マクナマラの戦争 「フォッグ・オブ・ウォー(THE FOG OF WAR)」と云うドキュメンタリー映画が、 上映されていることを知った。 副題に「マクナマラ元米国防長官の告白」とある。 ロバート・マクナマラと云う老人を知ったのは、 10年ほど前に放送されたNHKスペシャル「十月の悪夢」である。 62年のキューバ核ミサイル危機を描いたドキュメンタリーで、 番組は米・ソ連・キューバの三国の当事者がハバナで、 なぜ危機が起きたのか究明する会議の様子で始まる。 私にとって、ケネディ大統領やフルシチョフ書記長は歴史の中の人物である。 3人目の指導者キューバのカストロをテレビで見て、歴史の亡霊が現れたようで不思議な気がした。 カストロは生きていることを知った(現在も健在)。 そしてこの会議で発言する当時米国防長官だったマクナマラに興味を抱いた。 この興味は後にして判ったのだが、悪人としてのマクナマラである。 それは善意を為す、あるいは正しいことを行なおうとして、 悪を為した人に見えたのだ。 それから、ハルバースタムのあの有名な『ベスト&ブライテスト』を読んだ。 ケネディが集め、ジョンソンが引き継いだ「最良にして最も聡明な」人材と謳われたエリートたちが、 米国をベトナム戦争の泥沼に導いていく様を描いたものである。 マクナマラは経営管理の研究で業績を上げ、最も若くしてハーバード大学ビジネススクールの助教授になる。 後にフォード社に入り、やがて社長に昇つめる。 その頃、最年少の米国大統領が誕生する。 ジョン・F・ケネディである。 入閣を要請され、マクナマラは国防長官に就任する。 ベトナム戦争は、マクナマラの戦争と呼ばれた。 ベトナム戦争を指導するマクナマラは、経営管理理論を戦争に応用するかのように、 計算機を動かし数値をはじき出し、それに基づいて戦争を進めて行く。 この人物から戦争指導者という要素を取り除けば、 模範的で善良な人ともいえなくはないのがマクナマラと云う人間である。 ハバナの会議後、マクナマラはベトナムに赴きベトナム側の当時の戦争指導者たちとも 歴史を検証する会議を行なった。 近年出版された『マクナマラ回顧録』の中で、ベトナム戦争は誤りだったと 自ら犯した過ちを白状している。 ソニー・ピクチャーズ http://www.sonypictures.jp/ |
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模倣 「模倣」することは悪いことだとする風潮があるようだが、そうとも限らない。 寧ろ、「個性」や「独創」というものは、「模倣」から生じるものかもしれない。 芸事には型がある。 師匠につくのはその型を覚えるためで、型を身につけその上で尚、 型からはみ出そうとする内なる何者かが存在すれば、 それは「個性」や「独創」に通じる何者かであろう。 好き勝手にすることと「個性」とは無縁である。 最近の映画やドラマがつまらないのは、模倣しなくなったからではないかと思う。 黒澤明の初期の映画『虎の尾を踏む男達』は、歌舞伎の十八番『勧進帳(かんじんちょう)』のパロディ、 義経と弁慶である。 モンキー・パンチのアニメの『ルパン3世』も、弁天小僧の『白波五人男』のパロディがあったし、 『ルパン3世』自体は映画『黄金の7人』を真似たものである。 ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』だって、黒澤の『隠し砦の三悪人』の真似であり、 真似てそれでもオリジナル作品になっている。 手塚治虫も赤塚不二夫も、歌舞伎のパロディを書いたと思うが、いま思い出せない。 藤沢周平の時代小説にも、世話談議『天保六花撰』を模倣した『天保悪党伝』がある。 幕末の天保時代、御家人崩れの片岡直次郎が、悪事の果てに処刑される。 講談師の松林伯円がこれに目をつけ、六人の悪党を描く『天保六花撰』と題する講談に仕立てたところ、 たいそう人気を博した。 天保銭に、平安時代の六人の名歌人、六歌仙を掛けたもので、六歌仙の一人の小野小町になぞらえて、 花魁(おいらん)・三千歳(みちとせ)を登場させる。 明治期に、河竹黙阿弥はこれを歌舞伎に仕立てている。 歌舞伎は、江戸時代より何百年も経て、洗練され選びぬかれたドラマのみ現代に生き残っている。 登場する人物の相関や、物語の進め方、優れたドラマの要素が詰まっている。 いま流行の韓国ドラマ『冬のソナタ』にも、 近松門左衛門の浄瑠璃や歌舞伎に、その原型があったとしても不思議ではない。 |
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夏目房之介の「で?」 漫画コラムニスト、夏目房之介さんのブログをいつも見ている。 房之介さんの本で読んだのは『古典教養そこつ講座』だけで、それも十年くらい前だ。 内容も忘れてしまったが、能楽、歌舞伎、オペラなど東西の「古典」の入門記だったと思う。 だから、房之介さんの「マンガ論」の中身は知らない。 マンガを模写しながら分析するということをやっておられたと思う。 ただし、新聞雑誌に何か書いているのを発見すれば、必ず目を通している。 4年前に祖父・漱石の歿年49を超えて50歳になり、 漱石の小説をもじった『これから』と云う本の書評を読んだ覚えがある。 房之介さんのブログは、5月の半ばから始まり、私はその読者である。 本当はブログに興味があり、その展開を見ていたのだが段々わかってきた。 掲示板とは違う面白さがある。 ただし日本人らしく、日記的なものがほとんどで、 この形式に馴染む内容は限られるから、もっと開拓されていい。 「夏目房之介の「で?」」を見ていて興味深いのが、 房之介さんが漱石に取り組みだしたことである。 これは意外な展開で、房之介さん自身「これは僕にとって人生の予定になかったことである」 と書いている。 去年『漱石の孫』を出版したら、 「これがマンガ論の本の何倍も売れ、商業的にもこの路線を開拓するメリットがあり、 また僕自身も漱石問題により深く興味をもってコミットするようになっていた」 と云う。 更に、最近発見された「文学論」の草稿に関連して、 NHKの特集番組「祖父漱石 夏目房之介がたどる「猫」誕生百年」が好評だったことが切っ掛けのようである。 「この番組を通じて、僕はそれまで見る気もなかった「文学論」や、漱石の近代についての思想、当時の科学史的なパラダイムとの関係にも興味をもつようになり、「漱石の孫」よりも踏み込んだ場所にいこうとしている」と書いている。 房之介さんの書棚は、 もともとマンガの豪華本などを並べていた場所に、突然ふえることになった漱石が闖入している状態。 房之介さんは、夜中に喧嘩しているんじゃないかと云う。 ここからは、宣伝。 房之介さんは、サイトをお持ちの方は、 宣伝いただけるとヒッジョーに嬉しいのである由。 いつも読ませて貰っているので、そのお礼。 『マンガの深読み、大人読み』(イーストプレス)刊行予定 『マンガ学への挑戦 -進化する批評地図―』(NTT出版)刊行予定 夏目房之介の「で?」 http://www.ringolab.com/note/natsume/ 夏目房之介さんの連載コラム「マンガの発見」 http://www.comicpark.net/index.asp |
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内田百閒の顔 『百鬼園写真帖』が発売予定日よりも早く出ている。 これで、ちくま文庫の『内田百閒集成』全二十四巻が完結し、 今後暫くは百閒の文庫版は出ないのかもしれない。 百鬼園先生が阿房列車を走らせていた頃の写真には、ヒマラヤ山系さんとともに写っている。 宿の前にステッキを持ち口をへの字に曲げて立つ顔は、いかにも「くそじじい」の顔をしている。 食膳を前にして、思わず笑っている。 山系さんをお供に、浴衣姿で散策する様子は、古い映画をコマ割りで見ているようだ。 摩阿陀会(まあだかい)の写真を見ていると、 松村達雄が演じる黒澤明の映画の演出が実に素晴らしいかよくわかる。 ドイツ文学者の高橋義孝は、「内田百閒とは、如何なる人物か。一言を持っていえば、 くそじじいである」と書いている。 「くそじじい」の風貌は、阿房列車を走らせ、 還暦を迎え摩阿陀会(まあだかい)を開いた頃にはできあがっているが、 ときどき違う印象の顔を見せている。 百閒はもともと顔が大きく、腫れぼったい。 そのうえ、ギョッとするような驚いた目をしている。 漱石の家に伺えば、決まって夏目家の子どもたちは、「鳩の眼が来た、鳩の眼が来た」と喜んだという。 合羽(かっぱ)坂時代というのがある。 この頃の写真の印象は一種独特で、この様な顔付きが後にも現れる。 日本郵船の嘱託の頃は、太っていて頭を丸め髭を蓄えいる。 いかにも入道のようだ。 この時の写真を、郷里の岡山の恩師に送ったら、病床の恩師が途端に元気になったと、百閒は書いている。 百閒文学の底には悲哀がある。 それは家族の事が関係していると思うが、 今はそれを書く暇がない。関心がお有りなら冒頭の年譜を読んで頂きたい。 |
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葭の髄から 昨夜、本棚に買った覚えのない文庫本を見つけた(盗んだと云うことではないよ)。 阿川弘之さんの『葭(よし)の髄(ずい)から』(文春文庫)で、 『文藝春秋』の巻頭随筆である。 何日か前に、阿川さんは馴染みはないと書いたばかりである。 いつなんで買ったのだろうと思い、テレビの台風情報を聞きながら読んでみたら、 これが面白い。 そこで、今度は阿川さんの『葭の髄から』を褒(ほ)める文でも書いてみようと、読んでいると モーパッサンの短篇「トワーヌ」の話が出てくる。 陽気なトワーヌじいさんは、飲み過ぎ食べ過ぎで、脳卒中で倒れて寝たきりになる。 寝たきりになったくせに、じいさんは相変わらず元気で、病室に仲間を集めてドミノをしたりするので、 ばあさんは腹が立って仕方がない。 この役立たずに何か役をさせてやろうと、両脇の下に卵をたくさん抱かせてみたところ 見事にヒナがかえったという、滑稽譚(たん)である。 読んで阿川さんは疑問を持つ。 寝たきりじいさんの下(しも)の始末はどうしているのかと。 阿川さんが疑問を持ったのは、ご自身がそのような不安を抱く年齢だからである。 そこで知り合いのアメリカ人に訊ねてみると、 「聖書には糞便のことは出て来ません」とのこと。 実に聖書以来、西洋の文学では、 人間はウンコやオシッコはしないことになっているという大発見である。 ここまで読んで、「おや、これどこかで読んだことがある」と思い記憶を辿って行くと、 高島俊男さんが『お言葉ですが…』で引用したのを読んだのであった。 面白かったので、去年の暮れぐらいに『葭の髄から』を買ったのだろう。 |
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台風に地震 一昨日、5日の海底地震は、台風が連れて来たのかと、唐突で驚いた。 台風も地震も、太平洋からやって来たのだから、狼藉者の兄弟かと怪しんでみたくなる。 ふたつの地震は共にマグニチュード8前後の大地震で、震源は最初が紀伊半島沖、深夜のが 東海道沖だったようだ。 津波も来たと云う。 震源が移動したので、阪神大震災の時を連想した。 専門家の方では別の懸念を抱いたらしく、昨日は政府の地震調査委員会が開かれたそうだ。 それによると、ふたつの地震はひとつのプレート(岩板)で起きた同じタイプの地震で、 最初は大きく壊れず、やがて破壊が拡大して、次に本震が起きた「前震-本震-余震型」だと云う。 懸念されたのは、将来マグニチュード8クラスとされる東南海地震への影響である。 こちらは場所が違って、プレートの境目がずれて起きるタイプで、 計算すると、寧(むし)ろ東南海地震を発生させる力を減少させる方向だった、 として東南海地震への影響はないと云う。 95年の阪神大震災は、最初は北海道から東北地方の間を、地震が移りながら何度か起きた。 そして突然、淡路島に飛んで起きたので、震源地が移動すると気になる。 おやぢは凋落したが、やはり地震、雷、火事、台風は怖い。 |
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百閒中毒 内田百閒の愛読者の中には、作品すべてを読まないと気が済まない、 いわば百閒中毒みたいな人も多いと云う。 昨日そんな人のブログを見た。 タイトルからして百閒ファンに違いないと分かる。 グラフィックアーティストで女性の方である。 タイトルを「天知る地知る。わかっとる」にしようかとも思ったとあるので、 ちくま文庫の「内田百閒集成」だなと分る。 自身のイラスト作品が添えられていて、感じのよいページである。 年来の百閒ファンというのではなく、この何ヶ月前からのようである。 愛猫(あいびょう)ノラの失踪やクルツの死を綴った『ノラや』が入り口だったそうだ。 驚くのは、もの凄い勢いで読んでいること。 一晩、二晩かけて一気読みしている。 文庫をたいらげてしまうと、講談社の全集を古書店に注文して手に入れ取りかかる。 この全集は、平山三郎さんが編纂されたもので、私は見たことがない。 平山さんは、国鉄を辞めた後に講談社の嘱託として全集を編纂されたという。 私が知るのは、その後に出た福武書店の全集である。 百閒は面白いエピソードだらけの人で、このブログでも、そのひとつ、漱石の洋服について発見し、おもしろ可笑しく綴ってある。 それは、千円札の肖像画で漱石が着ている洋服は、漱石没後に百閒が貰(もら)い受けたという話。 これだけのことだけど、百閒の手に掛るとこれが可笑しい。 着てみたり、惜しくなって脱いだり、また出して着たりする内にボロボロになってしまう。 千円札の肖像画のもとになる写真は、明治天皇崩御の後の大葬の日に撮影したもので、 漱石は黒のネクタイと、黒い喪章をつけている。 もう一枚、漱石が顔を傾けて、詩人が瞑想しているようなのがあるが、同時に撮影された。 このブログのテーマ自体は、百閒ではない。 「表現に関することを、自身の生活に根ざした観点で述べる」と云うことらしく、その中に読書日記として百閒が出てくる。 日記ページは、過去に遡って読むことができる。 考えなどを時系列に読んでいくと、得るものがあるし面白い。 百閒に関連した、「オイチニの薬屋さん」や「山高帽子」のイラストは見て楽しかった。 また百閒物件になった。 |
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ヒマラヤ山系さん(承前) 平山三郎氏が亡くなられたのは四年前の、平成十二年三月二十四日である。 享年八十二。 百鬼園先生とほぼ同じくらい、長く生きられたことになる。 今朝この事実関係を調べに図書館へ行った。 朝日新聞の縮刷版の訃報欄の頁を繰って調べた。 大体の見当は付いていたけれども、 手伝いのお供がいたおかげで、作業は難なく片付いた。 図書館は一、二年ぶりだが、インターネットが使えるようになっていた。 アメリカ並になっているので、少し驚いた。 帰りに蕎麦屋で昼食を取った。 メニューに松茸ご飯がある。 季節柄まだ早すぎる気もするが、美味しそうなので注文してみたら旨かった。 平山さんの解説は、どれも自己主張することなく、 百鬼園先生を余すことなく読者に伝えることに専念している。 控えめで、簡潔で無駄のない解説になっている。 『御馳走帖』(中公文庫)から少し引く。 「戦後すぐの掘立小屋の時分は、シャアシャアというのが何よりの御馳走だった。 平山君、今日はシャアシャアを持って供するからね、と嬉しそうな顔で予告された。 フライパンにバターを引いて鶏肉をいれるとシャアシャアと芳ばしい音がする、それがその時分の御馳走だった」。 百鬼園先生は、昭和四十六年に老衰のため急逝する。 文集『日没閉門』が遺作となる。 後年、平山氏が編纂した百鬼園先生の文集の解説は、次のように終わっている。 「日没閉門出来の前日、四月二十日夕刻、百鬼園先生は永眠した。 枕元のグラスに半分飲み残したシャムパンが置かれてあった」。 |
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ヒマラヤ山系さん 昨晩の「電子文庫パブリ」は、出版社12社が運営しているそうで、 書籍数は六千点以上と充実している。 「立ち読み」をクリックすれば読むこともできる。 どうやらサンプルではなく本物のようだ。 最後の頁まで見ることができる。 それで、10分の制限時間があって、過ぎると文字が揺れだして全く読めなくなる。 一度読めなくなった本は、後でブラウザを立ち上げて再び読みに行ってもダメだった。 怪しんで、今日再び読みに行ったら読めたので、どういう仕組みか知らないが、一定の時間が経つまでスクランブルがかかるらしい。 昨日立ち読みしたのは、阿川弘之さんの『南蛮阿房(あほう)列車』で、 内田百閒(ひゃっけん)のパロディである。 この大作家の老先生に馴染みはないが、阿川佐和子さんならテレビでお馴染みである。 暫く読んでみたが、本家にはかなわない。 百閒の飄々(ひょうひょう)として無駄のない文章を彷彿するものはない。 阿川さんは、頭がよすぎるのだろう。 山口瞳は、百閒の文章を真似てみたが、どうやってもうまくいかない、 どうやっても似ない、無理に真似すると全体がガタガタになってしまうと書いている。 百閒は文学と云わないで文章道と云った。 百閒は文章の巧拙のそとにあって別格だそうだ。 「特別阿房列車」で始まる『阿房列車』シリーズは、 用事もないのに汽車に乗って全国各地を廻る紀行文である。 百閒が阿房列車を走らせるとき、決まってお供をするのがヒマラヤ山系さんである。 ヒマラヤ山系とは、平山三郎という人のことで、 百閒はこういう語呂合わせを好んで使う。 他に、甘木(あまき)という人をよく登場させるが、 これは某の字を上下分けて書いた仮名である。 『阿房列車』のヒマラヤさんは、「丸でどぶ鼠(ネズミ)」、 「年は若いし邪魔にもならぬ」、「泥坊の様な顔をしている」 と、ひどい云われようで、 それにヒマラヤさんは、いつも「はあ」、「はあ」とばかり応えている。 平山氏は若いころから百閒の愛読者で、国鉄本社で社内報雑誌の編集をしていた。 先生の原稿が欲しくてしょうがない。 意を決して、日本郵船会社の嘱託である百閒を訪ねて行き知遇を得る。 百閒の日記に平山氏が現れるのは『百鬼園戦後日記』からだから、それより何年か前の話だろう。 以来、終生のお供となる。 百閒没後の平山氏は、百閒の全集や多くの作品集を編纂している。 また解説を書いている。 それらは至れり尽くせりで、解説は簡潔で内容豊富である。 平山氏自身の著作も幾つかあった様だが、今は絶版になっている。 願わくば、そういうものを電子書籍で復刊して欲しい。 電子書籍なら、リスクも予算も手間も掛らないだろう。 私は、平山三郎さんの業績を評価している。 百閒も、漱石門下生の中に在り唯一『漱石全集』の編纂校閲を続けていたのである。 |
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縦書きと横書き 電子書籍というものが充実していることを知った。 Webで購入し、ダウンロードしてパソコンやPDAで読む、電子ブックのことである。 プラグインをインストールして、立ち読みをクリックするとブラウザで10分まで読むことが出来る。 主な出版社の電子書籍は揃っている。 値段は文庫本より少し安い。 縦書きで読めるのはいいのだが、こういうのはどうも馴染まない。 矢張り、本の方がよい。 本のページを捲って読むのがいい。 指で頁を繰って読むことで、感覚が記憶に残るのである。 後でどこに書いてあったか探すとき、このへんにあるという大体の感覚が残っている。 以前、同じようなことを噺家の立川志の輔さんが書いていた。 志の輔さんは落語の新しいネタを覚えるとき、必ずノートに書き写すという。 ノートから覚えると、あのくだりは何頁のところにあったと 思い出して、覚えが良くなるという。 話は変わるが、文章の縦書きと横書きでは、「思考の通路」が違うそうである。 縦書きは、原稿用紙にペンで書かれた原稿で、また横書きとはワープロで打ったものである。 高島俊男さんによると、横書きの原稿を縦書きの本で読むと読みづらいという。 縦書きで書かれたものを縦書きで読むと、縦にスルスル入ってくると。 形の問題ではなく、縦と横とでは思考に違いがあるそうだ。 縦に書かれたものは縦で読み、横は横でないといけないと高島さんはいう。 電子文庫パブリ http://www.paburi.com/paburi/default.asp |
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Google ニュース 日本語版 Googleが「Googleニュース日本版」の提供を開始した。 新聞社や通信社など600以上のニュースサイトから最新ニュースの検索、表示することが出来る。 記事は見出し毎にグループ化されていて、ニュースソースへのリンクが張られている。 だから、新聞どうしを比べて読むことも出来る。 記事の収集と検索、掲載に至るまで自動化されていて、基本的に人の手は介在しないという。 また、分単位で更新されるそうだ。 見てみると、まずデザインが良い。 フォントの使い分けにメリハリがあって、見出しがよく見える。 横にある小さな写真も具合がいい。 「エキサイトニュース」より出来がいいんじゃないかな。 最近では新聞社のホームページは、記事の速報中心になっている。 朝刊は昨日のことしか書いてないので、もはやニュースではない。 リアルタイムの記事が中心になるのは当然である。 しかし、ゴチャゴチャしていて大変見づらいし、分りづらい。 企業のサイトにもそういうのが多くなった。 つまりデザインが悪い。 サイトマップから探さなければ分らない様なページは意味がないと思う。 Google ニュース 日本語版 http://news.google.co.jp/ |
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