無明の橋
The Mumyo Bridge of Ten-nen ji Temple

天念寺の背後に聳える岩峰は国東半島峯入り行前半の難所である。行者は両側が垂直に削がれた肩幅ほどの岩の背を駆ける。中央に石の太鼓橋が見える。これを無明の橋という。見上げるだけでも足が竦む。この橋を渡る人の心に曇りが無ければ落ちることはないと言われる。橋が無かったときは当然、跳躍したのだろう。右の岩峰が峯入り行の重要な場所であり、人の背丈ほどの石灯籠が小さく見える。
この橋を渡ってはみたいが、「無明」とは「真理に暗いこと」「一切の迷妄・煩悩の根源」である、とすれば、心に曇りがある私など安心して渡れるわけがない。
1965年の岡潔と小林秀雄の対談で「無明ということ」について語られている。岡さんは、ピカソは無明を描く達人だと言っている。良い意味ではない。自己中心的に考えた自己というものを西洋では自我と呼んでいるが、仏教ではそれを小我といい、無明という。無明から来るものは醜悪さだけだ、と。もしピカソがこの橋から落ちるならば、私ごときが落ちても何の不思議もない。