藤原為家の子。母は阿仏尼。為氏・為教の異母弟。為相の同母弟。娘は「藤原為守女」の名で勅撰集に入集している。
侍従正五位下に至る。永仁三年(1295)以前、異母兄為顕と共に鎌倉に下向し、その後単身帰京。四十歳前後で出家し、法号暁月を名乗り、東国に住む。嘉暦三年(1328)十一月八日、没。六十四歳。
玉葉集初出。勅撰入集は七首。夢窓・他阿・北条貞時らと親交があった。連歌にもすぐれ、『菟玖波集』に作を収める。近世狂歌の祖とされるが、著名な『狂歌酒百首』は近世の偽作と思われる。
花歌とて
ことかたも又ゆかしさに山桜おなじひと木をしづかにもみず(玉葉192)
【通釈】別の所の花もやはり気になって、山桜は同じ一本の木ばかりを心静かに見ていられない。
世をのがれてのち、あづまにすみ侍りけるころよめる
すみわびて
【通釈】住みづらくなって逃れ出て来た方角だとは思うけれども、月を眺めると恋しくなる、故郷の秋よ。
【補記】出家後、東国に住んでいた頃の作。「故郷」は都を指す。
病かぎりに侍りける時、かきおきける
【通釈】六十四歳の冬の長い夜に、つらい現世の夢を見終えたことだなあ。
【補記】長い迷妄・煩悩の生を終えることを「長き夜にうき世の夢を見果てつる」と言った。為守辞世の歌。
最終更新日:平成14年10月17日