演劇ラボ

【演出とはなにか】

【はじめに】

舞台の演出を仕事として選んだ「あさはかさ」を、いつも私は噛み締めている。
報われない仕事を人にもやりませんかと勧めるのは、心の何処かで「自分だけではない」と
安心したいからかも知れない。

それでも楽しい仕事ですよとお誘いしよう。
少しの勇気と忍耐心・根気をもって、舞台演出という仕事をやってみない?
さあ『演出とはなにか』を考えてみよう。

役者さんも、演出がどんな仕事をして、偉そうに(内心は分かりませんが)稽古場で座っているのか、
その理由を知っておくのも、少しは芝居作りに役立つかもしれません。
演出といっても、まあ大したことはやっていません。しかし、とても沢山のことを考えています。
あなたの団体の演出を、少しはホメてあげてください。

20世紀の中頃、ザハーバというロシア人が、『演出とはなにか』に答えるため「演出の原理」(※1)をまとめました。
しかし素晴しい彼の著書でも全てを言い表すことができない。
演出に求められることは、時代とともに変化している。
演出にとって、演出の技術は常に変化している。進歩とか革命的だというのでは無く、
今この文章を読んでいるあなたの価値観が常に変化している。
時代の移り変わりの中で、舞台と観客とが共有できるリアリティも変化している。
ここで述べる「演出の仕事」は、唯一でも最善でも無く、初歩の手ほどきでも熟練者への提言でもない。
ここに述べる「演出の仕事」はおそらく最低限知っておくべきことであり、いつでも自由に使いこなせる技術として熟達しておくものだ。
表現者(俳優やダンサーやパフォーマーなど)と観客の間に演出が介在することを許され、
一期一会の舞台作品…ライブなもの(芸術と言うより娯楽、遊びといった方が適切かも知れないが)
について、『演出とはなにか』をザハーバの著書を基礎として、私なりに思い付くまま考えていこう。

※1 演出の原理 B・E・ザハーヴァ(ヴァフタンゴフ劇場の演出家)山田肇訳てすぴす叢書11未来社

従来の演劇と言う区別は、もう分類として機能していないように感じている。
ミュージカルも演劇も映像さえも、一つになるようなライブが有り、
仮想現実空間では、無重力のような空間芸術が可能となった。
演劇も舞台作品の枠の中で、伝統芸能の中に含まれて行くのかもしれない。

演劇が持っていた「劇性、非日常性、聖俗性」と定義されるような性格は、
普通の生活を描いて演劇だ、といわれる今日、演劇の演劇たる拠り所では無くなりつつある。
現代は裏の世界が表と共存し、陰陽が混沌となりつつあると考えている。
建前と本音が融合し、けじめや筋目が無くなっている。

こんな黄昏時こそ、明暗のはっきりした、純な舞台作品でありたいと思う。
芝居を見に行くという、『ハレの日の心ときめく想い』を、大切にしていきたいと考える。
ドキドキ・ワクワクするような、「劇的な、ドラマチックな」芝居との出会いを提供したい。
さあ『演出とはなにか』を考えてみよう。

【なぜ今、演出が必要か】

時代は作家兼演出家の跋扈をゆるす、演劇復古調の中にある。
確かに、演出の仕事やその技術を学ぶ術はほとんどない。
わずかに演劇専門大学で専門コースがある程度だ。

しかも、演劇の歴史も仕組みも知らない、戯曲を読んだ事も無い若者達が集まって、
楽器好きの若者がバンドを組みコンサートを催すように、自分達の演劇を上演することも増えている。
その観客が友人や知人であるならば十分に楽しい一刻となると思う。
結果として演劇の公演は玉石混淆となっている。

高山図南雄先生がよく言っていた、『下村正夫先生の口癖』
『芝居は誰にでもやれる。玄人にも素人にも。なぜかというと、どんな難しい役であっても、
少なくともそれを演じる役者が最低限人間に見えるからだ。』と聞いている。

情報誌を読んで、価格の安い芝居に飛び込めば、10回に1回くらい、良いもの見たと思えるかも知れない。
しかし演劇が好きな観客にとって(ふところが寂しい私のように)そのような公演が街に溢れるとき、
劇場に足を向けることは大変勇気のいる賭けとなる。

演劇が好きな観客を劇場へ呼び戻そう。
そのためには信頼される舞台を創り続けよう。
俳優の仕事を十分に遂行できる俳優を育てよう。
俳優の仕事をより大胆に自由に大きく広げていく演出を育てよう。
舞台創造の中で、俳優を守りその創造を助けるスタッフを育てよう。
良い舞台は客を呼ぶ。
客が多い舞台は、より経済的にも時間的にも人材的にも質を高めて行ける。
それが舞台作品を、質的に高めていく残された唯一の方法なのだ。
良い舞台作品……この責任は演出にある。
優れた演出の育成は、優れた俳優、優れたスタッフを生み出す、貴重な母体なのだ。

「演出」は舞台創造の中でも最も技能の要求される専門職でありながら、
一方まったくの素人でも勤まる役割だ。

一流の演奏者で構成されたオーケストラを、楽譜も読めない素人の指揮者が指揮する光景を想像して欲しい。
指揮者に係わり無く、素晴らしい音楽がコンサートホールを満たしていくだろう。
(素人指揮者が、余計な事をしなければ)
しかし一流のオーケストラを一流として維持していくためには、
音質や音程、演奏技術や楽器の状態を理解し指導できる、オーケストラと同程度以上の指揮者が必要だ。
今、舞台芸術の発展のためには優れた演出が必要だ。

一流のオーケストラは指揮者を選ぶことが出来るが、表現者、スタッフには演出を選ぶことが出来ない。
彼らを導く優秀な演出が必要だ。
表現者の初歩の教育から、表現者と共に責任を分かち合って、舞台創造へ至る道を歩める演出が何より必要なのだ。

演出は、舞台作品に関わる大勢の人々の中で、その舞台上の成果に最大の責任を負う。
どんな舞台作品でも、観客の心を動かそうとするなら、芸術性を無視することは出来ない。
優れた技術だけでは、芸術を創れない。
舞台作品をつくり出す人々の、生きてきた、生きている、生きていく姿勢が、作品へ挑戦する力、創造の力だ。
演出がその作品を演出し上演しようとする姿勢の中に、人生に対する、社会に対する、
人間に対する想いが一番色濃く反映されていくのだ。
演出がどう生きているのか、魂としてどう生きているのか、演出自身常に自問自答しなければならない。
それが芸術作品として舞台に上がるのだ。

【演出の歴史】

演出がなぜ生まれたか考えてみよう。
いつ頃演出と言う役割が現れたのかわからない。
19世紀後半、自然主義演劇の時代に演出家が専門職となったことは周知の事実だ。
約2500年前のギリシャ時代には、すでに演出的な仕事や役割を果たしていた人物がいたと考えられている。

演出は舞台作品の最初から居たのではなく、舞台作品が成熟するに従って指揮者的な舞台のまとめ役、進行役として生まれてきた。
そして産業革命以後、照明や大道具、音響など専門職が参加し、その職人たちの頭、アーティストとしての演出の役割が生まれた。
劇作家も同じように舞台芸術が成熟するに従って、仕事が分業化し生まれてきた。
最初は、スケッチとか聞き書きなどによって記録が取られてきた。
それが段々と粗筋を作ったり、詩や言葉を紡ぐようになって、劇作家という仕事として確立していったものだ。

日本で演出という仕事が本格的に始まったのは、明治四十年(1907年)頃の小山内薫からといわれる。
能の観阿弥や世阿弥などは、能舞台の設えから舞台への置き道具、作曲作詞など、
一切を取り仕切って、演出や舞台監督、座付き作者と主演俳優を全て一人でやっていた。
(俳優は、わざおぎと読み、散楽の時代(6世紀頃)から神と交わるもの、神に捧げるものという)
日本の芸能者には、伝統的に演出の役割をになっていた人が多かったように思う。
千利休も、茶の湯を場の演出を加えた『藝』として完成させた、超一流のプロデューサー兼演出家だった。

西洋では、1870年代にドイツのマイニンゲン一座という劇団で座主でもあったゲオルグ二世(※2)
の演出プランによって公演されたのが始まりのようだ。
舞台作品には、そもそも演出も劇作家も、必要の無いものだった。
なぜ演出という仕事が生まれたか、その背景には舞台作品の質的変化があったと考えられる。
今後の研究で明らかにされて行くことを願う。

※2
ゲオルク2世(ドイツ語:Herzog Georg II. von Sachsen-Meiningen, 1826年4月2日 - 1914年6月25日)は、
ザクセン=マイニンゲン公(在位:1866年 - 1914年)。
1873年3月18日、ゲオルクは女優のエレン・フランツと3回目の結婚をし、
エレンはヘルトブルク男爵夫人の称号を与えられた。夫妻は子供を授からなかったが仲が良く、
ともに演劇の振興に尽くした。


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