨日のイメージの繰り返しでは間に合わない。
言葉やイメージはもはや何の新鮮味も刺激も持っていない。
稽古は立往生している。俳優は行き詰まった。
俳優が前進しなければ、たちまち創造の成果は後退し、せっかく勝ち得た地点までも失うのは確かだ。
演出はなにをすべきか?
最良の方法は稽古を完全に中止し、俳優にとって「栄養になる」新しい素材を捜すことだ。
俳優を励まして、登場人物にとって必要な人間観察(人生の特殊な事例)の研究に挑戦しよう。
役柄や性格の背景に関する知識を正直に追及すれば、俳優は必ず新しい本当のものを発見できるだろう。

下記は、テネシー・ウィリアムズ作『罠』の導入部だ。

ドアかすかに開くと、母親は、その外にもう一人いる気配を感して、さらに身を固くする。
#1・娘:(舞台外で)もういやよ、沢山だわ!チャーリイ、あたしをバラバラにするつもりね。
(母は咳払いをして、ひどく体をぴんとさせる。)
#2・娘:シーッ(ドアが外から閉められる。短い沈黙、続いて男の笑い声)おやすみなさい、
チャーリイ、ほんとに今夜は素晴しかったわ。
(彼女が入って来る。グロリァは痩せぎす、熱っぽい顔つきのブロンドで、どぎつい感じの化粧が
舞台生活を物語っている。
「素晴しい晴れ着」の一つであるくたびれた白いサテンのイブニング・ドレスを着て、
手にビルボードを一部持っているが、それをテーブルの上に投げ出す。)

#3・娘:あら、お茶ぴき?
#4・母:お前、何処へ行ってたんだい?
#5・娘:変りばえもしないとこ。
#6・母:いまの男は、紳士じゃなかったのかい?
#7・娘:え?
#8・母:ああいったただの行きずりの男なんか一人だってロクなのはいないよ。
     お前が色々ホテルで会う男達なんか。
#9・娘:こっちもはじめから期待しないわよ、立派な男なんて。
#10・母:それなら、どうしていっしょに遊びまわるの、ベシィ?
#11・娘:え?ああ、またむし返すのね、あたしはもう……
#12・母:どうしていっしょに遊びまわるのさ?
#13・娘:だって、外に出なけりゃ、お母さんと顔をつきあわせていなきゃならないからよ!
     これだけでも立派な理由でしょ?

深夜、田舎の家の居間、帰宅の遅い娘を心配して待っている母親のシーンから、
男に送られて帰宅した、酒に酔った娘との会話。
娘の#3の台詞、母の#4の台詞の噛み合わない台詞のやりとりから、どんな動きが読み取れるのか。
古典的な日本の家なら、
母:何時まで遊んでいるんだい、ふしだらな!嫁入り前の娘がすることじゃないよ。
娘:いいじゃない、誰に迷惑かけているわけでもなし。
母:なに言ってンだい、待ってる私の身にもなってご覧。
娘:お母さんの勝手じゃない、先に寝てれば良いのに。
母:寝れるモンですか。

こんな会話が聞こえてきそうですが、なぜか「お前、何処へ行ってたんだい?」から始まる。
ひとつの考えとしては、母親は随分怒っているが、怒って叱り飛ばしてしまわず、
なぜか娘と会話をしようと努力している・・と考えられる。
その理由は戯曲の中にあるが、その会話をしようと努力しているにもかかわらず、
激しい口調に移行していくようだ。
「どうしていっしょに遊びまわるのさ?」の同じ質問が、2度繰り替えされることから分る。
言葉は同じことを2度言うと、大抵2度目がより強く、大きくなる。(そうで無いこともありますが・・・)
加えて観客には、母親が怒っていることと、その気持ちを押さえていることと、
怒っていないように見せ掛けていることが伝わらなくてはならない。
その動きはどうなるでしょう。娘をどのように見るか、どういう姿勢でいるか、なにをしているか。
とすると、怒っているけど、怒っていることを娘に悟られたく無い、その結果どうなるか・・
極端な場合、最初の台詞を笑顔で言う・・するとどんな行為になるのか。
実際には怒っている。じっと娘を睨んでいる。顔は引きつるように笑顔だ。声は不自然に明るく響く。
このように台本の中の台詞と台詞の組み合わせから、双方の動きを推理し、
その行為の結果に言葉が、台詞が生まれるようにすると、創造の豊かな糧が得られる。

これを「行為の目的」と「行為の論理」の探究と呼ぶ。
行為の論理は、この場合、怒っているから娘を見つめるのでは無く、
見つめているから段々怒りが高まってくるという行為と情動の調和を目指す。
なぜ、何を見たから、怒りが高まってくるのだろう。
逆に母親の怒りを増大させる娘の行為はどんなものなのだろう。
娘の行為は、母親の怒りに、火に油を注ぐようなものでなくてはならないことが分る。
このように、行為の目的とその論理は、創造のための糧を与えてくれる。
演出は俳優と一緒に、発見された新しい視点、考えを俳優の創造の材料として検討し考えよう。

5.感情を演じようとする企て
俳優が情緒の真似をしていると演出が少しでも疑ったら、
それは俳優の稽古を早速中止しなければならない警告だ。
その時最良の方法は、俳優が目的を持った行為を発見するか、目的が明らかな行為を求めることだ。

行為の目的を曖昧にした動きは、雰囲気を表現することはできても、それ以下でもそれ以上でもない。
なにかを観客に伝え得る表現にはつながらない。それを「らしい演技」と呼ぶ。
「疲れたらしい演技」「お腹が痛いらしい演技」「悲しいらしい演技」「怒っているらしい演技」etc。
らしい演技は、一見、演技上手に見えるので、とても駆逐するのにやっかいだ。

一番多発するのは、一度上手くいった演技を再び演じようとして、その演技自体をなぞる『らしい演技』だ。
なぜ、上手く演じることが出来たかを考えずに、単にその雰囲気を再現しようとする時、
俳優は「らしさ」のトリコになる。
演出は、らしさの迷路から、俳優を救い出さなくてはならない。
そのためには、その場で為すべき行為の目的と論理と、ポドと相手役との交流の有無を確認する。
俳優が、遠回りでも着実に成長するよう、演技創造の階梯に登るように後押しや先導していくのだ。

6.嘘が忍び込んで、知らずに進んでいく場合
創造上の行き詰まりは、しばしば演出の気がつかないうちに忍び込む、
一見重要でない嘘の結果として俳優の内に起こる。
嘘がなにげない仕草のような何か些細な行為に現れた場合、沢山の有害な結果が続出する。
一つの嘘はその後に多くの嘘を従えている。
一つの些細な嘘は、俳優のうちに確信が無いという事実の証となる。
演出が俳優の心からありとあらゆる疑惑を一掃することが必要だと強調するのは、その為だ。
演出は俳優の些細な行為に、重大な注意をはらわなければならない。

『ひとつのシーンで、俳優の演技にリアリティを確信するまで、先へ進むことは無意味だ』
というのは、演出の基本原理の一つだ。
もし見逃せば、それを補う時間と労力は多大なものとなるだろう。
些細なセリフに、稽古を一、二回費やしたからといって、演出は閉口すべきではない。
一見瑣末なディティルに稽古を費やすと、その後の場面を演じる俳優の流暢さに演出は驚くだろう。
些細な行為の必然性を理解すると、俳優は様々な新しい発見を得て、元気よく迷い無く演技できるようになる。
台本の消化を目的に、俳優の多くの嘘に目をつぶって先を急ぐやり方は常に避けよう。
俳優のごまかしから生まれ、繰り返されることによって力を得た嘘は、とりわけ根絶することが難しい。
いつも信じられるものだけ繰り返そう。もしそれが鮮明でなくとも心配はいらない。
演技が論理的であれば、表現の輝きは稽古を重ねるにしたがって磨かれていくものだ。

7.俳優の初歩的な行き詰まりの、打開策
問題:芝居が単調に過ぎていく。
・シーンまたはピースで、芝居が出演者全員によって、妙に単調に推移していくことがある。
作者の台詞にテンポリズムが無い、
またはすべての登場人物の台詞が、同じテンポリズムで読み取れるために起こることが多く、
責任の一端は作者にある場合が多い。
そのため、どんなに目的ある行為を探しても、登場人物の言葉が単調に陥ってしまうことがある。
これが、そのような演出効果(お経のような言葉の連なりなど)を狙ったものなら仕方無いが、
演出はなんとかその事態から俳優を救出しなければならない。

解決策1.ポドテキストを徹底して見直してみる。
台詞のポドテキストを、テンポリズムが想像できるまで、徹底して検討してみる。
結果として、個々の登場人物の色合いが鮮やかになり、言葉もシーンを支配しているテンポリズムも、
奥行きと広がりを持つものに変化していく。

解決策2.ピースごとに適合するBGMを流してみる。
言葉は、音楽や効果音(例:虫の声・川の水音・etc)など外側からのテンポリズムに、影響を受けやすい。
ピースごとに外挿音を工夫して、シーンそのものの色分けを、演出・俳優ともに理解する手段としてみよう。
歌舞伎でも台詞のバックに清元の三味線を流したりして、都合良くBGMが使えるようにしている。

解決策3.ミザンスツェーナを検討する。
今までのミザンスツェーナを反転させた位置に置き換えてみる。
上手前が下手奥、上手奥が下手前など、俳優が立つ位置によって舞台上のバランスが変化することを理解して、
その結果生み出される行為の色彩を鮮やかにしてみる。

【俳優を創造へと導くもの】

俳優を創造へと導くものは、
一貫した集中、リラックス、動機の検討、実生活の知識と想像の自在さ。
現実的な行為の問題を解決し、相手役と調和した相互関係の維持、芸術的確信の必要性。
これらの要素が一つとなったものだ。
演出は俳優がこのような要素を一つでも欠くことが無いように注意し、
必要ならば様々な手段を用いて、俳優にこれらの要素を取り戻すよう働き掛けなければならない。
演出が俳優をいかに注意深く大切にしなければならないか、明白だ。
俳優が、どれほどの理解力を、どれほどの鋭敏さを、常に働かせなくてはならないか。
しかしその俳優の能力は、演出が俳優を愛し大切に思うならば、自然と発達していくだろう。
演出が舞台に何一つ機械的に強制することがなく、俳優の表現が内的で芸術的な真実を獲得するまで、
演出が忍耐強く求め続けるならば……。

看板 次へ


隠居部屋 あれこれ
演劇ラボ