日常茶飯

[注意] Netscape 4.x では日付が表示されません。このページ半月経つと移動します。
#38 
目次

バージョンアップ

 アドビ社のAdobe AcrobatとAdobe Readerが7.05に、 Photoshop Album Miniが 3.0 にバージョンアップしている。 ダウンロードしてインストールした。

 最初にAcrobatの更新をやっていると、インストールCDを要求してきた。 仕舞い込んでいたパッケージを引っ張り出してきてCDを挿入して漸く終わった。 Adobe ReaderはフリーソフトだからCDは要らないだろうと、 パソコンの再起動中にパッケージを仕舞い込んだ。
 それからAdobe Readerの更新ファイルをダブルクリックして暫くすると、 またインストールCDを要求してきた。 なんで。 それでまたクローゼットを開いて奥からパッケージを引っ張り出したんだけど。 いやぁ、これで草臥(くたび)れた。

 Photoshop Album Miniのインストーラを実行すると、 以前のバージョン2.0を検出して勝手にアンインストールしてくれた。 けっこうよくできていると思いながら、Album Mini 3.0 を起動すると、 ユーザー登録の画面が現れる。 登録すればロック解除コードをメールでお知らせ致しますと。 云われるままに登録した。 普通はすぐにメールがくる筈(はず)なのに、待てども来ない。 そこでバージョン2.0のロック解除コードを入力してみると、あらら、 ロックは解除された。


【後からひと言】(2005年10月15日)
 忘れた頃にロック解除コードは送られてきた。 なあんだ。 以前のと同じコードである。
 Album Mini 3.0 を使っていると、何やらソフトが常駐している。 タスクトレーにアイコンが現れるのである。 勝手なことをされても迷惑だから、気に喰わないてんで終了させた。 設定を見ても常駐を止めさせる方法が分からない。 面倒だからアンインストールして、結局また元のAlbum Mini 2.0 に戻しちゃった。
'05年10月14日

砂書帖 ・ アップデート

 ▼ きょうマイクロソフトが公開したセキュリティ・ホールの修正パッチは9件あると云うので、 Microsoft Updateを実行すると10件あった。 そう云えば先月は、インストーラに不具合が見つかったとかで沙汰止みになったんだっけ。

 ▼ 毎月公開される「悪意のあるソフトウエアの削除ツール」と云うのがよく分からない。 アイコンが作られるわけではないので、どう使うツールなのか怪しんでいた。
 先月は、そのツールをマイクロソフトのセキュリティ・ページからダウンロードした。 確かに実行ファイルがあって、 実行すると検索を始めてやがて「悪意のあるソフトウエアは見つかりませんでした」と云ってきた。 たいしたツールではないと思ったが、ひと月経つと何をどうやったか丸で覚えがない。やれやれ。

 ▼ 再びセキュリティ・ページをのぞいてみると、 WINNTディレクトリ(フォルダー)の中のサブ・ディレクトリDebugにあるログ・ファイルmrt.log に実行結果が記録されるそうだ。 そのファイルを開いてみると、既に自動的に実行されていたらしい。 まあ、どうでもいいや。 夜の11時だ。ハイボールでも呑もうっと。
'05年10月12日

秋雨

 朝の空気は段々と肌寒くなって来た。 けさは一旦は目覚めたものの、まだ寝ていたい気分だったので、その儘一時間ほど又寝した。 今日の天気は、降ったり止んだりの秋雨(あきさめ)である。 連休の秋の夜長は読書に限る。

 きのうの夜から読みはじめたのが関川夏央さんの『白樺たちの大正』(文春文庫)である。 志賀直哉や武者小路実篤には何の興味もないけれど、 歴史として大正時代をよく知らないから、世相に興味があって読み出した。 また、大正時代なら漱石や芥川も登場するだろうから退屈しないと踏んだのである。

 きょうは夕飯の後から続きを読みはじめて、先ほど読み終えた。 けっこういい加減に読み飛ばしたけれど、まあひとまず読了。 特に第五章の「シベリア出兵と日本社会の変質」のなかの、「白虹事件」のくだりは興味深く読んだ。

 大正7年8月26日、大阪朝日新聞の記事の中に「白虹(はっこう)日を貫けり」と云う字句があった。 「白虹貫日」は国に内乱の起こる天象として『史記』などに散見される語だと云う。 書いた記者は承知の上で書いたのだが、デスクや同僚は漢籍の素養がなかったため、 この成語の意味するところを知らず見過ごした。 かねてから弾圧の機会を狙っていた当局に筆禍事件追及の好機を与え、 あわや発行禁止の処分を受けそうになった。 この事件で、長谷川如是閑(にょぜかん)はじめ多くの論説陣が東京大阪の両朝日を退社した。

 <朝日はこのとき、寺内内閣批判、シベリア出兵反対、 米騒動の論評を通じて鋭く政府施策の非を衝いていた論説陣のすべてを失ったのである。
 それは東京朝日の主筆池辺三山が、高みから国政・外交を慨嘆する政論中心の大(おお)新聞でもなく、 市中の噂の採集と貴紳顕官の私的醜聞のほのめかしを主眼とする小(こ)新聞でもない新聞、 教育の普及とともに世論というものが成立しつつあった時代にふさわしい新聞をめざし、 その具体的な方途として、ゆすりとたかりの「羽織ゴロ」といわれて世人に嫌われた新聞記者を尋常な職業に格上げするために 大学卒業生をはじめて採用し…(中略)… 社外記者に依頼していた警察署回りを新人のつとめと定めて以来ほぼ二十年後のことであった。 日本でもっとも若く、日本でもっとも積極的であった朝日新聞の青年期は、このとき唐突に終わったのである。>

 興味を引いたのは、新聞の体質が変わるのが軍国主義の昭和の時代ではなく、 それより少し前の大正デモクラシーと云われた時代であったことである。
'05年10月10日

古本屋で

 たまに古本屋に入ることがある。 本を探し求めるとか、掘り出し物を見つけると云うのではなく、ながめて愉しむだけである。 思わぬ発見もある。 なかに初版本ばかりを扱う古本屋があって、先日のぞいてみた。
 永井荷風の『小説吾妻橋』が5千円。 内田百閒もいくつかあった。 『沖の稲妻』、『菊の雨』、『船の夢』、『残夢三昧』などが一緒に並んでいた。 ひとつ下の棚には『夜明けの稲妻』が置いてあった。 値段は3千円のもあれば9千円のもある。 さて、ここから先は何を書こうかなぁ。

 その店に、野呂邦暢(のろ くにのぶ)の『諫早菖蒲日記』があった。 これは6千円。 25年前に早世した芥川賞作家である。 作家は死ねば忘れられて仕舞うんだな。 いま野呂邦暢の本は講談社の文庫に一冊あるだけである。 この作家を知ったのは、向田邦子の評伝を読んだときで、もう何年も前の話である。 向田邦子が最後に手掛けたテレビドラマの原作が野呂邦暢の「落城記」で、 その評伝を読んで、人の運命の不可思議さを感じたのを覚えている。

 本筋から外れるが「落城記」の梗概を記しておく。 天下統一を目前にした豊臣秀吉が島津征伐をはかり、九州各地の領主に軍勢に加わることを強いる。 肥前諫早(いさはや)の西郷純尭(すみたか)はこれを拒んだ。 そのため秀吉の命を受けた龍造寺家晴の軍に攻められて3日で落城する、と云う史実を題材にとった小説で、 領主の妾腹の娘が、籠城して故郷と城に殉じると云う話。

 去年の2月、文春新書に豊田健次『それぞれの芥川賞 直木賞』が出版された。 著者は長年文芸編集者として芥川賞と直木賞に携わった人で、 野呂邦暢をはじめ向田邦子や山口瞳と云った作家の素顔を回想したものである。 以下は豊田さんの本にもとづく。
 向田邦子が野呂作品を知るのは、豊田さんに「諫早菖蒲日記」を薦められてからである。 主人公は幕末の諫早藩砲術指南の娘「志津」。 十五歳になったばかりの多感な少女の視点で物語は語られていく。 向田邦子はこの小説をドラマ化したいと言い出した。 しかし内容が地味なこともあって、ドラマ化の話に乗ってくる局は皆無であった。 窮余の一策として、「落城記」を売り込みドラマ化が実現した後に、「日記」にとりかかる作戦に出ることにした。 紆余曲折あって、向田邦子が総プロデューサーを務めることを条件に「落城記」のドラマ化が決まる。 次は、野呂邦暢に原作権をもらう交渉である。 そのときの模様を豊田さんの記述から引く。
 <昭和五十五年、五月の大型連休に入る直前、野呂邦暢上京。 このときはじめて野呂、向田ご両名は顔を合わせたことになります。 場所は六本木の中華料理屋。
 テレビのこと、映画の話。座は大いに盛り上がって、二次会は新宿の、私の行きつけの酒場。 ふだん飲まない野呂さんが、水割りのお代わりをしていたのが印象的でした。>

 運命とは皮肉なもので、その10日後に野呂邦暢は自宅で急死する。 その衝撃を向田邦子はこう綴っている。
 <心筋梗塞による急死というが、まだ四十二歳である。 五日前には、たのしかったという手紙もいただいたばかりである。
 いきなり殴られた気がした。
「諫早菖蒲日記」「落城記」。 私は野呂氏の時代小説が大好きだった。 お人柄も敬愛していた。 楽しかった新緑の旅が、急に陽がかげったように思えた。
 心浮きたつことのあとには、思いがけぬ淵がくる。 そう教えられたと思うべきなのだろうか。>
 そして、はじめてプロデューサーの役目をこなした向田邦子は8月に、台湾旅行で事故に遭い帰らぬ人となる。 「落城記」は「わが愛の城」として放映されたと云う。 そのドラマを知らないが、豊田さんの本はこう終わる。
 <野呂邦暢原作、向田邦子プロデュースのテレビドラマ「わが愛の城」はその年の十月に放映されましたが、 向田さんがこよなく愛した野呂さんの「諫早菖蒲日記」テレビ化の話はいまだにないままです。>
'05年10月08日

内部エラー

 ウイルスバスターのパターンファイルを更新していると、内部エラーを示すダイアログが現れて、 「TmProxyのモジュールで重大な問題が発生しました。 ウイルスバスター2005を再インストールしてください」(原文のまま)と云ってきた。
 パソコンの操作自体はどこにも異常は見られない。 冗談を云っているのではなさそうだけど、こちらは冗談ではない。 しかし怒ってみても詮(せん)ないことなので、再インストールすることにした。

 ここで再起動すると「重大な問題」のために起動できなくなるかも知れないから、 その儘の状態でやることにした。 インストール・プログラムはMOにバックアップしているが面倒なので、 トレンド・マイクロのサイトからダウンロードした。
 どうやるんだっけ。 ええっと、先ずは今のウイルスバスターをアンインストールした方がいいだろう。 オッと、LANケーブルを抜かなきゃ。 これまでの設定は台無しになるなぁ、とアンインストールを行った。 再起動した後はウィルス対策ソフトが無いものだからパソコンが軽い軽い。

 次にインストールだ。 シリアル番号をとりだして入力し、オプションを選択してインストールした。 矢っ張り以前の設定は残っていない。 ここでLANケーブルを繋いでネットに接続し、オンライン登録のボタンを押してこれでようやく、 アップデート出来るようになった。

 さて、ここからが肝心である。 過去に逆戻ってまとめて最新のパターンファイルに更新するのだけれど、 先ほどの内部エラー「重大な問題」とは何が原因だったのか。 4月に起きたシステム障害を連想しているのである。 もし、また同じ様な目に遭えば、パターンファイルの欠陥と云うことになるだろう。 で、パターンファイルの更新を実行した。 今度は何事もなく更新できた。 無事で何よりだったと云うよりは、草臥(くたび)れ損をした。 何にも嬉しくないのである。
'05年10月06日

支離滅裂

 テレビ朝日で、爆笑問題が司会の討論番組のようなのをやっていた。 しばらく見ていたけれど、チャンネルを変えた。 討論番組って視聴率がどれぐらいなのか知らないけれど、面白かった例(ためし)がない。
 口直しに、山田風太郎と関川夏央さんの珍問答(『戦中派天才老人・山田風太郎』ちくま文庫)を引いてみた。

 いよいよきょうが最後ですよ、こうしてお訪ねして真面目と冗談の混然たる問答をするのも
 そうかね。このあいだ「朝まで生テレビ」というのを見たんだが
 あの下品な深夜番組を?最後まで見たんですか
 最後まで見た。しかし、なにをいっているのかさっぱりわからん
 それでも朝まで見たんですか
 誰も人のいうことを聞いていないんだ。それぞれ勝手に得体の知れないことを喋りちらしている
 あれは議論ではなく、安上がりのショーなんでしょう。つまりはたくさん喋ったものの勝ちです
 それにしても全然わからんのにはまいった。 ぼくも支離滅裂だが、彼らよりはまだましかも知れん。 「これからの日本はどうなるか」とかいう話なんだが、あれじゃ、これからの日本は支離滅裂としか思えんなあ
 やっぱり
'05年10月04日

古商売

 昔の人や、今のちょっと古い人が書いたものを読んでいると、見知らぬ名の商売が現れることがある。
 屑(くず)屋は知らないが字面で察しはつく。 学研現代新国語辞典には、現在では「廃品回収業」と呼ばれる、とある。 屑屋の方がよっぽど風流である。

 作家の出久根達郎さんは古本屋の主(あるじ)である。 屑屋が本を売りに来ることがある。 屑として出された中に掘り出し物が見つかることがあるからで、そのうちに屑屋と懇意になった。 うちに遊びに来ないかと、屑屋が番地と地図を書いて渡した。 それで訪ねて行ってみるとそんな家は何処(どこ)にもない。
 その番地にあるのは大きなお屋敷である。 しばらくして屋敷の中からステテコ姿の男が現れて「やあ」と云った。 それは紛れもない、あの屑屋だった。

 週刊誌で見た小料理屋に、向田邦子はひとりで入った。 入って場違いな店に飛び込んだと気づいたが、いまさら引っ込みもつかず、カウンターの隅っこに坐ってビールと 二、三品を注文した。
 ビールを半分ほどあけたところへ、お姐さんが新しいビールの栓をポンと抜き、目の前にドシンと置いた。 「あちらさんからですよ」、と鉤(かぎ)の手のカウンターの、向こうの隅で飲んでいる男を指さした。
 「判りませんか。お宅へ三回ほど伺ったことがあるんですがねえ」
云われても丸で見覚えがない。 その人は片手で自分のお銚子の首をブラ下げ、片手で盃を持って来て、隣に坐るなりこう云った。
「屑屋ですよ」
そう云えば、と思い当たった。
 その屑屋の云うには、何百軒もの家を廻るが、奥さんの応対が一番丁寧(ていねい)だった。 一度お礼を言いたいと思っていた。 こんなところで逢えるとは思わなかった。 どうしても自分のおごりを受けて貰いたい。 その後、彼は屑屋という商売が如何に収入(みいり)がいいか熱っぽく話してくれた。

 これは内田百閒の自宅の憚(はばか)りが水洗式でなかった時分の話。
 百閒先生は我が儘である。 玄関に人が来ては困る。 来るのは向こうの勝手だから仕方ないが、来ても会わないと云うのはこっちの勝手である。 玄関に張り紙をして、「面会謝絶」と書き出してある。
 ある日のこと。 玄関の戸をがたがた云わして、ベルも押さずに大きな声で何か云っている。 百閒先生の奥さんが木戸から廻って出ると、 おわい屋が片手に長い柄杓(ひしゃく)を突き立てて、仁王立ちに起(た)っている。 汲み取りに来たのだが、ここに何か書いてあるけれど、汲んでもいいかと尋ねたと云う。
'05年10月02日

Copyright(c) 2004-2005 Yamada,K All Rights Reserved