他阿 たあ 嘉禎三〜文保三(1237-1319) 法諱:真教

俗姓源氏。他阿弥陀仏と号し、他阿はその略称である。初め浄土宗の僧であったが、建治三年(1277)九州遊行中の一遍上人に入門。その後一遍に従って全国各地を修行して歩いた。一遍没後はその後継者となり、時宗第二祖と仰がれる。北陸・関東を中心に活動し、嘉元元年(1303)、相模国当麻山無量光寺に道場を開く。文保三年正月、同寺にて寂。八十三歳。
和歌にはきわめて熱心で、京極為兼冷泉為相冷泉為守ら御子左家歌人と交流があり、家集には彼らに点を請うた歌が多く見られる。勅撰集には玉葉集に読人しらずとして一首のみ入集。家集『他阿上人集』がある(『大鏡集』『二祖上人詠歌』など呼称は様々。私家集大成五・新編国歌大観七などに収録)。法語は『他阿上人法語』にまとめられている。
以下には『他阿上人集』より三首を抄出した。

 

雲も行き風もとまらぬ大空にきはなき色はかすみなりけり

【通釈】雲は行き交い、風も遮られることなく吹き交う大空に、際限なく広がる色は霞の色であったよ。

【補記】『他阿上人集』によれば延慶三年(1310)の作。同集では無題であるが、『夫木和歌抄』には「霞の心を」として載る。

 

吹けば空に雲をはなるる影見えて風よりのちぞ月はさやけき

【通釈】空高く一陣の風が吹けば、雲を離れたその姿が見えて、風の後は月の光が一際さやかであることよ。

【補記】前歌と同じく延慶三年(1310)の作。秋歌。

 

あはれげに遁れても世は憂かりけり命ながらぞ捨つべかりける

【通釈】のがれたところで、ああ、実に現世は厭わしいものだ。命も一緒に捨ててしまうべきだった。

【補記】詞書「又述懐の歌とて」とあるうちの一首。玉葉集に読人しらずとして入集。


最終更新日:平成15年04月07日