藤原惺窩 ふじわらのせいか 永禄四〜元和五(1561-1619) 号:北肉山人・柴立子

播磨国細川庄(現在の兵庫県三木市)の領主下冷泉為純の子。藤原定家の末裔。下冷泉政為の玄孫。名は粛、のち惺窩・柴立子(さいりゅうし)などと号した。子に為景がいる。
幼少にして出家する。天正六年(1578)、父と長兄為勝は別所長治の攻撃を受け播磨国で非業の死を遂げる。当時宗蕣と名のっていた惺窩は陣中の羽柴秀吉に対面し肉親の仇討ちを訴えたが果たせず、弟に家督を継がせて京都に出ると相国寺で禅と儒学を学んだ。やがて朱子学に傾倒し、慶長元年(1596)、明への渡航を企てるが鬼界が島に漂着、計画は失敗に終わった。のち僧籍を離れて儒学に専念。学名上がり、徳川家康から再三の招きを受け、家康や家臣に進講した。門人には林羅山・松永尺五らがいる。近世朱子学の祖とされ、江戸儒学の基礎を据えたと評価される。元和五年(1619)、五十九歳で死去。定家ゆかりの時雨亭跡に葬られたという。現在墓は相国寺にある。
漢詩・和歌に親しみ、木下長嘯子・松永貞徳・中院通勝らと交際した。家集は『惺窩文集』『惺窩先生文集』それぞれに収録された二種がある(以下、それぞれ「惺窩集」「惺窩先生倭謌集」と呼ぶ)。著書は他に『寸鉄録』など。

「惺窩先生倭謌集」 続々群書類従14
「惺窩集」 新編国歌大観8

  1首  1首  1首 別離 2首 哀傷 4首  1首 計10首

海棠

あかぬ夜の春のともし火きゆる雨にねぶれる花よねぶらずを見む(惺窩先生倭謌集)

【通釈】いつまでも飽きることのない春の夜、燈火が雨に湿って消える――その雨に濡れて眠っている花よ、私は眠らずに見ていよう。

海棠 鎌倉妙本寺
海棠の花 鎌倉市二階堂にて

【語釈】◇海棠(かいどう) バラ科の落葉小高木。春の盛りに薄紅の花をつける。楊貴妃の酔って睡たげな姿に喩えられた(『楊太真外伝』)ので「ねぶれる花」と言う。

【補記】当時の専門歌人におさおさ劣らない技巧家ぶりを見せている。作者にとって和歌はあくまでも余技であったろうが、このような歌を見ると、さすがに歌道家冷泉家の血を感じずにはいない。惺窩は俊成定家を重んじ、冷泉家の歌風に連なる正徹なども慕っていた。

【校異】『惺窩集』には下句「ねぶれる花よねられずをみむ」とある。

【参考】楽史『楊太真外伝』
上皇笑曰 豈是妃子酔 直是海棠睡未足耳(上皇笑ひて曰く、豈(あに)これ妃子が酔ひ、直に海棠の睡り未だ足らざるのみ)

納涼

涼しさはなほむすぶ手の水よりもすむや心のしづかなる暮(惺窩先生倭謌集)

【通釈】涼しさを感じるのは、手のひらに掬う水よりも更に澄む、我が心の静かな夕暮時である。

【補記】下記参考歌のように、清冽な水に涼感を求めるのが「納涼」題の常套。掲出歌はそれを己の心の内部の平静に求めている。

【参考歌】後二条院「続千載集」
すずしさは夕暮かけてむすぶ手の袖にせかるる山の下水

独見月

いひかはすものならなくに月にとふ古へのこと古への人(惺窩先生倭謌集)

【通釈】言葉を交わすものではないのに、月に問いかけるのだ、昔のこと、昔の人について。

【補記】第四句は続々群書類従・新編国歌大観ともに「いにしへのひと」とする(すなわち第五句と同じくなる)が、ここでは佐佐木信綱『近世和歌史』に拠った。

別離

唐土へ渡り侍らんとて下りし時、船を鬼界が島につなぎて

見よいかに雲路の鳥はとび消えて帰る夕べの山もありけり(惺窩先生倭謌集)

【通釈】見よ。なんと、雲路を飛んで行く鳥は消え果てて――彼らには夕方帰る山のねぐらもあるのだった。

【補記】慶長元年(1596)、三十六歳だった惺窩は、おそらく朱子学に対する向学心に燃える余り、明への渡航を企てたが、鬼界が島に漂着し、計画は失敗に終った。この歌はその時鬼界が島で詠んだ三首のうち最後の一首。前二首は「薩摩潟八重の潮風つげやらんあはれ憂き身は親だにもなし」「けぶりたつ沖の小島やいにしへの思ひの色をなほ残しつつ」。

東に下り侍る時

たが(こころ)かくやは我をおくりゆかむ都の月のあづま路の空(惺窩先生倭謌集)

【通釈】いったい誰の心がこのように私を送ってゆくだろうか。都の月が東路の空にも架かっている。

【補記】文禄二年(1593)、徳川家康の招きで江戸に下向した時の作か。

【参考歌】藤原公任「拾遺集」
あづまぢの木の下暗くなりゆかば都の月を恋ひざらめやは

哀傷

哀傷、題しらず

四十(よそぢ)あまり九年(ここのとせ)とて稲妻のひかりのうちをなに数へけむ(惺窩集)

【通釈】四十と九年の命とて、その最期の時、稲妻の光る一瞬に、どんな思い出を数え上げたのだろうか。

【補記】惺窩の父為純は天正六年(1578)、秀吉の中国遠征に協力して播磨嬉野城に立て籠り、援軍を得ぬまま別所長治の軍に滅ぼされた。享年四十九。時に十八歳、既に出家していた惺窩は姫路書写山に陣を張っていた羽柴秀吉に対面を請い、仇討と家名再興を願い出たが、秀吉から時運を待つよう諭されたという。この歌、『惺窩先生倭謌集』では浅野幸長を悼んだ哀傷歌の一として載るが、幸長は享年三十八なので合わず、父を悼んだ歌に違いない。

浅野紀伊守幸長身まかりける時

たが為のよはひをのべて秋風や吹上の菊の色もうらめし(惺窩先生倭謌集)

【通釈】いったい誰のために命を永らえてゆけばよいのか――秋風の吹く吹上の菊の色も恨めしい。

【語釈】◇浅野紀伊守幸長(よしなが) 長政の子。惺窩の門弟にして親友。惺窩は慶長十一年(1606)以後毎年和歌山に招かれて儒学を講じていたが、幸長は同十八年八月二十五日、和歌山で死去した。◇吹上 紀ノ川河口付近の浜。紀州守であった幸長に因んだ歌枕である。「吹き上げ」の意を掛ける。但し下記本歌は、吹上の浜をかたどった州浜に植えられた白菊を詠んだ歌。◇菊の色もうらめし 菊は長寿の霊験ある花とされたので「うらめし」と言う。

【補記】幸長死去の際の哀傷歌群の冒頭一首。以下「時しもあれ散るやあな憂の花のいろは身にしむ秋の月に残りて」など悲痛な歌が続く。

【本歌】菅原道真「古今集」
秋風の吹きあげにたてる白菊は花かあらぬか浪のよするか

いはざりし今ひとことの悔しさよ永きわかれのそれも形見を(惺窩先生倭謌集)

【通釈】言わなかった、もう一言の悔しさよ。二度と会えない別れの、その悔恨もまた形見ではあるが。

【補記】「形見」は亡き人を思い出すよすがとなるもの。もうひとこと、言いたかった言葉があったのに、それを言いそびれてしまった。その悔しさも今や形見だというのである。

【参考歌】藤原基政「続後撰集」
あらざらむのち偲べともいはざりし言の葉のみぞかたみなりける

数たらでなく音はおなじかりのよを我も南の海よなみだよ(惺窩先生倭謌集)

【通釈】仲間の数が足りずに哭く雁の声――同じ仮の世を共に生きて来たのに、彼は南の海に果てた。私も声あげて哭き、涙の海に溺れる。

【補記】「南の海」は死者が南国紀伊の大名であった縁から言うのだろう。下句は惑乱する心をそのまま投げ出したような表現で、整った解釈などを拒んでいる。若山牧水を思わせる哀叫調とでも言うべきか。

題しらず

いづくより何の為とか野を遠み尾花にまじり人ひとりゆく(惺窩先生倭謌集)

【通釈】どこから、何のために、野の遠くを、芒の中に分け入って人が独りゆくのだろうか。

【補記】『惺窩先生倭謌集』にのみ見える歌。一見秋の叙景歌であるが、雑部に収められている。


公開日:平成19年01月19日
最終更新日:平成19年01月19日