蝉(せみ)しぐれ 朝はセミの鳴き声で目が覚める。 鳴き声からしてアブラゼミの他にツクツクボウシがいるらしい。 日が暮れるまで一日中鳴いているようである。 数が減ったのか7月下旬から8月はじめの頃の蝉しぐれのけたたましさはなくなった。 セミの中でもヒグラシ(蜩)は、夏から秋にかけて高く美しい声で「かなかな」と鳴く。 それで、歌に蜩を「かなかな」と詠むこともある。 河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の句にこんなのがある。 面白う 聞けば蜩(かなかな) 夕日かな クマゼミは南方系のセミだそうである。 新聞によると、温暖化や都市のヒートアイランド化で勢力圏を北上させていると云う。 40年前には関西では余り見られなかったクマゼミは、いまでは珍しくなくなったそうだ。 セミの脱け殻を調べたら何とその6割弱がクマゼミだったと云う。 関東と関西は環境に違いがなくなっているので、やがては東京も大阪のようにクマゼミが増えるのだとか。 温暖化やヒートアイランド現象で、昆虫などの生態系が様変わりしていると云う。 本州と北海道の間の津軽海峡には、プラキストン線と呼ばれる生物地理学的な境界がある。 この線を境にゴキブリは北海道にいない筈だった。 それが札幌でも棲息するようになったと云う。 海峡をどうやって渡ったのだろう。 |
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文字とフォント パソコンが扱う文字には不自由を感じるときがある。 使える漢字に制限があって困ると云う話ではない。 勿論、そう云う問題もあるのだが、それは別の話であるからここではふれない。 仮名文字のことである。 例えば、「あ」や「ア」にはそれらを小書きした「ぁ」や「ァ」がある。 この小さく書く文字は母音の他には、促音の「っ」と拗音の「ゃ」「ゅ」「ょ」。 それから「ゎ」に限られている。 これで用はすむのだが、なんだか窮屈な気もする。 以前、古今亭志ん生のことばを引いたときにこんなセリフがあった。 「おまえンとこには男の子がいたなア」 ここで、「おまえン」の「ン」は本当は小書きなのだけどパソコンでは書けないのである。 これでは語感として調子が悪い。 しかし半角カナで代用したくはないのである。 第一、半角文字は機種依存文字であるし、それに字体が不細工である。 こう云うのは困るよなぁ。 私はパソコンで扱う文字フォントのサイズは比較的小さいのを好んで使っている。 以前は「MS明朝」や「MSゴシック」などを使っていたが、 これだと濁点と半濁点とが見分けがつかないのである。 縦の点々(濁点)と斜めの点々(半濁点)になってしまうからだ。 ところがフォントを「MS UI Gothic」にすると、フォントのサイズを小さくしても、 点々と丸の区別は案外と見分けがつくのである。 |
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砂書帖 ・ アップデート ▼ 秀丸エディタが先週、Ver4.18からVer5.01にバージョンアップして縦書き編集と段組が出来るようになった。 横書きと縦書きをメニューから簡単に切り替えることが出来る。 また齊藤秀夫さんのもうひとつのソフト、鶴亀メールが最新バージョン4.50から名称を変更して秀丸メールになった。 前の名称「鶴亀」が他社の商標権を侵害していたからだと云う。 ▼ 秀丸メールはシェアウェアだが秀丸エディタの利用者は無料で使うことが出来る。 また秀丸エディタについては「秀丸フリー制度」と云うのがあって、 お金のない学生、学校で利用する学生、及びフリーソフトの作者などは申請すれば無料で使えるようになる。 この制度のお陰で、私は3年前から秀丸エディタを使わせて貰(もら)っている。 そして私は秀丸エディタの利用者だから秀丸メールを無料で使っている。 ▼ Windowsの今月の月例セキュリティ・アップデートを行った。 先月から、Windows Update から Microsoft Update に代わってデザインが変更されている。 以前は一つひとつの件名ごとにアップデートするかどうかを選べたが、そう云うオプションはないようである。 ダウンロードとインストールの進捗を表示するダイアログは莫迦に大きい。 実行作業は前よりもスマートになっている。 |
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不思議な一日 司馬遼太郎が晩年の『街道をゆく』シリーズ42は『三浦半島記』で、 武家政権が生まれた地、三浦半島を歩きながら武士の発生について想いを巡らすところからはじまる。 <頼朝は、たしかにただ一人で日本史を変えた。 また史上最大の政治家ともいわれる。 ただ、その偉業のわりには、後世の人気に乏しい。 頼朝は、自分自身の成功にさえ酔わなかった。 つねに、政治計算をした。 その数式に適(あ)わないとなると、大功をもつ弟の義経さえ罪なくしてこれを追捕(ついぶ)し、 殺させた。> この『三浦半島記』の終わり近くに太平洋戦争の海軍少将、 木村昌福(まさとみ)にふれた一章、「鎌倉とキスカ島」がある。 キスカ島撤退作戦という至難な大仕事をやった名提督である。 戦後、みずから功を語ることなく昭和三十五年(1960)に歿している。 <太平洋戦争というのは、その名のとおり、 日本側が太平洋いっぱいに散在する大小の島々に兵力を拡散分駐させた戦争だった。 私はこの齢になって、この狂ったような兵力分散の構想が、 じつはただ一点、オランダ領東インドの石油をおさえるという主題から出ていることに気づいた。 日本海軍は、連合艦隊が二十数日走りまわれば備蓄石油が尽きるという欠陥を背負っている。 (中略)以上の理屈でいえば、北太平洋の島々などはさわらずともよかった。> ところが、大本営は開戦の翌年の昭和十七年(1942)六月、 米国領アリューシャン列島のうちのキスカ島とアッツ島を占拠した。 この作戦については、 島を要塞化するわけでもなかったし、作戦上の理由がよくわからないと司馬遼太郎は述べている。 日本軍が両島を占拠して一年未満の昭和十八年五月、 米軍が大挙アッツ島に来襲し島の形が変わるほど砲爆撃を加え、 陸戦部隊を上陸させた。 このとき、日本側の守備隊二千余は全滅した。 つぎはキスカ島だ。と、誰もが予想した。キスカ島にはアッツ島の倍の兵力がいた。 陸海軍合わせて計5639人。 東京の大本営はこれを撤退させる方針を決める。 この救出作戦の指揮を木村昌福に命じた。 <制空権も制海権も、米軍がにぎっている。 そのなかを、小さな軍艦でもって島にいる5千人以上の兵を救出するのである。 至難のわざだった。> 七月七日、木村は千島列島北端の幌筵島(ほろむしろとう)を出る。 主力は阿武隈(あぶくま)、木曾の二等巡洋艦で、それらに駆逐艦が従う。 <長駆してキスカ島に近づいたが、どういうわけか、反転して幌筵島にもどった。> このとき、木村は慎重だった。利用できるのは海霧しかなかった。 ところが、キスカ島付近は珍しく晴れていて海霧は湧かなかった。 だから引き返した。 大本営ではこの行動を臆病だとして評判が悪かった。 特別に捻出された石油を無駄に使ったともいわれた。 <名将の条件は、ひたすらに運である> と、司馬遼太郎は書いている。 木村の艦隊が二度目にキスカ島に向かっている七月二十六日。 アメリカ封鎖艦隊は、キスカ島の南西九十海里の地点で、日本艦隊らしきものをレーダーで捉えた。 それは錯覚だったのだが、アメリカ艦隊はその幻影に対して三十分にわたって砲戦した。 <このため、砲弾その他を補給する必要にせまられ、七月二十九日、一日だけ囲みを解いて 南方の補給基地にむかった。> その不思議な「一日だけ」の日に、木村艦隊はキスカ島の所定の湾に突入し全員を救出した。 撤収作業は五十五分。 司馬遼太郎はこう結んでいる。 <アッツ島はすべての人達が死に、キスカ島のほうは全員救出された。 かれらをのせた艦がアッツ島沖を通ったとき、島からバンザイの声が湧くのをきいたという人が、 何人かいた。 私は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)談を好まないが、この話ばかりは信じたい。> |
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砂書帖 ・ 暑中無題 ▼ 米マイクロソフトは、来週の水曜日(10日)に公開予定のセキュリティ・パッチ(修正プログラム) の概要を発表した。 8月の月例パッチは6件で、深刻度は「緊急」のものが含まれる。 加えて、セキュリティ以外の優先度の高い更新プログラムも1件公開すると云う。 さらに、「悪意のあるソフトウェアの削除ツール」の新版も公開するそうだ。 ▼ 悪意のあるソフトウェアの削除ツールは先月のアップデートのときにはじめてインストールした。 ツールと云うから起動して使うのかと思ったが、何処にあるのかわからない。 悪意のあるソフトウェアに感染すると、それを検出して現れるのかしら。 尤も、このツールは感染しないと使い道はないのである。 ▼ プロバイダのASAHIネットが漸(ようや)くブログサービス「アサブロ」の正式版をはじめるらしい。 この欄はブログにした方がいいと思うのだけど、今のところ様子を見ている。 アサブロのベータ版を見ると基本的な機能しか備えていない。 使い勝手も悪そうだし、それを覚えるのも億劫である。 暑いしね。 |
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戦中派日記 関川夏央さんの『戦中派天才老人・山田風太郎』(ちくま文庫)は面白い。 戦争、老い、死と云う真面目なテーマを真面目ぶるのでなく、とぼけた感じに笑いがある。 ときに捧腹絶倒する。 これは晩年の山田風太郎を訪ねて清談雑談冗談を取り交わすこと一年有半。 そこから山田風太郎の浩瀚(こうかん)な著作に遡(さかのぼ)ってあたりつつ、 それをインタビュー風の対談に再構成したもので、 山田風太郎が喋ったこと、書いたことを採録した「物語」である。 対話の合間に、戦争中に医学生だった頃の山田風太郎の日記が挿入される。 作家になる前の風太郎青年が書いたことと、 晩年の風太郎老人が書くこと云うことに矛盾がないのに驚いてしまう。 むかし云ってたことと違うことを云い出す人はよくいるが。 風太郎さんは青年のときから老人だったのかなぁ。 日記は満二十歳のときの昭和十七年から十九年までの『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)、 終戦の年の昭和二十年一年間の『戦中派不戦日記』(講談社文庫)の二冊。 関川さんは、これらを熟読すると戦時下の日本と日本人がおそろしいほどわかると云う。 この二冊の日記は前から持っていて、いつか読もうと思っているのだけど、 八月は忙しい。 少し時間を作って読もうかなぁ。 |
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序文 内田百閒(ひゃっけん)は文学のことを文章の道、文章道と云った。 百閒の弟子に中村武志(たけし)がいる。 大正十五年、旧制松本中学を卒業、成績が悪いために、進学を諦め、 東京鉄道局の偉い人に頼んで裏口就職をした、とは本人の弁で戦後は国鉄本社の社内報「国鉄」の編集者を勤める。 後輩に同じく百閒の弟子で平山三郎がいる。 そう、あのヒマラヤ山系である。 平山三郎は百閒のお供として『阿呆列車』の表舞台に現れるが、 中村武志はいつも見送るばかりの見送亭夢袋(むたい)として登場している。 その中村武志が『埋草(うめくさ)随筆』を出版することになる。 師匠の百閒は序文を請われて言下に断った。 しかし断っても断っても頼まれるから、とうとう序文を書いた。 序文なら褒めるものと誰もが思うが、百閒は悪口を書いた。 < 私は永年文章を書いて来たが、どう云う事を 目じるしにしてその道を歩いているかと云う点は昔も今も変わらない。 不変なものを見つめて来たつもりでいる。…中略…文章の道が険しい とか遠いとか、そう云う事を持ち出す話ではないので、手近のことを 云うと、書いたものは人が読んでくれる。読ませる為に書くのではな い筈で、表現せずにいられない事を文章で表現する。それを人が読む と云う風に考えたいが、それもどうでもいい事にして、兎に角自分の 文章を人が読む。読んで面白かったと云われると、いつでもいやな気 がする。腹の底に反発する虫がいる。あなたの云う様な意味で面白い 物を書いたつもりはないと思いたい。…中略…しかし私は私の目じる しを目あてに書いただけだから、面白くても知りませんと云いたい。 中村さんの書くものについて、私が抱いている不満は、多くの場合 右の順序が逆になっていやしないかと思われる点にある。出発から面 白い事を書こうと思っているのではないかと私は邪推する。書いたも のが面白いのではなく、面白い物を書こうとするのは、自分の目じる しを見慣れた私から云えば邪道である。…中略…幸いにして私の忠言 を容れて下さるなら、この次の文集は、止むを得ずして面白い、どこ が面白いのか解らないのに面白いと云う風になる様期待する。 > 原文は旧漢字、旧カナ遣いである。 また縦書きを横書きに改めたので、「右の順序」は「上の順序」と読み替えてください。 この序文、よくよく読めば実に面白い。 文章の道の目標を目じるしと云うところなどはいかにも百閒らしい。 |
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