「解釈と鑑賞」特集・言語の教育と文学の教育・806号/1998.7.10・至文堂)

 

文献学的テクスト論の構想−『無名草子』清少納言伝承を例として

     1 物語文の法則−テクスト文法の学術正統性

 言うまでもなく、テクスト論は分析科学である。実はこの理論こそ、国学の理論に通底するものであることから説き起こしてみよう。江戸時代の国学者、細井貞雄は『うつほ物語玉琴(たまごと)』の中で、「物語文(ものがたりぶみ)の法則(のり)」について次のように規定している。

 

 すべて物語文には、その文ごとに書きざまのけぢめどもありて、この物語限りの法則あり。外の物語文の例もて言ひがたきことぞ多かる。−略−物語文を学ぶ人のむねとすべきことは、その文の法則(のり)を尋ね知るべきわざなり@。

 

これは、もちろん、中世源氏学の成果をふまえた本居宣長『源氏物語玉の小櫛』や、安藤為章『紫女七論』等の文法を祖述した評言なのだが、物語=テクストは、もちろん相互に連関してはいるものの、個々に固有の文法(=表現と論理)を持ち合わせて独立しているが故に、テクスト(=物語文)の論理は、テクストの外に求めてはならない、と言うことなのである。細井貞雄の言を借りるなら、「外の物語文」から、「物語限りの法則」を読むことには慎重でなければならない、と言うのである。とするなら、たとえば、現在でもテクスト派の対極にあって、日本的「解釈共同体」の一方を形成している、”旧「実証」派“の研究者の論文を読むと、物語固有の表現の論理を、物語に即して意味付けしようとせず、安易に<作者の創意>に還元して論じられることが極めて多いA。しかしながら、真の実証的研究者であるならば、細井貞雄の理論に学んで、従来のごとく、物語の論理を、実態的解明すら不可能な<作者の論理>として論じる如き、論理操作の、概念のとしての<作者>と、実態としての<作者>と言う実存とを混同し、詐術的な論理のすり替えが頻繁に行ってきたことを、深く反省しなくてはなるまいB。

 このように、細井貞雄ら国学者の文法論が、現代のテクスト理論と通底するものであることは、貞雄と同様、本居宣長・安藤為章らの近世源氏学を継承する、萩原広道研究を進めた、野口武彦・高橋亨・宗雪修三の研究から指摘されており、斯界でも認知されているものと思われるC。つまり、本来は、国学の系譜の延長線上にある、テクスト文法にこそ真の学術的正統性が存在し、かつまた、実証的研究革新の糸口があるはずなのである。

 ところで、紅野謙介は、”旧「実証」派“に代表される研究者達の思考の基盤となっているはずの、戦後五〇年の国語教育のターニングポイントは、「経験主義」から「能力主義」へと転換されていった時期にあったと総括しているD。さらに、そうした方向へと言語教育を切り替えていったキーパーソンとして、前者に柳田国男、後者に時枝誠記、さらに「国民文学論」の日本文学協会の存在を挙げている。また、言語教育に関しては、「言語過程説」の時枝の指針が「体系化をもたらす一方で、ことばの正しい読みとりの問題に変換」されながら、「言語行為の主体」の「技能」「技術」を重視する教育へと推移していった事実を指摘している。いわゆる、今日の、正解到達主義の前提は、こうして整備されていたのである。こうした戦後の国語・文学教育の弊害が、国語国文学界に共通して蔓延している一義限定性の<読み>を至上主義とする、いわゆる、”旧「実証」派“を支える基盤となっているのかもしれない。そして、その対極にあるのが、”若き研究者の集団“物語研究会を中心とするテクスト派なのであるから、前述のような学界(=解釈共同体)の二極分化が進んでいることも容易に理解できよう。なぜなら、テクスト論は、テクストそのものに、「多義的に開かれた、豊かな<読み>」を志向することが前提だからである。しかし、このこの<読み>の多義性について、放恣であるとか、無原則であるとかの誤解が生じているのであるとすれば、それはテクスト論に対する不勉強を恥じて頂くしかない。と言うのも、テクスト論は、テクストそのものを平板で固定的に捉えてきた従来の貧弱な<読み>に抗して、テクストに多層性を認めるところから出発する。つまり、テクストは万華鏡の如きものなのであり、それぞれの読書行為の反復から創造されたテクストのレベル(=層)において、読者個々人が客観性を重視しながら意味規定を重ねつつ、重層化したテクストを自在に把握し直すことによって、より多面的で豊かな世界像として<読み変える>ための世界解釈の理論なのであって、好き勝手に意味規定してよいとか、文脈を流れを無視してよいとか言うことでは決してないのである。

 したがって、テクスト理論のみならず、国学以来の伝統的な、文学研究の学術的正統性が歪められたのは、実は戦後の国語教育の方向性そのものに遠因があったことになろう。そしてこの事実は、歴史的な負の遺産の整理と、文学研究史のオフコースの是正と言う二つの課題が、私たち二一世紀を担う若い世代の手に委ねられていると言うことを意味しているのである。

 

     2 テクストとしての『無名草子』

                                       

 私もここ数年、古典教科書の編集に従事する機会を得たので、その理論と実践の方向性を模索してみたのだが、もちろんいまだ試行錯誤の段階であるE。限られた条件の中で、どのように<読む>ための道案内を開拓すべきか。教材としてもよく採用されている『無名草子』から、これを考えてみることとしよう。とりわけ、このテクストの中で、最もポピュラーなのは手紙の効用を説いた「文(ふみ)」の一節であろうか。以下、教室ではなかなか実践できない、テクスト理論によって、テクストを辿り返し、読み換えることで、「テクスト文法と文学の読み」の実際例を提示してみよう。

 

 A、この世に、いかでかかることありけむ、とめでたくおぼゆることは、文こそ侍れな。『枕草子』に返す返す申して侍るめれば、こと新しく申すに及ばねど、なほいとめでたきものなり。はるかなる世界にかき離れて、幾年逢ひ見ぬ人なれど、文といふものだに見つれば、ただ今さし向かひたる心地して、なかなか、うち向かひては思ふほども続けやらぬ心の色もあらはし、言はましきことをもこまごまと書き尽くしたるを見る心地は、珍しく、うれしく、逢ひ向ひたるに劣りてやはある。

 B、つれづれなる折、昔の人の文見出たるは、ただその折の心地して、いみじくうれしくこそおぼゆれ。まして亡き人などの書きたるものなど見るは、いみじくあはれに、年月の多く積もりたるも、ただ今筆うちぬらして書きたるやうなるこそ、返す返すめでたけれ

 C、何事も、たださし向ひたるほどの情けばかりにてこそ侍るに、これは、ただ昔ながら、つゆ変はることなきも、いとめでたきことなり。

 D、a−いみじかりける延喜・天暦の御時の古事、b−唐土・天竺の知らぬ世の事も、主部−この文字といふものなからましかば、c−今の世の我らが片端述部−いかでか書き伝へまし、など思ふにも、なほ、かばかりめでたきことはよも侍らじF。

 

 『枕草子』研究における諸本論では、この『無名草子』の「文」が『枕草子』類纂本系統の前田家本、宸翰本系統以外の堺本、さらに雑纂本系統の能因所持本等にほぼ同類の「文」に関する記述が見えるにも拘わらず、同じ雑纂本系統で能因所持本より成立の先行するといわれる三巻本諸本には見えないという文献的事実が存在する。この問題は留保することとして、物語内容を祖述すれば、このテクストは、王朝メディア論である。「文」こそ人と人の心を繋ぐ、「いとめでたき」メディアであるといい、「はるかなる」世界に離れているからこそ、「文」によって心が通い(=A)、今は亡き人を偲ぶよすがになるのだ(=B)という。さらに、連想の糸を紡ぎつつ「文」を綴る筆跡の効用を説いてもいる(=C)。このように連続的に喚起される「文」に関する断想から、私たちは容易に連想が可能なはずであろうが、この文の評者の意識するとしないとに関わらず、このテクストの語りは、物語内容の享受のみに留まらず、『枕草子』の語りの構造とも同質性が認められるのであって、文学史に屹立する、この『無名草子』こそ、<『枕草子』を継ぎて書かれたる草子>であったことが知られようG。

 つまり、このテクストも『枕草子』の基本構造と同様、二人の女房の対話・問答によって物語られている。したがって、このテクストの<語り>の文体もまた、必ずしもスタティックに整序正しく構成・書記された文体の体ではない。たとえば、「めでたきこと」のいくつかの事象を挙げながら、文字がなければこうした事跡も伝えられなかったと言うことを説く条(=D)は以下のように、ねじれている。

 a−いみじかりける延喜・天暦の御時の古事

 b−唐土・天竺の知らぬ世の事

  主部−この文字といふものなからましかば、

 c−今の世の我らが片端

  述部−いかでか書き伝へまし、

              +など思ふも+かばかりめでたきことは+よも侍らじ。

 つまり、このテクストは全体が会話文と言う語りで構成されているために、文末を「も」で並列させている具体例abcと、「めでたきこと」を語る、主部−述部が整序正しく並べられて書記されているわけではないのである。まさに『枕草子』的な語りの構造を備えた、書かれた語りを再現しようとした文体であると言えようH。

 こうした物語文について細井貞雄は以下の四種に分類している。

 

   物語文には、四種のことわけあり。こをうまく智らざらば、読み浮かべがたし。一つは冊子地、二つは人々語りかはせる詞、三つは書きかはせる文の辞、四つは春秋の移りゆくさま、昼夜のけぢめを物によそへなどして聞こゆるを言へり。この四種のことは、いづれの物語文にもあることなれば、いとよく心をとどむべし。−略−さて、物語文にならひて、その人々の齢のほどにより、また上ざまの御辞、卑しき者、儒者、法師など、それぞれに辞も心ばへも変はれる品々のあるは、古めきしとはなやげると、その業によれるとの違ひ目にて、このけぢめをいとよく見分くべきことなり。

 

 つまり、細井貞雄の言を借りて、テクスト『無名草子』を規定するならば、このテクストは、「人々語りかはせる詞」(=会話文)と言う物語言説で全体が枠組みされており、「文」の叙述は、「書きかはせる文の辞」(=手紙文)そのものの特質・内容を論じて「めでたきこと」と言う評言で締めくくる、まさに<『枕草子』を継ぎて書かれたる>性格の草子であると言うことなのであろう。

 

     3 清少納言伝承の読み方−テクストの差異と表象 

 

 次に、院政期の『枕草子』享受の実態を伺うことのできる、『無名草子』清少納言零落伝承−<能因所持本『枕草子』奥書>の表現史的階梯をテクスト分析してみよう。

 

 また、人、「すべて、余りになりぬる人の、そのままにて侍る例、ありがたきわざにこそあめれ。

 檜垣の子、清少納言は、一条院の位の御時、中関白世を治らせ給ひけるはじめ、皇太后宮の時めかせ給ふ盛りにさぶらひ給ひて、人より優なる者とおぼしめされたりけるほどのことどもは、『枕草子』といふものに、自ら書きあらはして侍れば、細かに申すに及ばず。歌詠みの方こそ、元輔が娘にて、さばかりなりけるほどよりは、優れざりけるとかや、とおぼゆる。『御拾遺』などにも、むげに少なう入りて侍るめり。自らも思ひ知りて、申し請ひて、さやうのことには交じり侍らざりけるにや。さらでは、いといみじかりけるものにこそあめれ。

 

 その『枕草子』こそ、心のほど見えて、いとをかしう侍れ。さばかりをかしくも、あはれにも、いみじくも、めでたくもあることども、残らず書き記したる中に、宮の、でたく、盛りに、時めかせ給ひしことばかりを、身の毛も立つばかり書き出でて、関白殿失せさせ給ひ、内大臣流され給ひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出ぬほどのいみじき心ばせなりけむ人の、はかばかしきよすがなどもなかりけるにや、乳母の子なりける者に具して、遥かなる田舎にまかりて住みけるに、あをといふものほしに、外に出づ、とて、『昔のなほし姿こそ忘られね』と独りごちけるを、見侍りければ、あやしの衣着て、つづりといふもの、帽子にして侍りけるこそ、いとあはれなれ。まことに、いかに昔恋しかりけむ」

 

 どうやら、テクスト『無名草子』は、『枕草子』は好きでも、清少納言を<主観的に忌避>していたらしい。前半部の桧垣(媼)の子とする伝承から既に未詳であり、定子を皇太后宮と誤り、二人の子の存在が確認されるにも拘わらず「はかばかしきよすが=子供」もいないと記す、等々まこと胡散臭いこのテクストが、長い間、国文学界の『枕草子』論の先駆けとして、近代に到るまで、いわば清少納言=『枕草子』像を決定づけてきたことは『枕草子』にとって不幸なことであったと言わねばならない。その既成観念の前提は、曰く、和歌が苦手である、中関白家没落後も、定子後宮の賛美を徹底する姿勢を「身の毛も立つ」程の描写で書き進めている等々、その評言は『源氏物語』の詳細な批評に対して、極めて<主観的な忌避>の交じった辛辣なものであると言わねばならない。しかも<主観的な忌避>にも拘わらず、語りの構造や連想の型の近似している『無名草子』と言うテクストが存在する事実こそ、テクストを名乗らずテクストを分析する若手研究者を輩出している今日の学界の動向すら重ね合わされ、典型的な日本人的思考を露呈しているようにも思われて苦笑を禁じ得ないのである。

 それはさて置き、とりわけ注目すべきは、後半部の、中世・近世以降清少納言零落伝承の生成に最も関係の深いテクストとなった、あわれな菜干し姿であろうか。そもそもこのテクストは、『枕草子』の「雪山」の段の常陸介を極端に脚色した「なほしすがた」に菜干しと直衣とをイメージさせるという、極めてお粗末に近い駄洒落を含んでいるのだが、さらにこうした説話的なイメージは、<能因所持本『枕草子』奥書>に継承、増幅されることになる。近世以降の研究史をたどってもこの清少納言のイメージはなかなか払拭されず、むしろこのテクストから、実態的な清少納言像が論じられてもきたのだが、『枕草子』そのものを論ずるのであれば、先の貞雄の提言に則り、先入観にとらわれず、相互の本文からのみ、このテクストの関係性を論じなくてはならないはずである。

 

 これを書きたる清少納言は、あまり優にて、並み並みなる人の、まことしくうちたのみしつべきなどをば語らはず、艶になまめきたる事をのみ思ひて過ぎにけり。宮にも、御世衰へにける後には、常にも候はず。さるほどに失せたまひにければ、それを憂き事に思ひて、またこと方ざまに身を思ひ立つ事もなくて過ぐしけるに、さるべくしたしくたのむべき人も、やうやう失せ果てて、子などもすべて持たざりけるままに、せんかたもなくて、年老いにければ、さま変へて、乳母子のゆかりありて、阿波の国に行きて、あやしき萱屋に住みける。つづりと言ふ物を、ぼうしにして、あをといふ物ほしに、外に出でて帰るとて、『昔のなほし姿こそ思ひ出でらるれ』と言ひけむこそ、なほ古き心の残れりけるにや、とあはれにおぼゆれ。されば、人の終りの、思ふやうなる事、若くていみじきにもよらざりけるとこそおぼゆれI。<能因本奥書>

 

 萩谷朴は、両者の関係を、『無名』→<能因所持本『枕草子』奥書>と位置づけ、能因所持本の成立年時を限定する資料として、この伝承の作意性を説いているJ。論拠は、一、<奥書>にみえる「阿波の国」を奥書筆者の付加と見る、二、青菜を乾しに出た独白を「外に出て帰る」と敷衍している、三、「つづりと言ふもの」をかぶった女を「なほ古き心の残れりけるにや」とある本文から出家した尼姿と限定している、の三点である。つまり、このテクストに説話性を認め、原テクスト『無名』からの脚色を認めているのである。したがって、この前提に立つならば、<奥書>にも清少納言に対する<主観的な忌避>が継承されていることも認められよう。しかし、その事実は、逆に両者の異質性も際立たせることとなる。すなわち、細井貞雄の言う「文の法則を尋ね知る」立場に立つならば、まず、『無名』が会話文の語りであるのに対し、このテクストは伝本書写者の<奥書>、つまり、テクストの外の書かれたテクストであると言う差異である。何故、本来は自身の書写本の正統性を強く主張すべきはずの<奥書>が、明らかに作意性の混入している伝承を伝えねばならないのか。こうした事実は、能因所持と言う論拠の信憑性を疑わせるに充分である。となれば、テクストの物語内容からの検討からもまた、やはりこの表現史的階梯は、過剰にテクスト清少納言を読み込んだ、派生的かつ些末的なテクストコードであると認定した上で、そこからこの伝承の世界は論じられなければならないのである。

 

     4 文献学的テクスト論の提唱

 

 藤井貞和とともにK、日本文学におけるテクスト論導入の家元的存在である三谷邦明は、最近の学界の動向について、圧倒的なデータソースの革新に触れながら、「実証的研究さえもが、従来の研究から離脱しなければならない状況に追い込まれている。−略−実証的研究は、次にどんな装いで登場してくるのであろうか」Lと他人事のように実証主義を批評しているが、これもまた批判さるべき言説であると言わねばならない。なぜなら、例えば、コンピューターにおいて、理論と方法(ソフト)は最新鋭でも、使用しているテクスト(ハード)が二〇年前の水準では、当然、現在のコンピーターシステムそのものが立ち上がらないように、基礎データの革新も、データリサーチの方法も、考証の過程も、さらに客観性の保証性もまた、日本的な「解釈共同体」の党派性を越えたところで、革新されなくてはならないからである。すなわち、実証と理論は、相互に<主観主義>を排除した、水準の向上を目指さなければならない。そこから、文献学的テクスト論の構築される基盤が整備されてくるはずである。

 

@ 本文は、上原作和ほか十名による平成九年度・国文学研究資料館共同研究<九−五>「うつほ物語の基礎的研究(代表者・室城秀之)」の研究成果からなる校注『細井貞雄著 うつほ物語玉琴』(国文学研究資料館・一九九八年)による。以下効之。

A 上原作和他「座談会『源氏物語』研究の展望」『源氏物語を<読む>−新物語研究4』(若草書房・一九九六年)において、私は一昨年時点にあっても、依然として物語研究がテクスト派と作者=作品論派とに二極分化している現状にあると言う見通しを述べたことがある。言い換えれば、「実証か説得か」の二つの「解釈共同体」が対立しているということになる。スタンリー・フィッシュ<小林昌夫・訳>『このクラスにテクストはありますか−解釈共同体の権威3』(みすず書房・一九九二年)参照。

B 細井貞雄の文法も厳密には、『栄華』『狭衣』と言った各々の物語の文法と『うつほ』のそれとを混同せず言分けすべきであると言っているにすぎない。しかし、男の作者(貞雄は紫式部の父・藤原為時説)である『うつほ』と、女房(紫式部)が作者である『源氏』について、双方のテクストの視座(=カメラアイ)が「内」と「外」の描写において異なるものであることを指摘していることは、現代テクスト理論の前提に照らして見れば、必ずしも厳密とは言えないが、作者≠物語表現についての態度についても、個々の表現の論理に即して論じる姿勢を堅持している。つまり、物語の法則(固有の論理)に、物語の外の論理(作者の論理)を代用してこれを矛盾と感じない、”旧「実証」派“よりも厳密な論理と方法で、物語文を分析していたことは確かなのである。

C 野口武彦『「源氏物語」を江戸から読む』(講談社学術文庫・一九九五年<初版・一九八五年>)、高橋亨「『源氏物語』テクストの<文法>」『物語と絵の遠近法』(ぺりかん社・一九九二年所収)、宗雪修三「萩原広道の源氏物語テクスト論」『物語その転生と再生−新物語研究2』(有精堂・一九九四年所収)参照。

D 紅野謙介「教材の多様化と文学主義の解体」(「日本文学」一九九六年四月)参照。

E 上原作和「教室の中の『源氏物語』−『古典講読 源氏物語・大鏡』完成によせて」(「国語科通信」一〇一号・角川書店・一九九八年二月)参照。

F 本文は、久保木哲夫校注『完訳日本の古典 無名草子 他』(小学館・一九八七年)によるが、私に表記は訂した。

G 高橋亨「無名草子と枕草子」(<ミニシンポジウム『無名草子』>基調報告・古代文学研究会大会・一九九六年八月六日・於丹後大宮)による。

H 上原作和「<笑ひ>と<をかし>、語りの構造(フレーム)−『枕草子』後期実録的章段群の“<語る文芸>のかたち”」(「解釈と鑑賞」至文堂・一九九七年七月)参照。

I 本文は、松尾聡・永井和子校注『完訳日本の古典 枕草子』(小学館・一九八九年)によるが、私に表記は訂した。

J 萩谷朴(新潮日本古典集成『枕草子』新潮社・一九七七年)解説、「清少納言零落伝承の虚妄と名誉恢復」(「古代文化」一九八〇年四月)、『枕草子解環』第五巻(同朋舎・一九八三年)等参照。なお、三巻本に「文」の記述が見えず、能因所持本には見えることについて、あくまで三巻本の先行性は揺るがない理由として、当該「文」の本文批判−低度批判−から、物語内容そのものが類纂本本文より劣ることを指摘しかつ零落伝承についても、『清少納言集』の詞書等の検討、−すなわち高度批判−から、伝承そのものに論拠がないことを挙げて、能因所持本の本文価値を認めず、三巻本とは別に、古能因本↓『無名』↓能因所持本の伝承過程を想定している。

K 藤井貞和「砂子屋書房版のあとがきにかえて」『定本源氏物語の始原と現在』(砂子屋書房・一九九〇年<初版・一九七二年>)、「新しい研究の視野」『物語の方法』(桜楓社・一九九三年)参照。

L 三谷邦明「日本文学(古典)研究96」(日本文芸家協会編『文芸年鑑』 新潮社・一九九七年)

 付記 本論脱稿後、前記共同研究者の一人、江戸英雄氏の「『玉琴』を読むー『うつほ物語』論にむけて」(「国文学研究資料館紀要」二四号・一九九八年)が発表された。氏は『うつほ物語』を論じるための前提として、『玉琴』の定位を試み、かつ曲亭馬琴の小説批評までを視野に入れた物語批評を展開されたのだが、氏の論と拙稿とは解釈に若干の相違が生じている。例えば、「物語の『法則』」の「その法則をたづねしるべきわざ」に関して、氏がこれを「物語を読む、研究する方法」と、積極的に”方法“にまで踏み込んだ解釈をしているのに対し、私はこの「わざ」を、「物語文を学ぶ人のむね」と対応させることで貞雄の訓戒的名辞と考えている。ただし、私はこの現象を従来のように”読み“の優劣に堕するのではなく、両者の行論の次元に還元し、互いに許容し合う「解釈共同体」の緊張関係を提唱したいのである。