仏国 ぶつこく 仁治二〜正和五(1241-1316) 高峰顕日(こうほうけんにち)

後嵯峨院の皇子という。母は不詳。字は高峰、諱は顕日。
康元元年(1256)、出家。東福寺の円爾弁円(聖一国師)と来朝僧兀庵普寧(ごったんふねい)に学んだ後、関東を行脚し、下野国那須に庵を結ぶ。弘安二年(1279)、上野国長楽寺で無学祖元に謁し、以後弟子となる。同四年、鎌倉建長寺において無学より伝法衣を授かる。弘安六年(1283)、北条時宗を大檀越とし、那須黒羽に雲巌寺を開山。同寺には仏国を慕って多くの僧が集まり、その中には夢窓疎石もいた。晩年は鎌倉浄妙寺・建長寺他の住持を務めるなどしたが、正和四年(1315)那須に帰り、翌年十月二十日、雲巌寺にて遷化。七十六歳。仏国国師と諡号され、のち応供広済国師と追諡された。墓は雲巌寺境内にある。
『仏国禅師集』(「仏国国師御詠」など、標題は様々)がある。風雅集に二首、新続古今集に一首。冷泉為相との交際が風雅集所載歌から知られる。

奈須の山中に庵むすびて、住み給ひけるころ

月はさし水鶏(くひな)はたたく(まき)の戸をあるじがほにてあくる山風(禅師集)

【通釈】月は隙間から射し込んで入れろと言い、水鶏は叩くように鳴いて入れろと言う。そんな我が庵の槙の戸を、まるで主人ぶった様子で開ける山風よ。

【語釈】◇水鶏 水辺に棲む小鳥。初夏の頃、戸をたたくような声で鳴く。◇槙の戸 杉や檜の板で作った粗末な戸。

【補記】若き日、放浪の末、奈須(那須)に庵を結び、住んでいた頃の歌。来訪者は月や鳥、戸の開け閉めは風任せという風流生活。仏国は後年、この地に雲巌寺を再興開山した。

那須の庵にて、月を見たまひて

しげりあふ峰の椎しば吹きわけて風の入れたる窓の月影(禅師集)

【通釈】峰に繁り合う椎の木を吹き分けて、風が我が庵の窓に月の光を入れてくれたよ。

題しらず

出づる峰入る山の端のとほければ露に宿かる武蔵野の月(禅師集)

【通釈】昇った峰から、沈む山の端まで、あまり遠いので、草葉の露に宿を借りるよ、武蔵野を行く月は。

題しらず

我だにもせばしと思ふ草の庵になかばさし入る峰の白雲(風雅1757)

【通釈】自分一人だけでも狭いと思う草庵に、真中の方まで入り込んで来るよ、峰の白雲は。

【補記】山の高所に庵をしている趣。雲を擬人化した「なかばさし入る」が飄々として面白い。

題しらず

夜もすがら心のゆくへたづぬれば昨日の空にとぶ鳥の跡(風雅2075)

【通釈】夜を徹して心の行方を探し求めていると、まるで昨日の空に鳥影の飛び去った跡を追うかのようで、虚しいことよ。

【参考歌】鑁也「露色随詠集」
うかれいづる心のゆくへたづぬれば浅茅が原の雪の白雲

御入滅ちかづきて、月をみ給ひて

月ならば惜しまれてまし山の端にかたぶきかかる老いのわが身を(禅師集)

【通釈】月であったら惜しい気持になろうが。ちょうど山の端に沈みかかるように、寿命の終わりかけた老いの我が身を。

【補記】「月ではないのだから、何も惜しむことなどありはしない」との達観。


公開日:平成14年11月30日
最終更新日:平成22年04月20日