伊都内親王 いつのひめみこ(いと-) 延暦二十頃〜貞観三(801頃-861)

桓武天皇の皇女。伊豆内親王とも。母は藤原平子。天長年間(824-834)初め頃、阿保親王に嫁ぎ、行平業平を生む(行平は異腹との説もある)。業平にあてた歌が古今集に一首載り、詞書によれば山城国長岡に住んでいたことになる。貞観三年(861)九月十九日、薨ず。無品であった。系図
皇室御物に天長十年(833)九月二十一日の日付をもつ「伊都内親王願文」があり、内親王自筆署名がある。勅撰集入集は古今集の一首のみ。

業平の朝臣の母の親王(みこ)、長岡にすみ侍りける時に、業平宮仕へすとて、時々も得まかりとぶらはず侍りければ、しはすばかりに、母の親王のもとより、とみの事とて、文をもてまうできたり、あけてみれば、詞はなくて、ありける歌

老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな(古今900)

【通釈】年老いてしまったので、やがて避けられない別れもあるというわけだから、いよいよ貴方に逢いたく思うのですねえ。

【語釈】◇長岡 今の京都府長岡市。延暦三年(784)平城京より遷都。同十三年に平安京に移るまで日本の都であった。◇しはす 陰暦十二月。「師走」は宛字。◇とみの事 急ぎの用事。◇さらぬ別れ 逃げられない別れ。死別のことを言う。

【補記】作者が長岡旧京に住んでいた時、子の業平が宮仕えすることになり、疎遠になってしまった。その頃、師走になって業平に贈ったという歌。業平の返しは「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため」。

【他出】業平集、奥義抄、伊勢物語、和歌色葉、定家八代抄

【主な派生歌】
逢ひみてもさらぬ別れのある物をつれなしとても何歎くらん(殷富門院大輔[新勅撰])
老いぬればさらぬ別れも身にそひぬいつまでか見む秋の夜の月(藤原家隆[続後撰])
山桜いよいよみまくほしきかな霞へだつる老のながめに(藤原家隆)
たらちねのさらぬ別れの涙よりみしよ忘れずぬるる袖かな(慶融[新後撰])
忘らるるひまなき物は面影もさらぬ別れの名残なりけり(実甚[新後拾遺])
限りなくみまくほしかる我がためやさらぬ別れの花の山風(正徹)


最終更新日:平成16年06月09日