徳川家康 とくがわいえやす 天文十一〜元和二(1542-1616) 院号:安国院 諡号:東照大権現

江戸幕府初代将軍。三河岡崎城主松平広忠の長子。母は刈谷城主水野右衛門太夫忠政の娘、於大。
少年期を人質の身として駿府今川義元の元に監護されて過ごす。永禄三年(1560)、桶狭間の戦で義元が敗死した結果、岡崎城に戻り、織田信長と同盟を結ぶ。同六年、元信より家康に改名。同年から翌年にかけ、一向一揆を鎮圧して三河全域を支配下に入れる。永禄九年(1566)徳川に改姓。同十一年(1568)武田信玄と結び、翌年今川氏康を滅ぼす。元亀元年(1570)、浜松に移り、信長に援軍を送って越前の朝倉義景、近江の浅井長政を姉川で破る。同三年、信長とともに三方ヶ原で信玄と戦い大敗するが、信玄没後の天正三年(1575)、武田勝頼を三河長篠の戦で破った。
本能寺の変後、豊臣秀吉に臣従する。駿府に移ったのち、天正十八年(1590)、小田原の陣で後北条氏を滅ぼし、その功により関東八州を与えられ、以後江戸を本拠とする。文禄三年(1594)二月、秀吉の吉野花見に歌を詠む。慶長三年(1598)、大老となる。
秀吉没後、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で勝利し、同八年(1603)八月、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。同十年、将軍職を秀忠に譲り、のち駿府に引退するが、大御所として実権は掌握した。太政大臣に任ぜられた元和二年(1616)、駿府で病没。七十五歳。江戸の増上寺で葬儀がなされ、翌年日光東照宮に改葬された。
特に和歌を好んだ形跡はないが、『徳川実記』や『富士之煙』(徳川将軍家の歌を集めた書。近藤重蔵編)等に少数の和歌を伝えている。

 

怠らず行かば千里(ちさと)の果ても見む牛の歩みのよし遅くとも(武家百人一首)

【通釈】怠らずに行けば、千里の道の果ても見るだろう。牛のような歩みが、たとえ遅くとも。

【補記】制作年・製作事情など不明。『武家百人一首』は姫路藩主榊原忠次の撰と伝わる。伝家康作の和歌としては『富士之煙』に天正三年(1575)長篠御陣の頃の作と伝える「ころは秋ころは夕ぐれ身はひとつ何に落葉のとまるべきかは」、また『徳川実記』所載の「人多し人の中にも人ぞなき人となせ人人となれ人」なども名高い。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年01月07日