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                     1996年10月11日開始

                               火だるまG

第13回:1997年10月11日

『まごころ』/39/成瀬巳喜夫


「37年初め、成瀬は千葉(早智子)と結婚したのだが、皮肉なことにこの前後から成瀬は長いスランプに苦しむことになる。・・・・・・などを除いては、何一つめぼしい作品なしに、苛烈な戦争時代を迎えた。千葉との結婚の破局も、もちろんこのスランプと無関係ではあるまい」(『日本映画監督全集』/キネマ旬報社/清水晶担当分)
「彼がようやく彼本来のすがたを世に示すまでには、なお十余年の歳月が必要だった。戦後の26年、彼は林芙美子の「めし」をとって、ベストテンの第二位に入った。それがきっかけだった。以後の仕事は最後まで、彼本来の道からそれることはなかった」(『日本映画作家全史』/教養文庫/猪俣勝人)
結論からいえば、自分の目で見たこと、自分の目で信用した人物が語ること、以外は、信用するなということだけれど、人間が自分が分からないことについても声高に語るものであるという、事実を、理解するまで、僕にはずいぶんの時間が必要だったね。
人の話を聞く場合は、発言の内容と、発言者の内容を、きっちりわけて、考えたほうがいいよ。内容のない人間の内容のある発言よりも、内容のある人間の内容のない発言のほうに、いろいろな意味で真理が含まれていることが多いからね。
もちろん内容のある人間の内容のある発言がベストではあるけれどね。
ここで触れている『女人哀愁』(37)という映画も、本当にすばらしかったけど、この映画も本当にすばらしいかったよ。
そうそう、思い出した、人の話を聞く時には、けなす話を聞くよりも、ほめる話を聞いた方がいいな。人間、何かをけなす時には、嫉妬とか羨望とかいろいろ複雑な感情が入り交じったりするけれど、何かをほめる時には、案外ストレートな気持ちであることが多いと、僕は思うよ。

さて、僕はこの原版からプリントを起こしたという『まごころ』という映画を東京国際映画祭で見せてもらって、映画の豊かさ、あるいは、人間の豊かさというのは、いったい、なんなんだろうと考えたのだ。
筋はきわめて簡単。
おもな登場人物は4人。仲のいいふたりの小学6年生の少女。お金持ちの家の少女には銀行の重役で市会議員かなんかの公職も勤める父親と、同じく婦人会で活躍する母親。貧しい家の少女には、放蕩者であったという父親はすでに亡く、裁縫仕事で家系を支える母親がひとり。
話の突端は、6年生になって、それまでず〜っと1番だったお金持ちの少女の成績が落ちて、貧乏な少女が1番になったことなのよ。
だいたい金持ちの父親は入り婿で、もともとは、遠い親戚だった貧乏な母親と所帯を持つような話だったらしい。しかし、逆玉に乗ってしまったのだな。だから、金持ち母親は、元来から、貧乏母親に慢性的な嫉妬を抱えているわけだ。夫が好きなのはあの女に違いないというヤツね。
それで、娘の成績が下がって、逆上するわけ。どうせ私の血がダメだからなんですねっ、と、いう具合にさ。
しかし、この娘ふたりは親友で、実におおらかなもので、なんか揺れ動いている、大人たちを実にクールな眼で見つめているのよ。
ものすごいセリフがあったな。
「ねぇ、もしもうちのお父さんとあなたのお母さんが一緒になっていたら。私たちは姉妹なのね」
「バカねぇ。もしそうなら、生まれてくるのは、私でもあなたでもない人で、私たちはここにはいないのよ」

小学6年生の娘はこんなこたぁ絶対いわないとも、小学6年生の娘なら、こんなことをきっというに違いないとも、どっちともいえそうな、乙女の時空間のセリフ。

さらに恐ろしいのは、このふたりが無茶苦茶可愛いのよ。可愛いだけでなくスタイルが抜群で。昭和14年に、本当にこんな美少女がいるの? って、具合に、細くてきれいな足がすらっと伸びてていてさ。それで、そのふたりが延々と、アップでとられるわけだ。セーラー服。ブルマー。それにワンピースの水着でですよ。しかも下の方から舐めるようにとっているね。

いったい何を考えているんだ、成瀬!!!。成瀬さんは当時34歳ね。

こんな映画を、東京映画祭の立派な会場で、映画評論家としても高名な東大の学長とか、外国人の映画評論家とか、と、一緒の観客席で見ていてね。終わった後に拍手が出たりして、そして、その後のロビーではみんな絶賛絶賛で、嬉しそうに談笑しているのを、見ているとね。この人たちの頭の上にテレビのブラウン管があってさ。そこに本当にこの人たちが、今考えていることが、映し出されたりするとしたら、それは、たいへんなことになるのだろうな。なんて僕は思うのね。

胡散臭さプンプンの豊饒な映画には、たとえば、酒鬼薔薇君が象徴するような個人に集約されちゃうような案外つまらない得体の知れなさよりも、時空間や永遠のような、もっと、透明で恐ろしい得体の知れなさがあるのよね。映画を見ている間、僕はまるで、月面でたった2匹で飛び跳ねているウサギちゃんたちを見つめているような気がしちゃってさ。ウサギちゃんたちの立っている月面は煌々と黄色く輝いていて、彼女たちのカワユイ表情を足下から照らしているの、すると、その頭上の宇宙の空間は真っ黒で何もなく、遠くで真っ青な地球が光りながらゆっくりと回転していたりするのさ。もちろん、そこには、音も時間もないのだね。

過去のパターンからいって、東京映画祭でニュープリントとして起こされた映画は、翌年には、国立フィルムセンターでかかります。来年には、必見のカルト映画だと、僕は思います。現在という時間の痩せ方に気づかされること必実です。



(この企画連載の著作権は存在します)

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