日常茶飯

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#13 

「日常茶飯」半年目

 この欄をはじめて半年が過ぎた。 そこで「日常茶飯」のことを書こうと思っていたが、変更して別の話をしたい。
 火曜の朝、夏目房之介さんからメールを頂いた。 はじめビックリしたが、前に夏目さんのブログと、 夏目さんの新刊および近刊本の広告みたいな事を書いたのをご覧になったらしい。 その話を何人かにしたら、そりゃすごい、と結構盛上がった。嬉しかった。
 夏目さんの新刊本は読むつもりでいたのだが、ここ2週間ほど色々あって身動きがとれず、 本屋には行かず仕舞い。 それでお礼の返事だけで済ませた。 今日ようやく区切りがついて暇があったので買ってきた。 デジカメで撮ってみたが、本の表紙というのは光の加減が煩くて難しい(一寸歪んでいる)。 「日常茶飯」をやっている効用として、こういう事もあるのだ。 以前から云ってるけど「便利」なのである。 それにしても、検索エンジンというものは凄いなあ。

買ったのだ!
'04年09月30日

今年の猛暑・台風・豪雨

 2、3日前までチンタラ、チンタラしていた台風21号が、急に速度を速めて列島を縦断している。 被害も出ているようだ。 今年の台風は大型で、集中豪雨をもたらすものばかり。 これで8つ目、年間上陸最多記録を再び更新した。 真夏日の日数も、各地で過去最多を更新した。
 先日日曜の日経新聞によると、豪雨・猛暑の兆候は昨年から現れていたそうだ。 太平洋の赤道と日付変更線が交わる付近の海洋で、海水温の高い状態が観測されてきたと云う。 十分に暖まった海水が激しい上昇気流を起こし、それが巨大な対流を引き起こして、 各地に異常気象をもたらしたと考えられるそうだ。
 今年の猛暑は、太平洋付近で起きた上昇気流がインドネシア付近で下降し、 その一部がフィリピン沖で上昇する。 この上昇気流は、通常の夏に起きるフィリピン沖の上昇気流を強めて、 日本付近で下降気流となり、日本の太平洋高気圧と相まって働いた結果、 長期間の晴天と高温をもたらした、と説明している。 気候変動予測の数値シミュレーションの結果では、 100年後の日本は今年の夏に近い気象が普通になる可能性が高いと云う。 やんぬるかな。 今夏の列島は温暖化を先取りした気象だったと云えるかもしれないそうだ。
'04年09月29日

待っている

 Mozilla 1.7.3 日本語版のリリースを待っている。 Mozillaプロジェクトのもうひとつの軽量ブラウザ Firefox の方は先日リーリスされた。 リリースからわずか4日間で100万回以上ダウンロードされ、10日で200万回を超えたと云う。 試しに、Firefox を使ってみた。
 同じタブ式ブラウザなのだが、どうも使い心地が違う。 慣れの問題だろうが、Mozilla の方がよい。 Mozilla だと、Cookieマネージャやポップアップマネージャなどが便利なのだ。 ただし、Firefox の方がタブの開き方は使い良い。
 先日 IT Pro の記事にあったが、IE(Internet Explorer)はこの3年程は実質的なバージョンアップはない。 Microsoftにとって IE はもはや戦略的技術ではないのだと云う。 今にして思えば、IE と Netscape のシェア争いは何だったのだろう。 IE を Windows 98 に統合して、Netscape を追い落とし、Netscape社はAOL(America Online)に買収された。 紆余曲折したものの漸くMozilla Firefox となって蘇った。 Mozilla 1.7.3 日本語版のリリースを待っている。
'04年09月27日

現代日本語の文体

 日本語の話題が続いた最後に、現代日本語の文体について触れようと思う。 明治以来、文章は文語文から口語文に変わった。 口語文は、始まってようやく百年程度しか経っていない。 つまり、十分に成熟していない文体を使って、われわれはものを考えている。 不自由しているのだ。
 丸谷才一さんによると、骨格は欧文脈で、 それで日本古来の調子をうまく生かした文体が(出来の良い)現代日本文だと云う。 考えてみれば、明治・大正の小説家は欧文学の教養を身につけている。 夏目漱石は、英文学を専攻し十八世紀のイギリスの小説を学び、そこから漱石の小説は生まれたし、 漱石の門下生にしても、鈴木三重吉、小宮豊隆、森田草平、芥川龍之介や内田百閒などは、 英文学やドイツ文学を専攻し、大学などで英語やドイツ語の教師をしていた。
 丸谷さんの『文章読本』(中公文庫)の第一章を読み返してみた。 この本は前書きはなく第一章から始まっていて、『文章読本』は谷崎潤一郎が昭和九年に著わし、 その後、川端康成、三島由紀夫、中村慎一郎が書いており、 そして今わたし(丸谷さん)が同じ題の本に取りかかろうとする。と云う文で始まる。 教科書などに、既に名著の誉れ高いものがあるのに、なぜ同様なものを書くかと言い訳する著者があるが、 丸谷さんにはそういう卑屈さや無駄がなく、半世紀にも満たないうちに、 『文章読本』が五人の小説家によって作られたのは、なぜかと云う設問を設定する。 勿論(もちろん)五人目の小説家は丸谷さんで、図々しいなあと思うのだけれどいい度胸である。
 設問を解くにあたって、あっさりと谷崎以外は切り捨ててしまう。 注釈で、川端のは他人による代作と云われているなどとして。 それで、谷崎が挙げた文章の奥義である「文法に囚われないこと」の文法とは、英文法のことだと指摘する。 その様に置き換えると、意味が通る。 谷崎は英文法を研究し尽くして小説を書いて、欧文脈の文章を綴ったあげく、 その非を悟って書いたのが『文章読本』だと云う。 谷崎潤一郎と云えば平仮名ばっかりの文章と思っていたら、丸谷さんは欧文脈だと云う。 更に、漢詩文の趣味を残す永井荷風(かふう)ですら、 それは表面に塗ってある絵の具に過ぎず、骨格は欧文脈で出来ていると指摘する。 そして、口語体なるものを創造したのは小説家だと結論する。 一部を引くと、「われわれには説教も演説もなかった。 ついでに言えば芝居もなかった。 詩は七五調の文体で書かれることによつて文明全体と関係を持つてゐたし、 批評はついこのあひだまで存在しなかった。 歴史家?ゐなかったんぢやないか、よくは知らないけれど。 学者?文章を書かなかつたんだらう、たぶん。」と述べ、小説家が口語文の文体を作り、 それを借りて、政治家は演説したり、新聞記者は記事を書いた、云々。 丸谷さんは口語体は、最初から小説を書くために作られたものだから、 普遍的な型が確立していない。 一般の人の作文には向かない、と云って話を続ける。 旨い書き出しだなあと思う。
'04年09月25日

漢字と日本人・補足

 高島俊男さんのあとがきを引いたが、何の事やら分らないかも知れないと思うので、 少し補足する。
 漢字は中国から入ってきた。 今から千五百年前と云う。 その頃の日本語、つまり「和語」あるいは「やまとことば」は、 文字を持たなかったので漢字を借用して使うようになった。 聖徳太子の時代には、既に漢字は使われているからそれより前になる。 ついでに云えば、「日本」という国号は聖徳太子より後の六八九年だから、倭人の時代である (聖徳太子も倭人である)。
 高島俊男さんは、隣にたまたま中国があったから日本語は漢字を使うようになった。 隣がイギリスやフランスだったらABCだったろうと云う。 そしてそれは日本語にとって不幸なことだったと主張し、三つの理由を挙げる。 第一に、日本語の発達が止まった。 第二に、漢字はあくまで漢語を書き表すための文字であって、日本語には向いていない。 第三は、音節の問題を挙げている。
 また、中国にはその二千年も前から文字があったのに日本にはなかった。 これは、日本の文化は劣った文化であったからだ、と思っている人があるが、高島さんはそれは間違いだと。 文化も個人と同じで、早く生まれるか、後から生まれるかの違いであって、 子供が大人に対して劣等感を持たないのと同じように、優劣の問題ではないと云う。 実はこのあたりが面白い。 高島さんの本が、『漢字と日本語』ではなく『漢字と日本人』なのは、 日本人の精神面を論じているからである。
 明治維新後、西洋の事物や観念を和製漢語に訳して取り入れて、同音異義語だらけになる。 そこから、言葉と文字が転倒した日本語の問題が生じる。 初代文部大臣の森有礼は、英語を国語にしようと唱えた。 さずがにこれは一蹴されたが、その後も日本語を捨てようという主張や、 日本語は捨てないが漢字を捨てようと主張する音標文字論など言語改革論が盛んに唱えられた。 今でも唱える人たちはいる。 そして最たる国語改革が、昭和敗戦直後に行なわれた。 昭和二十年の仮名遣いの変更、字体の変更、漢字の制限である。 高島さんは云う。 「これがもたらした最も重大な効果は、それ以後の日本人と、 過去の日本人 -- その生活や文化や遺産 -- とのあいだの通路を切断したところにあった」。 前回あとがきを引いた、高島さんの二番目の考えは、この事をさしている。 過去を捨てると云うことは、伝統を失うことであり、 伝統がないなら、われわれの文化はそもそも存在しないことになるからである。
'04年09月23日

漢字と日本人

 小学唱歌「春の小川」は大正元年の歌で、出だしは「♪春の小川は さらさら流る。」である。 勿論(もちろん)小学校で習った歌詞は「さらさら行くよ」であって、 これは昭和十七年に文部省が、 口語体でなければならないとして改竄(かいざん)したのである。 しかも、戦時中にである。 このことは『日本唱歌集』に注釈してあるので、ずっと以前から知っていたが、 その理由を知りたいと思っていた。 それが分ったのは三年前で、たまたま読んだ本による。 それは、高島俊男さんの『漢字と日本人』(文春新書)である。 爾来(じらい)、私はこの中国文学の碩学で、文章の達人を尊敬してしまい、 高島さんの文庫版『お言葉ですが…』の読者になった。
 文字は言葉の影法師だという。 あるいは、耳で聞いて分る言葉が本当の言葉だという。 本来、言語の実体は音声である。 文字はその影に過ぎないし、耳で聞いて意味をとらえるのが言語の本質である。 ところが、ひとり日本語のみが例外で、 現代日本語は文字が実体で、漢字に結びつけないと意味が確定しない。 例えば冒頭にある唱歌。 書店や図書館には、書籍検索の端末機が置いてある。 入力はひらがなかカタカナが普通であるから、 「しょうか」を検索すると、「唱歌」の他に「消化」、「消火」、「商科」など同音異義語があるために、 歌集以外に医学書など他の分野の書籍のリストが出てくる。 日本人は、文脈から瞬時に判断し該当する漢字を思い浮かべ意味を解するということを無意識に行なっているのである。 高島さんの言葉を借りれば、日本語は「ことばの背後に漢字がはりついている」のである。 高島さんは、なぜこの様な転倒が生じたのかを『漢字と日本人』で明晰に解き明かしている。
 この本は面白いし、読んで貰(もら)うのが一番よいと思うからこれ以上はふれないが、 あとがきから少し引いておく。
 「わたしの考えは、まず第一に、 漢字と日本語とはあまりにも性質がちがうためにどうしてもしっくりしないのであるが、 しかしこれでやってきたのであるからこれでやってゆくよりほかない、ということ、第二に、 われわれのよって立つところは過去の日本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、 とにかく過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけないのだということ、この二つである」。
'04年09月18日

スパイウエア

 ダイヤル・アップ接続していた頃は、メディアプレイヤーなどは使うことはなかった。 ブロードバンドに移ると、ニュースサイトは動画で配信するし、 企業も製品情報やCMを動画で流すようになったから、 段々と利用するようになった。 そうなると、マイクロソフトも含めてフリーで配布される場合が多い、 マルチメディア関連のソフトに関心が及ぶ。 これらは、スパイウエアを潜ませている場合が多いからである。
 スパイウエアは、おおざっぱに云うと、本人の知らぬ間に趣味や嗜好・個人情報を収集し、 ネットの特定の場所に送るプログラムの類の総称で、プログラムの他にクッキーを利用するものもある。 また、スパイウエアを検知して削除するソフトもフリーで配布されているので実行してみると、 PCの初期状態からして幾つも見つかる。 しかし、これまでは余り気にもとめていなかった。
 なぜ本人の知らぬ間にブラウザの追跡履歴を記録するかと云うと、 その情報は企業のマーケティングなどに利用されているらしく、 最近ではそういう商売が確立しているようである。 ビジネスに利用されているのなら、少しは気にした方が良さそうなので、 対策のフリーソフト Spybot と SpywareBlaster を入れてみた。 これらは、ペアで使う姉妹品らしい。 私はこれについて説明する任にはないので、詳しく解説されたHPのURLを下に示す。 HPタイトルに驚くかもしれないが、内容は信頼できると思う。 ただ、最近は更新がないようである。


スパイウエア対策( Spybot と SpywareBlaster の利用法) http://higaitaisaku.web.infoseek.co.jp/menu5.html
'04年09月17日

産経抄

 「産経抄」は、石井英夫氏が三十年以上ひとりで書いている産経新聞の一面コラムである。 石井氏は多くの人が思っていて、大新聞が決して書かないことを書く。
 栃木県小山市の幼い兄弟の事件を、全国紙は社説や一面コラムで書いている。 ただし、日経は昨日の「春秋」にある。 この事件は同居していた犯人も兄弟の父親も不可解でおかしい。 なのに産経を除いて、どれもこの事に触れず、警察や児童相談所を批判する。 勿論、此方もおかしい。 片方の、警察や相談所だけを批判するのは、いつもの紋切り型で当たり障りがないからで、 政治家の悪口を言うのに似ている。 何を言っても言い返される恐れはない。 新聞の論説は、言論であって商品である。 出来るだけ多くのお客に気に入られようとする。 だから、他人事のようで、何処かよそよそしく、柄にもなく説教じみている。
 「産経抄」の石井氏は個人の目線で書いている。 よそよそしさがない。 歯切れよく、それでいて眼差しは暖かく、風流でもある。 歴史事実について教わることも多い。 過去のコラムは、『クロニクル産経抄25年』や文春文庫の『産経抄 この五年』、 また最近出版の『産経抄 それから三年』に収録されている。 一方で新聞の論説は商品であって言論である。 言論は読まれることを欲するから、買わずとも読める。 私は購読者ではないが、「産経抄」の読者である。


「産経抄」
http://www.sankei.co.jp/news/column.htm
'04年09月16日

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