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火だるまGのTHANK YOU REPORT


since 96.5.03

毎月3と9の日に僕のHEART AND SOULからお届けします。1カ月単位でバックナンバーに在庫していきます。

1997年12月3〜1997年12月29日

12月3日 あの人の誕生日近し
9日  このような時と出会うために
13日  吉乃家に行ってきた
19日  アホな子供とキタネェ奴等
23日  淋ね(rinne)
29日  THANK YOU AND GOOD BYE

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3日(水曜日)

あの人の誕生日近し

へろへろに酔っ払って千鳥足で部屋に戻った時に、昔好きだった人からの留守電が入っていて、その留守電がものすごく馴れ馴れしくても恐いし、他人行儀でも恐い。
昔は全然恐くなかった人が恐くなるということ自体が恐くて、それがきっと、あの人だけの問題ではなくて、こちらの心の持ちようから来ているものだと思うとより一層に恐い。
だからといって、恐くならない方法があるかというと、いまさら、時間を戻すこともできるわけないし、恐くならないためだけに、何かをもう一度繰り返すというのは、愛情から来る話ではないと思う。
愛情というのは、とても、恐いものなのだと確信する。
そんな人の誕生日を目前にして、僕は、今年はバースデイカードだけを送ることにした。もう何も贈らないということも考えたのだが、僕の心が、12月5日という日を覚えていることは事実なので、それを無意識に忘れる日、あるいは意識していないと思い出せない日が来るまでは、何らかの贈り物をしようと思う。こういうことはいいことなのか、悪いことなのか、見当もつかないけど、そんなことも結局は自己満足から来ているだけなんだろと、女子中学生か、女子中学生的な感性を持っている女性かなんかに、突っ込まれたら、きっと、すごく恐いだろうな。
僕は女の人はとても恐いと思うのだけど、女の人は、男を恐いと思うのかしら、もしかして、カワイイなんて思われていたら、もうどうしようもなく、恐いな。

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9日(火曜日)

このような時と出会うために

前回触れた、バースディカードを送った女の人が当日店に来た。彼女の隣の客となったIが場持ちしてくれたことと、さすがに金曜日で店が混んだので助かったが、目を合わせない俺の全身に彼女の視線がびんびん降り注ぐ。
いったいおわっちまった男を眺めて何が楽しいというのだろう?
俺は俺のままですよ。
彼女がトイレに行った隙間にIが、コンペ勝った、と言った。
Iは中堅広告代理店の若き部長である。それはよかった、とりあえず、来年の仕事は確保したということだ。
Iの言葉は、翻訳すると、飲みに行こうよ、ということである。
幸い、アルバイトにも余裕がある。そして最近Iと飲んでいない。
じゃぁ、夜中に、高円寺のNVで落ち合おうと、約束する。
Iは、12時前に、女の人をエスコートして出ていった。
女の人は、帰り際、俺の耳元で、あいかわらず格好いいので安心した、と囁いた。他のどの女性が俺の耳元でそんな言葉を吐いても、俺はまるで子犬のように、尻尾をブーメランのように振り回して歓喜するだろうが、彼女の言葉にはなんの感慨もない。
人間というものは、いや、俺という奴は、実に御しがたいものである。
たくさん来てくれた、お客様が、あれよあれよといなくなり、金曜日だというのに、12時半には、店が空になってしまったので、俺は終電で高円寺へ向かった。
途中NVに電話して、女の人がそこにいることを確認した。NVは俺にとってのくつろぎの場である。面倒なのは嫌なので、逃げようかと思った。しかし、12時は回ってしまったが、誕生日は誕生日である。
電話では空いている筈のNVは混んでいて、女の人が、私の友達が来たからみんなつめて、と大きな声を上げた。
おい、しきるなよ、俺は言った。
結局、言葉はこれだけだった。30分ぐらいして女の人は帰った。
タクシーまで送っていったIが戻ってきた時に、俺は、おいカンベンしてくれよと、Iに言った。
なんで? 別にいいジャン。そりゃそうなのだ。そりゃそうなのだけど。
飲み友達のY子が、トイレに行く際に俺の頭をはり倒していった。
それで、俺も、飲んだ。もともと、店でも飲んでいたので、実は、もうへろへろなのだ。
夜中の3時過ぎ、飲み友達の、日本一音の大きいギタリスト、Kが、大阪からライブで出てきたという、胡弓ひきの女性を連れてきた。小柄な人である。酒も飲めないのに、大酒のみの、Kに振り回されて、疲弊している。
東京では、友人宅を転々するというので、俺は、家へいらっしゃいといったけど、Kも一緒なら来るという、Kも一緒じゃ、しょうがないので、まだまだ飲み足らない表情のKの代わりに、俺が、荻窪の今日のねぐらまで、送ることにした。
なぜか彼女は、シンバルを持っていて、これと胡弓と、それにバッグを合わせると、すごく重いのだった。とうてい彼女自身では持ち歩けない重量である。
俺は酩酊している。彼女は途中で帽子を出してかぶり、前のつばを折り曲げた。彼女の年齢は、俺より、5つ上、あの女の人と同じである。
高円寺の駅で彼女がトイレに入り、俺がトイレですばやく吐いて戻ってくるまでの間、彼女は荷物を見ていた。
ねぐらは、荻窪の駅から、歩いてたっぷり10分くらいのところにあった。その間に俺の呂律も回復してきて、少し喋った。
時計は、7時を回り、土曜日でも仕事のある人たちが、逆方向に足早に行く。
ー落語はわかりますか?
ー落語? よう、わからへん。
ー先代の馬風にこういう話があります。彼は、戦争の時代、大陸を回っていて、一座のアコーーディオンひきの女の人といい仲になった。中国というのは、広い国だから、町と町の間を一座を組んで、ただてくてくと歩いて、移動するのです。その街道を、彼は、アコーディオンを担いで歩いていた。これが重いんですね。
ーはぁ。
ーそうしたら、街道の向こうから、同じような一座が来て、その中に、同じようにアコーディオンを担いでいる男がいた。
ーへ〜ぇ。
ーそいつとすれ違った時に、馬風はいったんだそうです。
ーなんて?
ーこの次はハーモニカにしよう、御同輩。

話は、全然受けなかった。見上げると、雲の切れ間から顔を出す空がバカみたいに青かった。

ー空が青いですね。
ーそうやね。

彼女のねぐらの玄関で、俺は、彼女と握手して別れた。
駅に戻る間、俺は、このような時と出会うために、俺は生きているのだと思った。
なんのことはない、みず知らない女性の重い荷物を担いで、いっしょに、よく晴れた朝の町を歩いただけである。
それだけのことだ。
しかし、別れた女の人とは、そのような、哀しいような、しかし、実は、しみじみと楽しいような、時を、俺と、共感することがなかった。
彼女は、ひたすら俺を求め、俺を見つめ、そして、俺が見つめ返すと、どぎまぎしておどけるばかりだった。

なぜかわからないが、丸の内線で新宿御苑に戻るまでに、俺は、3回電車を降りて、吐いた。吐けば当然涙も出まくるってもんだ。



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13日(土曜日)

吉乃家に行ってきた

敬愛する兄が、自他ともに認めるトンカツフリークの私に「吉乃家」という店を教えてくれた。敬愛する兄といっても、実兄ではない、私の魂の兄弟の実兄だから、私にとっても兄なのである。

狂乱のジョン・レノンの一日の後、私は何の食事の準備もしていなかったことと、ひどい二日酔いでたとえ準備していても食べられる状態ではないことに気がついた。
それで、何も食わずに街に出た。毎日新聞社に行って、私の敬愛する作家(15日以降にジャンプしてください)の顔写真を貰ってきて、それを、代々木上原の長年のダチがやっている編集事務所でデジタル加工のスキャニングをさせて貰うという作業のためである。
作業を終了し、ようやく空腹感を覚えた。
午後の5時であった。
狂乱の一日の後かたづけのために、少々早めに店に入る必要があると考えたので、最初は、新宿駅ビル・万世のハンバーグで済まそうと思って、代々木上原から140円の小田急線の切符を買った。
今日はトンカツよしておこうと思った。新宿でトンカツ食うなら、価格効率的に新村がベストである。要するに、私はトンカツが食いたくなかったのだ、実は。別に時間がタイトだったからではなく、自分が知っているトンカツ屋には、たとえそれが、私が日本一だと公言する、蔵前・西川にさえ行く気がなかった。
どこか、見知らぬ店にいたいという気持ちが強かった。
そこで、突然、麹町に何とかという店があると兄が言っていたことを思い出した。
私は、小田急線の切符を無駄にして、営団地下鉄に代々木線に飛び乗り、表参道と永田町で乗り換え、麹町に向かった。
麹町の駅員は、精算のために私が差し出した切符を見て、かえりに、代々木上原の駅で払い戻しができますよと、親切に教えてくれた。私は、礼を言いながら、いや今日はもう戻らないのですと、言った。初老の男であった。

吉乃家は、東京弁で一言で言うと、ぞろっぺぇ店である。乱雑なのだ。大きな構えなのだが、ドアは、まるで民家のような行き違いだけのアルミサッシ。カウンターは着席不能。各種の物ものがそれを占領している。4人掛けの粗末なテーブルが6組ほど、なんの、原則もく散らばっており、座敷も空間だけという感じ。
私たち、敗戦日本の貧しさをぎりぎりで覚えている昭和キッズの、外食の原風景。名所旧跡地や、どこの駅前にも必ずあった、大衆食堂の匂いがそこにあった。
そして、吉乃家のトンカツには、あの時代のトンカツの味がした。
私たちが、ガキの頃、トンカツは典型的な家庭食であった。ウースターソースや中濃ソースとケチャップをまぜた自家製トンカツソース(トンカツソースはまだ市販されていなかった)をジャボジャボかけて、熱いところを、フハフハいってかっこむ勢いとエネルギー補給に特化した食い物だった。
トンカツがうまいと思ったのは、他の多くの食い物同様、自分の財布で物を食べるようになってからである。
大人になった、今の、私は、ただ、懐かしいだけで、何かを嗜好するというタイプの人間ではない。懐かしい物にも、よい物と、悪い物があると、私は思っている。
吉乃家のトンカツは、そんな私の嗜好からすると、けっして、よい物の部類にいれるべき物ではない。しかし、よい懐かしさを、思い起こさせてくれる物だった。
私は、瞳を閉じて、吉乃家のトンカツをよく噛んでいただいた。
母の作ってくれたトンカツに、フハフハいいながらかじりついている兄弟の半ズボンの姿。横町の煙草屋の上空に沈んでいく夕陽。味噌汁に浮かんでいる、細かく刻まれた、白いお豆腐とネギ。ボール一杯の塩だけがふられたキャベツの千切り。それを照らす裸電球。
そんな、懐かしいイメージを浮かべながら、私は、原始的なトンカツを食した。
ガキの頃の健康さを失った私の胃が、てめぇこんな乱暴な物を消化させようっていうのかと、抗議した。私は、私の胃に、どうして俺たちはこんなにひ弱になっちまったのか、一緒に考えてみないか? と言った。
胃が、ひ弱になったのは、俺ではなく、あんたの精神だといって。私に向かって、中指をたてて、ファックユー、と言った。



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19日(金曜日)

アホな子供とキタネェ奴等

え〜っ、毎度ばかばかしいお噺を一席。
あっしは、ジジイなもんで、実は、これっぽっちも、よくわからないんですが、ここんとこどうも、世間のガキどもの間でポケットモンキー、じゃない、ポケットモンスターとかいうゲームだか、おもちゃだかがはやってて、そのモンちゃんが、テレビでアニメにまでなってるそうでげす。
そして、そのアニメで、テレビ局の皆さんが、これまたよくわからねぇ、いいとこ見せようとしたのか、受けを狙ったのか、ちょっと大げさなぁ見せ方をやったら、ずいぶん多くのガキんちょが失神したり、具合が悪くなった。中には四十をこえた男が気を失ったっていうんだから凄い。あっしなんかぁ、四十をこえた男が、そんなもんにうつつを抜かしている事実に気を失いそうになりますが。
それで、お役人さんたちが、テレビ局の親方たちを呼んで、こらぁどうしたこったいと、説教したりしている。愛知県なんちゅう、ど田舎じゃ、名古屋の街の市立の小中学校で、おめぇはどうだったなんてぇ、ガキども向けの、アンケートをとったそうです。
このアンケートの手回しのよさったらないね。
きっと、偉い人から、おいって言われた、下っ端の役人が徹夜でワープロ打ったりしたんでしょう。
だいたい、ガキなんてもんは、なぁんにも考えてねぇし、なんかふだんと違うだけで舞い上がっちゃうんですから、そんなテレビやなんかじゃぁ、びくともしなかったガキでも、オイラも具合悪くなっちゃった、てな具合に、よけいなこと言うに決まってまさぁ、そして、ここがお役人さんたちの狙いだ。
それで、ますます、これが下々の意見だゾよと、ふんぞりかぇって、テレビをいじめる、わけでさぁ。
だいたい、この不景気の世の中で、エバンゲリオンやもののけ姫なんてぇのが、当たるがごとく、アニメやゲームやおもちゃなんてえ商売は景気がいいんです。
おやじやおふくろが、ローンやリストラだって、いくらぴぃぴぃ言っていても、目の中にいれても痛くないガキに、パパママこれ買って、てぇ、猫なで声を出されたら、まず、それと戦える親ってもんはありません。ジジババという強い援軍もいます。
だから、ガキ向け商売には、不況もへったくれもありません。
しかし、ぽっと出の商売だから、お役人さんたちゃぁ、天下りだの、業界調整なんてぇ、得意技のルートがついていない。それで、まず、テレビをいじめる。そんでもって、テレビが最重要の宣伝媒体である、ガキ向けでおまんま食っている業界の奴等にも、遠回しに、にらみを利かす。しかし、実は、懐にそっと金子が差し出されるのを待っているに決まってまさぁ。
あっしやぁ、文部省なんて、こ汚ねぇ奴等はそんなことまで、視野に入れて動いているに違いねぇと踏んでいるんだ。
イヒヒヒヒヒ。


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23日(火曜日)

淋ね(rinne)

21日の日曜日、ここで触れた、先の職場の大先輩に線香をあげるために、千葉市まで出向いた。
先輩が亡くなったのは、5月、バイトと酒の合間をかいくぐってどうやら年内には間にあったという、薄情な後輩をどうぞお許しください。
先輩のところは、ちょうど10年前、俺がエジプトに留学していた頃に奥さんも亡くなっており、先輩の城である立派なマイホームには、ご長男がひとりで住まわれていた。本棚に並んでいる各種事務系コンピュータソフトのパッケージが、先輩の生真面目な仕事ぶりを偲ばせて痛いが、とてつもなく美しい奥様の写真と並んでいる写真の中の先輩は笑っていた。
長男曰く、ここ半年で、会社関係でご焼香にうかがったのは俺が初めてという。
実は、俺は、先輩とは机を並べていたという関係以上ではないので、俺が見ていたところ、おそらく社内で一番先輩と親しかったと思われる、某先輩(存命だとは思う)の名前を紹介し、もし興味があれば、その某先輩から父君の人柄についてなど、うかがえばよろしいのではとだけ述べて、先輩のお城から辞去した。
22時30分。北風の舞う、新検見川のホームで、中野行きの総武線の黄色い電車に乗った。腹が減っていた。中野の知人がやっている寿司屋で寿司を食うことにした。
背中を丸めて、ブロードウエーを歩いていると、向こうから、店の客である、若者が歩いてきた。騒々しいところがある奴なので、会釈だけして通り過ぎたら、しばらくして、かけて戻ってきて、横町の先を指差し、「あそこの店で飲んでいたんです。音楽もかけるし、いい店です」と叫んで、また、戻っていった。
知人の寿司屋のおやじも、若くして、奥様を亡くして、男手一つで娘さんを育てた人である。「今日はどこへいっていたんだ」というので、あれこれ説明したら、黙り込んでしまった。
いつもの、NVに行く前に、奴が行っていた店に寄ってみた、職業上の研究である。たいへん美しい母子がカウンターの中におり、はやるはずだと合点した。終電で帰る前に、今日はこれを持って帰ろうと、ストーンズの新作をハンドバックに忍ばせた、娘の美しさは、ちょっとした見物である。
そこでは、どうして、今ここにいることに至ったかという話をした。騒々しい奴のボトルはシーバースであった。別に手を付けたわけではないが、特徴のなる名前なので、すぐわかる。今日入れたばかりだというのに、ほとんど空であった。
寿司屋のおやじの話をしたら、ランチによくあの寿司屋を利用していて、特に娘は、おやじさんのファンであるという。おやじに話してやれば、喜ぶと思った。
NVは混んでいたが、長く飲んでいれば、だんだん空く。俺は、いろいろ物を考えている若い衆ふたりに囲まれて、最近自分では考えたこともないような熱い話に酔った。年とるということは、エネルギーが減少するということなのだろう。
ただし、ふたりとも、たいへんよい物の考えを有しているが、それをどう表現すしていくかについては、皆目見当もつかないそうである。とにかく、おもしろいことをやっていきたいという結論であった。
俺は、自分のやるべきことは知っている。年をとることも、案外悪くはない。
朝のワイドショーが始まってしまった。
当然、伊丹十三監督の、自死の話一色である。NVのテレビは音は消してあるので、どんな論調でそれが語られているのかはわからない。
俺は、伊丹十三監督の作品を、一度たりといいと思ったことがないが、『あげまん』(90年)で、一の宮あつ子さんを使ったことには、ほろっときた。一の宮あつ子さんは、戦前からの古い女優さん、十三氏の父、大監督万作氏の活躍した時代からの女優さんであり、それが、遺作となった。
他にもいろいろあろうけれども、十三氏の自死には、老人性鬱病の恐怖を感じるのみである。だれもが、孫にほおずりしていればそれでよろしいという、正しい老人になれるはずもないのに、自分の年齢には不釣り合いな、青年のような欲望を抱えた時に、おのれの醜さに驚愕して、男は鬱屈していくのだろう。
もともと、義を説く人だったから、そのような自己矛盾に耐えきれなかったのか。
やりたいことをやりたいだけやって、それのどこが悪いと開き直ればよかった。別に強姦魔だったわけでもなし、芸術の源泉のひとつがエロスであることは、絶対の真理である。
一言だけ言って置くけど、テレビのワイドショーはやはり汚い。
伊丹監督が自死を選ばなければ、女殺しのこの畜生と、彼を槍玉に挙げていたはずである。それが、平気な顔をして、写真週刊誌を、人殺しのこの野郎と血祭りに上げている。テレビにとっては、センセーショナルであれば、どちらでもいいのだろうけれど、人間というのは、そういうものではなく、究極の選択においては、あえてどちらかひとつを選んで生きているものなのだ。
伊丹監督の自死が、そのことを明確に示している。
テレビと人間の距離を、これだけ見せつけられれば、とてもじゃないけど、彼らがいつも偉そうに言うように、テレビが人間を正確に反映しているものとは思えない。テレビは人間よりくだらないよ。しかし、テレビをやっているのも人間なのに、どうしてこうなるのかしら。すなわち、くだらない人間がやっているから、くだらないテレビになるのだ。

朝の8時過ぎに、仕事を終えた、寿司屋のおやじがNVに入ってきたので、あそこのきれいな母と娘、あなたのファンだそうですよと伝えると、おやじは嬉しそうに笑った。
それで、俺は、なんとなく安心して、店を出た。

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29日(月曜日)

THANK YOU AND GOOD BYE

「それで、例の牡蛎フライの美味しい店はどこにあるのだっけ?」
酩酊料理人の言葉が、あまりに突然で、僕は対応を失った。
土曜日。目覚ましをかけ忘れた僕が、酩酊料理人の電話で起こされた時、時刻は20時30分だった。
コモンストックの開店時間は19時である。
何人かの、お客が、開かないドアを殴りつけて帰ったことであろう。
白状すると、14時まで飲んでいた。いろいろあって最低の気分の酒だった。
それで、あ〜ぁ、これじゃ3〜4時間しか寝れねぇな、と思って寝たのに、しっかり、6時間半も寝たというわけだ。二日酔いのかけらもなし。酒は完全に抜けていた。
実に健康的なアル中志願者である。
それでタクシーを飛ばして、店に行くと、酩酊料理人と客がふたり。レコードを回す男を待っていたというわけ。
叱られてもしようがないと思って神妙にしていたら、酩酊料理人の第一声が冒頭の言葉だったのである。

その店は、浅草観音裏にある「味のよろず屋順一」である。
石川順一氏は、僕の兄貴分で、コモンストックを出す前に、フロア係りなどで僕らを使って、客商売のイロハを教えてくれた、僕と音楽中毒の恩人である。
よく、下記は9月(SEPTEMBER)〜12月(DECEMBERE)のBERで語尾の終わる月が美味しいといわれるが、よろず屋では、その期間に限定して、牡蛎フライをメニューに入れている。

日曜日。恒例の母親の不動参りに付き合って薬研堀に出向いた。
12月28日は、納めの不動、お不動様は酉年生まれの守り本尊である。
毎年の12月の、納めの不動は薬研堀、1月の初不動は深川。これが母の生きていく掟で、僕と父は毎年それにお付き合いしている。
ちなみに、辰年の父の守り神は勢至菩薩、戌年の僕のは阿弥陀様だが、お互い、信心深いほうではないので、そのために、どこかに出向いたりしたことはない。
母がよければそれでよいというのが、父と僕のスタイルである。
来年四十になるというのに、ど貧民の僕は、いつもお参りの後で両親をうまい食い物を出す店に連れていって、おごって貰う。
人生とはよくしたもので、金のある両親はどこに行けばうまいものを食えるのかを知らず。貧しき僕は、この街のそれを熟知している。

きのうの酩酊料理人の言葉にインスパイアされた僕は、よろず屋で牡蛎フライのつもりだったのだ。

父の様子がおかしかった。最近身内にごたごたが続き、母がその件で家を留守がちにしていた間、根が働き者の父は家事一切を受け持った上に、すべての大掃除までをも、こなしたという。
それで体が疲れていたのに、僕が店に遅刻をしていた夜に、東北の親族から送られてきた牡蛎をフライにして10個喰って、すっかり食あたりをしてしまったという。
僕はかなりの大食いだが、とても、父にはかなわない。そんな父が、食欲がないというのだから、これはもはや天変地異である。
久しぶりに、自分の胃袋の輪郭を知覚したと、父は言っていた。

とても牡蛎フライとは言い出せる雰囲気ではなく、父はスープくらいしか喉を通らないというので、僕は、両親をなじみのイタリア料理屋に連れて行き、今年初めてとなる、サーロインステーキと、父親の残したトマトのスパゲッティを平らげた。
これは生涯初といえる、父の残した食事には、なんともいえない、複雑な味わいがあった。
父は、自分が喰ったわけでもないのに、よぉしよく喰ったと言って、財布を開いた。

さて、僕のTHANK YOU REPORTは今回で終了します。
THANK YOU VERY MUCH ALL AND GOOD BYE 。

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