享保十五年五月七日、伊勢松坂(今の三重県松阪市)の木綿問屋小津家(平氏の末裔と伝わる)の次男として生まれる。幼名は富之助、のち弥四郎。実名は栄貞(よしさだ)。二十六の年、宣長と改名。父は四右衛門定利、母は村田孫兵衛豊昭女、勝子。
幼くして父を亡くし、母に育てられる。兄定治が夭折したため家業を継いだが、商売に不向きなことを見抜いた母の勧めで、二十三歳になる宝暦二年(1752)、医学修業のため京都に遊学した。この間、堀景山に朱子学を学び、また契沖の著述に影響を受け、源氏物語を始めとする王朝文学の研究に志す。同七年、松坂に帰郷すると舜庵(春庵)を号して医を開業するかたわら、古典研究に心を潜めた。宝暦十三年(1763)五月二十五日、松坂を来訪した賀茂真淵を旅宿に訪ね、真淵の激励を得て古事記の研究を決意したという。その後、三十五年の歳月をかけて『古事記伝』を執筆し、死去の三年前、寛政十年(1798)に完成した。この間名声高まり、紀州藩主より扶持を得て折々和歌山に出講したり、上洛して公卿を含む都人士に古典を講じたりした。享和元年(1801)京都旅行から帰って間もなく病を得、九月二十九日、没した。七十二歳。遺言により松坂郊外山室山に葬られた(墓は松阪の樹敬寺にもある)。多数の門弟を抱えたが、主な人に石塚龍麿・夏目甕麿・横井千秋・本居春庭(実子)・本居大平(養子)がいる。
和歌は少年期に伊勢山田の法幢和尚に指導を受け、京都遊学中に森河章尹、のち有賀長川(有賀長伯の嗣子)に師事した。新古今集を庶幾し、優艶な作風の歌が多いが、上代調の歌も少なくない。技巧偏重、擬古的、生彩に乏しい等とされ、歌人としての評価は一般的に甚だ低い。しかし宣長の門流は鈴屋派あるいは伊勢派と呼ばれて近世和歌史における重要な一流派を形成し、のち加納諸平・石川依平・橘曙覧・伴林光平といったすぐれた歌人を生み出すことになる。
年代順に自身の歌を纏めた歌稿『石上稿(いそのかみこう)』に八千百余首、自撰の家集(一部は門人の編集)『鈴屋集(すずのやしゅう)』に二千二百余首を残す。他にも、『石上稿』より自ら佳作を抜粋した『自撰歌』、万葉仮名の歌によって古道を説いた『玉鉾百首』、和歌山旅行の際の紀行歌集『紀見のめぐみ』、最晩年の桜花詠集『枕の山』など幾つかの歌集がある。歌論書には『排芦小船(あしわけおぶね)』『石上私淑語(いそのかみのささめごと)』『国家八論斥非評』など、和歌注釈書に『万葉集玉の小琴』『古今集遠鏡』『新古今集美濃の家苞』『草庵集玉帚』など、他の著書に『紫文要領』『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『直毘霊(なおびのみたま)』などがある。
以下には『自撰歌』に選ばれた歌を主として、宣長の全作品より二十一首を抄出した。
「鈴屋集」本居宣長全集15(筑摩版)・新編国歌大観9
「石上稿」続歌学全書3・本居宣長全集15(筑摩版)
「自撰歌」続歌学全書3・校註国歌大系16・本居宣長全集18(筑摩版)
「枕の山」本居宣長全集18(筑摩版)
「玉鉾百首」本居宣長全集18(筑摩版)・岩波文庫「直毘霊・玉鉾百首」
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―『排芦小船』より―
「人情に通じ、物のこころをわきまへ、恕心を生じ、心ばせをやはらぐるに、歌よりよきはなし」。
「此の道は風雅を本とすることなれば、随分つねづね、心よりはじめすべてのふるまひ、温雅をむねとすべし。野鄙なること、麁相(そさう)なること、せはせはしきことなどは、きらひて、心(こころ)詞(ことば)行儀まで、いかにもおだやかに、和をむねとし、やすらかなるをよしとす。(中略)さればとてむりにつとめて向上ぶり、優形(やさがた)めかんとするは、なほなほうるさくにくきもの也。ただ何となくやすらかに、温和なるべし」。
「姦邪の心にてよまば、姦邪の歌をよむべし。好色の心にてよまば、好色の歌をよむべし。仁義の心にてよまば、仁義の歌をよむべし。ただただ歌は一偏にかたよれるものにてはなきなり。実情をあらはさんとおもはば、実情をよむべし。いつはりをいはむとおもはば、いつはりをよむべし。詞(ことば)をかざり面白くよまんとおもはば、面白くかざりよむべし。只意にまかすべし。これすなはち実情也。秘すべし秘すべし」。
「和歌は言辞の道也。心におもふことを、ほどよくいひつづくる道也。心におもふことを、ありのままにおもふとほりにいへば、歌をなさず。歌をなすといへども、とるにたらざるあしき歌也。さればずいぶん辞(ことば)をととのふべき也。ことばさへうるはしければ、意(こころ)はさのみふかからねども、自然とことばの美しさにしたがうて、意もふかくなる也。ふかき情もことばあしければ、反つて浅くきこゆる也」。
春曙
月影も見し春の夜の夢ばかり霞に残るあけぼのの空(鈴屋集)
【通釈】月の光もまた、先ほど見た春の夜の夢と同じ程かすかに、霞のうちに残っている、曙の空よ。
【補記】情趣・構成の両面からやや複雑な効果を狙った、新古今風の歌。作者はこのように技巧的な歌を生涯多産し続けたが、掲出歌は優婉な情趣において目立つ出来栄えで、宣長和歌を論じた文の多くに引用されている。『自撰歌』にも所載。
【参考歌】藤原定家「新古今集」
春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空
藤原良経「秋篠月清集」「続古今集」
ながめやる遠里小野はほのかにて霞に残る松の風かな
朝花
朝日かげまちとるかたの梢より外山のさくら色ぞ添ひゆく(鈴屋集)
【通釈】朝日の光を待ち受ける方の梢から、外山の桜は花の色が付け加わってゆく。
【補記】「まちとる」とは夜明けを待って朝日を受けるということで、一首は要するに東の方の梢から次第に花が咲き始めると言っているに過ぎない。心より詞を先とし、「ことばさへうるはしければ、意(こころ)はさのみふかからねども、自然とことばの美しきにしたがうて、意もふかくなる也」(『排芦小船』)という作者の歌観をよく体現した歌とは言えよう。『自撰歌』にも所載。
桜花三百首より
まちつけて初花見たるうれしさは物言はまほし物言はずとも(枕の山)
【通釈】待つことに慣れ切って、不意に初花を見た時の嬉しさは、言葉に出して言ってやりたいものだ。相手は物言わぬ花であっても。
【補記】『枕の山』は、宣長七十一歳の寛政十二年(1800)の秋から冬にかけて詠まれた桜の歌三百首を収める。枕頭に桜の山を想い浮かべての詠なので「枕の山」と名づけたもの。新古今風の技巧を捨て去り、心のままに桜への愛を謳いあげている。掲出歌は第二十三首。
咲きにほふ春のさくらの花見ては荒らぶる神もあらじとぞ思ふ(枕の山)
【通釈】咲き映える桜の花を眺めるにつけ、この国に暴悪の神などあるまいと思うのである。
【補記】「桜花三百首」の第百四十八首。第百十四首は「日ぐらしに見ても折りてもかざしてもあかぬ桜を猶いかにせむ」。
桜花ちる木のもとに立ちよりてさらばとだにも言ひて別れむ(枕の山)
【通釈】桜の花が散る木陰に寄って、さらばと一言だけでも言って別れよう。
【補記】「桜花三百首」の第二百四首。死去前年の作と思えば一層心に響く。同歌群には老境を詠んだ歌も少なくなく、例えば「老いのくせ人や笑はむ桜花あはれあはれと同じ言して」。
おのがかたを書きてかきつけたる歌
敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花(石上稿)
【通釈】日本人本来の心とは如何なるものかと人が問うならば、私はこう答えよう、「それは朝日に美しく映える山桜の花のように、うるわしいものである」と。
【語釈】◇敷島(しきしま)の 「やまと」の枕詞。◇やまと心 日本の風土と歴史に育まれた、日本人本来の心情。「から心」に対する語。◇朝日ににほふ 朝日に美しく映える。◇山ざくら花 山桜は山に自生する桜で、花の色は白が多く、和歌では純白の花として詠むのが普通。花とほぼ同時に出る若葉は赤みを帯びる。巨木に成長する樹が多く、同じ桜と言っても現在目に触れる機会が多いソメイヨシノとはかなり風情の異なる花である。吉野山の桜がこの山桜である。
【補記】寛政二年、六十一歳の肖像画に書き付けた自賛。自撰家集『鈴屋集』『自撰歌』には採られていない。宣長の代表的名歌として尊ばれる。
ふみよみ百首より
【通釈】水無月の日、風に当てようと取り出すと、そのまま読みたくなってしまう書物よ。
【語釈】◇六月 陰暦六月は梅雨明け後の盛夏の候。◇風にあつ 雨季の間に湿気た書物を、風にあてて乾そうというのである。
【補記】寛政十二年、死去前年の百首歌。読書家・愛書家としての思いを率直に詠んだ連作である。他に「菅の根の長き春日もみじかきぞ書よむ人のうれひなりける」「からふみも見ればをかしき節おほし物のことわりこちたけれども」「朝夕に物食ふほどもかたはらにひろげおきてぞ書はよむべき」など。
田月
おきわたす田の
【通釈】深夜、一面に深く露の降りた秋の田――その稲葉に膨らんで重くなってゆく月光よ。
【補記】「露も深き」「深き夜」のような言い掛けは新古今集の時代に殊に好まれたもので、宣長もきわめて愛用した技巧である。『自撰歌』にも収載。
【参考歌】藤原定家「六百番歌合」「拾遺愚草」
風あらきもとあらの小萩袖に見て更けゆく夜半におもる白露
老後見月
老いぞ憂きうかりける世の秋とても涙のひまはありし月夜を(鈴屋集)
【通釈】老いとは厭なものだ。思うに任せなかった昔の秋でも、涙がやむ隙はあった月夜であるのに。
【補記】巻二。『自撰歌』にも所載。
【参考歌】教範「新後撰集」
今宵とて涙のひまはなきものをいかなる人の月をみるらむ
月前紅葉
さし出づる影にちしほの色見えて夜の紅葉は月ぞ染めける(鈴屋集)
【通釈】射し始めた光の中、千入(ちしお)に染めたような色が見えて――夜の紅葉は月が染め上げたのだった。
【語釈】◇ちしほ 千入。幾度も染液に浸して染めること。
【補記】天明元年(1781)九月十七日、広沢池畔の遍昭寺(遍照寺)の歌会での作。『自撰歌』にも所載。
船中雪
島山はつもるも見えずかきくれて友船しろき雪の海原(鈴屋集)
【通釈】雪の降る海原では、遠くの島山に積もったはずの雪も見えないほど一面昏くなって、僚船ばかりが白く見えている。
【補記】船中にある人の立場で雪降る海を詠(なが)めた歌。宣長の秀歌として昔から評価が高い。明和四年(1767)、三十八歳の作。『鈴屋集』巻二。『自撰歌』にも所載。
近江の石部の駅にやどりて
朝たちて
【通釈】朝に宿を発って、比良山の頂に雪が積もっているのを見れば、道理で昨夜の寝床は冷え込んだはずだ。
【語釈】◇石部 琵琶湖の南。◇比良の高嶺 琵琶湖の西側に聳える山々。主峰は標高千二百メートルを越える武奈ヶ岳。
【補記】巻四。『自撰歌』にも収録。寛政二年(1790)十一月十五日の作。宣長の万葉調を代表する一首。
【主な派生歌】
朝戸出の庭もはだれに降りしきぬ昨夜(きそ)の夜床はうべさえにけり(鹿持雅澄)
埋火を題にて人々と歌よみける時に、今の世にこたちといふ物を詠めと或人の言ひければ
むし
【通釈】暖い掛け布団の柔らかな下の埋み火に足を差し伸べて寝ることの気持ち良さよ。
【語釈】◇こたち 炬燵。当時は熱源に炭を用いた。◇むし衾 「暖かなるよしの称(な)なり」(古事記伝)。
【補記】『鈴屋集』には見えない歌。万葉調。
【参考歌】須勢理比売「古事記」
(前略)蒸被 にこやが下に 栲被 さやぐが下に(後略)
藤原麻呂「万葉集」巻四
蒸衾なごやが下にふせれども妹とし寝ねば肌し寒しも
市歳暮
ちりぢりに夕ぐれかへる市人のわかれぞ今日は年の別れ
【通釈】別れの挨拶を交わし、散り散りに帰って行く市人たち――普段見慣れた光景だけれども、今日の別れは忙しなかった一年との別れでもある。
【補記】二首のうち。一首目は「たれもみな今日は暮れゆく年の数身にかひそへて帰る市人」。街の賑いも果てた頃、家路につく「市人」たちに、歳末のしみじみとした情趣を見る。『自撰歌』にも所載。
寛政十一年春、紀国に物しける、かへるさまに吉野にものして水分神社にまうでて、ちかきあたり見あるきけるほどによめりける歌ども
のぼる道のほとりに里人桜の若木を植う
里人い桜うゑつぐ吉野山神の
【通釈】里人が、桜が絶えぬようにと木を植え継いでいる。吉野山に、神のおん為と、桜を植え継いでいる。
【語釈】◇里人い この「い」は主格を示す格助詞(但し間投助詞とみる説もある)。◇水分(みくまり)神社 吉野山中にある神社。水神である天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を祭る。
【補記】死去の二年前の春、吉野を旅した時の「吉野百首」より。同じ詞書のもと十三首の冒頭。次の一首は「いや植ゑに植ゑよ桜を吉野山をのへも谷もあひだなきまで」。
此の峯より見渡す
みくまりの峰ゆ
【通釈】水分の峰から延びた尾根の上に家群が続いている吉野の里よ。
【補記】同じく「吉野百首」より。吉野山の尾根づたい、身を寄せ合うように連なる里人の家々。この歌にも、桜の山を守り続けてきた人々への思いはおのずから籠っている。しかし待望していた花は宣長の滞在中ついに咲かず、「吉野山咲かむ桜の花待たず我やかへらむ雁ならなくに」と伊勢への帰路についたのであった。
くさぐさの歌
仏らは玉のうてなにいつかえて神は雨もる
【通釈】仏らは立派な建物に崇め祀られて、日本の神は雨の漏る汚らしい小屋におられる。
【語釈】◇玉のうてな 玉台。美しい御殿。◇いつかえて 斎(いつ)かれて。「え」は上代の受身の助動詞「ゆ」の連用形。◇しき屋 万葉集巻十三の長歌に見える「四忌屋」に由るか。現在は「しこや」と訓み、「醜屋」すなわちむさ苦しい小屋の意とするのが通説。
【補記】作者は仏の教えを辛辣に非難するような歌も詠んでいるが、掲出歌は仏教に対する反感よりも、みじめな扱いを受ける日本の神に対する「あはれ」の情こそが強く滲み出ているように感じられる。『鈴屋集』巻四。『自撰歌』にも所載。
ふじの山かきたるに
この神よいかにふ神ぞ青雲のたなびく空に雪のつもれる(鈴屋集)
【通釈】この富士という神はいかなる神か。青みがかった雲が棚引く空に、雪が積もっている。
【語釈】◇いかにふ 如何に言ふ。どう言えばよいか知らない、との気持。
【補記】巻四。『自撰歌』にも所載。富士の画に添えた賛。
大御神宮にまうでける時、宮川にて
わたらひの大河水をむすびあげて心も清くおもほゆるかも(鈴屋集)
【通釈】禊ぎのために度会川の水を掬い上げて、身ばかりか心まで清まったように感じられることよ。
【語釈】◇宮川 伊勢神宮外宮の傍を流れる川。度会(わたらい)川とも。
【補記】巻四。『自撰歌』にも所載。寛政二年の作。
【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十二
度会の大川の辺の若久木わが久ならば妹恋ひむかも
上東門院「新古今集」
にごりなきかめ井の水をむすびあげて心のちりをすすぎつるかな
玉鉾百首より
【通釈】我が国は言挙げしない国ではあるけれども、よこしまな説を言挙げする輩がうんざりするほど多いので、私は言挙げするのである。
【語釈】◇言挙 言葉に出して言い立てること。◇こちたみ うるさいので。
【補記】原文は万葉仮名で書かれている。「
【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十三
蜻蛉島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国 しかれども 吾は言挙げす(後略)
おもほさぬ隠岐のいでまし聞くときはしづのを我も髪さかだつを
【通釈】ご意志によらぬ隠岐への行幸のことを聞く時には、賤しい身分の私も髪の毛が逆立つ思いがすることよ。
【語釈】◇隠岐(おき)のいでまし 承久の乱に敗れた後鳥羽院が隠岐に流されたことを言う。
【補記】余りの歌として『玉鉾百首』に付載された二十九首より。原文はやはり万葉仮名で「
公開日:平成19年11月26日
最終更新日:平成19年11月26日