橘守部 たちばなのもりべ 天明元〜嘉永二(1781-1849) 号:蓬壺(ほうこ)・池庵など

伊勢国朝明郡小向(おぶけ)村の庄屋、飯田家に生まれる。父は谷川士清(ことすが)に師事し、学問に志のあった郷士、新十郎元親。
十六歳の時父を亡くし、翌年、江戸に出る。県門の村田春海清水浜臣などに親しむ一方、谷川士清に私淑しつつ、ほぼ独学で国学を学んだ。武蔵国の幸手(さって)に長く住み、四十八歳になる文政十一年(1828)、再び江戸に出て門戸を張る。創見に富む著述を次々に刊行して名声あらわれ、香川景樹・平田篤胤・伴信友とともに天保の国学四大家の一人に数えられるまでになる。門弟には弁玉がいる。著書に本居宣長の古道観を批判した『難古事記伝』、日本書紀の研究書『稜威道別(いつのちわき)』、古代歌謡の注釈書『稜威言別(いつのことわき)』、万葉集の注釈書『万葉集墨縄』『万葉集檜嬬手(ひのつまで)』、和歌の修辞・歌格研究書『長歌撰格』『短歌撰格』などがある。嘉永二年(1849)五月二十四日、没。六十九歳。江戸向島の長命寺に葬られた。号は上記のほか波瀲舎(なぎさのや)・生薬園(いくくすりぞの)・椎本(しいがもと)などと称した。
家集は子の冬照の編になる『橘守部家集』がある(国書刊行会版橘守部全集首巻・校註国歌大系十八所収)。また厖大な自筆歌稿『穿履集(せんりしゅう)』を残す(汲古書院版橘守部著作集八・九に影印版所収)。短歌より長歌を重視して多作した点、当時の歌人では異色の存在である。
 
以下には『橘守部家集』より五首を抜萃した。

海上霞

わたの原ゆたにかすめる眉かきに神のみおもも今朝ぞ()りゆく

【通釈】海原にゆったりと霞んでいる眉のような山並――その美しい姿に、神のお顔も今朝満ち足りてゆくのだ。

【語釈】◇眉(まゆ)かき 墨で書いた眉のことであるが、ここでは遠くに見える島の山並を眉の形に譬えて言ったもの。あるいは阿波の眉山(びざん)を匂わせているか。万葉集巻六に「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ舟泊り知らずも」がある。◇みおも 御面。お顔つき。ご表情。万葉集の人麻呂詠(下記参考歌)に由る。

【補記】初春詠に神代を想起するのは和歌の常套的な趣向であるが、のどかな春の海の景色から、わたつみの神(あるいは国土生成の神を想っても良い)の満ち足りた表情に想像を広げ、この作者らしい闊達な詠みぶりである。「連峯霞」の題では「足柄も碓氷の嶽も遠ぞきて吾嬬を広うなす霞かな」と東国の春景を雄大に歌い上げている。

【参考歌】柿本人麻呂「万葉集」巻二
天地 日月とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる…
  曾禰好忠「好忠集」
ましろなる沖のまゆかき見るときぞ妹が手風はいとど恋しき

海上夕立

わたの原 ふりさけみれば しら雲の むかぶすきはみ しほなわの とどまるかぎり 庭もよく はれたる海の 時のまに 空かきくれて 上げ汐を おろしもあへず ほす網を たぐりもあへず 沖見れば くぢらの潮か 辺を見れば わにの息吹か み空には 竜かもい巻く 鳴神か くづれ落ちぬと その音の 聞きのかしこく その雨の 見のおそろしき 青海原 風のなごりの 白波を 沖にのこして 見し雲は いづちいにけむ 夕立の 空さりげなく 夕日影 たださしわたる 海のおもてを

【通釈】海原を仰ぎ見ると、白雲が垂れ伏す天の果てまで、海の泡が行き止まる限りまで、波も平らかに晴れ渡った海が、一瞬のうちに空かき曇り、満ちて来た海水を下ろす暇もなく、干していた網を手繰り寄せる暇もなく、沖を見れば、鯨の吐く潮か、海辺を見れば、鮫の吐く息か。空では竜巻が起きているのか、雷神が崩れ落ちて来たのかと、その音を聞くことの恐ろしく、その雨を見ることの恐ろしいこと。やがて青海原は、風のなごりが、白波を沖に残しているばかりで、さっき見た雲はどこへ去ったのだろう。夕立の降った空は最早そんな気配もなく、夕日の光がただ一面に射している、海面の上を。

【語釈】◇しほなわ 潮泡。海水の泡。◇庭もよく 漁をするのに良く波おだやかなさま。「庭」は漁場。◇わに サメ類の古名。◇竜(たつ)かもい巻く 竜がとぐろを巻いているのか。竜巻のことを言う。「い」は接頭辞。万葉集巻二に「つむじかもい巻き渡ると思ふまで」の用例がある。◇空さりげなく 空は夕立が降った気配もなく。先蹤として源頼政の新古今詠「庭の面はまだかわかぬに夕立の空さりげなくすめる月かな」がある。

【補記】漁師の立場で海に降る夕立を詠み、臨場感を出すことに成功している。守部は短歌よりも長歌を重視し、上代歌謡の古格を理想として創作に励んだ。文学史上の評価は決して高くはないが、あらゆる趣向の長歌に挑み、恋を主題とした歌などにも力作が少なくない。

橘の小門(をど)のあはきが波間より()れし神代の月の影かも

【通釈】伊邪那岐(いざなぎ)の神が禊(みそぎ)をされた、橘の小門の阿波岐――その川の波間から生まれた、神代そのままの月の光であるよ。

【語釈】◇橘の小門のあはき 記紀神話によれば、黄泉の国から戻った伊邪那岐は「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊(みそぎ)をして多くの神を産んだが、右目を洗った時に生まれたのが月読命(つくよみのみこと)であったという。「あはき」は元来樹の名で、和名抄には「梓之属」とあり、今のモチノキにあたるとの説がある。

【補記】秋歌。折口信夫は守部の歌につき、上代歌謡や万葉集の影響が「単に、知識或は形式上の遊戯として表れてゐても、内的に具体化せられてゐない」と批判し、彼の残した少なからぬ長短歌を「彼の一生の事業の中で、恐らく一番価値の少いのは、此方面の創作であつたのであらう」とまで冷評している。掲出歌も知識から作った歌で、その知識が「内的に具体化せられて」いるかどうかはともかく、神代への憧憬がそれにふさわしい格調を以て歌われているとは言えるであろう。

原上月

下毛(しもつけ)二荒嶺(ふたらね)おろし小夜更けて月影すごき那須の篠原

【通釈】下野の二荒山の高嶺から吹き下ろす嵐は、夜が更けていっそう強くなり、月が凄涼と照っている那須の篠原よ。

【語釈】◇二荒嶺 日光の男体山の別称。◇那須の篠原 下野国北東部の広大な原野。男体山の東に当たる。

【補記】東国の地名がよく生きて、原野の上に照る月の荒涼たる風情が出た。

【参考歌】源実朝「金槐集」
もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

行路雪

行くままにところかはれば珍しみ雪ふみ分けて雪を見るかな

【通釈】歩いて行くままに場所が変わるので、その度に珍しがり、雪を踏み分けながら雪を飽きずに眺めるのだ。

【補記】道すがら眺める雪を主題に詠んだ歌。同じ雪景色でも、場所柄によって変化があるので、どこまで行っても興味が尽きないと言うのである。題詠歌であるが、雪を眺める心躍りが生き生きとした調べで歌われている。守部の歌人としての本領は、上古ぶりよりもむしろこうした歌にあったかも知れない。最も近い歌風は、賀茂真淵でも村田春海でもなく、香川景樹の桂園調である。


公開日:平成20年01月14日
最終更新日:平成20年01月16日