黄金餅 五代目、古今亭志ん生の高座のCDを聴いた。 古典落語の『黄金餅』(こがねもち)。 小金を隠し持っていた坊さんが病気になる。 ケチだから医者にはかからず、とうとういけなくなるが、持ってるお金に未練がある。 そこで、あんころ餅に金を入れて飲み込んで仕舞って絶命する。 それを覗き見した金兵衛さんが、その金をせしめて目黒に餅屋を出して繁盛したと云う由来物語で、 サゲ(落)もない。第一この噺(はなし)、火葬場の遺骨から金を発掘すると云う物騒な筋立てなのだが、 それをギャグ連発の面白い話芸に仕立てた噺である。 下谷山崎町から焼き場のある麻布一本松まで担いでいく行(くだり)を、「道中づけ」と云うらしいがこれが可笑しい。 遣(や)る度に少しずつ違うと云われた志ん生だけど、この行はいつも正確だったそうだ。 名人たる所以(ゆえん)だな。 道中づけの締めくくりで「みんな随分くたびれた」と云った後、「…あたしもくたびれた」と呟くところは大笑い。 出鱈目(でたらめ)なお経も面白かった。 |
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秋が来た 夜中に目が覚めた夏の日もあったが、近ごろではぐっすりと眠れるせいで寝覚めが良い。 朝の室温は真夏のころエアコンのタイマーで調節した温度よりも3度ほど低いから一寸肌寒い。 矢っ張り秋はいいなぁ。 夜は熟睡できるし食欲もある。 一つ困っているのは、この2週間ほど肩が凝っているが、愛嬌か。 テレビをつけると阪神が優勝。 岡田監督が胴上げされている。 球場は甲子園で相手は巨人。 中継するのは日本テレビ。 このちぐはぐさは何だろう。 金持ち球団が選手を引き抜き放題で何故ここまで弱くなって仕舞ったのか、誰か分かるように解説してくれ。 と、どうでもいいことを思って仕舞うのも秋である。 2年前と違って、余り騒ぎにならずに阪神は優勝した。 静かに優勝するのは悪くない。 すると、前の優勝で騒ぎを煽(あお)っていたのは矢っ張りテレビ局だったのか。 大腸菌一杯の汚らしい道頓堀川に、大勢が飛び込む映像に、何処かのテレビ局の者がキューを指示した姿が写った。 それでヤラセだと問題になったが有耶無耶(うやむや)になった。 まぁ、テレビもそうそう莫迦(ばか)ばっかりやってられないご時世なんだが、その自覚があるのかは知らない。 ところで阪神の株を買い占めたと云う、村上って云うオヤジって何もの? |
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気侭(きまま)画帳 近ごろ暇をみて眺めている画集がある。 いや画集ではない。 絵日記と云うのが相応しい。 武井武雄の『戦中・戦後気侭画帳』(ちくま学芸文庫)である。 武井武雄は大正から昭和にかけて活躍した童画家で、「童画」と云う語の名付け親だそうだ。 文庫だから画は縮小されてるし、横にして日めくりのようにページを開いて見るのは遣(や)りづらいんだけど、 これがなかなか面白い。 この文庫は筑摩書房より1973年に刊行された『戦中気侭画帳』と、 『戦後気侭画帳』を合本にしたもので、400ページ以上と分厚い。 『戦中』の方は昭和19年(1944年)9月から一年間の絵日記である。 本業のペンでなく筆でチャチャっと書いて彩色をほどこした画の余白に文が書いてある。 スケッチしたのではなく、「全部がその時々の印象をあとから頭の中で反芻(はんすう)して描いたもの」だと云う。 だから画の中に武井自身が登場する。 これがうまい。漫画的でもあり面白い。 馬面でつり上がった細い目、チョビ髭(ひげ)で、この頃50歳を過ぎたばかり。 けっこうこわい顔の愛嬌あるオジサンである。 その武装した姿が勇ましい。 星印の鉄かぶと、軍服まがいの服に十字だすき、脚にはゲートルを巻いている。 それでこのオジサン、何を遣っているのかと云うと「池袋第三十二防空群」の郡長である。 兵隊に行くには少し年を取りすぎていて応召も徴用も来なかった。 終日家に居て仕事をしている男性なんてそうザラに居ないから、 隣組の防空訓練を担当する羽目になったと云う。 今年は戦後60年で、 去年から作家たちが書いた当時の日記に目を通している。 内田百閒や永井荷風にしても後から手を加えて出版されたものだ。 その意味では、武井武雄の絵日記は本物の戦中・戦後の貴重な記録である。 |
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七色とんがらし うどんは七味唐辛子をかけて食べる。 一寸だけかけるのだけど、かけないとうどんを食べると云う気がしない。 何処のスーパーにも置いてある決まった大きさの小瓶なんだが、 蓋を開けると真ん中に丸い穴が開いている。 軽く振るつもりが勢い余ってどばあッと出てしまい、一面に広がって困ったことがある。 近頃ではミル付きの七味唐辛子の小瓶も売ってあって、回しているとがりがりと音がして落ちてくる。 日が経っていないせいかもしれないが、何やらいい風味がする。 面白がってがりがりやってたら、オッといけない、かけ過ぎた。 向田邦子は東京の古風なことば遣いの作家で、 風呂上がりと云わずに湯上がりと云ったし、 味噌汁と呼ばず、おみおつけと呼んだ。 「七色とんがらし」と云うエッセイ(文春文庫『無名仮名人名簿』所収)に、こんなくだりがある。 <私の場合、七色とんがらしを振ったおみおつけなどを頂いていて、 プツンと麻の実を噛み当てると、何かいいことでもありそうで機嫌がよくなるのである。 子供の時分から、七色とんがらしの中の麻の実が好きで、祖母の中に入っているのを見つけると、 必ずおねだりをした。 子供に辛いものを食べさせると馬鹿になると言って、すしもわさび抜き、とんがらしも滅多にかけてはくれなかったから、 どうして麻の実の味を覚えたのか知らないが、とにかく好きだった。 少し大きくなり、長女の私だけが、朝のおみおつけに、ほんの少し、 七色とんがらしをかけてもいいと言われた時は、一人前として認められたようで、 ひどく嬉しかった。> この「七色とんがらし」は母方の祖父の思い出を綴(つづ)った一文である。 名人気質(かたぎ)の建具師で、面差しが古今亭志ん生に似ていたせいか、志ん生の贔屓(ひいき)であった。 相撲も好きだったが、七色とんがらしは、このふたつと同じぐらい好きで、 おみおつけの椀(わん)が真っ赤になるくらい、かけるのである、と書いている。 ここだけ読むと何だか行儀の悪いお爺さんの話のように聞こえるかも知れないけど、そうじゃない。 気品ある名文である。 |
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のぞき屋の出る幕である きのうブラウザの Firefox 1.0.7日本語版が公開された。 最近では英語版が公開されて何日と経たずに日本語版が公開されるのは良いことだ。 最新版では以前に見つかった幾つかのセキュリティ・ホールが修正されたのだと云う。 そのセキュリティ・ホールを突く危険なコードも出回っているそうで、 コードが含まれるWebページを閲覧するとパソコンを乗っ取られる可能性があるのだと。 ブラウザで閲覧しただけで物騒なことになるのはどう云う訳か知らないけれど、 何もこの話 Windows に限ったことではないそうだからOSは何をしてるのか分かったもんじゃない。 そもそもMozilla/Firefox は安全を重視したソフトと云うのが看板だった。 それが近頃ではセキュリティ・ホールを修正するためのバージョン・アップになった。 かつては新しい機能が追加されてのバージョン・アップで、それは愉しいものだったのに。 尤も市販のワープロ・ソフトなどは、機能が追加されても複雑になるだけで、何が嬉しいのか分からなくて困る。 Google をはじめ検索エンジン業者は世界中のWebサイトを覗(のぞ)いて検索リストを作っている。 キーワードで検索すると関連する企業のページが上位に現れるようにして、横にはスポンサーの広告が現れる。 検索業者は広告業が生業である。 広告業なら儲かるが、それにあぐらをかかれても困るのだ。 ブラウザに未対策のセキュリティ・ホールが見つかる度に信頼できないWebサイトにはアクセスしないようにと云うけれども、 そう云うサイトをはじめから教えてくれないかなぁと思うのだ。 検索エンジン業者は毎日、世界中のサイトを覗いて廻る。 だったら危険なコードを潜ませているサイトを見つけることも出来るだろう。 これは企業から広告料を貰うだけでないビジネス・チャンスである。 情報社会は個人情報が漏れるばかりでは偏っている。 悪質な奴らをさらし者にすることも出来る筈である。 今こそ覗き屋の出る幕であると爾(しか)云う。 |
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ステッキ 杖(つえ)をついて歩く人はよく見かけるが、ステッキを携行している人を見ることはない。 勿論、杖とステッキは同じものである。 しかし、ことばの意味合いは随分と違う。 杖と云えばつくもので、歩行を助ける為にある。 老人社会の今日ではそう云うお年寄りは何処にでも見かける。 しかし、ステッキと云うことになると何だか別物のようで、あれは何の為のものなのかと思うのである。 大正から昭和初年の時分には、文士たちがやたらとステッキを持ち歩いていたようだ。 歩行に困らない20、30代の文士がである。 芥川龍之介は散歩のときに愛用していたし、 内田百閒も自慢のステッキがあった。 百閒の随筆「黄牛」から拾ってみると、 「ステッキは本格の籐(とう)である。 握りには象牙がついているけれども、さるステッキ通の話に、ステッキを見る時、握りを気にする様では駄目です。 ステッキはその棒によって鑑定すべきものですと云うのを聞いて、成程と思い、私は籐の色合い、 石突に近くなった部分の自然に細くなりかかっている線の工合などを自慢にしている」。 官僚的権威主義の趣味を持つ百閒にとって、ステッキは威風あたりに払う為の道具のようにもみえるが、 果たしてそのステッキをどんな具合に使うのか知らと思って仕舞う。 魔法の杖と云うことばがあるが、杖には魔術的な意味合いがある。 また宗教的な意味合いもあって、巡礼の旅には杖がつきもののようだ。 ワーグナーの歌劇「タンホイザー」では杖が小道具として使われる。 タンホイザーの魂はエリザベートの命と引き替えに救済されるが、 そのとき手にした杖に緑の芽がふいたと云う例の話である。 が、これはステッキとは別の系統のようだ。 面白いのが寺田寅彦で、随筆「ステッキ」にこんなことを書いている。 「いわゆるステッキほどわけのわからない品物はないと思われる。 (中略) 人間がみんな働くのに忙しくて両方の手がいつもふさがっているような時代には全然用のないものであったに相違ない。 人間の社会生活が進歩した結果として、 何もしないで楽に遊んでいられる人間が多数に存在するようになると、 今まで使っていた手が暇になって、全く言葉どおりに手持ちぶさたを感じる。 (中略) 何かしら手ごろな棒きれを持つことになったのではないかとも想像される」。 寺田寅彦の云うとおりだとすれば、いまの携帯電話の先祖はステッキだったのかも知れない。 ついでに、いまでもステッキを重宝していると云うドイツ文学者の池内紀さんの話を引いておこう。 「旅のお供のステッキは、歩行を促すためではない。 むしろ逆であって、歩行をとどめるから意味がある。 ふだんならサッサと通りすぎるところを、ステッキが待ったをかける。 先っぽでつついてみる。 動かしてみる。 触れてみる。 思わざる発見をする。 小さな水たまりと思っていたのに、気がつくと、いろんな生き物がいた」(『ひとり旅は楽し』より)。 ステッキは手の延長であって、使い慣れると手そのものになるそうだ。 |
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一年有半 中江兆民は喉頭癌で余命一年半と医者に宣告されて、『一年有半』を書いた。 ところが一年半経っても生きていたので『続一年有半』を書いた。 兆民の弟子に、社会主義者の幸徳秋水がいる。 大逆事件で処刑された人である。 その秋水が師の兆民について書いた一文があって、 もう忘れたが中央公論社の全集『日本の名著』の中にある。 図書館などに行けば置いてあると思う。 こんなことを秋水は書いている。 少年の兆民は長崎に遊学し一時、同郷の幕末の志士、坂本龍馬と一緒に過ごしている。 兆民少年が見た英雄・龍馬はすでに脳梅毒の末期症状で、髪の毛がぬけてこの辺まで禿(は)げていたと云う。 これを読んだときは、ちょっと驚いた。 だって龍馬が暗殺されたとき、すでに死にかかっていたのだからね。 これを司馬遼太郎が知らない筈はない。 そりゃそうだろう。 小説の中で禿頭の龍馬なんて誰も想像したくないからね。 話は変わって、この欄をはじめて一年半になる。 書いた量は1メガ・バイトを超えたぐらいで、まだ一枚のフロッピー・ディスクに収まる程度である。 日付が付いているが、ご覧のとおり日記ではない。 雑文を弄しているのだけれど、書いていると色んな発見もある。 何を書くかと云うことよりも何を書かないかの方が大事であることにも気づいたしね。 この欄のタイトルどおりのことを書いているから続くのだろう。 どおでもいいことを書いている気もするが、テーマは自由だから事欠かない。 一度書いたことはその儘にしているけれど、 時々水割りを呑みながら書いて仕舞い、 翌朝、何にも覚えていないこともあるんだがねぇ。 先ほど、この欄のタイトルで検索してみた。 Yahoo!では21万6千件中、6件目に目次のページが掛かっている。 Googleでは77万4千件中、目次のページは70件目である。 意外に前の方にあるが、困るほどのものではない。 |
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可視光通信 きのうの日経新聞の「Suday Nikkei α サイエンス」にあった記事は面白い技術だと思った。 天井からスポットライトの光が当たっている場所があって。 ヘッドフォンをかけてその光の下に立つと、ロックミュージックが流れる。 ライトが当たらない場所では音楽は聞こえない。 ライトで情報を送っているのだ。 原理は簡単。 照明の光を高速に点滅させる。 その明暗を「0」と「1」の信号に置き換えてデジタル情報を送っているのである。 テレビのリモコンは赤外線で情報を送っているが、目に見える光に変えたのが可視光通信だ。 目に見えるので、光に携帯端末などをかざすだけで子どもやお年寄りでも簡単に情報を入手出来るし、 アンテナなど余計なものは要らない。 街灯から道案内を送ったり、 信号機の光から道路の渋滞を知らせるなど応用する用途は色々ある。 点滅するからと云って光がちらついて見えるわけではない。 人間の目は点滅回数が毎秒50回を超えると感知出来ないからだそうだ。 最近は信号機などに発光ダイオードが使われるようになってきた。 蛍光灯は点滅速度に限界があったが、 発光ダイオードは一秒間に数百万回点滅させて、ほぼ光ファイバー並みの高速通信を実現できると云う。 面白い。可視光通信、賢う通信。 |
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ユーザー登録 パソコン関連の製品には、昔からユーザー登録と云うものがあった。 はじめの頃は、ハガキに書いて投函するだけでお仕舞いなので、別に気にも留めなかった。 インターネットの時代になってWebで色々とサービスをするようになると、 ユーザーIDを発行するようになった。 ホームページでIDを入力するとダウンロード出来た。 特典サービスに目がくらんで、ユーザー登録をしたこともある。 それから段々と、IDとパスワードを発行するようになって、それらを入力しないとサービスが受けられないようになってきた。 どこもかしこもそう云うことをするものだから、 IDとパスワードを幾つも持つようになって仕舞った。 面倒だし迷惑だから、あるときから登録するのを止めようと抵抗することに腹を決めた。 ところが敵も然(さ)る者、色々と口実を設けて登録させようとする。 5年前にパソコンが壊れて買い換えたときには、ユーザー登録のハガキを送ると保証書をお送りしますと云ってたし、 デジカメのときは購入した店で登録させられたんじゃなかったかなぁ。 ソフトメーカーが更新ファイルのダウンロードサービスをすると聞いて、 ホームページを見るとユーザー登録したお客様じゃないと駄目だよと云う。 お陰でIDとパスワードで一杯になった。 これ以上は登録なんてしたくない。 だからWebで、本の注文や電子書籍や音楽を買うのは止している。 |
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笑えるヘンなことば 気分転換に笑える本を読んでいる。 清水義範さんの『日本語必笑講座』(講談社文庫)で、 政治家の常套句、スポーツ解説のことば、ニュースキャスターのことば、週刊誌のことば、 ありとあらゆるヘンテコなことばを蒐集して笑い飛ばすと云った本である。 パスティーシュ作家の面目躍如。 で、けっこう笑える。 街で見つけたおかしな日本語。 そう。看板や、張り紙や、広告や、注意書きにあるヘンなことばを集めたもので、 お店の張り紙「ネコの缶詰あります」。 旅館の広告「冷蔵庫飲み放題」。 交通安全の看板「天国に一番近い交差点」。 それともう一冊は、カナダ人の「和文英訳」翻訳家のイアン・アーシーさんの 『怪しい日本語研究室』(新潮文庫)。 アーシーさんは由緒正しいヘンな外人(そう書いてある)で、 流暢に日本語を操り、日本語オタクで、本当に日本語を愛しているんだな、と云うのが読んでいると分かる。 矢っ張りヘンな外人だ。 アーシーさんがナイアガラで、日本人観光客相手のツアーガイドをやっていたときのこと。 ひょんなことから日本人観光客と日本語で喋ってた。 何を話したのか忘れたが、覚えているのはひとつだけ。 別れ際に「ヘンな外人!」と捨てぜりふを吐かれた。 ここは、カナダですよ。 だから日本語はやめられない。 |
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